今週の1枚(02.11.18)
ESSAY/ ”希望の国 エクソダス”を読んで
日本に帰国した知人から、小包が届きました。「日本詰め合わせセット」のように、最近の書籍やCDをみつくろって送ってくれたものです。そのなかに、村上龍の「希望の国のエクソダス」という本がありました。
一読して思ったのですが、「日本って、いま、本当のこうなの?」ということです。この小説は、98年から2000年にかけて連載されたものだそうで、舞台は2001年から数年間の日本です。いわば超近未来フィクションなんですが、あまりにも近未来であり(すでに現時点では過去になりつつ部分もある)、どこまでがフィクションでどこまでが本当かよく分からなくなってしまいます。
未来予測本としてみれば、驚くほどよく当たっている部分もあると思います(巻末の書評にはそういうことを書いておられる人もいます)。ただ、見方を変えれば、それだけここ数年の日本は変わってないわけで、現状に多少推測線を延ばせば、そこそこ当たらずといえども遠からずみたいな話にはなるでしょう。例えば、「政府はさかんに景気が回復基調にあることを強調し、実際最新の経済統計ではGDPの成長率が上昇していることを示していた。しかし、多くの国民はそのことを実感できないままでいた。むしろ、国民の間では、このまま半永久的とはいわないまでも相当長期にわたって本格的景気回復などありえないのではないかという懐疑、あるいは仮に景気が本格的に回復したところで昔の日本のような幸福な一体感は得られそうもないという諦念が徐々に広がっていった」というような部分は(なおこの文章は、僕が勝手に例文用に創作したものですが)、数年前だろうが、数年後だろうが等しく通用するような気がします。その意味では、まあ当たっても当然という気もします。
ただ、僕が「本当はどうなの?」と思ったのは、そういった表層的な部分ではなく、もっと深い深い部分でどうなっていっているのか?ということです。つまり、今現在の日本は、
@とんでもない重大な事態が進行しており、その重大さは殆ど日本が死滅するかどうかくらいのものだが、老衰のようにゆっくり静かに進行しているので誰も気づかないか、あるいは実は皆さん皮膚感覚で知っているけど、かといってどうにもならないという諦めが先行し、なるべく考えないようにしているのか
OR
A本質的には全然大丈夫である。それは問題は山積してるし、時代は変わるだろうし、良くないことも多く起きているが、本質的には何も変わないか、あるいはむしろ良い方向に向かっている。マスコミの事大主義と日本人の悲観主義(=”エライこっちゃ”と深刻な顔をしながら実は面白がってる)とがあいまって、必要以上にペシミスティックになっているだけだ
どっちなんでしょうね?
「この国は本当に何でもあるけど、ただ希望だけがない」
というのは、この小説の白眉ともいうべきシーン=国会でのインターネット経由での質疑に登場した中学生の集団不登校のリーダーである”ポンちゃん”が語ったセリフです。
ポンちゃんという名の中学生は、さらに続けて、
「生きるためのほとんど全てのものが揃っていて、それで希望だけがない時代に、戦後の希望だけしかなかった頃と殆ど変わらない教育を受けているという事実をどう考えたらいいのだろうか?」
「子供というのは、とりあえず大人のやり方を真似るっていうか、大人の生き方を参考にしていく以外に生き方を考えることができないわけで、要するに誰の真似をすればいいのか、まったくわからなくなっているわけです。いいからおれを真似て生きればいいんだって言ってくれる人っているんですかね?」
「大人にも同情すべきところはあるし、バブル経済を反省するのはいっこうに構わない。許せないのは、意気消沈して、昔を懐かしがって愚痴をいうことです。昔はよかった。ものはなかったが、心があった。そんなに昔がよかったのなら、どうしてそのままにしておかなかったのですか?」
「外国からみると、希望を失った国に対する最良のスタンスは、略奪ということになるでしょう。歴史的にそういった略奪は数え切れないくらいほど実践されてます。彼らがすべてを略奪する前に、ぼくらはこの国の財を略奪しつつ、この国から脱出しようと考えています。」
