回避系と獲得系
なんでもかんでも2分類する考え方があります。
大雑把に過ぎるのだけど、面白いです。
例えば「この世には二種類の人間しかいない。さて何と何でしょう?」という謎かけ(「笑点」の大喜利みたいな)があります。この答は無限のバリーエションがあります。「勝ち組と負け組」というありきたりで詰まらない分類から、「あなたにとって必要な人間とそうでない人間だ」「他人に使われる人間と他人を使う人間だ」とか、「死に際して、周囲は泣いて自分は満足げに笑っている人間と、周囲が笑って自分が泣いてる人間だ」などひねった答えもあるでしょう。
はい、頭の体操です。この調子で10秒に一つ、3分間で18例あげてください。
これって学生の頃よくやった頭が良くなる(気がする)トレーニングです。落語の「○○とかけて○○と解く、そのココロは?」や「三題噺」などが典型的ですが、オリジナルで作った方が面白いです。作るというのが最大のトレーニングになりますし。
単なる遊びとしても面白いのですが、実際にも役に立ちますよ。瞬時に思考のシフトチェンジをして、ぜーんぜん違った発想を立ち上げ、同時並行的にどんどん離陸させていくのは、とりあえず「プランBを思いつく」ときに役に立ちます。また、「名を捨てて実を取る」「勝負に勝って試合に負ける」ようにニアリーだけど原理の違う価値体系を立体的に把握するのに慣れます。
この二分法、過去のエッセイにも何度も書いてます。性賢説と性愚説とかナギーとナガーとか。「何度も」どころかかなりの本数を、この対概念対比法=ステレオ効果で概念を立体化させる思考法で書いてます。いわば僕の得意技ですが、今回もそれでいきます。
今週のお題は、およそ人間の行動は二種類あって、それは「回避」と「獲得」であるというものです。
回避行動というのは、言うまでもなく「イヤなことを避ける」ための行動です。
例えば、上司に怒られたくないから言われたように仕事をするとか、世間に後ろ指をさされたくないから仕事に就くとか、早死にしたくないから健康に気を使うとか、とんでもないドツボにはまって困ったときのために保険に入るとか、、、、なんぼでもあります。
獲得行動というのは、思いを寄せているあの人を「獲得」するためにラブレターを書いたり、口説いたり、カッコつけて気を惹いたり。ステージでキャーキャー言われることを夢見て、必死にギターの練習をするのもそうでしょう(結果として、キャーキャーではなくブーブー言われたりするのだが)。南国リゾートで満ち足りた午後を過したいとか、温泉に浸かって手足のびのびしたいとか、これもなんぼでもあります。
長い話を一気にワープしていきなり結論を出すと、要するにこれって「快楽原則」ですよね。
獲得したいものは様々あります。異性も、名誉も、地位も、富も、、、でも結局ところ「いい気持ちになりたい」「快感を得たい」ということでしょう。回避すべき事柄も、病苦、叱責、不名誉、羞恥、孤立、さまざまあれど「気持ち悪いのはヤダ」「不快を避けたい」ということに尽きるでしょう。つまりは「快を求め、不快を避ける」という「快楽原則」がストレートに反映されているだけとも言えます。
なーんだ、それだけのことか、ちゃんちゃん!で、今週のエッセイが終ったらどんなにか僕は楽(快)でしょう(読まされるあなたも)。
しかし、そんなに簡単に終るわけないだろこのエッセイが、ということで、まだ続きます。不快を求めているわけではないけど、ここまではほんの序の口宵の口。
回避ばかりで獲得が少ない件
上に関連して思うのは、回避過多です。特に日本においては、行動原理の本質に回避が座っている回避系が多く、獲得系が少ない。このアンバランスです。
「〜しないように」「〜のために」という後日の憂慮に備えて動く。災害に備えて保険に入るとか、老後に備えて貯金をするなど、日本人の貯蓄率や保険加入率は世界的にも高いと言われています。最近はそうでもないという話も聞きますが、統計数値や背景はともかく、メンタリティとしては「憂いに備える」「不幸回避」という要素は強い。
それは、冬を迎えて備蓄をするという「アリとキリギリス」のアリさん的メンタリティで、それ自体は何の問題もないし、むしろ賞賛されるべきことでしょう。それは良いのだけど、じゃあ冬の間に何をして楽しむの?という獲得系の思考は少ない。無論ゼロではないけど「備えなきゃ!」という意識の高まりや切迫感に比べれば、同じボリューム&テンションで「おーし、いい気持ちになるぞ!」という高まりはない。
老後に備えて老齢年金バッチリです、個人資産も数億あります、順調に運用が進んでいます、なんの憂いもありません、「さあ、悠々自適ライフだ」となったときに、「自適」のやり方がわからない、何をすればいいのか分からない。趣味を持たねば!と思って、あれこれやるけど、適当にやって適当にハマったフリもするけど、それほど本気で面白いわけではない。続かない。ヒマだ、となる。ヒマを持て余して、昔の職場に顔を出したりして煙たがられる。
僕らはいつでも頑張ってます。
やれ勉強に頑張り、就活や転職で頑張り、職場で頑張り、資格取得に頑張る。なんのために?そりゃあお金が入るからです。では何のためにお金がいるの?
