今週の1枚(02.10.14)
ESSAY/ どうしてここにいるのか?(あなた編)
前回は、僕はどうして日本を離れてオーストラリアにやってきたのかということを、改めて書いてみたのですが、じゃあ、今度はあなたの番です。あなたはどうしてオーストラリアにやって来た or 来ようとしている or 漠然と思っている、のでしょうか?
この種の仕事をしておりますと、沢山のメールを戴きます。のべでいえば数万通になるでしょう。実際に僕が空港までお迎えにいってサポートしたり、あるいは訪ねてきていただいた人も、累積すれば数百名、腰だめの数字でいえば400-500名を超えているんじゃないかと思います。ただこの数字そのものはそれほどスゴイ数字ではないです。なぜなら、こちらに住んでいれば、会う日本人はほぼ「オーストラリアにやってきた人」です(マレにはこちらで生まれ育った日本人(=正確にいえば日本人の親を持ったオーストラリア人なんだけど)もいますが。だから、こちらに住んでいる日本人は、皆さんかなり大量の「オーストラリアにやってきた日本人」と接していることになります。
しかし、僕の場合は、自宅兼事務所のゲストルームに提供している関係で、数日から一週間程度の短い期間とはいいながら、これらの人々と一つ屋根の下で過ごしていたりします。年間100人は来るでしょうから。年間100人とシェアしてる人は、そうそういないんじゃなかろか。
一緒に寝泊りしていれば、まあ夜に一杯飲みながらお話する機会もふんだんにあります。「どうしてオーストラリアに来たのか」という話題も、まあ、ナチュラルに出てきますよね。色々な方が色々なパーソナルな理由をお持ちであり、その千差万別といってもいいのでしょうが、やっぱりおさまる所におさまるというか、ある種のパターンというものがあるように思います。今日はその話をします。
分かり易いところからいいます。初めてオーストラリアに住もうとする人達と、かつてワーホリや留学などでオーストラリアに住んだことがある人が一旦日本に帰ったあと再び(三度)オーストラリアにやってくるパターンとがあります。
前者のケースの渡豪理由がパーソナルなものが多いのに対して、後者の場合は「日本がイヤになった」「住み心地の良さ」という外部的な理由を口にされる度合いが強くなるように思います。
これは分かるような気がします。僕にも経験がありますが、初めてやってくる場合は、まだオーストラリアに住んだことがありませんから環境的な比較はしにくいです。そこでは、居住環境の優劣や好悪の比較ではなく、「既知なるもの VS 未知なるもの」という図式になりやすいです。未知なる世界ですから、そこに飛び込んでいくには当然不安もタメライもあるでしょう。結果の保証も何もありません。具体的にクリアに予測できる何かが欲しくてそれを行うというよりは、「なんだかよく分からないけどやってみたい」ということであり、理由はかなり茫漠としてきます。「なんだかよく分からないもの」には客観的な価値付けはしにくく、いきおい主観的な価値付けに傾きます。つまり分からないことを「やる」という行為それ自体になにかの価値を感じるという。
例えばワーホリで来られる人に、なんでオーストラリアにしたの?と問うと、「カナダは寒そうだし、ニュージーランドは小さそうなので」という、いわば消去法的な選択でオーストラリアを選ばれた人が多いです。じゃあ、どうしてワーホリをやろうと思ったのか?というと、「ワーホリという制度があったから」という「そこに山があったから」的な答が多いです。これは別に、皆さん、はぐらかして答えようとしているわけではないと思うのですね。核心部分は上手く言いにくいのでしょう。というか、どう答えても嘘になるというか。「来るべき国際化の時代に備えて、見聞を深め、視野を広げたいと思いました」と答えることは出来るでしょう。それも間違ってはいないでしょうけど、なんか大義名分というか、よそ行きの答なんですね。
同じく英語を習得するために留学される場合も、一応「語学習得のため」という理由が明確にあるように見えて、じゃあ「そんなに英語をやらなきゃイケナイのだろうか?」と突き詰めて考えてみたら、実はそんなこともないのですね。日本で暮らして仕事をしていく場合、別にそーんなに英語が出来なければならないという差し迫った要求があるわけではないです。そりゃ英語が出来るに越したことは無いでしょうが、運転免許やパソコンスキルほどにも必要とされるわけではない。逆に言えば、英語スキルをもって、日本でなにかのアドバンテージを得るのは難しいです。だから、どうしても英語を習得しなければならないという立場に置かれている人もまた少なく、多少その必要性があったところで駅前留学でクリアすることも可能ですし、休学したり、仕事をやめたり、家を明け払ったりなどの多大な犠牲を払ってまで留学しなければならないほどのこともないのではないか?だから留学の本当の目的ななにか?というと、単なる語学習得以上のもの、「よく分からないけど海外で暮らしてみたい」という漠然とした理由が横たわっているように思います。