とまあ、こましゃくれた、でも恐ろしく聡明な中学生が、なかなかのことを言ってるわけです。まあ、でもちょっと気のきいた15歳だったらこの程度のことは言えるとは思いますけど。
余談ですが、この人の小説って、「愛と幻想のファシズム」に出てくる鈴原冬二も、「5分後の世界」の世界に出てくるUG(地下日本国)にしても、スーパーカリスマみたいな人物や団体が登場してそこが面白くもあるのだけど、そこが浮きまくってる部分であったりもします。この小説でも、カリスマ中学生のグループが浮きまくってます。一口でいえば、「いねーよ、こんな奴」って感じですね。ただ、作者自身そこにリアリティを出そうという気は無いようですけど。
あと、国際関係や金融経済がよく取材されていて精緻なようなんだけど、どっかいまひとつリアリティがないように思えてしまうのは僕だけでしょうか。なんていうか、構成されている世界がジャーナリスティックに過ぎるというか、「今、社会はこうなってます」系の情報を集合させたような世界観なんですね。だからニュースになることもない圧倒的大多数の平凡な現実が薄く、素朴な肌ざわりのような部分に欠けます。これはまあ、作者の個性でもあり長所でもあるから文句をつける気はないのですが、この肌触りの希薄さは、各界の俊英を揃え莫大な資金力と情報をもつシンクタンクが発表する未来予測が結構ボコボコ外れるのになんとなく似てます。世の中って、実はもっともっと意外と下らない要素で廻ってたりするし、人間ももっとしょーもない理由で動いてるという。
よく、「現在の科学では解明できないこともある」とかいいます。もっぱら自然科学の世界でよく聞かれるフレーズですが、それって社会科学にも言えると思うのですね。どんなに精緻な経済理論、社会理論、マーケ理論をもってきても、現実の社会を理解しきることは不可能ではないかと。もっといえば、それが”理論”として論理的に成立しなければならない宿命を負ってる以上、そして社会の元素となる人間自身がそんなに論理的な存在ではない以上、完全把握は不可能なのでしょう。なんというのか、人間心理に精通している筈の心理学者が、よく人間関係をしくじってるような感じですね。
ちょっと時代は古いのですが、小松左京あたりが書いてるSFの方が、人間や社会にリアリティがあります。それはニュースにならないような部分にどっしりした厚みがあるからです。取材して書いてるのではなく、最初から知ってるから自然に出てくるという感じですね。同じ村上でも、村上春樹の世界は、まったく対極にあり、ニュースのニの字も出てこない、時代性から隔絶された、どっかのオトギ話の”超時空間”的な世界だったりして、その対比が個人的には興味深かったりします。
そして、このジャーナリスティックに過ぎるような小説を読んでると、「おいおい、日本はそこまでイッてるのかよ」というジャーナリスティックな不安にかられたりするわけですね。「本当に、本当なの?」という。
すでに3年以上帰国しておらず、長いあいだライブの日本を見ていない僕に言う資格はないのかもしれませんが、前述の@とAでしたら、どっちかといえば僕はAです。ジャーナリスティックには@だと思うのだけど、それはジャーナリスティックな拡大鏡をあててるから縮尺バランスがおかしくなってるように思うのですね。
例えば、弁護士というせっかくのキャリアを捨てて、日本に見切りをつけて海外に移住してる僕のような存在は、ジャーナリスティックにいえば、日本のトレンドの最先端をいってるという面もあるでしょう。まあ、確かに、僕のような行動がもっとありふれたものになればいいのにな、珍しがられるのもイヤだな、早く時代が追いついてきてくれないかな、みたいに思うことはあります。でも、そういうジャーナリスティックな視点だけで僕の存在を語られるのも「なんだかなあ」って気もするのです。だって、間違ってるんだもん。僕がこっちに来たのは、「そういう時代だから」という要素があることも否定はしないけど、その比率は少ない。80から90%の理由は、「こういう性格だから」来たというのが正しいです。別に高度成長のときだって来たんじゃないかと思いますよ。
