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今週の一枚(2013/06/10)


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Essay 622:屈折レンズと第二人格


 写真は、City。
 ビルに壁面に映る光と影の感じがカッコ良かったので。


 今回はつい先日、ひとと話をしている中でふと思いつたネタです。
 時おり相談事をもちかけられるのですけど、相談事っていいですよね。一人では考えないネタを真剣に考えるから、言ってるうちに何かがひらめくのですね。自分で喋りながら「ああ、そういうことか」と納得しているという。今回も備忘録かたがた書き残しておきます。

 自分=自我とはなにか?ですけど、これって2つあるんじゃないかって話です。
 もともとの自分(第一人格)と、世間に合わせるために作った自分(第二人格)で、いわゆる「ペルソナ」です。それだけだったら普通の話で、別に改めて書くほどのこともないのだけど、ペルソナは屈折率のあるガラスのようなもので、その屈折率が及ぼす影響、特に人間関係や幸福感に与える影響について考えてみました。

第一人格〜もともとの自分

 これも分かったような分からないような概念なんですけど、まあ、言ってみれば幼児期や小学生の頃の自分です。

 ひたすら無心に絵を描いてましたとか、ほっといたらぼけーっと何時間も座ってましたとか、やたら負けず嫌いでしたとか、おっちょこちょいで怪我ばかりしてました(僕です)とか。何に心惹かれ、何に夢中になり、全くの放置状態だったら何をしているか/してないかです。それが、その人の本来のカタチなんでしょう。

 でも、これって自分よりも両親、特に母親が一番知っているような気がします。
 世間を騒がすような犯罪・事件を犯したなどで世間から非難罵倒を浴びているなか、その人の母親が泣き崩れながら、繰り言のように「この子は本当は優しい子なんです、心のやさしい子なんです」って言います。前職時代、何度この目の前で見たことか。

 それって、単なる親馬鹿とかいうのとは違うと思うのですね。最初はそうなのかなって思ってたんだけど、ああ、愛情が視界を曇らせるんだな、惚れてしまえばアバタもエクボというのと同じことなのかなとか思ってたけど、そうじゃない。このお母さんが言っているのは、仮に局限された状況であろうとも、確かな事実なんだろう。本当に犯人は優しい子だったんだろう。そういう側面/時期は確かにあったのだろう。例えば、死にかけた子猫を拾ってきて、夜も寝ないでつききりで水を飲ませたりさすったり。ついに石のように子猫が冷たくなった翌朝、「ねえ、お母さん、この猫死んじゃったの?ねえ、本当に死んじゃったの?」とポロポロ涙を流しながら、訴えかけるように言っていた5歳の少年の姿を、その母親は克明に覚えているのでしょう。誰が忘れるものか。このお母さんはそのことを言ってるんだろう、と。

 それが、その人の「もともとの自我」なんだろうなって。


 ちなみに今こうして書いてて、自分自身のことを思い出すと、一つの特徴があるのに気づきました。

 それは、色やカタチに惹かれる点です。これはアート系の血筋なのかもしれないけど(母方の叔父や従兄弟は芸術家)、「わあ、きれい!」というものに惹かれる。小学校3年の頃だったかな、たまたま買ってもらった百科事典を見てたら、東海道五拾三次の図表と安藤広重の絵が全部載っていて、それがやたら緻密で綺麗で感動しました。構図が凄く、今改めて見ても「よくこんなこと思いつくよな」って感動します。「絵の面白さ」が凝縮している。当時、永谷園のお茶漬け海苔のなにか(マークだったかな)を集めて送るとこの広重の五十三次の絵カードを全部くれるというので応募&ゲットして宝物にしてました。それが嵩じて、東海道五十三次の全宿場、日本橋から始まって、品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、、、、、庄野、亀山、関、阪之下、土山、水口、石部、草津、大津、京都まで全部言えました。今試しに言ってみたら、覚えてるもんですね、全部言えました。ちょっと隠し芸。見ているうちに自然に覚えてしまった。そのくらい強烈に心惹かれたのです。

 子供一般の御多分に漏れず昆虫も好きでした。それは、カブトムシとかクワガタのようなガンダム系メカニカル造形美ではなく、目が醒めるような鮮烈な色彩美に心打たれたからです。普通のアゲハ蝶もすごいけど、さらにカラスアゲハの黒地に渋いグラデーションの美しさは、街角でフェラーリの美しい流線フォルムを見る感動の10倍増だし、一回だけ見たルリボシカミキリ(だったかな)のコバルトブルーの大きな斑点は、なんでこんな美しい生き物がこの世に存在するのか不思議?!って息が止まるくらい感動したのを覚えてます。人魂見たとき(一回だけだけど)よりも感動した。

