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今週の1枚(2013/03/11)



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Essay 609:マックジョブの時代

「仕事でもなければやってられない」という麻酔的効用

 写真は、Surryhills。
 偶然撮ったスナップ写真だけど、アビー・ロード風なのが面白いので。

マックジョブの時代


 日本に限らず、先進国では、従来のような仕事(いわゆる正社員的な)が減り、誰でも出来るような手間仕事、つまりはマックジョブといわれる、マクドナルドのバイトみたいな仕事がメインになっていくと言われています。

 これは過去に何度も書いてますし、日本でもイヤイヤながらも現実を直視せねばという風潮に、やがてはなっていくと思われます。まだまだ非直視派(直視したくない派)が大勢を占めているので、その発現形態としては、「リストラがキツくなる」とか、「就活がいっそう厳しくなる」とか、政府の対応も「出来るだけ正社員として雇うように」とか、そういった角度から論じられるでしょう。例えば、最近のAERAという雑誌(2013年3月4日号)の巻頭特集は「会社に追い出されない〜社内失業460万人時代のリストラ最新手口」だったりします。

 しかし、それらは経済的物的な問題を企業のモラルの問題にすり替えているとも言えなくもないです。確かに企業の「いびり出し」の手口は陰湿なイジメとして批判すべきかも知れないけど、問題は、なぜ企業がそんなことをするのか?です。それは「性格が悪いから」ではない筈で、「儲けるため」「生き残るため」でしょう。そういう構造がまずある。

 つまりは、日本の正社員の既得権化状況そのものが現状に適合しなくなっており、その歪みが、回りまわってイジメ&リストラという形になって噴出しているに過ぎないと思われます。座席の数そのものが物理的に減少しているのであれば、その乏しい席をめぐってアグリーな出来事が起るのはどうしようもなく、そのアグリーさやインモラルさを問いただしても、あんまり本質的ではないでしょう。でもその種の非本質的な論議が目立つ気がして、それが「非直視的」のように僕には感じられるのでした。

 なぜ職が減るのかについては詳しく繰り返しません。今は世界ひっくるめて単一市場みたいになりつつある現在から将来にかけて、それに最適に対応し、もっとも効率よくお金を稼ぐ最新型資本主義メソッドがそれを要求するからでしょう。「その方が稼げるから」です。これは工場などの製造業の現場仕事が空洞化するだけではなく、ある程度デジタル処理×分離可能なジョブであれば、より安くてより質の良いところに仕事が流れるようになります。データ入力やプラグラミングのみならず、従来は安泰と言われていた建築士や会計士などの専門職でも、それが分離可能でパターン処理可能だったらアウトソーシングするし、現にしている。オーストラリアのフリーランサーコムなど、過去に二回紹介しました。

 もう一つはちょっと前にも書いたけど機械化です。オートメーションといえば古い話のようですが、リアルタイムでものすごい勢いで進行している。例えば、オーストラリアのスーパーマーケットは、コールズとウールワースという二大企業のガリバー寡占になってますが、インフレが続き、物価も順調に(?)上昇しているオーストラリアにおいて、これらのスーパーのモノの値段はガンガン下がっている。流通支配による生産者搾取とかいろいろ言われていますが、ちょっと前の経済記事によると、一番大きなものは自動レジ(客が自分でバーコードをピッとやって精算する)の普及による人件費削減だそうです。とかくコストカッティングをやろうと思えば、人を減らすのが一番早いし、現実的なのでしょう。つまりコスト面でいえば、人間が一番邪魔なんだろう。

 そして巨大資本主義が席巻し、規模が大きくなればなるほど、個人的な職人芸の世界は衰退し、誰がやっても同じように出来るパターン化処理をするようになるし、統一マニュアルで統一受け答えをさせるようにする。マニュアル通りに愛想笑いをして、マニュアル通りの言葉遣いでやるんだったら、「人間」がやる必要すらないですもんね。人間ならではの当意即妙の即興性や融通をきかせることを禁じている(許したら大量処理できなくなる)のだから、優秀なロボットが出てきたり、より便利なシステム(全てをオンラインで決済)が出てきたら、それらにとって食われるのは理の当然。

 かくして残った仕事は、「ロボットにやらせる方が設備投資などコストがかさむような仕事」です。それがいわゆる「マック・ジョブ(McJob)」ですね。これは日本語版Wikiよりも英語版の方がまだ詳しく、英語版WikiのMcJobによると、定義は「McJob is slang for a low-paying, low-prestige dead end job that requires few skills and offers very little chance of intracompany advancement.(Merriam-Webster's Online Dictionaryによる)」とされています。訳せば、「マックジョブとは、低給与で、社会的なステイタスも低いデッドエンド・ジョブ(後述)な仕事であり、殆どスキルを要求されず、社内における昇進のチャンスが殆ど無い仕事」です。デッドエンド・ジョブ(Dead-end Job)というのは”a job in which there is little or no chance of progressing and succeeding into a higher paid position”(進歩する可能性や、より高給のポジションに昇格する見込みがゼロないし殆ど無い仕事)とされています。言うならば高校生のバイトみたいなもので、やっててあんまり面白くないし将来性もない。

