今週の1枚(02.12.02)
ESSAY/ NEWS と OLDS
ついに12月に入ってしまいました。師走です。今年もあとわずかです。でも、ここ、暑いオーストラリアでは、ぜーんぜん実感がありません。滞在8年目にして、まだ実感がありません。今このくだりを書いている夜の8時にしてまだ外は明るいです。雨上がりの空に浮かぶ雲が、残照のオレンジと宵闇の青色とに染め上げられていきます。庭にたたずむと、木々の隙間をぬって、おそらくは海から運ばれてきた涼しい風が吹き抜けてゆきます。ああ、さわやかだなあ。、、てな感じで、気分は初夏の林間学校。どうしたって、シワスという、「おー寒、あー忙し」×100みたいな感じになるわけがないです。
しかし、「忙しげ」という部分ではかろうじて一致するところもあります。こちらはクリスマス前の商戦で、毎日毎日ポストに新聞の折込に、どかどかとチラシ広告が入ってきます。道もすでに混みはじめています。毎年のことながら、「なんじゃ、こりゃあ」ってくらい混みます。
で、クリスマスホリデーに入る20日過ぎにガタンと車は減りはじめ、25日のクリスマス当日は、町はさながらゴーストタウンになります。気味が悪くなるくらい誰もいなくなります。エイリアンに侵略されて人々が死に絶えたSFの世界になります。そのゴーストタウンぶりは、以前エッセイ抜きの写真集時代の「今週の一枚」で特集したことがあります(2001年1月1日)。一枚だけここに持ってきておきましょう。右の写真です。誰もいないQVB。こんな風景滅多に見られませんよ。
さて、オーストラリアの近況ですが、あんまり最近注意してニュース読んでないのでよく知らないです。これは日本のニュースについても同じです。つまりはニュース自体あまり読まなくなったという。ニュースというのは、どうも、注意深く読みたくなる時期と、どうでもいい時期とがあるようです。僕も、いっときニュース漬けになってた時期がありました。オーストラリアも、日本も、かなりチェックしてましたし、ニュース解説や論説なんかも読みふけったりしていました。でも段々読まなくなってしまった。
どうしてなんだろう?と振り返って考えてみますと、大体アレですね、自分の生活が煮詰まってるときってニュースをよく見ますね。例えば永住権とってこっち来たけど、さて何しようか、HPでもやりましょか、開いたけれどしばらくは閑古鳥、、、あーあ、、みたいな時期に良く見てましたね。それと、日本を離れてオーストラリア行くぞと密かに思ってた頃もよく見ました。そんでもって、「おお、世の中ここまできてるぞ」「こんなにヒドクなってるぞ」と一喜一憂するわけですが、自分の進む道にイマイチ確信が持てないとか、確信はあるのだけど実体が伴わないのでソコハカとなく焦っているとか、どーんと進みたいけどちょっと不安もあるという状態のときって、なんらかの「外力」が欲しいんですよね。
人生を大海原を船で進んでいるようなものだとすれば、自力でガンガン波を蹴立てて進んでいるときは自分のことに忙しいです。やれ、燃料は大丈夫かとか、波がくるから進路を変えようとか、そろそろメシの支度をせねばとか忙しい。しかし、ベタ凪になって止まってしまったり、トロトロ進んでるときって、「追い風こないかなあ」と周囲を見渡したりします。この周囲を見渡す行為が、ニュースを見る行為になるんじゃないかと思うわけです。
会社辞めたり、日本を出たりするときとか、ちょっと不安だからいろいろニュースを見て、「みろ、日本の終身雇用制度は完全に崩壊してるぞ」「おお、ここでもまた地獄のリストラだぞ」「このままだったら日本はダメだぞ」と、自分の行為をジャスティファイするネタ、すなわち「追い風」を探すという深層心理があるような気がします。はたまた、別に特に何をする計画もないのだけど、「うー、このまま老いていっていいんだろうか?」とモヤモヤしてるときとか、自分では変えられないから、外の力でなにかドーンとブレイクしてくれないかなって思ったりするんじゃないだろうか。
