今週の1枚(02.09.02)
ESSAY/ プロの陥穽
プロと呼ばれる人々は沢山います。それぞれの分野で、厳しいトレーニングを受け、日々研鑚を積んでおられることでしょう。まあ、カッコいいですよね。ただ、プロであるがゆえに陥り易い落とし穴というものもあると思います。それは何か?ちょっと硬いかもしれないけど、今回はこの点に付いて考えてみたいと思います。
僕自身弁護士というプロでしたし、今現在は学校選びの相談やらサポートの仕事をしてますので”限定されたエリアでの専門職業者”という意味ではプロです。自分でプロやってて、一番学んだ大きなことは、このプロであるがゆえにハマってしまう落とし穴に落っこちないこと、でした。その「落とし穴」というのは何か?というと、「仕事で自己実現しようと思っちゃうこと」です。
仕事で自己実現、いいじゃないの、何が悪いの?と思われる方も多いでしょう。でも、あんまりそんなこと考えないほうがいいよと思います。プロを目指す過程においては(修行時代)は、そう思っていていいでしょうけど、いったんプロになってしまったあとは、あまりそんなこと考えない方がいいんじゃないかなあ。
なぜか?というと、本末転倒になって、クライアント/依頼者が迷惑だからです。常に必ず迷惑するものでもないでしょうが、そうなるリスクは否定できないと思います。
プロといい、職人といっても、この経済社会においては、なにかの人的サービスを提供するサプライヤーであり、等価交換の一方当事者に過ぎません。弁護士であろうが、歯医者であろうが、自転車屋さんでパンク直してもらうのと話は同じ。八百屋さんでトマト一皿買ってお金払うのと話は同じ筈です。
ところがあまりに高度に専門的な業界になってしまうと、業界内部での評価、仲間内での”勲章”みたいなものが出てきます。例えば弁護士だったら、一生に一度くらい、刑事事件で無罪判決を勝ち取る、巨額の破産事件を切り回す、著名な事件をやって記者会見をする、最高裁で弁論をやる(滅多にやることないです、あそこは書面審理だから)、判例時報や判例タイムズに載るとか、書物を著す、、とか、いろいろな勲章があります。
「大きな事件・仕事ををやりたい」というのは、弁護士に限らず、ビジネスマンでも同じでしょう。「何千億のプロジェクト!」に携わり、切り回し、血湧き肉踊るといった、厳しくも充実した仕事で燃焼したいという気持は、ある程度腕に覚えがある人だったら誰しもそう思うでしょう。
でもね、そのうちに、そんなの余計な「邪念」なんじゃないか?って気がしてくるんですよね。僕も20代はまだそういうことでギラギラしててたわけですが、30代になってくると、だんだん淡白になってきました。それは体力や気力の衰えとかもあるのでしょうが、それ以上に、自分ばっかり燃えてても意味ないよなってことが分かってくるからです。僕自身も”勲章”もいくつかとりましたけど、でも「それがどうした?」って気になってくるわけです。
弁護士は他人様の人生に、一部分ではありますが関与します。関与というか、場合によってはいっとき全面的に仕切るケースもあります。関与の仕方も、朝から晩まで24時間というどっぷり漬かるときもあります。長い年月をそれに費やすときもあります。関与の度合いが激しいほど、「自分の事件」だという気がしてきます。でも、違います。事件はあくまで依頼者本人のものです。僕らはあくまで一部分を助けるだけに過ぎません。そこは絶対に弁えないとならない。
「一緒に頑張りましょう」と固く手を握り合って、依頼者の方と二人三脚で困難な事件に向かい、何度となく打ち合わせをします。深夜残業、休日出勤(僕も元旦出勤したこともあります)して何年も何年も頑張りとおします。あともう少しで本懐達成!というところで、依頼者から、「もういいです。やめます」と言われたら、ギリギリ歯軋りしたとしても、「そうですか」で引っ込まねばなりません。それまでの何百時間にも及ぶ努力の集積が、あっさり消えてしまったとしても、「そういうもんだ」と割り切らねばなりません。自己実現の集大成の一歩手前でパーになってしまうのですから、フラストレーションはキツいです。もちろんあまりに不合理な終わり方をするようなときは、問いただしもするでしょうし、説得もするでしょう。それでも本人の意思が固かったら、所詮は第三者に過ぎない弁護士は引っ込むべし、です。
このあたりを弁えていないと、例えば、自分は○○という新しい分野での第一人者になりたい、そのためにはバーンと派手な訴訟を打って注目を浴びたい、という野心が出てきます。野心そのものは悪いことではないです。ボーイズ、ビー・アンビシャスです。また、その野心の内容も、「日本における○○制度をもっと充実させたい」という公益に合致するものが多いです。皆のためにやっていると客観的にも言えるものも多いでしょう。
