今週の1枚(02.08.19)
ESSAY/ 空中戦
「空中戦」とか「神学論争」とかいう言葉を聞いたことがありますか?ありますよね。え、ない?じゃあ、今覚えておくといいです。
これらの言葉は、議論が熱してきて観念的になり、しまいには完全に地面から足が離れてしまって、ほとんど現実的裏付もないまま、互いの価値感や結論をぶつけあってるだけの不毛な状態をいいます。
僕自身もこうしてエッセイ書いてますし、他人の意見も読みたいから他の方のページを読んだりします。なかなか鋭いことを書いているページも多々あるのですが、そこはアマチュアの悲しさで(僕も含めて)、どっかで地面から足が離れて、自分の趣味(価値観や結論)を一方的に述べておわってしまう場合が多いのです。そして、読んでいた文章がいつしか空中戦になってしまうと、途端に僕はサーッと冷めてしまいます。「ああ、惜しいなあ」とも思うし、「なんだ、この程度か」と思うこともあります。自分も気づかずそういう文章書いてるんじゃないか、たぶん書いてるんだろうなあと反省したりもします。
どうして価値観や結論をぶつけあう空中戦や神学論争が、僕にはあまり意味が無いように感じるのか、そのあたりの話をしたいと思います。
力強く断定していること、バーンと結論を叩きつけるようなことって、たいてい嘘です。嘘というのが言い過ぎなら不正確です。それも言い過ぎならば、あまり参考にはならないです。
力強く言い切ろうとしたら、話を極端にシンプルにした方がやりやすいです。例えば、-どんな問題でもいいのですが-、原発論争の場合では、原発事故の恐ろしさや、日本の原子力政策や管理の杜撰さを挙げまくり、「絶対反対!」とやるわけです。原発のデメリットを一方的にガンガン挙げ募れば募るほど、最後の結論がバーンと力強く出てくるわけです。「次の世代にツケを残すな」「安全な環境を維持」とかいう理由も、段々「誰だって死ぬのはイヤだ」「我が子が可愛くない親だけが原発に賛成するのだ」「要するに鬼畜と悪魔の化身だけが原発を推進してるのだ」というエモーショナルなものになっていったりします。
そうやってバーンと力強く言うのはいいんですけど、でもそこでは、「じゃあ代替エネルギーはどうするのよ?」「化石燃料が少なくなる将来においてどんな展望が描けるのよ?」「その化石燃料だって、地球の温暖化を促進し京都議定書の精神に逆行するじゃないのよ?」「水力発電だって、脱ダムの流れや、環境保護の流れに反するじゃないのよ?」というあたりの論点についての配慮や悩みはあまり無い。
一応反論したとしても、たいした検証もなく「省エネで乗り切る」とか言う程度だったりします。それもさらに突っ込まれると「本来そんなにエネルギーを必要としない筈」とか、「江戸時代に帰ればいい」とか段々荒唐無稽になっていく。理念論、哲学論としてはわかりますし、理念に向けて一歩一歩邁進する尊さもわかります。崇高な理念を、チマチマした現実をぶつけることによって引きずり下ろすことの危険性もわかります。でも、「エネルギーなんか使わなきゃいい」「江戸時代に帰ろう」までいってしまったら、地から足が離れてしまいます。もう空中戦になっていくわけです。あるいは「自然に帰れ、人間の本当の幸せとは」という「神学」になってしまいます。
なにも僕は原発推進派ではないです。「出来ればない方がいい派」であり、「その”出来れば”って可能性をマジメに地味に考えるべきだ派」です。言わば「ジミ派」です。だって、原発が事故ったときの被害の凄まじさは、これは誰でも認めているわけですよね。推進派だって、「事故らない」「事故らないように万全を尽くす」といってるだけで、仮に事故ったとしたら少なからぬ被害が出るということまでは否定はしないでしょう。一方反対派だって、なんらかのエネルギーが必要という点においては反対はしていないと思います。大きく括ってしまえば、「出来るだけダメージの少ないエネルギー方法を模索する」という点では一致する筈です。だとしたら、どうやったらそれがベストに実現できるのかを、あらゆる観点、それこそ森林破壊や環境保護、原発管理技術、その管理システムの有効性、経済的インパクト、失業率への影響などなど、数百項目にわたるであろうチェックポイントをどうやったらマックスに策定できるかを考えるべきでしょう。「地に足がついた」というのはそういうことだと僕は思うのです。
