今週の1枚(02.12.30)
ESSAY/ チャントリズム
前回は、日本社会の高コスト構造の分析をしている堺屋太一氏の著作をベースに、いろいろ好き勝手なことを書きました。今回はその続きです。クリスマスだというのに、そして年末だというのに、何事もなかったかのように淡々と続きます。
”チャントリズム”というのは、前掲書201ページでちらっと出てくる堺屋氏の造語です(だと思う)。「ちゃんとしなきゃ」という日本独特のメンタリティに基づく厳格な手続のことで、この厳格さが時として無駄でもあり、あるいはコストを押し上げたり、責任所在を曖昧にすると指摘されています。同書ではチラッと出てくるだけですが、この造語だけ拝借して、以下は僕が勝手に書かせていただきます。
日本人は「ちゃんと」しているのが好きです。ニート&タイディな民族なのでしょう。電車の時刻が数分遅れただけで、もう「ちゃんと」してないことになってしまい、お詫びの車内アナウンスが流れます。コピー一枚取らせてもきっちり取りますし、二つに折ってホチキスで止めると、綺麗に二つ折りにされ、角にズレがなくきちんと止められてきます。ビジネスでも「今日中にご連絡します」と言えば、必ず連絡があったりします。
僕ら日本人にとってはそんなものは当たり前のことであります。昨今、そういう当たり前さが通じなくなってきたこと、「いい加減な」連中が多くなってきたということでカリカリきたりします。しかし、いったん頭をクリアにして素朴に見ると、@ちゃんとしていて素晴らしい部分、A意味なくチャンとしてる部分、B全くチャンとしてない部分があります。コストに関連していうなら、Aの意味なくチャンとしてる部分が特に問題になると思われます。
既に何度となくこのHPでも書きましたが、オーストラリアのTV番組はきちんと時間どおり始まるとは限りません。つまり7時のニュースが7時に始まるとは限らない。6時59分くらいからフライング気味で始まったり、7時2分くらいに始まったりすることも珍しくないように思います。その昔、まだこちらに着いたばかりの頃、テレビの時間で腕時計を合わせていて、その度「あれ?おっかしいなあ」とやってたことがあります。その頃はまだ、まさかニュースの時間が平気でズレてるは考えもしませんでしたから。僕らは、7時のニュースは7時0分0秒カッキリに放送が始まるものと思い込んでます。しかし、そんなこと思ってる地球人は実は絶対少数派なのかもしれません。
また前掲書でも指摘されてますが、日本のTV番組は、カメラが数台あろうとも全部色調を合わせていると言われます。野球中継でバックネット裏のカメラも、ライトスタンドのカメラも同じ色調に合わせます。バックネット裏からの画像は少し赤味がかってるなんてことはない。これは結構大変なことだと思います。場所が変われば光量も違うし、色調も、ホワイトバランスもどうしてもズレます。それをきちっと統一させようというのは(しかも生中継で且つデーゲームで夕焼けになるにつれて色調が自然と変化していくときなどは)、もう職人芸といっていいと思います。意識して確認したことはないですが、おそらくオーストラリアの番組の場合、そのあたりはかなりいい加減じゃないでしょうか。「まあ、気にするわけないよね」という。
それだけだったら結構なことなのですが、問題はそれをするために制作コストが跳ね上がることです。1秒も狂いもなく全ての番組を進行させようと思ったら、素人考えでもコストがかかると思います。それもかーなり掛かると思います。自分の乏しいバンドのステージ経験を思い出すに、ステージというのはどういうわけだか本番になると何かトラブルがあるのですね。やれギターを繋いでるシールド(コード)が接触不良になったとか、換えたばかりの弦がなぜか切れたり、電池が切れたり、モニタースピーカーが壊れたり、あと2メールをつなぐコードが何故かそのときに限って見つからないから、ベースだけ異様に離れたステージの位置に立たざるを得なかったり。必ず「何か」起こるんですよね。たまらんです。TV番組でも、事情は同じでしょう。「はい、ここでCM!」といったところで、なぜかテープが廻らないとか、キチンと頭まで巻き戻しが出来てなかったりとか、いかに完璧を期していても、原因不明のトラブルというのは生じるでしょう。それを限りなくゼロで押さえようと思ったら、何重にも予備のセーフティをカマしておかないとならないでしょう。
