今週の1枚(02.08.26)
ESSAY/ダメダメ・シンパシー
前回、事実認識というのは中々難しいという話をしました。
若干重複になりますが、前回の最後の部分からを引用し、それを助走として今回は始めていきます。
例えばそれは、たった一人の過去の一回的な行為(○月○日○○へ行ったかどうか、とか)を認識するだけでも、実は異様に難しかったりします。例えば裁判では膨大な時間を費やして証拠調べをやります。そして通例、争点になるようなことでは、プラスの証拠とマイナスの証拠が拮抗したりするわけです。「そんなことはありえない!」と絶叫したくなるような証拠同士の矛盾がバンバンでてきます。例えば、民事なんかでも、まったく同じ日付、同じ署名捺印で、全然内容の違う二通の契約書が登場したりします。
どうしてそんな曖昧な事実が起きるのか?これは簡単です。人間というものは、常日頃そんなに論理的に行動しているわけではないからです。思い違いもするし、勘違いもするし、ミスもするし、うっかりもするし、魔も差す。僕ら人間が日常やってることを、シビアに観察していけば、いかにテキト-にやっているか、改めて見れば、それこそ「目を覆わんばかり」だと思います。
というところまででした。
あなたの行動だって、僕の日常だって、問い詰めていけば、説明のつきにくい妙なことの一つや二つはしている筈です。
例えば、「先週の土曜日になにをしてましたか?」と聞いてみましょう。
あなたが当日やりたかったことは、@映画を見に行く、A洗濯、Bクリーニングをとってくるの3点だったとします。平和な日常、平和な休日です。あなたは、朝の時点では、先に洗濯して干してから映画に出かけ、その帰りにクリーニングを取ってくればいいと思った。ところが窓から上を見上げると空模様が怪しくなったように思ったので洗濯は明日に伸ばし、今日はとりあえず映画に行こうと思った。映画を見るために駅に向かっていくうちに、「今日は土曜だから映画館も混んでるかもしれないな」と思い至ったら、なんだかウンザリしてきてしまった、だから、結局行かなかった。パチンコをやって時間をつぶして、そこらへんの定食屋で晩御飯を食べて家に帰って、TVを見て寝たとします。クリーニング屋に行くのも忘れてしまった。けっこうありがちな話です。平和な日常のヒトコマ。
で、これを合理的に問い詰めてみましょう。あなたは重要参考人として、警察かどっかで取調べを受けていたりします。
「じゃあ結局その日はあなたは洗濯しなかったんですか?」「しませんでした」「どうしてですか?」「雨が降るかもしれないと思ったからです」「気象台の記録によると先週の土曜日のあなたのエリアの天気は晴れ、降水確率もゼロじゃないですか」「いや、そのときはなんか天気が悪くなるように思ったんです」「雨は降ってなかったんでしょう?」「降ってませんでした」「今にも降りそうだったんですか?」「いや、それほどでも、、」「駅まで行って思い直してパチンコ屋に入ろうとしたとき、天気は?」「あ、そういえば晴れてました」「じゃあ、家に帰って洗濯をすればいいじゃないですか、どうしてしなかったんですか?」「いや、そのときは、あんまり洗濯のことは頭になくて」「ついさっきまで洗濯しようと思ってたんでしょう?どうして急に気が変わったんですか?気がかわるような事情の変化があったんですか?」「いや、別にこれといって、ただ、まあ、せっかく駅前まで出てきたので、パチンコ屋を見たらちょっとパチンコがしたくなって、、、」「洗濯のことはまったく頭になかった?」「ありませんでした」「さっきまで真剣に考えていたことが、なんで急に頭から消えてしまうのですか?」「なぜって言われても、、別に洗濯くらいそんな大事な問題でもないし」「パチンコの方が洗濯よりも重大な問題だったんですか?」「いや、そうはいってませんけど、、」「あなたはパチンコで生計を立てているのですか?」「いやそんな生計なんか、、大体負けてるときの方が多いです」「じゃあ、パチンコはそれほど生産的なことでもないですよね。洗濯するほうがよっぽど生産的で意味があるとは思いませんか?」「そりゃ思いますけど、でもそのときは頭になかったんです」