 あるいは幼稚園に上る前に母親に見せてもらった千代紙。ブン殴られるくらいのショックだった。なんでこんなに綺麗なものがこの世にあるんだ?って。小学校高学年の頃にハマった切手収集(誰でもやるが)も、漫画雑誌の裏の広告ページをみて、切手の図案の綺麗さ、めくるめくようなバリエーションの広さに圧倒されたからです。切手って単なるデザインもあれば、肖像画、古典画、イラスト、普通の風景絵画、、、ありとあらゆるビジュアルアートの様式があって、それを年代別のカタログなどで見ると=画風によって整理せずに完璧にランダムに見ると、「うわあ!」って思いますよ。「絵」と一口にいうものの、これほどまでに自由なのか?って。

 そして自然美。東京や川崎新興住宅エリアだったから、自然美といっても知れているけど、それでもレンゲの花は綺麗だったし、夕焼けの空の綺麗さは今でも好きです。赤、オレンジ、クリーム色、群青、紫が変幻自在にグラデーションをなしている。もう嘘みたいに綺麗で、それが「この世でもっとも巨大なキャンバス=空」一面に広がっている。あれを買おうとしたら、国債発行残高の1000兆円払っても買えないよなあ、この世でこれ以上の贅沢はあるか!って。だから、好きなときに好きなだけ夕焼け空を堪能できる生活をしたら「俺の資産は1000兆円」だと思ってりゃいいです。万だの億だのという単位で数えるハシタ金には興味もねえよ(あるけど)って。

 余談に流れてすんませんけど、ふと思うに、10歳までのメインの仕事は、綺麗なものを沢山見ること、あるいは感動することじゃないかな。この時期の記憶が一生を作り、救うから。でもって十代の仕事は悩むことでしょうね。悩んで拗ねて反抗していくうちに自我を作っていく。20代の仕事は、十代に作ったひとりよがりの自我を世間でボコられること。日本刀の鍛冶みたいに熱して、叩いて、ジュッと冷やされて、不純物を叩きだして鋼として強靭にしていく。そして20代後半から30代は第一人格と次に述べる第二人格とのリ・コンフィグレーション、再設定でしょうね。
 

後天的なペルソナ〜作られた自我と世界観

 しかし、こういった先天的な魂だけで渡っていけるほど世間は甘く無いです。とりあえずは口やかましい親がおり、年上年下との兄弟との関係、近所や幼稚園には意地悪な子がいて、、幼い魂はあっちこっちでピンボールのように弾き返され、傷つき、喜び、再生し、強くなり、弱くなり、調子に乗り、トラウマになります。

 そんなこんなやってるうちに対世間から自分を守る自衛隊みたいな防衛機構が発達し、それが第二の自我になっていくのでしょう。やたら虚勢をはったり、嘘つきになったり、心ならずも他人に調子を合わせてみたり、八方美人になってみたり。

 第二人格は、個人的な環境(交友関係や家庭、学校など)に左右されますが、より大きくその時代その国家社会にも規定されます。軍国少年になったみたり、ヒットラーユーゲントになってみたり、文革時代の中国のように紅衛兵になったみたり。今の日本の場合にもそれはキッチリあって、「自我を押し殺して周囲にハーモナイズする」という日本人の第二の本能が形成されます。

 これはよくサポートをするときに言うのですが、海外にきたらとりあえず「ココロの日本仕様」は変更した方がいいよと。時計の時差を直すように、iPhoneのロケーションを変えるように。3歳のあなたは第一自我だけで生きてと思います。好き嫌いが明確で、自己表現もストレート。「○○ちゃんは?」「あたし、イチゴ味!」って即答。ところが、6−7歳になると、もう第一人格は影を潜めて「日本人という第二人格」に乗っ取られていきます。それは例えばホームルームでの偽善的で事なかれな展開。挙手して発言などはまず絶対にせずシーンとしていて、「○○君、どう思いますか?」と指されて初めて口を開くが、「い、今考え中でーす」「皆がいい方でいいでーす」という大勢順応システムが起動している。

 海外、特に「個のキャラ立ち」を重視する個人主義的な西欧では、それは通用しません。だから子供時代に戻ってください。カウンセリングの年齢遡行のように6歳くらいでもダメで、3歳くらいまで遡行しましょう。もっとバーンと自我を出せ、「自己表現」こそが大事なのだと。それは自己表現という新たなソフトをインストールして頑張るというよりは、既に走りまくっているあれこれのソフトをプチプチと終了させていくと考えた方が近いです。常駐ソフトが山のようにあり過ぎるから、メモリを圧迫して動きが遅くなるのだ。

