今週の1枚(02.10.21)
ESSAY/ どうしてここにいるのか?(あなた編)--その2
前回から続きます。(僕以外の)皆さんは、どうしてオーストラリアにやってきたのか?という話です。
若干重複しますが、前回の末尾から始めます。
話はどこまでいったかというと、リターン組は一回住んだから日豪社会の比較が出来て、日本がイヤだから出てくるという理由がわりと多い、特に人間関係の鬱陶しさを指摘する声が多い、という話でした。
あとは、このまま日本にずっと居ても「先行きが不安」という声もあります。そりゃ、まあ、不安でしょうね。景気はいつ回復するかわからないし、ここまでパッとしない日々が続くとそもそも回復するかどうかすら分からないし、政治もなんだか期待しちゃ失望しを繰り返して段々感情がフラットになってきて脳死みたいになってくるし、病気みたいな犯罪が多いし、人心もスサんでるような気がするし、なにかトータルでぶっ壊れつつあるような気もするのかもしれません。だから、「先行き不安」。分かります。
でも、オーストラリアに来たら不安がないのか?というと、そういうわけでもないと思うのですよ。というよりも、英語もヤバいし、コネもない、就職しうるかどうかもわからない、要するに何もないわけでしょう?先行きとか老後とかいうよりも、はるか手前のレベルで、つまり今日明日レベルで不安バリバリじゃないですか。大体、一生滞在していけるだけの法的権利=永住ビザが出るかどうかすら難しいわけですよ。「居ちゃいけない」という土地、「働いちゃいけない」という社会で、いったいどんな展望が描けるというのか。そんなもん、「不安」とかいう問題じゃないですよ。もうスタート地点はいきなり「絶望」と言ってすら良い。
日本の将来が不安だというのは分かるにしても、だからといって、適法に居続けることすら難しいという社会に入っていくことが、それよりも不安が少ないということはないでしょう。むしろ逆。だから、表面的にみたら、全然理屈になってない。それでも人々は来る。何故か?そもそも我々が普段口にしている安定・不安とはなんなのか?今回はこの点を考えてみたいと思います。
最初に結論めいたことを言いますと、「安定」というのは必ずしも「固定」や「静止」という意味ではない、と僕は思います。英語で言えば、”stable”と”fixed””still”の違いのようなものです。
ダルマさんの起き上がりこぼしがそうであるように、あるいは日本古来の木造建築の柔構造がそうであるように、本当に安定しているものは、むしろよく動きます。自身が動くことによって、変動エネルギーを通過させ、吸収させる。逆にガチガチに固定してあるものは、エネルギーの行き場がないから、一定の限界を超えるとポキリと折れてしまう。柔道などでも安定した姿勢とは、リラックスしたまま、腰を軽く落とし重心を低くキープすることによって果たされます。直立不動にガチガチだったら、いともたやすくコケてしまう。船の復元力のように、いくら揺れても転覆という最悪の事態を避け、最終的には元に戻ること。より幅広い環境への適応性と最終的な復元性、それを指して「安定」というのだと。
社会や、自分自身の人生や精神の安定というのも、これと同じことではないでしょうか。
つまり、自分にとって一番大事なものを正しく選別し、それをもって重心となし、それほど重大でもない枝葉末節は環境の変化に応じて融通無碍に流しておくこと。本当の安定とは、「こうなってはオシマイ」という最悪の事態を避けつつ、「これだけは守らねば」という最も大切なものをしっかりキープすること。その意識とシステムのシンプルさが、安定性を形作っていくのではないか。
安定したいと思ったら、まずは捨てることでしょう。両手一杯に荷物を抱えて階段昇ってたら危なっかしくて仕方ないです。自分にとって本当に大事なものは何なのか、それを見極めて、要らないものは捨てる。捨てないまでも優先順位をハッキリしておく。抱えているのが少なければ少ないほど、バランスは取り易いですから、安定もしやすくなります。
日本からオーストラリアにやってくるという行為は、一見メチャクチャ不安定な状況に陥るように見えつつも、その実、贅肉を削ぎ落としてシンプル&身軽になり、バランスをとりやすくするという意味では、むしろ本質的にはより「安定」するのではないか。
オーストラリアにやってこようという人々は、このことを無意識的に感じておられるのではないでしょうか。
特に二度目以降にやってこられる方は、日本とオーストラリアでの生活をそれぞれを比較体験し、オーストラリアの方がより「安定」しうると直感的に思うのでしょう。まあ、これは僕が勝手に第三者の胸のうちを忖度(そんたく)してるだけなので、全然違うかもしれませんが、当らずとも遠からずだという感じはします。
では、どうしてオーストラリアの方が「安定」するように思えるのか?