「”そのときは頭になかった”ね、ふーん、ま、いいでしょう。じゃあクリーニングはどうしました?」「忘れました」「全然思い出さなかった?」「いや、定食屋に行く前は思ってたんですけど、駅の反対側で面倒臭いし、お腹空いてたし」「クリーニング屋は何時で閉まるんですか?」「よくは知りませんけど、土曜は夜の7時くらいだと思います」「晩御飯を食べていたら、クリーニング屋が閉まってしまうとは思わなかったのですか?」「多分大丈夫だろうと思いました」「その根拠は?」「根拠って言われても、、、」「根拠はないが、大丈夫だろうという安易な気持ちで定食屋に入ったってことですね」「安易な気持ちって、、、」「安易じゃないんですか?きちんと根拠がいえるんですか?」「いや、なんとなくですから、、」「なんとなく、、、ね」
「結局定食屋を出てからクリーニング屋には行ってないですよね?どうしてですか?」「ゴハン食べたらなんだか面倒臭くなっちゃって、明日でいいやって、、」「あなたさっき、”忘れた”といいましたよね。今は”面倒臭くなった”と言い換えている。どっちが本当でどっちが嘘なんですか?」「いや、別に嘘ってわけでは、、あれ、だから、ああ駅の反対側まで行くのは面倒だな、、って、、、」「そう思ったのは定食屋を出てからですか、入る前ですか」「あれ、どっちだったかな?」「覚えてないんですか?」「あまりよく、、、」「あまりよく覚えていないのに、”取りにいくのを忘れました”ってキッパリ答えているじゃないですか?」「だから、別に、、、」
「結局、その日は洗濯はしなかったんですか?」「しませんでした」「おかしいじゃないですか、あなたは家に戻った、すぐにでも洗濯できる態勢にある。朝から洗濯しようと思ってたんだから帰ってからでもすればいいじゃないですか?夜のうち干しておいてもいいでしょう。洗濯機は新しいですか?」「あ、去年買い換えたばかりです」「じゃあそんなにうるさくもないし、宵のうちに廻してもそんなに近所迷惑じゃないでしょう?」「それはそうですけど、、」「なんで洗濯しなかったんですか?そうすれば翌日曜日にすぐに映画にいけるでしょう。どうしてしなかったんですか?」「どうしてって言われても、、」
こういったやりとりをやってると、法廷かなんぞでこう言われてしまうわけですね-----
「証人(あなた)の説明を聞けば、それがいかに支離滅裂であるか多言を要しないであろう。
証人は、最初洗濯、映画、クリーニングの3つの用事を口にしつつも、結局何ひとつ実行していないのである。証人がその日におこなった事は、パチンコをやって定食を食べただけである。映画についても土曜日が混むというのは、なにも駅まで歩いていって初めて思い当たるようなことでもなく、最初から予想されたことである。洗濯についても、又クリーニングについても、いくらでも実行する機会はありながら、証人は漫然とこれを見逃している。クリーニング屋に至っては、「忘れた」「面倒だった」という二つの相矛盾する理由を続けざまに述べるという状態で、捜査官の質問に誠実に答えようという姿勢すら微塵も窺えない。仮に証人の供述が全て真実だとすれば、証人の日々の生活態度がいかに無計画でその場限りのものかが浮き彫りにされる。そして証人の供述がなにかを隠蔽するための虚偽だとすれば、これまた無計画で稚拙な嘘と言わざるを得ない。いずれにせよ、終始一貫窺われるのは、証人の行き当たりばったりな、無計画で自堕落な人格ならびに生活態度であり、このような人物の証言は到底信用することは出来ないのである」
とまあ、「できないである!」とまで言い切られちゃうかもしれません。平和の日常だったはずなのに。
あのー、念のために言っていっておきますが、これはただの「例え」です。実際の司法や警察のレベルはこんなに低くありませんし、上記の弁解だって、もっとマトモに取り上げてくれるでしょう。
つまり、
・よく見れば天気はいいのだが、ちらっと空を一瞥した印象で天候が悪いかのように錯覚してしまうこと
