今週の1枚(02.09.30)
ESSAY/ 嘘つきの構造
東京電力の原発でデーター偽装があったとか報道されています。
正直言ってあまり衝撃を受けません。というのは、この種のデーター偽造やら、組織ぐるみの隠蔽工作は、もう連日のようにいろいろなところで報道されているので、慣れっこになってしまっているのでしょう。ちなみにこの東電記事を見たのと同じニュースサイトには「ミスタードーナッツの餃子に小石混入 公表せず販売中止」という記事もありました。
国家ぐるみの大掛かりな隠蔽工作で最近話題のものといえば、北朝鮮の拉致事件の真相解明(をしないこと)でしょう。これも「いい加減なこと言うんじゃねえ」と怒りを買っているわけですが、しかし、日本も官民あげて隠蔽工作に走ってるわけで、あんまり他人のことを言えたものでもないです。だからといって、北朝鮮の態度はあれでいいのだ等というつもりは勿論ありませんが、他人を嘘つきといって糾弾するには、自分も嘘つきだったら具合悪かろうといってるだけです。
なんでこんなに嘘ばっかりつくのか?というと、これもまた以前に何度か書いたことと重複するのですが、一番問題なのは「嘘をつく以外の選択肢がない」ことでしょう。少なくとも、現場を預かる当事者には、そう感じられてしまうことでしょう。もっと言えば、嘘を言わざるを得ないように構造的に仕向けている部分にモンダイがあるように思います。
これを、モラルハザード/倫理の退廃と言ってしまえば簡単なんですが、それだけでは問題は解決しないでしょう。というのは、モラルが守られるためには、それなりに一定の外的条件が必要だと思うからです。その条件が整っていないと、モラルを守りたくても守れない、という状況が出てきてしまうという。そもそもどうしてモラルは大事なのか、「嘘は何故いけないのか」ですね。このあたりをちょっと考えてみたいと思います。
嘘というのは誰でもつきます。3歳の幼児から、90歳のお年寄りまで、小さなサークルからアメリカ合衆国まで嘘をつきます。なんで嘘をつくのか?というと、その方が自分にとって都合がいいからなのでしょう。
生物の本能は生存であり、生存のために少しでも有利な状況を選んでいくのは生物の最優先のプライオリティといってもいいでしょう。人間もまた例外ではないです。だから、正直に言うよりも、嘘をついた方が得だとなったら嘘を選択するという。ある意味、当然な話だと思います。
思うのですが、この当然の原則を、もう一度しっかりと頭に叩き込んでおくべきではないか、と。
「嘘つきは泥棒の始まり」でありまして、嘘をつくのは人間のモラルに反しますし、堕落への第一歩でもあります。そこに異論はないですが、それと同時に「嘘をつくのは人間/生物としては、極めて当然の行動」だと思います。それは、熱いものを掴んだとき思わず手を引っ込めるという脊髄反射のように、もうどうしようもなく身体にインプットされているのだと。衝撃を受けたとき、自動車のエアバックが開くように、特定の状況になると嘘がエアバックのようにパッと開くのだ、と。それはもうモラルとかとは別の次元の問題です。
たとえば、未知の強大な宇宙人に襲撃され、あなたはどこかに監獄に入れられているとします。そこで、あなたは誤ってミスを犯してしまったとします。ミスの内容は、例えば花瓶を割るでもなんでもいいです。身の丈3メートルくらいの恐ろしげなエイリアンがやってきて、あなたがた囚人を全員並ばせて、「やった者は誰か、正直に名乗り出ろ!殺すのだけは勘弁してやる。目玉をくり抜くだけにしておいてやる」とミギャーミギャーと怒鳴ります。腰が抜けそうなくらい恐いです。そんな場面で、あなたは「はい、私がやりました」って言えますか?言える人もいるとは思います。しかし、普通の人間にそれを要求するのは無理でしょう。僕の人間観はそうです。世の中には偉大な人もいるけど、偉大な人ばっかりではない。平均値をとればそれほど偉大ではない、と。僕だって、震えながら「私ではないです」と嘘をついちゃうでしょう。「事実上、嘘をつく以外の選択肢がない」というのは例えばそういうことです。