何度も紹介している古典落語の小咄があります。与太郎とおっかさんの会話で、「与太郎、お前は寝てばっかりいて、そんなこっちゃいい大学に入れないよ!」「いい大学に入るとなんかいいことあるのかい?」「そりゃいい会社に入れるじゃないか!」「いい会社に入れると何かいいことあるの?」「お給料だっていいし、お金が沢山はいるじゃないか!」「お金が沢山あると何かいいことあるのかい?」「そりゃ、お前、お金があったら寝て暮らせるじゃないか」「だから、おいら寝てるんだよ」
というニートの理論武装のような小咄です。有名だからご存知の人も多いでしょう。
この小咄は一面では真理を衝いていて(他面では虚偽だが)、それは何のために何をやっているのかという詰めが不足している点です。お金が入ったら(働くなくてもよくなったら)何をするの?という部分を欠落したまま、「お金さえあればいいんだ」という粗雑な認識がヘンテコな矛盾を産む。
これは一見獲得行動のようでいて本質的には回避系だとも言えるでしょう。最終的に獲得すべきものが良く分かってないのは獲得系としては中途半端なのですが、でも、その中途半端さを勉強・仕事・お金という強迫観念が覆い隠すし、やがては獲得から回避系にシフトしていく。「○○したいからお金が欲しい」ではなく、「○○(就職とか)しないと大変なことになる」という恐怖と不快がモチベーションになっていて、「みじめな生活、みじめな思いをしたくない」という「みじめ回避」が主たる動力になっていく。
獲得から回避への変化
進学というのは本来獲得系でしょう。○○という分野を思いっきり勉強したい→それには○○大学の環境が良さそうだ→○○大学に入りたい→そのためには受験を突破しなければ、という獲得系思考で話が始まるのが本来の筈。でも、現実の厳しさを知るにつれて目標レベルが下がっていく。下がるのはいいけど、下がりすぎて意味が変わってくる。○○大学でなくても○○学は勉強できる、○○学でなくても大学の自由なアカデミズムを知ることは意味があるし面白そうだという下がり方(というか広がり方)ではなく、自分だけ不合格だとカッコ悪いしミジメだし、人生始まらないような気がするから、「もうどこでもいい」「ミジメにさえならなければ」という具合に「質」が変わる。いつの間にか、獲得系が回避系になってしまう。
就職だって、○○という分野で思いっきり活躍してみたい、修行してみたい、もちろんお金もがっぽり欲しいって獲得系で話が始まる。しかし現実は厳しい。あれもダメこれもダメになって、選んでる余裕もなくなっていく。ここで現実に応じて獲得目標や範囲をフレキシブルに変えれば(広げれば)いいのに、そうはしない。働いたこともないガキンチョにあれがいいとか悪いとかわかるわけねーだろ、だったらとにかく世に出ていろいろ揉まれて世間を知ろうぜ、話はそれからだぜ、という具合になればいいのに、ならない。段々防衛的になっていく。「こんな就職先恥ずかしくて他人に言えない」「とにかくどこでもいいから決めたい」「みじめになりたくない」という回避系主体になっていく。
就職=社会に出る=世間で揉まれるということは、それまで独りよがりだった自我を世間によってガキガキ洗われることであり、無駄に出っ張ってるところは削られ、丸くなり、逆に強い部分はさらに精錬されて強くなるという自我再構成と環境適応にこそ主眼があるのだと思います。その意味でいえば、就職に苦労している時点で既に目標は達成しつつある。これも一つの社会経験であり、「世の中思いどおりにいくわきゃねーだろ」という世界人類の(全生物の)憲法第一条のような原理が身体に叩き込まれる。さあ、そこでどうするか?ですよね。この荒ぶる世間に対峙して、自分はどう自分らしくありつづけられるのか、どう戦えばいいのか。これが一生のテーマになるでしょう。