 それはさておき、長ずるにつれ、後天的な部分がどんどん肥大化していきます。
 たまたまクラスで勉強が出来てしまったら、親や先生の期待が大気圧のようにのしかかり、優等生的な振る舞いを覚えていきます。逆に勉強が出来なければ、その屈辱の反動で、腕力にものをいわせたり、スポーツや技芸(楽器や漫画が巧いとか)で自分のポジションを打ち立てようとします。ほっといても人が寄ってきて集合写真で常に真ん中に映るような人は、それが自分のポジションだと思いこみ、それが果たされないと焦る。逆に、ほっとくといつも自然に一人ぼっちになる人は、そのまま快適に一人でいりゃあいいものを、これはヤバイ、トモダチがいない=人間的に重要な欠陥があるという新興宗教「トモダチ教」に感染して、何がなんでも皆と合わせようと思い、皆が知ってる話題や流行を熱心に勉強し、このテーマにはこういう意見を言うのがベストという独特の"マーケティング"をして、自分を合わせようとします。

 さらに、後発的な大きな出来事で自分のありようが変わっていきます。信じていた人に手ひどく裏切られたりすると人間不信になったり、「けっ、女(男)なんてもなあ〜」と「新しい世界観」を身につけたりします。逆に、妙なタイミングでモテモテになったり、なんかの拍子で大きな受賞とかすると、それが自分の新しい自画像になり、それっきゃないと思い込んだりもします。

 こういった営みは、人間という生き物の可憐で健気な姿だと僕は思うのですが、もっと無愛想に生物学的にいえば「環境適応」「学習」なのでしょう。野生動物でも、この水飲み場で過去に天敵に襲われたから、あそこで水を飲むのをやめようなど学習するし、学習することで環境に適応して生き延びる。あるいは心理学的に言えば、それがトラウマやら成功体験になったりするわけでしょう。ある経験をすることで、世界観なり自画像が変わる。

 ここまでは分かりやすいです。とてもありふれた話をしています。

 ありふれなくなるのはココからです。
 その後天的な第二人格、ペルソナ、経験と学習によって獲得した世界と自分のカタチですが、それにはプラスとマイナス双方に作用するだろう。特にマイナスも非常に大きい。しかしマイナスが逆に「味」になる場合もあるという、ややこしい話をします。ややこしいですよ、覚悟してね。

屈折レンズ

 過去に何か怖い体験をすると、実際以上に世界が怖く見えるでしょう。満員電車や人混みで痴漢行為をされると、電車や人混みが怖くなるとか、繁華街で因縁をつけられて暴力的に金銭を奪われたら(カツアゲですね)、以来繁華街にいくのが怖くなるでしょう。当然です。

 確かに世間は怖いかもしれないけど、しかし、その人が思うほど実際には怖くない。過去の恐怖体験が、実際よりもその世界を怖く映し出している。恐い怪談話を聞いたその日は、夜中にトイレにいけなくなる。

 この原理は、例えて言えば、メガネや望遠鏡のような屈折レンズのようなものだと思います。本来の第一自我と外界の間に第二人格がはさまるわけですが、これが屈折レンズの役割を果たす。屈折レンズを通すと、実際よりも外界のカタチが大きく(小さく)あるいは歪んで見える。

 そして屈折レンズは双方向です。例えば僕のようにド近眼で度の強いメガネをしていると、外からみるとその人の目の部分(レンズ越しに見える部分)は実際以上に小さく見えますよね。逆に老眼鏡や遠視のように屈折が逆になっている場合には目が大きく見える。屈折レンズをまとっている人は、外からみるとその人の第一人格が歪んで見えにくくなる。過去の経験で世間が怖く見える人を外から見ていると、人一倍怖がりだったり、心配性で神経質、場合によっては臆病にすら見えます。

 では、その心配症な部分は、その人の本当の自我なのか?です。
 たまたまそういう体験をしたからそうなってるだけの話で、本来的には別に心配性でも臆病でもないかもしれない。

 これは説明のために分かりやすい教室設例で、実際にはもっと複雑で屈折レンズの種類も多い。優等生的屈折レンズかもしれないし、なんらかの劣等感による屈折レンズかもしれない。そして、多くの場合は、幾つもの屈折レンズを重ねあわせたミックス状態になっている。まるで高倍率の天体望遠鏡や一眼レフカメラのように。

 例えば、自分は意気地なしで弱虫だという自己認識を植え付けられ、さらにそれを誤魔化すためにやたら強がったり、理論武装してみたり、毒舌を吐いてみたりします。弱虫認識という第一屈折に、虚勢という第二屈折が重なる。あるいは逆に、自分は本当はチャランポランでいい加減な人間なのに、なまじ名家の跡取りで、しかも勉強が出来てしまったばっかりに優等生的振る舞いを余儀なくされ、人当たりの良い人気者をやらざるを得なくなる。やればやるほど上手になるんだけど、やればやるほど「演じてる」「俺は嘘つきだ」という意識が強烈になり、ひいては「俺はなんて卑劣な人間なんだ」という絶望的なダメ意識が深くなるという。太宰治の「人間失格」パターンですな。