そこへいくとオーストラリアのTV番組は呑気なものです。誰かが喋ってる途中でも、平気で音声が入ってなかったり、まだ喋り終えてないのにいきなりCMにいっちゃったり、「ではごらん下さい」といったら全く関係ない画像がはいったり、途中でいきなり画面が真っ青になったり。でも誰も気にしてる風でもないです。これ、日本だったら、もうADなんかボコボコに半殺しにされてるんじゃないかなーというような事態でも、何事もなかったように物事は進んでいきます。ラジオなんかもっとおおらかですよね。「現地の○○さーん」と話し始めたのはいいけど、交信状態が悪くて聞き取りにくく、最後にプツリと消えてしまったら、"Oh,he's gone"と言っておわりとか。DJなんかでも、手違いでいきなりCMが流れ始めてすぐに消えたら、「なんだ今のは」とかいってスタジオで爆笑してたりして、ひどいときには「面白いからもう一回やってみよう」とかいって、ゲラゲラ笑いながら遊んでたりするのを聴いたことがあります。
で、なにを言いたいかといいますと、多少のミスがあっても素人である視聴者はそんなに気にしないということです。どーせ無料で見てるんだしさ。7時のニュースが7時きっかりに始まってもらわないと困る、それは俺の人生に重大な影響を及ぼすのだという人は、そんなにいないでしょう。だから、別にそこまでチャンとしていなくてもいいのです。そりゃチャンとしてるに越したことはないけど、それをするためにコストが掛かり、最終的にそのコストが視聴者に転嫁されるのであれば、別にそこまでチャンとしてることに僕はお金を払いたくもない、ということです。
だって番組製作コストって、結局は僕らに転嫁されるでしょ。全部ではないにせよ。
NHKだったら受信料(こちらの国営放送は無料です)にはねかえってくるし、民放だって無料のようでいてそれはスポンサーの広告費に跳ね返り、スポンサーの広告費は最終的には商品の価格として上乗せされるわけでしょ。転嫁されない場合はもっと始末が悪い。つまりは、下請の製作会社やプロダクションにしわ寄せがいくわけですね。「こんな予算で仕事ができるか」という低予算で高品質のものが求められる。だから、現場の皆さんは残業代なんかろくすっぽないまま働かされるわけです。適正な報酬なくして働かされると、労働過多、ストレス過多になり精神失調になって、ある人は、あなたを付けねらうストーカーになっちゃったりするかもしれない。家庭を顧みないから子供がグレちゃって、そのグレた子供達にあなたはハンドバックをひったくられるかもしれない。要するに金は天下の廻り物というのと同じく、ストレスも天下の廻り物であり、なんらかの形で自分にもフィードバックしてくる、と。そこまで考えてみた場合、それだけの犠牲を払ってまで、TV番組はどーしても時間かっきりに始まらないとならんのですか?というと、別にそんなことはない、ということです。これが日本のチャントリズムに基づく、多段階式高コスト構造なんじゃないかな、ということですね。
一般に、日本の「ちゃんとしていたい」欲求は、社会やシステムの有効性や、自我や人格の自立に向けられることが少なく、その分末端の玄人的な職人的技術に注がれるように思います。
封筒に切手を貼るときに位置の正確さ、銀行の日々の勘定で1円の狂いも許さないこととか、スーパーのレジで袋に詰めていく手順の素晴らしさとか、そういう末端の人々の職人意識、プロ意識というのは世界的にも群を抜いて高いと思います。それはそれでとても素晴らしいことだと思います。誇っていい。
詳しくは知りませんが、こっちの銀行なんて毎日集計して帳尻合わせてるとは思えません。まあ、3ヶ月に1回とか、1ヶ月に一回の棚卸みたいな感じじゃないでしょうか。そう考えないと、いつぞや僕のカミさんが近所の銀行で300ドル下ろしたら間違って300ドル預金したことになっていて、かなり経ってからマネージャーから電話があったという事件が成立しませんよね。毎日やってたらその場ですぐ分かるでしょう。しかし毎日やってたらおそらく残業代の方が高くついてたまらんでしょう。毎日絶対数件はミスってると思いますからね。