ところで、この生物の本能ともいうべき嘘を、なぜ人間の文化は「よくないこと」と規定したのでしょうか。「なぜ嘘はついてはイケナイのか?」と。これ、考えると、よう分からんのですね。
嘘をつくというのは、誰かに虚偽のデーター、間違った情報を与えるということですよね。間違った情報を与えられると、誤った認識をし、ひいては間違った判断に至る。だから迷惑だという。
でもね、間違った情報を真実の情報だとカン違いするから間違えるのであって、最初から皆は嘘を言うものだと思ってたら、間違えることもないのではないでしょうか?何を言ってるかというと、例えばゲーム。マージャンでもポーカーでも、嘘言いますよね。いわゆる駆け引きというやつです。スゴイ手が出来ても、「すごい手が出来ました」なんて正直に言ったら、相手はみんな賭けないで降りちゃうから、大したことなさそうなフリをする。「あちゃー、またかよー、弱っちゃったなー、今日は全然ツイてないよなー、ちくしょう」とか言いながら内心ニンマリしてるという。いわゆる「シャミセン引く」というやつです。逆に、全然しょーもない手なんだけど、余裕シャクシャクで強気で賭け金を吊り上げる。「ブラフ」ですよね。
ゲームや賭け事なんか嘘ばっかりです。嘘をついてもいいし、それも作戦のうちだから、嘘をついたからといって、そう誰も間違えたりはしないし、非難されもしない。そんなもんイチイチ真に受けてたら、真に受ける方が馬鹿だということになります。これは、ゲームのより大規模なもの、たとえばホンマモンの戦争などでもそうですよね。計略とか戦略といいます。いかに相手を騙すかの知的ゲームのようになってますし、三国志の諸葛孔明なんか、言ってみれば「大嘘つき」なんだけど、「智謀神のごとし」なんて尊敬されたりする。
だとしたら、普通の社会でも、最初から嘘はつくもんだと思ってたら、そうそう嘘の害毒はないような気もするのです。実際、広告とか商取引なんかでは、「嘘」とまではいわないけど、嘘に近い誇大広告や大袈裟な表現をします。映画でも「史上最大のスペクタクル!!」とか宣伝してますが、真実それが史上最大だったことなんか滅多にないでしょう。
これは屁理屈を言ってるのではなく、実際に刑法に「誇大広告と詐欺」という論点があります。どこまでは社会的に許される誇大広告で、どこからが許されない詐欺になるのか?です。結構これも線引きが難しくて、結局は、「社会通念上許される範囲は許される」「迷惑が大きかったら詐欺で、小さかったらただの誇大広告」などという、わかったような分からんような曖昧な話にならざるを得ない部分があります。まあ、世間一般で、「これは嘘かもしれないなあ」と予め予想できるような領域では多少の嘘も許されるけど、そうではない領域で嘘をつくと、皆が真に受けて迷惑を被るからダメ、ということでしょうか。
それでも尚釈然としないですよね。じゃあ、最初から皆が全てのことについて「嘘かもしれない」と思ってたら、それでいいじゃんということにもなります。
結局、全てのことを「嘘かもしれない」と疑ってかかってたら、誰も信じられないし、社会が成り立たなくなってしまうのでしょう。だって、大変ですよ、全てのことが嘘かもしれなかったら。
交番のおまわりさんに道を聞いたら嘘教えられたり、天気予報をつけたら嘘流してたり、戸籍を取ったら嘘書いてあったり、ガソリンスタンドのポンプのメーターが嘘だったり、預金通帳に嘘の記載されたり、約束は全て嘘ばっかりだし、忘年会の日時と会場を記した紙が嘘だったり、死亡通知が嘘だったり、合格電報が嘘だったり、買い物したらお釣りで嘘つかれたり、野球のスコアボードの表示がすでに嘘だったり、法律自体がすでに嘘だったり、選挙の結果も嘘だったり、学校で教えていることは嘘だったり、新聞やテレビでやってることも嘘ばっかり、、、これではやってられないわけです。
