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今週の1枚(2013/02/11)



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Essay 605:「ジーザス・クライスト・スーパースター」(1973年の映画)


 場所は、Old Cantebury Rd沿いにあるYeo Park。芝生が広がっている公園はオーストラリアに幾らでもありますが、ここのも結構な広がりがあります。いつも車で通りすぎるだけなのですが、先日、夕陽がきれいだったので気まぐれで降りてみました。位置的にはDulwich Hillかな、Summer Hillかな?と思いきや、サバーブとしてはAshfieldになるようです。駅から結構あるけど。

 ことあるごとに書いてますが、こちらの陽射しの強さと芝生はよく合い、特に傾斜角度の強い朝と夕方は、キラキラして眼を開けてられないくらいです。夕方は、スポーツクレイジーなオージー達(オーストラリアに来るとアジア人も中東人もそうなるけど)が、せっせとジョギングやウォーキングをしています。確かに歩いてて気持ちいいんですよね。サマータイムの夕暮れ時は絶好です。

2015年05月注記:久しぶりに見直したら、動画リンクのほとんどが死んでたので更新しました。ただし本文中にも書きましたが、「UMG君に仁義を切れ=著作権を持ってるユニバーサルにお金が入るようにYouTube本家で見ろ」と言われているのが多いので、ご面倒でもそちらを。ただし、なぜかUMG君の監視の目をくぐって生き残ってる動画もあったりするんですよね〜。
 将来的にどうせまたリンクが切れると思われますが、YouTubeなどで"Jesus christ Superstar 1970,"に加えて各動画の特徴的な言葉(last supperとか)を入れたら、まず見つかると思います。

13歳での出会い

 「ジーザス・クライスト・スーパースター」という映画が1973年に公開されました。当時13-4歳の中学生だった僕はこれにハマりました。今回のその話です。

 なんでハマったのかというと、東京のド下町に転校した僕が、たまたま親しくなったクラスメート達から教え込まれたのですね。宮本君とか小林君とか(元気かなあ)。
 未だ江戸気風が濃厚で、"you"に相当する日本語はデフォルトで「てめえ」であり、デフォルトで体罰なんか日常風景(だからやり方も上手だったけど)、頭髪も囚人のように丸刈りにさせられていた”昔ながら”の中学校でした。
 そんなガッコの、一休さんみたいな坊主頭の中坊が、どういう経路で、このキリストの最後の一週間を描いた全編英語のロックオペラという新ジャンルの映画を知っていたのか?知るだけではなくファンになり、それも単なるファンではなく、休憩時間に「ここがイイんだよ」と映画のある一節を英語歌詞のままいくつも歌って聞かせてくれるくらい濃密に知悉していたのか?

 「なんで、こんなもん知ってるの?」というのは当時でも疑問でしたが、今思うともっと謎です。こんなの中坊が見る映画じゃないよ。だいたい当時の13歳の情報源なんか微々たるもので、ジャンプとかマガジンなどの漫画系雑誌とか、プレイボーイや平凡パンチというエロ雑誌(合法的に入手できるエロの限界だったが、それとて中坊にはハードル高すぎ)、ラジオの深夜放送とか、あとは大人が読む雑誌を背伸びして読むくらいでした。ネットないし、携帯ないし。いったいどういうアンテナ感度をもってたのか?という。

 「持つべきものは友達だよなあ」ってことでしょうね。結局、今も昔も最強の情報源はクチコミであり、「本当によく知っている人」から教えてもらうのが一番です。ネットなぞで幾ら調べても生活も人生も変わらない。しかしこの知人が半可通だったり、偏ってたりしたら、いわゆる「馬鹿が感染(うつ)る」という最悪の事態を招くので両刃の剣なのですが、だからこそ、いかに良質の友達を得るか、ですよね。それで殆ど人生が決まる。

 それはさておき、さっそく友達からサントラ版をダビングしてもらい、歌詞カードを借りました。でもって、今からは信じられないだろうけど、全部、手書きで書き写しました。ノート一冊まるまるくらい使った。だってコピーが無いんだもん、当時は。死ぬほど繰り返して聞いて、読んでたから、殆ど全部覚えたし、完璧ではないけど半分くらいは歌詞覚えたんじゃないかな。ほんでもって再上映か名画座だったかで、また彼らと見に行って、今度は映像を見て(この時点で初めて映像を見た)感動して。

 そんな個人的な話をなんでここで書くかといえば、@映画そのもののクオリティが高いので紹介する価値があること、A「なるほど、学ぶというのはこういうことだったのね」と今更ながら思いしらされたこと、です。

「ジーザス・クライスト・スーパースター」について

 もともとはブロードウェイのミュージカルです。1971年初演。大当たりし、世界中で公演され、その後も今日にいたるまで公演されつづける「定番」の一つになっているようです。日本でも、かなり早い時期から劇団四季が手がけていますし、直近では去年(2012年)の暮れまで東京・自由劇場でやってました。

 でも、僕が見聞したのは73年に公開された映画版です(2000年にも新たに映画版が作られたそうです)。

 まあ、このあたりの一般情報はネットで調べたら幾らでも出てくるでしょうし、僕も一般的にそれほど知るものではないのでカットします。テーマはあくまで「中坊時代の思い出(がどれだけ破壊的に凄いのか)」ですから。

あらすじと時代背景、人間模様

 一応あらすじだけでも書いておくと、(伝えられているところの)キリストの最後の1週間を描いたものです。本当に一週間でこんなにテキパキ物事が動いたのかはよく分からないのですが、解説では「最後の一週間」になってます。

 キリストの最後は、誰でも知ってるようにゴルゴダの丘で十字架に掛けられて刑死するのですが、それにいたるプロセスですね。かつてキリスト教シリーズでも書きましたが、キリストの活動期間というのは非常に短く、わずか3年間でしかないです。彼は普遍的な神の愛を唱えたとされていますが、それが熱狂的に民衆に支持され、そして民衆に裏切られて処刑された。なんで支持されたのかといえば、(僕が思うに)彼が普遍的なことを言えばいうほど現状批判と世俗権力の否定につながったからでしょう。当時のユダヤ民衆の支配者であったユダヤ司祭権力層とその上に立つローマ帝国への鋭い批判。キリストは、それらへの反逆者、革命家、カリスマヒーロー、そして「救世主」として偶像視されていく。