ただ、それが嵩じると、まるで○○問題や○○運動の戦略のヒトコマとしてなにかの訴訟があり(客観的にはそうなんだけど)、依頼者はその訴訟を起こすためのステゴマのように思えてきちゃったりします。これは本末転倒。他人を自分の野心のための道具として使ってはならない。他人は自分の自己実現の道具ではない。
それに最初はピュアに公益のことを思って活動していても、段々自分の名声であるとか、権威とかが欲しくなってきます。それはひとつには自己実現の証、これまでの努力のご褒美としてそう思うでしょうし、あるいは実際の弁護士事務所経営という営業上の必要性からもそう思うでしょう(「有名な先生」になった方が客は集まるし、客もそれを望む)。そうなってくると、最初一致していた、公益と自分の野心とが、段々分離してきたりします。
同じく良くない傾向としては、「大きな事件をやりたい」と思うがあまり、小さな事件を馬鹿にしだすことです。1000億円の巨額和議事件はやりがいもあるでしょうが、だからといって、ごく市井のありふれた離婚事件や交通事故をないがしろにしていいというわけではない。これら市井の事件は、額も小さいですし、報酬も少ないです。またそれをやったところで、世間の誰からも注目されませんし、有名になるものでもありません。だからといって手を抜いちゃダメなのは勿論なんだけど、それでも人間は弱いものだから、ついご褒美の大きい方に向かわないとは限らない。そこを踏みとどまって、相対的に「小さな事件」にも決して手を抜かないのが、本当のプロだと思います。僕もやってるうちに、そう思うようになりました。
それに、依頼者本人にとってみたら、それが大事件であろうが、無名の事件であろうが、社会的に大きな意味を持とうが持つまいが、あんまり関係ないです。たとえば、交通事故で家族を亡くされた遺族悲しみと困窮は、日航機が墜落して家族を亡くされた遺族の悲しみに比べて軽いとか重いとかいうものではないです。依頼者本人にとって一番大事なことは、愛する家族を失ったということであり、その経緯がハデであろうがジミであろうが、そんなことは二の次でしょう。さらに、専門家しか分からないような法解釈学上の争点とか、そんなことは遺族やクライアントはどうだっていいんですよね。そんなところで弁護士が「うーむ、これは新しい判例になるかもしれないぞ、判例時報に載るぞ、よーし」とか一人で盛り上がっちゃいけないと思うのですよ。だから逆にいえば、弁護士にとって、プロにとって、事件や仕事の軽重というのはある筈がないし、あってはならないことだと思います。
もし、あなたが弁護士を依頼するとしたら、そのあたりは知っておかれたらいいと思います。この弁護士は、あなたのために事件をやるのか、自分のために事件をやるのか。そして、将来あなたが弁護士の世話になるとしたら、それは連日マスコミに載るような大事件を引き起こしてそうなるのか、それともローカル版の囲み記事にもならない地味な事件でなるのか、です。圧倒的に後者が多いでしょう。世間ではよく著名な弁護士をエラがる傾向がありますが、あなたが著名な人だったらその人に頼んだらいいでしょう。でも、そうでなければ、think twice、ちょっと考えた方がいいと思います。僕の乏しい経験では、世間的に有名であるか無名であるかということと、その弁護士があなたの事件に対して払うであろう誠意とエネルギーの量は、あまり関係ありません。よく「腕がいい」とか言いますが、あんまり関係ないですよ。プロの「腕」とは、どれだけ丁寧に仕事をするかということで殆ど決まりますから。
これは弁護士に限らないと思います。レストランのシェフでも、不動産屋さんでも同じことだと思いますが、大きなことをどれだけハデにやってるかではなく、細かいところをどれだけキチンとやっているか、で選んだ方がいいです。僕は、「ウチのお客さんは、有名人とか一流の人が多くてねー」とかエラそげに喋ってる大将のいる店でなんか食べたくないですよ。「なんだ、こいつ。有名人じゃないのか」といって手を抜かれそうだもん。
なお、念のために付言しておきますが、世間的に著名な人が全てダメとか、そんなことは言ってません。弁護士同業者からみていて、人格や経験から周囲に推されて大きな事件に携わり、結果的に有名になってる人も沢山います。そういう人は、逆に有名願望や野心が少ないですし、できるだけ有名にならないようにしてるけど、でも隠し切れず有名になってしまってたりしますからね。
