今週の1枚(02.12.16)
ESSAY/ やたらお金がかかるのは何故?
もうかれこれ日本に3年以上帰っていません。たまには帰りたいなーと思うこともありますが、なかなか実現しません。ブレーキになる要因はいろいろあるのですが(仕事とか、猫のエサをどうする?とか)、大きな要素としては「日本にいるとお金を使ってしまうから」ということです。とにかく日本に戻るとお金を使っちゃいます。何にどう使ったわけでもないのに、ふと気付くとごそっと減ってる。ちょっと半日出かけてきただけで、1-2万円ぶっ飛んでることなんかザラです。こちらで、ちょっと出かけて気付いたら300ドル使ってたということは滅多に無いです。無くなるときは、それなりにまとまった買い物をしているときです。そして日本でナニゲに消滅する300ドルも、こちらでそれだけ稼ごうと思ったらかーなり大変です。もう、オーストラリアドル1ドル=70円とか言わないで、1ドル=500円くらいになってほしいですね、個人的には。
「息をしてるだけで金がかかる」と言われたりする日本での生活ですが、なんでそんなにお金がかかるのだろうか?物価が高いから?でもイッコイッコ見ていくと、日本の物価もそんなにオーストラリアと変わらないですよ。マクドナルドとかこっちより安いですし、日本には安いファーストフードも沢山あります(立ち食いそばとか)。バスや電車代も、都心をうろうろする分には、特に日本が高いとは思わないです。本やCD代だったら、レート換算でほぼトントン、購買力平価で言えば日本の方がずっと安い。家電製品やパソコン類、そして自動車も日本の方が安い。不動産だって、いまやシドニーの方が東京よりもはるかに高いでしょう。このように一つ一つみていくと、それほど物価が高いわけではないのに、なぜかトータルではこちらに居るときの数倍の勢いでお金を使ってしまうのは何故なんだろう?
理由の一つとして考えられるのは、 「お金をかけずに楽しく過ごす」という選択肢が、日本の場合は相対的に乏しいということでしょう。もっと正確に言うと、客観的にはそういう選択肢は沢山あるのだけど、主観的にそれに気付きにくいか、気付いても実践しにくいという構造があるように思います。
「楽しく過ごす」=アメニティですが、この選択肢の乏しさは、日本に戻るたびに常に感じさせられます。例えば、朝起きて、しばらくベッドの上でぼーっとしてたり、食卓で新聞読んだり、CD聴いたりというなんてことない時間がありますが、そういった時間の「気持ち良さ度」が違う。
この話は前にも書いた記憶がありますが、「気がつけば1日中家から一歩も出なかった」という場合を考えてみましょう。日本の都会の平均的な住まいでコレをやると、なにやら鬱っぽく、ディプレスします。マンションの一室、近所の国道の騒音がサッシ越しにも聞こえてくる。窓を開けたらすぐ隣のマンションの壁。とっ散らかった六畳間、カーペットの上のリモコン、コタツ、、、、ましてや昼間っからCD聴いてビールでも飲んでたら、楽しいというよりも、「俺、終わってるかも、、」と不安になったりします。
じゃあ、同じ事を環境を換えてみましょう。あなたは今どこかのリゾート施設のコテージにいます。開け放した窓からは、エメラルド色の遠浅の海が見えます。コテージの周囲には、したたるような緑で、風までが緑色に染まってしまいそうです。気候は海が近い割にはカラッとしていて特に暑くもない。高い天井にはファンがゆっくりと廻っています。安物だけどよく冷えた白ワインを飲みながら、CDでモーツアルトなんか聴いちゃったりします。「ふーん、これがブランデンブルグ協奏曲ってやつか、聞いたことあるわ」とかつぶやきながら、CDのライナーノーツを読んだりします。音楽に飽きたら、昔の友達に絵葉書を書いたりします。適度に酔っ払ってきたら、そのままベッドの真っ白なシーツの上に転がって、そのままスヤスヤと午睡します。目がさめたら、太陽はもう水平線に沈みつつあります。「あー、今日は一歩も出なかったな」と思いながら、「ちょっと散歩でも」と夕暮れの波打ち際を歩いたりします。
というわけで、「一日中、部屋に閉じこもってCD聴いていた」ということで、やってることは一緒だったりします。でも、気持ち良さ度が全然違うでしょう?同じことやってても、同じようにぼーっとしてたり、昼寝したりするだけでも、心の受け取り方はかなり違います。これがいわゆる「生活環境」というやつなのでしょう。