それは色々な理由があるでしょうが、パーソナルには、やはりこのシンプルになりうる環境というものが大きな要素になると思います。これはオーストラリアだからというよりは、「外国だから」と言ったほうがいいと思いますが、外国に何もかも運んでくることは出来ません。多少の手荷物程度で、あとは基本的には身一つです。自分の知人も家族も、社会的な立場も仕事も全て本国に置いてくるしかありません。イヤが応でもシンプルにならざるを得ません。勿論、海外にいったからといって親子の絆が切れるわけでもないですし、友人や仕事関係のモロモロが消滅するわけではないです。ただ、取りあえずは距離ができます。その距離が大事で、それだけ離れてスカスカの空間におかれたら、自分にとって何が大事かゆっくり考えることができます。それがキモなんでしょうね。逆に、四六時中ビタッとひっつかれていたら、何がなんだかよく分からなくなりますから。
スカスカ空間に自分を置いてみて、「そうだそうだ、自分って本当はこういうヤツだったんだよなあ」ってのが見えてきたら、自然と気持も落ち着いてくるでしょう。周囲を絶えず見回して自分のポジションを確認しつづけるという面倒な作業をしなくて良くなるだけでも、ずいぶん救われるでしょう。そうこうするうちに、自分にとって何が一番大事なことか/何をしたいのか、これがかなりクリアに見えてくるかもしれません。
いや、ほんとに、優先順位がしっかり見えてくると、楽だと思いますよ。「そんなこたあ、どーでもいいの」って言い切れる領域が増えてきますから、あれこれ思い悩むことが少なくなる。他人に何を言われても気になる度合いが減ってくる。だって、人間って、どーでもいいことに対しては不安になりませんからね。どーでもいい領域が増えてきたら、その分不安のネタも減りますから。そうやってセーブした全エネルギーを、自分の本当にやりたいことに注ぎこめるというのは、これはもう人生の幸福のひとつのありようだと思います。
こういった精神的な欲求というのは馬鹿にしたものではなく、非常に大きなものだと思います。ある意味、人間というのは、精神的な飢えを満たすためなら、なんでもやります。ひどい場合は、法をも犯すし、人をも殺す。最近あまり聞きませんが、許されざる恋に身を焦がして駆け落ちするなんて行動がありますが、あれも表面的な安定度でいえば、真逆さまに墜落するくらい不安定な環境に叩き落されるわけですが、自分の愛しい人という最も「重心」となるべきものさえキープすること、全てを捨ててたった一つの大切なものを選ぶこと、その結果この上なくシンプルになることで、むしろ当事者は至高の幸福を感じ、心は安らぐのではないでしょうか。これほど極端なことはないにせよ、精神的に満たされることで大概の不安は解消され、むしろお釣りがくるくらいになるようにも思います。
こういった個々人のパーソナル&メンタルな要因のほか、客観的な外部環境をみても、やはりオーストラリア社会の方が安定しやすいという点もあるのでしょう。それは、オーストラリア社会の方が流動性が高いからです。
流動性が高いということは現在のポジションがうつろい易いということで、一見するとより不安定のように思われます。例えば、すぐクビになっちゃうこととか。でも、流動性が高ければ、あっさり失業するかもしれないけど、すぐに再就職の機会もあるわけです。求人広告で年齢や性別で条件つけることは、正当な理由のない限り違法です。年齢といえば、幾つになっても大学にもいけるし、自分でビジネスをも起こせる。日本でも別にやろうと思ったらできるでしょうが、周囲のプレッシャーが全然違う。また流動性が高いということは、「あ、間違えた」と思っても、すぐに取り消して、次のアクションに移れるということです。これは生きててかなり楽です。枝葉の部分で間違えても、それほど大きな拘束を受けないで済む。つまりは枝葉末節に縛られない、これが楽な理由だと思います。