 これは他人ごとではなく、僕もあなたも大なり小なりこういうことをしているでしょう。実際には二層構造なんてシンプルなものではなく、何十層にも複雑に入り組んでいるでしょう。レンズの屈折具合はいきおい超複雑になり、ここから見ると素通しに見えるけど、ここから見たらグチャグチャに映っているという事態になる。

 あまりにも誰もがやってることで、あまりにも複雑なので、それが良いとか悪いという一律的な判断はできません。場合によっては必要不可欠なことでもあろうし、場合によっては無駄で有害かもしれないし、そのパターンは千差万別でしょう。

 屈折がプラスに働くケースでいえば、芸術でしょう。
 その強烈な屈折が、その人の人格や仕事を魅力あるものに仕立て上げる。強烈に屈折&濃縮された情念=ほとんど「邪悪な」と呼んでも良いくらいの複合感情が作品のモチーフになっていたりする。太宰治なんか、屈折そのものが「芸」になり文学になってるくらいです。

 もっとも、アートといっても、そんなグチャグチャモチーフばかりではなく、もっと素朴でほっとするようなものもあります。例えば武者小路実篤のように野菜の絵を描いて「仲良きことは美しき哉」と揮毫するなど。ほんのり素朴なもの。しかしですね、実篤の人生をみてると、正真正銘の貴族(公家)出身で東大生で、時代の寵児だった白樺派のメインメンバーで、さらに原始共産的な「新しき村」を作ったりしているのですが、50歳過ぎてから欧州旅行で黄色人種差別を受けてから「悪堕ち」して、それまで唱えていた反戦も理想もかなぐり捨てて、戦争万歳!毛唐共に思い知らせてやれ!みたいなノリになっています。なんかエリート・ボンボンの理想主義と、プライドがお高いから屈辱感情ですぐに反転するなど、なんだかなって部分もありますね。あの野菜の絵は晩年のものだそうで、やっぱ「いろいろあった」んでしょうね。その屈折の末の「仲良きこと」なんでしょう。なまじ素朴な絵だけに、背景にどれだけの深い情念が秘められているかと思うと、恐い感じすらする。

 いずれにせよ、僕らが不可避的にまとう屈折レンズが、僕らの自我に陰影を与え、個性をより際立たせるという効用はあると思います。屈折しているからこそ「味がある」という。

 

屈折レンズの問題点

 しかし、屈折レンズは、それが「屈折」しているがゆえに問題点をはらみます。屈折って、平たくいえば「ひねくれ」だもんね。上に述べたようにアートや強烈な個性、あるいはコンプレックスや偏見を燃料にした強烈なモチベーションパワーハウスになりうるという効用はありつつも、そんなに物事は上手くいくときばかりではない。むしろ問題になるケースもある。てか、そっちの方が数では多いでしょう。

人間関係がややこしくなる

 エブリディライフにおいては、ココが一番の問題点でしょう。
 屈折している人は、あまり他人に好かれない、という点です。

 繰り返しになるけど、それが個性で、それが芸になってしまえば話は別なんでしょうけど、普通は、まあ、とっつき悪いですよね。世を拗ねて、憎悪でギラギラ光った瞳で世間を見上げるのはロックの定番であり、それなりのカッコ良さもあるのだけど、でも一緒にいると疲れる。いつ噛み付かれるかわからない犬と一緒にいるようなもので、なにかの拍子にギャンギャン吠えたりするから鬱陶しくなってきます。

 もちろん、現実には「ギャンギャン吠える」という漫画のように分かりやすい反応ではないですよ。でも、話題が何かに触れると急に態度が硬化したり、やたらムキになったりすると、「あ、ここに地雷があるのね」って周囲も気を遣うようになる。その反応がエンターテイメントとして成立していたらいいけど(面白いから怒らせるてみようとか)、普通はそんなことないから、「気難しい人」「よく分からない人」「メンド臭い人」になっていく。

 あるいは逆に取っ付きが良すぎてフックがないという悲しい現象もあります。こっちの方が多いかも。つまり常に空気を読んで、同調ハーモナイズ機能が常に作動して、ユニゾンも三度のハモリもバッチリだぜ!とやってると、逆に存在感がなくなるという。あまりにも予定調和で周囲をかき乱さないから、居ても居なくても同じみたいになっていく。

