今週の1枚(02.09.09)
ESSAY/ 武装解除-自分の"キャリア"に騙されないように
あなたは----
某有名大学を出てたり、某有名企業に入っていたり、某有名なプロジェクトに参画したり、有名な仕事をしたり、著作物もいくらか著しているかもしれないし、某世界ではそれなりに有名だったりするかもしれません。それがあなたの心中の誇りであり、支えであるかもしれないし、優越感の根拠であったり、アイデンティティの機軸になったりもするでしょう。
しかし、第三者の僕からしたら、そんなあなたの”キャリア”なぞ、ほとんど大した意味を持ちません。
それは一個の人間として本質的に「それほど重要なことではないから」ですが、特に海外に出てしまえばそれはより明らかになります。仮にあなたが松田聖子並のキャリアと知名度を日本で獲得していたとしても、一人でシドニーの町を歩いている限りにおいては(つまりは本質的には)、ただの「英語の不自由なノンネィティブのアジア人」でしかないです。それ以上でもそれ以下でもない。それ以上のものにしたかったら、その場でそれを誰にでも分かるように示す必要があります。
今をさかのぼること8年前、僕がはじめてオーストラリアにやってきて語学学校でヒーコラやってるとき、同じ学校に日本人の女性が学生としていました。僕は「NECおばさん」と勝手に仇名をつけてました。クラスも別ですし、面識もないのですが、よくカンティーン(食堂)とかで他の学生と一緒に喋ったりするのに出くわしたりするのですね。で、日本語で喋ってるわけですので、結構席が離れていても耳に入ってきたりするわけですが、この人、何かというと昔勤めていた(らしい)NEC(だと思ったけど、もしかしたら別の有名な日本の電機メーカーかもしれない)を引っ張ってくるのですね。「私がNECにいたときは〜」「NECでは〜」を連発するのですね。もちろん他のことも喋ってるのでしょうが、食堂で、廊下で、校舎の外で、通りすがりに「NECでは〜」と誇らしげに喋っている会話の断片が耳に飛び込んできたわけです。そんなことが何度か重なったとき、ふと振り返って、顔をみて、「ああ、あの人か」と思い、自動的に僕の中で”NECおばさん”というアダ名になったわけです。
「なんだかなあ」って思ったわけです、その誇らしげな口調が。
それはあなたにとっては誇らしいキャリアなのかもしれないけど、そんなの他人にとっては別にどってことないです。海外に出てしまえば誰もそんなに評価しないのだ。日本の就職ランキングなんか、よほど特殊な興味を持ってる人以外は、世界の誰も知りません。あなただってポルトガルの就職ランキングなんか考えたこともないでしょう。僕のように日本人同士であってさえ、法曹界のように違う畑にいた人間にとっては「それがどうした」としか思えないです。そして、同じ畑にいる人間でも、やっぱり「それがどうした」でしょう。他人なんかそんなもんですし、それが客観的評価だと思います。
もし、あなたがNECの創立者であったとしたら、多少は「ふーん」と思ってもらえるかもしれないけど、それでも、まあ、「ふーん」どまりでしょう。ましてや、一時期勤めていた程度のことでは、何ほどのこともない。オリンピックで金メダルとったとか、ノーベル賞を貰ったとか、そのくらいになったら「ふーん」が「へー」くらいにはなってくれるでしょう。それでもチベットの奥地とかいったら、やっぱり「ふーん(全然わかっていない)」くらいでしょう。
誇らしげに語りたくなる気持ちは分かります。僕だって自分が弁護士だったこととか誇らしげに語りたくもなりました。それが支えでもあるでしょうし、アイデンティティを基礎付けるひとつの支柱でもあるでしょう。それは否定しません。
やたら他人と競いたがるのは、社会的な生き物としての人間の本性の一つでもあるでしょう。ましてや、単一民族(だと思い込んでいる)日本社会においては、些細なことでも階級を作りたがり、マンションの砂場のお母さん同士でも、ダンナの会社、出身大学、子供の成績、ひいては自分の学歴によって微妙な綱引きをやってたりするといいますから、より他人に自慢しうる晴れがましい”キャリア”は、生きていく上において大きな武器でもあり、乗り物にもなるでしょう。それは分かる。