ニュースというのも、営利ビジネスであるメディアが配信するわけで、メディアも最終的には「客商売」だから、お客さんが望んでるニュースを届ける。つまりは部数や視聴率が取れそうなものを率先して流す。だから、ニュースの傾向(どんなニュースを選んで流しているか、どういうトーンで切り込んでいるか)を見ていると、逆にその国のお客さんたちはどういうものを望んでいるか、さらに進んで彼らはどういう状態にあるかが分かるんじゃないかという気がします。
というわけで、いまちょっとインターネットで新聞や雑誌系のサイトをパラパラ見てきた感じで言いますと、「止まってる」って感じです。もう8割くらいはどーでもいいような記事ばかり。今日本で何が起こって、どちらに向かっているのかということが良く分からんです。妙な小康状態ですね。10年前はバブル不況が深刻化して、絶望も希望もないまぜになってて、それなりに動いてたような気がします。それが期待しては落胆しを繰り返していくうちに、そもそももうそれほど期待もしなくなって、ドツボではあるけど、まあそれほど生活も悪くないからいいんじゃない?みたいな感じ。不気味に平和ですねー。
もっとも目に付いたのは竹中バッシングで、竹中大臣が銀行の不良債権の早期処理をガンガン進めようとするのに反対する政財界がいろいろ言ってるという。バブル崩壊以降十数年、いまだに「不良債権」なんて単語が飛び交ってること自体スゴイことです。そして天文学的巨額の税金を投じて「気休め」をしつつ、まだ全然解決してないというはもっとすごいことです。日本と同じ時期にバブル崩壊になり、処理を1年足らずにさっさと済ませ、それから今日まで連続13年好景気でまたまた鬱陶しいくらいバブルの真最中のオーストラリアにいますと、十数年前の仕事をまだやってない、やっとこさやろうとなったら皆で反対しているというのは何なんだ?って感じもします。
もし竹中大臣がやろうとしてることが出来てしまったら、いっとき日本は悲惨な症状を呈するでしょう。銀行もまた淘汰されるでしょうし、大企業も結構つぶれるかもしれません。だから中小企業の連鎖倒産も凄まじい数になり、失業者や増えるでしょう。ローンを抱えた人々などから自殺者も増えるでしょうし、一家離散も増えるでしょう。そこに外資が乗り込んできてあれこれ食い物にするでしょう。でもねー、やるべきでしょう。全日空に相当するアンセット航空を結局救わず倒産させたオーストラリアに住んでるとそう思ったりします。こっちでは潰れない会社なんかありえないというのが常識ですし、ましてや一生安泰なんか職場は絶対といっていいくらい存在しないわけですし。でも、日本に比べればのんびりハッピーにやってるもんね。
だいたいちょっと失業したくらいで不幸になるこたあ無いです。死ぬほど追い詰められることも、本当は無いです。そんなこといってたら世界中の国々の人達は皆さん自殺してます。バブル過ぎるほどバブルのオーストラリアだって、失業率はまだ日本よりは高いです。日本の幸福/不幸のフレームワークそのものが、(僕から見たら)歪んでるんだから、直したらいいと思います。金が無かったら破産したらいいです。他人の目なんかそんなに気にせんでいいです。どうせ自分が思ってるほど他人は自分を気にしてないんだし。
心理学でいう延長自我でしたっけ、自分の自我の外延。自分の服とか、自分の持ち物とか。自分の肉体ではなく、自分そのものでもないんだけど「自分」として感じられる領域。それが日本の場合、社会や対人関係に広がりすぎてるように思います。他人の目に写る自分まで自我に含めてたら、そりゃ大変ですよ。亀が手足を引っ込めるように、無駄に広がりすぎた自我をひっこめて、本当にソリッドな自分の肉体とその周囲にまで縮めたらいいです。破産しようが、クビになろうが、人に何言われようが、別に手足チョン切られるわけでもないし、あなたの心臓はいつもと同じように動いているし、あなたの筋肉も歯も髪の毛も、何一つ傷ついても、失われてもいない。守る範囲が広すぎると、どうしても防衛一方になるし、あちこちでダメージを被るし、身軽に動けなくなる。もっと身軽になって、朝起きて、自分の手足がちゃんとついてることを確認したら、それでOKくらいに思ってたらいいんじゃないかと。そのうえで、どういう幸福を自分で作っていくかだと。