 でも、ジーザス(以下「キリスト」という偶像よりも一人の青年という人間的側面を強調する意味で英語的にジーザスといいます)が言っていたのは、世俗の権力を倒すとかそんなケチなレベルではなく、もっと普遍的な神の(人の)道であり、心豊かに正しく生きようよってことなんでしょう。でも、ジーザスが幾ら口を酸っぱくしてそれを言っても、本質的には全〜然誰も聞いてない。全てが別の文脈で捉えられてしまう。「だから〜!そ−ゆーことじゃなくって!」「てめーら、ひとの話を聞け!」っていう脱力的すれ違いが続く。

 一方弟子の中でもクレバーなユダはそのへんが見えていた。そしてこのままいけば権力者に目を漬けられ、叩きつぶされてしまうのは時間の問題であり、あんな”熱狂的”で手前勝手な民衆に説くなんてことは止めるべき、どうせ分かるわけないんだし、誤解されるだけだし、その誤解が身の危険を高めるだけだしってヤキモキしまくってる。でも、ジーザスは聞く耳持たず。ジーザスを誰よりも強く想うがあまり、フラストレーションを募らせるユダ。この二人の愛と葛藤物語があります。

 一方、人気急上昇のジーザスに対して危機感を持つユダヤ司祭層は、危険分子としてジーザスを排除しようとします。このあたり政治力学としては当然の反応でしょう。司祭長のカヤパはそのあたり最もクールに見極めています。でも当時ユダヤ国は、ユダヤ権力とローマ権力の二重構造になっているから、結局はローマが動かないとなにも出来ない。ローマ帝国から派遣されてきたのがピラト提督。ピラトとしては、そのあたりの地元ユダヤのローカルのゴタゴタにはあんまり関わりたくないし、別にそれほど脅威的にも思えないからジーザスを救おうとする。大体「罪」といえるほどの罪を犯しているわけでもないし、罪状も「ジーザスが勝手に王を名乗った」という程度。でも、民衆の要求と、自ら進んで刑を受けたがっているかのようなジーザス自身に押し切られるように、39回の鞭打ちのあと、磔刑を言い渡す。

 一方ジーザス先生はといえば、かなり寂しい立場に追い込まれています。支配層に疎まれるのは覚悟の上としても、熱狂的な民衆は全然わかってくれないし、弟子達もわかってるようで分かってないし、「最後の晩餐」に出てくるのですがピーター(ペテロ)は三度も「ジーザスなんか知らん」といって後で裏切るし、ユダも裏切るし、結局自分がやってることを理解してくれる人は一人もいない。それでも神の普遍的愛として、皆に語り続ける。その意味で、マグダラのマリアが一個の人間としてジーザスのことを想っているので、恋愛的要素が入っていつつも、人間としての普遍性を持っており、ジーザスとしてはマリアが一つの救いになっている。一方ユダは、ジーザスの右腕と呼ばれるほどの高弟で、頭も良くて状況がよく見えている。しかし見えているだけで、それをさらに越えたところの神の使命みたいなものがわかってない。ユダがなまじ賢いだけに、ジーザス君としてはそのクレバーさが逆に疎ましく感じるという。

 ジーザス氏にとっては本当のテーマである「神の意向」なのですが、これがジーザス本人にもよく分からない。伝えるべき普遍的な愛とか、慈しみとか、人としての正しさとかそういうことは分かるんだけど、やりかたが急進的すぎて、みすみす破滅させようとしか思えない。このままいけば自分は間違いなく殺されるという晩、「ゲッセマネの園」で、ジーザス君は神に対してブチ切れます。「ええ加減にせんかい!われ、なに考えとるんじゃ!?」という。このゲッセマネの血を吐くような叫びは、今映画を見直した方がよくわかります。あとでもう少し書き足します。

 とりあえずこんなもんで、サウンドがどうとか、このシーンがどうとかいうのは、以下個別のシーン事に紹介します。

13歳かそこらの中坊がこんなもん見て意味あんの論?〜学ぶことの意味

 意味、めちゃくちゃありました。今から思えば途方もないくらい巨大なものを得てました。今にならないと分からないのが玉に瑕なんだけど。

英語学習面

   正確に覚えてないけど、これにハマってたのは、中1の三学期に転校してから中二の中頃、中三の頃はもう違ってたと思うから13-14歳であり、中学英語のカリキュラムでいえば、過去形とか三単現とかやるけど、現在完了とか受動態とかまでやってたかな、どうかな?ってレベルです。生まれて初めて英語を学校でやらされて1年かそこら。そんな段階で、歌とはいえ2時間ぶっとーしの英語だらけのものなんかやって役に立つのか?という。

 近視眼的には全く役にたってないと思います。点取り技術にはつながらない。
 でも、長い目で見ると、すっごい役に立ったと思う。理屈もクソもない段階でほんまもんの英語をぶつけられ、しかも「浸りきる」くらいに接し、ちゃんとその意味するところも考えてると、強引に「身体で分かってくる・染みこんでくる」ものがあります。これが後々大きかったと思います。

 個別にも書くと思いますが、この映画、けっこう平易な英語で、今だったら全部聞き取れるだろうと思ったら意外と手こずりました。わからんところはほんとに分からん。「オムニプレゼント(神の遍在)」なんて単語、今回歌詞を調べて「はあ、そう言ってたのか」と新たに知った次第。だから手加減抜き、容赦ナシの本物の英語ですし、それなりに格調も高いし、日常会話として使える部分も相当に豊富です。だから「教材」としては良いのですね。

