今週の1枚(02.08.12)
ESSAY/ Garden Job
最近、庭いじりに精を出しております。なぜか?と言われると、まあ「ヒマがあるから」というのが一番大きな理由でしょう。
大雑把に言って7月後半から8月は、僕の仕事はヒマです。かき入れどきの観光シーズンではないのか?と思う人もいるでしょうが、僕がメインにお世話しているのは留学やワーホリで来られる人です。これらの人々はあまり観光シーズンにはやって来ません。航空券が高いからです。
1週間程度の滞在予定の旅行者の場合は、現在の仕事など生活環境を「ちょっとタイム」で離脱してきます。自ずと離脱しやすい時期というものがあり、それが夏休み時期だったりするわけです。しかし、留学生やワーホリの場合は、多くの場合は会社を辞めてからやってこられますから、別に来るタイミングは何時でもいいです。また半年とか1年の長期滞在予定で来られますから、予算も当然厳しくなります。航空運賃の高い時期を避ければ、その運賃の差額だけで上手くやれば一ヶ月の生活費くらいにはなりますから、どうしてもハイシーズンは避けます。というわけで、僕の場合、運賃がまだ安い7月前半までと9月に入ってからお客さんが集中する傾向があり、夏休み時期は本当に夏休みのようにのんびりしてくるわけですね。
そういえば、メールも結構ヒマになります。ホームページのアクセス統計を見ると土日はガタッと減ります。これは昔から一貫している傾向です。要するに皆さん職場でアクセスしておられるのでしょう。日本でインターネットが普及したとか、会社中心のライフスタイルではなくなったとか言われながらも、やっぱり自宅でアクセスする人よりも会社でアクセスする人のほうがずっと多いということでしょう。でもって、この夏休み時期は職場からアクセスも減りますから、ヒット数も減り、またメールも減る。それに日本は今メチャクチャ暑いそうですから、これだけ暑かったらまとまったことを考えられないだろうな?ましてやこんな文字ばっかりのサイトはイヤだろうなという気もします。そんなこんなでメールも比較的少なく、僕ものんびりしております。
ヒマになるとやり出すのが庭いじりです。
庭いじりといってもこれで結構広いので、「丹精こめて花壇作って、、」という細かく手を入れるという感じではないです。ウチの庭は、もうガーデンというよりもブッシュというべきようなワイルドなシロモノです。やってることも、梯子かけて10メートルくらいありそうな樹木の枝を切り落としたり、伐採した枝木を両手に抱えきれないくらい持って何往復もするという状態です。
右の写真は、庭の一隅に伐採した枝木を積み上げてあるところです。写真では分かりにくいですけど、軽トラ一杯分くらいは軽くあると思います。ウチのエリアの自治体/カウンシルは、月に一回くらいのペースで、こういったガーデン・ガーベージ(庭のゴミ)の回収に来ます。家の前にガーデン用の大型ゴミ箱(ガーベージ・ビン)に入れて出すのですが、大人二人くらい入れるくらいのゴミ箱も全然足りず、ダンボールなどにも詰めて出しますが、この写真だけでもおそらくダンボール20箱分くらいはあるでしょう。ダンボールに収めるためにさらに枝を細かく切る作業もかなり手間がかかります。実際、もうやってられないから、積み上げたまま自然朽腐を待って腐葉土にしちゃったりすることもあります。これが結構意外と早く土になっていくのですね。「はー、土に帰るってのは、こーゆーことをいうのね」と勉強したような気分になります。
ですので庭”いじり”という言葉から連想される手先の作業ではなく、もう全身をつかった「格闘」みたいなもんです。結構ヘビーな、「野外労働」ですね。
右の写真は一部に過ぎず、庭あちこちに積み上げてありますし、まだ切ったまま地上に散乱している枝葉もゴマンとあります。考えるだけでうんざりします。しかも恐いのは、これまでは冬でしたので、樹木の生育もストップしていたようなものですが、これから春になる連れてグングン伸び始めてくるということです。ちょっと見ない間にニョキニョキ生えてくるという。庭の芝刈りなんか冬の間は殆どやらなくていいですが、夏になると2週間に一回くらいやらねばならなくなります。こっちも今はたまたまヒマだからコマメにやってますが、また忙しくなったら庭どころではなくなります。そうなると、もう美しい庭の手入れという感じではなく、「これ以上放置したらとんでもないことになる」からイヤイヤやらざるを得ないというものになります。