しかし、日々一円のズレもおろそかにしない厳格で正確な日本の銀行は、一方では数千億円や兆円規模で計算がズレてたりするわけですね。不良債権の残高はいったい幾らなのか?という10年以上前にきっちり公表されてなければならないものが、未だにハッキリしない。政治家(竹中大臣とか)がそれをハッキリさせようとすると、未だに大合唱して反対するという。1円のズレは1日たりとも許さないくせに、1兆円のズレだったら10年経っても許されるという、ここに大きな根本矛盾があります。
個々人においても、日々の細かな仕事はキチンとやるし、それは誇りでもあるのだけど、この仕事をすることは自分の人生にとっていったいどんな意義があるのか?ということになると、途端に曖昧になる。あなたは、何故、今、その仕事をしておられるのですか?それはあなたの人生にとっていったいどんな意味があるのですか?と問われて、「それはですね」と即答できる人がどのくらいいるだろうか。その質問を即答するためには、もっと大きな自分の人生のビジョンが骨太に描かれていなければならないです。しかし、そういうことってあまり考える習慣がない。
さらに大きな社会的システムになると超いい加減になり、もう興味がないとしか思えない。この世の中がどういう仕組みで動いていて、そこにどんな原理が内在していて、どんな問題があって、どこをどう修正したらいいのかというビジョンがある人、すなわち民主主義社会における構成員に要求されるミニマムな条件を満たしている人は少ないと言わざるを得ない。
このあたりは、なんというのか、太平洋戦争の頃からあまり変わってないように思います。大きな戦略がメチャクチャで、それを戦術レベルでなんとか帳尻を合わせようとするけどそれも無理で、だから末端に全てのしわ寄せがいくという。そもそもあの時点でホイホイ大陸に進出してよかったのか、そもそも物量で圧倒的に負けるのにアメリカと喧嘩できるのか?という大きなところは「神州不滅」というオカルト論理で誤魔化してガンガン開戦しちゃう。でもってロジスティクス(食料武器の輸送補給)ということをあまり考えずにどんどん戦線を拡大するから帳尻が合わなくなってくる。南方の島々に送られた国民は、ろくすっぽ食料も武器も無いまま、ヘビやムカデ、最悪の場合は人間の死体すら食べなければならなくなる。そんな状態で勝てるわけないから、そういう場合はとっとと撤退して兵力を集結させるか、さっさと捕虜になって後方を攪乱すべきでしょう。さらにいえば、兵力がまだあるうちに終戦交渉をして出来るだけ有利な条件で戦争を終結させるべきでしょう。でも、作戦はいつもひとつ。「玉砕」だけ。もう、心の底から阿呆かと思いますわ。いや、無理やり死なされた現場の人々ではなく、大本営にいた参謀連中です。彼らこそが日本史上最大の殺人鬼だと思います。またそんな阿呆に権力を持たせるべきではない時に限って、つまりは野党や反対意見の活躍がもっとも期待されるべきときに限って、大政翼賛とかいって全員一致体制になっちゃってるという。
つまりは幾ら小さなところで「ちゃんと」してても、大きなところで「ちゃんと」してなかったら、全ては意味がないわけです。よく言われる例ですが、沈みゆくタイタニック号の中でテーブルの配置換えをしているようなものです。もっと言えば、沈みゆく船の中で、皺一つないようにシーツのアイロンがけをしているようなものです。大きなシステムが狂ったら、あといっくら細かなところで努力してもぜーんぜん意味がない。もう、ハズレ馬券を丁寧に番号順に並べてファイルするようなもんです。
ただですね、僕ら日本人が目先のことについちゃんとしたくなってしまうのは、意味があるから、合理的だから、ではないと思います。「そうすることが好きだから」「そうすると気持ちいいから」やってるような部分があります。いわば生理的欲求であり、いわば趣味でもあります。そして、そうやってキチンとやることで、生きていく上で大事な生活のリズムと節度を整えているという。
写経みたいなもんなんかな、とも思います。写経も、写すだけならコピーとった方が早いですもんね。それをシコシコ手で一字一字写すなんて異様に効率の悪い話なんだけど、そーゆー効率の問題ではないのですね。写しゃいいってものではなく、写す過程で徐々に魂が浄化されていくのが大事なんですよね。