 何がどう役に立ったか、その経路は不明なんだけど、例えばリズム感。動画がついに見つからなかった"What's the buzz?Tell me what's happening"なんかも、「ぅわっつぁばず?てぇみわっつぁぷにん」を早いテンポでの4拍、特に後半の"tell me what's happening"を2拍で歌わないといけないから、イヤが応でも口(舌)が廻るように練習するし、「こんな感じで言う」というのが理屈抜きに叩き込まれる。よく「歌で覚えろ」とかいいますが、確かに一定の合理性あります。発音センスもよくなるし。

 あと、感情と英語表現がシンクロするというのも今から思えばよかったです。こういう気持ちになったときにこういう言い方をするという。人間というは理性だけで言語を使うのではなく、感情によっても使う。怒ってるときの英語、悲しんでるときの英語、困ってるときの英語、ボキャや表現が感情別にわかってくる。

 まあ、細かく見ていけば幾らでもあるのだけど、得たものは巨大だったんだなって、30年後に、てか自分が英語が出来るようになってから「あの頃の蓄積のおかげだ」というのが分かるようになります。

キリスト教文化と「考えさせられる」こと

 平均的に凡庸な日本人のガキンチョだった僕は、キリストとかいってもクリスマスの「マッチ売りの少女」的なイメージで終ってました。だから、キリスト教文化のマストアイテムである、最後の晩餐も、ヘロデ王も、ユダの裏切りも、ゲッセマネも、ピラトの裁判と鞭打ちも、全部この映画で知りました。

 もっとも、正統的なキリスト教、ユダヤ教の理解からしたら異端というか、サブカルもいいところで、かなり"歪んだ"イメージから先に入るというマイナスはあるかもしれない。素朴に「イエス様」の信仰を高めるという具合にはなりにくい。実際、この公演や映画では、多くの宗教関係の激しいデモや攻撃に晒されたそうです。「こんなの見ちゃったら素直になりにくい」という点は確かにある。

 だけど、この映画のいいところは、別に「真実はこうだから、こう思え」という押しつけ臭さは少なく、「こうも考えられるよね」という知的触発部分が大きい点です。「考えさせらる」という点。今回改めて見直して、すごく考えさせられました。中坊の頃には考えなかったことも沢山考える。例えば、結局一番ダメなのは”民衆”と呼ばれて常に「弱者的正当性」を主張し、それにアグラをかいている人々の知的怠慢とか依存性じゃないのか?とか。楽してイイトコロに連れてってくれそうな人には熱狂的に支持し、カリスマ視するけど、そうでないと分かったら手の平返したように奈落の底に突き落とす”普通”の人々。その「普通さ」が一番ダメなんだよ、という。

 最後の「突き落とす」部分なんかほんのオマケで、中核部分は、自分らが祭り上げている偶像の本当の主張に全然耳を傾けないことだと思う。この映画でも繰り返し出てきますが、人間ジーザスの虚しさと脱力感。民衆というのは=人間というのは、自分が聞きたいと思うことしか聞かない。そのすれ違いがガン細胞にように徐々に本人を蝕んでいくのでしょう。ちょっと飛躍するけど、思えば尾崎豊も、もしかしたらhideも、こうやって"殺された"のかもしれない。「頑張るのは俺じゃねえよ、お前だろ?」って言ってるんだけど、「私達のために頑張って」「いいところに連れてって〜」と言われたら、それも数万数十万人の大津波のような規模で、24時間×数年間も間断なく攻められたら、人間の精神は破壊されるでしょう。言っても言っても通じない、というのは言語に絶する恐怖だと思う。実際ファンの90%以上はちゃんと理解してるのでしょうが、数%はそうではない。でもそのレシピーは当人からは分からない。あたかも皆がそうであるかように感じてしまうかもしれない。また村上春樹の「1Q84」の中で、寓話として、とある国の王は、最後は国民によってむごたらしくリンチで殺されるのが習わしになっており、それが素晴らしい王であればあるほどむごたらしく殺される、その殺されることこそが王の誇りであると。それは寓話として「なるほど」と思いましたね。

 ---てなことを考えてしまうのですよ。宗教というのは、知情意のうちに、情、ココロとか魂の成分が多いのだけど、この映画は知の部分を励起させてしまう。キリスト教的には、刑死した後、リザレクション(復活)があり、キリストが人間の原罪を全てその身で贖って、神と人間とを結ぶ幸福なハイウェイがここに開通しましたってレトリックになるのだろうけど、この映画は殺されてそんで終わり。「あれはなんだったの?」「犬死なの?」って気分にもなる。

 映画の最後、テーマ曲ともいうべき「スーパースター」で、自殺したユダが天から舞い降りてきて、キリストに問いかける。結局、お前はなんだったんだ?何がしたかったんだ?と。わからない、知りたい、と。でもそれはジーザス本人の疑問でもあり、結局、神は自分に何をさせたかったんだ?と。"god works in mysterious way"っていうけど、神様が考えてることが分からない。この「わからん!」という素朴で、しかし強烈な感覚こそがこの映画のテーマなのかもしれません。

 しかし、わからんながらも、何かしら強烈なインパクトがあったのでしょう。でないと2000年後になっても、未だにこうやって語られるわけがない。それは確かに、たまたまの偶然であるとか、過去のエッセイでも紹介したように300年の初期流浪時代に鍛えられまくったキリスト教のパブリシティ技術の秀逸さ(電通みたいな広告の巧みさ)なのかもしれない。それで全てが説明できちゃうのかもしれない。でも出来ないかもしれない。偶然とか広告とかいう要素を取り払っても、尚も数%の「なにか」があり、このキリストの物語は人間の深層心理の原感性にどっかしら訴えるものがあるのではないか。だとしたら、それは何か?それは「神のご意志」が何であるか論でもあります。神は、キリストを通じて、人間の愚かさを示し、「救世主」を期待する依存性の愚かさを戒めているのか、或いはここまでトホホに愚劣な人間社会において尚もキリストのような存在がありうるという実例を示して希望を示唆しているのか?

