今週の1枚(02.12.23)
ESSAY/ 高コスト構造分析小論
前回に引き続き、日本の高コスト構造について触れます。今度はもう少し経済的、社会心理的な側面から。
95年に刊行された堺屋太一氏の「大変な時代」という著作があります。そのなかで日本社会のコスト分析をしているくだりがあるでのすが(197頁)、なかなか示唆的です。氏によると、効果別費用分析として、@基本的生産に必要不可欠な費用、A安全対策費用、B清潔費、C手続費用、D責任回避費用、E見栄社交費用、F組織内平等化費用の7つをあげています。
以下氏の論述を引用しつつ進めます。18世紀の末にアダムスムスが既に「現在の人間は、殆どの費用を見栄と体裁のためにつかっている」と喝破しているそうですが、この傾向は、現在ますます盛んですし、日本においては一層顕著でしょう。1949(昭和24年)段階、つまり団塊の世代が生まれた頃、日本では既に餓死者もおらず、生産も盛んになりはじめていたわけで、つまりは基本的な生存と生活は十分出来ていた頃であるが、その当時に一家四人の生活費は家賃と税金を除けば、現在(95年)の物価に換算して、月額7万2000円だったといいます。この例は何度か僕も引用しましたが、今でも月に7万円くらいあったら一家四人はとりあえず食べていけるわけです。現に昔は食べていた。が、今はとてもじゃないけどそんな額では暮らせない。何にそんなにお金を使っているのか?ですね。
そこで出てくるのはA安全費。年金、保険にはじまって、受験で失敗しないように予備校に通わせる、同僚に嫌われないように旅先では必ずお土産を買うとか。オーストラリアにワーホリや留学するのに、「安心料」だからといって、旅行会社や留学業者さんに少なからぬ費用(数十万)のサポート費用を払ったりするのもこの例でしょう。
この点に関連して、日本の官僚の「規格基準主義」と海外の「確率主義」が挙げられています。
規格基準とは、事故防止のために一定の基準を設定するということです。地震に備えて建築基準を設定する、ようなものですね。それは当たり前といえば当たり前ですし、どこの国でもやってることなんだけど、日本の場合、基準を設定したらそこで思考停止に陥りやすい。それが問題である、と。
なにかというと、なんによらず万全の基準というのはありえないから、基準といっても適当なところでコストと確率を考えて「妥協」しなければなりません。例えばマグネチュード8までOKな耐震構造があります。確率的には8レベルの地震は数百年に1回くらいであり、そのくらいレアなものにそこまで金をかける必要があるのかを考え、適当なところで線を引きます。この「妥協」は当然のことで、もしこの妥協を「人命軽視で許しがたい、完璧な基準を作れ」というのであれば、それは不可能であり、そもそも建物なんか建てるなということになるでしょう。だって、大自然の猛威は人間ごときの小ざかしい対策をはるかに上回ります。百万年に一回、マグネチュード20とか30とか日本列島があっさり崩壊するような地殻変動だってあるかもしれないし、現に過去にはあったのでしょう。それまで考えて耐震構造をとかいっても、そんなもん不可能です。だから、一定のところで見切りをしなければならない。
ここまではいいのですが、日本の場合、「一定のところで見切りをして、あとはバクチ、外れたらしゃーないよね」という感覚が希薄です。この「しゃーないよね、死ぬしかないよね」という部分が心理的に受け入れにくい。だから誰かに「絶対大丈夫」と言って欲しがります。そこでお上が登場するわけで、お上が基準を設けたらそれでOKで、それ以上モノを考えようとしない傾向があります。つまり基準さえ守ってれば絶対大丈夫かのような錯覚があるし、絶対大丈夫にするように基準を設けろという錯覚がある。これが異様にコストを押し上げる。日本全体を一律におさめ、しかも錯覚とはいえ「絶対大丈夫」レベルまでもっていこうという基準はかなりハードルが高いものになるでしょう。