その意味でいえば、内定が出た/出ないなんて、非常に些末な話でしょう。なぜなら、めでたく就職が決まった後にも又ガキガキやられるわけで、要するに門(入社)の位置がどこにあるかでしかない。門をくぐる前にもガキガキやられ、門をくぐった後でもガキガキやられるわけだから、門なんか何処にあっても大差ないでしょう。中々就職が決まらないという悩みと同質の悩みは、入社したあとも「なかなか得意先開拓が出来ない」という形で出てくるわけですもん、同じことです。だけど、そう広く考えられず、獲得→回避にシフトしていく。とにかく恥ずかしい思いをしたくない、みじめになりたくないという。
もっといえば、世間の荒波でゴキゴキ自体がイヤだという発想もあるでしょう。この柔らかく傷つきやすい自我を大切に守りたい。カマンベールチーズのように、マスカルポーネのように、白くて、ふわふわして、甘い自我をガーゼで包んでそっとしておきたい、傷つけたくない、それが夢だというのならいつまでも夢をみていたいという、究極の回避系です。わからんでもないけど、でもそれって、お風呂に入ったり、頭を洗ったりするのをイヤがってる子供みたいなものですよね。まあ、わかるよ。シャンプーが目に入ると沁みるもんね、ずっと頭を下げてないといけないし、呼吸もしにくいし、苦しいもんね。
日本的ツイスト
これにツイストがかかるのが、商業主義です。
日本の商業主義はスケアキャンペーン(恐怖扇動)が多く、お金のない老後は死ぬほどミジメで苦痛に満ちており、まさにこの世の生き地獄!みたいに恐怖を煽ってあれこれ買わせる。受験、就活、結婚、マイホーム、、、何でもそうだけど、「○○しないと地獄行き」という恐怖を煽って購買活動に向かわせる。流行を知らないことが「途方もなく恥ずかしいこと」であるかのように錯覚させる。なんか勢子が鳴り物をガンガン鳴らしてイノシシを追い立てているかのような、野性のバッファーを崖に追い立てて狩りをしているかのような。未だに「海外=恐い」だもんね。
さらにそれをアンプリファイ(増幅)するのが日本の社会構造です。
日本社会というのは「うまくいってるとき」には十全に機能するのだけど、「うまくいってないとき」についての回復修正システムが未整備です。すべり台社会というけど、ほんとにそうで、一旦リストラされたら転落防止の出っ張りが少なく、下にクッションが敷かれているわけでもない。そして、そういう非正規な事態を「なかったことにする」という。ホームレス対策も、シェルターをガンガン作るとか、巡回医療をするとか、1日3時間公園の掃除をしたり深夜の防犯パトロールをすれば敷地にキャンプ場を提供し、住民票や印鑑証明も発行して立ち直りを支援をするというアイディアもないまま、「就労支援」「自立」の美名のもとにシッシと追い立てて、見えなくし、なかったことにする。ぶっちゃけて言えば、日本社会で「うまくいってない人」は、殆ど汚物のように扱われる。話題になってる憲法改正案も、ひらたく言えば「公共の福祉」の美名のもとに、もっと堂々と汚物扱いできるようにしましょうってことでしょ、本音は。