「バブルが弾けた閉塞状況の日本に限界を感じて渡豪」なんて要約されたら困ってしまいます。個人的な仕事レベルでいえば、バブルが弾けて倒産処理案件が沢山出てきて、破産管財人に選任されることもコンスタントに増えてきたし、むしろこれからガンガン儲かるぞ!という感じでもあったわけです。それに94年当時というのは、細川内閣が出てきて、自民党が分裂して政権の座からコケて、日本全体としては「さあ、これから新しい時代だぞ」という盛り上がりがありました。そんなに閉塞してた感じはしなかったです。だから状況的には日本にいてもかなりエキサイティングだったと思いますし、時代背景的には全然マイナスではなかった記憶があります。
ところがこれがメディアによってインタビュー→編集されたりすると、往々にしてそういった部分はすっぽり抜け落ちてしまう。メディアが最初から先入観としてもっている世界観・時代観や、テーマに則して、彼らにとって必要な部分だけを取捨選択する。だって最初に企画会議をして「特集」というテーマを決めて、それから材料探しに取材するわけですから、どうしても構造的に最初に「テーマありき」になってしまうでしょう。そして取捨選択だけならまだしも、四字熟語でいえば”換骨奪胎”やひどいときには”我田引水”までされてしまったりする。これがいわゆる”ジャーナリズム”だったりするわけです。カッコつきのジャーナリズム。カッコのつかない本当のジャーナリズムは、そういう傲慢な編集をしないのだと思います。
いみじくもこの小説の中に、文部省の切れ者の官僚が、フリースクールの生徒達とマスコミを対比させて述べるくだりがありまして、印象深かったです。長くなるけど抄出引用してみます。
「そのフリースクールの生徒たちと会ったとき、非常に驚いたことがあるんです。それは彼らのボキャブラリーというか、使う言葉の豊穣さと彼らが非常に言葉を慎重に選んで話すということなんです。(中略、同年齢の一般の生徒たちの場合は)だっせー、とか、うざってー、とかそういう常套句でしか連中は喋れないんです。若者言葉がどうのというより、表象能力がない。ボキャブラリーが極度に貧困なんです。考えてみれば当たり前ですよ。学校に行ってれば簡単なんです。サバイバルする必要もないし、マスコミとかテレビでもてはやす若者言葉というのを喋ってさえいれば、少なくともアイデンティティの危機はないわけです。(中略)
居酒屋で群れているサラリーマンを見てください。彼らにしかわからない貧弱な言葉で、群れの中で笑い、群れの中で叫ぶだけです。個人として対面すると何も話せない。話すこともないし、話し方も知らないし、コミュニケーションが努力なしでも成立すると思ってます。(中略)
フリースクールの子供たちはまず孤独です。不登校という大変な状況の中で、自分を確認しなくてはいけないので、自然と言葉を獲得しようとするわけです。彼らは本をよく読むし、これから自分はどういう風に生きていけばいいのかというを考えていて、他人の話をよく聞きます。必死で理解しようとするわけです。自分の生き方を他人に説明したり、、他人の意見を理解するというのことは彼らにとっては死活問題なわけです。彼らは私にインタビューして、後日をそれをまとめたものをファックスしてきました。彼らがまとめたものは、私の知っている大手の新聞記者の談話のまとめ方よりはるかに正確で、私がいいたかったころを実にうまく編集していました。彼らはコミュニケーションが自明ではなく、分かり合えることより分かり合えないことの方がはるかに多いということを知っているんですね。マスコミの人間は、自分が知っている情報の範囲内で、インタビューをまとめようとします。そのせいで往々にして活字になるとニュアンスの違うものになってしまうのです。
ただ残念なことに、フリースクールも不登校児たちの質もこの数年で少し変わってしまいました、不登校児というカテゴライズされたとたん、居場所ができたということで、数年前から不登校児の生徒が非常に増えてしまったんですね。もちろん全部というわけではありませんが、フリースクールもかつてのような危機感をもってません。笑えない笑い話として、フリースクールへの不登校が急増しているというニュースが2,3年前にありました」
というわけで、なかなか示唆的だったりします。