しかし、そんなものは非常に限定されたエリアでやってるローカルゲームに過ぎない。将棋においては、飛車と歩では全然格が違うのですが、それは将棋というローカルゲーム世界での話です。一歩そのゲームから離れてみてたら、そんなものは、ただの文字を書いてある木の端くれに過ぎない。つまりは全然本質的ではないです。
こんなことは、別にここで僕にエラそうに言われるまでもなく、誰もが知ってることだと思います。僕も知ってるつもりでした。ああ、だが、しかし、「知っていたけど知らなかったんだ」です。
僕がこちらにやってきた理由の一つもまさにそれでした。
肩書きとか、キャリアとか、人脈とか、すごく限定されたエリアでしか通用しないスキルとか、そういったものに取り囲まれ、そういったものでメシが食えているうちに、自分という存在がそういったモノの集合体でしかないのではないか?という居心地の悪さはありました。自己確認をするためには、そういった自分に付着している「付帯価値」みたいなものを一切合財取り払って、裸の自分がどれほどのものなのか、どういったレベルに自己認識をもっていけばいいのか、確かめたかったです。
思春期からこっち20代くらいまでは、(これは誰でもそうだと思いますが)「俺は特別だ」という優越意識と、「人並みになりたい」という卑屈な意識とのせめぎ合いだったと思います。生来的な性格として、「皆と同じだからOKだ」とは全然思えなかった僕は、自分の自我を守ることは、自分のユニークさを確立し、守ることでありました。そのユニークさを守るため、思想の先鋭さや力の優越性を渇望したわけです。
話が抽象的ですのでもっと具体的に言います。例えば、僕は、自分の髪型の単純な好みとして髪が長い方が好きでした。当時はロン毛なんて言葉もなく、単に「むさ苦しい長髪」であり、前世紀(70年代)の遺物でもありました。要するにダサいわけだし、いろいろな社会的な局面で抵抗に合います。高校や、家や、部活(なんと柔道部だったという)で、「むさ苦しいから切れ」と言われるわけですな。言われれば言われるだけ、自分のスタイルに他人がここまで居丈高に干渉していいのか?という素朴の疑問と怒りを感じるわけです。でもって、自分の好みを貫くためには、それなりに「先鋭な思想」と「優越的な力」が必要だったりします。つまり、「長くても良いではないか?」という理論武装(まあ屁理屈として一蹴されるのですが)であり、そしてより実効的な力を持つのは「強ければ良い」ということで、文句を言わさないだけの学業成績を収めることでもあります。
月日はくだり就職とかになりますと、またぞろ髪を切るかどうかが、今度は就職できるかどうかという(大袈裟に言えば)社会的生存を賭けた問題になってくるわけです。これもまた「力でクリア」しようとします。つまり弁護士になってしまえば、他人もあんまりとやかく言わなくなるだろうと。実際、弁護士くらいになってしまうと、どんな髪型をしようが「ユニークな先生」としてむしろ好意的な評価を受けたりすることもありました。要するに文句を言わさないだけのスキルとパワーがあれば、自分のユニークさを守ることができるということですね。
でもね、そうやっていろいろ武装していくとですね、その武装が鬱陶しくなったりもしてくるのですね。武装の方が一人歩きを始めて、自分以上に自分を表したりします。例えば、子供の頃からイジメられてた人が、「畜生、今に見てろ」と思って勉強に励んで東大を出たり、オリンピックで金メダルを取ったりします。そうなると他人はそんなにイジメなくなります。メデタシメデタシかと思うと、そう簡単にはいかない。今度は、どこにいっても、何をやっても、やれ「東大生は」とか「金メダルストは」という言い方をされてしまったりします。マンガ読んでるだけでも、「ほー、東大生でもマンガ読むんですね」とか言われたり、金メダリストはパチンコやってるだけで「休養も大事ですからね」とかわかったような声援を受けるという。そんなもん、個人の好みでマンガ読んだり、パチンコやってるだけなんでしょうけど、世間はイチイチ「看板」にひっつけて解釈しようとする傾向があります。