ちなみに、オーストラリアなんかも似たようなことはありますな。町の時計台は狂ってることの方が多いし、デリバリーなんかも来るといった時間に来たためしがないし、銀行にお金を預けたら入金記録がなされなかったり(その逆に出金されてたり)、その種の「嘘ばっかり」というか、いい加減でアテにならない度合いは日本よりもヒドイです。
しかし、本当に何もかも嘘だったら、もう自分以外なにも信じられません。そうなると非常に効率が悪いのですね。大体、今何時なのかすらわからないでしょう?時報を聞いても嘘かもしれないんだし、自分の時計が合っているという確信も持ちようもない(非常に精密な時計であるというのも、メーカーの触れ込みだから嘘かもしれないし)。そうなったら、もう自分で天体観測して、自分で暦を作っていくしかないです。でも観測しようにも観測機器の目盛りが嘘かもしれないから、もう大変です。
それどころか、もっと危険なことも沢山あります。灯油を買ったと思ったらガソリンが入ってて爆死するかもしれないとか。車に乗ったらブレーキがきかないかもしれないし、飛行機乗ったら落ちるかもしれない。だって、「整備完了」という整備班の報告自体がアテにならないし、整備をちゃんとやっても個々の部品がちゃんと作られているかどうかアテにならないし、ちゃんと組み立てているかどうかもわからない。食料だって、全ての食料にもしかしたら青酸カリが入ってるかもしれないわけです。
一事が万事この調子で進んでいったら、とてもじゃないけど社会なんか成り立ちません。社会以前に、生命の存続すらおぼつかない。ちょっとでも他人の手が入ったものは信用できないから、全て自分の手で確認できるものしか信じられない。もう、海で釣りして自給自足していくしかないです。
だから、僕らが社会として生活していく以上は、もう盲目的に信用しなければならない領域というのが結構広く存在する、ということだと思います。社会は信頼をベースにして成立しているとか、経済の基礎は信用だとかいいますが、これってキレイゴトでもお題目でもなんでもなくて、事実そうなのでしょう。
ただ、これらの理由は、社会というものをやっていくために要求される最低限の「お約束」だと思います。いわばテクニカルに求められるからそうなってるという。逆にいえば、人道的、倫理的に出てくるものではないように思います。嘘をつくことを、「人としてあるまじき行為」とまで思わせるのは、単に「社会が成り立たなくなるから」というレベルの理由だけからではないでしょう。もっと根源的に「嘘は罪」という発想があるのでしょう。
ここが難しいところですが、人間というのは、他の人間を信じたい、他の人間を好きになりたい、愛したい、うまくやっていきたいという本能的な欲求があるのでしょうね。この欲求はかなり原始的であり、強烈なものだと思います。人間を人間たらしめている大事な要素なのでしょう。
だって、そうとしか思えないですよ。単にテクニカルな要請だけだったら、僕らが嘘をつくときにここまで罪悪感を感じないでしょう。「走れメロス」を読んで、約束が守られること、信じあえることに感動するのは、やっぱり僕らは心の底では他人を信じたいからなのでしょう。落とした財布が無傷で交番に届けられたという話を聞いたら、それが自分の財布でなくても、気分がいいです。「正直者が馬鹿をみる」とはよく言いますが、決してそれをイイコトだとは思ってないでしょう。
嘘をつくという行為は、人と人とが信じあいたい、お互いに良くしてあげたいという人間が心の底で持っているピュアでポジティブな欲求を裏切る行為です。人間が大事にしている本質的ななにかを傷つけるのでしょうね。だから「嘘はイケナイ」と思うのでしょうし、嘘つきは嫌われるのでしょう。
もっともっと大本には、人間というのはお互いに良くしてあげたい、傷つけあいたくないと思ってる可憐な生き物だということでしょう。人を殺したり、傷つけたり、盗んだり、騙したり、、といういわゆる犯罪は、法律で犯罪だと決めてからはじめて犯罪になるのではなく、やはり自然の感情として「よくないこと」だという意識があります。自然法のもとにおける「自然犯」というやつですね(法学では本当にそういう言い方をする)。ちなみに「法律によってはじめて犯罪になるもの」というのは、例えば外国為替管理法で、”幾ら以上のお金を海外に持ち出すのは届出が必要、怠った者には罰則がある”とかいう純粋にテクニカルなものです。