ただしこの作業は異様に地味です。もう倉庫一杯以上の数値データ−を解析し、各専門家とブレストをし、国際交流もし、とりあえず明日どうする?という現実論と、人類はどこへ向かうのかという国家千年の計を同時に考えることが必要です。そんなにパキンと割り切れる問題ではないし、割り切れるくらいだったら誰も苦労はしていない。だからものすごく悩みが深い問題であり、この問題を語るときには、やっぱりそのどうしようもない悩みが立ちのぼってこなければ嘘でしょう。それを「絶対反対!賛成!」とシンプルに言い切ること自体、嘘であり、不誠実でもあると思います。ただ、こうやって「あちらを立てればこちらが立たず」という悩み深き冷静な思考をやってると、アドレナリンは上がりませんよね。だから、「がんばろー!おー!」ってな雰囲気にはなりにくいです。まあ、なってはイケナイんです、本来、「おー」で問題が解決するなら世話ないですから。
ただし、こういった「嘘」を百も承知で、それでも敢えて断定している文章には力があります。それはいわゆる檄文とか、アジテーションとか、多くの人々に求心力をもたらすためのスローガンやキャッチコピーのようなものです。
事態の展開に如何によっては、暴力的手段を行使してでもストップをかける必要がある場合もあるでしょう。そこまでいかなくても、相手方の傲慢さを砕き謙虚になってもらい、全体のバランスを回復するために、エマージェンシー的に気勢をあげる必要がある場合もあるでしょう。そんな緊急事態には、皆にのんびり熟考してもらっているヒマはありませんから、正確性を犠牲にしても一行でわかった気になれるような力強い断定が求められます。
また、この社会は、人間という非常に感情に支配されやすい生き物で成り立ってますから、理論的に精緻に完成したとしても、それが必ずしも理解されるとは限らない。だから、言わば「アホに分かるような」、論理を大胆に省略した言い方が求められたりもするでしょう。
これらは確信犯として「わかってやっている場合」ですし、それは個々人の意思決定のための議論・思索というステージではなく、「行動」としてのステージの話だと思います。だからもうそれは「政治」のレベルの話です。
それは必ずしも悪いことではないし、感情が常に悪いことでもない。思慮深い人が、何十年も現場に携わり、最終的に得た結論を端的に述べるとき、そこには自ずと迫力が出てきます。真情や信念の吐露、血を吐くような気合とともに語られる言葉には言霊が宿り、人を動かします。それは多分に感情的説得なのですが、感情が持っている直感的鋭さで、「ああ、この人のいうことは本当だ」と論理よりも正確に真実を見抜くこともあるでしょう。それは否定しませんし、場合によってはとても素晴らしいことでもあるでしょう。
それでも、これらの「わかりやすく短いキャッチコピー」を、自分自身の思索の糧にすることはできません。それを百回も千回も聞き、街の至るところで見聞きしていれば、なんとなくそんな気分になってきますが、しかしそれは一種の繰り返し洗脳に過ぎず、あくまでも自分の意思決定のための情報にはならない。例えば戦時中の種々のスローガン、「進め一億火の玉だ」「欲しがりません、勝つまでは」「大東亜共栄圏」とか沢山ありますが、こんな情報を百万回聞いたところで、日本は戦争をすべきか、しないという選択肢はないのか、するのだったらどのように行うのか、、、こういった冷静な思考は生まれてきません。というか、むしろ冷静な思考させないために、同じことを何度も繰り返さすことによって洗脳していくというところに狙いがあるのでしょう。
