今週の1枚(03.01.13)
ESSAY/性善説と性悪説
オーストラリアに暮らしていると、性善説をベースにして社会が成り立っているのかなと思うことがシバシバあります。電車でも無改札駅が多いです。バスも、距離によって料金が違うんだから乗車時に整理券を取って降車時に清算するというシステムにすれば良さそうなのに、乗車時に目的地を自己申告して(だから嘘を言える)料金を前払いするシステムだったりします。いくらでもキセルが出来るという。でも、キセルが多くて収入減だから大問題だという話はあまり聞きません。現代テクノロジーの粋を尽くして、キセルが絶対出来ないように管理しようと必死にガンバる日本のJR等の姿勢とは随分違います。
ガソリンスタンドの給油も、セルフサービスで給油するのですが(田舎にいくとやってくれるところも多いですが)、料金の支払いは、少し離れた建物のカウンターまでトコトコ歩いていって支払うことになってます。つまり、ガソリンを入れるだけ入れたらそのまま車を発進して「食い逃げ」出来るようになってます。店の商品も、特に誰かが見張っているわけでもないのに、通りの方まで並べられており、これも万引きしようと思ったら簡単に出来たりするパターンの店が多いです。
その他、トータルのシステムではなく、個々の運用のレベルで人の良さがにじみ出ている局面が多いです。例えば、こちらの郵便局では、梱包用のボックスや封筒などが売ってますし、料金先払の封筒なんぞもあります(だから封筒を買っておけば、あとで切手を貼らなくてそのまま投函できます)。だからプレゼントなどを贈る場合、プレゼントの現物だけもって郵便局に行き、あとはその場で箱なり封筒なりを棚から勝手に取って、プレゼントを入れ、宛て名を書いてカウンターに持っていけば、そこで箱代や封筒代ともども清算してもらえます。箱だけを買って帰る場合は、箱に支払済スタンプを押してくれたりします。しかし、そこはオーストラリア、押し忘れる場合も往々にしてありますし、押そうという気が全然ない窓口もいます。で、後日、その箱に詰めてカウンターに持っていった場合、また箱代を二重に取られるのではないかという問題もあるのですが、そういう場合は、「あ、これは前に買ったもので、支払い済みだよ」と言えば大体それで済みます。「そんなレシートも提示せずに、いい加減な自主申告だけでいいんか?」と思ったりしますが、これで結構イケたりします。要するにそんなズルをする人間はそんなに居ないだろうという前提で物事が廻っているような感じですね。
おおらかといえばおおらか、いい加減といえばいい加減、そして人間を信じることを前提にしている性善説といえば性善説的な世の中なのねと感じたりします。
しかし、これだけでオーストラリアは、日本よりも性善説によって立つ局面が多い、と言ってしまっては片手落ちというか、それではあまりに漠然とした雑感でしかないと思います。
そもそも性善説や性悪説って何なんだろう?それを社会システムにどれだけ組み込むかというのは、実際どういうことなのだろう?そのあたりを考えないと意味がないと思います。
性善説、性悪説は、言葉だけなら誰でも聞いたことはあるでしょうし、内容も大体ご存知でしょう。でも、その本来の意味はどうなのかというと、結構あいまいだったりします。もともと性善説は古代中国の孟子が唱え、性悪説は筍子が唱えたといわれています。
ちょっと余談ですが、Windowsの馬鹿辞書は「筍子」が変換しないのですね。そのくせ「恂氏」はあるという。ほんまに腹立つというか、どうしてWindowsはこんなに変換馬鹿でモノ知らずなのだろうとホトホト嫌になります。15年前の富士通のワープロの方が遥かに使い勝手が良かったです。ちなみに入力も親指シフトの方が確実に二倍以上早いです。でもって辞書は優秀。だから結果として入力スピードは二倍以上になりますし、くだらない変換トラブルで思考が妨げられないから、文章に関するproductivityは、3倍から4倍ありました。このエッセイ程度の分量だったら二時間あったら書けてたもん、実際。それが今では6−7時間かかる。その昔パソコン通信やってるとき、パソコン不要説を唱えてひとりで浮いていましたけど、未だに日本語入力に関してはその考えを改める気がしません。なんとかしてくれ、このアホ辞書。「十中八九」も変換しないんだもん、ヒドすぎる(「術中八苦」になる)。