すごく一般的に要約しちゃうと、自分が自分であり続けることに絶えず自覚的に危機感を覚えてないと、人間なんかすぐにアホになると思います。他人の目に映る自分の姿に安心感を抱くよりも、苛立ちを抱いていた方が、ものをよく考えるようになります。簡単に言っちゃえば、賢くなりたかったらある集団のなかで「異物」になればいいんでしょう。そうすればイヤでもものを考えざるをえなくなりますし、コミュニケーションに自覚的になるでしょう。
何度も言ってますけど、こちらにやってくると、英語力の問題以前に、全然接点のない人間とどうコミュニケートするかというベーシックな問題に直面します。その基礎的なスキルが欠落していると、語学学校の隣の席に座ったり、ステイ先で一緒になったアルゼンチンの人と会話が続かないんです。あなた、ラトビア人と二人きりで1時間喋れと言われたら、なに喋りますか?座が持ちますか?単一文化社会から来た人間というのは、そういう訓練ができてないという面はあります。そして、これは若い人たちだけに限った話ではなく日本人全体の問題であり、同時にオーストラリアでもアメリカでも中国でも、単一文化エリアでしか人生経験のない人々に多かれ少なかれ共通する問題でもあるのでしょう。
人間というのは十人十色の個性があるわけですから、基本的にお互いすべて「異物」です。異物である自分とつきあっていくのは面倒くさいですし、異物である他人とつきあっていくのも面倒くさいです。ただ、面倒くさいけど、慣れてしまえば別にどってことないです。人間だったらそのくらいのこと絶対できますから。「絶対」と言い切ってしまうのは、砂場の幼児とかみてたら、見知らぬどっかの子供の砂いじりに、いきなり参加したりしますもんね。誰だってあのくらいのことできるのでしょう。僕らもできていたのでしょう。あれと同じにやればいいんです。かつて出来たことが出来なくなるのは、どっかに障害があるからです。
ちょっと前に、日本で不登校だった子供さんがこちらの語学学校に超短期で留学されました。結果的にはなかなかうまくいかなかったのですが、問題はその内容ですね。同じ年齢の集まるクラス(高校準備コース)の日本人相手にうまくいかなかっただけで、その他の人たちとはうまくいってました。ホームステイ先のオーストラリア人とも楽しくやってましたし、一般の大人のクラスに入ったときも楽しくやってました。ただ、同年齢の、それも日本人の子供同士が苦手だという。
僕が思うに、このコの方がよっぽどマトモなんじゃないかと。年の離れた大人や、外国人とはうまくいくわけで、つまり異物同士が付き合うことには問題がないんです。ただ、同質のものになると、意識しすぎてしまうのでしょう。それは、異物を許さない日本社会の影響だと思われます。なんで、異物が異物であることが許されないのか。それは同質である方が楽チンだからでしょう。異物がくると、それまでサンゴ礁みたいに同質の物同士ヌクヌクやっていたのが壊されるから、面倒くさいんですよね。でも、その面倒くささに流されてたら、アホになる一方でしょう。
「キミもサンゴ礁になれ」と言われている同質社会では、サンゴ礁の一員になっちゃった方が楽です。でもサンゴ礁の一員になる過程で、「自分」というものを眠らせたり、殺したりしなければなりません。普通の人間だったら、そんなことイヤですよ。でも必要に迫られればやってしまう。でもって、あとになって「自分探し」とかまた面倒くさいことをしなくてはならなくなる。何やってんだかって感じですよね。
ところで、僕からみたら、この作品でポンちゃんの言ってることも、けっこう疑問である部分も多いです。そもそも子供って、そんなに自分の将来のことを考えたりしないんじゃないかな?僕も記憶してるけど、「将来の夢」みたいなことを作文や卒業文章とかで書かされたりしたとき、「んなこと言われても、全然ピンとこないよ」と当惑したりしたもんです。「いい大学、いい会社」とかあんまり言われた記憶すらないし、言われたところで現実感ないですよ。20代の人が30代になった自分を想像しにくいように、老人になったときの自分を想像しにくいように、「大人になったときのこと」なんて遠い未来の話だから、あんまり考えなかったですよ。あなた、考えました?