「なんだかよく分からないもの」を「やる」という場合、その「よく分からない」という部分にこそ価値があるのだと思います。そこがパーソナルな理由のパーソナルたる所以(ゆえん)なのだと思いますが、「よくわかっているもの」だけで自分の人生や将来を組みたてていこうとすると、どうにも煮詰まったり、手詰まりになるような感じがするのかもしれません。進学、就職、キャリア、結婚、マイホーム取得、老後の設計、レジャー、、という周囲にある物事だけでは何となく満たされない。果たしてそれでイイのだろうか?燃えるような人生になるのだろうか?そもそもそれらの物事を行うに足るだけの自分自身というものが出来上がっているのだろうか?Am I ready? という。
そこで例えば、自分自身のリストラクチャリング=文字通り”再構築”作業をしたくなる人もいるでしょう。なんか年齢が進むにつれ、目の前に定型メニューを出され、就職か進学か、文系か理系か、四大か短大か、業種はどれか、結婚か共働きか、「お選びください」とばかりにメニューが突き出され、「じゃあ、これかな」で選んできたわけですが、だんだんそれが進むにつれて「ちょ、ちょっと待って」と言いたくなる。コースメニューの「紅茶 or コーヒー」みたいに、出来合いのものを選んでいくだけの人生かい?みたいに。
そのあたりの割り切れなさというのは、僕の場合はかなり明確に言語化して意識していたと思います。「本当にそれしかないんか?」という。それは僕がそういうことを考えるのが好きだからというよりは、当時パソコン通信の自分の会議室でこういうエッセイなどを書き綴ってたり、仲間を集めて会社作ったりとか遊んでたという環境が大きかったです。こうやって文章書いて言語化してると、一人カウンセリングみたいなもので、「そうか、俺はそう思っているのか」とかなり明確になりますからね。また、異業種交流などで業種の枠を越えて遊んでると、「世の中いろいろあるのね」というのも実感として分かってきますから、それも大きかったのでしょう。ただ、多くの人はそんなヒマなことやってませんから、もっと漠然とした感じで意識していると思います。
このあたりの一人一人の内面に根ざした真の理由は、文字通りパーソナルなものですから、ここで僕が全てを知りうべくもないし、また書き尽くすことも不可能です。ただ、最初にやってくる場合というのは、かなり内面的でパーソナルな理由をそれぞれをお持ちなのではないか、「なんだかよく分からないものを敢えてやりたいと訴える、自分の心の中にあるなんだかよく分からない欲求」を、疼くように、鈍痛のように感じられているのではないかと思います。そこでは、「狭い日本は住み飽きた」とか「もうこんな国イヤ」みたいに外在的な理由ではなく、内面的な理由の方が大きいように思います。実際、日本での生活自体はうまくいってる人の方が多いですからね。
これに対して、かつてオーストラリアで暮らしていた人が再びやってくる場合、いわゆる”リターン組”もまた沢山おられます。これもいろいろなバリエーションがあって、@大学の頃休学して留学→就職して数年を経たあとワーホリで再度渡豪、A仕事をやめてワーホリで渡豪、帰国後数年してから今度は学生として留学、B気分転換的に3ヶ月ほど観光ビザで滞在→その後本格的にワーホリや留学で渡豪、C留学・帰国後、今度は真剣に永住権取得を目指して渡豪、などなどです。なかには日本に帰国して一週間でまたオーストラリアに戻ってきたという分かり易い人もいます。
これらのリターン組の皆さんの場合、かなりクリアに「日本の住みにくさ」というものを意識されている人が多いです。これはこれで分かるような気がします。一度目の渡豪で、上述の内面的なものはある程度解決してますし、今度はこちらの生活環境もわかってますから冷静に比較することも出来ますから。
またこちらの社会を知ることによって、それまで気づかなかった日本社会の種々の病気みたいな問題に気づくことも多いのでしょう。だから、リターン組の人々を十数人集めて、じっくりインタビューして本を書いたら、日本の現状に関する面白い分析本になるかと思いますよ。ただしそこで語られるであろう「イヤな理由」というのは、多分あなたにとって何ら物珍しいものではないでしょうけど。例えば、「人間関係が面倒くさいから」という理由は、別に珍しくもないでしょう?だいたい、人間関係になんらかの問題性を訴えない日本人なんか、僕はかつて会ったことがないです。「日本の人間関係、サイコー!」と手放しで激賞している人って、周囲に居ます?