日本の場合はこの逆で、融通がききにくいし、枝葉末節に縛られるケースが相対的に多い。例えば出身大学がどこかなんてのは、こっちではそう大きな問題ではないし、大学を出たかどうかすら普通につきあってたらそう話題にならない。というよりも、こっちの人は40歳になっても60歳になって平気で大学に行くから、結局、「既に大学に行ったヤツ」と「まだ行く必要性を感じてないヤツ」でしかいないわけですよね。でも日本では、学歴や出身大学というのは、ある意味一生付きまとってしまう。でも、出身大学が自分の人生にとって「最も大事なこと」になる人ってそんなに多くはないと思う。だからどっちかといえば枝葉末節に属することなんだけど、枝葉末節だからといってホイホイ切り捨てるわけにはいかない。だもんで、やりたくなくてもやらざるを得ない。
このように、本人の意思に関わりなく、「とりあえず押さえておかねば」という事項が多い。大学入試から、毎日の洋服や化粧品の選定に至るまで、とりあえずやっておくことべきリストが長い。やってる間に日が暮れてしまう。また、それを間違ったら、なんだかんだで後に尾をひく。枝葉に縛られることが多いということは、逆に言えば、優先順位をつけにくい、シンプルにしにくいということでもあります。
前述のとおり、「安定」というものが、復元力の高い柔構造性だとするならば、日本社会は固定性は高いけど、安定性は低いと言えるかもしれません。もう両手一杯あれこれ抱えて、全方位外交を繰り広げ、モノに囲まれ、ローンに追われ、メンテに追われる。これだけ大量に継続案件を抱えていたら、普通に歩くだけでもバランスを崩しそうです。人によっては一輪車に乗りながらお手玉やってるような日々になったりもします。こんな面倒なことをやってたら、階段なんか容易に踏み外しそうですし、ましてやここ一番というときに崖っぷちの道をつたわったり、丸木橋を渡ったりしたら、まあ墜落してしまうでしょう。でも、長い人生、必ずやどっかで飛ばねばならないこともあります。例えば、どう考えても自分の会社が先行き危なかったりしたら、即刻逃げるべきなんだけど、ローンを抱えて、人間関係に縛られてたら、飛ぶべきときに飛べなくなります。でもって、一蓮托生で共倒れなんてこともないとは限らない。
安定性というのは、いくらボコボコにされようとも息の根だけは止められないという打たれ強さであり、しぶとさだと思うのですね。だから本当は、失業しようが、家が火災で全焼しようが、住宅ローンで破産しようが、自分の家族が犯罪おかして刑務所に入れられようが、はたまた自分がタイホされようが、そのくらいでは全然大丈夫、まだまだ息の根は止められない、どっこい生きてるという状態が、本当の意味での「安定」なんじゃないかって思うのです。
だから、日本人は安定を好むとか、○○という職業は安定してるから、、、とかいうのは、安定というよりも「固定」なんだと思います。固定されてるから、取りあえずは動かないし、どっしりしているように見える、安心できるイメージがある。しかし、なにかちょっとした地殻変動があったら、たちまち崩壊してしまうモロさをも内包しているようにも思えます。それを本能的に感じるからこそ、よりゴテゴテと固定しようとする。その結果、より硬直するからよりモロくなり、より不安になる。悪循環です。
社会やそこに住む人々の固定度が高いほど、地面は動いて貰っては困ります。固定度が高まるほどに、ポッキリいっちゃう危険性も高まりますので、ますます変化してもらっては困るようになる。しまいには変化や変革が必要なときであっても、なかなか動こうとしなくなる。人々の間に、動くこと自体に対するアレルギーが生じてしまう。良い方向ならチャッチャと動き、悪い方向ならピタッと止まるというメリハリがなくなり、とにかく「動きたくなーい」っていうメンタリティになってしまう。ちょうど寒い冬の晩にコタツに入っているときのように、トイレにいきたくて堪らないんだけど「動くのヤダ」って感じになる。小泉改革で「抵抗勢力」というフレーズが流行りましたが、抵抗勢力という妖怪の本体は、皆の中に知らずに蓄積されていった変化アレルギーなのかもしれません。