それに子供の頃に、「希望」なんか別になかったですよ。高校のときは、かなり絶望しましたけど、それは人間そのもの対する絶望であって、時代がどうのということではなかった。例えば、戦争や中世の魔女裁判の阿呆らしさと残虐さとか、「人間ってなんてバカなんだろう」という、そういう理由で絶望はしましたが、「こういう時代だから」というほど時代のことよく知らなかったですよ。ニュースも新聞もろくすっぽ読んでなかったもん。
子供が学校いったりサボったり、勉強したり、遊んだりするのは、あんまり時代と関係ないと思います。もっともっと直近の楽しい/楽しくないという、ある種どーでもいいような他愛のない生物的・動物的な部分で生きてたりしたように思います。給食にキライなものが出てきたから悲しいとか、球技大会でエラーしたからブルー入ったりとか。そんなレベルで生きていたような気がします。そして、これって大人だってまったく同じような気もするのですね。
時代性というのは、そーんなに言うほど個々人の行動に影響を与えないんじゃないかって気もするのです。そりゃ、遠く離れた月の運行が地球の潮の満ち干きに影響したりというマクロな影響は与える思います。しかし、地球上で生じたすべての出来事が、月の引力だけでは説明がつかないのと同じように、「こういう時代だから」ということは、ひとりひとりのパーソナルな生活に対してそんなに言うほど決定的なものではないと。だから、月の引力ですべてを説明していこうというジャーナリスティックな視点、時代がこうだから中学生はこうなっているという視点で貫かれたこの小説が、鋭く示唆に富んではいつつも、いまひとつリアリティに欠けるように感じられるのでしょう。
ただ、今の日本は、僕の頃とはそれこそ時代が違うのでしょうね。昔のような牧歌的な感じではなくなっているのでしょう。なんだか知らんけど、すごい沢山の人が塾とか予備校とかいってるみたいですしね。なんでそんなに行く必要があるのだろうと、素朴に疑問です。「要らんちゃうの?」という気もします。
あのー、そんなに日本ってシビアな競争社会になってるわけですか?小学校の頃から塾いかないと幸せになれないのかなあ。本当か?学校の勉強だけだったら追いつかないとかいうけど、あなた自分が学校いってるとき勉強しましたか?して良かったと思いますか?もし、そんなに皆そろってがり勉やってるんだったら、今の若い人たちは皆さん学識豊かで優秀なんじゃないの?事実は逆じゃないですか。大学生の学識不足が語られてますけど、彼らの年代だったら、子供の頃から塾通いばっかりしてたんじゃないんですか。なんでアホなの?それだけシビアな競争社会だったら、子供に限らず、大人だって国際競争力ある個々人になるべく切磋琢磨してる筈なんだけどそんな感じもしない。
そりゃ、それだけ必死に塾行ってそれでもアホなんだから、より一層勉強させるべきだって物の見方もあるとは思います。でも、こといわゆる「お勉強」とか受験とかでいうならば、決定的にモノをいうのは親の遺伝子、DNAじゃないですか。それを言っちゃあオシマイよって感じかもしれないけど、だって事実じゃん。「オシマイ」ではなく、そこからスタートしなければ、現実的じゃないでしょ。スタート地点で、重大な事実を意図的に見ないふりをして計画立てたって、そりゃ100%失敗しますよ。当然ですよ、そんなの。アタマのいいコは別に塾なんか行かなくたってデキるし、アタマの悪いコはなにをどう頑張っても限界あります。
これがなまじ「勉強」とかいうからナーバスになるのであって、「足が速い」とか「音楽的才能」などの分野だったら、DNAや先天的素質がモノをいうよという事実に、素直にうなずけるんじゃないですか。ここで、僕は「アホは死ぬまでアホ」という残酷で絶望的な結論を得々と述べてるようですが、そうじゃないです。「鈍足は死ぬまで鈍足」「絵が下手な奴は死ぬまで下手」というのと同じようなレベルで、人には適性というものがあると、といってるだけです。勉強が出来ない=アホではないです。不得意分野、自分の適性にあってないというだけのことです。
