今週の1枚(02.08.05)
ESSAY/ 高めたい VS 怠けたい
先日、知り合いの看護婦さんからメールを戴きました。日本の看護学校で教えてらっしゃる方なのですが、「日本の将来は暗い」と思わされる日々であると、ため息まじりにしたためてありました。なにがそんなにため息なのか、僕が勝手に要約していえば、学生の皆さんが「人間として未熟」、イマチュアであるということに尽きるのだろうと思います。
言われたことはやるけどそれだけで、”プロの卵”に共通した「プロになるんだ!」というギラギラした向上心みたいなものが感じられない。作文を書かせれば、どっかで読んだことあるようなフレーズのオンパレードで「本当にそう思ってんの?」と疑問になってしまう。たまに燃えてる学生がいたかと思うと、ひとりよがりの理想を患者に押し付けたり、結局は自分が癒されたくてこの仕事を望んでたり。
煎じ詰めて言えば、要するに学校で専門教育を受ける以前に、人間として出来上がっておらず、「素材に難アリ」という。一個の人間、人格を形成するだけの感情、思考、魂の濃度が薄くて、浅い。深く考えさせられるような現実を目の前にしても、表面的に受け止めてそれで終わり。看護学校が急激に増えていることもあり、臨床経験が乏しくても教員になれてしまう現状がそれに拍車をかけているとか。教授陣も困って、「どうやったら主体性を養う教え方ができるか」を議論しているけど、これといった打開策もなく頭を抱えているとのことです。
話は変わって、これはまた聞きレベルの話ですが、某短大だかどこかで講師をしている人が、出席日数も足りず全然やる気もない学生に、「こんな状態だったら単位やれないよ」と言ったら、その学生が逆ギレして「そんなバカな!授業なんかでなくたって卒業させてくれるって話だから入ったのに」と言ったと。話はそれで終わりではなく、その学生が直訴したのか、学校当局の上の人から「頼むから単位をやって欲しい。情けないことを言ってるのは百も承知だが、そうでもしないと生徒が集まらず学校が潰れるという窮状を理解して欲しい」とお願いされたという。
話はまた変わって、旧聞に属しますが、喉もと過ぎればなんとやらのワールドカップですが、やってる最中の日本のファシズム懸念に関する記事を読みました。「サッカーなんかキライ」と公言している評論家のオスギ氏(女史か?)が、路上でブルーのユニフォームを着た男性数名に取り囲まれたとか。あるいは、勤務時間中のテレビ観戦中止で全国ニュースになった山形県庁には、1週間で200通のメールが送られ、その8割が批判的で、「負けたら山形のせいだ」「非国民」となじっていたという。ただ、この山形ケースの場合、全国で200通ぽっちというメールの数は、よく考えてみれば大したものでもないです。それ以上に、そもそもこんなこと(勤務時間のTV観戦中止=当たり前ちゃうの?)が全国ニュースになるということの方が、僕にとってはショッキングでした。結局マスコミが煽ってんじゃんという。
話はまたまた変って、こちらのTV(SBS)で日本の番組が英語字幕で流れました。こういう世界各国の映画やドキュメンタリーを流すのは、マルチカルチャル・チャンネルたるSBSの真骨頂でもありますので、それは珍しくないです。内容は、おそらくNHKの報道特集ではないかと思われるような感じのドキュメンタリ番組で、戦時中、中国で日本軍がおこなってきた残虐行為を、当時兵士として現場にいて(自らも残虐行為をおこなった)日本人数名がインタビューに答え、回顧するという番組です。聞いてるのが苦痛なくらい残虐な行為がデテールとともに語られます。村の男女をひきずりだして、みなの見てる前でセックスをやらせ、絶頂に達する直前に頭を撃ちぬいて殺して遊んだり、生体解剖を状況とかが延々と続きます。
それを敢えて語ってくれた方々の(自分もまたそれをやったことを正直におっしゃっています)勇気に敬意を表します。戦争体験といっても、被害者的なそれ(これだけ大変な思いをしたという)はまだ語り易いですが、自らが弁明の余地なき残虐行為をしたという
加害行為を言うのは本当に勇気がいると思います。でも、これは知っておくべきでしょう。それは日本人がどうとかいう以前に、戦争というのはこういうことだということ、人間というのはここまでやっちゃうものなのだということを知っておくべきだからです。それは「人間は3日水を飲まないと死ぬ」とかいうように、プレーンで無色透明な「情報」として。