というわけで、「日本の将来が不安定」というときの安定感の無さは、「このままいくといつかポッキリいくのではないか」という種類の不安なんだと思います。
これに対して、オーストラリアにやってくるときの不安定さ=つまり、ビザが無いとか、職があるかどうか分からないとか、とりあえず今日泊まる所も決めてないという不安定さというのは、自ずと性質が違う。これらの不安定さは、ある意味、枝葉末節です。ビザが無いなら取れるように頑張ればいいし、職が無いなら探せばいいし、宿なんかこれも探せばいいだけのことです。そんなに大事なことではないし、それらが枝葉であることがクリアになっている。何がメインでなにがサブなのかそれがクリアになりつつある人間にとっては、枝葉末節の不安定さはさして思い患うことでもないです。
ワーホリさんなんかでも、最初に日本からやってくるときは「最初の宿くらい決めておかないと不安」と多くの人が口にされます。ところが、これが数ヶ月もしてくれば、かなり余裕が出てきます。「とりあえずちょっとバッパ-にでも泊まって、それからシェアを探しますよ」と、いとも事も無げに言うようになります。これは殆んどの人がそうなります。あなただってそうなるでしょう。二度目以降にやってくる人になるとさらに余裕です。
これは現地の生活に慣れ、現地の生活ノウハウを覚えたり、自信がついたからそうなるのでしょう。でも、それだけではないと僕は思います。もっと心理の深いところで何かの変化が起きているんじゃないかなあって気もするのです。つまり、「今夜の宿」程度の枝葉末節は、正しく枝葉末節に過ぎないのだと認識できるようになるのではないか。もっといえば、寝る場所がどこであるかなんてことは、自分の生活において本当はそんなに大した意味を持たないのだと割り切れるようになっていく。
この逆に、異様に細部にわたってこだわる人もいます。枕が変るともう眠れないとか、シャンプーは○○社製のものでないとダメで、カーテンの色は○色でないとダメで、コレを食べないとダメ、これを聞かないとダメ、という具合に。そんなにダメなものが多かったらさぞ生きにくかろうと思いますが、客観的にはどう考えても枝葉末節に過ぎないことでも、非常に重大なことのように思えるのでしょう。僕から見てたらその優先順位のつけかたに疑問を覚えたりもします。
ところで僕は、そして多くの人においても同じだと思うのですが、この世で一番優先順位の高いものというのは、「自分が本当の自分であること」だと思います。自分が自分であることを心から納得できている状態が全てに優先するんじゃないかと。だって、「これって本当のオレなんかなあ?」と心の底でなんか違和感を感じながら、幾ら金貰っても、いくら美味しい物食べても、なんとなく釈然としないことないですか?自分のことを完全に誤解され、しかもとんでもなく美しく誤解されてるがゆえにモテてしまったときのような居心地の悪さ。そして、自分が自分であるために、やれマクラがどうしたとか、香水がどうしたとか、そんなに小道具が必要かあ?って思ってしまうのですね。
おなかのなかに自分が気持ちよくキープされてたら、大抵のことはどうでもよくなります。そりゃあマクラは気持いいものの方がいいですし、ゴハンも好物を食べられたらうれしいです。でも、「そうでなきゃ死んじゃう」という程の重要性はないです。同じように、こちらにやってきた人々も、「今日の宿」くらいのことは最初の頃に比べればどーでもよくなってくるのでしょう。それは、優先順位のメリハリが知らないうちについてきてるからだと思います。そして、それを延長していけば、別に失業しようが、ビザ取りに苦労しようが、多少手続きが面倒くさくなるだけで、それほど全人格的問題ではなくなっていくのだと思います。
