今週の1枚(03.01.20)
ESSAY/ 「あそび」
ここのところマンリーやらバルモラルあたりのビーチをハシゴして泳いでいたので、えらく肌が焼けてしまって、ヒリヒリしています。いや、しかし、いいですね、海。
ときに、ノーベル賞を取った田中さんのキャラがきっかけになったのか、日本では、「地味だけど、誠実で、ほのぼのして、いい人」の株が上がっているやに聞いています。ちょっと前までそういった傾向のキャラは「ドン臭い」の一言で一蹴されていたような気がするだけに、これも時代なんかな、と思ったりもします。でも、いい傾向だと思いますけど。
前回、オーストラリアの性善説的なシステムをちょっと考えてみましたけど、性善説的なシステムが成り立つ条件としては、その社会の人々があんまりギスギスしていないこと、多少のガタピシは気にしないアバウトさと大らかさが必要だと思います。難しく言えば、社会全体や個々人にトレランス(許容性、tolerance)が高いこと、簡単にいえば「あそび」があることです。そしてそれは田中さん的なほのぼのと、どこか奥底でつながっているような気がします。そのあたりのことを、今回は書きます。
「あそび」があるというのは、ハンドルの「あそび」のような意味で、ちょっとユルユルになっていていることですね。多少ハンドルを切ってもいきなりキュッと転回はせずに、ある程度深くハンドルを切ってからおもむろに廻り始めることです。「あそび」のないハンドルは危険だとも言いますよね。ちょっとハンドルを動かしただけでいきなり進行方向が変わってしまったら、あぶなくて仕方ないですから。
「あそび」のある社会や生き方というのは、多少マズいことが発生しても、即座に反応しません。もちろん認識はするのだけど、「お〜、そーかー」くらいのボヨヨンとした反応で、いきなり「うわっちゃー、えらいこっちゃ!」と敏感に反応しないということです。前回の例でいえば、例えばキセルなんかでも、100人のうち2-3人不心得者がいてキセルをしたからといって、だからといって直ちに反応しない。ここで、社会に「あそび」がないと、いきなり過敏に反応して、「むむ、許せん。不正行為、撲滅!」と張り切ってしまうのでしょう。
そんなの反応して当然じゃないか?なにが問題なのか?「あそび」とかいっても要するにドン臭くて職務がノロいだけじゃないか?という意見もあるでしょう。それはそれで分かります。たとえ一件といえども不正は不正、他の善良な人々の善意を無にしないためにも断固たる処置は必要でしょう。だけど、断固たる処置を取った場合のデメリットも同時に考えておいた方がいいのではないか、というのが僕の意見です。
そのデメリットとは何か。
二つあると思います。ひとつは、@社会全体の大きな方針を誤る恐れ、それとAその社会や人々のプライドを低下させる恐れ、です。
まず、@ですが、仮に100人中3人の人がキセルをするとしましょう。この場合、比率でいえば3%です。97%の人、つまり圧倒的大多数の人はキセルはしていないです。もしシステムを設計するとしたら、最大多数の最大幸福ではないですが、最もありふれた、最も普通の状態を基礎にして設計すべきではないか。それを僅か3%という超少数派に目を奪われるがあまり、あたかもそちらを原則のように据えて物事に当たると、大きなところでズッコケてくるのではないか、ということです。
僕やアナタが鉄道会社を経営していたとします。経営者として何を考えるかというと、利用客の皆さんに適切なサービスを提供すると同時に、適正な利潤をあげることです。当たり前ですね。適正なサービスというのは、これは沢山ありまして、時間に正確な列車の運行であったり、安全対策であったり、駅の構内の環境であったり、券売機の設置やら、その他種々の不都合の改善であったりします。利潤をあげるためには、並行するJRに負けないための競争力ある価格設定であったり、お得な回数券やら定期券、周遊券などの購買意欲をそそるような商品企画であったりします。関連不動産会社をつくって、急行停車駅周辺を開発分譲したり、駅前商店街のデベロッパーをやったりもするでしょう。