そこまで一回とことん原点まで戻った方がいいと思います。そこまで原点に戻った人々が作る社会は、地に足がついてます。人々はそう滅多なことでは傷つきませんし、不幸にもなりません。だから思い切った改革もできるでしょう。思い切った改革をすれば目に見えて世の中が変わりますから、見ていて面白くなるでしょう。面白ければ興味もでるでしょうし、さらに変えていくパワーも出てくるでしょう。だからますます改善が重ねられるでしょう。要するに社会がもっと身軽になるでしょう。
本当は一回そこまで落ち込んだ方がいいと思うんですけどね。そりゃ、そういうことがどうしても出来ない人もいるでしょう。そこまで思い切り良く変われない人もいるでしょう。そういう人々は変化に飲み込まれて溺れ死ぬかもしれない。溺れる人々だけを見ていれば、それは可哀想ですし、胸も痛みます。でも、あえて言いますが、それは「仕方の無いこと」だと。適者生存は自然の摂理だと。ただ、まあ、変わりたくないって人が日本人の過半数を占めていたら、それはもう民主主義ですから、これまた仕方ないですね。自由だけど厳しい生活と、不自由だけど豊かな生活とどっちがいいか?ですよね。
あと、もし本気で銀行をぶっ潰してクラッシュを起こすのだったら、大量に発生する失業者や生活困窮者のために安全ネットを張っておくべきだと思います。例えば、企業(自営)倒産によって失業したことを証明したら、前年度所得を前提とした公租公課(健康保険料とか住民税)の2年間の無条件免除が受けられるとか、住宅ローン返済の2年間モラトリアム(その分は国で保証)、失業保険の給付額を減らすかわりに最大3年まで延長すること、扶養家族の国公立大学高校などの学費免除、奨学金制度の原則無条件給付、託児所の大幅増設、失業保険の給付条件として月に一定日数老人介護などのボランティアをすることなどなど。要するに、貧乏しやすい社会にすることです。これによって国の支出は数兆から数十兆円規模になり、財政は大幅に赤字になるでしょうけど、それでもやるべきでしょう。今みたいにダラダラ赤字国債発行して、銀行に公的資金を注入してるくらいよりも意味があると思いますから。
いずれにせよ政府財政を立て直すことと、景気を良くする(その前提として土地を耕すように創造的破壊をする)のとは矛盾します。
こんなもん誰が考えたって矛盾します。どっち犠牲にしてどっちを先にやるかですね。そして、破壊を選ぶ以上、「そんなことしたら壊れるぞ」と批判するのは筋違いというか批判になってないと思います。「痛みを伴う本当の改革」ってことで小泉さんが出てきたとき賛同しておきながら、いざやろうとしたら「痛いからヤダ」といってるようなもんだと。
なお、ごく個人的に暴論を言わせてもらえば、日本の今ある銀行は全部潰れてもらっても構わないし、どっちかといったら潰れてほしいです。個々の実直な行員さんには何の恨みはないのだけれど、アホなトップを引きずり下ろせなかったキミタチにも責任の一端はあると思うし。バブル以前から勘定すれば15年以上、過剰融資だ、貸し渋りだ、公的資金だなんだと日本の足をコンスタントに引っ張りつづけてきた銀行も、そろそろ居なくなってくれないか。キミらが居なくなっても、またいくらでも新たに銀行を作る人々はいると思うから。
なお、余談ですが、オーストラリアの銀行に対しても結構腹に据えかねるものがあるから、オーストラリアの銀行も潰れていいです。2チャンネル的に言えば”逝ってよし”です。だいたいこのネット時代に銀行なんか本当に必要なんか?決済機能だけなら証券取引所みたいな公的機関があればいいんじゃないのか。預金だって、普通の預金だったら郵貯で十分。貸し付けにしたって、銀行以外にいくらでも貸してくれるところはある。利子が欲しかったら、投資会社があればいい。イニシエより「天気のときに傘を押し付け、雨が降ったら取り上げる」と言われ続けてきた銀行って、本当に必要なんだろうか。