それともう一点、印象に残ったのは、「自分でもヒドイことをしてるな、こんなことやりたくないなという意識はありました。でも、そんなことを言うと臆病者呼ばわりされるんです。それが恐いからみなやるんです。そしてやってるうちに、相手が人間だという感じがしなくなってくるんです。しまいには殺すのが楽しくなってくるんです」「気の弱そうな初年兵には、”根性をつけさせてやる”ということで敢えて残虐な行為をやらせるんです」ということを、大なり小なり誰もが言っていることでした。
さて、上に述べた4つのエピソードは、この一週間うちに僕が見聞したものです。一つ一つの話は、特に目新しいものでもないでしょう。まあ、「ああ、またか、その種の話ならば知ってるよ」というようなものでしょう。これら脈絡なさそうな話の間には、一つなにか共通点があるような気がするのです。それが気になったのです。
それは一番目の話に垣間見られた「主体性が乏しい」「人間として未熟・イマチュア」という問題の現われだと思うのです。「自分がしっかりしてない」というか。そして、それをとりまく環境的問題として、「しっかりさせようというカルチャーが乏しい」ということです。
話をすごくシンプルにします。人間には、@自分を高めて素晴らしい人生にしたいという欲求と、Aツライのはイヤだから楽チンがいいという欲求という、相反する二つの欲求があると思います。「高めたい」 VS 「怠けたい」 ということで、誰だっておなじみのバトルだと思います。ダイエットはしたいけどケーキは食べたい。勉強しなきゃいけないんだけど、眠い、したくない、、、などなど。日々その葛藤だと思います。
ちょっと前の「王道復古」でも述べたように、本当に気持ちいいのは@です。でも、それは難しい。それはダイエットが難しいくらいに難しい(^^*)。それは、「自分が価値ある存在でありたい」という欲求がどれだけ強いかにかかわってくるのでしょう。「価値ある存在」といっては抽象的ですが、要するに「もっと強く、美しく、奇麗に、賢く、正しく、素晴らしく、、、なりたい」と、どれだけの強さで思うかどうかでしょう。この欲求は、最終的には自分の自分に対する欲求です。「他人が見てるから」「他人に〜思われたい」というのは、まだレベルの低い欲求で、突き詰めていけば誰も見てなくても、誰もほめてくれなくても、自分自身が最強最高の評論家として自分のOK/NGを出します。
「自分を育てる快感」というのは、これは相当強烈で、ほとんど麻薬的とさえいっていいくらいででしょう。その道を極めた達人の話を聞いていたりすると、「なんでそこまで?」というくらい無茶苦茶な修行をしてたりしますが、ある意味ラリってないとあそこまで出来ないですよ(^^*)。この「高めたい欲求」は真に火がついたら、「怠けたい欲求」なんかの何千倍も強力だと思います。ただし、火付きが悪い。ちょっとマッチを近づけたくらいでは燃えない。「怠けたい欲求」はライターのように瞬間に火が付くのに対して、石炭に火をつけるみたいに、もっと極端にいえば原子力で火を熾すくらいの助走期間と段取りが必要です。その代わり燃えはじめたら途轍もないエネルギーになるという。
上記の4つの事例に共通しているのは、@の「高めたい欲求」が薄いということです。高めたい欲求といわゆる「主体性」とは表裏の関係にあるでしょう。高めたいと思うのは、ほかならぬ自分自身であり、主体がなければそうはならない。また、主体がしっかりしていることは、自分だけの揺ぎない価値観とその価値観に裏打ちされたプライドが形成されるということでもあるでしょう。
第一の看護の事例でも、もしこの「高めたい欲求」の”原子炉”が燃えてる人だったら、絶えず「これで本当にいいのか、これがベストなのか?」と模索しつづけるでしょうし、あらゆる局面で学べるものは貪欲に学ぶでしょう。それはもう、ギターキッズが、神と仰ぐスーパーギタリストのライブに出かけて、手拍子取るのも忘れて、双眼鏡を目につけたまま必死になってフィンガリングを盗もうとしてるのと一緒でしょう。余談ですが、僕もよく双眼鏡で見たクチですが、もうクラプトンの「スローハンド」の世界そのままで、あまりに速すぎ、上手過ぎて、殆ど指が動いてないかのように見えるのですね。でもって、益々ズーンと落ち込むという。自分のジタバタ見苦しい運指にくらべて、なんてスムース、なんて美しいんだ!と。
事例その2の「単位が取れないと文句言う学生」だって、多少なりとも「高めたい欲求」があって、本当の意味でのプライドがあったら、そんな薄らみっともない事は口が裂けても言わないだろうし、そもそも「簡単に単位が取れるからこの学校」みたいなクソみたいな生き方をしてないと思うのですね。「クソみたいな生きかた」というのは言い過ぎかもしれんけど、敢えてそう言います。だって、実際クソじゃん、そんなの。違いますか?
