今週の1枚(02.11.25)
ESSAY/ 村上春樹 「海辺のカフカ」を読んで
先週は村上龍氏の「希望の国のエクソダス」の読後感想文でしたので、今週は続けて読んだ村上春樹の「海のカフカ」の感想文でキマリだ、、、と思ってたのですが、うー、この人の作品はすっごく書きにくいです。「いやあ、良かったです」と言うしかないって感じです。
大体「なんの話?」と聞かれただけでも困ってしまいます。「こういう話です」と説明できない。村上龍の作品は、まずテーマがあって、言いたいことがあって、それを分かりやすく説明するために物語が進行するというシンプルな構造をとってますから、一読して何が言いたいのか分からないということは、あまりないです。特に「エクソダス」なんて、著者本人があとがきで、他人に自分の意見を説明するために書いたといってるくらいですから、分かりやすくなければ嘘です。
しかし、村上春樹の作品は、それが非常にわかりにくい。そもそも「テーマ」とか、「著者はこれが言いたい」とかいう問題なんだろうか?って気もします。また、ストーリー展開にしたって、なにげに荒唐無稽なものが入ってきたりしますし、そのまま説明したってわからんと思います。わからんの覚悟で説明してみると、
”カラスと呼ばれる少年”と常に話し合っている”僕”は、”世界でいちばんタフな15歳”になるべく身体を鍛え、15歳の誕生日を機に家出をし、西に向かう。自らを「田村カフカ」と名乗る。一方はるか昔、戦時中の疎開先での少年期に一度”あっちの世界”に行って来たナカタさんは、以降、知能程度が劣化し文盲になり影が半分になるが、そのかわり猫と喋れるようになったり、空から魚を降らせたりできるようになった。カフカ君の旅立ちと相前後する時期、ナカタさんは、猫の生心臓を食らって笛を作るジョニーウォーカーさん(実はカフカ君の父親)を、ナカタさんの意に反して殺害させられるハメに陥り、そしてまた西に向かって旅立つ。物語は、西に向かうカフカ君とナカタさんの出来事が交互に進行し、そしてナカタさんの道連れになったホシノちゃんが”入り口の石”を、カーネルサンダースの手引きで発見し、入り口を開くところから佳境に入り、カフカ君は、彼の両親やナカタさんが過去にいった”あっちの世界”に行き、そしてまた戻ってくるのであった---------
ねえ、意味ないでしょ。なんのこっちゃでしょ?ケンタッキーフライドチキンそのまんまのカーネルサーンダースが、高松市の裏通りでポンビキやってましたって、言われてもねえ?って。いきなり中野区で新鮮な魚が2000匹空から降ってきたり、東名高速のドライブインでヒルが降ってきたりとか。
「なんじゃ、そりゃあ?」って話なんだけど、「なんじゃ、そりゃあ」って思わせないところがこの作者の腕力なんでしょうね。
で、感想は?と聞かれると、「いやあ、良かったよ。なんだかよく分からないんだけどさ」と言わせてしまうという。
この「わからないけど、いい」って感覚はなんなんだろうね、と思ってしまいます。まずはそのあたりから書きましょうか。
僕が思うに、村上作品というのは、ストーリー展開がどうとか、 テーマがどうとかいう以前に、文体とか、筆致とか、描かれている世界やその描写、そういった全体の雰囲気がイイんじゃないかと。考えてみればそーゆーことってよくあるんですよね。音楽でもそうです。曲構成がどうとか、メロディーがどうとか、どこが新しいとかいう以前に、まず「音」そのものが圧倒的に気持ちいいってことがあります。もうなにを演奏してるかどうかなんてある意味どうでもよくて、音色や、その音の連なりがかもし出す世界や空気が身体的に快感だという。優秀なミュージシャンは、この問答無用、言語無用に強力な「音」を持っているのだと思います。いわゆる「俺の音!」ってやつですな。尾崎豊も、その歌詞世界の秀逸さやカリスマ的生涯みたいなことが語られがちなんですが、音楽スタイルそれだけでいえば大して新しくも何ともないです。ただ、声がいいですよね。もう、めっちゃくちゃ声の質がいい。あの声で歌うからなに歌っても説得力があるという。
同じように映画や演劇の世界でも、ストーリーや脚本に関係なく、その人が居るという存在感だけでイカせてくれる俳優女優さんがいます。たとえば、えー、別に誰でもいいんですけど、高倉健さんとか。健さんがぬぼーっと突っ立ってて、例によって困ったような照れたような表情で、「あ、どうも」というだけで、ファンは許せてしまうという。実際、健さんが主演している映画って、ストーリーそのものは大したことないっていうか、見ていてもストーリーのツイスト(ひねり)に期待するようなことはないです。「夜叉」や「海峡」にしても、「鉄道員/ポッポヤ」にしても、ドラマというほどのドラマがあるわけではないです。むしろ、鉄道員なんか昔死んだはずの子供が成長して登場してくるドラマ性やテーマ性のある部分が逆に僕なんかは邪魔だったりしました。なんのドラマもない、淡々とした雪国の鉄道員の日々の仕事ぶりだけでいい、というかそれがイイんです。で、それは健さんだからイイんですよね。あの人くらいになってくるとドラマ性が必要ないというか、下手したらドラマ性と喧嘩して食っちゃうくらいなんでしょう。