生活環境が悪いと、平たく言えば、そこに存在してるだけでナチュラルに不愉快になるような環境では、なんかやらなければストレスがたまります。そこに存在してるだけでナチュラルに気持ちよい環境では、別に何もしなくていいです。特にしたいとも思わないはずです。素敵なホリデー素敵な旅やリゾートは、出来るだけ「何もしないで済む」方がより素敵なのでしょう。あれこれ何かやりたくなったり、やらないと間が持たないホリデーやリゾートは完成度においてまだ低いのかもしれません。
というわけで日本の都会の環境は、「何かしないではいられない」環境だったりしますから、勢い予定を作って出かけることになります。「家にじっとしててもしょーがない」という気分になります。しかし、「”じっとしててもしょーがない”と住人に思わせるような家」は、家本来の基本的機能が欠けているとも言えます。ともあれあなたは、そして日本に帰った僕は、外に出かけます。行かなしゃーないって感じです。
外に出かけてどうするかというと、「樹齢300年くらいの大木と、サッカーコート2面分くらいの芝生の公園に自分ひとりだけ」という広々とした空間が待っていることは余りありません。狭い道路を進めば、そこには放置自転車と、自動販売機と、やたら往来する自転車や原付。電信柱には一つ残らず広告が貼ってあり、看板や広告がいたるところにあります。そこには、何故か同じ民族ばかりが、同じような服装をして、たくさん歩いています。すれ違いざま目があっても「やあ」と微笑を交換し合ったりすることはまず無いです。近くに海はないです。近所に山もないです。公園に行くと、芝生は何故かいつも立入禁止です。いい年したおっさん一人でベンチに腰掛けてナゴもうとすると、近所の奥様連中の視線を妙に感じてしまったりします。居たたまれないというほどではないにせよ、今ひとつ落ち着かないので、また歩き始めます。住宅街にいっても何もないので、足は自然と繁華街に向かい、本屋やCD屋などを冷やかします。見ればついつい買ってしまったりします。CD2枚と新刊本1冊で合計7268円でした。おなかが空いたので、近くのファミレスでランチを食べます。くつろぎたいのでビールを一本追加します。窓際の席に陣取って買ったばかりの本を読みます。ちょっとくつろぎます。窓から外を見ると、大通りの交差点が目の前にあり、車両や人々がひっきりなしに行き交っています。そういえば360度視線をどこにめぐらそうが、常に何かが動いています。小一時間ほどしてファミレスを出ます。ランチとビールで1130円でした。それに消費税が5%ついて1186円になります。ここまでの使用金額は、8454円です。ドル70円で換算すると120ドルです。
CDと本を携え家に帰ります。新しい本とCDは、それなりに心を楽しませてくれますが、これだけでは「やあ、今日も充実した一日だった」というまでには至りません。そこで電話をかけて、友達を呼び、夕方から居酒屋に繰り出し、スナックやらカラオケやらやって、タクシーで帰還。居酒屋一人3678円、スナックは友人のボトルで飲んだので3000円だけ、タクシー1810円。合計、8488円。121ドル。
という感じで、僕の日本での一日は過ぎていくでしょう。こんな調子で普通にやってても1日2-300ドルくらい使ってしまいます。これでは、多少マクドナルドや吉野屋がセールをやろうが、百円ショップが隆盛を極めようが焼石に水です。
しかし、これだけ満足できないので、「温泉に行きたい」などという大それた野望を抱きます。そんなことを考え出すと費用は桁違いに上がります。信州のどっかの温泉に行くとします。車でいくとして、往復の高速・バイパス代金約2万5000円。ガス代6500円。宿代は、それなりにしっかりした温泉と料理を出す和風旅館に泊まろうとしたら、カミさんと二人で一泊4-5万円はすぐにいきます。だもんで、ちょっと行ってきただけで1000ドル単位でぶっ飛びます。静かな海辺で磯料理と思って、丹後半島やら瀬戸内出かけても似たようなものでしょう。
ちなみに、僕はオーストラリア滞在8年、CD買ったのはほんの数枚、本も全部で30-40冊くらいしか買ってないんじゃないか。この量と費用は、僕が日本に居た頃の一か月分くらいでしかないです。昔の感覚でいえば、ほとんどなにも買ってないに等しいです。でも結構活字や音楽には飢えてません。買うまでもなく、同地在住の日本人同士の貸し借りで済んでしまったりするからです。毎週喫茶店その他で定期的にチェックしていた雑誌は30誌以上あったと思いますが、こちらに来て雑誌なんか年に一回買うか買わないかです。新聞を宅配で頼んでおけば(半年で1万円ちょいくらい)、事が足ります。毎日雑誌一冊分くらいのトピック別のオマケがつきますし、土曜日版は日本の正月版くらいのボリュームがあります。とてもじゃないけど読みきれないです。