僕ごときは鬱陶しいといっても知れてますが、かなり鬱陶しい思いをされている方は沢山おられると思います。そういえば、不倫で駆け落ちするなんて、世間でゴロゴロしている話であり、特に話題にもなりません。でもやったのが、裁判官とか、官僚とか、教師とかだったら、もう雑誌ネタでバンバン書かれてしまいますからね。ちなみに医師と弁護士はかなり世俗的な人物像に思われているせいか、異性関係でドンパチあってもあんまりネタにはなりません。まあ、「遊んでこそなんぼ」の芸人さんほどではないにせよ、わりと寛容な雰囲気があって救われたりしました(^^*)。でも、同じことやっても職業や身分でネタになったりならなかったりってのは、ある種の職業的差別、とまではいかないまでも偏見を助長するだけじゃないかなという気もします。余談でした。
武装が一人歩きする話でした。ただ、社会で生きていく以上、ある程度はその鬱陶しさを引き受けねばなりません。有名人はそれだけプライバシー保護が薄いという「有名税」があるように、それなりの立場に立てばそれなりのメリットもあると同時に、それなりのデメリットもあります。それはもう引っかぶらざるを得ないと思います。「本当の自分を見てくれ!」と言ったところで、そんな他人ひとりひとりについて、「本当のあなた」なんか見ていられるほどのんびりした社会に生きてないわけですしね。自分だって、他人を見るときは記号化して見てますしね。You can't be nobody. 社会に出てなんらかの形で認知される以上、その認知が常に100%正確なんてことはありえないし、何らかの形のペルソナをかぶらないとならないワケです。
いくら馬鹿な僕もそのくらいのことは分かっていました。それはまあしゃーないことだとも思っていますし、逆にしたたかにそれを利用すべき場合もあろうと思います。問題は、そういった”武装=パワーアップ・ペルソナ”みたいな事だけが全てではない、それどころかかなり便宜的なものに過ぎない、、と分かっていたにも係らず、「分かっているけど、本当は分かってないんじゃないか?」という気がしてきたのですね。人間ちゅーのはそーゆーモンじゃないでしょうと分かってるつもりではいるんだけど、「じゃあ、何なの?」と問い返すと、「そりゃあ、お前、決まってるじゃねーか、、」とか言いながらも口篭もってしまうという。「ほんと、何なんだろね?」みたいな。
そんなね、髪を切らないで済むようにするとか、自分のスタイルを貫くとかですね、要するに他からの干渉を排除するという、そーゆー受身的、防衛的なものだけじゃないでしょう、と。そんなものは降りかかる火の粉を払いのけるためのツールや戦略に過ぎないでしょう。また、そうやってムキになるのも、もとはといえば自分自身がグラグラしてて確信を持てないからであって、本当に自信があったら別に誰に何を言われても構わないだろうし、髪とかスタイルとかも全然本質的ではないといえば本質的ではないです。
人間30年も生きれば、十代の頃に「絶対に譲れない!」とかムキになっていたアレもコレも、結構平気で譲れるようになります。あの頃はコドモで馬鹿だったから、そんな枝葉末節にイノチかけたりしてたんだよなってな気分にもなってきます。そんなこたあ、どーでもいいのって気になる。
そんなわけで、そういった「武装解除」による自己再検査&奪回みたいなものが渡豪の個人的な目的でありました。素っ裸になった自分が一体なんぼのモンなのだろうか?と。そういった自分は、なにかを価値を見出せるような人間なんだろうかとか、そこでいう「価値」ってなんだろうとか。
でもって、こっちにやって来ました。
結論は結構すぐに出ました。もう、いきなりポンと分かったような感じです。
要は「ちゃんと生きてるかどうか」ってことだと思います。