また「信念の説得」が本当に効を奏するのもマレだと思います。最初から同じ感覚を共有している仲間にはビビーンと伝わるけど、
違う価値観を持ってる人には何も伝わらない。例えば、確信的人種差別主義者の言うことにあなたは説得されますか?「白人こそが優生学的にすぐれた人種なのであり、優秀な白人は、劣った有色人種達を善導しなければならないのだあ!」とガンガン語られても、「おお、そうかそうだったのか!」という気にならんでしょう?なんぼ力強く語られても、反発こそすれ、説得はされないでしょう。でも、「日本人こそが、情の細かさ、倫理の厳格さ、技術の優秀さ、美の繊細さにおいて、もっとも優れた民族であるから、、、」という内容だったら、「おお、そうだそうだ」という気になる人も結構いると思います。だから、結局その内容が気持ち良いか悪いか、自分にとって都合がいいか悪いかだけじゃん?って気もしますな。それは論理、思索、説得、議論、いずれでもないです。ただの快楽原則だけです。
価値観や結論の違う人に、「なるほど」と思ってもらい、再考の機会を促すこと、相互理解を進めることにこそ議論の意味があります。空中戦は、価値観の違う人にはまるで無力である反面、価値観を同じくする人にはその偏見を助長し、理性を眠らせ、相互理解を妨害するリスクが大きく、ちゃんとした議論とはいいがたいです。
個人のホームページにせよ、論壇にせよ、掲示板にせよ、様々な意見が掲載され、戦わされています。いつも思うのですが、このような皆の議論の場においても、この種の空中戦的なスローガンレベルで終わったり、スローガンで洗脳された結果を繰り返したり、という意見も相当数見受けられます。
そんなことして意味あんのか?って気もします。そもそも、あんな短いスペースで議論して意味があるんだろうか?という気もすごくします。全く意味がないとは思いませんが、そういう空中戦を読んで自分の意見形成になにか役に立ったという経験は少ないです。個々人の意見(というか価値観や趣味)は、それはそれで傾聴に値するかもしれませんが、そこで分かるのは「〜〜と考えている人間がいるという事実」くらいです。あるいは「こんな稚拙な論理が大手を振るっているということは、日本も結構ヤバいかも」という認識も与えてくれるでしょう。そういった逆説的な意味では、まあ役に立たないことはないですけど、、、しかしなあ。
原発にせよ、構造改革にせよ、国際紛争にせよ、景気問題、教育問題、司法改革、夫婦別姓、医療改革、、、どんな問題でもいいですが、いざその問題を語ろうと思ったら、そのサワリだけでも知ろうと思ったら、それこそ段ボール何箱という分量の知識をまず勉強しなければ分からないと思います。聞いた話ですが、立花隆氏が取材しようと思ったら、まず予習として本50冊程度は読んでから行くと。それって大変なようですけど、そのくらい当然じゃないんですかね。
しかし、一人一人がそんなに勉強してるヒマなんかないです。それを専門に研究している人ならともかく、圧倒的大多数の人は、他に仕事を持っているのですから、あらゆる問題について網羅的徹底的に研究している時間的余裕なんかある筈が無い。だから議論の場で自分の認識を深めることは非常に意味があります。その場合必要とされるのは、個々の細かな論点について立ち入った検討です。たとえば教育問題だったら、現場の教師の人の「私はこんな体験をした」という事実であったり、原発だったら核燃料リサイクルの技術的展望であったり、クリーンエネルギー技術の現状と経済的効率性などだったりするでしょう。