 さらに、悲しいのが、どんな話題が出ても「ああ、あれね〜」ってそれなりにもっともらしい意見を吐こうとするのだけど、どれもこれも「カッコつけるため」「こういっておけば良い」的なマニュアルが透けて見える人。「まあ、○○もアレでしたからね〜」とか、ネットとかなんかで読んだようなことを並べてみるんだけど、「お前、本当にそう思ってんの?何を根拠にそう思うの?」って。これ、バブルの前の金ピカ80年代の「なんとなくクリスタル」時代に良く棲息していたパターンで、田舎から都会にでてきた大学生とかが必死になるパターンとしてよくあった。最近は少ないのだけど、でもたまにいますね。僕は優しくて、そして意地悪だから、「アレってなーに?具体的に言って」ってグリグリ突っ込みますけど、本当にそう思ってもいないことは言わないほうがいいっす。接待とかビジネスマナーだったら話は別ですけど。

 もっとキツイのが、いつもナイスな対応で、人気も人望もそれなりにあるのだけど、でもそれって「作った」ものであり、本人的には大して嬉しくないというパターン。本当の自分を出してない、てか、出してないからこその人気なんか、あったところで意味がない。人気があればあるほど辛い。これがアイドルやスターなどの人気商売だったら、パブリックイメージ・コントロールというビジネス業務として割り切れるのだろうけど、別にビジネスでやってるわけでもないなら虚しいですよね。「人間失格」パターンです。

 で、結局、他人とどう接すればいいのかわからなくなる。嘘を付けばいいのか、嘘をついたらいけないのかも分からなくなる。屈折という第二人格があまりにも肥大化したゆえに、本当の第一人格を見失ってしまい、迷路にはいってしまう。だから、他人が怖くなる。人と接するのが億劫になる。そしてその苦手意識が、さらに屈折レンズの屈折度合いを高めてしまうという、どうしようもない悪循環。

ガラケー第二人格

 ほんでも一歩日本の外に出たらわかりますけど、こういった屈折レンズの技術や人格というのは、しょせんはガラケーです。日本という特殊な環境において特異な発展をしたガラパゴス仕様でしかない。世界の人は、そんなん知ったこっちゃないです。

 そりゃ世界各地には、地ビールみたいに、ローカル産の屈折が沢山あると思いますよ。インドなんかカーストがあるから結構屈折がありそうだし、イスラムだってスンニ派が多いエリアで少数派のシーア派だったら肩身狭そうだし、オーストラリアだってアボリジニの血を引いている人は(見た目は白人だけど、意外と結構いる)、それなりに思うところはあるでしょう。

 でもね、そんなこと考えてらんないのですね。特にシドニーみたいに電車に乗ったら人の数だけ民族があるような環境では、そんな地場屈折につきあってらんないです。だから、ストレートに第一人格をみてきます。

 何度も言ってますが、人種民族宗教関係ない、目の前にいる奴がグッドガイかバッドガイかそれだけだ、というのは本当にそうで、それだけ集中して見てくる。だから、ウチのカミさんが以前事務所の不動産を借りようとした時も、ベテランでやり手のオージーのマネージャーのおばちゃんが、じーっと数秒間顔を見つめて、「OK!」と即決する。みなさんもシェア探しでじっと見られているはずです。こっちはアップアップしてるから気づかないかもしれないけど、「よし、こいつはナイス・ガイだ」という査定をされている筈です。

 そして日本人は大体OKですよね。それは日本人が本来もっている第一人格が良好だからでしょう。実際そうだもん。日本はやっぱり恵まれていて、世界の辺境地にあるから異民族に蹂躙されまくったり、血で血で洗う宗教対立もなかったし、生死にかかわるような苛烈な差別や迫害も少ない。そりゃまあ、ガラパゴスにはガラパゴスの事情があって、同民族イグアナ同士のミクロな微差をめぐって、やれ角の尖り方が変だとかカッコいいとかウダウダ屈折して煮詰まったりしてるけど、そんなの外から見たらまるっぽ無視です。第一人格を侵食するくらい強烈な社会的圧力や苛烈な宿命がないから、ほわわんと「良い人」ですわ。嘘はいけないことだよなと思うし、家賃はちゃんと払おうとするし、要するに「人としてまとも」です。それでいいんだよね。それだけのことなんだよね。それだけで好かれてしまうんだよね。

 オーストラリアも似たところがあって、歴史が浅い若い国だし、黒人奴隷を使わなかったから、アメリカのように人種間の深刻な国内対立も少ない。深く突き刺さっているのはアボリジニとのリコンシリエーション(和解)くらいです。それはそれで深刻なんだけど、でもそのくらいで、他国のように根深いシコリが少ない。それにベースにあっけらかんとした陽性な開拓精神やイーガリタリアリズム(平等意識)があり、深刻ぶるのを偉いとは思わない、複雑なことを凄いと思わない精神傾向がある。人生におけるテーマは、ちゃんとハッピーであるかどうかだけであり、社会は何のためにあるかといえばハッピーでない人をハッピーにするためにある、それだけだ、と。つまりは屈折が少ない。日本人も、第二人格レベルではいろいろ大変だけど、第一人格までは侵食されてない。このあたり、オーストラリアと日本は深層心理でとっても似通っているというのはよく語られますが、僕もそう思います。成り立ちは全然違うのだけど結果としての現象は似てくるという。これは話題がそれるのでこのくらいにします。