原発もそうだけど、うまくいってないものを「うまくいってない」とありのまま認識しない。古くは公害事件の初期もそうだし、薬害エイズもそうだったし、相変わらずの大本営発表システムです。うまくいってないことは「無い」ことにするという凄いシステムですな。冤罪でも完全に無罪立証が出来るまでは、証拠を捏造してでも非を認めない。ここまで来たらある意味強いですよね。宗教法人日本国って感じで、司祭者達が「ナニゴトモナカッタ」と唱えると、信者達はいくら疑問があっても南無阿弥陀仏のように「シカタガナイ」と唱和する。
性愚説でも書きましたけど、オーストラリアや西欧では、「人間なんかどーせバカだろ」という前提認識から出発するから、「異常なし」「オールOK」という報告があがってきても全然信用しない。「嘘だろ」「見落としてるだろ」と、二重三重にセーフティチェックをする。オンブズマンやチェック組織がやたら多い。それでもこぼれたものを救済するシステムと心意気(みたいなもの)はかなり整っている。もう寄ってたかって助ける。シェア探しで道に迷って、地図を広げて困った顔をしていたら、"Are you OK?"と周囲のオージーがハエのように寄ってくる。「うまくいかなくて当たり前」の社会ですからね。
行政といい、制度というのは、要は、必要なことを、必要なときに、必要なだけやればよく、ただそれだけでしょ。事務処理ってのは本来そういうもので、必要なことをキッチリやるか/やらないか、ただそれだけっしょ。「○○の威信」「国民の信頼」「安全で安心な社会」、そんなゴタク(敢えてそう言う)はどうでもいい。なぜなら美しい理念もうるわしいスローガンも、事実から遊離し、事実を無視し始めた時点で、ただのゴタクに堕落するからです。それどころか危険な共同幻想(ex:日本は神州不滅、原発は安全、国債は安全..etc)にすらなる。概念を事実に優越させてはならない。優越させた方が、現場レベルにおいては「万事うまくいく」という実情を知らないわけではないけどね。
お金について
さて、ここでお金の話をします。
なんといっても、「獲得」といえばお金でしょう。
勉強も、就職も、立身出世もとりあえずの目的が「(高)収入=お金」であるならば、では「お金」は何のために稼ぐのか。お金は誰でも欲しい。でも、何のために?
お金の機能も、回避系と獲得系があります。
そして、ここでも回避系のお金が多いように思います。
最低限の衣食住は必要だから、それを購う資力は要る。だからお金は必要。これはわかりやすい。住むところがないと野宿になるから、雨に濡れるわ、寒いわ、風邪引くわ、襲われるわで不快だから、これを回避する。食べるもの食べないと餓死するし、そうでなくても健康を壊す、だから死病苦を回避する。
それら回避系資金が必要なのは分かるのだけど、でも腐っても鯛で、世界でもかなり裕福な生活水準の日本において、逃げ回って逃げ回ってそれで一生が終ってしまって良いはずもなかろう。最低限の必要を満たしつつ、獲得系に向かわねば。
でもこの部分が難しいです。
お金というのは、とどのつまりは「決済手段」に過ぎません。購入資金に過ぎない。お金を払って「なにか」を得るのだけど、さて、何を得たいのか?何を獲得するのか?より深い快楽のためのお金の使い方です。
お金にまつわるいくつかのスキルがあります。
@稼ぎ方、Aケチり方(節約法)、B貯め方、C増やし方(投資)ときて、最後にD使い方がきます。私見では、@→Dの順に難易度が上がると思います。
ここで真逆に、D使い方が一番簡単で、@稼ぎ方が一番難しいかのように思う人も多いでしょう。まあ、そうも言えるんだけど、でも、稼ぐのは働けばいいんだから簡単っちゃ簡単です。要するに「頑張ればいい」んだから、日本人にとっては得意科目でしょう。問題はDの使い方です(ABCも面白いけど本題から外れるのでカットします)。そのあたりの話を。