シドニーは日ごと春に向かっています。通りを歩けばあちこちに花が咲き始めています。すでに日当たりのよいところだとツツジも咲いています。球根のヒヤシンスもどんどん開花してきてますし、アヤメも咲いてます。日本的には言えばまだ2月ですから、咲き始めるのが異様に早いのですが、シドニーの場合、日本の1月から5月くらいまでいきなりワープしてしまうくらい花々は急速に咲き始めます。
太陽もかなり力を取り戻してきています。昼間クルマにのってたりすると、温室みたいになりますから、「ぐわー、暑っ!」ってなことにもなります。しかし、暖かいのは日の光を受けてるときだけで、日陰になったり、朝晩になるとぐっと冷え込みます。慣れてるつもりでも、「なんでこんなに」と思うくらい夜は寒い。ストーブが恋しいですね。
庭の花々も日が当ってるところは元気に開花しますが、あたってないところは可哀想なくらいシーンとしています。もう数十センチ間隔で春と冬が同時存在しているような感じです。そうなると、こちらも、庭の花々のためにも、そして自分が暖かくなるためにも、より陽の光を取り入れたいと思います。しかし、それが高い木々の枝葉によって邪魔されているわけで、異様に密集している枝木を払うための「庭いじり」をするわけですね。
当たり前ですが樹木は年々背が高くなりますし、枝葉も茂ります。ぼけっとしてると、もう一日中日陰のようになってしまいます。「これではアカン」と一念発起して、せっせと切り始めるわけですが、やっぱり高いところにあるわけです。ラダーに登ってみても尚届かないあたりの枝葉を伐採しないと太陽はやってこないという。
そこで先日ハードウェアハウスにいって新兵器を買ってきました。新しいノコギリとか、太い枝を切るための大きな植木鋏とか、日本の通信販売によくある物干竿の先端にハサミがついていて紐で引っ張って切るモノであるとか。この際とばかりに100ドル以上投資して買ってきました。
たかが庭いじりに100ドルも、、、とか昔は考えましたが、でも段々と学んでいくものはあります。ケチるとやっぱりそれなりのモノでしかないです。同じ大ぶりの植木鋏でも、10ドル台から150ドル台まであります。何が違うのかというと、まずは重さ。安いモノは重いです。正確に測ったことないですけど、ズシッとした感じからすると2−3キロはありそうです。高いものは1キロもないです。非常に軽いです。いい合金を使ってるのでしょう。
これね〜、一本や二本切るくらいだったら大差ないのですけど、数十、数百本という単位で切ってくると違ってくるのですね。ましてや梯子に登って、不安定な足場で、精一杯身体を伸ばして切るとなると、重いか軽いかというのは、滑落の危険も含めて笑い事ではなくなってきます。3キロの重さの物体をぶっとーしで上に向けて保持してたら、いい加減腕がバカになります。それも何時間もやってたらかなり身体に負担がきます。仮に何も持ってなかったとしても、長時間腕を上にあげてるだけで疲れますから。このあたりは、過去にケチって散々思い知らされているのですね。
月曜日の午前10時頃に買いに行ったのですが、この国の面白いのは、そんな時間帯なのにお客さんが結構沢山きていることです。さすがに子供たちは学校行ってるのか見かけませんでしたが、働き盛りの男女がウヨウヨいました。日本だったら余り考えられませんよね。「キミ達は仕事せんでいいのか?」と思わず考えてしまうという、オーストラリアらしい風景であります。
「仕事せんでいいのか?」といえば、仕事せんでいいのでしょう。だから居るのでしょう。それに、それこそが「仕事」だったりもするのでしょう。
生まれてずっと同じカルチャーで生きていると、ついつい見逃してしまったり、気づかず固定観念にはまってしまうことがあります。現在の日本人の固定観念で言えば、とにかく衣食住という基本生活からかけ離れたところに「仕事」というものがあり、「生活」は仕事をした残りの切れっぱしのような時間で営むモノという観念があります。