整理します。
一方では嘘をつくのは人間の本能のようなものだということ、他方では嘘をつかずに信じあいたいというのもまた人間の本能のようなものだということでした。「人間は嘘をつきたいとも思うし、嘘をつきたくないとも思うものだ」ということで、本能が合矛盾してるわけです。これは別に珍しいことではないでしょう。人間ってそーゆーものだと思います。
法律にせよ、経済にせよ、およそ社会科学が難しくて、そして面白いのは、矛盾した存在である人間が主役になってるからでしょう。社会というのは人間の集合であり、社会科学はその人間の集合体をどう見るか、どういう仕組みを作ったらベストかを考えるわけですが、その構成元素となるべき人間が正反対の物事を同時に望むというメチャクチャな存在だったりするのですから一筋縄ではいきません。自然科学において、酸素とか水素とかいう基本的な存在が、気まぐれに酸素になったり水素になったりするようなものです。こんなもんストレートに考えてたらやってられないです。だからこそ面白いのでしょうが。
この「嘘をつきたいけど、つきたくない」という、「どっちなんだ?!」と言いたくなるような人間だったりするわけですが、これって要するに性善説と性悪説みたいなものだと思います。両方正しいのでしょう。両方アリということを前提に、こーゆー場合は性善説で、あーゆー局面では性悪説でいきましょう、と複雑に入り組んだモデルを作っていくことだと思います。そのレシピーというか、ミックス具合がまさに醍醐味なのでしょう。
さて、ここで話を、最近連日のように登場している偽造データーとか隠蔽工作に戻します。
まず性悪説的な立場にたてば、こういう隠ぺい工作は「あって当然、無い方がおかしい」という話になります。誰だって、みすみす怒られるに決まってるような不利な情報を公開したくはないですよ。それを、ただ「社会的信用を裏切った」とか「あってはならないこと」とか怒ってるだけだったら芸がないと思います。
誰だって程度の大小はありますけど隠蔽工作の一つや二つはやってます。もう断言しちゃうけどやってるはずです。脱税だって、規模の小さいのの一つはやってるでしょう。友達の引越を手伝って謝礼を貰ったとしたら、いちいち申告しますか?浮気を誤魔化したりさ、浮気じゃないけど痛くも無い腹さぐられるのが面倒だから事実と違う説明をしたりとかさ、恋人のマンションに外泊するとき、友達の家に泊まったと言って、友達にも口裏合わせてもらったりとかさ。絶対やってるって。
そんな可愛いレベルの隠蔽工作だったら許せるけど、原発だったら話は違うだろう?はるかに重大な迷惑をかけるのだから、正直であるべきだろう?という正論があります。正論なんだけど、正論の通弊として一見もっともなのだけど洞察が足りない。はるかに重大な迷惑をかけるからこそ、自分が正直に申し出たときの世間の非難も遥かに重大なわけです。可愛いレベルの隠蔽だったら、バレたところでそれほど大きなダメージを被らないけど、原発レベルになってきたら笑い事ではないです。まずクビ→失業は覚悟しなければならないし、世間の非難の矢面に立たされなければならない。それまで普通に生きていたのが、ある日を境に全てガラガラと崩壊するわけです。この恐怖は巨大でしょう。だから、より強烈な動機で嘘をつきたくなるでしょう。弱い人間なんだから隠蔽して当然だと思います。
「そんな同情的に甘っちょろいことを言っていてはダメだ、もっと厳正に望むべきだ」という人もいるでしょう。「人もいる」というか、そっちの方が圧倒的に多数かもしれない。でも、天邪鬼な僕から言わせたら、そっちの方が遥かに「甘っちょろい」です。何が重要か勘違いしてるんじゃないか?