ここで GOOD NEWS が二つあります。
ひとつは、日本国内で競い合う程度のレベルだったら、不適性であっても、ある程度やれば誰だって上位に食い込めるという事実です。そりゃバリバリのトップレベルにはいけないですけど、そこそこだったらいきます。特に適性がない奴だって、中高校の部活でやってたスポーツだったら、一般人レベルをすぐに、しかも遥かに超えますもん。だから特に勉強が苦手だって、まあ50点ー70点くらいを目指すんだったら全然不可能ではないでしょう。
要は能率の問題なんじゃないかって気もするのですね。以前「とにかくよく勉強しろ」というエッセイで書きましたが、日本人は僕も含めて中高6年も英語をやってきたけど全然喋れないとか言うけど、あれは「勉強した」うちに入りません。あんな危機感もなく、達成感もない状態でダラダラ英語やったって身につくわけないです。
逆に中高6年まるで何もせず、アルファベットも全部書けないくらいの人間でも、こっちにきて英語を「その気になって(ここが大事)」勉強したら、平均的な日本人レベルだったら3ヶ月もかからないでイケます。ああ、1ヶ月もかからんかもしれないな。世界は広いですから、こちらの語学学校では日本人よりはるかに英語が出来ない学生も来ます。旧ソ連圏は、英語ではなくロシア語やってたから、彼らの英語知識は僕らのロシア語レベルだったりするわけです。あなたロシア語のアルファベット全部書けます?あのEが裏返しになってるような字。書けませんよね。それと同じです。アルファベット全部書けたら、一番下のビギナークラスではないです。その上のエレメンタリーか、中級下くらいにはいけます。
そして、日本の学校で英語をほとんどやってこなかった人が中級の下クラスだとしたら、日本でかなりやってきて入試でも得意科目で、かなり偏差値高い大学に入ったばかりという大学生で、中級の上クラスです。いきなりアドバンス(上級)いけたという例はほとんどないです。で、中級下→中級→中級上とステップアップしていくのに、大体3ヶ月に1レベルあがるといわれてますから、だいたい半年、かなり時間がかかったとしても9ヶ月から1年あったら上までいけます。つまり、日本で必死に塾いったり、予備校いったり、英語の授業を聞いたり、6年から8年膨大な時間かけてやってきたことが、こちらではわずか半年から1年くらいの差に集約されてしまうのですね。だったら、日本で6年遊び呆けて、こっちで半年必死でやった方がいいんじゃないかって気もするのですよ。だから、「ウチのコは英語が苦手だから、これから国際化の時代に不安で、、」なんて思うことはないです。「私は英語が苦手だから」なんて思うこともないです。こっちにきて必死にやれば、日本の秀才クンくらいのレベルだったらすぐに追いつけますから。その代わりキツイですよ(^^*)。それに、秀才クンレベルくらいだったら現場では話にならないから、もっともっと精進しないとダメですし、こっちにきてもまたダラダラやってたら全然ダメですけど。
これって英語だけの問題じゃないと思うのですよ。数学だって、地理だって、似たようなものだと思います。ダラダラ何年もやってるよりも、1、2ヶ月ミッチリ真剣にやった方が伸びるし、きちんと身につくんじゃないかって。逆に、日本の学校のカリキュラムとか塾通いとか見てると、えらい効率悪いんじゃないかなとも思います。だって、実際効率悪いじゃないですか。小学校から延々10年、15年勉強ばっかりしてる割には、アタマの中身が希薄なのは何故ですか?本当、不思議なんです、「何やってきたの?」って。本当に塾とかいってきたの?そもそも皆が塾いってるって情報自体が大嘘なんじゃないの?もし本当に行ってたなら、どうしてそんなに効率が悪いの?と。必要性を心の底から納得できない勉強は、百万年やっても身につかないんじゃないですか。