「生活」とは、寝たり、起きたり、家族とゴハン食べたり、レクレーションをしたり、家や庭の手入れをしたり、ボランティアをしたり、コミュニティの行事に参加したり、などなどです。これに対して、日本人の平均的な観念での「仕事」とは、朝早く起きて、スーツに着替えて、電車に揺られて会社にいって、なんだかんだやってるのが「仕事」です。ですので、仕事と生活とは、基本的には局面が別であり、月曜から金曜までの日中は仕事タイムであり、生活的なことが入り込んでくることは少ない。平日における「生活」とは、暗くなってから家の近くの駅を下りて、明かりが煌々と輝いているコンビニに立ち寄ってペットボトルやビールを買って、マンションに帰ってTVをつけたりなんかしてから始まったりするものだったりします。僕もそうでした。
だから、平日の昼間から、庭の手入れのための植木鋏をホームセンターで物色するなどという生活的な行為をしている人はマレであり、そんなことをしているのは退職して悠々自適な日々を送っておられる方だったりします。でも、そのマレであるべきことをオーストラリアでは至極当然な顔をして皆さんやってたりするのですね。だから、僕のなかに未だに残っている日本人的感覚からすると、「あれ?」と思ったりするのでしょう。でも、これは固定観念。
仕事も生活も、大きくいえば「生きる」という全体的な営みのイチ局面に過ぎません。
ぐっすり眠ってパッチリ目覚めて、食べ物をゲットし、おいしく料理し、しっかり食べて、住まいを心地よくするために工夫を凝らし、子供を育て、自分を育て、愛し愛され、社会の一員として助け合い、気持ちのいい自然のなかに出かけ気持ちのいい時間を過ごし、自分の興味をあることを追求してみたり、語らい、飲み、そしてまたぐっすり眠る。それが、まあ、生きるというこなのでしょう。
昔は、そういったことを自給自足でやってたのでしょう。そのうち交換経済の世の中になり、漁師は自分らに必要以上の魚を取って農作物と交換したりするようになります。さらに時代は下って貨幣経済になり、市場で売って貨幣をゲットし、それで必要な物を買うというパターンに移行し、それがどんどん高度化し細分化していくうちに現在のような形になったのでしょう。
「平日の昼間はお仕事タイム」なんてのも、よく考えたら日本の常識でもなんでもないです。朝の3時に船を出して魚を取ってる人もいますし、魚河岸で働いてる人もいます。農業をやってれば農閑期と繁忙期ではやることが違うでしょう。その「常識」とやらは、日本の就業人口のうちの第三次産業に従事している人の観念に過ぎないでしょう。さらに、深夜営業とかシフト制の人はまた違います。それに自営業者さんの場合は、もっと時間の使い方がフレキシブルになるでしょう。だからこういった「日本の常識」みたいな発想は、「大都市近郊のいわゆる平均的サラリーマン」が「世の中そんなもんだ」と勝手に思い込んでるだけ、といえなくもないです。
こんなものは所が変り、時代が変ればいくらでも変ります。
余談ですが、大体「平日の午前中」といったって、そもそも「平日」の観念が時と場所で違います。「一週間を7日とし、日曜を休日、月〜金を平日とし、土曜日が平日から徐々に休日扱いになりつつある」というのは別に万古不変のものでもなんでもなく一過性のローカル色豊かな観念に過ぎないでしょう。日月火水、、、というのは、7世紀に空海が中国から持ってきた宿曜経から出てきて、後の国立天文台のような陰陽寮が暦法に使用したらしいのですが、「週」という概念が江戸時代までの日本人にあったかどうかは僕には分かりません。多分なかったんじゃなかろうか?1年を12で割り、さらにそれを二つに割って、年間24の節目をつけ、それを「節句」と呼び、それで済ませてたのではなかろうか?という気もします。おそらくは、大安とか仏滅の「六曜」の方が、月土、、などの「七曜」よりもポピュラーだったと思います。そういえばフランス革命後だったかのフランスでも、1週間を10日にしようという試みがなされあえなく挫折したという話もありますし、今でもインドネシアの一部では週5日だったりするようです。「午前中」という概念だって、北欧の白夜や夜ばっかりの時期には、それほど大きな意味を持たないような気もします。以上は余談。
生きるために為すべき様々を事柄を、どのようにアレンジし、どのように遂行していくかは、基本的には個々人の勝手であります。自分が生きるに当ってのプライオリティとレシピーを折々に選択し、実行する。恋にのぼせあがりたい時期もあるでしょうし、愛を育みたい時期もあるでしょう。子供とじっくり時間をとって対話したいときもあるでしょう。あるいは自分がどれだけできるか限界ギリギリまで上り詰めてみたい時期もあるでしょうし、なんもせんでただ流れ行く雲を眺めていたい日々もあるでしょう。