散歩はエクササイズをかねてよくやります。早朝だろうが昼間だろうが、緑の住宅地を20分歩き廻って、すれ違う人は3-4人くらいです。ちょっと気晴らしがしたくなったら、車で10分いけば静かな入り江があったりします。上の大きな写真がそれです。静かな水面と林だけで周囲にひとっこ一人いません。いい気晴らしになります。
「飲みに行く」ことは、8年通算で数回あるかないかです。またアルコール摂取量それ自体が、日本にいるときの10分の1以下に減ってます。そのかわりレストランはよく行きます。どこの国の料理もあります。3000円もっていけば、それなりのクォリティを楽しめます。まだ食べたこともなくて、いつかトライしてみたい料理が山ほどあります。先日、Ashfieldというディープな中国人の多いエリアで、生まれて初めて上海冷麺(コールドヌードル)を食べました。「ほお、こんなものがあったのか」と結構楽しめました。7ドル(500円)でした。知り合いと皆で飲んだり食べたりは、平均すれば週1回、ないし3週で2回くらいありますが、大抵自分の家でやってしまいます。ヘタな店にいくくらいなら、自分の家の方が広々してるし、楽ですし、安いですから。1000円だしたら30センチの鯛の尾頭が買えます。最高級のフィレステーキ肉(和牛に負けないです)が100グラム200円切ります。
これだけ見てたらいかにこちらの方が快適度が高そうですし、そういう話は沢山耳にしておられると思います。しかし、このエッセイシリーズの特性として、こういう当たり前の結論では終わりません。例によって、もうひとつツィスト(ひねり)が入ります(^^*)。
以上の比較は、僕個人についての特殊な場合です。つまり誰でもそうだというわけではない。日本にだって、居るだけで気持ちのいい家や生活環境はいくらでもあると思います。前回の話じゃないですが、日本全土を考えてみればガラガラの過疎エリアの方が多いのですから、決して自然環境に乏しいわけではない。それどころかトータルで比較すれば日本の自然の方が美しいし、アクセスしやすいでしょう。車で20時間ぶっ飛ばしても何も風景が変わらないなんてことはないですしね。オーストラリアなんか、国全体でいえば殆どが砂漠ですし。
また、日本でお金をつかわずにエンジョイできるような方法もまた幾らでもあります。現に貧乏な学生時代はそれをやってたわけです。それに、初めて日本にやってきた外人さんだったら、見るもの全てが珍しいから、そこらへん歩いているだけで十分にエンジョイできるでしょう。逆に、オーストラリアにいたって、お金が幾らあっても足りないような生活様式もあります。それにオーストラリアにパックツアーできたら、何をするにも少なからぬお金がかかることでしょう。だから、単純に日本の方が生活環境が悪いと言うことも出来ないと思ってます。
こういったことを冷静に緻密に考ていっても、それでもやっぱり日本はお金がかかってしまうような気がしてしまいます。
結局、ある環境においてお金をかけずにエンジョイする方法というのは、それなりの知識とスキルが求められるのでしょう。そして何よりも「その気」にならなければ見つからないのかもしれません。だから、その気になるかどうかってのが大きな要素になるのかもしれません。問題はむしろココにあるような気がします。
日本で「その気」になったら何があるかというと、これは沢山あると思うのですよ。まず本なんか図書館いけば無料で閲覧できます。新刊書が少ないとかいう問題も、最近は大分解消されているでしょう。それに、なんで新刊書でなきゃイケナイの?というと別に確固たる理由もないんですな。気をそそるような絶妙なネーミングと綺麗な装丁の本が、書店でこれ見よがしに平積みされてるからなんとなく欲しくなってるだけの話じゃないんですかね?これがもし、カバーを外され、地味に書架に並んでたら読みますか?「読みますか?」と過去の自分に問い掛けてみると、「ああ、多分読まないかも」と答えるでしょう。だから購買意欲を刺激されてるだけじゃないかな?「本当にキミはこの本が読みたいのか?」と問い詰めたい、小一時間問い詰めたいってやられたら(*知らん人はわからんギャグでごめん)、けっこうあやふやなんですよ。ちょっと立ち止まって考えてみたら、読もう読もうと思って読みそびれてきた古今の名著はいっぱいあるわけですね。大人になった今こそ、じっくり味わえるでしょう。