なおオーストラリアでは、銀行があまりに極端なリストラをやり、支店の統廃合ばかりやってるので、オーストラリア国民(特に隣の町の支店まで100キロ以上あるような田舎エリア)はかなり頭にきてるようです。支店をつぶされたエリアの人々が、「もう俺らで銀行をつくったる」といって、本当に作ってしまった例もあるくらいです。
ニュースを読まなくなった話でした。
あと、ニュースを読まなくなったのは、「あんまり意味ないな」と思ったこともあります。あまり細かいニュースを追いかけていると、木を見て森を見ないようになってしまう。
一つの小さな記事に、全体の大きな流れの兆しのようなものが窺われることは、確かにあります。それはそれで否定できないのですが、同時にそれは万能でもない。針小棒大に考えすぎない方がいいのかな、とも思います。例えばある事件やある傾向が起こったとして、そのことをもって「これからの時代はこうなる!」という具合に結論を急いだ話が非常に多いのですね。それだけ読んでれば、「なるほど!そうか、これからそうなるか」とか僕も思ったりしたのですが、あれから数年、ちっともそうならないってこと山ほどあります。だから、「全然そうならないやんけ」という気にもなってくるのですね。アテにならないとまでは言いませんが、あまり針小棒大に考えない方がいいのかなと、セーブを利かせるようになりました。
それにNEWSというのは文字通り「新しい話」なのですが、世の中NEWS=新しいことだけでなりたっているわけではない。僕らの日常を省みてもわかるように、そんなに新しいことなんか起きません。同じ場所に寝泊りして、同じくらいの時間に起きて、同じように洗顔し、同じ職場にいき、、、、「これは新しい!」なんてことはそうそう起きません。だから、日本中で生起している出来事の99,9%はNEWSではなく、OLDSだと思います。「相変わらず〜してます」ってやつです。ワーホリや留学でオーストラリアに来た初日くらいのものです、「全てがNEW」という状況は。
世の中の圧倒的大多数の物事が「相変わらず」で成り立っているとしたら、まず数で勝る「相変わらず」を知る方が先決なんじゃないかって気もするのですね。相変わらずというのは、その世界や業界の人にとっては常識でしょうけど、それ以外の人にとっては全然わかりません。遠洋マグロ漁業で、いまどういう魚群探知機をつかってなにをどうしているのかなんて僕は全然知らない。長野県で野沢菜の加工販売をしている地元企業のAさんがどういう仕事をしてどうやって生計を立ててるのか僕は知らないし、鬼怒川温泉で旅館を経営しているBさんの日常を僕は知らない。
それを知ったからといって直ちにどうなるものでもないのですが、でも、そういうことを知る方が意味があるんじゃないかと思ったりもします。なぜなら、まず世の中はどうなってるのだ?ということを、ある程度正確に知らないと、何か出来事が起きた場合、これからどうなる?という予測もつかないだろうと思うのです。また自分の将来の身の振り方を考える場合でも、この社会のことを知ってなければ考えようがないでしょう。だから、断片的で一過性のNEWSよりも、少なくとも同じくらいにはOLDSにも気を配っていいんじゃないかと。
もう一点、NEWSといいつつOLDSだったりする報道も多々あります。例えば、政治家が汚職をしましたとか、癒着があります、談合があります、お役所の硬直的な取り扱いが不正義を生んでます、、、などなどは、昔っからある話で、別に今に始まったことではない。かなり前ですが、大蔵省との連絡役として各銀行がMOF担を設けてアレコレやらせていたことが問題になりましたが、そんなの昔っからあったわけです。別にNEWSでもなんでもなんでもない。僕ですら知ってたくらいだから、日本でビジネスマンやってたら常識みたいなもんです。ただマスコミの主役として扱われたのがNEWなだけです。