そうなるとどうなるか?というと(このあたりは堺屋氏の論述ではなく僕個人の意見です)、二つのことが起きるでしょう。一つは、無意味にハードな基準を守り、コストが高くなるケース。もう一つは基準がハードすぎて結局それを守る人が少なくなり違法建築が盛んになるということです。実際、建築確認申請の図面と、実際建てられた建物との間にズレがある(違法建築)のは、むしろ常識であり、いかにバレずに違法建築をするかが建築会社の腕の見せ所という実態もあるわけです。これは税金実務なんかでもそうです。税法上理論的につめていけば脱税なんだけど、どこまでギリギリ節税っぽく計上するかが税理士の腕の見せ所というのと似てます。もっといえば、ドライバーが、どのあたりでネズミ捕りをやってるかをギリギリ見抜いて、いかに制限速度を守らずぶっ飛ばすかというのも基本的な姿勢では同じです。つまりは、錯覚である「絶対安全」にむけた非現実的にハードな基準を設けると、現場では誰も守らなくなり、実効性がなくなるということですな。
では、堺屋氏が紹介する世界で行われている「確率主義」というのは何かというと、絶対安全の錯覚を持たず、最初から「これはバクチだ」と割り切ってるところにあるのでしょう。じゃあ、その確率をはじき出して、コストを出すのは誰かというと、国家政府以上に重要なプレイヤーになるのは保険会社です。火災保険や損害保険会社が、その建物なりを個別的に徹底的に調査して、リスク計算をして、保険の掛け金をはじき出すわけです。この場合、リスク計算が外れたら倒産ですから、いきおい必死になります。要するに、日本では国家や官僚がやってることを、保険会社が個別契約ごとにやるわけですね。耐震構造とかいっても、それは地盤によって地震の被害が大きいところと少ないところもあるでしょう。本来はOKなエリアであっても、昨今の大開発で地盤が緩んできているところもあるでしょう。液状化が進行しているところもあるでしょう。火災でも、その建物自体は避難路が整備されていても、周囲の建物の混み具合、道の狭さなどから、実際のリスクは変わってきます。だから個別的にできるし、契約更新のときにリアルタイムに計算しなおすことができる。そして、あまりにもリスキーな建物を建てると、建築コストは安くなるかもしれないけど、保険料がとんでもなく高くなるからコスト的に引き合わなくなる。そこに一定の均衡が生じる。
堺屋氏の著述によりますと、日本は官僚主導で世界一厳しい消防法や建築基準をもってますが、実際に統計をとってみると、火災の際の焼死率は世界一高く、大阪市の焼死率は香港の10倍にもなっているそうです。船舶の安全基準は、いくら日本国が厳しい基準を設けても税金の関係でタックスヘイブンのリベリアとかパナマに船籍を移してしまうから何の意味がない。じゃあ世界の船舶をリスクを仕切ってるのは誰なのよ?というと、ロイズ船舶協会などの保険会社だったりします。海洋汚染防止のための大型タンカーの二重底構造も、それを主導したのは保険会社であるといいます。とかく、保険会社は自分のゼニカネがかかってるから、敏感ですし、行動もすばやいし、計算も緻密。
これに対して、最初に全国一律の基準ありきの日本の場合、ましてや身動きの鈍い法律でそれをやってること、非難されることを極端に恐れる役人の保身根性のために、無意味な規制がのさばって、新しい規制が取り入れにくく、個別的対応もできないから、建築や高速道路のコストが欧米の二倍になったりします。同時に、基準を金科玉条のように奉っているから、新技術がでてきたときに対応できない。日本の会社がエアドームを開発し、外国で幾つも起工竣工させた実績をもつにも関わらず、日本だけは許可がおりず、東京ドームを施工するときに300回も陳情を繰り返さざるを得なかったというエピソードがなにかを物語っています。
僕が思うに、これらに通底するのは、日本人の本当の意味でのリスク意識の低さだと思います。これはこれまで何度となく言ってますが、本当のリスク管理とは、リスクそのものを徹底的分析し、そして最後の最後では「これはバクチだ」と割り切ること、腹を括ることです。「絶対安心」なんてものはこの世にありえない。ありえないということをトコトン骨身に染みて認識してはじめてリスク管理ができるのですが、とにかく「危ないのイヤ、安心がスキ」とやってるから、つまりはリスクと対面して考える習慣と精神のタフさがないから、結果として非常にお粗末な対策になる。要するに「縁起でもないことは考えるのもイヤ」といってるだけです。これって知的レベルでいえば”痴呆”としか言いようがないです。「海外で治安が、、、」とか言うのだったら、まず何かあったとき逃げやすい靴を履いておけ、走って逃げれるくらい身体を鍛えておけ、ヒマさえあれば地図を何度も見て道を頭に叩き込んでおけ、そして何よりも他人に助けを得られるように言葉ができるようになっておけ、警察や救急車などその社会のシステムをよく勉強しておけ、、、アンゼン・チアンと念仏唱えているヒマがあったら、ちょっと考えれば幾らでも対策が思いつくはずです。世界中どこいっても、どんなに治安がいいといわれるエリアでも犯罪は絶対あります。