何が重要なのか?それは隠蔽工作をした人間を厳しく指弾する事ではない。そんなことは二の次三の次でしょ。大事なのは、いかに安全に原発を稼動させるかでしょ、その安全係数をどこまでマックスにもっていけるかじゃないんですか?安心して一方的に叩ける人間を、皆の尻馬に乗って叩いているだけなんて態度こそ、厳しい現実に真正面から向き合ってないという意味で「甘っちょろい」です。じゃあ、どうしたらいいか?まずミスそのものを減らさせることであり、ミスが起きた場合隠蔽させないことですよね。でも、隠蔽した人間をヒステリックに叩けば、次回からは「心を入れ替えて」正直に言うと思いますか?逆じゃないんですか。あれだけ社会的に半殺しになるまでボロクソに叩かれたら、もう現場の人々はビビってしまって、些細なことでも「これが世間に漏れたら大変なことになる」とますます隠蔽に走るのではないでしょうか。叩けば次回からは正直にやるだろうと信じるなんて、人がいいにもほどがあると思います。
第一に、事柄が重大であればあるほど性悪説にたって人間を信じるのをやめたらいいです。それは別にその人個人が人間的に劣ってるとかそういうことではないです。人間というのは、正直にやりたいとは思っていても、種々の圧力に弱いものだからです。事柄が重大であればあるほどプレッシャーは厳しい。だから、より多くの嘘や隠蔽がありうると思うべきであり、そこで自浄作用に多くの期待をしないことです。
そりゃ人情的には信じてあげたいですよ。一生懸命やってる人も多いだろうし、事故防止のために黙々と万全を期している人々もいるでしょうから、彼らに「信じられない」と言い放つのは心ない面もあるでしょう。でも、100のうち99は信じてあげてもいいけど、1つ例外が起こり得るのなら、そしてその例外が見過ごせない重要なものであるならば、その例外に性悪説的に対処しなければならないでしょう。つまりは、(可能な限り)純粋に公平な第三者のチェック機関を設けることです。「遅かれ早かれどっかで隠蔽はするだろう」という前提で物事を進めることです。本気で。
次に、人間なんだからミスをして当たり前だと思うことです。原発だろうが、官僚だろうが、いつかはどこかで何かミスをするだろうということ。そして、ミスそれ自体をあまり感情的に責めないことだと思います。もちろん適切な処分は必要だと思いますが、それはそれとして、世間が騒ぎすぎるのは悪影響の方が大きい。「1年でミスひとつくらいだったら、まあ上出来じゃないの?」というくらいの感覚でいることだと思います。で、ミスをするのが当たり前だと思うから、これもミスを前提にしたチェックシステムを構築し、そのチェックシステムもまたミスをするだろうからさらにそのチェックをするという、二重三重のセーフティ装置をつけるべきだと思います。
第三に、隠蔽をせず公表した当事者の勇気をもっと賞賛するべきだと思います。
だって、ものすごいプレッシャーをはねのけて、皆のために自分のミスを明らかにするわけですから、単純にエライと思いますよ。でも、その場合って、「隠蔽しなかった潔さ」を賞賛するよりも、ミスをボロカスに責めますよね。これじゃ、いかにも隠蔽しきった方が得じゃないですか。ミスを責めるのは良いとしても、すくなくとも同時に、「隠蔽はしなかった」ということにも積極的に公平に評価するべきだと思います。「正直者が馬鹿をみる」ような反応は避けるべきでしょう。
第四に、ヒステリックに針小棒大に騒ぐのはやめること。冷静にそれがどれくらいのミスなのかを判断すること。実際、まず大事故に繋がらないような些細なミスも多いと思います。原発のミスと聞いただけで、もうアレルギー的に狂躁的に騒いだって百害あって一利なしです。そういえば、同日の新聞に載ってた、「ミスタードーナッツの餃子に小石混入 公表せず販売中止」ですが、くだらない事を新聞に書いてるなと思います。僕の感覚でいえば小石が入ってるくらいどってことないですよ。ぺっと吐き出して現場で文句言えばそれでしまいでしょ。そんなもんイチイチ報道する必要も無ければ、企業がわざわざ公表する必要なんかないですよ。「あ、ここにも隠蔽工作があったぞ、めっけ。それイジメちゃえ」みたいに、隠蔽と聞いただけで「わー、隠蔽だ」と連鎖反応的に騒ぎたてるのって、ただのマスヒステリア以外の何ものでもないです。
総じて言います。日本社会の、チャイルディッシュな”無謬神話”=絶対にミスは存在せず、万が一にもミスや不良品があったらドえらい大問題であり、当事者はいさぎよく腹を切れ、、、みたいな、人間洞察力もヘチマもないような、子供じみた神話にすがるのは、もうやめたらいいと思うのです。
