今週の1枚(02.10.07)
ESSAY/オーストラリア ”原っぱ” 論
このホームページを始めたのは96年10月でしたから、なんと開設以来6年も経過していることになります。コンテンツの殆どは、初期の頃にヒマにまかせて書き綴ったものですから、アップデートが必要なものも沢山あると思います。しかし、なかなか手が廻らないのが実情です。先日やっとのことで「APLACとはなんぞや」という自己紹介のようなページを更新しましたが、沿革とか経過説明の部分は大幅な改訂をしたわけですが、核となる部分、つまり「なんでこんなことやってんの?」という部分は、殆ど修正の必要がありませんでした。
「なんでこんなことやってんの?」という中核部分は、同時に「なんでオーストラリアにやってきたの?」ということでもあります。この部分は変らないですね。まあ、過去どう思ってたか?という歴史的な事実は、いくら時間が経過しても変るわけはないのですが、今現在どう思ってるのかという部分も変化していないです。「過去自分は”なにか”を思ってオーストラリアにやってきた→オーストラリアで”なにか”を感じた→その”なにか”を伝えたくてHPをやっている」という一連の過程の”なにか”は、変っていないという。
そんななかで暮らしていると、それまで無意識的に思っていた「国内か海外か」の二元論はあっさり崩壊しました。「海外」という名前の国は無い。そして同じ国/社会であっても、人々の生き方、そしてそのパターンとしての生活と文化はさらなる多彩さで広がっており、突きつめていけば「個人の生活のしかた」というのは無限のバリエーションをもって存在しうるのだということでしょう。単純な国内国外二元論から、世界多元論を通り抜け、たどり着いたのは人間とその生活の多元論でした。簡単に言ってしまえば「いろいろな生き方があってもいいんだなあ」ということです。
というのは最初に書いた文章であり、最もキモとなるべき部分ですが、ここだけは一字一句に至るまで修正する必要がなかったです。読み直してみて「そうそう、いいこと言うじゃん」みたいな感じで(^^*)。
ところで、さして誤解はされていないと思いますが、もう一度書きますと、僕が日本からオーストラリアにやってきたのは、別に日本がイヤになったからではありません。もっとパーソナルな理由です。かといって、日本における自分の人生がイヤになったからでもないし、その将来性に特に疑問を感じたわけでもないです。実際弁護士6年やって、開業資金も貯めて、さあ独立開業だという時点でしたから、将来の道筋も見えていましたし、安定しているといえば非常に安定しているでしょうし、安定度は時間の経過とともにさらに高まっていったでしょう。これで文句を言ってたらバチが当るような状況だったわけです。
いきなり横道にそれますが、どうも日本の社会においては、就職や生活における大きな達成目標というか、成功の尺度は、「安定」だったりするようです。就職先のチョイスで官公庁や大企業が好まれるのも、「大きな舞台の方が面白そうな仕事ができるから」とか、「ペイがいいから」という点もあるでしょうが、なによりも「倒産や失業の心配がなく、安定しているから」という理由が一番メジャーな理由として取り上げられたりしてますもんね。いわゆる「安定志向」というやつです。就職に限らず、老後のための年金、保険などへの興味の高さ、貯蓄性向の高さは世界的にも群を抜いているでしょう。アリとキリギリスでいえば、かなりアリさん度が高い。世界の人々の平均はもっといい加減ですし、オーストラリアなんかでも見てたら「100円稼いだら120円使う」みたいな感じですから、もっとキリギリスっぽいです。
僕は、生まれつきなのか後天的なのか、多分その両者なんだろうと思いますが、安定=成功という意識が薄いようです。これは引越し十数回、家業の転業も数回というこれまでの生育環境からして、変わることに慣れっこになってしまって、そもそも「安定」ってどんなモンなんだかよく分からないってこともあります。また、「変る」ということはそれほど悪いものではないと、わりと好意的に思ってる部分もあるのでしょう。