もちろん、その自由は外部環境によっても大きく影響されるでしょう。また好き勝手やりすぎて却って自分がダメになってしまう場合もあるでしょう。それでも、自分の価値観に応じて、日々の「生き方」の配分を決めるのは個人の自由でしょう。特に、経済的にも政治的にも豊かで平和な日本であるなら、その自由はもっと享受されてもいいのだろうなと思います。それでどうやって生計を立てるか、どうやってマネージしていくか、それが生きるということだと思います。
そのことはこちらに来てからすぐに思い至ったことでもあり、雑記帳で「too busy to wrok」という雑文を96年12月に書いたくらいです。
「忙しくて仕事なんかしてるヒマないね」というモノの考え方は、当時の日本の固定観念に染まった身にはなかなかショッキングであったわけですが、未だにそのことは折に触れて改めて思います。
やっぱりですね、人生における仕事を、日本人ほど(ある意味盲目的に)重要視せず、その分それ以外の生活局面が豊かになっているオージーなんぞをみてますと、「うーむ、俺はまだまだバランスが悪いな」と思ったりさせられます。まずもって、仕事以外の局面でのスキルに乏しい。
先週、先々週あたり大家さんがトコトコとやってきて、なにやらガサゴソ家をいじくっていました。やれ家の外壁のツタを刈り取ったり、風呂場の下に水が漏れてるらしく蛇口を修理したりクラックを埋めたり、床下の根太が湿ってるから変えないとダメかなと呟いたり、急傾斜している裏庭から流れ込んでくる雨水の流れを計算したり、錆びてしまった雨どいを全部一人で交換したり、床下のストーリッジに長年放置されていたガラクタを取り出してカウンシルに電話して持っていってもらったり(トラック一杯分くらいあった)、それから床下全般にわたってターマイト(白蟻)検査をやる予定だとか。
一つ直しているうちに、また別の問題を発見してしまい、それをやってる間にまた別の問題を発見してしまい、、という感じで、「ぐわー、ここもやらな、、」とかいう感じでした。比較的大きな木を自分で切り倒して曰く、「この木の地下の根が張りすぎるんだ。いずれ根の力で下水管を割ってしまうから今のうちに切っておかないと」と。この種の話は何度か別のオージーにも聞いたことがあります。「木立が多く、緑が豊かでいいわね」といってる場合ではなく、その地下の根が配管にどう影響するかも考えておかないとならない。だから地下配管の位置とか構造も知っておかねばならんのですね。大きくなったら、切り倒すにも自分ではできず、プロにやってもらうにしても数千ドル掛かるといいますから、笑い事ではないです。
前の家の大家さんも鼻歌混じりにレンガを外して配管をやり直したりしてましたから、このあたりはオージーの平均的知識なんだろうと思います。すごいですよね。日本人でもこのくらい出来る人は幾らでもいるでしょうが、平均的に出来るかというと全然出来ないでしょう。オーストラリア人にとっては自分の家のメンテをすることなんか至極当たり前のことなのでしょう。それは生きるということのなかに当然のように織り込まれているのでしょう。
植木鋏を買いに行ってハタと悩んだのですが、やたら種類が多いのですね。小さいのから大きいのまで、安いのから高いのまで20〜30種類くらい売られていたりします。こんな店がやたら沢山あります。その代わり電化製品やオーディオ、パソコンになると異様に品数が少なく、バラエティに乏しかったりするのですが、家や庭のメンテ器具、車の整備器具、キャンプ用品、ヨットやボートの関連商品などについては、異様に豊富だったりします。芝刈り機だけの専門店、プール関係用品の専門店なんか結構ありますし、そんなのでよく店が成り立ってるなと思いきや結構これが成り立ってたりするのですね。
これらは、彼らにとっては特に趣味でやってるわけでもないのだと思います。必要だからやっているという当たり前の感じですね。もちろん、オージーの中でも上手下手はあるでしょうし、かなり盛り上がってやってる人もいるし(プールを自分で作ってしまうとか)、面倒臭いからやらないって人もいます。よく不動産の広告などでも、レンガ敷きになっている庭を「メンテナンス・フリー」とメリットありげに書いていたりするから、面倒な作業であることに変りはないのでしょう。