事例その3のワールドカップ・ファシズムも事例その4の本物のファシズムも、一人一人が自分だけの価値観をもっと力強くもってたら、そうはならんでしょう?という意味では共通してると思います。まあ、ワールドカップごときの、たまたま初戦で初勝利を収めたからにわかファンになって、その場限りで盛り上がって、他人を「非国民」よばわりする人々については(そんなに実数は多くないと思いますけど)、まあ論外というか、精神年齢が6歳程度で止まってしまったのねで、いいです、もう。語るに足らない。そんなことよりも、上述したように「そんなことをいちいちニュースで流す」という日本社会のマスコミのありかた、それを許容しちゃってる雰囲気の方がモンダイだと思います。
戦時中の残虐行為については、「人間というのはそーゆー出来そこないのモノ」という普遍的な問題だと思います。しかし、それに尽きるものでもない。人間が出来損ないだとしても、その愚劣さを未然に防ぐ叡智というものも、人間はまた持ってます。人間ぼけっとしてたら落ちる一方、怠ける一方なのだろうけど、同時にそれに対するカウンターパワーも内蔵してます。
だから、問題はマネジメントだろうと思うのです。自分の愚かさ・残虐さを封じ込めるカウンターパワーをどうやって養い、どうやって育て、維持させるかです。でもって、これは優れて、一人一人の高めたい欲求=主体性=価値観=プライドと続く、「「高めたいパワー」になると思います。別の言葉でいえば、知性と良心と勇気なのでしょう。クサくて凡庸な結論に聞こえるかもしれないけど、本当そうとしか言えないと思う。そして、その一人一人の知性と良心をどうやってプロテクトし、増強させるかというのが、社会システムなりカルチャーの問題になるのだと思います。
虐殺行為をした人だって、一人になれば、冷静になれば、「そんなことはすべきでない」と分かるでしょう。だから、個人の良心なり知性なりは健在だったとは思うのです。ただ、カウンターパワーとしては脆弱だった、あるいはそれをプロテクトし、増幅するシステムがなかったことが問題だったのです。
別にアメリカが素晴らしいとは思わないのですが、戦後日本を占領したアメリカ軍だって、やろうと思ったら日本軍が中国でやったようなことをやれたでしょう。確かに、酷いことは結構やってた。そこらへんの街頭で日本人女性を輪姦するなんてのは日常茶飯事だったといいます。が、それ以上に残虐な「面白半分にできるだけ残酷に殺す」という狂気は薄かったように思います。まあ、確かに戦後は世界も落ち着いて、世界中が注目してたからやりたくても出来なかったという事情の違いはあると思いますが、でも、ベトナム戦争でも赤ん坊を殺したり、非戦闘員を殺しはしたけど、恒常的に面白がってやっていたか?というと、どうかな?と思います。
まあ本当のところは分からないのだけど、日本社会のある種の脆弱さとして、一旦タガが外れてしまったら、人間の獣性に対する、良心や知性のカウンターパワーが他に比べると弱いのではなかろうか?という気もするのですね。アメリカの大衆社会も大概能天気なアホアホワールドだったりするのですが、それでも、ベトナム戦争を批判的に冷静に扱っている映画やジャーナリズムはいくらでもあります。トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」では、愛国心とプライドの固まりのような青年が誇りに満ちてベトナムに従軍し、そこでいかに悲惨なことが米軍によって行われているか見てしまい、帰国後、熱心な弾劾者、反戦活動家になっていくというストーリーです。ストーリーそのものは陳腐かもしれないけど、「誇りあるアメリカがこんなことをしていてはイケナイ」「プライドがあるからこそ、自らの醜悪な行為を告発する」ということで、その愛国心なりプライドのあわられかたとして興味深いのです。