 ということで、また考えてしまうのですよ。もうラッキョの皮剥きのような果てしない思考になっていきます。

シーン各論


 以下、映画の各シーンがYouTubeに殆どアップされているので(全部ではないが)、「いい時代になったものだ」と片端からあげておきます。もっとも、伏線やら説明的なシーンは排除します。キリストがただ磔に処せられているだけのシーンとか、歌詞もないし、特に書くこともないので割愛。それでも以下の全てを合算すれば全体の4分の3くらいはカバーするでしょう。

 歌詞については歌詞のデーターベースサイト、例えば
  St Lyrics
  Song Lyrics
  Metero Lyrics
 などで全曲の歌詞がゲットできます。
 いくつか画面に歌詞を書込んでくれている動画があったので、それは優先的に載せました(二つくらいしかないけど)。
 全編歌詞と対訳を書こうかと思ったのですが、そこまでするとtoo muchな感じがするので、それは止めておきます。「ここぞ」という数本だけそれをやるに留めます。


 あと、動画を再生しようとすると「UMGさんが制限してるからダメよ」という表示が出ると思います。つまりYouTubeまでいかないと再生できない(クリックすれば別タブが開いてYouTubeのものが再生されます)。で、この「UMGさん」って誰よ?と思ったら、ユニバーサルムービー社です。ちょっと昔の記事ですが「ユーチューブ、メディア企業3社とコンテンツ契約を締結 CNET News 2006年10月10日」によると、作品の著作権を持つ大手映画配給会社とYouTubeで取り決めがあり、「アップロードしてもいいけど、その代りその分の広告収入については分け前を渡す」ということで「話がついた」ようです。だから彼らの収入につながる「広告が表示されるサイト(つまりはYouTube本家)」でしか再生させてもらえないという。ケチ!とか思うけど、でも、現実的な落し所としてはまずは妥当なところかと。

 しかし、再生できちゃうものもあったりするのですね。まあ、そこまで完璧にチェック出来るわけもないのでしょう。同じ内容だったら、再生できるものから優先してここに載せておきましたが、これとていつまで続くかわかりません。もし「UMGさん」表示が出たら、そっちで見てくださいませ。

ゲッセマネの園   神に対してブチ切れるジーザス君の血の叫び


 前後の文脈を無視して、この映画のクライマックスの一つを先に掲げておきます。
 さきに述べた、「なぜキリストは死なねばならなかったのか?」「キリスト本人はどう思ってたのか」という問い掛けに直に関連するからです。

 またテッド・ニーリーの独唱、特に2分58秒以降の高音ボーカルの絶唱は、パフォーマンス的にも圧倒的で、もっとも見る価値があると(僕は)思います。

 数年の苦労が、民衆とのすれ違いによって徒労感になり、疲れ果て、さらに意味も納得できないまま神に「死ね」と言われる人間ジーザスの苦悩は、中坊の頃はよく分からなかったんだけど、今なら多少は分かる気がします。そりゃあ泣きたくもなるよなと。「なぜ?」部分については全然教えてくれない神に対して、ジーザスが途中でブチ切れて「おーわかったよ!死んでやらあ!死ねばいんだろ、死ねば!」と啖呵を切るような、歌舞伎の見得を切るような、あるいはヤクザ映画まがいというか、その感情の高揚表現が凄い。

 この「キリスト本人は自分の運命に全然納得していなかった」という見解は、斬新というか、普通のキリスト教的世界においては異端もいいところでしょう。これが中世だったら映画関係者全員火あぶりでしょう。ここで紹介している僕も火あぶりだろうな。最初にこれを見ちゃったという洗脳効果もあるんだろうけど、でも、普通に考えて「なんで?」って思うよな。人間には普通の言葉で説教しても通じないってことなの?理不尽な死に自らをおいやり、その理不尽さを突きつけることによって、逆説的に証明説得しないとダメなわけ?(ダメなんだろうな)人類というのはそこまで馬鹿なの?(馬鹿なんだろうな)という。

 

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Overture 序曲

文化祭チックなところがカッコいい

 これは映画のオープニングシーン。いかにも70年代というバスに、いかにも70年代という「若者」(という言葉がこの時代には似合った)がぞろぞろと出てきて、撮影の準備を始めるという。ただそれだけのシーンなんだけど、妙にインパクトがあります。

 一つには、「え、こんなお手軽に撮っちゃうわけ?」「殆ど学芸会や文化祭じゃん」という部分です。当時の人々の衣装を忠実に再現、、なんか全然考えておらず、普通のスリムパンツ穿いてたり、衛兵は銃を構えてるし、あとで出てくるユダヤ司祭の会議は単に工事現場の足組だけで表現しちゃうし、ほんと記号的な表現で済ませて、「めっちゃくちゃ金かかってないな〜」という。当時もびっくりしたけど、100億規模で作られる映画製作に慣れた今の方がもっとびっくりする。そして、「こんなんでいいんだ」「それで十分感動できるんだ」というのにもっとびっくりする。

 なんか、大袈裟にいえば「表現ってなんなんだろう?」という原点を見せられたような感じがします。砂漠の遺跡みたいなところで、コスプレまがいの人々が歌って、踊って、それでも十分感動的だという。それでいてショボイ感じが全然しない、お金をかければいいってもんでもないな、お金がないからダメってもんでもないなという。このオープニングは、「こういう映画でっせ」と、しょっぱなにドーンとぶちかましてくれます。

 途中(03分03秒あたり)、曲調が変わって、これもいかにも70年代というビートのエレキギターが出てきます。それもディストーションがショボめのナチュラル・ファズ程度で、90年代以降の重低音志向もなんもないペンペラ音なんだけど、理屈の上ではいかにもダサそうなんだけど、でもカッコいいという。「こんな音でもカッコよく聞かせられるんだ」という意味で、上と似たような感覚を抱きます。この曲調とシンクロしている映像、それは単にバスの屋根からセットの木製十字架を皆で下ろすというだけなんだけど、やっぱ十字架って物体そのものにえもいわれぬ迫力があります。