仕事をやめてこちらに来られた人に常々申し上げていることがあります。オーストラリアにやってきた当初の頃は、「この先はオレはどうなってしまうんだああ」と奈落の底に落ちるような不安を感じられるでしょう。だけど段々その頻度が落ちてきます。半年もすれば、自然とそういうことを考えなくなり、不安も薄らぎますよ、と。そう言いながら、僕も自分自身なんでそうなるのかな?と不思議でもありました。でも、こちらに住んでいくうちに、自分にとって何が本当に重要で何が不要なのか、優先順位の選別が済むんでしょう。理科の実験のように、試験管を静かに立てておくと、時の経過にともなって自然と内容物がそれぞれの比重に応じて、沈殿する物は沈殿し、浮くものは浮いてくる。そうやって自然に分離されていくのだと思います。その分離期間が人にもよるけど半年くらいかな、と。
逆に日本という環境は、絶えず試験管をグルグル攪拌しているようなもので、重いものも軽いものも、大事なものもそうでないものも、一緒になって渦をまいて浮遊してるから、何が大事なのかよく分からなくなりがちなのでしょう。これはより巧妙になったマーケティング戦略にもよるのでしょう。「不安に陥らせ→買わせる」という。いまどきそんなの知らないのはキミだけだよ、ちょっとイケてないよ、馬鹿にされちゃうよ、と。老後の備えについても、やれ1億2500万は必要とか、いや3億は必要だとか。「ええ加減にせえ」って思いますけどね。そんなに要るわけないじゃん。子供一人産んだら2000万は必要とかさ。嘘も大概にしろって言いたいです。もし本当にそんなにかかるのだったら、そしてそれしか道がないのだったら、普通にまっとーに生きてて経済的理由で子供を得るという人間、いや生物最大の喜びを得られないのだったら、そんな社会は狂ってる。ハチやアリ社会にも劣る。構成員のより根源的な欲求を、より安定的に満たすことこそが、社会の存在理由ではないのか。
こんな下らない子供だましの魔法にひっかかるのは、皆と同じでないとミジメであるという呪文をかけられてるからでしょ。「せめて人並みに」という念仏を終始となえている、新興宗教「人並教」にひっかかってるからでしょ。大体なんで人並みでないとアカンのよ?自分の好みを、自分の価値判断を、自分の幸せを、より突き詰めて精密に考えれば考えるほど、人並みという一般平均値から外れてくるのは当たり前でしょう。それが個性ってもんでしょう。パーソナルな幸せとは、いかに人並みから外れていくかではないのですか?魔法に対抗してこっちもレトリック魔法を使うならば、人並みを目指している以上絶対に幸福にはなれないです。これはもう論理必然的に不幸になります(^^*)。だってさ、自分の幸福を知りたいなら自分自身に聞くしかないもん。他人見てても意味ないもん。今自分が何が食べたいのかは自分に聞くしかないでしょ、他人に聞いても仕方ないでしょ。早い話が、的確な自己認識なくして幸福なし、です。それなのに他人ばっかり見てたら、自分を見る機会がなくなり、自己認識も薄らぎ、ゆえにそんなことしてたら絶対に幸福になりえない、とね。まあ、これは余談ですが。
ところで、つらつら考えていくと、日本からオーストラリアにやってくることその行為自体が、安定度を増し、不安を解消する化学作用をもっているようにも思えます。なぜって、こちらに来る時点で、まず自分の人生というか生活環境に対して大鉈振るってリストラをするでしょ?多くの場合は仕事を辞めて来られますから、それだけでも大変革です。そうやってバサバサ切っていくと、それだけで随分身辺はシンプルになります。これは人によって、状況によって違うかもしれませんが、シンプルになると心細くて不安になりそうなんだけど、多くのはその逆で、シンプルになればなるほど妙な安定感や安心感が出てくるように思います。