人間性と価値観がモロに出る恐さ
お金の使い方を見てるとその人の価値観や人格が分かると言います。この広い世界の中から、より自分の合った、より味わい深くて鮮烈な快楽をどれだけ知っているか、それはどういうダンドリで得られるか。それらを押えていないと的確な快楽獲得活動が出来ない。快楽獲得の補助ツールであるお金の投下ポイントも分からない。
ここが甘いと、結局、商業広告に乗せられて、欲しくもないものを有り難がって買わされたりする。無駄に高額なものを買って「猫に小判」的な失笑を買う。ろくな審美眼もなく、絵の価値も分からないまま、ただ高価であるということに踊らされて数億のゴッホの絵を買ってみたり、ブランド品を買いあさってみたり。
本当に良いもの、「本物」は大抵の場合は高額商品になりますが、それを持つにふさわしい人間、それを使いこなせる人間でなければ、持っていてもバカにされる。真っ赤なフェラーリを買うにしても、真っ赤なフェラーリを乗り回すのにふさわしい男(女)にならねばならない。ビンテージのギブソンのギター、レッドサンバーストのレスポール58年モノ1000万円也を所有するなら、それ相応の腕がないとカッコ悪い。本物を持つことを許されるのは、本物の人間だけという不文律がある。このオキテを犯すと、かつての土地成金のドラ息子が外車を乗り回すような醜怪なことになる。
やはり物事には分相応というのがあり、モノの価値にふさわしい自分になるのではなく、自分を上回るモノの価値によって自分を引っ張り上げて貰おうとすれば、その心根の浅ましさを露呈する。妖刀村正のように、モノに振り回される。それを持っててサマになるだけの人格&技術がなければ、下賤な成金として軽侮される。
一般に西欧ではお金持ちのや上流階級の行動が厳しく査定されるというか、不文律のような掟があるらしい。階級社会のゆえなのか、武士に武士道があるように、貴族にも貴族道がある。それはいかに社会に還元するかです。王族のようにチャリティをやるとか、投資をするとか。投資といってもお金を増やすという意味ではなく、より社会にとって有為な人材や活動を探しだし資金援助するかです。財団法人を作るとか、売れないアーチストを支援するとか、腕のいい職人に開業資金を提供するとか。パトロンとしてパトロナーゼすること。昔の大阪言葉でいえばタニマチ衆になることです。お金の使い方にその人の識見が如実に出てくるし、評価の対象になる。
別に金持ちなくても、どんな仕事をしているかよりもどんなボランティアをやっているかをしつこく聞かれたりもします。仕事は、要はお金を稼げばいいだけなんだし、運も巡り合わせもあるから、いわば何でも良い。しかし、ボランティアは、敢えてわざわざ行うだけに、そこには選択の自由があり、それゆえに人間性が如実に出る。ゆえにより注目される。
お金の使い方が一番難しいというのは、例えばそういう意味です。何に使ってもその人の自由なんだけど、使い方を見て、「そーゆー人間か」と思われる。
ここで誤解のないように言っておきますが、身分部相応なのは百も承知、世間に嘲笑されるのも気にしないで、どうしてもコレが欲しいんだあ!で購入するのはアリだと思います。極端な話、運転免許を持っていないのに、4000万円のランボルギーニを買ってしまうようなお馬鹿な行動ですが、僕はいいと思います。断固支持!って感じ。乗れもしないのに、朝から晩までキュッキュと磨き上げ、飽きもせずほ〜っと見惚れ続ける。いいじゃん。要するにこれは惚れてるわけで、「惚れたものをゲットする」という王道中の王道の獲得系だと思うのですよ。無邪気で、微笑ましくさえある。