 総じて言えば、この映画はツボを突くのが上手なのでしょう。

Heaven on Their Minds

ユダ君の正しすぎる警告〜ナザレでテーブルでも作ってりゃ良かったんだ

 序曲に続いて出てくるのが、ユダの独唱オープニングです。これが本編を貫く一つのテーマであり、破滅に向かうジーザスと、それに当惑し、警告し、しかし全然聞いて貰えないユダの悲しくも苛立たしい心情です。それが嵩じて、後日裏切りにまで至るのですが。

 ここで歌われているユダの警告は、組織運営と状況認識でいえば100%正しいでしょう。やたら神がかってきて、民衆は浮かれ騒いで、どんどんその声や影響力が高くなっていく。こんなことやってたら当局に目をつけられて叩きつぶされるのは目に見えている。だからトーンダウンしようぜ、という提案はまったく正しい。でも、ジーザス君全然聞かない。

 ここでユダ君の「なんでじゃあああ!」というフラストレーションになるわけです。そして、「昔のお前はそうじゃなかった」と言います。おそらくは地道に、人の生き方とか、愛の大切さとかそういうことを説いていただけなんだろうけど、段々神がかってきて、安易に救世主をもとめる無責任な大衆をひきつけはじめた。そんなの自殺行為だ、みすみす破滅に向かうだけだろ、なんでそれが分からないんだ!と。地元ナザレで地味にやってりゃ良かったんだよ、オヤジさんと同じように(父ヨセフは大工)、家具でも作ってりゃよかったんだよ、と。

 このユダ君の不満と疑問は当然でしょう。だって、上のゲッセマネでもわかるように、そもそもジーザス君本人が納得してない。神の手によってむりやり破滅に進まされていく、なんで神はそんなことすんの?なんで死ななきゃいけないの?と。本人がわかっていないことをユダ君が分かるわけもなく、またユダ君に説明できるわけもない。「いや、俺もおかしいな〜とは思ってんだけどさ」とか、キリストの立場では言えないでしょうしね。

 この動画は中に字幕が入っているので、読みやすいと思います。かなり平易な英語なのでわかりやすいでしょう。
 しかし、背景のイスラエル(撮影場所。死海とかそのあたり)の風景が凄いですね。

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I Don't Know How To Love Him

マリア姐さんの秀逸な普通のラブソング

 多少前後しますが、ユダ君と対比させるために、マグダラのマリアの心情(恋情)の独唱。言ってる内容は殆ど普通のラブソングで、内容が普遍的だから、この映画に出てくる曲の中では世間的に一番有名でしょう。いろいろなアーチストが取りあげて歌っています。一回くらいどっかで聴いたことあるかも。そのくらい有名な曲です。

 この歌詞はいいです。マグダラのマリアが過去娼婦であったとか諸説あるようですが、それも踏まえてか、うまく一般化していて、「酸いも甘いも噛み分けた、いつもクールなマリア姐さん」だった筈なのに、「あたし、どうしちゃったの?」「今はただもう恐い」という、恋に落ちたときの自分でも信じられない、どうしていいのかわからない心情が歌い上げられています。

 " I've had so many men before,In very many ways,He's just one more."(今までだって沢山の男と付き合ってきたわ、それも色々な形でね。彼(ジーザス)だってその一人に過ぎない(筈なのに)、"I never thought I'd come to this. What's it all about? "(まさか自分がこんなになってしまうなんて夢にも思わなかった、何なのこれ?)、" Don't you think it's rather funny, I should be in this position"(ここまで来たらいっそお笑いよね、もとの私にもどるべきじゃないの)、"I'm the one who's always been So calm, so cool, no lover's fool, Running every show. He scares me so."(私はいつだって落ち着き払って、とってもクールで、恋のために愚かになったことなんか無かった、いつだってショーを仕切っているのは私だったのに。今はもうただ彼が恐しい)”。もし好きだとか彼に言われたら、もう「対応できない!(I couldn't cope)」

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Everything's Alright

癒やしのマリアとユダ君のクソ正論

 このシーンは今見ると興味深いです。マリア達のただジーザスをケアしようという心情や行動が、どうにも快く思えないユダ君。たまりかねて口出しし、「おい、お前、こんな高価なオイルを使いやがって、300銀はするぞ、そんな金があったら貧しい人達を救えたかもしれないじゃないか。人々は餓えてるんだ」とクソ正論をブチ上げてしまうわけですね。

 これに対してジーザス君はユダに反論しますが、これが分かりにくい反論なんですね。思うに、「金がどうのとかケチくさいこと言ってるじゃないよ。もっと大事なものがあるだろう」「確かにオイルの分、我々のリソースは減ったかもしれないが、いつだって貧しい人はいるんだ、そんなオイル代くらいでは大した足しにならない。そうではなく我々は今何を持っているかを考えろ。私がまだいるうちに考えろ、動け。私が居なくなったら途方に暮れてしまうだろう」ということで、「もっと大事なことがある」論はそうかもしれないけど、だからといって無駄遣いしていいって理屈にはならない。だから有効な反論たり得ていないんじゃないかと。

 だからこれは理屈の問題ではなく感情の問題なんだろうな。ユダ君だって、金だけが問題で言ってるのではなく、取り巻きにチヤホヤされていい気になってるかのような、女達をはべらせてハーレム気分になってるかのようなジーザス君がたまらないんでしょう。そうはダイレクトに言えないから、お金の問題にひっかけて、もっとシリアスにやろうぜと言いたいんでしょう。でも、ジーザス君は、もっと大きな神の(よく分からない)意思のレベルで悩んでるわけで、そんな小さなレベルでの正しさや賢さに留まってるユダ君がうざったいんだと思います。それよりは、無心で行うマリア達の方がより人間的に、よりジーザスの言わんとするところに近い。ジーザス君はこの時期には自分の死を明確に予見してたと思われるので、そんな金を節約して、それでどうするんだ?もうすぐ俺は居なくなるんだぞ?という気分もあるのでしょう。