・実際に駅まで向かい、いよいよ映画について意識が集中したときになって、”混むかも”ということが今更ながら思い起こされること
・パチンコは衝動的にやりたくなったりするもので、それと洗濯という日常家事とが重なった場合、パチンコ的衝動性が勝ってしまうこと
・クリーニングを取りにいけばいいのは重々承知しつつ、つい目先の空腹を満たすことを優先してしまうこと
これらはいずれも日常よくある話、了解可能だと思います。また、これら日頃「なんとなく」やってる事柄につき改まって理由をきかれると、うまく答えられず、ときとして矛盾してしまうこともまた、よくあることでしょう。ですので、実際に上記の例があったら、どんな捜査官でも特にこれだけで「怪しい」とは思わないでしょう。ただ、「とりあえず、定食屋で裏付け捜査をしようか」と思うだけでしょう。
僕が上に長々と書いたのは、僕らの日頃の行動というのは、ナチュラルに行き当たりばったりで、そう合理性がギンギンに貫徹しているものではないことを示したかったからであります。そしてまた、いわゆる「理詰めの追求」ということをしようと思えばどんなことにでも出来るということでもあります。
なお、「理詰めの追求」という言葉は、実際の裁判などで、警察検察の調書を攻撃するときによく言います。理詰めで「おかしいじゃないか、おかしいじゃないか」と追求して窮地に追い込んで、自然な(真実の)弁解を封じて、捜査当局の思惑を押し付けて調書をとる誘導尋問・捜査ということです。これは捜査だけではなく、国会答弁、税務調査、普通の議論から夫婦喧嘩に至るまで広く応用されてます(^^*)。
しかし、どうですかね?今の設定では最初から「あなた」の行動として、真実がわかっているという前提で読んでもらいました。これを、全くの第三者が言ってるとして、「もしかしたらこいつは口から出まかせの嘘を言っているのだけかもしれない。それで辻褄が合わなくなってシドロモドロになっているのかも??」という頭で読んでみてください。そう思って読むと、今度はすごーく怪しく思えたりしませんか?一人の人間が本当のことを言っているのか、嘘をいってるのか、中々わかるものではないです。真実は自ずと明らかに、、なんてことはあんまり無いです。
なぜなら正直に真実を語ろうとしても、そもそも僕らの行動というものが、かなりその場限りの行き当たりばったりだったりしますし、あまり合理的に動いているわけでもない。だから、いくら真実を述べてもあまり真実っぽく響かないのです。逆言えばちょっとぐらい不合理な方が真実により近いのではないか?とすらいえます。
このように、たった一人の一回だけの行動ですら、シリアスに「本当は何が起きたのか?」と調べていくとよく分からなくなります。
唐突ですが、今、虚脱してます。たった今パソコンがクラッシュして、それまで2時間くらい書いていた文章が全部ぶっとびました。かなり異常な終わり方で、それまでコマメに再保存してたのにそれすらも無くなってしまいました(上の行まではもっと前に保存してたので助かった)。履歴を見ても、キャッシュをみてもどこを見ても残ってません。とほほほほ。
また同じ内容を繰り返し書くのも僕が詰まらないので、別の話題を書きます。
ところで何でこんな話をしてるかというと、前回、価値観のぶつけ合いのような空中戦は空しい→ちゃんとした事実に裏付けられているべきだ→ところがその「事実」というのがまた難しいという話でした。時の流れは誰にも止められません。いかに確固として見える現実も、一瞬先には過去になり、この世のどこにも存在しません。残っているのは、人の記憶です。「Aさんは本当に昨日パチンコをやったのか?」ということですら、Aさんの話を疑いだしたらわからなくなります。パチンコ屋の店員の証言なんてのもあるかもしれませんが、今度はその証言自体が疑わしくなるかもしれません。また客観的に人の行動を筋道だてて検証しようとしても、人間というのはかなり気まぐれに動きますので、これまた正確にフォローできるというものではない。