僕らが「ちゃんと」してるのも、このあたりの気持ち良さが一番大きな理由だと思います。とにかく、細かいところはキチンとしていないと気持ち悪い。大きなところは幾らズレていても気にならないんだけど、枝葉末節にこだわってしまうという。そういえば、こういう精神病ってあったような気がしますな。なんていう病名だったかは忘れたけど。
というわけで、趣味でやってるんだから効率なんかどうでもいいんです。効率優先のギスギスした社会とか、効率ばかりが価値ではないとかいいますけど、大きなところで思いっきり効率悪いですよ。というか、本当は効率なんかどうでもいいんでしょう。気持ちいい/悪いが全てという、かなり情緒的な社会なのかもしれません。
そして、この生理的な、言葉悪くいえばやや精神病質的な「心の偏り」に奉仕するために、TV番組は寸分の違いもなく完璧に放映され、山手線は30秒に一台という神業ダイヤで廻っているのでしょう。神業ダイヤで電車を動かさねばならない状況そのものが、そもそも間違ってるのではないかということは余り考えず。そして、コストばかりが高くなる、という。
これも何度も書いてますが、シドニーの有名なハーバーブリッジを車で通ると通過料を取られます。現在3ドル。しかし、これはノースからシティに向かうとき(上り線)だけ徴収されます。シティからノースに向かうときはフリーですし、料金所はないです。最初このシステムがわからず、「え?」って感じでした。日本だったら、料金1ドル50にして、上りも下りも両方料金所を設けると思います。「片方だけ」なんて「いい加減」なシステムは、なんか生理的に許しがたいような気がするんじゃないか。片方だけだったら、有料の方向のときは迂回して別の橋を渡れば結局払わなくていいわけで、それじゃ誰も払わないんじゃないか?って思っちゃうわけです。
しかし、両方に料金所を設けたら、料金所渋滞が二倍になります。ただでさえ混んでいるのに、これ以上の渋滞したら、社会的コストは相当なものになるでしょう。それに、「橋を渡った行った奴はまた橋を渡って帰ってくるだろう」ということで、多くの場合は往復するだろうから、片方で2回分取っておけば全体に帳尻は合うわけです。有料上り線を回避しようと思ったら、結構遠回りをせざるを得ず、それやってると時間的にもガソリン的にも3ドル以上かかるから、そんな無駄なことはをする奴は少ないだろうとも考えられます。だから、片側だけでいい、ということでしょう。
日本のどこかに、こういう「片側だけ徴収」システムをとってる有料道路ってありますか?あんまり聴いたことないですし、ありそうにもない。なぜなら、こういうオーストラリア人的な「大雑把に帳尻があってれば、それで良い」という発想はあまりに日本にないからです。出来る限り完全で公平でないと気持ちが悪いという。いろんな事例を考えて、「それってズルいじゃん」というケースを思いついて反対する。例えば、上り線の料金3ドルは下り線の分も払わされているわけだから、真実上り一回しか使わない人(往復しない人)は二倍の料金を取られているわけで「不公平じゃないか」、一方下り一回しか使わない人は料金を免れるわけで「ズルイじゃないか」って思うんじゃないですかね、日本だったら。
で、そういうもっともらしい不公平論をタテに反対されたら、日本の当局は反論しにくいんじゃないでしょうか。でも、おそらくオーストラリア人だったら、そういう指摘を受けても、「そりゃそうだろうね」と涼しい顔でしょう。確かに不公平もあるだろう、確かにズルイことをする奴も出てくるだろう、だけどそんなのは全体から見たら取るに足らない一部に過ぎない。その一部を是正するために、さらなる渋滞を招くのは馬鹿馬鹿しいことだ。全体のコスト計算で言えば、到底合理的ではないと言って終わりでしょう。この種の取り決めは、あくまでクールでプラクティカルなコスト&エフェクト計算でやっていくべきであり、それは常に完璧ではありえない。部分的に不完全なところが不可避的に出てくる。だから、単に不完全な部分だけを取り出して、それを不完全だと言ったって何の批判にもならない。批判するのなら、その問題が全体を覆すに足るだけ重要な影響を及ぼすことを立証しなければ意味がない。部分的に当然ありうべき不完全さを、ただ単に感情的に「ズルい」とだけ喚いているようなものは議論の名に値しない、と。そういう基本的なコンセンサスが社会全体にありますから、日本的な「ズルイ」批判を受けても、「馬鹿言ってんじゃねーよ」とバサッと切り捨てるでしょう。