同じようなことは、ジャーナリズムにも言えると思います。
第一線の新聞記者の皆さんは、目の色を変えて”特ダネ”を追いかけているようなイメージがあります。現実も多分当たらずとも遠からずといったところでしょう。でも、その「特ダネ」って、当事者(新聞関係の皆さん)が思うほど、消費者(新聞読んでる僕ら)にとっては意味ないです。
どうせ明日になったら分かるようなことを、半日早くすっぱ抜いて教えてもらったからといって、別にそんなに有難くないです。大体、皆そんなに新聞読んでないもん。まあ、それを言っちゃオシマイよという気もするのですが、、、
それでも、特ダネを掴むか、抜かれるかは彼らの世界では恐ろしく重要なことだったりするようですね。「ウチだけだぞ!抜かれてるのは!」とか怒鳴ったりなんかしてるのでしょう。なにやら大事件が起きて捜査本部が設置されたら、本部長や、主任刑事の自宅まで押しかけて、「○○は、やっぱりホンボシなんでしょ?」「それはご想像にお任せします」「あれ、否定しないところをみると、捜査方針もその方向でいくということですか?」「捜査はいろんなことを考えなきゃいけないからね」とか謎掛け問答みたいなことやったり、アレやったり、コレやったりしているうちに、「警察は○○を犯人とほぼ断定」とか書かれたりするわけですね。この「ほぼ断定」って何なんだろっていつも思いますけど。
それは情報を早く伝達するのは、新聞の本質でもあるでしょう。「新しく聞く」わけですからね。ニュースだって、「NEW」Sですからね、新しいことがイノチなのでしょう。それでも、早ければいいってもんでもないです。というか、新聞に出ているニュースで、1日2日の情報の差が僕にとって大きな意味を持つことなんか、そんなにないです。自分が株を買ってるからいつが売りどきかとか、オーストラリアドルに換金する場合のレートとか、週末に旅行にいくから天候はどうかとか、まあ自分に関連することくらいですよ、速報性が欲しいのは。それ以外のことは、いかに大事件といえども、犯人が逮捕されようがどうしようが、関係ないっちゃ関係ないです。
そんなことより、なんとかして特ダネをと思って、推測合戦がエスカレートして、嘘を報道される方がよっぽど迷惑です。結果的に「イチから十まで全部大嘘」になってしまった松本サリン事件の報道合戦を思い起こせば、この種の特ダネ合戦のマイナス面というのがいかに甚大であるかよく分かると思います。僕らが嘘を教えられ判断を誤るということもそうですが、誤報された渦中の人の迷惑は筆舌に尽くしがたいでしょう。
そりゃマスコミも民間企業ですから、なんとかして差別化をはかるために、より鮮度の高い、面白いニュースを求めるでしょう。それは理解できなくもない。しかし、消費者が第一に求めるものは、正確で的確な報道です。仲間内の名誉心やら、勝手な自分だけの盛り上がりのために、正確性や洞察力を犠牲にするのは本末転倒です。ましてや嘘や行き過ぎた推測、脚色、演出なんか論外です。多少遅くてもいいから、「ううむ」と唸らされるだけの奥行きを持った正確でオブジェクティブな報道を求めます。特ダネなんか別に要らないからさ。半日早く教えてもらったからといっても、ほんと、こっちはそんなに嬉しくもありがたくもないんだから。
いま、弁護士とジャーナリストの例を挙げましたが、これはほんの一例です。どんな職業にもこの種の「プロの陥穽」というものはあると思います。
新しい症例や治療法を学会で発表することばっかり考えている医師であるとかね。新しく発売された新薬を使ってみたくてたまらないとか、新しく購入された機材を使ってみたいとか。それは人間として無理のないところでもあろうし、ある意味では無邪気な感覚でもあろうけど、それは、しかし自分のエゴです。医師の本来の役割は患者を治療することであり、患者というのはあまねく世界に存在にする患者ではなく、目の前の患者さん、ただ一人だけです。この人を治療するために、持てる知識とスキルの全てを注ぎこむことだけを医師は期待されるのであって、それ以外の個人的な野心や向学心がそれを超えたら、やっぱりマズイと思います。
自分が病気でヒーヒー言いながら病院に行ってベッドに寝かされてたら、戸棚の陰から、「君い、これはとんでもなく珍しい症例だよ。よーし、今度は○○を投薬してみようかなー。君い、記録の方、しっかりとっておくようにね」なんて盛り上がったヒソヒソ声が聞こえてきた、、、なんて体験はしたくないです。脱いだ服ひっつかんで病院から逃げ出しますわ。それか、「なんだ、ただの風邪か、つまらん」みたいな顔で診察されたくないですわ。