 そして、多分残る仕事は、@最高レベルでの意思決定を司る中枢部分の超エリート、A投資などの資本家層、B人間がやらないと意味がない仕事(これが多種多様なのだが)、C「人間ならではの技」が求められる専門技術者層、そしてD高校生バイトレベルのマックジョブ、Eその他(これもNPOとか多種多様なのだが)くらいに分類されていくんじゃないかなって思います。もちろんカッチリと分類整理されるわけでもなく、マックジョブ的でありつつも人間業も含むという中間形態も多いでしょう。

 でも、そのどれでもない「サラリーマン」「正社員」というゼネラルな職種は、今後減ることはあっても増える可能性は少ないでしょう。「正社員」というのは幕末までの「武士」、敗戦するまでの「軍人」みたいな存在だと思います。栄枯盛衰は世の習いで、別段珍しいことでも何でもない。

 その是非や可否はここでは論じません。ここで書きたいのは、「その次」です。
 そういう前提にたった場合、ベーシックな部分が変わるので、僕らのモノの考え方も変えないといけない。新しい状況に対応し、適合していかねばならない。それは「人生観の全て」といっても過言ではないくらい多岐にわたりますが、ここでは「仕事」、それも仕事のある要素のみ焦点を絞って述べます。

「仕事だから」の効用

 温泉には効用があると言われます。やれウマチに効くとか、血行を促進するとか。
 同じように、仕事には色々な「効用」があると思います。

 すぐに思いつく効用は、「お金が稼げる」ということです。それはそうです。しかし、それだけではない。というか、いろいう考えてみると別にそんなに最大の効用なのか?って気もします。「そう思いこませて励ませる」という絶妙なメカはあると思うけど、本当にそれが第一効用かというと疑問アリです。

 では、他にどんな効用があるかというと、社会に出ていろいろと視野が広がるとか、専門技術を身につけることで自信がつくとか、社会に対して自己表現が出来るとか、これもいろいろあるでしょう。

仕事のもつ麻酔作用、ストレス耐性増強作用

 ただ、ここでは、あまり語られていない効用、「麻酔作用」「ストレス耐性増強作用」「人間力増強作用」について考えてみたいと思います。

 「仕事でもなきゃ、やっとられん!」という言い方があります。
 完全に自由意志だったら絶対にやらないようことでも、それが「仕事」と名が付いたらやってしまうという。ものすごくイヤなんだけど、仕事だったらやってしまう。ということで、仕事には、「イヤさ」を緩和する、イヤとかいってもしょうがないからそう思わなくなる(麻酔)作用があるような気がします。

 世の中には本当に色々な仕事があります。なかには、「これは絶対に趣味ではやらんだろう」というものも多いです。

 例えば、警察の鑑識課の人達のご苦労なんか本当に頭が下がるというか、大変な仕事だと思います。交通事故現場では、地べたに這いつくばってミリ単位の塗料の破片を発見し、それから車種年式を判断してひき逃げ車を見つけたりします。しかし、「今ここで落とした」と落下場所がかなり特定できる筈のコンタクトレンズでさえ、一回落としたらもう絶望的な気分になることもあります。それを半径100メートルくらい、しかも天候に関わりなく、土砂降りだろうが台風が来ようが探すわけです。指紋の採取なんて一口に言いますが、普通の大掃除だけでヒーヒー言ってる僕らからしたら、一体どれだけ根気のいる作業なのか。

 さらに、土中から腐乱死体が発見されましたとか、水死体があがりましたとかいったら、僕も仕事で実況見分調書や解剖所見とかを見たことがありますが、ホラー映画なんてもんじゃないです。見るだけでも「うわあ」と思うのに、彼らはその現場にいき、とてつもない臭気のなんか、死体を検分し、運び出すわけです。腐乱死体にたかってるウジ虫の生態(幼虫の段階がある)で死後何日か推定し、水死体だったら肺や内臓にびっしりくっついているフナムシで決める。あれ一つづつピンセットで採取するですよ。もうどんだけ大変か。真冬の氷点下でも、被疑者の自供の裏付けをとるために、東京湾に捨てた凶器を探すためにダイビングし、多摩川を川浚いするわけです。