特殊な専門的スキルであるとか、立場やキャリアとかではなく、人間だったら誰でも持ってるようなもの、誰であれ出来なければならないようなもの、基本中の基本みたいなものです。「呼吸の仕方」みたいなものですね。当たり前のことがちゃんと当たり前に出来て、それが日々の積み重ねで実現できているかどうか。それがどのくらい実現できているか、そのパターンはどうであるかが、まさに自分自身であり、その人の価値でもある、と。
それは、会う人誰をも惹き込むような染み通るような笑顔であったり、誰とでも雑談できる話題の広さと会話のマナーであったりします。それはもう、ブラジル人でも、フランス人でも、中国人でも、誰にでも通用するような人間的愛嬌であり魅力だったりします。パーティで横にベネズエラの人が来ても、カンボジアの人が来ても、「いやー、ははは」と楽しく打ち解けられる力であったりします。
思うのですが自分と似たような人々、同じ業界とか、同じ会社の人たちと話をするのは簡単なんですね。学生から社会人になってまず直面するのは、自分とは全然違う世界の人と沢山接しなければならないことです。日本で弁護士やりはじめたときも、数時間交代で、どっかの会社の社長さん、高校生、ヤクザ、飲み屋のママさん、大学の教授という具合に話をする人がガンガン変わります。ちょっと面食らいましたけど、面白いもんだなと思いました。そして、そうやって付き合う範囲が広くなればなるほど、内輪話は通用しないから、どんどん普遍的なところで接点を求めていきますし、より普遍的なものに価値を置かざるを得なくなります。それが、シドニーのような民族数で200とも300とも言われるようなマルチカルチャルな町に来ちゃうと、さらにもっと普遍的な接点を探すようになります。
そのためには、本当に誤魔化しのきかない、万人に通用する人間的魅力を持たねばなりません。それは別に座談上手である必要もなく、にじみ出てくる誠実さであったり、包容力であったり、たくまざるユーモアであったりします。逆に言えば、人格としての品の無さ、卑しさみたいなものも、かなり直感的にバレバレだったりするわけです。冒頭で述べたように、スキルもキャリアも限定されたエリアでのローカルルールに過ぎませんから、そういった権威的な煙幕が張れなくなるので、いきなりその人の魂のありようみたいなものが露骨に出てしまうという。それが、まあ、ひとつの「武装度ゼロ」状態なんだと思います。
パーティでのソーシャルな付き合いという一見的なものよりも、さらに長期的な付き合いになってきますと、より人間的魅力がモノをいいます。それは、例えば、嘘をつかないとか、卑怯なことをしないとか、約束を守るとか、思いやりがあるとか、機転がきくとか、柔軟に対応できるとか、飲み込みが早いとか、ユーモアが上質であるとか、情熱的だけど理性的でもあるとか、独創的であるとか、洞察力があるとか、、。
ちなみに、付き合い的なスキルでいえば、やっぱり世界の人とある程度話をしていくためには、世界地理や歴史、政治経済などについての基礎知識も豊富な方がいいですし(アイルランドの人と話して、IRAも知らないようではツライですからね)、それなりの一般教養というのもあるに越したことはないです。あと「ものの言い方」ってのはスキルとしてかなり大事だと思います。これは英語力一般に含めて考えられがちですが、英語力とは関係ないと思います。「理路整然としていながら、温かみを失わず、気が付いたら敵対していた人が笑いながら同意している」みたいな物の言い方というのは、外国語能力というよりは、言語力一般であり、且つ対人関係能力一般だと思います。
その他、もっとも根源的な部分としての肉体的魅力・能力や、当たり前の生活スキルの比重も、非常に大きくなります。例えば、健康であるとか、健脚であるとか、腕っぷしが強いであるとか、料理が出来るとか、食材の目利きができるとか、車の運転が上手であるとか、家の内部の修理が出来るとか、インテリアのセンスがいいとか、怪我したときの応急手当が迅速で的確であるとか、楽器が出来るとか、そういったことです。