音楽の話に戻りますが、新しい表現を追及したり、斬新な地平を切り開くことの凄さや素晴らしさは十分に承知しながらも、同時に別に新しくなくたっていいのかもね、という気がするときもあります。ロックなんかでも古典的な8ビートでいいんじゃないかと。ただし、ごくマレにしか聞けない「本当にイイ8ビート」と、圧倒的大多数の本当にイイわけではない作品とがあります。ずっと前にHi-Lowsのヒロトとマーシーのインタビュー記事で、「ターンテーブルに乗せて音が鳴り始めたとき、自然に手にもってた鉛筆が動いてリズムを刻みはじめるかどうかが一番大事で、それだけだ」という趣旨の発言を読んで、「そうなんだよなあ」って思った記憶があります。単に8ビートだから8ビートで鳴ってる音と、神がかった8ビートというのがある。それは、コンマゼロ秒のタイミングと音質(それはスネアの皮の張り方とか、スティックの叩きつけ方とか)の差なんでしょうけど、その差は歴然としてある。どうやったらそうなるのか、それがわかれば誰も苦労しないのだけど。ただ、ひとつ言えるんじゃないかと思うのは、完全に数学的にデジタルに正確にやったら神様はやってこないだろうということです。だから最近のハードディスクレコーディングで、コンピューター制御でリズムや音を作ってる音に「うわ、これ、キた!」という音楽は少ないのかもしれません。
村上春樹の作品世界も同じようなことなんじゃないかと思います。ストーリーがどうとか、テーマがどうとかいう以前に、”あの”世界の描写の仕方と、あの世界の”触感””質感”みたいなものが、まず問答無用に気持ちいいかどうかなんだろうと。それが気持ちイイから、心地よく麻痺させられてしまって、多少の荒唐無稽さは許せてしまうというか、ある意味当然のことのように受け入れてしまうという。そこにマジックが宿るのでしょう。そこで気持ちよくなれない人は、多分読んでもそれほど感銘しないと思います。
村上春樹の作品世界の「触感」ですけど、まず感じるのは、この作品の触感がこうなっているのは、作者の世界観がそうなってるからなんだろうな、作者には世界がそう見えているんだろうなということです。これは、テーマ性にも連なっていくのですが、この世界というものは、僕らが日常当たり前のように感じたり理解したつもりなってる領域だけではない。そんなものはほんの一部に過ぎない。世界はもっともっと入り組んでいて、複雑な陰影があり、我々の想像を越えた関連の仕方があり、そこに身の毛もよだつくらい純粋に恐ろしいことも、天上世界のような至高に素晴らしいものもあるのだ、、という世界観。
その複雑な世界を、単純な善悪二元論や、うすっぺらな概念論理だけで割り切ろうとすることに、作者自身強烈にNOを言ってるような気がします。その拒絶は、むしろ”憎悪”に近いくらい。世の中をそうやって単純に薄っぺらに見て解決していこうというその姿勢が、より膨大な災厄を撒き散らしているということが何故わからんのか?という作者の苛立ちのようなものも伝わってきます。
この「海のカフカ」でも、象徴的なエピソードとして、ナチスのユダヤ人虐殺の最高責任者であったアイヒマン、あるいはカフカ君がいる図書館にやってきてあれこれ難癖をつけるフェミニズム二人組などが出てきます。アイヒマンは、超優秀な官僚で、いかにして最大の効率でユダヤ人を殺すかという課題に対して、官僚的に最高の答えを出し、実行しました。それは官僚としての彼にとっては最高命題であり、そこには「人殺しはよくないことだ」というモラルや、殺される人々の苦痛と悲惨への配慮は皆無であった。作品中にかかれているように、「テルアビブの法廷の防弾ガラス張りの被告席にあって、自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びることになったのか、アイヒマンは首をひねっているように見える。世界中のすべての良心的な官僚がやっているのとまったく同じことじゃないか。どうして自分だけがこのように責められなくちゃならないのか」。