 ほんと、こんなの趣味でやる人はいないでしょう。まさに「仕事でもなきゃ絶対できない」ことでしょう。

 もっとダイレクトに、「危ないことをするのが仕事」ってのも多いです。警察官の場合、たとえ新米の派出所勤務であろうが、やれどこそこの飲み屋で喧嘩があったとなったら駆けつけないとならない。相手がプロレスラーだろうが、日本刀を振り回しているシャブ中であろうが、立ち向かい、取り押さえないとならない。ヘタに拳銃なんか使ったらあとが大変だし。刑事さんもそうです。カッコよさげなSPだって、言ってみれば「楯になって身代わりに殺されるのが仕事」みたいなものですからね。消防士さんもそうだし、自衛隊の災害救助、さらには軍人や武士なんか「死ぬのが仕事」です。

 そんな特殊な例だけではなく、普通のサラリーマンでも普通のこの種の話はあります。クレームを付けている暴力団事務所に一人で出かけていって話を聞いてくるとか、そんなことは保険会社の会社員だったら日常業務でしょう(カミさんも20代の頃、返品クレーム処理でやったらしいが)。大企業の総務部だったらこの種の「おつきあい」はもっと日常茶飯事。不良債権化した抵当物件を調査にいった銀行員は、現場を占拠している恐そうなお兄さん達にガラスの破片を上から投げつけられる。

 そこまでドラマチックではなくても、取引先を怒らせたら、菓子折もって侘びにいき、場合によっては土下座ですよね。面罵されようが、唾吐きかけられようが、塩まかれようが、番犬けしかけられようが、そんなことではメゲずに今日も行くいく。

「仕事だ」というだけでスイッチが入る

 しかし、なんで、それが「仕事」だというだけで、人間そこまで出来てしまうのか?
 興味があるのはその点です。

 やっぱ、それが「仕事」だということになると、ガラリとフォーマットが変わるのだと思います。無責任に、あるいは無邪気に「恐〜い」「イヤだ〜」とか言ってられない、問答無用で「やるしかない」という世界になると、何かのスイッチがカチリと入る。言うならば「プロの精神構造」になるのでしょう。

 好きだとか、イヤだとか個人的な所感をノベてられるのは、それはアマチュアの世界だからでしょう。プロの世界は、好きも嫌いもない。ただ、それが必要であるか/ないかそれだけであり、必要な仕事はカンペキにやり遂げてこそプロであり、不可抗力ですら責任をひっかぶる。仮に完璧に出来なかったとしても、およそ人間がなしうる最高水準を行ったことを事後に厳しく検証される。

 すごい厳しいし、一切の甘えは許されない。だからやる側としても甘えがなくなり、意識の焦点は、それが辛いとかイヤだという好悪の問題ではなく、「いかにしてタスクを完遂するか」に切り替わる。ミッション・インポッシブルの世界です。

 そこで出てくるのは、可能な限りの事前リサーチと想定、そして可能な限りの準備です。戦場の兵士の訓練がそうであるように、まず徹底的に体力を鍛え、格闘術を学び、銃器火器爆発物の取り扱いを学び、あらゆる戦場を想定したケーススタディを行い、反復して身体に叩き込む。それはもう殆ど「忍者の修行」のようなものです。絶対にやらねばならないとすれば、やっぱ超真剣に研究するし、対策も練りまくります。ギア(装備、道具)も完全プロ仕様の、業務用のものを使う。場合によっては一機で億単位の高級装備ですら使う。

 これは日常のどんな仕事でも、サラリーマンでも同じでしょう。医者はあらゆる症例、あらゆる患者に精通していることを要求されるし、教師はあらゆるタイプの生徒(とその親)のパターンに精通対応できなければならないし、営業マンはあらゆるタイプの取引先に、ショップの店員さんだってあらゆるタイプの顧客に精通している必要がある。上級職になればなるほど想定範囲が広がる。店員からマネージャーになったら、単に「めんどくさい酔客の対応」というスキルだけではなく、保健所の査察がはいったときにどう対応するか、部下が売上金を横領したらどうするかなども職務の範囲になる。

 つまりは、超本気でタスクに取り組むようになるわけです。そこには「しんどい」とか「イヤだ」という心情要素はカウントされません。戦場の兵士が、立ち上がって「皆、争いはやめて話し合おう!」とか叫んでも、立ち上がった瞬間に蜂の巣にされるだけです。「もうこんなのヤダ」と塹壕のなかで震えていても、塹壕ごと爆破されてしまい、骨も残らない。つまり、イヤとかいうようなことは、何の問題の解決にもならない。言うだけ、考えるだけ時間の無駄であり、時間の無駄は場合によっては生死にかかわる。

 