でもそういった、読んで「おお、なるほど、そうだったのか」と思わせてくれる貴重な意見や報告はマレで、「日本の教育現場の荒廃は目を覆わんばかりであり、抜本的改革が望まれる」類のものが殆どです。「荒廃」って具体的になんなのか、そんなこといってる人の何人が実際に学校の現場に出かけてその「荒廃」とやらを目撃しているのか?「目を覆わんばかり」というのも、具体的に何パーセントがどうしたとか内容は全然明らかではない。「抜本的改革」は、教育に限らず、いつだってどこだって求められるのであり、具体的に何をするか?それは実現可能なのか、実現可能にするための戦略はなんなのか?こそが知りたいです。でも、そこを突っ込んで書いてくれているところは少ない。もう、事大主義のマスコミが連日書きたてるから、なんとはなしに「大変だ」と思わされてるだけではないのか?そうではないという説得的根拠を持ってこれるのか。
なにを議論するにせよ、全てに先立つのは現状認識でしょう。現状がどうなっているか、無色透明な事実の認識なくして意見もヘチマもないでしょう。
例えば、「少年犯罪の増加→学校教育の荒廃」という「現状認識」が広まっています。でも、本当にそうなの?犯罪統計はインターネットのあちこちですぐにゲットできますが、例えば少年犯罪の検挙数でいえば、以下のような統計もあります。昭和30年代の統計と平成10年の統計を比べてみると、 殺人 448人(昭36年) /117(平成10年)、強盗 2,762 /1,566、 暴行 13,881/1,843 、傷害 17,193/9,914 、強姦 4,649/ 460 という具合に、少年犯罪は、「激増」ではなく「激減」しているといえます。強姦なんか、10分の1にまで激減しています。
少年犯罪の増加が学校荒廃の証拠だとするならば、少年犯罪が激減しているならば学校教育は飛躍的に素晴らしくなってると言えるんじゃないの?このように統計数値一本持ってきただけで、当たり前に語られている議論の土台はガラガラと崩壊してしまうじゃないの?連日マスコミが連呼してるからといって、大の大人が、簡単に自分で調べられるにもかかわらず、僅かな、しかし貴重な知的努力を怠り、ころっと騙され、鵜呑みにしてその気になってていいの?荒廃しているのは学校よりも、世の大人どもの脳ミソじゃないの?とまあ、そんな気もしちゃうわけです。
上記の数字はhttp://www5.airnet.ne.jp/itsuofan/report.htmlから取ってきたものですが、じゃあ今度は統計がどれだけ真実を伝えるのか?統計のいいとこ取りをしてマジックをかけているのではないかという、統計そのものへの検証が出てきます。その点については、統計数値を使いながら逆に少年犯罪は凶悪化しているという論証を試みる前田雅英著『少年犯罪――統計からみたその実像』の紹介と、これに対する批判的検証を試みた奥平教授の論稿があります。これは統計の意図的な切り取り方やマジックを緻密に検証しているもので、上述の前田氏の著作を読んだ人はこれもあわせて読んでおかれるといいと思います。
統計といっても、統計数値自体が、前述のように倉庫一杯分くらいありますし、それを様々な角度から検証し、仮説を立て、さらに、、という具合にやっていくのが本当の思索であり、その思索の途中経過を互いに検証しあうのが議論じゃないんですか。掲示板ってそういう具合に使ったほうが意味があるんじゃなかろうか。
余談ですが、この論点に関してちょっと思いついたのですが、少年犯罪の凶悪化が一貫して進んでいるとしたらですね、例えば金属バット事件(浪人生が自宅の両親を金属バットで撲殺した事件)は1980年に発生しています。あれから22年。一貫して凶悪「化」してるだったら、「化」という言葉が意味する have been ..ing の現在完了進行形で進んでいるんだったら、現在では少年のグループがAK47ライフルやバズーカ砲くらい持って警察署を襲撃してるくらいになってないとイケナイんじゃないでしょうか。今、また金属バット事件が起きたとしたら、やっぱり凶悪「化」というんじゃないかな。