そして、これはもうひとつのグッドニュースに関連するのですが、別にお勉強だけが幸せになる道ではないということです。これはタテマエでもキレイゴトでもなく、そう思います。これはもう信念とか、確信とか、そんな”believe”系で力が入ってるものではなく、もっともっと普通で素朴な、それこそ「雨が降ったら濡れる」「ぐっすり眠ると気持ちいい」「美味しいもの食べるとうれしい」とかいうくらいのプレーンな認識レベルです。
これって、日本の大人も子供も全員、直感的に知ってるんだと思いますよ。「本当はこんなことやらないでも別にイイんじゃないか?」って。だから必要性を心の底から納得できてない。納得できない勉強はいくらやっても身につかない。そういうことじゃないんでしょうか。
冒頭に戻って、@とんでもない事態が進行 VS A本質的には大丈夫、ですが、これも同じことだと思うのです。
たしかに、これまでの「生き方マニュアル/幸福マニュアル/人間マニュアル」みたいなものが時代遅れになって、あちこちで破綻してきています。とにかく偏差値の高い大学出て、偏差値の高い会社にいってれば高収入や幸福は保証されるとか、普通にやってれば路頭に迷うような悲惨な事態には一生陥らずに済むとか、コミュニケーションが全然成立しない世代が出てきたとか、年金や保険がアテにならず老後保障に有効なテは無いとか、そういった意味では「とんでもない事態」だと思います。
でもそれって一歩引いてみたら、どれもこれも当たり前の話じゃないんでしょうか。だってさ、この複雑怪奇でどこをどう曲がりくねってるのか分からない人生というものが、たかが一時期のお勉強なんぞで一気にカタがつくという方がよっぽど不自然だと思いますよ。「路頭に迷う」とかいいますが、字義どおりに言うなら、僕らは基本的に常に路頭で迷ってるべきではないのですか。常にストリートに立ち、どちらに向かおうか自分自身の判断を迫られるというのは、生きていくことの基本なのではないですか?「自分はどう生きていきたいか」を常に考えている方が、そんなことを一生考えなくても済むよりも、実ははるかに健康ではないのですか。コミュニケーションが成立しないことも、それもむしろ当然な話、それこそが出発点ではないのでしょうか。
どれもこれも、ある意味では、これまでが不自然であり、やっとマトモな状態に復元しつつあるのだと言えないこともないです。「とにかくそんなにモノ考えないで、それほど努力しないで、一生保障されている人生」というこれまでのスタンダードからしたら、「とんでもない事態」なのかもしれないけど、そもそもそんなスタンダード自体がおかしくないか。
それにそのスタンダード・マニュアルだって、かなり嘘臭いですよ。「いい大学行けば一生安逸・安泰」とかいいますけどね、そんなことこれまでだって無かったと思いますよ。別に東大はいれば一生OK!なんて甘いもんじゃないですよ。東大法学部を首席で卒業して大蔵省入ったとしても、そのあとにさらに激しい競争があり、仕事は超キツイし、入省したらパシリでコキ使われ、アホな政治家にペコペコし、無内容な国会答弁を延々清書させられ、省庁の縄張りを守るために鉄砲玉にさせられ、、、ねえ、我慢我慢の連続じゃないですか。どこが安逸で安泰なのよ。だいたいそういった連中というのは、腕に覚えがあるから、むしろ修羅場を望んでそうなってるわけで、「楽チンだから」やってるわけではないでしょ。
「一生安泰、絶対保障」みたいなキャッチフレーズにまどわされ、安逸どころか、過労死したりメンタル的にぶっ壊れるまでストレスためて我慢してきてるわけでしょ。バランスシートでいえば、むしろ赤字なんじゃないか。なんかしらんけど、過労とかストレスとかいう部分はマイナス計上しなくていいような感じなのですが、路頭に迷いたくない一心で、路頭に迷ってた方が客観的はずっと楽なくらいの苦労をしているという。