日本社会では、この「バサッと切り捨てる」という態度がなかなかとれない。どこかしら「完全でなければならない」というオブセッション(強迫観念)があるから、ミスとか、不完全さを指摘されたら、そこでもう終わっちゃう気がする。だから、完全を期す。しかし、世の中には完全を期してはいけないことも沢山あるわけです。意味のない完全さというものは確かにあるわけです。多少のズレはあろうとも、大雑把に帳尻があえばそれでいいのよという物事は、ほんとうに沢山あります。それを正面から認めてしまえば、日本はどんなに生きやすくコストのかからない社会になるだろうか。
高速道路で敷衍すれば、なんでこちらの高速道路は殆ど無料なのに、日本の高速道路はああも高いのだろうか?という問題があります。それには種々の理由がありますが、例えば、シドニーのM4などの有料道路は料金所が一箇所しかなかったりします。だから、料金所の前で出口で降りて、下を走って、また料金所過ぎたあたりで復帰すれば料金を払わなくて済みます。ズルが出来るんですね。しかも、標識に「料金所前の最後の出口だよ」と親切に書いてくれてたりします。
なんでこんな不公平でいい加減なことをするかというと、もし絶対にズルが出来ないように全ての高速の入り口に料金所を設けたら、途方も無い渋滞を招くでしょう。さらに、設備の建築費もかかるし、料金所の人員の人件費もかかります。一方、料金所を一つにすれば費用もかなり安く済みます。もともとM4の料金なんか2ドル20ですからね。150円くらいです。150円免れるために、一々下に下りて、信号待って、GO-STOPやってたらガソリン代の方が高くつくし、そもそも面倒くさいから、多くの人は料金を払います。その方が得だもん。「絶対にズルできないように」とかやってると、お金もかかるし、それが料金を押し上げる。料金が高くなればもっとズルする人も出てきて、さらに完璧なシステムを作ろうとして、、、とどんどんコストが上がっていくのですね。最初から、「ぼちぼちでいええんちゃうの」でやってた方が、全体にはるかに安く済むし、簡単になる。
このハーバーブリッジ方式は、他にも沢山あります。今での多くの電車の駅で改札がなかったりしますもんね。バスだってキセルしようと思ったらいくらでも出来ますしね。
通貨でも、1セント貨、2セント貨が流通してません。最小貨幣は5セント貨です。昔はあったのですが、面倒だから廃止してしまいました。これも日本的な発想で言えば腰が抜けるようなシステムですよね。セント単位で勘定しているのに、正確に払うための貨幣がないんですから。かわりに何をやっているのかといえば「ラウンディング」です。
つまり、四捨五入ならぬ、二捨三入、七捨八入です。52セントは50セントに切り下げ、53セントは55セントに、57セントは55セントに、58セントは60セントにそれぞれ切り下げ切り上げされます。だから広告などで、19ドル99セントとか載っていても、買いにいったら20ドルとられるわけですね。
これ、でも、考えみたら合理的なシステムですよ。だって、長い人生通算してみたら、切捨てになって得する場合と、切り上げになって損する場合とが数学的確率でトントンになるわけですからね。じゃあ、店の方で最初から値段を切り上げになるように下一桁を3,4、8、9セントにしておけば店の方が不当に儲かるじゃないかという批判もあろうけど、でも物は一個買うとは限らないというか、通例複数個買います。下一桁を8セントに統一しておいても、二個買ったら下一桁は6セントで切り捨てになっちゃうもんね。だから全体で帳尻は合うということです。なお、クレジットなどで買う場合は、記帳だけで済むからラウンディングは行われません。
もちろん、緻密に集計していったらラウンディングの関係で、実際の売買数字と手元の現金とで常に多少のズレはあるでしょう。その日その日のシメで、完璧に切捨てと切り上げがトントンになるものでもないですから、その日は実際の売上よりもラウンディングの関係で多少現金が多くなったり、少なくなったりするでしょう。それが、オーストラリア人には気にならないのだろうけど、どうにも日本人には「気持ち悪い」んじゃないかな。オーストラリアは全員確定申告やりますけど、確定申告用紙の各項目の数字は全て「セントは切り捨て」でやってます。だから、正確にセントまで計算して集計している台帳と、確定申告の数字とでは微妙にズレるのです。ズレが溜まって数ドル以上違っちゃうこともあるのですが、そのくらいだったら「気にしない」のでしょう。