変換馬鹿辞書に毎度の怒りがこみあげてキッチリ思考が中断してしまいました。気を取り直して進みます。で、孟子の性善説と筍子の性悪説ですが、この機会にまたインターネットを徘徊してちょろっと検索して調べてみたところ、両者とも別にそれほど変わったこといってるわけではないようです。つまり性善説も、「人間は本来善なんだから、人を信じなければダメだよ」とは言ってないです。人には本来善なる部分がある、といってるだけです。あくまで「部分」です。「みんなイイ人」なんて言ってない。だから、人が本来もっている善なる部分をいかにして引き出していくか、それが大事なんだということですね。筍子の性悪説も、人には本来悪なる部分があり、放置すれば悪なる部分が蔓延することもあるから、いかにして悪なる部分を押さえていくかが大事なのだということです。要するに、孟子も筍子も、人間というのはイイモノも悪いものも持っているので、いかに人間を良い具合に活かすかということ、つまりは教育やシステムというものも重要性を力説してるわけです、その意味では両者同じ事を言ってるともいえるわけです。
性善説=「みんなイイ人」だけだったら、世の中犯罪なんかありませんわ。だから警察要りませんわ、刑法も裁判所も刑務所もいりませんわ。だから、そんなラディカルなこと誰も言ってませんわ。性悪説も、「みんな悪い人」だけだったら、もうウダウダ言ってないで人類なんか皆殺しにしてしまえばよろし。だって、所詮悪なんだから、どーしよーもないんだったら、もう撲滅するしかないじゃん。でも、そんなラディカルなこと言ってる人もまた少ない。
そうなんですよね、オーストラリアが性善説的だといっても、なんでもかんでも無批判に人間を盲信しているわけではないです。もし、性善説的だとするならば、「人間のイイ部分を引き出すのが上手」ということだと思います。じゃあ、その「イイ部分を引き出す」ってのはどうやったらいいのさ?ということになりますが、そんなもんが簡単に分かったら誰も苦労はせんわけです。これって、孔子の昔から、アリストテレスから、マキャベリから、歴代思想家がみーんな頭を悩ましていた問題なのでしょう。政治哲学というやつですね。だから、そんな「オーストラリアは性善説でキマリだ!」みたいな低脳的広告文案みたいな話になるわけがないのでしょう。
人間というのは、ワガママで、気分にムラがあって、論理性や法則性に乏しい生き物だと、僕は思います。自分ひとり統括することすら多くの人は難儀しています。「頭ではわかっていても、どうすることも出来ない」などと言ったりします。「素直になれない」「そんな自分がイヤになる」、、、などなど。
自分ひとりでも大概てこずっているのに、これが二人になったらさらに大変です。恋人、夫婦、友人関係ですね。「相手が何考えているのか分からない」くらいだったら、相互理解を深めればいいのでしょうが、仮に相互理解をしていたとしても「本当は感謝してるのだけど、つい面と向かうと憎まれ口ばっかり叩いてしまう」という、「わかっちゃいるけど、どーしよーもない」という場合もあります。感情は海面の波のようです。日により、時により、風により、高くなったり低くなったり、満ちたり引いたり。それにつれて自分の気持も上がったり下がったり、揺れたり、コケたり。相手もまた同じでしょう。コンスタントに二人の人間関係を円満にやっていくというのは、それぞれ別の波でサーフィンしながらずーっと手を握ってるようなもので、そんなこと中々出来ません。波にあおられて手が離れてしまったり、相手が差し出してくれた手を知りながら自分がコケてしまったり。一筋縄ではいきません。
なかなか理屈どおりにいかない世界になります。人間という変数のカタマリのような不可思議なモノ同士で、どうやってうまくやっていくか。人が二人集まれば、それはもう「社会」であり、「政治」になるというのは、そういうことでしょう。同じような言葉を発していたとしても、場合によってはYESの意味であり、場合によってはNOと受け取るべきであろう、と。非常にキツい罵倒を投げかけられても、「頭に血がのぼったときの相手の発言は、額面どおりに受け取ってはならない」とか。でも、キレたときにこそ本音が出てくる場合もある、と。「どっちなんだ?」と言いたくなるようなことも多い。