 ともあれこちらで会う外人(てかこっちが外人なんだけど)は、屈折度が少ないです。もう子供の頃の姿が透けて見えるというか、「こういう子供だったんだろうな」ってのが分かるような、体格もよく知性もある子供とつきあってるような感じがする。

なぜ子供が好かれるのか

 僕らはどういう人を好むのかといえば、本質的には第一人格を好むのだと思います。持って生まれた生成り(きなり)の自分。いい意味で子供っぽい人。少年や少女のココロを保っている人。それに大人の知性と経験が乗っかるのだけど、根っこにあるのは子供の良さです。悪い意味でのコドモじゃないですよ。自己中で、世間知らずで、拗ねりゃ済むと思ってるスポイルド・ブラット(甘やかされたクソガキ)ではないです、わかると思うけど。

 別な言葉でいえば、第二人格の屈折が少ない人。メガネで言えば素通しに近いくらいストレートに光を通す人。こういう人は好かれますよね。やっぱ分かりやすいし、魂のありようが好ましいからです。それは優秀とか有能とかいうのとはぜーんぜん別次元の話です。だって、あなたが好きな友達を考えても、なんでその人が好きなの?といえば、「すぐムキになるところが可愛い」「めっちゃココロが真っ直ぐだ」「思いやりが深い」とかそういうことだと思うのです。エラいから好きって部分もあるけど、エラくないから好きって部分もある。ほんとダメダメなんけど、約束はすぐに忘れるし、馬鹿なことばっかやって大損してるし、すぐ泣くし、「お前なあ、エエ加減にせえよ」って説教したくなるんだけど、妙に憎めない。愛すべき人に映る。

 なんで好ましく感じるかといえば、僕が思うに、おそらくはたった一つの要素にかかっているからでしょう。それは「嘘がない」ことです。

 計算してない。あざとくない。卑屈でもなければ、傲慢でもない。
 「俺なんかダメだよ」とすぐにいうけど、でも卑屈ではない。
 自慢しいで「どーだあ!」ってすぐに言うけど、でも傲慢ではない。
 この差です。微差だけど巨差。

 本質的に嘘のない人は、やっぱり好ましい。それは動物的に好ましい。犬も猫も嘘がないから好まれるのだけど、別に優秀有能である必要はないでしょ。怒られた時にシュンとなってしょげているんだけど、そのシュンとなってる様子が可愛い。猫なんか、客観的にみればかなり自己中丸出しで、飼い主に迷惑かけまくって、餌もらう時だけ愛想振りまくったりするのだけど、しかしその姑息な戦略が可愛い。

 小学校時代に好きだったサトシ君が、大きくなってえらくなりました。大社長になりました、ノーベル賞を取りましたといっても、子供の頃のサトシ君じゃなくなったら何だか悲しい。なんか人を見下したような人間になってたら嫌だと思う。逆に昔のまんまだったら嬉しい。ツバを飛ばして夢中になって喋るから、時々ヨダレがツーと垂れるというしょーもない癖がそのまま残ってたら妙にうれしい。

 ということで、屈折が少ないことは、やっぱり大切なことなんだろうと思うのです。

世界がそのまま見える

 最後に、屈折が少ない人は、世界が屈折しないで見えるから、美しいものを美しく、楽しいものを楽しく受け取る度合いが強いでしょう。楽しくなりやすい。

 屈折とは「ひねくれ」ですから、「ひねくれて世間を見る」ようなことしていれば、やっぱり楽しくない。

 例えば、純粋な他人の好意をそのまま受け取れず、「なにか下心があるんだろう」と思うから、それを喜べない。その人が素直に喜ばないから、好意を手を差し伸べた人も鼻白む。「なんだよ」って思う。次回からは徐々に冷淡になる。その冷淡になっていくさまをみて、「ほら、やっぱりココロにもないことしてたんじゃないか、親切ぶりやがって」と思って益々屈折に磨きがかかる。