日本で愛国的というと、こういう形になりにくい。いわゆる右翼的な愛国は、「日本は悪いことはしなかった」「やったとしても、そんなにやってない」「あれは仕方なかった」「皆やってるじゃないか」というレベルの話で、本当にプライドがあるからこそ、自分の醜悪な部分も明晰にして、引き受け、逃げない、というレベルの態度ではないです。勿論、どこの国でも、こういった幼児的な”愛国者”はいます。が、同時によりレベルの高い本当の意味での愛国者もいます。でも、残念なことに、日本にはこの種の愛国が少ない。言ったら言ったで「自虐的」とか言われますもんね。でも、アメリカでもどこでも、同じように「自虐的」と非難する人はいるでしょう。バカはどこにでもいますから。でもそれはバカとしてそれなりに扱われています。日本だって、それなりには扱われているでしょうけど、カウンターパワーが弱いというか、みなの共通の王道になってない気がする。少なくとも、「7月4日に生まれて」みたいな映画が作られそうな感じはしない。
誤解して欲しくないのは、日本だって反戦的、弾劾的な映画は作られますし、そういった言論もちゃんと健在です。僕がここで言ってるのは、「反省しよう」「きちんと考えよう」ということだけではなく(それらの努力はしてる人はしてると思う)、それを裏打ちする「俺(達)は本当はスゴイんだ、カッコいいんだ、すごくなければならないんだ」という自分(達)に対する強烈な、炎のような自負心なんですね。自分に対するプライドがあまりに強烈だからこそ、それに比例して自分の行った過ちもまた厳しく断罪するという精神構造になりにくいことです。
このプライドが強烈であればあるほど、いかにシビアに自分の非を認めようが、あまり自虐的な響きはしないでしょう。国単位でいってると分かりにくいのですが、例えばあなたの職場やサークルで、人一倍自負心が強くそれゆえに自分に厳しい人がいると思います。また、必要以上に自罰的でクヨクヨしてる人もいると思います。同じく自分の失敗を見つめていても、「くそ、俺としたことが」と思うか、「だから俺はダメなんだ」と思うかで天地の差があります。なお、自罰の方向にいかずに、他罰になってしまったり、ちょっとケナされただけで取り乱すように怒ったりする人がいます。こういう人って、一見プライドが高そうでいても、それは他者に対する自己防衛としての「虚栄心」が強いだけで、本当の意味でのプライドが乏しいという意味では自罰的な人と同じだと思います。プライドってそーゆーものではないでしょう。
こういった個々人の良心・知性・勇気、そのエネルギーの根源になる、自分を高めたい(落としたくない)欲求とプライド、これが世の中がアホな方向に向かうのを食い止めるブレーキになると思いますし、また軌道修正を施す航行舵になるのでしょう。具体的に言えば、自分の周囲の集団がアホなこと、やってはイケナイことをやってるときに、敢えて大勢に逆らってでも、「それはおかしい!」とNOといえることだと思います。
そういえば、その昔、「NOと言える日本」という本がありましたが、「NOと言える日本人」と置き換えてみたら、言えてないですよね。”日本国”と”日本人”とを比べてみたら、まだしも日本国の方がNOって言ってると思います。個々の日本人はもっとNOと言えてない。もし本当に言えるんだったら、職場ぐるみの不正に対して、毎日何千件もの内部告発の声があがってるんじゃないですか?上司の理不尽の命令に、もっとNOと言うんじゃないですか。
戦時中の虐殺行為の現場に居合わせて、それでもNOと言うことは、僕は普通の人間には求められないと思います。逆らったらイジメ殺されそうな雰囲気で、それでも自分の良心に従って命をかけて戦え、とはよう言えないです。もちろんそれが出来る人もいるとは思います。しかし、それが出来なくても僕は非難しません。僕だって、その立場になったらそれだけの勇気をもち得ないかもしれないし、非難する資格はないように思いますから。
だから、そこまでいってしまったら(そこまで集団全体で狂ってしまったら)、もう手遅れということですね。もっともっと手前のところで、人々がまだ冷静を保っていられる段階で、つまり比較的NOと言い易い段階で、個々人がNOという勇気をもつこと、NOと言う人を許すこと、許す以上に尊ぶこと、そういったカルチャーが必要なんだろうなと思います。日本陸軍をはじめとする軍閥、それにひっついて生き血を啜っていた財閥連中が、あそこまで国家権力を掌握してしまう前に、健全な揺れ戻しがなければならなかった。でも、それが出来ずに、大政翼賛でファシズムに向かっていってしまったというのが一つの問題だと思います。