専門的スキルと知識は、これは皆さん仕事している以上、あって当然。パン屋さんはパンに詳しく、歯医者さんは歯に詳しいというだけのことです。専門スキルがあるからとか、あるエリアでキャリアがあるからというのは、皆も事情は同じなだけに、無数にある人間的魅力のほんの一部分に過ぎません。それがあるからその他の魅力や欠点は全て不問に付されるわけですもないです。
大体この種の狭いエリアでの権威、上述の”武装”なんて、その世界が狭ければ狭いほど絶対的な力を持ち、世界が広くなるほど相対化し、しまいには無力化するようです。例えば、日本のとある地方では、地元の秀才が通う高校にいってるだけで、「○高生」というエリート的立場が与えられますし、それは種々の特権やネットワークを形成します。日本の地方の経済界は出身大学ではなく出身高校で派閥があるといいますが、実際そうだと思います。ところが、そんなものはちょっと県を越えたらたちまち無力です。あんまり誰も知らない。福井の藤島高校とか、山形県の米沢興譲館高校とか、地元では有名なのでしょうが、知らない人は全然知らない。音楽(クラシック)を目指すんだったら桐朋学園といえば大したものらしいのですが、僕のようなロック系の人間にとっては「ふーん、そうなの」でしかないです。
それが海外ともなれば、よほどのことがない限りだれも特別視なんかしてくれない。どっかの会社で重役だったら、その会社内部ではエラそに振舞えるでしょう。取引先の会社もそれなりに遇するでしょう。でも、シドニーでフラット借りて暮らしていたら、もうその神通力も無力になります。同じように、あなたのマンションの隣に日本の某有名大学の教授が住んでたら、それなりに思うでしょうが、アルジェリアの大学の教授さんが住んでいたら今ひとつピンとこないでしょう。インドのカーストは地元ではバリバリのヒエラルキーでしょうが、インドを一歩でたら「インド人」でしかないという。そんなもんだと思いますし、それでいいのだとも思います。
キャリアというのは、本当は、他人に見せびらかしたり、誉められたりするためにあるのではないのでしょう。それは好きが嵩じてあれこれやっているうちに出来てくる過去の航跡のようなものでしょう。浜辺を歩いていて、ふと振り返ると自分の足跡が点々とついている、その足跡のようなものでしょう。本来的には「昔の話」であり、今現在この瞬間とは特に関わりはない。
ひとがあなたのキャリアに何らかの尊敬を払うとしたら、そのキャリアを通り過ぎるプロセスであなたが様々な人間的魅力を獲得してきたのだろうなと思うからです。難易度が高いとされる何かを成し遂げるためには、それ相応の忍耐力や、才能、意思力、計画力などが求められますから、それ相応の人間としての「力」を得たのだろう、又ハードシップは通例ひとの魂を鍛えますから人間的にも成熟しているのだろうな、と「推定」されるからです。過去の栄光は、今現在のあなたの人間的魅力の一つの「状況証拠」として意味をもっているに過ぎず、あくまでも他人が見ているのは今現在のあなたです。
ですので、いくらあなたに豊富なキャリアがあろうとも、それが今現在のあなたに良き蓄積として残っていなかったら何の意味もないことになります。某難関大学を出ていたとあなたが幾ら誇示しようが、それに相応しいだけの知力が今のあなたの瞳に宿っていなかったら意味がない。それに相応しいだけの聡明さを示さねば意味がない。それが出来なければ、「○○出てたって、こんなもんか」「○○のなれの果て」といわれてしまうのがオチでしょう。金看板のよってあなたが浮かび上がるというよりは、あなたによって金看板が沈む場合の方が多いでしょう。