このように、やるべきことは色々とあるわけで、キセル撲滅対策はそのなかのほんの一環に過ぎません。そして、3%の不心得者を取り締まるために、97%に必要以上に不愉快な思いをさせてはならないと思います。97%により満足してもらうためには、例えば冷暖房や空調の整備なんかもあるでしょう。同じ冷房でも人によって寒いと感じる人も、暑いと感じる人もいるでしょうから、車両によって2,3種類温度のバラエティを設けておくとか(技術的に可能かどうかわかりませんが、出来るんじゃないかな)。車両や構内の安全対策としてパトロールを強化するとか、それが人員不足で無理だとしたら非常連絡用の電話をアチコチに設置して即座に通報できるようにするとか、ビデオカメラを設置するとか。
JR東日本がキセル防止システムを導入して20億円の増収になったとか、いや70億だとか言ってるようです。他の鉄道会社も似たようなもので、導入1ー2年でモトが取れるとかどうとか。ここで、20億とかきくと、「おお、大したもんだ」って思いますけど、でもJR東日本全体の収益から考えたら微々たるものではないんか?という気もします。
「気がする」だけでは曖昧なので、調べてみました。平成13-14年度のJR東日本の事業報告書をインターネットでダウンロードしてきました。http://www.jreast.co.jp/investor/report/report15.htmlにあります。損益計算書によりますと、平成14年3月期末までの1年間の鉄道事業部門における営業収益(売上)は1兆8417億9600万円でした。経費を差し引いた営業利益(粗利)は2538億4400万円になります。仮にキセル防止システムで年間20億儲かったとしても、それは鉄道部門の総営業収益1兆8400億円からしたら、0.001%に過ぎないのではないか。営業収益からしても1%弱。実際、増収効果ってどれを見ても1%に達していません。さらに粗利をいうなら、防止システムもだって導入費の他に電気代、メンテ代、老朽化などのコストはかかっているでしょうから、20億まるまる実益になるべくもなく、実際の粗利比率は1%をはるかに下回るでしょう。
もちろん微々たる割合であるからといって、おろそかにしていいものではありません。技術革新による新システム導入で不正が減るのは、基本的にはイイコトだとは思います。そもそもここでキセル防止云々を書いているのは、たとえ話として便利だから言ってるだけで、個人的にそこまで強い反対意見はないです。1%といっても、利益を1%あげるためにはどれだけ大変かというのも分かるし、鉄道というのは他の商品と違って「当たったら売れる」という要素が少なく(わざわざ予定を変更して、住んでもいない地域を走る電車に乗ってみようという人はいないでしょう)、増収要素が少ないから純粋に利益が上昇するオプションが電鉄会社からみて魅力的に写るのも分かります。
でも、ちょっと、なにかひっかかるんですよね。「それはそうなんだけど、釈然とせんなあ」という部分は残るのも事実です。
釈然としない理由の大きなものは、このシステム導入でメリットがあるのは鉄道会社だけだということです。利用者になんかメリットがあるのだろうか?利用者にとってなんのメリットもないのではないか?なんかありますか?逆にデメリットはあります。「キセルがしにくくなる」というのは勘定に入れないにしても(^^*)、まず単純に「理解するのが面倒くさい」というのがあります。僕もちょっと調べてみたけど、読んで一発で理解できなかったですよ。いろんな場合があるから、「こういうときはどうするのだろう?」とか疑問になってしまうし。
それと、インターネット上でいろいろな人の意見を見ていくと、「出札が面倒くさくなった」という声が多いですね。すなわち、途中で回数券を利用して乗り継いだりなど、複数の切符の併せワザで出札しようとしても出来ないという不満ですね。あと変わったところでは、JRとかでよくありますが、私鉄と競合している路線は安くなってるくせに、独占エリアになると急に高くなる料金体系になってるから、二回に分けて切符を買ったり、定期券を買ったりした方が安くなるという場合。この場合、やっぱりキセルではないにもかかわらずキセル防止システムにはひっかかってしまいます。さらに精算が面倒くさい、有人改札は少ない上にあまり利用してほしくなさそう、利用すると胡散臭げに見られたなどなど。このように利用者の一部に不便を強いていながら、鉄道会社だけ儲けていいんか?というのが釈然としない一つの原因でしょう。