デートしてても、エスコートする側(男性が多いが)は、諸事万端とどこおりなく進むことを考えているから、どうしても発想がマネージメント的になります。A地点で海水浴をして、B地点で一服いれて、C地点で夕日を眺めてロマンチックに盛り上げてキスを奪おうなんてダンドリがあったりします。だから、つい「早くしないと遅れちゃうよ」みたいなセカセカした感じになります。一方、エスコートされる側は、どこで何をするかというよりは、二人だけの時間をゆっくりと共有したいわけです。だからベクトルとしてはマネージメントというよりは、鑑賞・味わう方向に流れます。彼女からしたら、いつもセカセカして時計ばかりみてる彼の行動は、kill joyであり、ムードぶち壊しだったりしますし、彼からしてみたら緻密に組み上げた計画が、相方がグズグズしていていつも危機に晒されるわけです。「はよせんかい、このノロマが」という感じになりがちです。同じ事やっていても、立場と価値観が違うだけで、全然見え方が違う。そこを上手くやっていこうと思ったら、それなりに成熟した相互理解と、譲歩が必要になります。また、「モノの言い方」ひとつにも気を配るようになります。例えば、あの岬で夕日を見ようと思っていたら、「早くしないと遅れちゃう」という言い方ではなく、「あの岬にいったら、もっとゆっくりできるよ」という言い方の方が通りが良いとかね。価値観のズレ、相互理解と妥協、表現への配慮、、ああ、なんて「政治」なんでしょう。
これが3人になると、加速度的にまた難しくなります。「三人旅は一人乞食」という江戸落語の言い回しがあったと思いますが、3人グループというのは、どうしても2対1になり、一人だけ仲間はずれになって面白くない思いをするケースが多い。「3人寄れば派閥ができる」と言われる所以です。さらに三角関係の難しさは、二人関係の比ではありません。そして、数人から十数人になると、家族とか少集団グループ内部の問題が出てきます。さらに数百人、数万人、1億人になってくと、利害や価値観の錯綜状況もとてもじゃないけどフォローしきれなくなります。
何を延々述べているかというと、人間は難しい、だから人間関係は難しく、人間関係の巨大なカタマリである社会はさらに難しいということです。こんな壊滅的に複雑な関係で、豊かな調和を育むなんて、「あー、もー、無理無理、絶対無理!」と言いたくなるくらい難しいことだということです。しかし、それをやらないと、北斗の拳みたいな世界になっちゃいます。つまりは、弱肉強食的社会になり、
強い奴だけがすべてを得て、弱い奴は死ねという殺伐とした世の中になりかねない。だから、いっくら難しくてもやらねばならない。
その場合、人間社会をどうやって統治していけばいいか、です。そこで、古来から人の数だけ色々な考え方が出てきたのでしょう。全てを網羅的に知るものではないですが(というか殆ど大して知りませんが)、思うに考え方としては二つの発想があると思います。人は、キマリを作って交通整理をしていこうという発想。法治主義です。もうひとつは、人々がレスペクトと道義に則って行動しましょうという人治(これも変換しない!)主義、あるいは徳治主義。
法治主義のメリットは、最初にキマリを作って権力者といえどもそのキマリに従うようにしますからから、どんな馬鹿殿が出ようが、暴君が出ようが、そいつの気まぐれで人々の生活が左右されることが少ないことです。安定しているし、「こういうことをしたら、こういう結果になる」という見通しが立てやすいです。行為予測性ってやつですね。ただデメリットとしては、キマリは所詮完璧ではありません。人間というのは実に色んな奴がいて、とんでもなく色んなことをしますから、予想を越えた事態というのが当然出てくる。だからキマリが追いつかない。追いつかないと、「なんでそうなるの?」という非常に納得しにくい解決になってしまう。また、追いつこうとしてありとあらゆる場面を念頭においてキマリを作ろうとすると、キマリは異様に複雑になって、読んでも何がなんだかさっぱり分からないということになります。また、杓子定規で、冷たい感じもします。それにキマリさえ守っておけばいいんだろうみたいな感じになって、モラル的な面がおろそかになりがちという弊害もあります。
一方、人治主義なり、人々の道徳観に訴える方法は、融通がきき、ケースごとに納得しやすい結論が出る傾向あるのですが、それだけに曖昧であり、結果の見通しが立てにくいです。それにそもそも人々全員が信服するような名君が現れる確率は、やっぱり非常に乏しいし、これだけ価値観が乱立する社会になったら、ますます望みにくくなる。同じく価値観や生きかたがバラバラになってきたら、皆の共通の善意というものも曖昧にならざるを得ないです。
だから、近代国家では一応法治主義が原則になってます。なお、法学部に通ってるアナタのために、もう少し概念を正確にいうと、このエッセイで「法治主義」というのは、ドイツをはじめとする大陸法系の「法治主義」と英米法系の「法の支配」の両概念をごちゃ混ぜにして使ってます。同じように、人治主義と徳治主義は違うといえば全然違うのですが、あくまで大雑把な区分けとして読み流してください。まあ、孔子の言うところの「修身、斉家、治国、平天下」みたいな感じです。