 この巨大で不可解な問題に悩む(神の破滅への意向)リーダーと、より小さなレベルでの正しさに固執する組織幹部という構図は、なんか、手塚治虫の「ブッダ」に出てくる、ブッダ VS ダイバダッタの構図を彷彿とさせます。リーダーはデカいレベルで悩んでるんだけど、「党の高級官僚」化する幹部は、愚かにも、正しくも、党運営の合理性とかそのレベルに囚われてしまう。ほんと、考えさせられるシーンです。中学の頃はそんなこと考えもしなかったけど。

 あと、この曲、リフが「癒しの呪文」になってます。"Everything's alright, yes"(全ては大丈夫よ!)というのは、マントラのように永遠に繰り返せますので、困ったときに口ずさむといいです(^_^)。そして"Close your eyes, close your eyes, and relax.Think of nothing tonight."(さあ、目を閉じて〜、リラックスして〜、もう何も考えないで)というリフ。

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Simon Zealotes-Poor Jerusalem

サイモンさんの動物的なパワー
 特筆すべきはシモン(英語的にはサイモン)さんの熱演です。親しみやすい風貌、ちょっと稲川淳二似というか、その名のとおり子門真人似というか。70年代初期にヒップでホップだったダンスは、今から見るとちょっと古典芸能的というか洗練されてない感じがするのだけど、熱いパワーがあります。これだけの熱演を気温40度以上の砂漠でやってるんだから、それだけでも驚異に値します。熱射病になるぞ。なんというか、すごい動物的なパワーがある。特にサイモン先生、「ほお、人間の口というのはこれほどまでに大きかったのか」と感動するくらいです。特に最後の「アーメン」の詠唱部分。

 文脈的には、これが純粋で、愚かで、困ったちゃんの「民衆」の姿なのでしょう。ジーザスの説く神の愛など全然興味がなくて、「これでローマの奴らをやっつけられるぞ」「これからはお前の天下だ」という、民主化運動というか、政治的権力闘争という側面でしか理解しようとしない。

 ジーザス先生の脱力感も極まれりということで、ヘナヘナ声で「ああ、誰も、なんにも分かってない、、、」という後半に続きます。ただしジーザス君もちゃんと説明していないんですよね。最後に「死を乗り越えるためには、ただ死ねばいいだけのことなのだ」という禅問答のような謎のつぶやきを残すだけだから、可哀想にサイモン君も「え?意味わかんないし」って顔になってしまうという。

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This Jesus Must Die

バリトンの魅力・カヤパさん

 このシーンは中学の頃から好きでした。
 なんといっても司祭長のカヤパさんがカッコいいです。クールな風貌に、あの重低音のバリトン。よく考えたら、ヘンテコな帽子を皆でかぶって、工事現場の足場でワイワイやってるんだから、ぶはは!と吹き出しても不思議ではないくらいファニーなんだけど、カヤパさんがクールだから、ファニーな帽子もクールに見える。

 内容的には、「権力者の弾圧会議の実況中継」です。権力者というのはこうやって弾圧するかどうかを決めるのですよというのが戯画的に描かれています。

 「あの馬鹿どもにも困ったことだ」「でもどんな罪状あるというのだ」とかチマチマしたレベルでほざく部下共に、クールなカヤパさんが切れて、「この馬鹿どもが!(fools!)」と一喝します。「お前ら全然見えてないぞ」と。やるんだったら徹底的にやらなきゃ意味ないんだよ、殺すしかないんだよと。

 いかにもオペラチックな掛け合いがリズミカルな曲に乗せて展開されます。
 "Must die, must die, this Jesus must die" というキャッチーなリフが耳にこびりつき、僕はこれで助動詞"must"を覚えました。

 もうイチイチ歌詞を引用するのが疲れてきたので(思った以上に大変でもう時間がない)、歌詞をごらん下さい。

 幾つか、面白そうな英文だけ書き抜いておきます。
 "Listen to that howling mob of blockheads in the street! A trick or two with lepers, and the whole town's on its feet."(往来のブロック頭(アホ)どものわめき声をお聞き下さい。ドラッグを使った小細工の一つや二つで町中がすっかりその気になってしまっている)。Leaperは「跳ぶ人」という意味もあるがアンフェタミン系のドラッグ(覚醒剤とか)。ここでの「トリック」は奇跡のことだと思われるが、それを敢えてトリック(小細工)と貶めているのでしょう。on its feetは僕もよく分からないのですが、自分の足で立つこと、立ち上がって何かをしようとするという意味でしょう。
 ”rabble rousing"(愚劣な大衆を煽り立てる) 、"What then to do about Jesus of Nazareth? Miracle wonderman, hero of fools"(じゃあナザレのイエスに何をすればいいんだ?奇跡の人、馬鹿どものヒーローに?)、"No riots, no army, no fighting, no slogans."(かといって、暴動もないし、軍隊も、喧嘩も、スローガンだってない)、”One thing I'll say for him -- Jesus is cool"(一つ言えるとしたら、ジーザスは実にクールな奴だ)。

 ここがカヤパさんの切れる最後の部分ですが、"Fools, you have no perception! The stake we are gambling are frighteningly high! We must crush him completely, So like John before him, this Jesus must die.For the sake of the nation, this Jesus must die."(馬鹿どもが!お前ら何にもわかっとらんわ。我々がやろうしている賭けは途方もなく高いんだぞ。奴は完璧に潰さないとならない。奴の先達であるヨハネ同様、このジーザスという男は死なねばならぬ。国家のために、奴は死なねばならぬのだ)


The Last Supper

最後の晩餐〜ジーザスとユダの決裂

 ダビンチの絵画で超有名な最後の晩餐ですが、最初は和気あいあいと平和に続きます。お約束通り、ジーザスは「このワインは私の血」などとしみじみモードで言っているのですが、途中で、はっと我に返り、「俺はなんちゅーアホなことを!」一転します。お前達が私のことを覚えているわけなんかない、ピーター(ペテロ)は3度も私のことを「知らない」と否定し、一人は私を裏切るんだと言いだしたから、先生の急変に弟子達が右往左往します。