あと、これに関連して、鉄道会社(に限らないが)の「嘘の広告」への怒りを指摘している人もいました。むしろ不便になってるにもかかわらず「新システムでグーンと便利に!」とか書いてあるやつ。とりあえず腹が立つ、と。値上げのときは、「利用者の皆さんのサービス向上のために止む無く」とか言ってるくせに、かつて値上げしてサービスが向上した試しなんか無いじゃないかという。だから、キセル防止でも、「キセル撲滅のために新システム導入します。自分でもややムキになっているとは思いますが、キセルする奴は許せないんです。利用者の皆さんの一部にはご迷惑をおかけすると思いますが、どうかやらせてください」と正直に書くならまだしも、「皆様のために」というおためごかしで書かれるとムカつくというのが第二点。これはまあ日本だけではないです。オーストラリアの銀行の手数料の値上げ、ケーブルTV料金の値上げは激しいものがあり、その際の説明の「いけしゃあしゃあとした感じ」は日本よりもムカついたりしますからね。
釈然としない第三点は、これは「あそび」のない社会で断固やっちゃったとくきのデメリット、つまりA社会や人々のプライドを低下させる恐れ、と重複します。
それは一部の不心得者のために、全員に容疑がかけられるという不愉快さです。なんかねー、「お前だって、こっちがちょっと油断してたらキセルやろうと思ってるんだろ?」と言われてるみたいで、それがイヤです。これって、結構侮辱ですよ。いや、それは侮辱ではない、別に全員一律にやってるんだからとりたてて疑いをかけているわけではないと言われるかもしれないけど、じゃあ、相手が天皇でも、それ言えます?侮辱的意味合いがゼロなら言えるでしょ。
これね、半分がキセルやってるんだったらしようがないですよ、キセルのせいで営業収益が30%下がってるとかいうなら分かりますよ。でも、1%以下じゃないですか。実際ニュースなどを見ても営業収益の増加率はあったといっても1%以下のようだし。ねえ、1%の損失回復のために、そこまでせんでもええやん?って気がするのです。しかも、乗った駅から、時刻から、全て記録して、入場券だったら2時間以内がどうした、、、って、戒厳令じゃないんだから、なんか過剰、なんか「やり過ぎ」って気がするのですね。
そして、ここからが一番言いたいところで、でも一番分かりにくいところなのですが、全体からすればごく一部に過ぎない異常事態を全面に押し出してシステムを作ることの弊害です。これでなにが一番損なわれるかというと、「全体の空気、雰囲気」です。全体のムードが悪くなるのですね。この世にキセルがあるということ、そういう不心得なことをする人がいるということ、それを常に常に、毎日毎日見させられていると、刷り込み効果じゃないですが、「ああ、俺らの社会ってその程度のレベルなんだ」って知らずしらずのうちに思っちゃいますよね。これって、結構重大なんじゃないかと思います。ほんと、ここは非常にデリケートな問題なので、わかりにくいとは思いますが。
性善説的システム、徳治的システムというのは、前回の話では、人のプライドや自尊心をくすぐって、その自発的な抑制に期待するシステムでした。自分のプライドが人質にとられているだけに、昔の武士道のようなもので、ハマればこれほど強力なものはないです。それを成り立たせるには、社会や人々がやっぱりプライドを持っていないとならない、あるいはプライドを持たせるように持たせるように誘導していってやらないとならない。ここが一番難しく、非常に高等な技術のいる部分だと思います。それは育児とか教育とか後輩の指導なんかにも共通するものですが、本人のプライドをあげて、自立自制させるのが最上の方法だという。
今はどうか知りませんが、僕らが高校のときは、いわゆるレベルの高いといわれる高校ほど校則が少なく、服装も髪型も自由度が高かったです。逆に低いと校則がやたら多い。庄司薫の頃の日比谷高校などは、生徒が先生を選び、生徒たちが集まってクラスを作っていくというシステムになってたらしいです。それで何とかなっていたのは、それだけ信頼されプライドを持たされると、逆に裏切れなくなるからでしょう。校則を破るのは、学校から一方的に押し付けられたクソッたれなシステムを打破する爽快な行為ではなく、自分自身のプライドを裏切る最低でカッコ悪い行為に思えてしまうのでしょう。
ところが、そういった自由な気風は年を負うごとに下がっていってるように思います。やたらめったら規制が増えてきたような気がします。それは学校だけではなく、社会全体として。社会人経験十数年以上の人だったら、誰でも言うと思いますが、「昔はもっと大らかだった」と。「ああいう大らかな時代だったらから、多少の無茶はやれたし、それが良かった」と。