それに特に三面記事について思うのですが、個別的な事件をいかに取り上げて詳細に報道しようとも、それがどうした?So what?という物事が多いです。要するにただの野次馬的興味でしかないこと。例えば、和歌山のカレー毒殺事件とかいっとき話題になりましたけど、あれを知ることであなたの人生でなにか役に立ちましたか?あなたが何か向上しましたか?将来の日本を予測する重要な資料になりましたか?なりませんよね。どこまでいっても、「そーゆーことがあった」というだけです。そんなもん知らんでいいですし、そんなニュース読むだけ時間と脳細胞の無駄遣いです。どうせ旬が過ぎたら皆忘れるんだし。
今、新聞サイトをみたら、トップ記事が「愛子様、一歳に」とかいうものでした。これもNEWSじゃないです。生まれて一年経てば一歳になるのは当たり前だもん。
総じて思いますに、僕が知りたいことはNEWSという形では登場しそうもない、するとしても非常に少ないし、またわかりにくい形で出てくるんじゃないかということです。それは、ある程度取材に時間もかけて、ボリュームとしてもかなりまとまった調査報道であったり、優秀なジャーナリストが長い年月掛けてまとめあげたルポタージュであったりします。そのうえに反対派、賛成派それぞれから同程度且つ同ヴォリュームの論説と批判。
つまりNEWSになる以前の99%を占める「相変わらずの日常」を丁寧に説明してくれて、なぜそうなったのか、そうならざるを得なかったのかという歴史的経済的必然のようなものも説き起こしてくれて、そのうえでNEWSとなるべき出来事のアンチ・センセーショナルな価値的に中立な客観的な説明、さらに今度は主観バリバリの個々の意見(それもバランスよく複数)、これらがセットになれてはじめて「わかったような気がする」というレベルになるのだと思います。まあ、本当のところは当事者の立場に身を置いてみないと何もわかってないのでしょうが、とりあえずのレベルまではいけるだろうと。そういうものが欲しいのです。
そしてそうして「わかったような気がする」分野をいくつも積み上げて社会全体がボヤヤンと見えてくる。今度はそれに、100年単位、1000年単位の歴史的認識を重ねあわせ、現在の位置を考え、そしてはじめて「将来こうなる」というのが多少なりとも語れるのだと思います。でも、それはNEWSという形ではあまり望みようもないです。
NEWSも速報性が命ですが、前に別な個所で書いたように、僕はそんなに速報性が大事だと思ってません。地震の被災者になって、食料の配給の場所がどこかとか、そういう場合だったら速報性は必要ですけど、ノーマルな日常においてはもうちょっと巨視的な情報が欲しいです。時々刻々と報道するのも大事だろうけど、結局それはどうなって、その結論は今までの経緯からしてどう位置付けられて、さらに大きな視点にたったときどういう問題点が浮かび上がるのか、です。
たとえて言えば、ある日に行われた巨人阪神戦で、1回の表が終わって阪神無得点で、5回の裏時点で3対2で阪神が勝ってて、8回の表に巨人の先発投手が降板して、、、という時々刻々の情報も、それが好きだったら意味がありますが、そうでなければさして意味が無い。最終的にその日にどっちが勝ったのかが分かればいいって感じでしょう。さらに、その勝敗によってペナントレースの首位争いがどういう展開を見せて、そしてそのシーズンどこが優勝して、なぜそこが優勝したのかという分析になり、日本のプロ野球ってこれでいいのか?という問題意識になり、どうして日本人は野球が好きなのかって話になり、、、と。まあ、そういう具合に、話が巨視的になればなるほど、自分の知識や見識を培ってくれる。2002年○月○日の3回表でどっちがリードしてたかなんて情報は、過ぎてしまえばほとんど無価値になる。
結局、今のニュースの効用というのは、日常生活における「話のネタ」の提供というのが一番大きいのかもしれません。「○○では○○だってー」「あ、ほんとー」みたいな感じのものですね。