対投資効果
ところが、そんな無邪気なケースはマレで、この種の高額商品というのは、その物を深く堪能するのではなく、「見せびらかす」ために購入するケースが多いと思います。「どうだあ!」と世間に示してカッコつけたい、「すごーい!」と賞賛されたい、羨ましがられたいという子供のような見栄であり、自己顕示欲求です。それは分かる。その欲求自体は、これまた微笑ましくさえある。
ああ、だが、しかし!往々にして真逆の効果を招いてしまう。目の玉が飛び出るほど大金を使って、身分不相応なモノをゲットしたのに、それによって逆に世間の嘲笑を浴びてしまうという。なんたる皮肉。これは対投資効果でいえば最悪のリターンといえるでしょう。だって賞賛されるためにお金を使っているのに、嘲笑されてるんだもん。ダイヤモンドを買ったつもりで犬のフンを買ってるようなものです。投資効率最悪。
つまりは、金の使い方がヘタ!ということです。
自己顕示したいなら、自己顕示のスキルや技術があるわけで、いかにイヤミなく、いかにさりげなく、小さくとも中々消えない鮮烈な印象を与えるか。その奥深さは、もはや自己顕示「道」といってもいいくらいで、それはそれは厳しく難しい。それを、金さえ払えば自慢できるなど、クソぬるいにも程がある、味噌汁で顔洗って出直してこい、です。
金の使い方がヘタだというのは、獲得系について真摯な努力を払っていないということでもあります。自分は何が欲しいのか、自分はどうやったら気持ち良くなれるのか、日がな一日考えてない。もっと真面目にやれ、です。
先のランボルギーニ無邪気事例はここが違います。彼は世間の賞賛など買ってるつもりはなく、ただただ奇跡のように美しい工芸品を愛でていたいわけで、それを見るだけ、所有するだけで汲めども尽きぬ快楽が出てくるわけでしょう。いかなる意味でも「使う」(乗る、自慢する)つもりが全くない。これは奇矯なようでいて、実は普遍的な話です。例えば、日本刀愛好家。鍛え抜かれた職人の伝統技、その結晶のような日本刀は、存在自体が美しく、名刀ともなれば魂が震えるような感動を与える。だから愛でる、所有する。日本刀を持ってるからといって「使う=人を斬る」つもりなんか全くない。こういう人は幸せでしょう。全財産を投げ打ってでも「欲しい!」と思えるものがある人は幸いなれ、です。
そういえば、位階人臣を極め、人も羨む巨万の富をためても、やることといえば、若い女の子を金で買って、囲って、パパと呼ばせて、、ってパターンがありますね。他にやることはないんか?という気もしますが、まあ、それはそれで否定はしませんよ。生命体にとってリビドーは常に「正義」といってもいいですから。
ほんでも、イチャイチャしたかったら学生時代にも幾らでも出来たでしょうに。それこそ与太郎の小咄じゃないけど、「だから今やってんだよ!」みたいな話だと思うのですよ。それとも学生の頃モテなかった恨みを、50年の刻苦勉励の結果、いま晴らしているのだっていうのでしょうか。それはそれで立派な話かもしれないけど、イチャイチャするのにそんなに巨万の富もいらないし、日本のドンになる必要もないし、50年もかける必要はないんじゃないの?そもそも、お金の力でモテたって、モテてるという本来の充実感はないだろうし、単にエロが好きなだけだったら平社員の頃でも、バイト君ですら風俗にはいける。投資効率悪すぎないか?お金の使い方が下手すぎないか?