それとですね、少年犯罪そのものはおそらく戦後の闇市時代が一番強烈だったと思います。なんせ非行(かっぱらいとか)をしないことには餓死してしまうわけですし、むしろ誰もがやっていた。小中学生でも、ポン中(覚せい剤中毒者)が結構いたという話を聞いたことがあります。なんせ、当時の覚せい剤/商品名ヒロポンは、現在ほど世間で重罪だと思われておらず、酒やタバコの同類くらいに思われていた節があります(戦後風俗を描いた小説とかを読んでの感想ですが)。そういったことを考えれば、少年犯罪というのは沈静化しているのでしょう。でも、感覚的にはむしろ凶悪になってるような感じがする、なぜか?それは感じる側、つまり世間の大人たちの感性がそれだけ犯罪に敏感になってきているのではないか?言葉を換えていえば、そういった修羅場に対してヒヨワになってきてるのではないか。
僕が子供の頃の昔だったら近所のおっちゃんにしかられたり、ポカリとやられたりすることはザラでした。ということは、叱ったり殴ったりする大人もゴロゴロいました。おそらく戦後直後なんか撲殺するまで殴るような大人も結構いたかもしれません。僕らの当時はそこまではいかなくても、「この悪ガキが!」といって、棒切れ持って追いかけてくるなんて風景は結構あったと思うのだけど(僕もイタズラして追われたクチ)、今はないでしょ、そんなことしてる大人。僕だってそこまではよう出来ない。日頃やりつけてないからどうにもやり方がわからない、ノリが出ない。自分自身を含めて思うに、昔に比べて非行少年に対して弱くなってきてるんじゃないか。悪さした近所の子供のほっぺたをバーンと平手で叩けなくなってる。早い話が世の中ソフトになって、人々は白兵戦において弱体化・無力化してる。だから、ちょっとでも悪い子をみたらこっちがビビッちゃう。自分が弱くなってるから、非常に敏感になり、過剰に反応してしまうようになっているのではないかな?という気もちょっとしたりします。同時に、強い人が持つ寛容性もなくなってきている。昔のカミナリ親父だったら、「こーの悪さばっかりしおって」で竹刀でボコボコにしておいて、「まあ、2−3日したら元気になるじゃろ。いいお灸じゃ」で済ませていたのが、「死刑にしろ」と遠巻きにして合唱するようになる。それって、要するに弱虫になってきてるってことじゃないのか。
これは余談でした。
というわけで、その「事実の認識」というものをキチンとしなければ意味がないこと、しかし、その事実の認識というのが意外に途方もなく大変だという話でした。
事実認識が大変だといえば、例えば、たった一人の過去の一回的な行為(○月○日○○へ行ったかどうか、とか)を認識するだけでも、実は異様に難しかったりします。例えば裁判では膨大な時間を費やして証拠調べをやります。そして通例、争点になるようなことでは、プラスの証拠とマイナスの証拠が拮抗したりするわけです。「そんなことはありえない!」と絶叫したくなるような証拠同士の矛盾がバンバンでてきます。例えば、民事なんかでも、まったく同じ日付、同じ証明捺印で、全然内容の違う二通の契約書が登場したりします。
どうしてそんな曖昧な事実が起きるのか?これは簡単です。人間というものは、常日頃そんなに論理的に行動しているわけではないからです。思い違いもするし、勘違いもするし、ミスもするし、うっかりもするし、魔も差す。僕ら人間が日常やってることを、シビアに観察していけば、いかにテキト-にやっているか、改めて見れば、それこそ「目を覆わんばかり」だと思います。
例えば、、、、とここまで書いて、スデに結構なボリュームになりました。あと倍近く残ってるのですが、ちょっと長すぎるので、ここでカットしておきます。話の主題もちょっとズレていきますね。では、また。
写真・文:田村
写真は、ブルーマウンテンの落日
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