じゃあ、僕はキリギリス的に、ケセラセラで楽天的な性格かというと、これが意外とそうではないです。実際かなり堅実な方だと思います。お金貯めるのはわりと上手かもしれない。そうかといって、積立定期なんかやったことないし、財テクなんかも興味ないです。さらに保険とか年金とかも全く興味ないですし、かける気もないです。「どこが堅実で、蓄財家やねん?」といわれるでしょうが、それは非常にシンプルで、貯めたいと思ったら「いっぱい働く」&「お金を使わない」だけです。貯めたお金を「有利に運用」なんて考えないです。働かないで金が増えることを、そんなに素晴らしいことだとは思ってないし、働くのは嫌いじゃないですからね。それと、学生時代にビンボー生活を結構エンジョイしてきたこともあって、生活を切り詰めたりするのは余り苦痛ではないし、物欲もあまりないし(持家願望とかゼロですもん)、ビンボーでもいっくらでもハッピーになれることは実証済ですから。カレーを作りすぎて、朝昼晩カレーの2回廻し=6食ぶっとーしでカレー食べても別に大して不満もないです。ビンボーが恥ずかしいことであるとも、これっぽっちも思わない(金持ちが素晴らしいこととも思わないし)。
堅実&貯金指向も、別に老後の心配とか、無いと不安とかいう感じとはちょっと違います。金が無いことで選択肢が狭まってしまうこと、可能性が制限されること、自由が無くなることがイヤなんだと思います。要するに、自分を束縛するようなものは、何によらず嫌いなんでしょう。法律だろうが、お金だろうが、慣習だろうが、ネクタイだろうが、縛るものはキライ。いきなり思い立ってオーストラリアにやってくるとかいっても、先立つものは必要ですからね。何かをしたいときにお金がネックになって出来ないという悲しい事態は、可能なかぎり避けたいわけです。スウィッチでいえば、ONのときはしっかりONになってほしいから、OFFのときはビッタリOFFにしておきたい、それが見方を変えたら堅実になるということだと思います。そうそう、借金も大嫌いです。ローンで物買うなんかイヤですね。未来は出来るだけサラにしておきたいです。いつ気まぐれの風が吹いてもいいように。
話を安定志向に戻しますが、あんまり波乱万丈すぎるのも大変ですが、安定しすぎるのもイヤです。「これで一生安泰だ」とかいう状況って、まあ嬉しくないことは無いですけど、実際にそうなってみたら退屈、、、「退屈」というのも実は微妙に違うな、、、なんか、こう、哀しーくなってくるんですよね。「それでええんか?」という。病院のベッドに縛り付けられてる、といったら言い過ぎなんですけど、その哀しさを何倍かに薄めたような、そこはかとない「あーあ」感が出てくるという。
多分、その「あーあ」感が、オーストラリアにやってきたメイン動力だったと思います。かつて「他のチャンネルではどういう裏番組をやってるのか知りたかった」という表現をしましたが、まさにそんな感じですね。8年前に大阪で弁護士やってるときの僕が表番組だったら、今オーストラリアでAPLaCやってる僕は裏番組です。チャンネル廻して裏番組を見てみたら、これが予想外に面白くそのまま見つづけて今日に至っているわけですね。
というわけで、別に日本がイヤだとかいう理由でこっちに来たわけではないです。もし僕がオーストラリアに生まれたら、同じようにオーストラリア外のどこかに行っていたでしょう。
ただ、僕のような性格の人間には、オーストラリアの方が合っているように思います。
つまりは束縛が少ない、ということです。いや、束縛はある意味日本以上にあるかもしれないのだけど、束縛の質としてまだしも受忍できると言ったほうが正確かもしれません。