これについて、大島さんという美しくて清潔で陰のある人が、メモを書いています。「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は我々の想像力から始まる。イェーツも書いている。 In dreams begin the responsibilities -- まさにそのとおり。逆にいえば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」と。
そして、フェミニズム教を掲げ、世界のすべてを自分たちの基準でシロクロつけて、正義は我にありと言わんばかりに他者を弾劾する二人組が、村上作品には珍しいくらい生々しく且つ憎々しげに書かれています。この二人組をヘコませて退散させた大島さんが、また言います。「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか--もちろんそれもとても重要な問題だ。そかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。」
これは大島さんの口を借りて作者が述べているのでしょうし、そしてその「すべての責任は想像力から始まる」というのは、この作品を貫くひとつのテーマなのでしょう。誰かの夢、想像、そんな世界の中で”入り口”が開かれ、人々は巻き込まれ、否応なく一生を決定されてしまうこと。ヒットラーの個人的な病的誇大妄想という、本来パーソナルなものだった筈の”夢”の世界に、当時のヨーロッパが否応なく巻き込まれ、数百万人という人々が死んでいったこと。「世界」というのはそーゆーものだということ。その恐ろしさの本質はいったいなんなんだろうか、人々はどうやってそれに巻き込まれていくのだろうか、どうやってそれに戦っていくのだろうか?この作品はその物語だといえなくもないです。
上記の例にとどまらず、この作品では、「世界はこーゆーもんなんじゃないか?」という世界観のなかで、いろいろな物事についての考察が試みられています。その意味では物語でもあると同時に断片化された論文集のような趣もあります。まあ、それはこの作品には限ったことではないですが。そのなかで、これもこの作品に限ったことではないですが、「本当にイイものはある」という認識が随所に出てきます。そしてそのイイものの良さの描写が非常に秀逸だったりします。これも、村上世界の触感を高める大きな要素なのでしょう。
たとえばカフカ君が高松の図書館にたどり着いたときの描写で、「多くの本は手にとって開くと、ページの間から古い時代の匂いがした。表紙と表紙のあいだで穏やかに長く眠り込んできた深い知識と鋭い情感がはなつ、独特の香りだ」「天井が高く、広くゆったりして、しかも温かみがある。開け放された窓からはときおりそよ風が入ってくる。白いカーテンが音もなくそよぐ。風にはやはり海岸の匂いがする。ソファのかけごこちは文句のつけようがない。(中略)僕はまさにそういう、世界のくぼみのようなこっそりとした場所を探していたのだ」と書かれているわけですが、淡々としていながら筆致に乱れがなく、的確にツボを押しつづけてくれます。読んでるだけで、「あー、いいなあ、そーゆーの」と伝わってきます。
はたまた、中日ドラゴンズの帽子の後ろからポニーテールを出してアロハを着ている、元自衛隊あがりの長距離トラックの運転手だの星野青年(僕はこの人のキャラが一番好きです)が、名曲喫茶の店長と話をして、店長が各曲の良さを説くくだりがあるのですが、そこの表現もいいですね。「ピエール・フルニエは私のもっとも敬愛する音楽家の一人です。上品なワインと同じです。香りがあり、実体があり、血を温め、心臓を静かに励ましてくれます」とかね。
そして最高にイイモノというのは、生きていて何か自分を変えてしまうモノに出会ってそして自分が変わっていくことでしょう。星野青年が突如として喫茶店でクラシックに良さに目覚めるシーンも秀逸です。別になにがどうガビーンときたわけではないのだけど、ベートーベンの「大公トリオ」が彼を内省的にさせ、自分ってなんなんだろうという思索の手助けをしてくれる。そして、彼は人間としてワンランク上にいくわけですが、そこが非常にさりげなく、しかし分かりやすく書かれています。後になって、星野青年と大島さん(彼はこの作品の一番の語り部であり解説者なんでしょうね)とが話し合う個所があります。
「じゃあひとつ聞きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にあるなにかが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。”何か”を経験し、それによって僕らの中で”何か”が起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛リが一段階上に上がっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに」