B清潔費用。氏によれば、家庭菜園をやるにも土が汚く雑菌が入るかもしれないから厳重に手袋するとか、そもそも子供に土を触らせないとか、台所が汚れるからそもそも家では料理をしないとか、「清潔」とはちょっとちがうけど、形や色の悪い野菜は出荷しないとか、建物だったら木目を揃えるとか、そういった妙に浮世離れした美意識がはびこってるから(あえて「はびこる」という侮蔑的な動詞を使いますが)、なにをするにもコストがかかりますね。形の悪い野菜を排除してたら、形がいいのがキュウリ3本に1本しかなかったとして、単純計算でキュウリ一本のコストが3倍になります。でも、別に形が悪い野菜でもいいって日本人は沢山居るのだから、そういう人にとっては無駄にコストをかけられることになります。ちなみに、思いつきの私見ですが、野菜は形が悪い方がむしろいいんじゃないかって気も少しします。というのは、野菜クンは、少しでも太陽の光を求めてグーンと伸びていくから結果として形が悪くなるのであって、形が悪い野菜というのはそれだけ生命力に満ちている果実であるともいえるのではないか。だからそういうものの方が生命パワーはみなぎってるのではないか、とかね。
これは美意識にも通じますが、この意識は、日本人の伝統ともいうべき発想でしょう。神道の本質ですよね。「穢れ」と「祓い」 の精神です。潔癖民族日本人がなぜ生まれたのか?というと、ようわからんのですが、多分源流はコレでしょう。この「ケガレ」「ハライ」の意識はかなり上代からあるようです。おそらくは高温多湿の気候から、疫病が常に流行っていたのでしょう。衛生のためには、少しでも疑義があるような物は除去していかないとならなかったのかもしれません。聴いた話ですが、インドネシアだったかな、食器が少しでも欠けたら、そこから雑菌が入るから惜しげもなく捨てるそうです。それに似てる部分があります。
だったら、衛生意識がより求められる、より高温多湿の熱帯アジアの方こそ、神道的ケガレ意識が浸透してなきゃいけないのですが、ぼんやり思うのは、日本の場合、まだ季節によっては湿度も低いですし、高床式建築物のように努力をすればそれなりに清浄な環境も得られたのでしょう。だから頑張ろうと思った。ところが熱帯地方の気候と自然は、ちょっとやそっと努力したからといってどうなるものでもないです。祈ってなんとかなるレベルではないから、いきおい発想がプラクティカルになっていったのかもしれません。まあ、そのへんは死神とか疫神とか稲魂とか、アミニズム、シャーマニズムの世界ですので、ちらっと考えてわかるようなものではないのでしょうが。
ともあれ、日本人の潔癖症は民族的遺伝子レベルにまであるのでしょう。だから、「一回袖を通した」とか、プラクティカルには何ら違いがないようなものでも峻別しようとする。はたまた、「新古車」という、奇々怪々な英訳不能な概念があったりする。ただ、この厄介な潔癖症にとりつかれると、なんでもかんでも異様にコストがかかります。おそらくは、交通事故の物損の賠償費用は、日本が世界一高いかもしれません。調べてないからわからないけど、一ミリ四方の塗料がはげただけで全塗装とかやってる人々ですからねー、そりゃ嵩むでしょうよ。巡りめぐって自動車の任意保険の掛け金も、そりゃ高くなるでしょう。この潔癖思想のおかげで物価が安くなる唯一のものは中古品です。日本の中古車は、こちらの感覚で言えば無料同然というくらい安いですからね。あと、アパートでもなんでも「新築」願望が強いですからね。こっちは「築何年」という表示がありません。というか、そもそも誰も気にしないから、誰も知らないんじゃないかという。じゃあどうするのというと、だから「インスペクション」をするわけです。買う前に調査をするわけですね。売買などの場合は、シロアリ駆除証明というのをプロに発行してもらうとか。