日本人は、普通の状態であれば、世界でもかなり紳士的でポライトな(礼儀正しい)民族だと思います。いい加減な奴も多いけど、世界レベルの「いい加減な奴」からすれば、全然マトモな方でしょう。他人に対する思いやりも深いし、その場の状況や対人関係を見抜くクレバーさはかなりのものだと思います。また、その判断にしたがって、自己犠牲を惜しまず、潔さに美を感じる感性も特筆すべきレベルだと思います。勿論、そのかわり感情表現や自己表現がイマイチ不得手であるとか、色々な苦手科目もあるのですが、それを差し引いても、結構自信をもっていいレベルだと思います。プライド持つべし、と。
ところがこれだけの徳性を持ってる日本人が、どうして集団になると、そして集団のなかの一員になると、まるで二重人格・解離性人格障害のように、NOという勇気をもたず、自らの価値判断を麻痺させ、次第には大勢に順応して低いレベルに自らを落としていってしまうのか?モンダイはここなのでしょう。このままでは、日本人とは、「個体にバラせば虚弱なくらい柔和なのだが、集団になると発狂して人格が逆転するストレンジな生き物」でしかないじゃないですか。
それはやっぱり教育の問題であり、社会の問題であり、カルチャーの問題であり、それらを育む環境の問題なのでしょう。
これはもう種々の要因が積み重なってると思いますが、ひとつはホモジーニアス(単一)な環境。子供の頃から、自分の周囲に言葉が通じない人、生活習慣が違う人、価値観が違う人がゴロゴロいて、そのなかで揉まれていれば、自然と自分だけの価値観やモラルを持つと思います。だって、皆に合わせようが、その皆がバラバラなんですから合わせようがないですもんね。だから自分というモノを強く持っている必要がある。なお、自分ひとりだけだったら価値観の樹立に力不足だったりしますから、往々にして宗教の力を借りたりします。絶対的な善悪の区別基準というものを宗教から持ってくる。それは周囲の人間がどう思おうと関係ない、絶対的な価値基準となる傾向が強くなるでしょう。
でも、モノカルチャーの世界では、そういった異種間葛藤はありません。とりあえず大勢を見てその中庸をいっておけば間違いないし、それで多くの場合無難に過ごせる。モラル的にもそれで正しい場合が多いし、ハッピーになれる確率も高い。だから、モラルにせよ価値観にせよ、相対的なものになっていく傾向があるのでしょう。多くの場合はそれでいいですし、実際に日本を見ててもそれでいい場合が殆どでしょう。しかし、全体が狂ってきたときは、歯止めにならない。なんせ相対的なものですから、全体がすーっと飛んでもない方向にズレていってしまった場合、原則論に立ち返って「それはおかしい」という言いにくくなってしまうという、ある種致命的な欠陥があります。
「赤信号、皆で渡れば恐くない」というのはビートたけしの名言ですが、これは原理的には間違ってます。100万人が渡ろうが、赤信号は赤信号、赤が青になるわけではなく、ルール違反であることは変わりはないです。イリーガルである。西欧人だったらそう言うでしょう。でも、イリーガルであることを自分で引き受けるならば、誰も渡ってない信号でも、たった一人で気にせずに jaywalk するでしょう。個人の価値観が強力なんですね。世間を敵に廻しても、「いや、俺はこう思う」とメンチ切って対決するだけの根性は、残念ながら日本人よりもずっとあります。それは「根性がある」からではなく、それを支える発想、つまり、個々人は、個々人の価値基準に従って生きるという流儀がより強いのでしょう。そしてまた、個人の価値観やその表現を保護する"freedom of speach"が錦の御旗として、理論的にもシステム的にも、そして何よりも個々人のナマの感情のレベルで強力に認められている点が大きいでしょう。
このように大勢によって影響されない絶対的な価値基準を持ってる人間が多い社会・組織は、ブレーキも舵も復元力が高いと思います。会社でも、周囲をYESMANで固めて、スジを通すうるさいお目付役を追い払っていくにつれて、とんでもない所までいってしまう。
組織が腐っていたら、内部の誰も彼もが「ここが腐ってる」と大声で指摘しあい、改善していくという自浄作用がなくなっていってしまう。