 そこで、ついにユダも、「Cut the dramatics! (芝居がかった真似はやめてくれよ)」とキレてしまい、以下、二人の激論(てか罵倒の応酬)が続きます。歌的にはなかなか迫力あるボーカルバトルです。

 ここでユダは、"You sad, pathetic man, see where you've brought us to"(お前はもう哀れで、イカれた奴だ、見ろ、お前が俺らをどこに連れてきたのか)といったあとに、何度も"jaded mandarin"と連呼します。この意味がわかりにくい。マンダリンといえば「蜜柑」「北京官語」ですが、古代中国の高級官僚という意味もあり、且つ古代中国においては最も賢いものがその職に就く。一方、Jadeは「疲れた、衰えた」という意味で、あわせて「かつては賢かったものが、疲弊し衰えてしまった」という意味になり、ここでは、かつては"superstar"だったジーザスも、今ではすっかり衰えてしまったという主旨でしょう。これは英語世界でも疑問になってるらしく、検索したらいろいろ語られてました(参考にしたのはここ)。

 歌詞全文は、例えばココ参照

Arrest-Caiaphas-Peters Denial-Christ-Pilate

Arrest-Caiaphas-Peters Denial-Christ-Pilate

 いつの間にか動画が無くなっちゃったので探して二つ。
 最初の動画は、民衆が口々にジーザスに(嘲笑気味に)あれこれ質問を飛ばすシーンです。これは「手の平を返した民衆」の姿なんだけど、今よく見ると、マスコミのインタビューに酷似しているのですね。「今のお気持ちは?」とかいうやつ。これは製作者サイドとして意図的にそうしていると思うのですが、だとしたら、「救いがたく手前勝手な大衆」というのは現代社会ではマスコミなのかもしれないという気もします。

 もちろんマスコミだけではないし、マスメディアにも良質な部分はあるけど、たとえ救世主的にグレートな人物が出てきて、グレートなことをやろうとしても、その人物の真意など理解しようともせず、その発言を勝手に曲解して伝え、勝手に期待して持ち上げてリスク値を高め、権力者が潰しにかかると手の平返して&尻馬に乗ってバンバン叩く、その挙句結局世の中をよくしていこうという動きの全ての芽を摘んでしまう、、、うーん、なんかそのとおりって気もする。しませんか?

 その後、カヤパさんの所に連れられ「神の子を名乗った罪」を指弾され、ローマのピラト提督に送られる。その間に、ピーターが街角(なのかな)で「犯人一味」のように疑われたときに「あんな奴知らない」と予言通り否定するシーンがあります。

 で、昔から僕のフェバリットシーンである「ピラト提督」の章になります。このいかにもオペラチックというか歌劇的な(同じ事か)な音楽が好きで、「ふ〜、い〜〜ず、でぃす、ぶろーくん、まん?かとりーぬあっぷ、まい、ほーうぇー」とテンポゆっくり歌うのですぐに覚えちゃって、しかもメロディがけっこうカッコいいし、歌うとすぐに劇中の人物みたいに浸れるのでよく歌ってました。まさに芝居がかってるって感じで、それが醍醐味。"Who is this broken man, cluttering up my hallway? Who is this unfortunate?" (私の廊下に散らかっているこの壊れた者は誰か?この不運な者は?”という、殆ど人をゴミ扱いするという、超上から目線の発言も、ローマ帝国の威光をわざとらしいまでに示してます。でも、「あん、ふぉー、ちゅー、ねっと?」って歌いやすいんですよ。

 そういえば、「ほわっと?どぅー、ゆ、みーん、ばい、ざっと?」”What do you mean by that? ”(それどういう意味?)というのは日常でもよく使いますが、僕はここで覚えました。

 しかしこのピラト提督、いい味してます。地顔がちょっと悲しげで、でも口調はあくまで優しく、且つ生ぬる〜いサディスティックな感じで、yet(さらに)とてつもない傲慢さを覗かせつつも、裏にある人間的な誠実さが感じられたりして、めちゃくちゃ複雑なテイストを出していてイイです。

 ちなみにカットしたのだけど、「ピラトの夢」という章が伏線であって、ピラトさん予知夢を見るのですね。不思議な男に合い、群衆が彼に対して怒っており、そして次に何億という人々に自分が非難されている夢(事実そうなるのだが)。だから提督としては、「あ、夢の男だ」と思ったでしょうし、あんまり関わり合いたくないと思ったのでしょう。「お前はガラリアから来たからヘロデ王のケースだ」と、お役所的な管轄違い、たらい回しをするのでしょう。

 歌詞全文は、THE ARREST PETER'S DENIAL PILATE AND CHRIST

King Herods Song

たるんだ下腹が素敵すぎるファンキーなユダヤ王

 イイです、今見ると。
 当時は、「はあ?」って感じだったけど。

 めっちゃコミカルな、王の威厳もクソもないヘロデ王が歌って踊って、最後はぶち切れます。このテの人物って、アメリカのB級映画を見ると必ず一人は出てくるという、ある意味普遍的なキャラですよね。大橋巨泉的なルックスで、突き抜けてアホアホを演じるヘロデさんです。

 およそダンサーというイメージからは程遠い体躯でちょこまか踊るのですが、これがけっこうツボにはまってて、去年あたりから流行ってる韓国のPSYの元祖とも言えるでしょう。スタイル良ければいいってもんじゃないのね、という。また、取り巻きもよく見ればドラッグクィーン(女装ダンサー)が結構混じってたりして。

 最初の猫なで声から、途中から奇跡を見せてくれないジーザスに切れていくあたりが面白く、「こういう人、いるんだろうなあ」って気がします。あの〜、よく「海外で働く」ことに夢をもつ少年少女がいるのですが、いざ海外で働いたら自分の上司がヘロデ王みたいな奴だったというケースもあると思いますね。あの最初の方の猫撫で声が恐いですねえ。