意思力ではなく環境

 ここまでの徹底した「仕事モード」というのは、単なる精神力や、「気持ちの切り替え」だけではそうならないと思います。よほど精神力や意志力の強い人ならいざ知らず、普通の人にここまで極端な精神構造の切り替えは出来ないのではないか。

 では何がそれをさせているのか?それは多分、環境がそうさせるのだと思います。
 人間(生物)の本質の一つは環境適応力であり、「そういう場(環境)」に入ったら、そこで最もふさわしい行動パターンと精神パターンになるのでしょう。これは、もう「自然にそうなる」のだと思う。戦場に出れば戦場の、殺人現場にいけば現場の、海に出れば海に、店頭に立てば店頭の、法廷にたてば法廷の「その場の雰囲気」というのがあります。イヤとかそんな個人感情が何の意味も持たない、張り詰めたような厳しい現実世界があり、その環境こそが人をして自然とスイッチを切り替えさせるのでしょう。

 そして、これが仕事の「効用」ではないかと思うのです。
 人間の能力をフルに発揮させる、そういう世界を作るためのお膳立て機能、環境機能です。

結果としての人間力増強

 その結果、そこで働く人はどうなるか?というと、とりあえずは死ぬような思いをしますね(^_^)。とんでもない世界に叩き込まれて、「うひょ〜」という思いをする。が、それもすぐに慣れる。慣れてくるとどうなるか?というと、ものすごいものを学ぶわけです。

 やっぱり大の大人が一心不乱、全身全霊に何かに打ち込んでる世界やそのレベルというのは、それはそれはハンパなものではないですよ。シャーロック・ホームズさながらに、髪の毛一本のような僅かな手がかりから鋭く全体像を見抜く力、「そこまで考えなきゃいけないのか」とのけぞるような用意周到さ、どんなことにも対応策というのはあるのだという自由奔放なアイデアや発想、そしてそれを無理やり実現させてしまう強烈な実行力、ものすごい世界が展開されています。

 だからこそ、マンガや小説などに仕事系の題材が使われるわけですよね。料理マンガにしても、あれらが面白いのも本職の板前さんやシェフの世界がそれだけの広がりと奥行きをもっているからでしょう。洋の東西を問わず刑事物がTV番組の定番になるのも、やっぱり現実の職務世界がそれだけの内実をもっているからでしょう。法廷ものなどもそうです。まあ、実務を経験した身としては、あんなに御都合主義にドラマチックに展開することはまずないし、ファンタジーだなとは思うのだけど、その代り実際の世界には「ドラマに出来ない」ようなヘンテコなことも幾らでも転がっています。

 これって、「イヤだったらやめればいい」という趣味の世界では、なかなかそこまで出来ない。趣味でも病膏肓に入った真にマニアだったら、そこまでやるかもしれないけど、普通はやらない。殺されるかもしれないとか、人生終るかも、死ぬほど恨まれるかもというリスクを負ってまではやらない。でも、仕事だったらやる。

 結果として、一皮剥けた別次元の世界にいけるわけです。
 通常、その世界にまで達するためには、人並み外れた克己心や努力で精進に精進を重ねないとそこまでいけない。強力なストレス耐性と、「やりたくない」という感情麻酔がないとできない。仕事は、巧まずしてそれがある。

 これがストレス耐性増強、感情の麻酔、そして結果として修行が進み、やることやってると自然と人間力が増強するという、これらがひっくるめて仕事の「効用」になるのだということです。

だからお金だけではない

 と同時に、強力なやり甲斐もあります。そりゃあ、日常的にはブツブツ文句は言いますよ。「安月給でコキ使いやがって」とか、「すまじきものは宮仕え」とか、「やってらんねえよ!」と赤提灯でブチ切れたりするのですけど、でも、辞めない。辞める人もいるけど、辞めない人の方が多い。なぜか?単に優柔不断なだけではなく、やっぱりそれなりに面白いからだと思います。教師なんか、看護士なんか、文句ばっか言われて、場合によっては恨まれて、100%成功して当たり前で、0.1%でもミスがあったら鬼の首を取ったかのようにギャンギャン言われて、それでいて給与はスズメの涙で「やってられませんよ!」というのだけど、でもやってる。やっぱり、生徒との心の通い合い、患者さんとの触れあいとか、捨てがたいものがあるのでしょう。そんなもん全然ねーよって人もいるだろうけど、「いやあ、そういうときは、ほんと、やってて良かったと思いますよ」って瞬間はあるでしょう。そう頻繁にはないけど、たまーにある。ふと気づくと空に虹がかかってるような確率で、たまにはある。そして虹を見つけたときのようなうれしさもある。だからやるのでしょう。