日本の場合、絶対的な是非善悪をキッチリわきまえて、必要があれば「皆に逆らってもスジを通す」というカルチャーがやや弱いと思います。これはもう教育レベルだけの話ではなく、世の人々がそうなっているのでしょう。子供の頃の躾に限らず、日々の営みにおいて、原則論に立ち返って理々非々とやる習慣があんまりないです。どんなに犠牲を払っても原則論は貫くべしという、ともすれば青臭い理屈が、日本の場合は「なあなあの現実論」に押されてしまう。その結果、世界同時に破裂したバブル経済の後始末が、どこよりも進んでいない。オーストラリアでもアメリカでもわずか半年かそこらで一気に処理してしまったことを、10年経っても未だにできない、おそらく半永久的に出来そうもない。こっちだったら10年前に刑務所に入っているような経営者が、日本だったら未だに名誉会長みたいにのさばっていたりする。
これは何度も言ってますが、こちらにきたら、「キミの人生の夢は?目的は?なんのために生きているの?」「政治は、人類はこれでいいのか」という、クサイ話題がよく持ち出されます。で、あなた、答えられます?「よくぞ聞いてくれました」とばかり、持論を展開できます?これが出来る日本人は少ないです、やっぱり。でもねえ、こんな根本的で当たり前のことが何で言えないの?一番考えなきゃいけないことじゃないの?これが即座に言えないってことは、日頃から考えてないって事であり、それは自分だけの生き方の基準、絶対的な自分の価値を持ってないってことじゃないですか?大体こういう、世界的にみれば、ごくありふれた普通の話題が、「クサイ」といって敬遠されていること自体、おかしくないか?また、実際、敬遠されてしまうような鬱陶しい語り方でしか語れないというのも、不慣れというにはあまりに芸がなさ過ぎるのではないか?
ただし、素質面において日本人に問題があるとは、僕は全然思ってません。というか、生物学的には人類は人類で一種類しかないんだから、民族や国家でそんなに人間としての素材が違うわけないです。これはもう体験的にそうですし、科学的にもそうなのでしょう。違いがあるといえば、「海の近くに住んでるから泳ぎが上手」「雪国育ちだからスキーが上手」という程度の後天的な環境因子だと思います。しかも、その多くは、数ヶ月違う環境で生活したらすぐに変わってしまう程度のものでしかないです。まあ、言うたら、「ちょっとガンコな髪の寝グセ」くらいのものだと思います。
逆に、日本人ではなくても、環境が整えば、集団で大きくズッコケていってしまうし、個々人の良心を持ち出しにくくなり、全体のレベルが下がってしまうことはあるでしょう。個々人の自由な思考と活動を制限する体制があったら、誰であろうが、そうそう逆らえなくなり、社会がどんどん腐るでしょう。ファシズムは、別に日本の専売特許でもないです。ドイツもイタリアもそうでした。また、ソ連なり旧共産圏の、資本主義以上の党貴族と庶民の落差や、理不尽さというものもあります。
では、個々人の自由な精神活動を阻害する環境とは何なのか?です。一つにはやっぱり、経済なんでしょうね。「経済」というと堅苦しいけど、自由にやってたら「オマンマの食いあげ」になっちゃうかどうかです。職場で許しがたい不正が行われるとします。それにNOといったら最後クビになって路頭に迷うか、クビにならなくても職場で非常に居心地が悪くなるとかそういったことです。「そんな理想論ばかりいってたら生きていけないから」ということです。
そりゃあそうだと思います。人間がやってる組織なんだから、完璧ってことはないですし、それはダイエットが続かないのと同じようにダラける部分も出てくるでしょう。また、仮に神のように公平に運営されたとしても、それでも理不尽に見えるものは見えてしまうでしょう。人間が本来もってる「愛すべきダメさ加減」というのはあると思います。そこまでビシバシ叩いて理想をいってても、それでは人はついてこないし、長続きもしない。公金横領や裏金作りとかいっても、各自が(チケット屋で買うなどして)出張旅費を浮かせて、浮いた分で忘年会の資金にするくらいだったら、「愛すべき」レベルだと思います。そんなに目くじらたてる必要はないでしょう。
でも、ダメさ加減が限度を越えて、シャレにならない場合。例えば、どっかの政治家のドラ息子が、横断歩道を渡ってる人を轢き殺しても、「上からの圧力」で事件はもみ消され、ドラ息子は無罪放免。一方、犯人もわからない遺族は賠償も受けられず、一家の支柱を失って路頭に迷ったりする、、というのは、シャレにならないと思います。こーゆー場合は、「それが世の中さ、どーにもなんないのよ」と言っていていいのか?ってのはあります。