ちょっとでも不良品をみつけたら鬼の首でもとったように大騒ぎするという、それがどれだけの実害があるのかに対する冷静な検証も無く、またどうした未然に防げるかというクールなアプローチもなく、ただただ当事者をヒステリックに責め立て半殺しにし、それで終わり、だから同じようなことはまた繰り返され、隠蔽工作はより巧妙になるだけ、、、という、どう考えても知恵遅れとしか思えないようなアホアホな対処姿勢は、もう止めるべきです。アホじゃないんだからさ。
この絶対に誤謬は許さない、絶対に誤謬は犯さないという無謬神話のおかげで、いったいどれだけの被害が出ているか。HIV(エイズ)訴訟における厚生省のデーター隠しにせよなんにせよ、隠蔽→対応の遅れ→さらに巨大な被害という悪循環が出来上がってしまっている。ミスをするのは当局/当事者の責任ですが、ミスをした組織にいかに迅速にミスを認めさせ有効な対策を取らせるかは、当局ではなく僕ら側世間の責任だと思います。
「絶対にミスはしない」「絶対に不良品はない」「絶対に安全」「絶対に嘘はつかない」、、、、こういった大間違いの前提を金科玉条ののように掲げるのは、社会の退廃だと思います。「神州不滅」とか「日本は絶対に負けない」とか、最初から虚偽の命題からスタートした戦争が、大本営発表という史上最大の隠蔽工作を招き、多くの人々を無駄に死なせた。
今の日本はそこまで明確なスローガンがあるわけではないけど、それでも厳然として尚、子供じみた完全主義・潔癖主義は残っていると思います。「いじめは無い」と言い切ったが最後、どんなに校内でイジメがあっても誰かが死にでもしない限りは、イジメは無いことにしなければならない学校とか。いい加減、オーストラリアのように「どうせどっかでミスってるに決まってるわな」とごく自然に現実を受け止めて、そのかわりチェック機能とリカバリー装置はバリバリ整えた方がいいです。以前紹介した、警察権力以上に盗聴すら合法にやれる腐敗防止委員会とか。アメリカの警察内部の腐敗をチェックする、IA,いわゆるインターナルアフェアとか。
日本の無謬神話と相照応するように、日本のチェック機能は非常にゆるいです。代表取締役の行為を監督する筈の取締役会、取締役の暴走をチェックする監査役、いったいどれだけ機能してるのですか。監査法人は?まあ、このあたりはアメリカも似たようなものですけど。公正取引委員会は?行政のオンブズマン制度もなかなか公的に整わないし、検察の不起訴をチェックする検察審査会、警察内部の違法捜査をチェックする準起訴手続、いずれも当事者の努力にかかわらず、マイナーなままだし、注目もされていない。でも考えてみたらゆるいはずですよね。そもそもが無謬だったら、チェックする必要も無いですから。オトギ話のような「完全神話」と、現場での「なあなあ」。この二つはセットになっているのでしょう。
この第三者の強力なチェック機能を設立強化しない限り、たまたま隠蔽工作が見つかった「運の悪い」人を幾ら叩いてたって意味ないです。抜本的にやらない限りは、ヒステリックに叩かれるの恐さにこれからも未来永劫、隠蔽は続くでしょう。そしてまた情報公開法と住基ネットワークの施行に伴い、官には情報がいくけど、官から情報が流れてこないというシステムがまた強化されつつある昨今、いくらだって隠蔽は出来てしまうでしょうね。
そして、ここで、北朝鮮の拉致問題になるわけですが、あそこも「現体制が素晴らしい最高のものだ」「金主席が最高の無謬の指導者である」という、とんでもないイリュージョンを掲げているために、隠蔽に告ぐ隠蔽をしなければなりません。「非現実的な神話を打ち立ててしまったから、日々嘘をつき続けなければならなくなる」という意味では、北朝鮮も他山の石とすべき部分があると思います。構造的には似たようなものだ、と。
皮肉なものです。「絶対に嘘はない」という前提にしたがゆえに、結果的により多くの隠蔽という嘘を招くことになるのですから。そして皆も馬鹿ではないから、実はその前提がそもそも嘘であることを知ってます。おそらく最強最大の「嘘」はこの前提でしょうね。本音では「まあ、そりゃ隠蔽の一つや二つやるだろうな」と正しく認識しつつ、「言語道断」と騒いでいるのも、これまた「嘘」です。結局、なんのことはない、イチから十まで嘘ばっかりになってしまうという。
いつも感じるのですが、日本の社会というのは、自分たちの社会を良くしていこうと、あんまり「本気で」思ってないのではないか。心の底ではどうでもいいと思ってるんじゃないか。「良くなればいいなあ」と漠然と思ったり、「それはイケナイことだ」と感情的に反発したり、要はそれだけで、それ以上に、「じゃあ、どうしたらいいのだ?」でより良いシステムを構築するために、知恵を出したり、金を出したり、時間を使ったり、エネルギーを使ったりしようと、本気で思っていない。