それに、「一生苦労しないで楽チンな人生」というものを、僕ら日本人の価値観では否定していたのではないですか。苦労こそが人を育て、成長させるのだと。ろくすっぽ仕事もせずにぶらぶらしてる若者に対して、「世間の厳しさもわかってない半人前」扱いし、新入社員に対して「学生気分が抜けてない」「もっと苦労せーや」という。だから苦労した方がいいと思ってるんでしょう。しかし、一方では「ちゃんといい大学いってないと一生苦労するから」と、苦労は回避すべきものとして扱われている。あー、コンフューズしますね。いったい苦労した方がいいのか良くないのか、どっちなんだ?という。
世の中には、理不尽で意味の無い苦労があり、人間を成長させる意味のある苦労があるんだ、という意見もあるでしょう。僕も全面的に賛成します。でもね、いわゆるエリートコースに乗ったら意味のある苦労で、エリートでなかったら意味の無い苦労になるのでしょうか?I don't think so ですよ。エリートなるがゆえに、めっちゃしょーもない苦労もしますよ。人間性をすり減らし、人格をぶっ壊すような苦労もしますよ。もしエリートが「いい苦労」をしているなら、高級官僚や大企業の役員の皆さんは、すべて人間的に完成度が高く、みなさん高潔であるはずでしょ。実際そうですか?
結局僕は何をいいたいかというと、これまで金科玉条のように守られてきた日本の「生き方マニュアル」みたいなものについて、2点異議があるということです。異議その1、そもそもその基本的な設計思想、つまり「一生自分の人生にメンチ切って考えなくても済むように楽チンになりましょう」という目的そのものがスカタンである。異議その2、仮にその目的を受け入れたとしても、マニュアルの内容はその目的を果たすために有効であるとは全然思えない。
したがいまして、そんなマニュアルとっとと破棄すればよろしいということであり、そのマニュアルが当然のごとく破綻しはじめたとしても、それはマニュアルを信奉する人からしたら「とんでもない事態」なのかもしれないが、僕からしたら「やっとのことで物事がマトモになりつつある」わけで、むしろ良いことであるように思えるのです。
そして、「お勉強と同じこと」と先ほど述べたのは、勉強なんか人生の幸福に本当に必要だとは自分ではちっとも思ってないくせに、他人に勉強を強いているという根本矛盾と、人生なんかそんなに簡単なもんじゃないということを賢くも正しく知ってるくせに、あたかも簡単なものであるかのように他人に強いているという矛盾とで、構造が似てるのですね。
ほんでもって、皆さんは僕よりも賢いんだから、僕の書いたようなことは先刻ご承知だと思うのですね。少なくとも、皮膚感覚としてはわかってらっしゃる筈です。日本方面からは連日「エライこっちゃ」という声が聞こえてくるのですが、僕なんかは、例によって、ペシミスティックに盛り上がって、スリリングな気分を楽しむという、キミタチのいつも遊びでしょ?と思ってるわけです。大騒ぎしながら、本当は腹の底の底の方では、かなりふてぶてしい「日本人の第二人格」というもの寝転がって酒飲んでて、「いざとなれば、なんとでもなるわな」と開き直ってるような気がするのですね。こいつがいるから、楽しげにエライこっちゃゲームをやってられるという。
しかしですね、日本人のかなりの割合の人が、このふてぶてしい第二人格があることを忘れて、身も心も本当にサンゴ礁になっちゃったら、これはちょっとばかりマズイぞ、と思うわけです。ですので、「本当のところはどうなの?」とちょっと思ったわけです。あなたの第二人格は、ご健在ですか?
というわけで、”希望の国のエクソダス”の読書感想文でした。
写真・文:田村
写真は、「あ〜、かったる、、」という月曜の朝の出勤風景。背景のビルはChatswood。
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