たとえばオーストラリアの税率は日本よりも高いです。選挙では義務投票ですし(僕は市民権取ってなので関係ないけど)、税金の確定申告は全員がやらねばなりません(低所得の例外はありますが)。また、移民した一アジア人としては、まずもって言葉という強烈な壁と束縛がありますし、当然のことながら社会のマジョリティではないという束縛もあります。仕事のルーズさなんてのもありますし、異なるカルチャーが入り乱れていますから、「こうすればこうなる」という予測がつきにくく、どこまで信用していいのかのカン所が見えにくいから、ことに当っては日本以上にリスク係数をとらねばなりません。それが翻って束縛になることも多いです。また交渉余地が広く、なんによらず意見はハッキリ言うべきである(逆に言えば言わない限り誰も「察して」くれない)というのも、ある意味日本人的には面倒に感じられますので、束縛に思う人もいるでしょう。
ただ、これらの束縛は、僕はそんなに気にならないです。義務投票も国民全員確定申告も、僕はすべきだと思ってます。マイノリティという点ですが、これもですね、僕みたいな性格の人間は、日本に居てもある意味ではマイノリティですから、慣れてます。同一民族でありながらマイノリティになるよりは、はっきり異民族でマイノリティになった方が周囲から妙な期待や推測をされない分スッキリしていた良い気もします。
予測不可能性とリスク係数は、これは水も漏らさぬ緻密なスケジュールを立てようとするからしんどいのであって、最初からややルーズめにやってたら特に問題は無いです。それに、良くしたもので、こちらではそこまで緻密にやらねばならないことも少ないですし、自分の行動もそこまでの緻密さを求められないから楽という面もあります。「エレベーターに乗ると、すぐに”閉”のボタンを押してしまう」「TVの7時のニュースは正確に7時丁度に始まるものだと思ってる」という日本人の常識的な発想はこちらでは通用しません。”閉”ボタンのないエレベーターも結構ありますし、番組は常に正確な時間に始まるものでもないです。エレベーターが閉まるわずか数秒の時間すら無駄にしたくないというのは、日本人的にはよくわかるのですが(僕もバリバリそうでしたし、無意識的に閉ボタンを探してました)、考えてみればそんな数秒早く浮かしたって実益ないですもんね。テレビの番組もキッチリ始まってもらわないと滅茶苦茶困るってもんでもないです。だから日本人的な緻密に正確でないと気持悪いというのは、文字通り「気持悪い」だけで、多くの場合実益を伴わない単なる情緒的な「趣味」でしかないです。それに気づいたら、別に気にならなくなります。
意見やら交渉ですが、これは人間だったら、むしろ当然だろうと思いますし、「察し合戦」をやってて気疲れするよりはむしろ楽という面も強いです。また意見&交渉は弁護士時代ルーティンでやってたので慣れている部分もありますし、なにより「医者の不養生」じゃないですが、こと自分の損得勘定や権利保護になるとわりと無頓着な方で、「面倒なことするくらいなら損した方がマシ」くらいに思ってたりします。
逆に日本よりも束縛度が低い点は多々あります。もっとも多く語られているのは、立居振舞に関する暗黙のスタンダードがゆるいという点でしょう。「暗黙のスタンダード」というのは、つまりは文化とか慣習ですけど、例えば、日本の場合、裸足で町を歩いてはいけない、、ことはないが、実際にやったらかなり奇異な目で見られるし、さらに「○○さんのご主人、大丈夫?」的な噂が広がったりで有形無形いろいろ不利益を被ります。だから事実上出来ない。でも、オーストラリアだったら出来る。インドあたりの安い染布を腰にクルクルと巻いて、安全ピンでとめてスカートにしてる女性なんかも、別に目立つこともないです。冠婚葬祭もおおむね簡素ですし、「このくらいしておかないと恥ずかしい」という物事が少なく、またそのハードルも低いです。