もうちょい真面目な話をします。
マイホームの購入だって、招来を見据えた賢い判断が必要です。来るべき地震の備えはどうか、液状化はどうなるかにはじまって、今は見晴らしがいいけど将来の駅前再開発で視界が遮られて昼でも真っ暗になる可能性はないか、いつまでこの土地にいるつもりなのか、会社を首になって転地する必要は出てこないのか、将来子供や奥さんが(自分も)鬱になって転地療法が必要になったらどうするのか?そもそもどういう生き方をしたいのか?単にそこそこ収入があって、そこそこ見栄えのいいマンションに住めばそれでOKという人生でいいのか。それとももっと自分(達)らしい生き方を探したいのか。
そんなこと考え出したら、どこのどういう物件を買えばいいのか、難しいですよ。
いずれにせよ価値観を鋭く問われるものは難しい。「俺の人生はこうじゃあ!」と言える根本ポリシーを持っているかどうかが問われる。
お金というのは、使うのが本当に難しいです。稼ぐよりも使う方が100倍難しいというけど同感ですね。そりゃヒマツブシのような下らない金の使い方をするのは100倍簡単だけど、本当に使うのは難しい。それは本当の快楽を得るのがそれだけ難しいからでしょう。
本当の快楽、それは高額商品であれ、本物であれ、マニアックな一品であれ、ささやかで普遍的なものであれ、それを本当に賞味し、堪能するためには、それなりの知識、見識、技術、スキル、そして狂気じみた情念が必要だからです。小判を小判として理解できるためには猫であってはならず、真珠を審美できるためには豚であってはならない。家族そろって、つましい、ほとんど「粗餐」といってもいいような質素な晩ご飯を食べること、その幸福を至福と感じるためには、それなりの修行が必要でしょう。地球の果てまで大冒険をやり、さんざん極道やり尽くしてからでないと、その良さ、その価値は分からないと思う。
快感というのは頭脳で得るものではないです。ココロで得るものであり、魂で得るものでしょう。頭脳系の技術は楽です。超難解な物事もあるけど、論理的に難解なだけです。そんなの勉強すればいいだけで、簡単。でも魂系の技術は、非論理的だから難しい。「なににガビーン!とくるか」なんて、わかんないですよ、普通。膨大な知識と膨大な体験によって磨いて磨いて磨き抜いて、だんだん研ぎ澄まされてきて、だんだん感度が良くなってきて、やがてガビーンとくる。しかし、そんな順序正しくくるパターンばかりではなく、出会い頭の一目惚れみたいな現象もある。そうかと思えば、最初はどってことなくても数年経ってからジワジワ効いてくるという三年殺しみたいなパターンもある。超難しいです。
この世で魂系の技術ほど難しいモノはない。だから魂系に直結する獲得系は難しいし、獲得のためのお金の使い方は、稼ぎ方よりもずっと難しいと思うのです。
獲得系とテクニカルへの回避
さて、マンション購入の事例ですが、これも単に資産価値が上がるとか、そういうファイナンシャルな判断だけでやるなら比較的簡単でしょう。将来○○線沿線は値上がりしそうだとか、キャピタルゲイン課税がどうのこうのとか、テクニカルな処理が出来る。
これ、何かに似てませんか?
そう、大学受験に似てます。どういう分野でどういう生き方をしたいか、どういう人生が自分に向いているか、本来詰めて考えるべきなのに、それをしないでテクニカルな方面に走る。やれ必須科目に数学が入ってないとか、偏差値的にこの程度とか、卒業後の就職率が良いとか、そのあたりの技術的なレベルで終る。
何が問題かというと、獲得系の努力が甘い!ということです。
何をしたいのか、どうなりたいのか、どうなると気持ち良いのか、どうすると満足するのか、もっと探せ、もっと調べろです。そして、頭で分かった気にならずに現場に行って体験する。ネットで調べたことと現実との間には必ずどっかズレがあり、しかも常に重要なところにズレがある。だから動く。そしてまた考える。何度も何度も繰り返し繰り返し考えていくうちに、なんとなく見えてくるかもしれない。あるいはそれでも見えてこないかもしれない。あるいは、そんなもの分からなくても別にいいんだという境地にもなるかもしれない。
「獲得道」は難しいんですよ。生半可なことではない。なぜなら自分の価値観をストレートに問われるから。
幕末の志士、たとえば坂本竜馬あたりと畳の部屋で差し向かいになり、「おまんは、何がしたいんじゃあ!」と問われているようなものです。しかも、「返答次第では斬る!」とグイと大刀を引き寄せられているような。価値観を問われる、というのはそういうものだと思います。