 それは給料が出なかったらやらないだろうし、「誰が!」って感じだろうけど、でもお金だけの問題ではない。多くの場合は生活が立ち行かなくなるという恐怖心もあって仕事をするのだろうけど、でもお金だけの問題ではない。これはキレイゴトや理想論として言っているのではなく、ゴリゴリの現実論として言っているのです。

 仕事に関する皆の不満をランダムに集計し、不満の内容をその不満度の大きさや深刻さの順に並べていけば、「給与が低い」という不満が圧倒的にぶっち切りに第一位か?というと、そんなこと無いと思う。多くの不満は職場環境や仕事の体制に関するものでしょう。上司の理不尽、部下の無能、社内で派閥があるとか人事考課が不適切であるという人的環境が一つ。そもそも仕事内容に意味がないとか、ダンドリやシステムが無駄が多くてアホらしいとか、裁量の余地があまりにも乏しく創意工夫を発揮する場がないとか、マンネリ化してダラけてる雰囲気がガマンできないとか、本当の意味で社会の役に立ってない、それどころかほとんど詐欺の片棒担がされてるようなものだとか、会社を将来を展望するビジョンがないとか、その種のものが多いと思います。僕の知る限りではそうです。これは、いわゆる高校バイトのマックジョブよりも、より専門技術的、より正社員的なポジションに就けばつくほど、非給与的な不満が強くなると思う。違いますか。

 とにかく楽して金さえゲットすれば、あとはどうでもいいんだって具合には思わない。金さえ入ればいいんだったら、極端な話、絶対バレない犯罪を考えたり、非合法すれすれのことをやれば実入りは大きい。でもそんな風には考えない。

 したがって、給与とか報酬という金銭面は、それがないと仕事にならないという意味では骨格部分ではあるのだろうけど、実際の場合、それは単なる導入部であって、いざその世界にはいってしまったら、その世界の文律に沿ってやり甲斐なりなんなりを糧にするのではないかと思います。

マックジョブの世界での対応

マックジョブの弊害〜「動く歩道」の消滅

 マックジョブそれ自体がそんなに悪いとは思いませんし、カッコ悪いことだとも僕は思わない。そういう職種がメインになれば、それはそれで普遍的なものになっていくでしょう。武士の世の中のときに、算盤片手の商人という存在は、どちらかといえば賤しいもので、蔑まれたものですが、資本主義の世の中になれば商人(ビジネスマン)こそがエリートみたいになる。マックジョブがメインになっていけば、そういう具合に感覚も変わるでしょう。

 ただ、マックジョブにはマックジョブの限界があります。
 それは、上に述べたような「プロ世界の愉悦」みたいなものが少ないことです。また、その愉悦世界に到達するための「動く歩道」みたいな通路がないことです。

 多くの仕事、素人からすればとんでもない広がりを持つ業界世界をもつ仕事に従事している人々は、最初からそれが分かってその仕事に就いたわけではないでしょう。勿論入念なリサーチをし、体験を積み、それで志したって人もいるでしょうけど、多くはメルヘンみたいないい加減なイメージを勝手に胸に描いてやったりするのだと思います。そして、実際に現場に出たら、あまりのイメージギャップにガーンと打ちのめされるというのが、まあ、定番でしょう。

 それか、ほとんど何も考えてないというパターンも多いでしょう。半分以上はそれじゃないかな。単に就職口がそこしかなかったとか、叔父さんの紹介だからとか、たまたま歩いてたら「船が出るぞ〜」と言ってるから乗ってみましたみたいな、いい加減といえばこんないい加減なことはない、動機らしきものも殆どないようなことで、その仕事をやってますってケースも多いでしょう。今は人間国宝みたいになって、職人芸の神様みたいに言われている人達だって、遡れば別にその世界を志望したわけでもなんでもない。田舎から集団就職の列車に乗って、上野駅について、あとは勝手に「はい、キミはこっち」と仕分けされ、あたかもホームステイに連れられるように親方のもとに引き合わされ、それから月日は流れて60年、、、てな感じだと思います。

 つまり確固たる意思も、希望も、展望も、ビジョンもなーんもなく、「なんとなく」入ってしまえば、あとは仕事世界、現実世界がドンドン連れて行ってくれる。そりゃあ殴られるわ、怒鳴られるわ、小突かれるわ、シクシク泣くような日々もあるかもしれないけど、次から次へとやってくる日常をこなしていくうちに、気づいたら一人前と呼ばれるレベルに達してました、気づいたら親方になってました、気づいたら人間国宝だって、俺が?へえ〜!みたいなもんだと思います。

 これ、しんどいけど、楽なんですよ。
 なんせ仕事現場という、感情麻酔とストレス耐性増強剤という覚醒剤みたいなものをビシバシ打たれて、達人レベルの親方や兄弟子に憧れて、「やってりゃそのうち上手くなる」ですからね。