まあ、この種の例は滅茶苦茶沢山ありますし、多くの人が書いているところでもあるでしょうから割愛しますが、「勝手にやってよし!」というエリアが比べ物にならないくらい広いです。他人の目を気にしようにも、そもそも他人はこっちを見ていないという。ただ、この点については、僕は日本にいてもそれほど気にする方ではなかったので、平均的な日本人よりはストレスを感じてなかったと思います。たしかに日本よりは解放感がありますが、僕の場合はそーんなに巨大な解放感ではなかったですね。ただ、僕以上にキチンと日本人している人にとっては、大きな解放感にはなると思います。特に女性の場合は、服と化粧と持ち物に関する「呪縛」ともいうべき日本のハイスタンダードがなくなりますから楽だと思います。
あとは、「ビンボーは恥ずかしいことではない」というコンセンサスが、日本よりも強いのはイイですね。安心してビンボーできます。というか、皆さんあまりに個性的過ぎて統一的な基準が分かりにくいので、誰がビンボーなんだか今ひとつよく分からんです。
それと、「ビンボーフレンドリー」というか、お金が無ければないなりに快適に暮らせる術が多いのは救われます。”ハイエンドJAPAN”と言われるように、日本では商品のバラエティが高品質の物に集中していますが、こちらの商品の質のバラエティは暴力的なまでに幅広いです。安いものから高いものまでいろいろです。フェラーリのバリバリの新車から、30年もののボロ中古まで、どうかすると自分で車を作る人のために廃車すら売ってます。商品の品質のバリエーションは無限に近いくらい広いですから、予算に応じてそれなりの選択をすればいいです。冷蔵庫でもなんでも中古品はいくらでも売ってます。こういう白物(英語でもホワイトグッズという)専門のオークションまであり、素人でも参加できます。リタイアしたオジサンが、ゴミのような物をタダ同然で集めてきて、自宅のガレージで修理して、売っていたりします。あるいは腕に覚えがあれば自分で修理すればいいです。つまり、それなりにエネルギーとスキルがあれば、お金はだいぶ節約できます。また、ゴミ同然の物でも買う人がいるから、売ることもできます。無駄が少ない。
この無駄の少なさは、「とりあえず住んでみるか」という人にとっては福音です。日本でとりあえず住むとなったら、家財道具一式揃えるだけでかなりの出費になります。でもこっちだったら10万から20万あれば大体揃いますし、20万で買って18万円で売るということも上手くやれば可能です。自動車も30万円で買って30万円で売ることもできます。もちろんそれなりのワザとエネルギーは必要ですが、頑張ればやれるというのはうれしいです。
基本的な食材が安いのも頼もしいところです。ある程度の品質のものを求めて外食ばっかりしてたら金が幾らあってもたりませんが、食材の目利き、買うべき場所の知識、そして料理の腕があれば、かなり安くあげることができます。ワーホリや留学で来られる人に、「1日の食費は10ドルくらいに押さえられるよ」と申し上げたりしますが、本当はもっと下げられます。野菜、ハム、チーズはさすがに美味しいので、普通にサンドイッチ作っただけで結構満足できますし、2−3回分の食事になりうるだけのソーセージ・パックが2ドル、25センチ大のコッペパン状のものが2本入ったガーリック・ブレッドが2ドル弱というのは強力な味方になるでしょう。だから、週の食事10ドルという豪傑君もいます。
不動産価格ですが、いまやシドニーは東京よりも高いくらいの狂乱価格ですが、にもかかわらず、やろうと思えば安く暮らす術はいくらでもあります。バックパッカーのドミトリーだったら週90ドルとかありますし、100ドル切るシェアも沢山あります。だから月の住居費3万円以下でもいけます。それでも別に恥ずかしいことはない。不動産を借りるにしても、不動産屋に払う手数料は契約書作成料の15ドルだけ、保証金については礼金なんて馬鹿げたものは無く、ましてや更新料などという日本の法律においてすら意味不明な慣習もなく、敷金(ボンド)だけです。それも家具なし居住用物件の場合は4週分までと法律で明記され、敷金は家主にいかず政府が預かり管理します。