思うのですが、日本の社会に段々と「あそび」が少なくなってきたのではないか。
10回のうち1回くらい失敗しても、昔だったら「あはは」と皆で笑って済ませてきたものが、段々笑わなくなってきた。妙にシリアスになって、一回でも失敗例、予定外の事態が出たら、「不祥事」「異常事態」になって大騒ぎするようになった。いつぞや、「過剰なる言い訳の日々」でも書きましたが、例外中の例外のような事態が生じたとしても、もうこの世の終わりのように大騒ぎして、責任者をつるし上げてリンチまがいにボロカスやっつけるから、怖くてうっかりしたことは言えなくなってきた。
終始一貫同じようなことを言ってますが、こういう心理状態というのは、かなりヤバいと思います。例外事例のミクロな詳細を追いかけて「とんでもないこと」として大騒ぎしてばかりいると、例外を例外として分別できるだけの視野の広さが失われます。これはかなり致命的です。100件のうちの1件も、1件だから大事じゃないとは言いませんが、他に99件あるわけです。他の99件も合わせて考えないと大きな判断を誤る。
昔だったら、子供が転んですりむいても、「唾つけておけば直る」とかアバウトにやってました。で、99、99%唾をつけておけば直ります。そこに、やれ破傷風がどうの、微生物がどうのとか、よせばいいのに付け焼刃の猿知恵医学知識であれこれ思い煩っていくと、「バッチイから砂場禁止」みたいな倒錯した状況になっていってしまいます。それで確かに、0.01%のリスクは回避できるでしょう。しかし、99.99%を知る機会を失う。それは例えば、人間というのはこういうことをするとこの程度の怪我をして、このくらいのダメージを受けるのだというカンドコロです。このリスクに対する皮膚感覚や直感能力というのは、生物が生命身体を守るために最も重要な財産であり、是非学習しておくべきポイントだと思います。大事なことを学ぶためには、ある程度リスキーなことをしないと学べないというのもまた事実です。僅かなリスクを近視眼的に回避していると、結局その何十倍ものリスク(しかし間接的なだけにそれなりに視野が広くないと見えない)をひっかぶってしまうという。
大きな方針を立てた場合、その方針や根本理念が大きければ大きいほど、つまり大事であれば大事であるほど、細かなところで色々と予定外の不祥事が発生します。その少数事例を、少数であるがゆえに無視しろとは言いません。それなりに対策を立て、手当てをするべきでしょう。しかし、その少数事例のために、大きな方針そのものまでもが曲げられていいわけないです。
「あそび」とは、この大きな根本方針を守るための人間の知恵なのでしょう。多少のことが起こっても、「やれやれ」とか笑って済ませることによって、つまり必要以上に過大に受取らず、適当に流して、あくまで本道を守るためのものだと思います。そして、この「あそび」の少ない社会やシステムの居心地を、体感的に日本語で表現すならば、「ギスギス」ということになるのだと思います。
前半で取り上げたキセル防止システムは、別にそれ自体に恨みがあるわけではありません(なんせ僕は日本に帰ってないのでまだ一度も使ったことが無いし)。あくまで説明のための一例に過ぎません。ただ、そのニュースを最初に聞いたとき、耳元で、ギスギスの「ギ、、、」が鳴ったような気がしました。「そこまでせなアカンですかねえ?」という。
そして、ここで冒頭の田中さんののほほんキャラと交錯してくるのですが、日本人ってもっと積極的な価値観を持ってたような気がします。田中さんはそれを彷彿とさせるのでしょう。
キセル防止システムだけではなく、ニュースをみればやれ犯罪だ、ピッキングだ、不祥事だ、迷惑な奴が多い、アホが多い、、、ネガティブな話が多いです。そんなのばっかり聞かされていると、もうそういった不祥事や不正ばかりが世間に蔓延しているような気がしますし、「俺らの社会ってそんなに程度が低いのか」という気になります。人を見たら泥棒に見えるようにもなるでしょう。そして、そういった不正をいかにして減らすかが僕らの社会の唯一の正義であり、唯一の価値になってしまったかのようにすら思えます。いかにギスギスを先鋭化させていくか、そこにしか社会に価値を見出せないかのように。
そんななか、田中さんのインノセントな雰囲気というのは、僕ら日本人が本来もっていた価値を思いださせてくれたのでしょうね。ドン臭いくらいに誠実で、仕事をムキになってやって、不器用なほのぼのさ。そういった誰しも持ってるはずなんだけど、いつしか忘れられてしまったポジティブな価値、そういった価値で社会を見つめなおしてみたらどうか?って、そんなムードになっているのではないかなと、思ったりもします。