 これを、100%趣味の世界で、100%自由意思で世界で達成できるか?というと、難しい気もするのです。自分一人でやってるだけだったら、まず絶対に思いつかないような目標や、方法というのがあり、それを乗り越えていかないと本当の世界にはいけない。しかし、趣味的に満足してるだけなら、そんなレベルにいかなくたって、そこそこは楽しいわけです。そこそこ楽しかったらいいじゃないかというと、でもやっぱ「そこそこ」でしかないわけで、本物感がない。

 今後、マックジョブが普通になっていくにしたがって、仕事という「仙人への道」みたいなルートがどんどん減ってくるという重大なリスクもあると思います。これがちょい心配なんですよ。それは個々人の生活や人生観の浅薄化を招き、ストレス耐性の劣化を招き、精神健康を阻害するという個人的なリスクにつながりかねない。この因果関係を立証するのは難しいのだけど、やっぱあれこれ体験して、それなりの修羅場も踏んで、深いレベルで社会や他人を理解する機会を持たないと、今目の前で何が起きているのか正確に理解しにくいと思うのですよ。すぐにパニックになるし、短絡的に結論に走ったり、どうにも対応できずに精神崩壊を起こす。

 それら個人的な問題だけではなく、社会全体への影響もあります。
 人々の人生の深度が浅くなっていくと、要するに「本物の大人」が減ってきて、やたら子供っぽい大人が増えてくるわけです。モンスターペアレンツみたいな。さらに結果として社会そのものがガキっぽくなる。ガキに難しい大人世界のマネージなんか無理だから、場当たり的に甘い方、楽な方に進むだけだったりする。そんなことやってれば、遅かれ早かれ破綻するのは自明の理であり、さらにとことん堕落してたら破壊したあとの再生もできない。

対策その1〜自覚的に人生の部活をする

 仕事はバイトに毛が生えた程度のものであったとしても、それに代るものとしての自分なりの世界を見いだすことでしょう。それもハンパではないレベルで。言うならば警視庁捜査一課のバリバリの刑事レベルでの真剣度とレベルの高さで。

 これを自覚的にやるのは難しいと上に書いたばかりですが、本気で自覚的になれば、不可能ではないと思います。無自覚のまま、いわゆる趣味やアマチュア的な「ほとほどでいい」という甘さに寄りかかるのではなく、仕事に大きな期待ができないならば、仕事以上に自分の柱になるものという感じで。

 これ、だけど、そんなに難しくないです。
 中高時代に部活に励んできた人なら、お馴染みの感覚でしょう?

 学生時代は、クラスでのお勉強=やれ出席したり、宿題やったり、修学旅行に行ったりという「つきあい」なんかが「仕事」に相当するわけで、一番精力を傾けるのは部活。野球だろうが、サッカーだろうが、卓球だろうが、漫研だろうが、軽音だろうが、部活じゃないけど暴走族だろうが、コスプレだろうが、ゲームだろうが、将棋だろうが、、、何かに没頭していた人にとっては、勉強は世間体と生計維持(親に追い出されないため(^_^))にやることであり、本番は他の世界にあった。それと同じ事ですわ。慣れっこでしょ。

 それにマックジョブというのは、ロースキルで奥行きがない分、責任も軽いし、まかり間違っても命がけでやるようなことも少ないです。お金は少ないかも知れないけど、時間や労力を拘束される度合も低い。わりと可処分時間や可処分エネルギーがあるので、やりやすいと思います。これが捜査一課のデカかなんかになったら、もうプライベートライフなんか無いも同じですからね。

 そして自覚的になるというのは、そこまで趣味にハマったとしても、それを恥ずかしがったり、無駄なことだと思ったりする必要はなく、逆に、本チャンの仕事で学べないことをここで学ぶのだ、それは可能なのだと思うことでしょう。それが「自覚的」という意味です。

 まあ、周囲の目との戦いもあるでしょう。「ろくに仕事もせんと、ワケのわからないマンガばっかり描いて」とか白い目で見られることもあるでしょう。でも、その「白い目」も修行の一環です。だって、仕事してたらその種の世間の逆風に晒されることはよくあることですわ。現場で被害補償のために出向かされている東電の若手社員さんなんか、白い目の一斉砲火を受けて針のムシロだろうと思うし。世間からバッシングを受けるのも、仕事の一環ですわね。世間がつねに神のような明智明察をもって常に正しい判断をするわけでもないし、それどころか連戦連敗というくらい間違ってるし。ということは言われなく、理不尽にバッシングされている人は今日も沢山いるわけです。そんなもんにビビってどうする、負けてどうする?です。