あと、住居そのものの全体的な質が高いということも上げられるでしょう。日本で住居費ケチると、それこそ場末の老朽した安アパートの、線路脇で一日中陽がささないジメジメした4畳半、、という感じになりますが、こっちはそもそもそういう物件自体がそんなに存在しません。シェア週100ドルくらいだったら、住んでて、「ああ、貧乏だな、ミジメだな」とは思わないでしょうし、「俺も落ちるところまで落ちたな」とも思わないでしょう。「ミジメ」っていうくらいですから日本人の心象における悲哀感には「ジメ」っとした湿度が伴うような気がするのですが、空気が乾燥しているこちらでは、このジメジメ感がないです。
それと、自然環境がまだまだ豊かなのは救われます。都心から海まで余裕で歩いていけたりしますし、人は少ないし、芝生多いし、高速料金は無いし、各種レジャーはその気になったら限りなく安くあがります。
このような環境は、その気になったら生活水準を落とすことにさして抵抗がない僕のような人間にとっては、大きなアドバンテージに
なります。オーストラリアは、総じて特に物価が安いとは思いませんし、それなりのクオリティを求めるのだったらそれなりに出費すべきです。しかし、選択の幅が広いというのは、フレキシブルに生活を組み立てて、メリハリをつけて金を使おうという人間にとっては、非常にやりやすいです。
つまり物価が平均して高いか安いかということと、実際に生活するにあたって楽かどうかということは、必ずしも関連しません。こちらで生活されるのだったら、出来るだけ早くこのことに気づかれたらいいと思います。大事なのは、物価の平均値ではありません。物価の「幅」です。
それと、何によらず流動性が強いのは、自由にやっていきたい人間にとっては大きな追い風になります。
職・人材の流動性でいえば、平気でどんどん転職しますし、全体で平均すれば同じ職場で3年以上勤めている人の方が少ないでしょう。語学学校でも、僕らが取材した頃に比べると、校長から受付まで社員総取替えになっている学校もあります。また、自分で商売を興しても、軌道に乗ったらすぐにビジネスごと売ったりします。ビジネス売買広告の専門新聞もあるくらいです。ですので、何か働き出したら、一生それをやらねばならないという制約は非常に乏しい。「いつでも換金できる」という気安さはあります。だから、よく流れる。流動性が高い。
物財の流動性でいえば、中古市場が豊かなのもいいです。中古品でも皆気にしないで実質的価値に基づいて買いますから、要らなくなったら売ればいいです。車でもなんでも。また、家も新築願望が殆どないので(というよりも新築の方が建築費ケチってる場合の方が多いように思う)、築年数がたったからといって値下がりしません。老朽化して値下がりすることは勿論あるけど、それは不備があるという実質的理由に基づくもので、きちんとメンテして、日曜大工の腕を振るって良くすれば、逆に築年数は増えても売値は上がります。だから、この「いつでも売れる」流動性の高さから、僕もオーストラリアだったら家を買ってもいいかも、とは思いますよね。もっとも「自分の城」が欲しいというよりは、自分で壁の色を塗り替えたりして「買ったほうが、大家に気兼ねなくいろいろ遊べそうだから」というのがメインの理由ですが。
流動性が高いということは、途中でいくらでもチェンジできるということであり、何かを選択し行動を起こしたからといって、将来にわたってその選択を背負いつづける必要が無いということを意味します。大学だって、30歳、40歳過ぎてから行く人はいくらでも居ます。最初の就職先に定年まで勤めつづける人はかなり少ないでしょう。マイホームを買ったからといって、そこに住みつづける必要もないし、商売を始めたからといってずっとそれをやっていなければならないものでもない。気軽に変えられるということは、間違ったときのダメージが比較的軽微であり、だから気軽に選べるということでもあります。「生涯の決断」となったらビビってしまうけど、「とにかくトライしてみようか」くらいだったら、どんどん気楽に進んでいけることになるでしょう。