これほどマンガチックにわかりやすくないのですが、看護婦さんとか、カウンセラーとかが、「自分のために」他人の世話をしはじめるのは良くない兆候だと思います。すっごく情熱的なんだけど、その情熱の源泉と対象は、結局自分自身じゃないのか?という。わかります?結局、自分が癒されたいから、他人を癒す仕事をしてるみたいな。「あるべきカウンセリングの情景」という勝手な理想を紡(つむ)いで、その理想的情景のなかで「他人の心を優しく癒しているワタシ」みたいなものを求められても、やられる方は迷惑だったりします。
「うーん、あなたの悩みは小さいときのお父さんとの関係が根っこにあるのよねー」「や、別にオヤジとはうまくいってると思うんですけど、、」「ううん、違うの。本人は気づいてないだけなの」「はあ、、」「いいのよ、あなたの思ってること、なんでも私にぶつけてもらって」「いや、別にそんな言うほどのことは、、、ただ最近自分が今の仕事に向いてないのかなあって、、」「そうじゃないでしょう?お父さんのことでしょう?」「はあ?ああ、いえ、、べつに」「あなたが心を開いてくれないと何も始まらないのよ」
というノリになったら面倒臭いですよね。まあ、分かり易くするためにマンガチックにしてますし、本当はもっと微妙なところにいくんだろうなと思います。こういう人は、おそらく「プロの陥穽」というよりは、プロになれないと思うのですが、それでもなんかの間違いでなっちゃったりしたら、厄介そうです。
他人のためとかいいながら、結局自分のためになっちゃってるってことは、これに限らず沢山あるでしょう。無償の奉仕であるがゆえに、余計ありがた迷惑で困ってしまうという。これって、原型は、「お見合い実績数百件を誇る、角のタバコ屋のオバサン」みたいな感じなんでしょうね。なまじビジネスになってないだけに、そういうのが自己実現モードにはいってしまったら、扱いに困りますよね。「いい話なのにねえ、何が不満なのかしらね」「そんな贅沢ばっかり言ってたら、行き遅れちゃうわよ」という、余計なお世話の北斗百裂拳。
というわけでですね、プロになられる方は、あんまり自己実現に励まないでいただきたいです。迷惑ですから。
もちろん自己実現は大事なことですし、人生の代え難き燃料でもあるでしょう。自己実現一般を否定するものではないし、むしろ称揚するものではありますが、でもそれは、仕事というものがある場合、仕事をちゃんとやった上での話だと思います。
本当のプロはそのへんをちゃんと分かってると思うのですね。
自分が盛り上がっている世界と、目の前のクライアントやお客さんが求めていることは必ずしも一致はしない。成功したところで、世間の誰も注目しないし、誰も誉めてくれないような、地味でありふれた仕事でも、手を抜かないで一件一件、丁寧に、淡々とやっていればいいのです。それこそがプロに求められる最も重要な姿勢であり、資質であろうと。
それは地味な日々でもあります。プロというと、なにやらハデハデしい活躍を想像しますが、実態はどんな職業でも同じだと思います。とにかく地味。外来のお医者さんは、朝から晩まで、来る日も来る日も、目の前に座った患者さんに、「今日は、どうしましたか?」という職業的な安心感を与える笑顔で問診を始めるわけです。殺人的に忙しいにも関わらず、このときばかりは、「時間は幾らでもありますからね、ゆっくり、正確におっしゃっていただけたらいいですからね」という雰囲気で患者を包む。患者を対等な人格としてレストペクトし、決してモノ扱いしない。「栄養のあるものをとって、温かくしてゆっくり寝てくださいね。明後日になってもまだ熱がひかなかったら、また来てくださいね」とまあ、判で押したように同じようなことを、何回も何回も、おそらく死ぬまでに何十万回も繰り返す。それがプロなんだと思います。
僕も、こちらに着かれたばかりの方に、「バスの場合はトラベルテンという回数券カードがあって、とりあえずはブルーという一番安いものが使い勝手がいいです。ニュースエージェンシーにいって、”トラベルテン・ブルー、プリーズ”と言えば買えますからね。あ、ニュースエージェンシーっていうのは、、」なんてことを毎回毎回言ってるわけですね。もう、かれこれ数百回言ってると思います。言いながら、「ああ、俺って、こうやって一生”トラベン・テン・ブルー”って言いつづけながら死んでいくのかなあ」とか思ったりしますね。でも、それでいいんですよ。それがプロってもんだと思うわけです。
写真・文:田村
写真は Glebe
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