対策その2〜茶道的に深める

 マックジョブをマックジョブ以上のものにすること。

 これは日本人だけに限って使える技だと思いますが、高校生バイトのようなマックジョブ、ロースキルの象徴のようなマックジョブであっても、やり方次第、取り組み方次第で、ロースキルどころか超絶ハイスキル仕事にすることは可能です。

 どんな仕事にも創意工夫の余地はあるし、新しい地平を切り開くことは可能だし、無限に広がっていくことは可能です。ファーストフードやファミレスの接客だって、お客さんのタイプや好みを瞬時に把握し、臨機応変になにか付加したり、融通をきかせる余地はあるでしょう。マニュアルでガチガチで縛られているとしてもゼロではない。それに店のやり方にしたって、飾り付けにしたって、掃除にしたって、やるべきこと、改善すべきポイントは山のようにある。

 そんなクソみたいな仕事でそこまでムキになれるかよ?って思うかもしれないし、確かにそういう現場もあるでしょう。でも、考えてみて欲しいのだが、日本人ってそれが得意で、それが好きでしょう?

 例えば茶道。あんなの、ただズルズルと「お茶を飲む」というだけの日常生活の一動作に過ぎないです。要は関西弁でいう「茶シバいてる」だけです。それを、お茶の素材に凝り、入れ方に凝り、茶器に凝り、建造物に凝り、和菓子に凝り、挙措動作の美しさ、ひいては「袱紗のたたみ方」に至るまで最高水準の美意識を結晶させ、さらには「主と客」という人間関係を極限までシンプルにし、「人と人との関係はいかにあるべきか」という哲学的な問い掛けと実践すらも行うという。

 「茶を飲む」という行為に全宇宙の真理を押し込むような無茶苦茶な求道性がそこにはある。求道性でいえば、なんでも「道」ですからね。最初は単なる技やスキル=「術」だったのが、哲学的に深い考察を織り込むことで「道」にする。生け花だって、「お花がきれいだな」という素朴な美的快感から出発し、それを手折って花瓶にさしているわけですが、あれを「活ける」と表現し、さらには天・地・人の全宇宙を見立てる。自然そのものの生命力と美を表現するために、非自然である技巧の限りを尽す。絶対矛盾の自己同一みたいな深い作業なわけでしょ。だからこそ華道と呼ばれる。武道だって、もともとは単なる「人殺しの技術体系」でしかないのだけど、剣道なり柔道なり、道になってしまう。

 ズルズル茶を啜る行為に全宇宙を押し込めるんだったら、マクドナルドのカウンターの接客に全宇宙を押し込むことだって可能ですわ。だからそれはやり方一つだと思います。そもそも、大体簡単な仕事を「つまらん」とか、「恥ずかしい」と思うこと自体がその表れ(複雑で奥の深いことをやりたい、そういう方向に持っていきたい)でしょうに。

 比較文化論でいえば、何から何までよく似ている日韓でも、ここは違うと思います。韓国では、だれもが両班出身と自称し、身体を使って働く肉体労働や職人世界をやや軽んずるところがあると言われます。ちょい貴族趣味なのですね。でも、日本では、額に汗して働くこと、その汗臭い部分に価値を見いだし、また職人芸を「匠(たくみ)」として尊重する精神傾向がある。庶民性を尊ぶ。前者の「汗」「実直な生き方」そのものに無限の価値を見いだすのは、オーストラリア人の属性に近いです。開拓民魂から来ると思われる"Fair Dinkum""True Blue""dinki di"というオーストラリアの人に対する最上級の誉め言葉。一方、芸術レベルの職人芸に対するレスペクトは、ドイツのクラフトマンシップに通じる。

 そもそもマックジョブがマックジョブたる所以は、欧米式の(特に米国式の)経営メソッドと人的資源に対する見方があるのだと思います。ずっと前に「性賢説と性愚説」で長々描いたように、西欧社会では人は、特に労働者というのは馬鹿なものだという大前提で話が始まる。だからどんな馬鹿がやっても外さないようにマニュアルやシステムが発達する。しかし日本では人はだれでも名人上手になれるのだという大前提でやるから、人間に対する要求水準が高いし、またそれをやり遂げた人ややり遂げようとする努力を賞賛する傾向があります。

 思うに、マックジョブ的な働かせ方というのは、本来の日本人には向いてないんじゃないかな。人的資源の活用方法としてはちょっと違うんじゃないかと。仕事が楽ちんであったり、簡単であること「だけ」に価値を見いだし、ラッキーと思ってそれ以上何も考えない、、、という具合には日本人は出来てない。中途半端で完成度の低い仕事をさせられるとストレスを感じる。自分の仕事に対して、なんらかの「納得」を求めたがる。いいじゃん、別に、金が入れば、、とは、あーんまり思わない。