社会保障が日本よりも厚そうな部分もいいです。基礎年金は掛け金制度ではないから、何年払い込んでないと需給資格が無い、、ということもないです。失業保険も、大した額ではないですが、期間に特に制限はありません。医療保険(メディケア)も、日本のカバー範囲よりはかなり狭いですが、掛け金は確定申告のときに「3%上乗せ」というシンプルなスライド制ですし、控除基準が高めなので、実際全然払ってない人も結構多いかと思います。
ただ、社会保障全体の広さ×深さでいえば、別に日本もそう捨てたものではないとは思います。勿論理想を言えばキリはないのですが、そんなオーストラリアが素晴らしい福祉国家で、日本がお寒い状況だと、一概には言えないでしょう。年金も失業保険も、掛けて無くても支給されるとはいっても、その額は日本に比べてかなり低いでしょう。
にも関わらず、オーストラリアの方があまり不安感を抱かずに済むのは、単純に福祉が完備しているからという理由だけではないと思います。ハッピーになるためにはさしてお金がかからない、という社会全体の構造から由来している部分がむしろ大きいでしょう。
それは例えば、前述のビンボーフレンドリーの諸環境によるところが大きいです。
さらに、「貧乏してても恥ずかしいことではない」という人々の基本的な人間観も大きな要因になるでしょう。日本人だって、面と向かって「貧乏は恥か?」と聞かれたら、とりあえずはNOと答えるだろうと思います。「ボロは着てても心は錦」とか古いコトワザもありますし、「清貧」という発想もあります。逆に金持ちと聞いただけでなんとなく胡散臭い目で見てしまう(どうせ、どっかで悪いことしてるんだろう、みたいな)傾向もあります。しかし、そうは言ってもやっぱり「清貧」なんてのはタテマエで、ハッキリ言えば、日本においては「貧乏は恥」だと思われているでしょう。この差は実は結構大きいだろうな、と思います。ものの本で読みましたが、日本の消費支出を厳密に分析してみると、半分以上は「見栄張り代」だという。これがなくなるだけでも随分楽です。重ねていいますが、物価平均を比べてみても暮らしやすさは計れません。「支出項目の多寡」という側面もあるからです。
以上、いろいろスケッチしてみましたが、オーストラリアの方が僕の性格には合っているということです。
しかし、別にそういったことを期待してオーストラリアに来たわけではありません。これらのメリットは、いわば副産物のようなものであり、「慮外の果実」であります。僕がそもそも求めていたのは、「裏番組」であり、それは現在やっている人生とはまた違ったパターンの人生の可能性があればなんでも良かったわけですね。でもって、そのこと自体は、別にオーストラリアに行くまでもなく、その準備として身辺雑事を整理をしていくなかで実現していきました。日本に居ながらにしても、自分の生活を全部チェンジすることは、その気になれば全く可能なことだったのですね。オーストラリアに旅立つ朝、全ての準備が完了した時点で、「やれば出来るじゃん」でそれを確認できたわけです。もうその時点で初期の目的は達成されたのですから、別にオーストラリアなんか行く必要も無かったともいえます(^^*)。言葉を変えていえば、オーストラリアをダシにして、100%自発的に(失業したとか、転勤とかの外在的要因ではなく)、自分の生活を完全に組替えようとしたのだともいえます。
したがいましてオーストラリアに到着以降は、「その次」の段階に進みます。日本にいるときに必死こいて生活環境の「全取っ替え」をやってたわけで、それは自分としてはかなり難易度の高いの「挑戦」だったわけですが、オーストラリアに来てみたら、日本であれだけ苦労してやってた「難関挑戦」が、こちらでは至極当たり前のことして社会が廻ってることです。これは結構カルチャーショックでしたね。「へ?」という感じ。まあ、移民国家なんだから、こちらにいる全員が「全取替え」をやった連中ないしはその子孫ですから、当然といえば当然なんですが。