余談ですが、改めて読んでいる司馬遼太郎氏の「この国のかたち」という本に、”日本人は常に「公」の観念の下にあり、それがゆえに常に緊張しており、時として暗鬱ですらある”、”これに対して中国人はリラックスしている”、”中国人の「公」観念の無さを嘆き指摘したのが孫文だった””日本人の「公」の観念はさかのぼれば鎌倉時代の「惣」制度にいきつくのではないか”などなど興味深い記述がありました。まだエッセイにしてここで書けるほど消化しきってないのですが、おそらく日本人が自身指摘する「人間関係の鬱陶しさ」というのは、そのあたりの歴史的な社会特性にまで遡るのだろうなと感じます。”社会的遺伝子”みたいなものです。これがあるから鬱陶しいのでしょうが、これが無かったら明治維新も戦後復興もなかったのかもしれません。
余談から徐々に本題に戻りますが、人間関係の面倒臭さを指摘する人は多いのですが、じゃあ具体的に誰と誰がイヤなの?というと、実は周囲にいる人々は皆良い人だったりするのですね。フラッシュアイディアですが、日本人の個々具体的な人間関係のというのは、昔の日本に比べればむしろ良くなってるかのようにさえ思います。昔は、親と子の確執というのは憎悪レベルにまで煮詰まったるするのも珍しくないですし(志賀直哉の暗夜行路とか)、嫁姑のバトルも激しく、女性週刊誌の特集なんかでも「鬼嫁」なんてフレーズが出てたりしましたが、いまどきこんな言葉は死語でしょう?イジメといっても、戦時中の軍隊内部のイジメ、疎開先でのイジメなんか日常茶飯事でしたし、公の制度としての村八分なんかがあったくらいですから、人間関係の不愉快な緊張というのはむしろ昔の方がダイナミックにハードだったようにも思えます。
それにこちらに来てから感じますが、世界のほかの民族の人間関係の方がもっと暑苦しいようにも思えます。ファミリーの結束の強さという意味では、イタリア系でも、ユダヤ系でも、中国系でも、どこでもそうですが、日本の比ではないくらい厳しかったりするのではないか。とあるレバノン系の家にお邪魔してた知人が言ってましたが、もう30分おきくらいに誰か親戚や知人が家を訪ねてくるという。落ち着く暇がない。もし日本で30分おきに親戚が訪ねてきたら(それも全くの普通の平日に)、もう鬱陶しくて発狂するんじゃないかしら。ヨーロッパ系、とくに個人主義の発達したアングロサクソン系であったとしても、個人主義であるがゆえに逆に敢えて(日本人からすると)わざとらしいくらいのファミリー中心的な発想があるのではないかと思います。だって、実家が近所だったら、毎週週末実家に顔出してたりしますからね。クリスマスのファミリー主義は、日本人の元旦を越えるものがあると思う。ボンダイに住んでる人は週末の朝など注意して見ておかれるといいと思いますが、あそこはユダヤ人の多いエリアですから、敬虔なユダヤ教徒ファミリーが、黒い帽子をチョコンとかぶって一家で礼拝に出かけてたりします。日本でそんなことします?毎週毎週日曜に一家揃って礼拝(ではなくてもいいから、どっかに)出かけるとか。
思うのですが、日本人というのは、実は世界でも有数の個人主義的な民族なのかもしれません。そう思えるフシもあるのですよ。例えば語学学校などで民族ごとに固まったり、コミュニティを作ったりするのですが、僕が通ってた頃には日本人が一番固まってなかったです。ほんと個々バラバラ。固まること自体を罪悪視=せっかく海外に出てきて日本人同士ツルんでいることをイケてないとして排斥する態度とかね。実際にシドニーにも日本人が多い地域というのはありますが、それはイタリア人におけるライカードとか、中国人におけるチャイナタウンみたいな感じではないです。そこはかとなく日本人が多いというだけのことです。
さらに、うがった見方をすると、日本で盆暮で帰省ラッシュになったりしますが、本当にそこまでしてパパとママに会いたいと思ってるのかなあ?と。大体その正月などには、鬱陶しい行事イヤさに、国民一丸となって海外旅行にいくわけでしょ?仕事が忙しいとか口を開けば言うのも、「忙しいから不義理をすることもあるかもしれませんが、よろしくね」という、面倒な人間関係を回避するためのエクスキューズとして使ってる気もするのですよ。だから、また国民一丸となって忙しがってる、忙しくなくても忙しいフリをする、あるいは仕事してた方が、法事かなんかで親族一同と顔を合わせてるよりはまだしも気楽という側面があるんじゃなかろか。だってさ、日本人は働きすぎとかワーカホリックとか言うけど、5時過ぎたら電車は帰宅ラッシュになるじゃないですか?気楽な飲み歩きで繁華街が満杯になるではないか、つまりはそれだけ大量の人々が職場から解放されているってことでしょ?僕も日本にいるとき、これからまだまだやらねばならない仕事の量にウンザリしながら、夕方5時過ぎに事務所に戻る途中、例えば大阪は谷町線南森町の駅で、帰宅の途につく雑踏を逆方向に進みながら、「いいなあ、お前ら帰宅できるんだからなあ、なんだよ、日本人働いてないじゃん」って思った記憶があります。