そこまで極端な事例でなくても、雪印とかで肉の不正操作とかやってましたけど、あんなのやらされる一般社員はたまったものではないと思います。でも、程度の差こそあれ、どこも似たり寄ったりという状況はあると思います。
じゃあそこでNOと言って、「馬鹿野郎、やってられっか、辞めてやらあ!」って啖呵を切って辞表を叩きつけることが出来るか?といって、そうそう簡単には出来ないでしょう。再就職のアテもあるわけでなし、環境は厳しいし。それも、産業の乏しい地方にいけばいくほど状況は厳しいでしょう。でも、本来世の中の自浄作用をキープしようと思ったら、そういう人々=ある程度は我慢するけど、一定線以上は自分の良心を裏切れない人々をもっと社会全体で大事にしてあげないとならないと思います。
で、大事にしてるか?っていうと、全然大事にしてないです。
国家レベルの財政的な手当でいえば、失業保険も、オーストラリアみたいにやること(職安への出頭と、割り当てられたコミュニティサービスのような仕事をすること)やってりゃ一生出るというものでもないし、年金も掛けてないと全然出ないし(オーストラリアは出る=国民年金レベルの小額ではあるけど)、健康保険料だって無職になった途端ゼロになるってもんでもないし(オーストラリアでは国民全員が確定申告をし、その際にメディケアという保険料も同時に払うから、年収がダウンすれば比例して保険料もダウンする。また控除分が大きいから年間無料という領域も大きい)。
また、全く別の戸籍と身分証明と生活を用意してお礼参りを防ぐ、アメリカの証人保護システム(ショワルツネッガー主演の、イレイサーマンという映画でも出てきた)もない。以前”ICAC”の項目で書いたように、オーストラリアには、警察の権限を越えるような、盗聴すら堂々と出来るような強力な捜査権限をもって、官公庁や政治家の腐敗を暴くための専門機関があるけど、日本にはそんな部局はない。
そもそも転職が流行ってるとかいっても、まだまだ本格的には流行ってないです。というか、本質的には、社長室や重役室におさまってる連中が、毎年当たり前のように株主総会でボンボン首になるくらいでなければならない。上から下まで常に流動的であるくらいでないと、もっと言えば、サッカーやプロ野球の監督のように、上に行けばいくほど勤続年数が少なくなるくらいでないと、本当の意味での転職社会にはなってないでしょう。
要するに、日本ではまだまだ「何にもしないでガマンしてた奴が一番得する」社会であるのでしょう。もちろん、人間の美徳の一つとしての忍耐力なり、継続力は尊ばれるべきです。長く同じことやってるから悪いとかアホだとか言ってるわけではないです。ただ「離れたい人が離れられない」という環境が問題だといってるだけです。「離れなければならない人が、離れないで隠然たる勢力を振るっていられる」状況がおかしいと言ってるのです。
そんなことやってると、組織の中で権力を握った奴が無制限に肥大します。もう王様か天皇かというくらい(王様も天皇も制約が多いので大変だと思うからそれ以上の権力ですな)エラくなってしまっている。そしてガチガチの組織になり、モラルハザードというのも愚かしいくらい狂っていくのだと思います。あなたの組織では、エラい奴が不必要にエラくなりすぎてませんか?健全な社会では、高いところにいけばいくほど風当たりは厳しいです。エラい人ほど風当たりが弱かったりしたら、それはどっかしら狂ってるかもしれませんよ。
エネルギー保存の法則ではないですが、誰かが理不尽に虐げられていたならば、誰かがその分理不尽に得をしているはずです。その理不尽を是正しないことには、こんな理不尽なシステムのまま何をどう改革しても、一番美味しいところはエラくてズルい人が取っちゃっうだけって気もします。そのあたりの根本的な部分を変えていかないことには、主体性とかいってもムナしいし、なまじ主体性と自分自身の価値観をもってるだけ苦しくつらくなりそうです。高めたい欲求があったとしても、それが実現できる環境がなければ辛いだけです。
そんなことが出来るのか?変えられるのか?というと、腐っても鯛のリッチな経済大国・日本、なんだかんだいってもこれだけ自由で、内戦もない平和な国に生きていながら、そのくらい出来なくてどーする?という気がします。これで出来なきゃ、じゃあ、あと一体どんな社会になったら出来るというのよ?