上に長々とオーストラリアはいろいろな点で自分の性格に合っていると書きました。これはあくまで僕の性格に合ってるだけで、あなたの性格にあってるかどうは保証の限りではないですが、それはさておき、上記に列挙した特長点は、総じていれば「勝手にやんなはれ」という自由度の高さであり、自由度の高さを保証する物心両面での環境です。自分の創意工夫と努力とエネルギーによって、上にも下にも、右にも左にもナナメにもいけるという社会です。
僕にとってのオーストラリアの良さは、そして伝えたいオーストラリアの良さは、この比較的自由度の高い環境であり、自由度が高いと何かイイコトあるのか?といえば、人生の操縦桿を自分に返してもらえる点だと思います。コントロールスティックを戻して貰い、自分の意志ひとつで右にも左にもいけるという操縦桿と操縦席、これが一番のポイントなのでしょう。だから、操縦桿を奪回したい人は一度こっちにやってきたらどうですか、とお誘いするわけですね。APLaCのPの字は”プルーラリスティック”、多元性であり、多元性は可能性のバラエティの豊富さです。これがまあ、人間本来の原点じゃないかと思うわけで、もう一度この原点を確認することは、少なからず意味があろうと。
ただし、自由は結果を保証しません。いろいろなことが自由にやりやすいといっても、自分でやらなければ何も始まりません。オーストラリアは別に万能薬でもないし、来たからといってハッピーになれるとは限らない。それどころか、夏休みの宿題の自由研究のようなもので、自分で考えて自分で決めて自分で実行しない限りは、全く何も進みません。操縦桿を戻して貰う以上、何もしなければ墜落するだけです。そういうのが面倒な人は、自分で何も考えなくても、ある程度はベルトコンベアで運んでいってくれる日本の方が全然楽だと思いますよ。
日本社会とオーストラリア社会の差を比喩で言うなら、ディズニーランドと原っぱだと思います。
ディズニーランドは、楽しいアトラクションが一杯です。優秀な企画が目白押しだし、そこに行って乗り物に乗ったり見物したりしてればそれなりにハッピーになれます。原っぱには何もありません。適当に草が生えて、木があって、どっかにゴミ捨て場があって、建築資材が置いてあったり、鉄条網が張ってあったりするだけです。
しかし、僕はディズニーランドと原っぱだったら、原っぱの方が好きです。だって、ディズニーランドって、遊び方まで全部指定されてるじゃないですか。それはそれなりに楽しいのは分かりますから否定はしませんし、リスペクトもしますが、そんな遊び方まで指定されたくはないなあって気もするのです。それとディズニーランドって、結局お金が無ければ楽しくないですよね。そもそも入場できないし、乗り物乗れないし。これに対して、原っぱはタダです。何にも準備されてないけど、遊び方も指定されてません。それをどう面白く遊ぶかは、全て自分の創意工夫次第です。こうなるとガゼン燃える人は燃えるわけですね(^^*)。当然、基地なんか作っちゃったりします。穴なんか掘っちゃって「地底都市」を作ろうとします。ゴミ捨て場を物色してたら、だれかが捨てたエロ本を発見したりして、思わず息を呑みます。
すごく直感的なことを言うと、ディズニーランドよりも原っぱが好きな人はオーストラリアに来ても楽しめると思いますよ。
そういえばオーストラリアって、遊園地少ないです。ディズニーランドなんかないし。ルナパークとかあるけど、ショボいし。フォックス・スタジオ(の有料アトラクションエリア)もあったけど、結局客が入らずコケたし。その代わり、だだっぴろい芝生の公園はやたらめったらそこら中にあります。そして、芝生は、「立入禁止」になってないです。
写真・文:田村
写真はウチの近所の Baffallo creek
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