その他雑感

 残り少ないので(紙幅も時間も)駆け足でいきますが、もう一点重要なのは、本当に正社員が名実共に正社員の名に値するほど充実しまくっているのか?論です。マックジョブが「誰にでもできるクソみたいな仕事」だというならば、正社員のサラリーマンがリアルにやってる仕事だって似たように「クソみたい」だったりもするのですよ。

 だからマックジョブだから詰まらなくてダメ、正社員だったら全てやり甲斐に満ちている、、なんてのは幻想であって、実際にはマダラ模様というか、ケースバイケースでしょう。

 それにさ、朝から晩まで同じようなことやって、「はーあ!」と溜息をついている人、じゃああなたはどんな仕事がスリリングで充実していると思うのか?高級資格を持っているといい?本当かな?医者だって、リアルに見ていけばどうかな?臨床医だったら、診療時間には同じ決まった椅子に座って、相変らず「どうしました」と問い掛けをし、聴診器を当て、まあ大体が風邪ですわね。決まった手順で検査をやって、決まりきった投薬処置をして、でもって患者の半数以上はヒマツブシのように来ている老人だったりして。「朝から晩まで」というのは同じ。もう工場の倉庫でダンボール詰めてる方がまだしもバリエーションに富んでいる。大学病院とか研究医になったら、江戸時代の殿様のような教授先生の下で茶坊主のように「奉公」し、しかも昨今は就職口も少なくなって、「このままいっても昇進や展望の可能性が低い」という意味ではデッドエンドジョブと言えなくもないのだ。

 前半で書いていることをひっくり返しているようだけど、そうじゃなくて、要は感じ方の問題でしょう。今の目の前にあるもの、自分のやってることを、「同じ事の繰り返し」としか思わないのであれば、そしてその繰り返しを「クソ」としか思わないのであれば、どんな仕事もクソなのだ。てか、生きてること自体がこの種のリフレインの反復作業(歯磨きにせよ、通勤にせよ、ひいては結婚生活にせよ)だから、クソなのだ。そんなこと思ったら何もかもが同じになってしまう。そして、なにもかもが同じになるような規準は既に規準としては機能していない。目盛りのついていないモノサシ、針のついてないハカリみたいなもので、一番クソなのは、そんなクソみたいな規準を振り回して溜息ついてる自分だろ?ってことです。

 だからどんなものでも広げられるし、深くしていける。その喜びはあるし、人的資源の活用をいうなら、その傾向を最大限に生かすのが、よりよい経営なのだろうと思います。

 まあ、そうはいっても、マックジョブは起伏や展開に乏しいので、人生の部活みたいな領域を自覚的に切り開く必要はあるでしょう。ほんでも、勉強は勉強で真面目にやったら楽しいぜよってことですね。

 サラリーマンが昔の武士みたいにいずれは消滅するとしても、サラリーマンの本質みたいな部分は消滅しないと思います。むしろ拡散する。それは、武士階級が消滅しても、武士の本質といわれるような部分、例えば武士道的な部分であったり、生死を超えて価値観に殉ずる部分であったり、名を惜しんで潔い部分であったり、それらは「魂」的なものとして残っています。どうかすると、それまでは武士階級の独占物だったものが、一般開放されて、日本国民の共有の精神文化資産になった。どう考えても百姓町人だろって僕らであっても、サムライ・スピリッツでなりきったり、酔ったりすることができる。

 それに幕末時代の正統派「武士」、つまりは由緒正しい徳川家の譜代の旗本八万騎やら、各藩の譜代の名家連中は、悪い意味でのサラリーマン化していて、およそ「武士」とは名ばかりで、保身に汲汲とする存在でしかなかった。例外は福島県くらいです。会津藩ですね。幕末から明治にかけて時代を動かしていた武士階級というのは、実際には武士ではなく百姓の出身だったり、武士は武士でも下級階層であるか、あるいは外様であった。そもそも薩長自体が100%「負け組」藩であったし。

 だもんで時代の変遷期には、正統派が既に内実を失い、非正統派がむしろその実質を受け継ぐという妙な現象も起きます。正統派である正社員サラリーマンが、往年の実質を失い、保身に汲汲とし、先輩諸氏がやってきたような命がけでのチャレンジをしなくなる反面、非正社員・非サラリーマンが、「正社員的なる仕事」に対する憧憬によって、より実質的に頑張っているという、名ばかりの有名企業よりも、そのへんの生きのいいNPOあたりの方がよっぽどハイレベルでチャレンジングな活動をしているということもあるでしょう。

 そのあたりは面白いところですよね。



文責:田村



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