逆に言えば、今現在のあなたがイケてなかったとしても、過去のキャリアあるいは狭い世界だけで崇められる地位などは、あなたのイケてなさを何らフォローしてくるものではありません。だからキャリアというのは本質的に大した意味はない。そのキャリアを得る過程で、自分自身の魅力として蓄積し現在も尚オーラのように持っていなければ意味がないです。それが人間社会の大原則だと思います。またキャリアを得る過程で失うものも多いでしょう。あまりにも専門バカになりすぎてしまって一般常識に欠けてしまったり、男女の機微がまるでわからなくなったり。もっとも恐ろしいのは、狭い社会で君臨しているうちに、この人間社会の大原則を忘れてしまうことです。これを忘れてしまうと、あとは人間力としては落ちていくだけになりかねない。
こういった人間社会の大原則がイヤだったら、狭い自分だけの世界に篭っているしかないです。ヤドカリのように。貴族カーストで周囲に崇められているインド人は、自分の本来の人間力で勝負していくのがイヤだったら、インドから離れてはいけません。一歩外にでたら、そんな虚栄の衣などたちまち剥ぎ取られてしまうからです。
そう考えるとキャリアって何なのよ?という気になります。
今僕が思う「キャリア」とは、@自己確認をするためのツール、A集金用のツールという二つの機能しかないと思います。
@自己確認ツールというのは、なにかを成し遂げることによって、自分自身に本当の自信をつけさせることです。これは10代〜30代において大事なことだと思います。一つくらいなんかやっておかないと、なかなかセルフエスティームが高まらないので、「俺はここまでやった」と自分自身で満足できるようなことをしておくのは、その後の人生において大いに意味を持つでしょう。
A集金ツールとは、要するに履歴書にいろいろ書けるということですよね。就職機会が広がるとか、ビジネスチャンスも多くなるとか、そういったことです。オーストラリアや欧米では日本以上に、より本質的にキャリア重視だったりします。それは単に○○会社にいただけでは足りず、そこで何をしたか、その結果何を出来るようになったのかまで求められます。キャリアによって就職機会を増やし、現在の職場は自分のキャリアをさらにアップするためのツールに過ぎないという発想も強いです。だったら皆目の色を変えてキャリアキャリアと言っているかというと、実はそんなことはないです。それは仕事というものそれ自体が、日本ほど全人格的なものではないからです。所詮仕事は仕事でしかないです。
これはことあるごとに言ってますが、オーストラリア社会では、どうもお金を貰ってやる作業より、お金を貰わないでやる作業の方により力をいれてやる傾向があります。レイジーオージーと揶揄されるくらい仕事はいい加減だったりするのですが、その代わり5人に一人はボランティアをやっているというとんでもない高率であったりします。友達のために骨惜しみせずにアレコレ一肌脱ぐというマイトシップは今もなお残ってます。家族や恋人と過ごす時間も大事にしますし、チャリティや、地域活動への参加も熱心です。つまり彼らにとっては、「お金を貰ってやる仕事」というものの価値的序列はそれほど高くない。それ以上に、「人間だったらやるべし」というような、困ってる人をヘルプすること、隣近所で助け合うこと、「袖振り合うも他生の縁」的な発想は日本以上に強いです。彼らの考え方に慣れると、「人間として大事だからやる」イトナミが、ビジネス的等価交換の世界よりも上位に来るのは、ある種当然じゃないかという気にもなります。
したがって、欧米社会で「キャリア重視」といっても、それほど全人格的なものではないです。仕事世界そのものが、それほど高い価値序列を与えられていませんし、その限局された世界でのルールとしてそうなっているというだけのことのようです。ですので、欧米的キャリア志向を、仕事=全人格・全人生という具合になりがちな日本に、そのままストレートに持ってこない方がいいと思います。
日本に居た頃から思ってましたが、ゴテゴテ武装が嵩んでくるにしたがって、新しい戦いが始まるのだと。自分が獲得した武装、ペルソナに、本来のオリジナルな自分が食われてしまうかどうかの闘争です。強烈な武装をすればするほど、自分自身のオリジナリティも強烈に構築しなければならない。いかに強力な武装であったとしても、そんなことは自分の全人格からすればほんのエピソードに過ぎないと思わせられるかどうか。ここが本当の勝負なのだと思ってました。例えば、阿部公房や手塚治虫、渡辺淳一はいずれもお医者さんでもありますが、彼らの強烈なオリジナリティは、医師という金看板を霞ませ、人々をして「ほー、そうだったのか」「そんなことどうでもいい」と思わせています。そのくらいになれるかどうか、です。