日本人はワーカホリックで、家庭をないがしろにして、精神的に荒廃していく、、、とか、色々言われてますけど、もしかしたらですよ、日本人って諸外国に比べてファミリーってそんなに好きじゃないんじゃないのかな?ワーカホリックが解消されて、暇を持て余すようになったとしても、だからといってファミリーをもっと大切にして生きていくか?というと、案外そうならないような気もしませんか?日本人というのは、もっとてんでバラバラに各自が勝手に好きなことをするのが気持いいのではないでしょうか。江戸時代の都市生活者、横丁の熊さんとか八っつあんとか、落語の世界などで垣間見る限り、なんかもっとバラバラでサバサバしてたような気もするのですね。だって、独身者が多いし、横丁のご隠居さんとか家族と一緒に暮らしてないし、大工の佐吉っつあんは「カカアと二人暮らし」とモロに核家族だし。それに親子の縁を切る「勘当」という慣習がありますが、あれって諸外国にあるのかしら?
だから逆説的に思うのですけど、日本人というのは意外と単体バラバラに勝手に過ごしていくのが好きな連中なのではないか、だからこそ、だからこそです、多少の人間関係であっても鬱陶しく思えてしまうのではないか、と。それが明治維新→戦時中→戦後復興という、日本史的には例外的な国家的エマージェンシー状態で一丸となってビルドアップする必要があったから、好き嫌いを言ってられる余裕もないまま強力に暑苦しい社会に一時的になったのではないか。でもって、経済的に余裕が出てきたら、「ちょっと暑苦しいな、これ」と素に戻って感じる余裕も出てきた、と。
いや、なに、そんなに真剣にそう思ってるわけでもないのですが、そうも考えることが出来るなと、そう考えても面白いよな、という程度の思い付きですけど。でも、幾分かは真実も含まれているようにも思いますけど、あなたどう思いますか?
話はどこまでいったかというと、リターン組は一回住んだから日豪社会の比較が出来て、日本がイヤだから出てくるという理由がわりと多い、特に人間関係の鬱陶しさを指摘する声が多い、という話でした。
あとは、このまま日本にずっと居ても「先行きが不安」という声もあります。そりゃ、まあ、不安でしょうね。景気はいつ回復するかわからないし、ここまでパッとしない日々が続くとそもそも回復するかどうかすら分からないし、政治もなんだか期待しちゃ失望しを繰り返して段々感情がフラットになってきて脳死みたいになってくるし、病気みたいな犯罪が多いし、人心もスサんでるような気がするし、なにかトータルでぶっ壊れつつあるような気もするのかもしれません。だから、先行き不安。分かります。
でも、オーストラリアに来たら不安がないのか?というと、そういうわけでもないと思うのですよ。というよりも、英語もヤバいし、コネもない、就職しうるかどうかもわからない、要するに何もないわけでしょう?先行きとか老後とかいうよりも、はるか手前のレベルで、つまり今日明日レベルで不安バリバリじゃないですか。大体、一生滞在していけるだけの法的権利=永住ビザが出るかどうかすら難しいわけですよ。「居ちゃいけない」という土地、「働いちゃいけない」という社会で、いったいどんな展望が描けるというのか。そんなもん、「不安」とかいう問題じゃないですよ。もうスタート地点はいきなり「絶望」と言ってすら良い。
日本での将来が不安だというのは分かるにしても、だからといって、適法に居続けることすら難しいという社会に入っていくことが、日本よりも不安が少ないということはないでしょう。むしろ逆でしょう。だから、表面的にみたら、全然理屈になってない。それでも、人々は来る。何故でしょう?そもそも人々が口にする、不安とは、将来とは、安定や安心というのはなんなのか?
というところで、これ以上展開してたら、またまた途方も無く長くなってしまいそうです。続きは次回に。
写真・文:田村
写真は夕暮れのNorth Sydneyのシルエット
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