ここが気持ち悪くないのだったら、日本でも一円玉を廃止したらいいんです。最小単位を5円にしてしまえばいいんです。面倒くさいでしょ、財布の中で一円玉がジャラジャラいってるのは。それに1円単位で払うから、レジの支払いでも時間がかかりますよね。でも、まあ、そんな具合にはなりそうもないです。
それに日本の場合は、「一円を笑うものは一円に泣く」という格言があります。すごくミクロな部分に精神性を宿らせ、全ての宇宙観をそこに注ぎ込むかのような発想傾向があります。日本のことわざやキャッチフレーズには、「一」が出てくるものが沢山あります。「一筆入魂」「一字千金」とか、「一事が万事」「一寸の虫にも五分の魂」「大河も一滴から」などなど、ミクロ的、原子論的世界観。広大な宇宙も、膨大な時の集積も、煎じ詰めれば目の前の最小単位であるミクロな「一つ」をいかに大切にするかによって決まってくるという。
それはそれで正しく、大切な教えである場合もあります、もちろん。個々のパーツがいい加減だったら、全体の出来もまたダメになったいきますからね。でも、「一円にこだわって一兆円にこだわらない」という事態が現実に起きている以上、それだけでは片手落ちでしょう。ことわざでいうなら、「木を見て森を見ない」「角を矯めて牛を殺す」という言葉もあるわけですからね。
その意味では僕らはもっと賢くならねばならない。世の中というのは、個々のパーツを磨き上げるだけでは足りないのだということを。それは末端作業員の美徳ではあっても、管理職や統括者の美徳ではない。末端のマネージメントと、本体のマネージメントは自ずと質が違う。より統括的、より上級的マネージメントは、いかに細部を大事にするかではなく、いかに細部を大事にしないかなのだと思います。細部にとらわれず、刮目して大局を見るべし、というやつですな。本体のカナメの本質部分に、いかに遠慮なく切り込んで、心臓をわし掴みにして取り出すような、大胆で、時として荒っぽい発想と行動が必要とされるのでしょう。
そう考えると、僕らはもう少し、いい意味で「いい加減」であっていいと思います。より正確に言えば、チャンとしてなきゃいけない部分と、チャンとしてなくても良い部分、さらに「ちゃんとしてたらいけない部分」とを、ギリギリ考え詰めて分けていくことが望まれるのだろうなと思います。
最後に一点、書くスペースがなくなってしまいましたが、「細部をちゃんとしていたい」という生理的欲求の他に、僕らの重要な精神的特質として、嫉妬による正義観念が発達してる部分があります。「日本人の唱える正義はすべて、一皮剥いたら嫉妬である」というのを誰かが書いてました。まあ、これは日本人に限らず「人類」と置き換えてもいいですが、日本人の場合、そういう部分は多分にあります。そして、日本人の正義は、多くの場合「平等的正義」でしかなく、その平等もアリストテレスのいう配分的正義と均分的正義でいえば、圧倒的に配分的正義だったりします。つまり、僕らの正邪の判断基準そのものが、少しズレてないか?ということであり、このズレがまたコスト高を招いているということです。
なにやら小難しいことを書いてしまいました。説明してたらまた長くなってしまいますので、また機会があれば書きたいと思います。
ということで、よいお年をお迎えください。
クリスマスが終わったこちらでは、既に気分的には新年になってしまっていて、「あ、そっか、今日はまだ去年なんだ」などとワケのわからないことを呟いたりしますが(^^*)。
写真・文:田村
写真は、MarricvilleのNews Agentの店先に所狭しと貼られた格安国際テレホンカードの広告。ガラスの反射で見えにくいと思いますが、「レバノンまで1分18.9セント」など、以下シリア、ザンビア、エストニア、スーダン、カザフスタンなどなど馴染みの薄い国々を眺めて、こちらのマルチカルチャルな雰囲気をちょっぴり味わってください。
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