清潔思想で思い出しましたが、ずっとずっと前に星新一氏のエッセイで、「科学の三行知識。生まれてから無菌室で育てたネズミは健康に育つが、無菌室から出した途端30分以内に死ぬ」というのがありました。過度の清潔さは生命力そのものを弱体化させ、奪います。バランスよい生命力を育むためには、適度の不潔さと粗野な環境が必要なのだと思います。殴り合いの喧嘩を一度もしたことがない奴に限って、いざやってしまうと、いきなり殺人沙汰に発展したりするのと似てます。
C手続費用とD責任回避費用。
これは、いわゆるお役所の無駄で冗長な手続きにかかるコストなどが指摘されたりするのですが、これは日本に限らず、どこの国でも一緒でしょう。英語でいうところの、red tape/レッド・テープですね。
ところでふと思いつきましたが、日本で国民総背番号がどうした、住民基本台帳ネットワークがどうしたとかいってたように思いますが、あれ、どうなったんでしょう?最近の事情に疎いもんでよう分からんのですが、要するに国家が国民の情報を一元的に管理したがるというのはどこも一緒なのですが、それにどれだけ歯止めをかけるかが逆にいえば民度だったりするのでしょう。オーストラリアには、戸籍制度も住民票制度もありません。アメリカもなかったんじゃなかったかな。それで別に大して不自由なく、免許証一枚あったら大抵用が済みます。それに慣れてしまうと、本当に戸籍や住民票っているの?という気もします。
それはさておき、これらの個人情報はネットワーク化されることによって、個人のベネフィットはどのくらい増加したのかというのが知りたいところです。素朴に思うのですが、戸籍とか住民票とかそのあたりの基本情報をネットワーク化するのだったら、個々の国民にIDとパスワードあげて、自分で自分の情報にアクセスできてもいいように思います。つまりは、住民票なんかインターネットでダウンロードして、そのままメールに添付して送ればOKというシステムにならんのかな?ということです。
そうなるとセキュリティの問題が出てきますが、そこはインターネットバンキングと同じことでしょう。バンキングの方がより切実にゼニカネに関わってきているわけで、それでやっていけるんだったら別にいいんじゃないかと。そもそもホストコンピューターにデーターがある以上、ハッキングされるのは時間の問題という気もします。というより内部スタッフがこっそり情報を売ったりしてるでしょうが。なにを今更という気もしますね。
また、そもそもアパート一つ借りるのにどうして住民票まで要るのかな?という気もしますね。免許証のコピーで十分じゃないですか?弁護士として不法占拠立退交渉とか訴訟とかやってた立場で言えば、住民票なんかたいした役にも立ちません。免許証の方が役に立ちます。だって顔写真あるし、一定年限で更新しなければならないから情報のフレッシュさはむしろキープされるし。住民票なんか、別に住んでなくなって登録できるし、移転してもそのままにしておけるから、殆どなんの意味もない。唯一本籍地が書いてあるからそこから戸籍をたどっていけることだけど、日本の免許証は本籍地も書くから、これまた免許証で十分という気がします。
でもって、その気休めにならない住民票を求められるから、会社休んで役所までいって、一通600円とかそのくらい払って住民票をゲットしたりしなければならないわけです。インターネットでダウンロードしてプリントアウトしたらあかんの?というかプリントアウトもしないで、メールに添付したらあかんのかしら。
あと無駄な手続でいえば、日本の会議の資料なんかもそうですね。どうせ結論なんか根回しで済んでいるわけだし、儀式に過ぎない場合が多い。さらに、会議っつっても居眠りしてるジジーが多いわけです。それなのに、会社のOLさんなんかが誰も読まないコピーを深夜までサービス残業で取らされたりわけですね。しかも日本的に、ちょっとでもズレたら取り直し。こっちのコピーはすごいっすよ。「これ読めないじゃん」っていうのでも平気で出してきますから。そんでもって、○○常務は老眼だから活字は○ポイント以上とかさ、だから余計にページ数がかかる。そんなのその常務が老眼鏡をもってくれば済む話じゃないかと思うんだけど、それを言ってはイケナイ風土があります。