僕らは生きて、いろんな実体験をし、また情報に接して疑似体験や追体験をし、そこで生じた感情をもとに価値観というものを養っていきます。そして、意見なり思想なりが出来てくる。
例えば、子供の頃にお医者さんに助けられた人がいたとします。そのときの医師がとても優しくて、どっしりしていて、いかにも信頼できそうに感じられたら、自然と医師一般に対して好感情を持つでしょう。逆にエラそうで冷たく思える医師に出会ってたら、悪感情を抱くでしょう。大人になるにつれて、徐々にバランスのとれた物の見方、つまり「医師も人間であり、人間である以上、いろんなタイプの人がいるだろう。また人間なんだから機嫌の悪いときもあるだろうし、優しいときもあるだろう」という具合にニュートラルな見方になっていくとは思いますが、それでも三つ子の魂百までじゃないですが、心の底に焼きついた根深い感情というのはあると思います
お金が無くてミジメな思いしかしなかった人は、「しょせん世の中金だ!」という価値観に馴染みやすいでしょう、お金が無くても楽しい思いをしてきた人は「金だけが人生じゃないよ」という考え方に馴染むでしょう。異性との付き合い方にせよ、家族間の関係にせよ、自分で実体験してきた事実というものをベースにして価値観を育んでいくでしょう。常に多数派であった人には少数派の悲しみは分かりにくいでしょう。
自分を省みて思うのですが、「なんで自分はそう思うのだろう?」と考えていくと、その価値観のベースとなった”事実”というのは、非常に限られた体験でしかないことが分かります。また、その実体験も、自分は正しくその出来事を認識していただろうか?と思うと、また心もとなかったりします。他人の言動についても、謹厳な態度が冷たく見えたり、微笑が冷笑に思えたり、要するにこっちがヒガんでいるからなんでも悪く見えてしまうということもあるでしょう。
この地球上に、この瞬間に、何十億という人間の現実が発生しています。自分が体験したことなど、そのうちの氷山の一角というのも愚かしいくらい微細な一部に過ぎません。ましてや、その一部ですら正確に認識できるかどうか怪しいとなると、そういった事実認識の上に育まれた価値観というのは、いったいなんぼのモンやねん?という気もしてきます。さらに、自分が体験したことでもなく、単に人の話を小耳にはさんだだけとか、噂話とか、本を一冊読んだだけとか、、その程度のことで、そんなに簡単に価値観なんか出来ちゃっていいのかしら?という疑問もあります。
僕が他人の空中戦を見聞きして、なにやら脱力した気分を味わうのも、空中戦そのものがイヤだとか不毛だとかいうよりも、その価値観そのものが、薄弱な根拠の上にたっている薄っぺらなものに見えるからかもしれません。
例えば、上述の「土曜日何してた?」の理詰めの問い詰めでも、「ほら、辻褄が合わないからこいつのいうのは嘘だ」と決め付ける人がいたら、その人の物の見方の薄っぺらさにうんざりするでしょう。生身の人間というのは、気まぐれで、矛盾したことばっかりやってる不合理な存在なんだという、人間実在に対する洞察力の浅さがイヤになるのでしょう。
人の数だけ価値観はあるのでしょうが、個人的な好悪を言わせてもらえば、僕があまり好きではない価値観というのは、「人間の情けなさに対して寛容ではない」価値観です。
たとえば、「自分は絶対犯罪を犯さないと確信している人」とか、好きじゃないですね。僕個人としては、切羽詰れば人間なにをするか分からんと思ってます。勿論自分だって何をするか分からんと思ってます。今悪いことをしていないのは切羽詰ってないからでしょう。道端に1万円札が落ちていて猫ババするかどうかでいえば、多分僕はしないでしょう。しかし、これから先どんなときでも絶対にネコババしないか?と言われたら、自信ないですよ。失業して食うに困っていたらネコババするんじゃないかな、旅先で財布無くして窮地に陥ってるときだったらラッキーと思うんじゃないかな。