一番足元からやっていくこととしては、やっぱり自分なりの価値観を持つことでしょうね。
それもブランド品を求めるのと同じくらい、世界最高レベルのものを自分に求めること。ある意味、そのくらい自分というものに自惚れていいと思います。そして、その価値観によってたって「戦う」ことでしょう。いつまでも親の望む「いい子」なってることはないし、ンなことやってるからアダルトチルドレンみたいに自家中毒になっちゃうんだし。もちろん、思いやりも必要だし、熱心な対話も、謙虚な理解も必要です。でも、枉げてはならないものもある。親が悲しもうがなんだろうが、自分が正しいと思うことは貫けばいい。そこで妙に妥協することは思いやりではない。もう少し波風を立ててもいい。というか、自分がそろそろ世間でいう「親」の世代になってきたので、結構遠慮なく言えちゃったりするのですが、僕らやその上の世代も平和ボケしてるところはありますからね、もう少し「人間として正しいかどうか?」というギラギラするナイフを喉元に突きつけられてシャキッとした方がいいって部分もあります。
幾ら流行っていても、自分の目からダサいと思えたらダサいなと思っていること。「ああ、これがダサイと思うようなら、私ももうトシなのね」なんて、間違っても思っちゃダメです。弱気にならないで下さい。それは、あなたの価値観が成熟したから、ガキどものチンケなセンスが馬鹿馬鹿しくなっただけなんだと。でも、実際日本で流行ってるものって、世界からみたらガキっぽくて通用しない物が多いです。だって事実通用してないでしょ。通用してるのは、ドラゴンボールとかポケモンとか最初から子供向けに作られたものばっかりじゃないですか。
あまり凝り固まってはならないと思いますが、自分の24時間、頭から爪先まで、カーテンの色からトイレのスリッパまで、そして勿論生き様において、どこを切り取ってもいかにも自分らしいという感じにする。でもって、そこまで自分色で主張するとなると、自分の価値観が浅かったりダサかったりしたらもう全滅!になっちゃいますから、勢い自分のセンスや価値観を「育てる」ということになっていくと思います。盲従するのでもなく、凝り固まるのでもなく、「育てる」と。だから、評論家がこぞって誉めていたとしても、自分がダメだと思ったらダメだと思う。ただし、何で皆イイといってるのかはキチンと学んでおく。趣味に合わんだけでバンバン排斥してたら、自分がやせ細っていきますからね。育っていかないです。
そうやって自分に自信がもてるようになっていってから周囲を見てみると、実は意外と皆さんクレバーで、個性的だったりするのが分かると思います。それまでは、のっぺらぼうみたいな一枚岩の「世間」という形で重圧に感じていたものが、実はそうではないことが見えてくるんじゃないでしょうか。
日本人がいわゆる「日本人は〜」と語るときに、何とはなしに思い描かれるステレオタイプの「日本人」というのは、実は存在しないと思います。皆して、誰もいない中空に向けて思念波を送り、それがホログラフのように合成されて映像化されたもの、それが僕らが何となくおもってる「日本人」だと思います。そんな奴は、実在しない。そう思ってくると、結構、息が楽になってくるでしょう。「こんなことしたら皆になんて言われるか?」みたいに懸念してるのも、実在しない人からの非難を勝手に想像して勝手にびびってるだけってケースも多いと思います。フタをあけてみたら、非難されるどころか賞賛されたり、理解されたりするってことも多いでしょう。そうなってくると、世間というものがあまり恐くなくなるし、世間というものをもう少し信用しようという気になるでしょう。
ただし、ここでいう「世間」とはマスコミで面白おかしく編集され、断片を拡大投影した世間ではありません。山形県庁のニュースだって、メールがきたのは1億2000万人のうちの200通でしょ。1億1999万9800人は書かなかったわけでしょ。しかも非難してるのはその8割だけでしょ。160通だけでしょ。歩合なんぼ?0.0000013%ですか?ゼロ一個間違ってるかもしれないけど、いずれにせよそんなレベルの話でしょ?それを1億2000万全体の風潮であるかのように天文学的な倍率で拡大したのが「世間」ですよね。そんなものに一体どれだけの情報的な価値があるというのか?
だから僕はいわゆる投影された世間を信じません。日本人そんな馬鹿なわけないもん。もっと個性的でもっとクレバーだと思ってます。だからこそ、こうして毎回書いてるわけです。アホだと思ってたら、こんなこと書かないですよ。「変えられるか?」という問いでいえば、実は素材的には最初から変ってるというか、別に変える必要もないのかもしれない。ただ、それに気づいてないから、気づけばいいだけじゃないか?と。そんな風にも思います。
写真・文:田村
写真はCity/Pitt St と Park Stの交差点付近
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