というわけで近所の図書館に行きます。「おお、こんなところに図書館なんてあったのね」と思いながら入ります。その図書館のある敷地には戦前から焼け残っている古い樹木が鬱蒼としていて、ちょっといい感じです。建物は古い時代の洋館で、押し上げ式の窓に天井が異様に高かったりします。書架をめぐって本を抜き出し、ガランとした閲覧室にいきます。今時分だったら、初冬のやわらかい陽射しが窓ガラスから音もなく入り込んでいるでしょう。テーブルに広げた本のオフホワイトの頁には、枯葉を落とした梢のシルエットが静かに佇んでいることでしょう。いいじゃん、そういう時間。素敵じゃないですか。しかも、無料。
市役所とか公民館とかいけば、結構無料かそれに近いくらいの低廉なお値段でいろいろな文化的な催し物をやってるでしょう。いろいろな民間団体や美術館などで、無料のイベントをやってます。静かに、地味に。例えば、ちょっと調べただけで、今現在、僕の実家のある京都では、堀川今出川の京都市考古資料館で「公家町の暮らし」展を無料でやってます。堀川今出川って言えば、僕は学生の頃3年暮らしていましたよ。でも、京都市考古資料館なんか知りませんでした。開設は昭和54年というから、僕の居た頃からあった筈です。でも、あの頃の僕は馬鹿だったから、そういうものに興味なかったんですよね。餃子の王将の○○店の天津飯は美味いとか、そんなことには精通してましたが。
また寺社仏閣ではあれこれイベントがあります。そこらへんのお寺でも拝観無料ということは幾らでもあります。そんなフリーなお寺でも、それなりに日本庭園があったりしますし、あんな庭園、自分で作って維持しようと思ったら億単位の金がかかります。そんな贅沢なものが無料で見られます。いつぞや奈良の古いお寺にいったときは、なにかのお祭りで雅楽やってました。雅楽なんか見るのは生まれて初めてで、ライブで見ると想像以上にカッコよくて感動しましたが、これも無料。
総じて言いますと、日本で僕がやっていたエンジョイ方法というのは、ゆっくり立ち止まってどうやったら豊かな時間が過ごせるかと考えることもせず、暇つぶしの延長みたいな、刹那的なものだったりするのです。だからお金使っちゃうんですよね。楽だから。コンビニエントだから。「文化のファーストフード」ともいうべきものに毒されている部分ってのはあったと思います。
「古池や 蛙とびこむ 池の音」という芭蕉の有名な俳句があります。
これもですね、現象だけ捉えてみたら、地味な水溜りみたりみたいな池でポチャと音がした、というただそれだけのことでしかないです。文化的ジャンクフードに毒されてしまった目には、「こんなとこ居たって詰まんなーい」という地味なロケーションでしかないでしょう。ましてやポチャンなんて音が聞こえたかどうかも怪しい。でも、芭蕉は、それに面白みを感じ、それをモチーフにしてアートにまで高めたわけですよね。
誰かの言葉だったと思いますが、ある物事が客観的に面白いとか面白くないなんてことはありえない。それを面白がれる人間と、面白がれない人間がいるだけだ。全ては受け手の感性の問題なのだ、と。感性が鋭い人には、単なる「地味」が「滋味」になるんでしょうね。味覚と同じで、いわゆる高級魚といわれる瀬戸内の白身魚の「野趣と典雅さが絶妙に融けあわさった味わい」なんてのが分かるには、それなりに舌が肥えてないとダメでしょう。マクドナルドのフィレオフィッシュしか食べてなかったら、その差なんか分からんでしょう。タルタルソース漬けだもん。
友達と会うにもですね、別に馬鹿の一つ覚えみたいに飲みに行かなくたっていいわけですよ。喋るだけなら「公園デート」でも全然構わないんじゃないか。電話かけて、「おう、久しぶり!なあ、今度寺めぐりせえへん?奈良にいい寺あんねん」とやったっていいわけですよね。以前、野郎ばっかり3人で京都大原三千院に出かけたことがありますが、なかなか気分が変わっていいもんでした。
そういうことをツラツラ考えるに、日本でお金がかかるのは、一概に物価が高いからだけでもないし、また生活環境が極端に悪いわけでもないと思うのですよ。日本で働いてたら、なんだかんだで小金はあるし、忙しいから考えるのが面倒だし、、、ということで、ついつい簡単なジャンクパターンにハマッちゃうんじゃないかと。コンビニとCD屋とファミレスと居酒屋という、ね。間違っても考古資料館なんか入ってこないという。オーストラリアに比べて簡単に暇つぶしが出来ちゃうんですよね。至れり尽せりだったりするし。