そして、星野青年が”何か”を経験していく過程が、とても自然なんですね。星飛雄馬が大リーグボールのヒントをつかんだかのようなガーンはないんです。非常に平明です。
「たとえば俺はこれまで中日ドラゴンズを熱心に応援してきた。でも俺にとって中日ドラゴンズというのはいったい何なんだ?中日ドラゴンズが読売ジャイアンツに勝つことで、俺という人間が少しでも向上するのだろうか?するわけないよな、と青年は思った。じゃあなんでそんなものを、まるで自分の分身みたいに今まで一生懸命応援してきたのだろう?」
というような感じで内省するわけです。
音楽に限らず、大島さんの言うように、何かを体験することによって身体の中で何かの化学反応が起こって、「すべての目盛りが一段階上に上がる」というのは、僕は自分の経験でしかいえないけど、本当にあると思います。ごくマレにだけど。それは、まあ「人間的成長」といってしまったら余りにありきたりというか、道徳の教科書的なマトメになってしまうのですが、なんというのか、そういう不思議な時間を通過して、気がついたらそうなっていたということは現実にあります。おそらく皆さんにもあるでしょう。ただ、それを言葉で説明するのは非常に難しいし、意図的に作り出すのはもっと至難の業です。それができたら教育はなんぼか楽になってるでしょう。だから、「うまく言えないけど、そーゆーことってあるんだよ」と言うしかないんですが、それをこれだけ素直で且つ巧みに表現した例を僕はそんなに知りません。それだけでも「すげーな、こいつ」と思ってしまったりします。
このように作者のイイモノに対する認識とこだわりは、文章の些細な端々に表れ、それが彼の作品を品格あるものにしています。「ある種の奥まった場所にしか生まれるはずのない、とくべつなかたちをした日溜り」「岩のあいだからこっそり湧きでる清水のように無色で透明で、誰の心にもまっすぐ届く、混じりけのない自然な訴えかけだ」などなど。
上記に抜粋したなかでも「世界のくぼみのような場所」とか「心臓を静かに励ましてくれる」とか、優れた言葉による表現が多々あります。はっきりいって、僕の村上作品の楽しみ方の大部分は、これら感性鋭い、まだ聞いたことないユニークな表現を読むことだったりします。感じとしては、俳句や短歌を鑑賞するのに近いです。時としてそれがクドくてひっかかるときもありますが、「その男は洗練された不吉なニュースのように座っていた」(羊をめぐる冒険より)とか、もう暗誦できちゃう印象深いものもあります。
なんでそんな表現を思いつくのか、これはもう文章力としか言いようがないんですが、じゃあその文章力って何なの?というと、結局常日頃から世界をそうやって見ているかどうかなんでしょう。ある程度本格的に英語なり外国語をやった人なら分かると思うのですが、文法などを本気で身につけようと思ったら、普段からそーゆー風に世界が見えてないとダメなのでしょう。
たとえば、英語は違いますがフランス語やドイツ語ではすべての名詞に女性名詞・男性名詞・中性名詞があります。なんでそんな面倒くさいことやってるのか分かりませんが、それを身に付けようと思ったら、今画面を見ているあなたの眼にうつってる全てのもの、たとえばキーボードであるとかマウスであるとか、ディスプレイ、壁、時計、コーヒー、ボールペン、、、それらの物全てについて「これは男性、これは女性」という具合に見えている必要があると思うのです。英語でも、可算名詞と不可算名詞があります。これも、これは数えられるから言うときは複数形の”s”をつけるかあるいは”a”をつけなきゃとか、いちいち考えてないとなりません。つまりは森羅万象に対する自分の認知システムを大幅にやりかえていかねばならないわけです。だから語学は一生モンに時間がかかるのだと思います。
文章力も同じで、普通に町を歩いていても、ぼけーっと見てるのではなく、もう少し深く、「すべての目盛り」を上げて見て認識してないと、いざ書きましょうとなっても、そんな表現出てくるわけないです。出てきたとしても、パクリであったり、技術だけ模倣してるだけだったり、要するにニセモノになってしまうのでしょう。村上春樹になりたい人、自称村上春樹の人は、日本で相当いるでしょう。100万人くらいいるかもしれません。なんとなく書けそうですしね、この人の小説は。そして、怖いことにこの人の文体というのは伝染力が強いので、知らずしらず伝染っちゃうし。ただ、そういった全国百万人のwannabeesや wouldbeesと彼が違うのは、一つには彼にはこういった「飛び道具」とも言うべき表現力がある点でしょう。