これも、性善説か性悪説と同じく、単純な二者択一ではなく、両方あるということ、その両者は根を遡れば同じであるということだと思います。そんな難しく言わなくたって、僕らは日々の日常で、ごく自然にそれを使い分けています。
例えば家族内部のルールとか、恋人や夫婦間のルールというものがあります。例えばお父さんが書斎に篭もってるときは非常時以外には声をかけないとか、お母さんがパートで遅くなるときはお兄ちゃんがゴハンを炊いておくとか、朝のトイレやシャワーの順番とかね。「ホームルール」といったら大袈裟に聞こえるかもしれませんが、でも、あなたがホームステイするようになったら切実な問題になりますよ。その家にはその家なりの流儀やシキタリというのがありますからね。
その場合、長い年月をかけて自然と育まれたシキタリもあるでしょうし、鋭く利害が対立して交渉の末妥結にいたったようなルールもあるでしょう(携帯電話は月5000円まで、過ぎたら小遣いから天引き、とか)。成立過程がどうあれ、それで家族内部が円満に、ハッピーとは言わないまでも、まあまあ波風立たない程度に暮らしていけたらいいわけです。で、その場合、いちいち文章にはしなくても交渉の結果によって非常にテクニカルな定められたキマリ(法治主義的)なものもあれば、「お父さんは仕事で疲れてるんだから、静かにしておいてあげよう」という善意と人徳で自然に成り立っていくキマリもあるわけです。
理想を言えば、非常にテクニカルな面は別として、人徳で全てがおさまっていくのが好ましいです。職場でも、サークルでも、上に立つ人が一生懸命やってる姿に下の者が感動するとか、自分のためにやってくれているという愛情を感じてそのお返しをしたくなるとか。これは、お店、特にレストランなんかで外食しても感じますよね。いい店というのは、上から下まで一本気合が入ってます。ピリピリしてるわけではないのだけど、「いいものを作ろう」という思いとプライドでスタッフが動いている店というのは、どことなくダラダラしてやる気なさげな店よりも食べていて気持ちいいです。
あなたが職場やサークルの管理職として、あるいは教室を預かる教師だとしたら、その集団内部の統治は、できるだけ徳治的なもの、自然発生的な皆のポジティブな善意で成り立っていくのが一番気持ち良いだろうとおもいます。しかし、常にそう理想どおりいきませんし、なかには思わず殴り倒してやりたくなるような奴もいたりしますよね(^^*)。だから、仕方なしに罰則を作ったり、キマリを作ったりします。
だから法治といい、人治といっても、僕らがこれまで慣れ親しんできたいつもの発想なのだと思います。そしてまた、性善説、性悪説というのも同じことで、出来れば人間の善意や人徳をうまく引き出してそれで皆がうまくやっていければいいな、でもそれだけではダメなときもあるからその時はその時できっちりケジメをつけなければならないなという、「いつもの悩み」なんだろうと思います。
さて、ここまで考えてみて、オーストラリアに性善説的なシステムが多いというのはどういうことだろうか?を考えてみます。
例えばキセル問題を取り上げてみます。キセルがしやすい環境にあるとして、日本人とオーストラリア人、どちらがより多くキセルをするだろうか?という興味深い問題があります。どちらだと思います?僕にもわかりません。そういう統計なり研究結果があるかどうかもわかりません(無いんじゃなかろか)。
冷静に、冷静に考えてみると、日本人もオーストラリア人もそんなにキセル率に変わりはないような気もします。キセル撲滅に躍起になってる昨今の日本の鉄道会社の動向をみてると、どうもほっておくと日本人は必ずキセルをするかのようですが、実際、そんなにしないんじゃないかしら?まあ、こんなのは推測に過ぎないし、推測というよりは単なるイメージに過ぎないのでしょうが、でも、アナタだったらキセルしますか?「絶対しないとは言い切れない」、これは誰でもそうだと思います。僕もいつかはするでしょう。でも、「キセルのチャンスがあったら絶対する」とも思わないんじゃないですか?「まあ、金額的に大したことがなく、またお金に不自由しているわけでもなく(たまたまその時だけ持ち合わせが足りないとかいう場合も含めて)、いずれにせよ切符を買わねばならないのだったら、過半数以上はまじめに切符を買う」というあたりじゃないでしょうか?