 ま、一言でいえば「アホ」以外の何物でもないんだけど、でも、ありがちでしょう。

 なんでそんなにひねくれるのか?といえば、いろいろな理由があるのだろうけど、その昔に他人にキツい裏切りを受けて人間不信になったとかその種のことでしょう。もう傷つくのはイヤだ、期待しなければ傷つかないという守りに入っている。それはそれで分からないでもないけど、でもバサッと言ってしまえば、弱すぎる。一度や二度裏切られたくらいでそこまで防衛的にならなくてもいいだろうという気もする。まあ、人によってはいろいろな過去があるだろうから一概には言えないまでも、ごく平均的な確率&程度で裏切られ経験があるとして、それで一般よりも傷つき方が激しい場合は、ナイーブとも言えるし、弱いとも言える。

 大体、自分に自信がないというか、「私なんかが愛されるはずがない」的な思いが強い人ほど、些細な事柄で傷つく。てか、別に傷つく必要がないような事柄でも必要以上に傷つく。「裏切り」とか呼ぶほどご大層な何が起きたわけでもないのに(単に約束を忘れただけというありがちな事態だとしても)、「ほらね、嘘ばっかり」「また裏切られた」と過剰に傷つく。もう無理やりにでも傷つく。いったい君は裏切られたいのかね?裏切られていると安心なのかね?と言いたくなるくらい、事態の解釈をそっちに捻じ曲げる。

 逆に、完璧に裏切られて待ちぼうけを食らったとしても、お金をだまし取られたとしても、「いやあ、なんか事情があるんだろうねえ」と大して気にしない人もいる。こういう人は、強いというか、鈍感というか、あんまり裏切られたと思わないから、人の好意をそのまま受け取る。好意がちゃんと心にしみとおるから嬉しくなる。喜ぶ。好意が好意として成立し、他人との関係が豊かになっていく。でも、なんでもかんでも穿(うが)ったものの見方をしていると、せっかくの好意にツバを吐きかけ、ドブに捨て、なんて世の中は冷たいんだろう、ああ、なんて私は可哀想なんだろうと浸ったりする。もう「死ぬまでやってろ」って気もしますな。

 ほんでも、このパターン、多いんちゃう?
 世間が詰まらないと思える時は、そいつが詰まらない奴だからだというのは過去に何度も書いてますが、世間が冷たく思える時は、そいつが誰よりも冷たい場合も又あると思う。だって過剰に防衛的になって、他人に好意を好意として喜べない人はどうするかといえば、好意を差し伸べてくれた人をいちいち傷つけますよね。結局、誰よりも他人を傷つけているのはお前だろ?という。

 イヤな奴とは何か?といえば他人に迷惑をかける人のことで、犯罪とは何か?といえば煎じ詰めれば他人に迷惑をかけることでしょう。そして、他人の好意を受け取らない、あるいは受け取ってもお礼も言わない、礼状一本書かないというのは、やっぱり他人をして何らかのカタチで傷つけてはいるし、迷惑をかけている。ささいなことかもしれないが、それはイヤな行為・人であり、犯罪でもある。他者の好意に答礼をすることは、人間関係における最も基本的なことであり、だから、ほら、覚えているでしょう?子供の頃に口癖のように叱られたことを。「ほら、ちゃんとお礼を言いなさい!」って。

 しかし、そうやって犯罪まがいに糾弾されたら、「だって〜」と言い分はあるでしょう。
 本当に四苦八苦して大変で、いっぱいいっぱいでそこまで考える余裕がなかったんです、もうどうにも他人を信じられないんです、とかね。本当は私だって他人と豊かにつながりたいんです。でも、どうしてもできないんです。それは可哀想だとは思うけど、でも、それは情状弁護なのであって、無罪弁論にはならないのだ。

 そして、話は冒頭に戻る。犯罪者として糾弾された犯人の母親が「この子は本当は優しい子なんです」と訴えるのと同じ構造ではないか。
 もし自分の話を聞いて欲しかったら、そのお母さんの話にも耳を傾けるべきでしょう。「人にはそれぞれ事情がある」ということで、犯罪者は別に生まれつき犯罪者だったわけではない。なんらかの事情でそうなってしまったという経緯がある。それは、何らかの事情で他人の好意を無視して結果的に不快な思いをさせてしまったのと同じ事でしょう。他者のイヤな点、迷惑行為には一切の弁明を許さず、結果だけ見て厳しく断罪したいのならば、自分にだってそれを当てはめるべきでしょう。自分だけは特別だというなら、さらに自己中という罪を重ねることになる。

いわゆる「許し」について

 ここまで書いて気づいたのだけど、えらい和尚さんのお話とか、世界的に人道活動をしている人とかの話に、「許し」が必要であるとかよく聞きます。分かるようで、今ひとつわからなかったけど、書いてたらわかった。人は誰しも完璧ではない。それどころか欠陥だらけで、誰も彼もがアップセットして生きている。だから心ならずも他人を傷つけ、迷惑をかけ、裏切り、しかもそれに気づかないという罪を重ねる。誰もが同じなのだろう。だとしたら、結果だけからビシバシ断罪してたら全員死刑!になってしまって、世の中成り立たなくなる。