決済や稟議のハンコも無駄ですよね。個人的には、どんな案件でもハンコ3つ以上必要とするのであれば、それはその部局編成がおかしいと思います。臨戦体制になってない。これがおそらく堺屋氏のいう、無駄な手続→責任回避費用なのでしょう。社員旅行の企画ですらハンコが10個必要なんか、アホかと思いますが、アホなことやってるにはやってるだけの意味がある。こうして皆で、それぞれに多少なりとも意思決定に関与してれば、関西弁で言うところの「イッチョ噛み」してたら、あとで誰も文句は言えないわけですからね。それになにか不祥事があったときに、全員責任者になるわけです。戦後の「一億総懺悔」以来脈々と流れている日本の伝統お家芸である「全体責任=無責任」につながっていくのでしょう。
誰も責任取りたくないから、あとでアレコレ言われたくないから、つまりは「皆でやりましたー、僕だけのせいじゃありませーん」って言いたいから、全員が全てのことに関与しようとする。だから、おっそろしく手続が冗長になる。
私見的補足:幼児退行ジジー対策費用
それと、これは堺屋氏の指摘にはないけど、創業者やオーナーでもないにもかからず、つまりは所詮は他人事であるにも関わらず、会社や仕事が生甲斐の(ほぼ)全てという人も沢山います。それはそれで個人の生き方の問題ですから僕は何も言いません。言いたくなるのは、本末転倒して、てめーの自己満足のために仕事を増やすご仁がまだまだ多いことです。
会社や集団の席次や、その組織の中で自分がどう思われているかがこの世で最も大切なことになってるから、なにか決めるとき、しかもその人の部局に全然関係ない事柄で、非常に些細なことがらであっても、その人を意思決定に参加させないとあとでスネる。「私に一言あってもよかったんじゃないかね」とか言って、子供のようにスネる。だから、無駄なのはミエミエなんだけど、とりあえずその人のハンコももらいに行く。そして、そういう人ほど、「ここで意外な意見を述べて自分の存在感を見せつけよう」とか愚劣な野望を抱くから、せっかく決まりかけたことに無茶苦茶な難癖をつける。その人にとっては、自分が組織内で目立つことが何よりも大切だったりするわけですね。かくして、堺屋氏は書かなかったけど(さすがにあまりに馬鹿馬鹿しいので書かなかったのだろうけど)、こいういった、「幼児退行したジジーをあやす費用」というものが必要になってくる。これがおっそろしく組織の運営を阻害し、本来の目的を損なう。エイズ訴訟のときの厚生省の血液製剤についても、事実が報じられているとおりだとしたら、帝京大の阿部ナニガシという幼児退行したジーサマのご機嫌を官民一致してとってたから、エイズが広がり、死ななくてもいい人達が沢山死んだ。
とかく日本は、エラい人が必要以上にエラすぎます。こっちは病院でも、お医者さんは日本ほどエラくないです。カルテ片手に待合室に出てきて患者を呼ぶのは医者本人だったりします。外来だったら、待合室にズラリと並ぶ患者のところに医師が一人一人廻っていって手早く診察を済ませます場合もあります。野戦病院みたいで結構無駄が少ない。患者にはちゃんと自己紹介をして、How are you?とキチンと挨拶してから診察します。そこらへんの学校の校長さんも、裁量権限は非常に広い反面なんでも自分でやります。来客の応対はまず校長の仕事です。でもって、来客に「コーヒー、紅茶?」と聴くのも校長であり、手馴れた手付きでコーヒー入れるのも校長さん本人です。そのくらいの差だったら可愛いものですが、明々白々に間違っていることでも、エラい人がそういったら誰も逆らえない、逆らったら(機嫌を損ねたら)不利益なメに遭う。つまりはそれだけの権力をエラい人に与えてるのですが、与えすぎです。
以下、E見栄費用、F平等化費用と続くのですが、既に大分書きました。昨日まで全然書くヒマなかったら、早起きして一気にここまで書きました。既に時刻は朝の9時(オーストラリアEST)。早くUPせねばなりません。今回はこのへんで。続きます。次に本当に書きたかったら、堺屋氏の用語で言うところの日本人の「チャントリズム」に触れます。「なんだかわからんけど、チャンとしてなければ気持ち悪い」という日本人独特の生理現象によって客観的にはおっそろしく無駄なコストがかかってるという話です。
ではでは。メリークリスマス、ということで(^^*)!
写真・文:田村
写真は、Vaucluse House
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