まあ、ネコババ(占有離脱物横領)のような可愛いレベルではなく、たとえば殺人であったとしても、もしかしたらやるかもしれません。自分の家族を殺した奴がいたら、絶対殺してやると思うでしょう。そんな敵討ちのような晴れがましいことではなくて、もっと現実的な、交通事故の引き逃げとかだって時と場合によってはやるかもしれないよ。カンニングだって、絶対合格しないと困る!という切羽詰ったところに追い込まれたらやらないとも限らない。
だから、僕からしたら、犯罪者と自分を分ける境界線はそれほどハッキリしたものではないです。というか境界線なんかないです。同じ弱い人間だと思ってます。もちろん、鬼畜的な所業とか、あまりにも貪欲強欲な振る舞いとかは、「そこまではさすがにしないだろうな」とは思いますが、多くの場合は「ああ、俺も同じ立場だったらやるかも、、」と思います。
それを、「犯罪者なんか人間のカスなんだから、どんどん厳罰に処して、、」とか言い放つ人とかみると、どうしたらあんなに自信満々になれるのか不思議ですらあります。僕としてはあまりオトモダチになりたくなりタイプの人であり、人間的に一番信用できなさそうな人でもあります。
あと「不倫は絶対許さない」とか「愛してるんだったら絶対そんなことしない筈」とか、恋愛至上主義的な人も苦手ですね。恋愛の狂気を知らんのかな?経験したことないのかな?と思ってしまいます。身が二つに引き裂かれるような地獄を経験してたらそんなこと言えないんじゃないかな。でも、まあ、これはタイプもあるのでしょう。せめて人間にはいろんなタイプがあるということは知って欲しいです。
僕は、「情けない人」がわりと好きなんでしょうね。その情けなさや、ダメ人間ぶりのペーソスに、味わいを感じてしまったりします。ダイエットやろうとして何度も挫折してる人、禁煙に挫折しまくってる人、好きですね。英語やらなきゃと言いながらも空念仏で終わってしまっている人、いいですね(^^*)。
といっても、このエッセイをいつも読んでくれている方にはおわかりでしょうが、僕は結構キツいです。ダメなものはダメとハッキリ言う方だと思います。「それはあなたがアホだからでしょ」と、書くだけではなく、面と向かって言っちゃう方だとも思います。でも何でそんなに言えるのかというと、心のどっかで「自分も同じだ」と思ってるからなんじゃないかな。だから気楽に言えちゃうという。ダメであることを理由に、そんなに人を嫌いにならないからかもしれません。
ダメであったり、情けなかったり、イケてなかったりするのは、僕にとっては最終結論でもなんでもなく、ましてや断罪や糾弾なんておこがましいことでもないです。それはただの出発点に過ぎないと思います。ダメだからこそ、頑張ろうじゃん、って。自分のダメぶりを自覚してる人には妙な連帯感を感じたりします。
なんで自分がこういった、ダメダメ共感系の価値観を有するに至ったかというと、、、、自分が「ダメだなあ」と思わされるような経験を子供の頃からしょっちゅうしてるからでしょうね。それは確かでしょう。だって現在に至るまで、日々感じさせられてますしね。もっとも、だからといって、セルフエスティームが低いってわけではないです。自分をダメだなあとは思うけど、価値がない人間だとは思いませんから。これは、例えば英語を実戦で喋って恥ずかしい思いを沢山するのだけど、それらは決して「恥」ではないのと似てます。
それに、人間なんか基本的にダメ人間だと思ってるから、そんなに人間の認識能力を信じてないんでしょうね。「まーた、ちょっとその種の出来事に出くわしたからといって、すっかりその気になっちゃって」くらいに思ってるところはあります。その他愛の無さが可愛かったりもするのですが、あまりにどっぷり浸られてそれを空中戦で振りかざされると鬱陶しいな、といった感じだと思います。そういった人を見ると、「ねえ、もしかして自分って本当はアホなんじゃないかなー?って思ったりしないの?」と突っ込みたくなるという。振りかざした拳の横で、脇の下をツンとしたくなったり。ねえ、クリーニング取って来るの忘れたりしてるくせにさ。
写真・文:田村
写真は Bradleys Head
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