田中さんは確かに業績的には非凡な人ですが、人物的には平凡な、平凡という表現が失礼ならば、特段際立った性格の偏りのない人のように思えます。ああいう人はどこにでもいるだろう、と。日本人と日本社会の自画像・アイデンティティとして、ともすればアクセク競り合って、はしっこくて、油断も隙もないような像を描いていたのですが、田中さん=僕らというアイデンティティにしてみたら、物の見え方もまた違ってくるような気がします。早い話が、キセル防止システムでいえば、電車に乗ってる乗客の大部分が田中さんだという具合に物が見えていたとしたら、あんなガチガチの防止システムを作るだろうかしらん?ということです。
そして、乗客の97%が田中さんとは言わないまでも、少なからぬ比率の人が田中さん的な人物だと思いますよ、僕は。あなたはそうは思わないかもしれないけど、僕はそう思う。このエッセイであれこれ日本に難癖をつけてますが、平均的な日本語読解力をお持ちの人だったら分かると思いますが、僕が意識している日本人や日本社会の本当の肖像というのは、メディアがマスコミが描くそれよりも、確実に1ノッチ目盛りが高いと思います。このくらいは賢いはず、このくらいには信頼すべきである筈という度合いが高いです。信頼している度合いが高い分、ダメな部分にはキツいわけです。「馬鹿なんだからしょうがないよね」とは思えないのですね。
時々感じるのですが、「最近は怖いからねえ」「ワケわからん奴が増えたからねえ」ということで、僕が思う日本社会の肖像よりも、暗く、恐ろしく日本の肖像を描いている人が多いように思います。「田村さんは居ないからわからないかもしれないけど、いやもう日本は大変なことになってますよ」とか言われたりもしますけど、「そうかねえ?」という気もするんですよ。そんなにヒドイわきゃないだろう?という。なんか「砂場バッチイ」的にバイアスかかってないか?と。
もともとアバウトな性格で「あそび」が人よりも大きい僕は、あそびの大きな社会にやってきて、ますますユルユルになってます。泥棒なんか入られて当たり前、ブッキングが通ってなくて当たり前、車は故障して当たり前、人間関係は喧嘩して当たり前、食べ物は腐って当たり前、天気予報は外れて当たり前、バスはこなくて当たり前、デリバリーは約束の時間にこなくて当たり前、郵便物は紛失して当たり前、長いこと生きてればそりゃイロイロあるわなという感じで、多少予定外のことがあっても、「ま、しゃーないか」と流せる度合が高くなってます。"Nobody is perfect"ということで、人間がやってんだから、多少の凸凹はあるでしょうと。
そんなアバウトな人間からしても、いい加減にして良い部分と良くない部分があります。良くない部分というのは、例えば、社会に不信感が漂うことは良くないことです。プライオリティがハッキリしなくなるのは良くないことです。生物として最低限基本的なタフさとノウハウが失われるのも良くないことです。そして、ポジティブな価値観がネガティブな価値観に負けてしまうのも、良くないことだと思います。例外に目を奪われて、圧倒的大多数の巨大な果実をミスミス見逃すのも良くないことだと思います。
子供の頃に犬に噛まれて以来、トラウマになってしまって犬が怖くなる人がいます。かなり深い傷を負えばそれもまた無理はないところでもあるでしょう。でも、ちょっと噛まれた程度や単に吠えられた程度で、いちいちトラウマになってたらこれはこれで問題だと思います。犬が嫌いなのは好き好きですが、多少のことで傷ついて犬や動物を遠ざけてしまって、動物と人間との実り豊かな交歓という計り知れない豊穣な世界を知らないまま一生を終えるというのは、どう考えても大赤字だと思います。そして、犬は異性にも置き換えられますし、人間関係にも、食べ物の好き嫌いにも、なんにでも置き換えられます。
この世にどういう出来事が起きているかはとても大切なことです。でも、僕らがこの世をどう見るか?というのは、それ以上に大切なことだと思います。Don't let exceptions rule the all.
写真・文:田村
写真は、ウチの近所の夕暮れ時
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