庭なんかも、見てたら本当にコマメに手入れしてますもんね。こちらは太陽が出てるところは旱魃状態、出てないところは冷夏状態という感じで気候が極端だから世話するのも結構大変だと思います。うちの裏庭なんか斜面がついてるから水はけが微妙に違っていて、芝生はいつも貧弱です。冬になって日が全然射さなくなると(周囲の木々が高いから太陽の角度が低くなると本当に日陰ばかりになる)、いきなりコケだらけになるし、そうかと思うとその数メートル隣は夏になると砂漠状態みたいになるし。タイマー付きのスプリンクラーが普通の家庭用に売られていたりするのも頷ける話です。リタイアしたご夫婦の場合は、年がら年中庭の手入れをしてますし、共働きでそのヒマがない家では人を雇って芝刈りやロッピング(枝刈り)を頼んでたりします。
僕のやってる庭いじりなんか、ほんと、素人がちょっとかじって悪戦苦闘してるようなものです。まあ、お遊びみたいなものですが、これがやり出すと結構面白かったりします。
庭を眺めて頭の中で「あそこをああやって、こうやって」とか思うのですが、いざやってみたら中々進まない。ちょっと離れて、あそこの枝を落としたらもっと光が入るようになるし、あの枝は落としておいた方が木のためだろうなとか思うのですが、実際梯子をたてかけて真下から見上げたら、もうどの枝なのか分からないという。梯子を降りて、遠く離れて見て「ああ、あの枝だよな」と再確認してまた梯子を上るのですが、今度はどの枝かはわかっても、「げげ、あんなに高いの?」という。梯子のてっぺんまで登ってグラグラする足場で慎重にスタンスをとって、3メートル以上ある物干竿のような剪定鋏を持ち上げようとしても、今度は別の枝に当ってなかなか思うところに行かない。その鋏を意図した位置にもっていくためには、その手前の別の枝も払う必要がある、、という具合になかなか上手くいきません。
そんなこんなで奮闘して狙いどおりの枝を払うことができたとします。結構「やったぜ」感はあるのですが、また下におりてきて見てみると、「うーむ、あんまり大勢に影響はないかも」という気になってしまうという。やっぱりもっとしっかりしたラダーを買って、もっと足場を固めて、、、とか段々エスカレートしていくわけですね。数時間必死になってやっても、終わってから見回してみると、なんだかちっとも変ってないような気がする。実際にやってみると、予想以上の作業量の膨大さにたじろぐものはあります。
そんなある朝、トーストかじりながら朝刊を読んでたら、広告欄にチェーンソーの特売広告がありました。すごいよね、チェーンソーの特売が一般新聞に堂々と載ってるんですから。思わず見入ってしまいました。家庭用普及版というのが3万円以下でありました。「家庭用チェーンソー」というのがまたオーストラリアだったりするのですが、いいなあ、これがあったらまた仕事は速くなるだろうなあ、、、、とか思ってしまったりするのでした。
でも、こんな庭いじりをしていても、「仕事もしないで、こんなことばかりしてていいんだろうか」とはあんまり思いません。仕事は仕事でやりますし、大事にしてます。でも、だからといって庭のメンテがそれに劣るとも思えないんですよね。まあ、庭仕事は多少待っていてくれるけど、仕事は待っていてくれない、、というか、今日着いたばかりのワーホリさんのサポートは今日やるべきですから。そういう意味での優先順位はあります。でも、それって「仕事だから当然優先」って感じでもないです。具体的な事柄の性質上、どっちを
優先するかですよね。仕事の話をしていても、料理している鍋が吹きこぼれたら、とりあえず中座して火を止めに行きますから、その限度ではり鍋が仕事に優先するわけですが、まあ、イチイチ「どっちが大事」とかいう話ではないでしょう。
こういった感覚を、日本人的に言えば「レイジー」というのでしょうか?
確かに、思うに、僕の労働エネルギーの過半数は庭や家や車の手入れや、掃除や、料理などに費やされてます。過半数なんてもんじゃなくて、余った時間で仕事してるような感じすら受けます。それがまあ自分にとっての適正バランスなんだか分かりませんが、こっちにきてから日本とは違った意味で「働きもの」になったような気はします。
写真・文:田村
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