じゃあ、なぜ常に100%キセルをしないのでしょうか?まず大丈夫だという状況があればキセルをした方が得なのに、なぜしないのでしょうか?キセルをしようという心を押しとどめるカウンターパワーはなんなのか?ですが、僕は一つにはプライドだと思います。「セコいズルをやって得してる自分」というのが、なんとなく卑しげで、それがイヤだと思う心情です。あとは、キセルの場合には通じないかもしれませんが、社会や他人に対する親近感や愛情だと思います。皆がズルして鉄道会社そのものがコケて路線がなくなってしまったら困るし、それで自分よりも困る人たちも沢山いるだろう、だからそんなことしちゃイケナイなと思うのでしょう。
もし、オーストラリア人の方が、日本人よりもキセルをする率が少ないとするならば、おそらくその理由は、オーストラリア人の方が自分に対するプライドと、セルフエスティームが高いことが理由の一つになるでしょう(心理学分野における研究によると、日本人のセルフエセスティームは他の先進国に比較してかなり低いらしい)。自分と、自分の人生は、堂々として正しく、カッコよく、豊かであって当たり前だと思ってる度合が高いということです。逆にセルフエスティームが低いということは、自分なんかどうせ大した人間じゃないさと心のどこかで自分を見下している度合いが高いということでもあります。どうでしょうか?
もう一つの理由は、社会に対する愛着でしょう。この社会は自分が作っているのだという自覚と自負。そして社会に生きている同朋達への親近感です。オーストラリアの新聞の投書欄や、おエライさんの発言などをみてますと、"fellow Australian"というフレーズがしょっちゅう出てきます。これもニュアンスを含めて完全に日本語訳にするのは不可能な言葉ですが、「俺の仲間!」という親近感がこめられた言い方です。「コクミンの皆さん」という言い方よりは、血が通った言い方だと思います。
まあ、オーストラリア人と日本人でどちらがどうなのかは、究極的にはよく分かりません。しかし、オーストラリアの場合、人を信頼するシステムがあるということは、多少キセルその他の不心得者によって損をすることがあったとしても、その損よりも、皆のプライドに訴えかける方法をとった方がトータルではよりメリットが大きいと冷静に計算しているのかもしれない、ということです。もしかしたら、全然そんなこと考えてなくて、単に間が抜けていたり、いい加減だったりするから、そこまでキッチリやろうとしていないだけなのかもしれません。ただ、意図してやってなかったとしても、トータルとしてのメリットは大きいと思います。
以前にもコストの項目でちらっと触れたのですが、性善説的なシステムの方が全体のコストは遥かに圧縮できます。またシステムもはるかにシンプルに済みます。そして、難しいのですが、相手のプライドに訴えかける方が結果として効率が良い場合も多いです。「相手の自発性を促す」という方法は実現するのが難しいのですが、いったん実現してしまえばこれ以上強力なものはありません。
話はちょっと逸れるのですが、僕がやってる留学生やワーホリさんのサポート業も多分に性善説に拠ってます。なんせ、メールだけのやりとりで、証拠金もなにもなく、僕は空港まで迎えにいくわけです。お会いするまで名前を知らなかったというケースもあります。こんなの、メールだけ「行きまーす」と言っておいて実際来なかったといういい加減な奴だっているかもしれないということを考えたら怖くてやってられないでしょう。事前に多少なりとも振り込ませるとか、クレジット番号を書かせるとかいう方法だってあるわけです。でも、やってません。自宅兼事務所を一泊いくらの日割シェアでお貸ししてますが、この支払いも後払いです。でも、これまで空港までお迎えにいったのは述べ数百人、自宅に泊まった人も同数ほどおられますけど、空港で待ちぼうけ食らったこともゼロ件ならば、シェア代踏み倒されたこともゼロ件です。一度としてないです。
それは偶然なのか、ラッキーなのか?偶然も、ラッキーも、そう数百回は続きません。だから、これは必然です。そういうマネジメントをしてるからだと思ってます。これは人間関係(つまりはビジネス関係ですが)の間合や雰囲気の問題で、ここまであけっぴろげに信じられたら、人というのは逆に裏切れなくなるという地点があるんだと思います。無条件に信じてもらえばもらうほど、それを裏切ったときの自己嫌悪を情は深くなりますし、プライドも傷つきます。これが最初から多少なりとも疑り深く、注意深くやってたら、裏切る方もあんまり良心が痛まないんですね。だから、妙な小細工をせずに=だいたいそんな小細工なんか実効性ない場合が多いんだから=、無条件に信じる方が、相手へのプレッシャーが高くなって、より安全係数は上がるのだということです。
