風の強い日に坂の上で
風の強い日だった。
風の強い日は、何故かいつも晴れている。
晴れてはいるのだが、空の一角は不気味に蒼い雲があった。
いや「雲」という個々別々の存在ではなく、まったく継ぎ目がないベタ塗りだった。
まるで、この世の悪意がそこだけに凝集しているかのような、なにか特別な禍々しさを感じさせる色だった。
そして、天空のそれ以外の部分は快晴である。
なぜそこだけ恐ろしげに曇っているのかよく分からない。
おおおん、おお、おおおん、おおおお、、、、
風の唸り声が聞こえる。
どうして風の音はいつもああも恐ろしげなのだろうか。
まるでずっと昔のヨーロッパのキリスト教の異端裁判で、むごたらしい殺され方をされた多くの無辜の人々のうめきが、数世紀たっても尚も中空にこだましているようだ。
坂の上に続く日なたの道。
アスファルトにくっきり電信柱の影が落ちている。
コンクリートブロックの塀が続く。
電信柱には近所のなんとか歯科医院の広告が貼り付いている。
どうしてこんなところを歩いているのだろう。
明確な目的があって歩いていたはずなのだが、歩いているうちに忘れてしまった。
忘れてしまいながらも、なおも僕は坂をのぼる。
コンクリートブロックの塀は、なぜかその塀の佇まいだけで、そこが東京都内のどこかであることを僕に教えていた。
なんでブロック塀だけから、そんなことが分かるのだろう。
でも、分かるのだ
坂の上にさしかかる。
風は相変らず強い。
坂の上の誰かの家の前には、自動販売機があった。
赤い横顔を見せているから、多分コカコーラ系の自動販売機ではないか、と僕は思った。
違った。
ぞれは何も売っていなかった。
百円玉を入れる投入口はあるが、それだけだった。
商品パネルがあるべき機械の前面部は、ただ真っ赤に塗られた金属の板だけだった。
商品の取り出し口もない。
これは自動販売機なのか?でも、百円玉の投入口はある。
おなじみの投入口。百円玉の絵がシールで貼り付けてある。
それだけ。
なんだ、こりゃ?
僕はなにかヒントをつかもうと、機械の周囲を隅々まで見てみたが、何も手が掛かりはなかった。
好奇心にかられて、僕は百円玉一枚無駄にする覚悟で、投入口から入れてみた。
僕の手を離れた百円玉は、カチャンと音を立てて、機械の食道に飲み込まれていき、下に落ちていく。
それだけだった。
馬鹿にしてる。
僕は思った。
なんなんだ、これは。
そのとき、気づいた。
風の音が変っていることに。
風は明らかにその泣き声を変えていた。
地の底を這うような男性的な音から、ソプラノの女性的な音が混じっている。
ひゅうおおん、ひゅおん、ひぃうううあああおんん、
風の音の変化に耳を澄ませて注意を集中していたので、自動販売機の前の家のなかから誰かが出てきたのに気づかなかった。
振り向くと男が立っていた。
堅実なサラリーマン風の40代の男性だった。
ワイシャツにスーツを着ているが、ネクタイはしていない。
男は、にこやかに微笑みながら、百円玉を入れましたねと僕に話し掛けた。
ええ、と僕は答え、さらに、一体この機械はなんなんですか?と尋ねた。
男はにこやかな笑みを崩さぬまま、「乗車券ですよ」と答えた。
そして、私はこの駅の駅長なんですよと付け加えた。
何を言ってるんだ、この人は?僕はいぶかしんだ。
「駅って、その、どこにあるんですか」
「まだ見えないと思います、あなたには」
「まだ見えないって、そのうちに出現するんですか?」
「いや、何と言えばいいのかな、あるんだけどあなたには見えない、そういうことです。」
「はあ、、、」
何をどう返事したのものか僕が戸惑ってるうちに、男はさらに笑みを深めながら、
「やあ、列車が来たようですよ」と告げた。
「え、、、、」
「じゃあ、お気をつけていってらっしゃい、よい旅になりますように」
親しみのこもったまなざしを向けながら、男は、ちょっとおどけたような仕草で僕に敬礼をした。
風が近づいてきた。
ソプラノ混じりの恐ろしげな、うらしめげな、風が近づいてきた。
僕はその風に連れて行かれるのだろう。
なぜか、そのことが急にハッキリしてきた。
そして、何のためにこの坂をのぼってきたのかも、、、
「そうです」
男はあくまでも笑みを崩さずに言った。
「あなたはあの風に乗って行くのですよ」
「ど、どこへ?」
「もちろん、来世です」
「え?」
「おや、覚えてらっしゃらない?まあ無理もないですな。いきなりでしたからね。」
「いきなりって、なにがですか?」
「あなたが死んだのが、です」
思い出した。
僕は、行楽シーズンのスシ詰めの観光バスに乗っていた。
ふわっと身体が浮くイヤな感覚、悲鳴をあげる暇もなかった、、、
そして、、、、、気づいたらこの坂をのぼっていたのだと。
風が強い日だった。
風はもう恐ろしげに聞こえなかった。
空の一角の恐ろしげに見えた部分も、もう恐ろしげには見えなかった。
「あそこに行くのですね」
僕は分かりきったことを聞いた。
「そうですよ」
男は分かりきったように答えた。
「そして、僕は、生まれ変わる」
「もちろんです」
もし、もし僕がこの自動販売機に百円玉を入れなかったら、どうなっていたんだろう?
僕はそのことを男に尋ねた。
「そのときは生まれ変わりません。この坂をゆっくり降りていって、どこか遠くにあるいい所に行くのです。」
男は眩しげに空を見上げながら答えた。そして、こう付け加えた。
「生まれ変る人は、必ず百円玉を入れます」
「そういうことになってるのですね」
「そういうことになってるのです」
空からまた視線を僕に戻して、男は力強く言った。
風の強い日だった。
よく晴れた空いっぱいに、太陽の光が満ちていた。
強い風は、特に坂のてっぺんのここではより強く感じられた。
ブロック塀の脇に佇みながら、僕は待った。
風の音を聞きながら、僕は待った。
そういえば、遠い昔、こんなふうに風の強い日に坂の上でなにかを待っていたことがあったような記憶があった。
「じゃあ、行ってきます」
僕は男に向かって微笑み、軽く頭を下げた。
「行ってらっしゃい」
男は満足げに大きく頷いた。
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