オーストラリアのニュースも基本的には似たり寄ったりだと思います。特に民放TVの夕方のニュース番組は、スポーツ新聞がそのままTVになったような低次元のものが多いです。ヤラセもバリバリやってるし。娯楽としてのニュースですね。ただ、人々の安直なセンチメンタリズムをかきたてたり、くだらない差別を意識を助長したり(アジア人を見たら犯罪者と思えみたいな)、ニュースというよりは、ほとんどデマゴーグに近い部分もあります。この種の番組や、デイリー・テレグラフなどのタブロイド系新聞、さらにアラン・ジョーンズあたりのbullshitなモーニングDJなんかを聞いていますと、平均的なオーストラリア庶民というのは、相当アタマが悪いんだろうなと思わざるを得ません。
ただ、こういうアホの構成割合が多いにもかかわらず、比較的マトモな社会を作って維持しているって部分が、すごいなと思うところだし、逆に学ぶべきところだとも思います。
なお、オーストラリアの昨今ですが、テロ問題とそれに波及したイスラム系の人々へのバッシングなんかが問題になってます。まあ、もともとはアメリカが大人気ない振る舞いをしていることに端を発し、さらにいえばアホな大統領を選んだということが全ての始まりという気もします。それを、オーストラリアもよせばいいのにアメリカべったり追従で、「御用があったら言ってください、いつでも軍隊出しまっせ」なんてやってたりします。このアメリカべったりぶりは、日本の対米政策の比ではないです。日本なんてまだまだNOって言ってる方でしょう。まあ、最近はあまり多くを期待されてないから摩擦も起きないといったところでしょうが。
でもって、バリ島の爆破事件で多数のオーストラリア人が巻き添えを食い、さらにオーストラリアもテロの標的にされているという情報があれこれ新聞を賑わしています。が、正しくも新聞のコラムで誰かが指摘してたように、「気をつけましょう」とかいわれたって、こんなもん気をつけようもないよね。テロというのは意表をついて不安に陥れるのが本来ですから、皆がすぐに気がつくようなことだったらやらないともいえるわけです。ただ、まあ、オーストラリアでは結構ナーバスになってるようですって、自分で町を歩いた実感では全然いつも同じですけど。それよりもクリスマス渋滞をなんとかしてくれって感じです。あと、イスラム教文化の女性の頭からかぶるヴェールがけしからん、あそこに武器を隠し持ってるかもしれないから法律で禁止すべきだとか愚かなことを口走ってる議員もいたりして、アホはなかなか絶滅せんもんやねという感じです。
ただ10年スパンで見てると、日本もオーストラリアもどことなく似てます。景気は極端に対照的だけど、「止まってる」感じが似てる。つまり、時代が大きく動いていくのを見越して、むしろ時代を迎え撃って出ようという気概がないです。「変わるんだろうなー、大変になるなろうなー、でもとりあえず今日明日は変わらないみたいだしなー、別に変わらなくても結構こじんまりと平穏に暮らせるからなー、別にこれでいいんじゃない?」って感じが似てます。
8000キロ離れた直感だけど、今の日本の平均的な感覚って、変わる変わるとか言いつづけて&言われつづけて疲れちゃって、「まあ、日本も案外悪くないんじゃない?理想的とはいえないまでも、結構いい国なんじゃない?」という、ぐるっと廻って「小肯定」みたいな感じになってるんじゃなかろうか?と。違います?
まあ、僕も別にそのことには異論ないですよ。下を見たらキリがないですからね。ただ、それに付け加えて2点。もっともっと良くなる余地は無限にあります。こんなところで満足していていいのか?というのが一点。それと、「けっこういい国」ってのが、今後失業率が8%とか10%になって、あなた自身がクビになってもそう言えるか?ということ。それでも「いい国」だとは思いますよ、僕は。もしそこでそう思えないんだとしたら、今思ってる「いい国」ってのは、たまたまイヤなニュースが途切れて一過性の小康状態を保ってるがゆえの、束の間の気の迷いだと思います。あくまで僕の意見ですけど。
写真・文:田村
写真は、Bankstownのショッピングセンターに陳列されていた、かなり気合のはいってるクリスマスのデコレーション
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