このホームページやエッセイでも、お読みになっているあなたをして、「もと弁護士の人が書いている」と思わせるか、「シドニーにいる田村という人が書いている」と思わせられるかどうかです。さらには「シドニーにいる」なんて部分も忘れさせられるかどうかです。そんなカンムリなんか叩き伏せ、自分のエピソードに過ぎないこととして従属させられるだけの自分のオリジナリティを確立することが出来るかどうか、それが本当の戦いなんだろうな、と。昔書いていた雑記帳のときは、あんまり弁護士であったことは出さないでおいたと思います。それによってバイアスを与えるのがイヤだったし、過去の栄光(だとも思わないけど)みたいなものに取りすがってやっているみたいな見苦しさみたいなものを出したくなかったという無意識的な配慮もあったと思います。最近では気にせずに弁護士、弁護しと出すようになってますが、それだけ自分自身のなかでそういったキャリアが大した意味を持たなくなってきたからだと思います。どんどんフラットになってきて、「そういえば昔岐阜に住んでいたことがあります」という程度の過去のお話として自分の中で消化できるようになったのでしょう。そう思いたいです(^^*)。
さて、長々書きましたが、最初シドニーにやってきたときはやっぱり嬉しかったですね。そのときは特に意識して言語化しなかったのですが、今から思うと、乾燥ワカメが水に漬けられてひゅ〜っと戻っていくように、忘れかけていた自己認識がよみがえってきたのでしょう。「そうそう、俺ってこういう奴なんだよな」という。この感覚は、小学校の頃の感覚に良く似てますね。ありのままの自分と、周囲に投影される自分とのズレが、日本に居た頃に比べて非常に少ないので、気持ちよくスッキリします。もちろん、日本に居た頃に比べて世間的な対応もドーンと落ちるわけですし、こちらでは誰も「先生」なんて呼んでくれないわけですが、それがイヤだったかというとイヤどころか、予想以上に気持良かったです(^^*)。ああ、今気づいたけど、やっぱり俺、先生なんて呼ばれているのがイヤだったんだろうなあ。
もっとも、それだけに、自分のイケてない部分も目を覆わんばかりに露呈するわけで、改めて「ああ、俺ってロクなもんじゃないな」と気づいて、ズーンとなったりもします(^^*)。でも、ま、それでいいんだと思ってます。
さて、冒頭に戻って、”NECおばさん”ですが、その方がその後どうなさったのかは知りませんが、願わくば変わっていて欲しいなと思います。だって、せっかく来たのに勿体無いじゃないですか、シラフに戻れるチャンスを逃すのは。
自分のキャリアに自分が引きずられたり、騙されたりすることくらい馬鹿馬鹿しいことはないと思います。
いまこの文章をお読みになっているあなたと、いつか僕はシドニーで会うかもしれません。そして知己になるやもしれません。僕はあなたをレスペクトするでしょう。基本的には誰と接するときでもレスペクトするという前提で接しようと思ってます。実際に接してみてガッカリしたりすることも、勿論あります。が、レスペクトし続けられることの方が多いです。そして、その理由は、あなたの優しさであったり、思慮深さであったり、真摯さであったり、生活スキルなどの、あなたが今現在僕に示してくれている人間的魅力ゆえのことです。あなたの「武装としてのエラさ」ゆえではありません。なんというか、国境の税関を通るとき、あなたの”武装”も没収されてしまうのでしょう。武装解除した、素敵なあなたとお会いしたいです。
写真・文:田村
写真は ダーリングハーバーで行われたブラジルフェスティバル
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