あとやっぱりそれだけ日本のマーケティングは巧みだということもあるのでしょう。あのテ、このテで購買意欲を刺激してくれます。商品のパッケージも綺麗だし、ネーミングセンスでくすぐってくれるし。その気にさせてくれるという。ちなみに、日本のスーパーってきれいですよね。美しく陳列してあるし。日本のスーパーって、日本人の身長にあわせて棚が低いですし、見上げなければならないような商品はないです。こっちのスーパーはもう工場の倉庫みたいですからね。身長2メートルくらいないと届かないようなところにも平気で置いてあるから、棚をよじ登ったりもします。陳列通路もやたら長いです。30メートルくらい歩かないと次の列に行けない。そこに子供3人くらい乗れそうな巨大なショッピングカートをゴロゴロ押してスーパー中を探し回ったりすると、うっすら汗ばんだりします。またカートがボロかったりして、車輪がヘタっていてほっておくとアサッテの方向にズレてってしまったりするから、真っ直ぐキープさせるためにはそれなりの腕力が必要。で、商品も平気で欠品してますし、ヘタすれば2-3週間品切れのままが続きます。
一方、じゃあ、なんでオーストラリアだとゆったりするのですか?というと、まあそういうカルチャーがあるという背景はあるにしても日本人の場合、単純に比較できないもっと特殊な要素があると思います。ばっと思いついても幾つもあります。例えば、、、
@そもそも日本人がオーストラリアに居る場合(来たくて来ている場合)、大なり小なり「ゆったり」したものを求めてきている。日本にいるときとは、そもそもの気構えが違う。
A外国に居るというだけで十分にハレなので、何を見ても退屈するということがない。別にこれ以上物を買わなければならないほどヒマではない。
Bオーストラリアでも購買意欲を刺激するようなマーケティングは勿論やられていますが、多くの日本人は英語がイマイチ不得手なので、そもそもそういった広告文句を読まないか、読んだところで刺激はされない。例えば、"spoiled yourself"とか"indulgent"とかいう広告的殺し文句を読んでも意味がわからない。わかっても「ああ、いいなあ」って実感が湧いてこない。
C観光産業以外、そもそも人口割合でいって無視しても構わないくらいの日本人(=シドニーでいえば在住日本人比率は400人に一人しかいない)を相手にしたマーケティングなんかやるわけがない。
Dお金使いたくても使う物がない。家電製品は日本よりも遅れてて高いし、買ったところで240Vだから日本に持って帰れない。CDも邦楽なんかあるわけがないし、洋楽CDは輸入版と同じく歌詞カードがついてないから、どうせ買うなら日本でと思ってしまう。雑誌や本は、これ以上英語を読むのは苦痛だから勉強目的以外には買わない。
----などなど、だからお金がそんなにかからないって部分はあると思います。
逆にいえば、今度日本に帰るときは、事前に周到な準備をしようかと思ったりもするわけです。なんとなく帰ったら馬鹿使いしちゃいますからね。築地や黒門市場の見学&散策とか。事前に天平白鳳文化の生成と発展を勉強していってから寺社仏閣を巡るとか。以前聖徳太子を調べまくったことがありますが、基礎知識があってから見に行くと全然面白さが違いますから。
ただ、今回は触れなかったけど、日本の場合、本気でエンジョイしようと思ったらどうしようもなく高額でそれを阻害するものがあります。それは移動費用の高さ、そしてバックパッカー系などの安宿の少なさです。日本でラウンドするとお金がかかるのですね。高速料金を全線無料にすること、一泊1500円以下でしかも女性一人が安心して泊まれる宿が日本全国で少なくとも1000施設以上あること、この2点が実現できるかどうかで、日本旅行もかなり違ってくると思います。オーストラリアでは当たり前に実現できていることがなぜ日本で出来ないのか?これを言い出すと長くなるので、また別の機会に譲ります。
写真・文:田村
写真は、ウチの近所。地名である Lane Coveの”cove”が「入り江」という意味であることがよくわかる一枚
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