でも、そんな難易度の高いことを、高校の進路指導という限られた時間で出来るわけもないから、テクニカルに走らざるを得ない。それは、まあ、分かる。公共資源の配分には限界があるという意味で理解できる。でも、だからといってテクニカルに走ってそれで良しとしてはアカンのではなかろうか。まあ、個人の生き方だから他人がとやかく言うことでないだろうが、それでも「しっぺ返し」というのは一種の物理法則ですから、絶対来ますもん。
負けたときに何が残るか
それにテクニカルなことって簡単なんですよね。論理の積み重ねというのは、実は簡単で、小器用に正確にやりさえすればいいだけだから、誰でも出来る。そして、論理的であるがゆえに、すぐに破綻する。なぜなら前提条件をこの激動する実社会から求めているので、前提条件が変わったらあっという間に崩壊する。例えば「これからは○○の時代だ」とかいって○○学方面にいっても、画期的な発明や世界情勢が変わっただけで、すぐに変わる。それはもう真空管技術を修めた親父が、トランジスタが出てきた瞬間にキャリアがパーになったのと同じです。いかに地価の値上がりが太鼓判!とか言われても、地震が一発来たら終わりだったり。アテになりそうで、これほどアテにならないものはない。バブル期だって土地税制ひとつで右往左往してたし、そんなことやってる間に全ては泡になって消えたし。
それはそれでしょうがないんだけど、テクニカルで失敗しても、あんまり教訓がないんですよね。ほんとパチンコでスっただけみたいに。これが価値観系の失敗だったら、いくらでも学ぶことはあります。傷つくこともあるけど、学ぶものは多い。宇宙飛行士になるんだ、レーサーになるんだ、起業するんだってやって失敗するとしても(まあ、99%失敗するけど)、それでいいのだ。好きでやったことは、その全ての過程が血肉になるから別に何も失われていない。
そりゃあ夢が叶わなかったという挫折感は強いし、全ては無駄という気になるかもしれないけど、そんなこたあないよ。それは僕が保証します。ま、僕に保証されてもうれしくないだろうけどさ。でも、僕は夢が叶った/叶わなかったの両方を体験してますもん。司法試験やって弁護士になりましたと、その弁護士をやめてオーストラリアに居ますという両方をやってるもん。そういう経験をした人は珍しいだろうから、伝えるべき義務みたいなものがあると思うのでよく書くのですが、受験中にやってたクソ努力のあんなこと、こんなことは、今でもしっかり生きてます。弁護士時代中にも生きているし、オーストラリア時代にも生きています。すごいゼネラルに血肉になるから、表面的に何をやるかってことは、あんまり関係ないです。
我を通して、好きなことをやったという体験は全部残ります。具体的にどこがどう残ったというのも全部言えます。あと数百行くらいかかるけど。一つだけ例をあげれば、受験の長期戦のストレスとメンタル管理技術は、オーストラリアにやってきてこれで生計が立つまでの無収入期間数年間を維持するのにどれだけ役に立ったか。てかストレスもクソも、「また、あれをやればいいんだろ?」てなもんで「簡単じゃん」「やり方知ってるし絶対出来る」って思えたもん。
獲得系は「攻め」だから強いです。それだけに難しいけど、でも強い。攻めというのは、失敗しても元々だから、失うものが少ない。戦国武将の誰だったかな「常に敵領内に踏み込んで戦う」という、負けても別に帰ればいいだけだから失わない。でも、回避=守りは、負けたら自国領が浸蝕されるからキツいんですよね。
だもんで、テクニカルに走るのも考え物です。テクニカルな面というのは、それはそれで必要だし、重要だし、決して軽視すべきではないですよ。でも、それもこれも大方針が決まった後、それを現実に落とし込んでいく段階でなすべきであり、大方針が決まってもおらず、また考えてすらいないのに、あるいは考えるのを面倒臭がってテクニカルで誤魔化すのは良くないと思うのです。
以上、みじめ回避も不幸回避も、それはそれで必要なことだと思います。それは否定しません。大事なことだと。しかし、その恐怖心や切迫感と同じだけの感情テンション×思考ボリュームで、どうなると気持ちいいのか、どうなるとハッピーになれるのかを考え、行動していないならば、やっぱ獲得系が甘い!って気がします。そして、これが甘いと投資効率が悪くなるから、いくら頑張ってお金を稼いでもザルで水汲んでるようなトホホな話になりがちだと思います。
文責:田村