だって、本気で良くしようと皆が思ってるんだったら、それだけの反応ってのは、あまりにも頭悪すぎるじゃないですか。「原発当局が嘘をつくのはけしからん」「政治家が嘘をつくのはけしからん」とかさ、そんなの当たり前じゃないですか。「けしからん」と怒ったって、その怒りが次の行動に結びつかなければ意味ないじゃないですか。
まずこのミスや不正はどの程度の実害があるのかをクールに把握すること、次になぜこういう不正が生じるのかという構造的な分析、さらにそれに対処するためのシステムの構築、それが機能しない場合のセキュリティ、もっとも大事なのは必要とあれば多少の社会的混乱があっても断固としてやること。これまでも沢山、不正行為とか隠蔽工作が報道されてきました。雪印事件にせよ、個人情報のリークにせよ、いくらでもあります。覚えているでしょう。でも、事件そのものは覚えていても、じゃあその組織が今後再発防止のためにどういう措置をとったのか、それは実効性がありそうなのか、現在実効性あるように作動しているのか知ってますか?ここが一番肝心なことじゃないですか。でも、誰も知らない。知らない筈ですよ、報道しないんだもん。
何度も言いますが、「騒ぐこと」と「対処すること」は全然別物です。当然のことながら、どう対処すべきか、がより重要です。それが深刻な問題であればあるほど、大事です。逆にそう大した実害のない物事であるならば、軽く対処すればいいです。
非現実的なイリュージョン、宗教的な信仰とすら言えるようなお題目だけでやってたら、事柄の軽重に応じた実質的な対処なんか望むべくもないです。人を百人殺すのも違反なら、僅かな申告漏れも違反、違反は違反で同じだ、クロはクロだという平面的でモノクロの反応になってしまう。
ちょっと前に議員辞職が相次ぎました。いずれも秘書の給与がどうしたとかいう、いわば瑣末な事務手続上の問題です。僕からしたら、その程度の不正、どうでもいいです。それなりに調査して、適切な罰金でもなんでも処分すればそれでいいです。「何がなんでも全面真っ白の潔白でなくてはならず、1ミリでもクロがあったら、もう全部ダメ」というのはおかしい。政治家がそんなにクリーンなわけはないし、クリーンにやってたら政治家になれないことくらい誰だって知ってます。ちょっとやっそっとダーティな部分があったからといって、それでどれだけの実害があるかです。その実害の程度に応じて処理すべきであり、それより大事なのはその政治家がちゃんと働いているかどうかでしょ。
そうならないで、ただのアラ探しの、足の引っ張り合いのポリティカルゲーム。ゲームはゲームでもお遊戯レベルのゲーム。そんな悠長なことやってる場合じゃないと思うのだけど、もっと真剣に対処しなければならない問題が山積しているのに、でも、やってる。そんなもん、バレた者負け、騒いだ者勝ち。
以前、微温的な改革案を批判するのに「タイタニック号が沈んでいくときに、テーブルの配置を変えるようなもの」という表現が使われました。今の場合は、「タイタイニック号が沈んでいくときに、誰が掃除当番をサボったのかチクリあってるようなもの」だと思います。有能な甲板員が、「救命ボートの用意を急げ!」と的確な指示を出して走り回っているときに、後ろからつかまえて「ちょっと○○さん、あなた便所掃除サボったでしょ」と取り囲んでヤイヤイやってるようなものです。いや、本当にそう思いますよ。そう思ってるのは僕だけではないと思いますよ。
こんな風潮だったら、僕だって隠蔽しますよ。正直に言ったって馬鹿みたいだもん。
子供の頃のことを思い出します。なにか悪さをしてオトナに問い詰められたとき、そのオトナが頭から自分を疑っていて、子供心にも「この人、公平にジャッジしてくれそうもないな」と感じたときは、子供は嘘いいます。妙に自白しようものなら、自分のやってないアレもコレも全部自分のせいにさせられそうだもんね。逆に、「あ、この人はちゃんと理解してくれそうだ」と感じたときは正直に言います。あなたには、そーゆー記憶が無いですか?
結局、その子供が正直になるか、嘘を言うかは、問い詰めるオトナの器量ひとつなのでしょう。もっといえば嘘をつくように事実上仕向けているんですよね。鏡みたいなものだと思います。この場合のは「オトナ」とは、言うまでもなく僕ら世間や社会やマスコミですが、これだけ日本で隠蔽が流行ってるということは、社会の問い詰め方がそれだけヘタクソだということであり、公平なジャッジをするとは思われていないのでしょう。そして、そのとおりだと思います。
写真・文:田村
写真はBondi Beach
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