無論これには補助システムも必要です。一つは、メール段階で人間として信用できなさそうな人間は、僕の方から切ります。まあ、実際に断ったことはマレでして、大体は自然と音信が途切れます。もう一つは、仮に騙されたとしても大損はしないということですね。別に「ははは」と笑って済ませればいいやと思ってます。そのくらいの損は織り込み済みということです。第三に、これが一番重要なことなんですが、相手さんにしてみれば、見たこともない人間に迎えにきてもらい、その家に泊まるわけですから、僕が相手を信じる以上に、相手は僕を信じてくれているわけです。それだけ信じてくれている人間が空港に来るわけですから、ハズレが無くてもあたりませんですよね。そういった信頼関係を、いかにメールだけで構築できるか、です。これが最大のポイントだったりします。
別の例では、昔むかし異業種交流やってて皆で遊んでたことがありました。皆でお金を出し合ってマンションの一室を借りて拠点にするとき、一応のキマリを作ろうということになり、職業柄弁護士の僕が起案しました。そのときに、憲法みたいな大原則を作り(”オキテ”と表現したけど)、その精神を言語化したのですが、その精神を簡単にいえば、「出来るだけキマリは作らないこと」でした。全てはメンバーの成熟した大人性で解決されるべきであり、キマリの数が多ければ多いほど、それは我々の恥であること、ということでした。そのうえで、原則二条をつくり、第一条:全ては面白いか面白くないかで決する(建前とか大義名分とか言い出したら、だいたいその組織は腐り始めるから)、第二条:金の面で汚いことだけは絶対にするな(金のトラブルは尾を引くから)、ということでした。それ以上は全て実務細則(カギはどこに置いておくとか)。今僕が同じように作れと言われたら、やっぱり同じようなモノを作るでしょう。
話をもとに戻すと、性善説というのは、単純に「みんなイイ人」と盲信することではなく、人が本来持っているいい面をどうやって引き出して活性化させるか、ということでした。それは例えば、その人のプライドをその人以上に重んずることでもあるし、そのプライドを重んじていることが自然に伝わるだけの言語表現能力でもあろうし、それを裏切らない自分自身の行動でもあるのでしょう。
性善説は、無邪気に人を信じる説ではないです。また、性善説を実際の社会に適用するということは、これほど人が悪いことはないというくらい、人間に対して徹底的にクールに洞察することを求められるのだと思います。その意味では性悪説的にやってた方が楽なんですよね。人を疑って、セキュリティだけ考えておけばいいんだから。
オーストラリアが日本よりも性善説的なベースをより多く基盤にしているのかどうか、それはまだよく分かりません。おそらく永久に分からないでしょう。ただ、局所的には、性善説的ベースで行われているシステムがあること、それで結構廻っているという事実は、僕からしたら非常に興味深いです。大体、こんな民族のルツボのように200民族以上いる社会で、しかも日本も結構悪くなったといえまだ日本よりも犯罪発生率が高いであろう、そしてまた失業率も高いであろう社会で、どうして性善説的にやろうとするのか?なぜやろうとするのか?本当にやっていけているのか?そこも興味があります。そのシステムを成り立たせる論理と技術と、そしてあるであろう「大いなる偶然」と。なかなか、いろいろと考えるヒントを提供してくれそうな気がします。
逆に、治安がよく、一般に正直者が多そうな日本社会で、どうしてああもムキになってキセルを取り締まらねばならないのか、どうしてああも人を見れば泥棒と思え的にナーバスになるのか、どうして多少の不心得者を笑って見過ごすことが出来ないのか、そういった不心得者はどういう心理経過を経て不心得な行動をするのかなどなど、考えていくとキリがなさそうです。でも、また、それは別の機会に。
写真・文:田村
写真は、Cityでのスナップ
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