その他思いついたことを、ランダムに書き綴ります。
この作品は、系統でいえば「ねじまき鳥クロニクル」に近いです。「羊をめぐる冒険」なんかにも近い。近いというか、ある意味では同じことを言ってるのかもしれません。人間社会の膨大な災厄をもたらす、あっちの世界のなにやら邪悪なモノと、それに否応なく巻き込まれ、戦う羽目になってしまった人々ということで。
ただ、佳品ですねー、この作品は。なんというのか冗長なところもなく、うまくまとまっています。乾いた軽さと明るさがあって、しかも乾いているんだけど乾燥してなくて、軽いんだけど軽薄ではないという、とても良い肌触りをしてます。それはやっぱりホシノちゃんの功績によるところが大きいように思うのですが、星野青年とナカタさんの何とものんびりしたやりとりの間の抜け方が素敵なんですよ。江戸落語的にいえば、「すっとぼけた」チャーミングさがあります。
「でも少し動いたくらいじゃ駄目なんだろうね」
「はい、完全にひっくり返さなければなりません」
「ホットケーキをひっくり返すみたいに」
「そのとおりです」とナカタさんはうなずいて言った。「ホットケーキはナカタの好物であります」
「そりゃよかった。地獄でホットケーキ、という言葉もある。もう一度がんばってやってみよう」
なんてね。声に出して、わははと笑ってしまった個所もいくつかあります。ポンビキのサンダース大佐もいい味出してます。ホシノ君とのやりとりはイチイチ全部抜粋して紹介したいくらいです。
この作品、別に田村カフカ君が主人公なのかどうかもわかりません。否応なく巻き込まれた人々の一人であり、文字通り「落とし子」なのかもしれないけど、「15歳になった少年は西に向かって旅立つ。大人への通過点のなかで揺れ動く思春期の少年の感性を叙情的に描いた感動の物語」なんて要約されちゃったら、「そうかもしれなけど、でも、違う」といいたくなりますよね。それじゃホシノちゃんの立場がないよね。
そういえばカフカ君も15歳なんですよね。前回書いた「希望の国のエクソダス」の少年たちも15歳でした。どちらも聡明な少年なんだけど、同じ15歳にして聡明さの方向がまるで違うのが面白いです。そういえばこの小説、インターネットのイの字も出てこないですね。
あとはですね、この小説は「親切」ですよね。登場人物がいろいろ解説してくれたりしています。「世界はメタファーだ」とか。カーネルサンダースが、なんでカーネルサンダースなんだということも丁寧に説明してくれたりしていますし、「海辺のカフカ」という名前の曲の歌詞なんかそのまんまだったりしますよね。
でも、この小説、別にテーマがわからんでも、「え、どういうこと?なんでそうなるの?」と理解しなくてもいいように思います。理解できないもん、やっぱ。理解できないことを書いてるんだし、さらに「理解できないんだよ」ということを書いてるようにも思えますから。ときには詩歌のように砥ぎすまれた表現を楽しみ、はたまた滋味あふれるエッセイや平易な哲学を読むようにエンジョイすればいいんじゃないかと思います。推理小説のような、読みおえて「なるほどー」というカタルシスはないけど、でも、読んでる間は非常に上質な洋菓子を食べてるような時間が過ごせるように思います。そして読み終えると、なんだかしらんけど感動しているという。”Damn, helluva good story, man"と。
最後に、この作品を読んでいて終始受ける印象は”丁寧”ということです。カフカ君がそうするように、ナカタさんがそうするように、「たっぷり時間をかけて丁寧に顔を洗い、たっぷり時間をかけて丁寧に歯を磨き、たっぷり時間をかけて丁寧に髭を剃った」ように。別に洗面シーンだけではなく、舞台となる図書館のたたずまいにせよ、主人公たちの動きにせよ、非常に清潔であり、ニートであり、キチンとしわ一つなく折り畳まれた洗濯物のように丁寧なんですね。その丁寧さが、イラチな僕には妙に心地よかったりするのでした。「大島さんは、サラダを作るときにとてもゆっくりと包丁を使う」。読み終えて、ふと、「もう少し丁寧に生きてみようかな」という気にさせてくれる小説でした。
写真・文:田村
写真は、先週が出勤だったので、今週は退社時間の皆さん。City、Martin Place 午後5時15分。
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