それはシンプルになる過程で、自分なりに優先順位をつける作業をやるからでしょう。そして、なにが大事なのか、なにが要らないのか、イヤでも考えますから、自ずと守るべきものが減ってくるから楽にもなります。楽になれば、気持も落ち着いてきますし、安定もするのでしょう。
だいたい世の中何が不安といって、自分が何やってんだか分からないということくらい不安なことはないでしょう。「本当にこんなことやってる場合なんだろうか?」「こんなことしてていいのか?」「なんのためにコレやってんだろうね?」とかチクチク疑問には思いつつも、忙しいから深く考える暇もないままとにかく毎日切り回している、、、、そんな日々に感じる不安、自分の現在位置がよく見えない不安というのは、結構イヤなものだと思います。濃霧のなかの山道を「もしかして道間違ってるかも、、」と思いながら車を走らせているようなイヤな感じ。それに比べれば、リストラやって、クリアに見てきたら、その種の不安は解消します。そしてこちらにやってくるという行為それ自体が、不可避的にリストラ作業を伴うだけに、論理必然的に不安解消効果があるんじゃないかと。
こう考えると面白いですよね。
要するにオーストラリアが素晴らしいとかそういうことよりも、自分自身をリストラすることによって救われてるわけですよね。これは一種の脳内革命であり、要するにオーストラリアは単なるダシに過ぎないという。
ただ、ダシにしても、オーストラリアはダシにしやすい国だとは思いますよ。物質的な面では実はそんなに日本と大差ないですからね。これが砂漠とかアマゾンとかシベリアとかいったら、まず物質的な環境変化で大変だから、ダシにするには強烈過ぎます。オーストラリアも、やれ電化製品がダメとか細かな点は幾らでもあるけど、生水飲めるし、治安もそこそこいいし、大雑把な社会のシステムや気候などなど、物的な面では日本とそう違わないからあまり思い煩うことはない。他方、日本とオーストラリアの違いというのは、ほとんどが生き方とかメンタリティに関わることだったりします。人々のモノの考え方が日本と違う、それに触発されて目からウロコが落ちたりもしますし、気が楽になったりもしますし、やる気がでたりします。つまりはメンタル治療に向いてる国なんでしょうね。
オーストラリアに観光旅行される人は、オーストラリアの物質的な差異、つまりはエアーズロックとか、地平線が見える荒野であったり、グレートバリアリーフであったり、そういった物的なものを求めてこられるでしょう。でも、長期で滞在するつもりの人は、精神的な差異を求めてくるのですね。それも初回よりも、二度目、三度目と精神性の占める割合が高まってくる。その意味で、日本人からみたら、オーストラリアというのは精神的な大陸なんだと思います。
というわけで、オーストラリアというのは、自分リストラの脳内革命をやろうとする場合、格好のダシにしやすい国なんだろうなと思ったりもするわけです。
このようにオーストラリアというのは「リセットし易い環境」という意味では良いのですが、リセットだけしてそれで終わりというものではないです。ああ、だが、しかし、人生は続く、、ということです。
既に紙幅も尽きつつありますので、またここから先は次回になっちゃうのですが、オーストラリアというのは居心地いいだけに、リセットしてそれで終わりになってしまうという危険性もあると思うのですね。本当はリセットしたら、そこからまた本当に自分の納得できる人生構造や価値基準にのっとってガンガン進軍すべきなんですけど、そうならない。リセットしたまま止まってしまうという。そこから前に進まず、モラトリアムになっちゃうという恐さもあると思うのです。
次回はそのあたりの話をします。
写真・文:田村
写真はHornsbyの広場
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