 もちろん何もかもフリーパスのダダ漏れで許してたら収集がつかなくなるから、それなりに厳正には対処するけど、少なくとも弁明の機会は与える、それに耳を傾ける、なるほどねと理解しようとする、その上で適正な範囲で「ま、いいでしょう」という「許し」を与え合うことで、人はようやく息がつけるのでしょう。

 他人に冷たくされたり、裏切られてココロがすさみ、その結果、もっと沢山の関係のない他人を傷つけている人は、裁かれなければならない。しかし、同時に(ある程度は)許されなければならない。しかし、彼/彼女が許されるためには、まず最初に冷たくした人や裏切った人を許さなければならない。まあ「ならない」ってことは別にないんだけど、でも、自分だってこうやって他人を傷つけているんだから、あのときだってその他人もそれなりに事情があったかのかもしれないなと思いを巡らすことで、傷の痛みは多少は和らぎ、やわらいだ分、他者を思いやる気持ちも増え、徐々に光が見えてくるって好循環はあるとは思います。

 すごーいキレイ事のようなんだけど、でもそうとしか言えないよな。北アイルランドにせよ、カシミールにせよ、ガザ地区にせよ、報復が報復を呼び、もう未来永劫血で血で洗う争いが続きそうな事態においては、「トコトンやる」という方法論では全員死ぬまで終わらない。アホやん。何とかしようと思うなら、少しづつでも許し合うしかないんだろうな、と。

 ま、仏様のように無限に寛大になれるものではないのが、だがしかし、僕らの日常レベルにおいて、ムカついたり、傷ついたりするような事態に出くわした時、それで心が傷つき、いらぬ屈折レンズがまた増えて、結果として人生が先細りしてくるくらいなら、その最初の時点で、ちょっとは許したらいいのかもしれないです。「もう信じらんない!」「あんな奴、人間のクズだ」とかいきり立つ前に、ほんとにそんなヒドイ話なの?なんかの曲解はない?自分のレンズが歪んでない?なんか事情があったんじゃないの?そのうえでどうしようもなく誤解もなく、正真正銘裏切られたりした場合は、程度にもよるけど、ここはカッコつけるべきでしょう。「ふふふ、私は心の広い人間だからね、許してやろう」「考えてみれば人を騙したり、裏切ったりして生きていくしかない人間の方がよっぽど悲惨だよな」てね。

 無理にでもそうするといいです。なぜなら許すと不思議と傷つかないからです。ゼロってことはないけど、かなり和らぐ。「畜生!」って思うと心がささくれるけど、「ま、しゃーねーな」って無理にでも口に出して言うと、そんなに傷つかない。言うまでも無いけど、ここで傷つく/つかないという近視眼的な痛みが問題なのではなく、要は心の屈折レンズを増やすか増やさないかこそがポイントです。わかると思うけど。

 ほんでも、どうしても許せない場合がありますよね。自分の愛しい人をなぶり殺しにされたとか。どうしても許せない、これは許してはいけないと思ったらどうするか?僕だったら、許せないなと思ったら、あとは行動あるのみじゃないかな。やった奴を執念で探しだして自分の手で殺すか、まあ、そこまでやるかどうかはわからないけど、自分が許せないと思ったことについては、他人の手は借りない。自分の問題だから、自分でケリをつけようと思うでしょう。

 だってさ、殺されたのは自分じゃないわけだし、それを自分のことのようにすり替えている点でズルがあるというか、なんか違うような気がするもん。本当に報復する権利があるのは殺された人間だけであり、いかに親しかろうが、いかに身内であろうが、他人である自分がその権利をまんま承継できるのか?僭越じゃねーの?って。結局「愛する人のため」とか言いながら、自分がムカついてるだけじゃないの?とか。もちろん広く世間に問題提起をするという「公」の側面は含むだろうし、それはその限度でやるのは有意義でしょう。でもより本質的に私的感情(怒り)だとするならば、私的に処理すべきでしょう。てめーが勝手に怒ってるだけなんだから、てめーで落とし前を取るしか無いよな、他人様を巻き込んだらバチがあたるよなとは思うかな。

 このあたりは難しい所でニワカに結論は出ませんが、ただね、少なくとも、そいつのために自分の世界観は変えないとは思います。もう意地でも変えない。変えたら負けっつーか、被害を自分で増やしてどうする?って思うもんね。それで歪みがひどくなって、美しいものが美しく見えなくなったら大損だし。一人の人間に裏切られたからといって10人の友達(を得る機会)を失うことはないよな。そんなの馬鹿丸出しじゃん。屈折レンズは、もう増やさない。




文責:田村



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