 歌詞全文は、KING HEROD'S SONG

Trial Before Pilate & 39 Lashes


ピラトの裁判&39回の鞭打ち

 これは圧巻です。僕の好きなカパヤさんも(しかも赤の礼服?で)、ピラトさんも出てきます。
 前半部分は、ピラト提督のジーザスの問答のようでありながら、ピラトと群衆の問答になっていきます。この時点でピラトは裁判官というよりもジーザスの弁護人みたいなもので、「十字架に掛けろ!」「我等の王はシーザーのみ」と叫ぶ群衆に「彼は何にも悪いことしてないじゃないか?」という。

 ピラトの群衆への弾劾は胸がすくくらいで、"What is this new respect for Caesar? 'Till now this has been noticeably lacking."(なんだそれ?それは、シーザーに対する新しい崇拝のやりかたなのか?シーザーへの尊崇の念など、つい最近まで持ち合わせていなかったくせに!)、”You choose Messiahs by the sackfull.”「お前らは一山なんぼみたいなやり方で自分達の救世主を選ぶんかい?」、”You hypocrites,You hate us more than him.”「この偽善者どもが、お前らはジーザスよりも我等(ローマ)を憎んでいるんだろうが」、'I see no reason. I find no evil.This man is harmless, so why does he upset you? He's just misguided, thinks he's important,(処刑する理由がない、罪悪などなにもないではないか。この男は無害だ、なぜそんなにお前らは騒ぐのだ?彼は自分が重要人物であるかのように単にカンチガイしてるだけだ」とさんざん言います。

 しかし、群衆に押し切られる形で、”But to keep you vultures happy I shall flog him.”(お前らハゲタカ野郎どもを満足させてやるために、敢えて鞭打ちにすることにする)と、「折衷案」を出します。死刑はなんぼなんでもしたくないから、せめてということでしょう。

 39回(当時のユダヤの決まりとかで)の鞭打ちが行われ、数を数えるピラトさんも辛そうです。

 鞭打ちのあと、このままでは死ぬぞ、頼むから釈明してくれ、釈放できるように何か言ってくれと、殆ど懇願するようなピラト提督、"How can I help you?" とまで言うのですが、ジーザスは「あなたは私の運命など握ってはいない。それはもっと遠くからくるものなのだ」と答えるのみ。さらに強まる群衆の要求、もうここまでと観念したピラトは、泣き叫ぶように "Don't let me stop your great self-destruction. Die if you want to, you misguided martyr."(もういい、お前の自殺を押しとどめるのはもう止めだ、そんなに死にたいなら死ねばいい、このカンチガイの殉教者が)といい、" I wash my hands of your demolition.Die if you want to you innocent puppet!"(もうお前の自殺からは手を引くぞ、死にたければ勝手に死ね、このインノセントな操人形が)。”wash my hand"というのは、単に手を洗うという意味だけではなく、やりかけた物事から手を引くという意味です。

 歌詞全文はTRIAL BEFORE PILATE

Superstar

ソウルトレインな大団円

 さきに自殺した(そのシーンは抜いたけど)ユダが、純白のフリフリ衣装に包まれ、中空からクレーンにぶら下がって下りてくると言う、ドベタな演出で歌いまくる有名なチューン。メロディくらいは聴いたことあると思います。

 これはシメなのでさすがに訳しましたけど、難しい。
 ほんと、かーなり哲学的というか、考えさせられる内容です。

 なんでこんな時代、こんな辺境な地を選んだんだ?マスコミなんてものは紀元前4年のイスラエルにはありゃしないんだ。なのに何故?という問い掛けに続いて、ブッダはそこにいるのかい?マホメットが山を動かしたってのは本当かい?ジーザス、お前のメッシー(見苦しくて、意味のわからない)死に方は、彼らのように何かの効果があると思ってのことなのか?

 ユダは何を言っているのか?といえば、なぜキリストは死んだのか、それはどういう意味があったのか?ということで、キリストに対する疑問というよりも、キリストが神に対して抱いた疑問に連なっていくのでしょう。もし、神の意向(正しく愛のある生き方をする)を伝えたいのであれば、何もこんな昔の、それも砂漠や荒野でやらなくたっていいだろう?もっと効率的に広められる時代だってあっただろうに。それに何で死ぬのか、それもあんな無残な死に方をしなければならないのか。それはそれが理不尽でむごたらしいものであればあるほど、お話としてインパクトがあり、多大な「広告効果」を見込めるからなのか?

 その疑問は世界の三大宗教が、何で三大宗教たり得たのか?という疑問にもつながっていきます。不思議なんですよね。彼らの言ってることって、別にそうユニークなわけでもないです。煎じ詰めれば「正しく生きよ」というに尽きてしまい、言うならば誰でもいうようなこと、親が子供に説教するようなことでしかない。それなのに、なんであんなに多くの人が吸引され、何千年も人類に語り継がれているのか?それって、要するに教祖の「物語」が感動的だから?そのワン&オンリーのユニークさが、人を惹き付け、結果として教えを広めるているだけなのか?つまりはプロパガンダ合戦の勝者であるということだけなのか?

 だから、キリストはあんな時代に、あんな死に方をしたのか?それが神のプランなのか?確かにそのとおり物事が進んだ。でも割り切れないものも残る。本当にそうなの?と。

 だからユダは、そして僕らも、「わかんねーよ!」と頭を抱えているのでしょう。
 
 

→歌詞と(自家製)対訳を表示させる

Last

Last〜エピソード〜十字架という不思議な図形

 冒頭に対応して、撮影を終え、私服に着替えた皆がぞろぞろとバスに乗って帰るシーンです。良くできてるなと思ったのは、これが巧まずして俳優女優紹介になっていることです。

 音楽も感動的なのですが、一番感動的なのは、夕陽に沈む丘の上の十字架の図です。
 単に刷り込みや、連想でそう思うだけなのかわからんけど、あの図というのは「なにか」を感じさせる、なにやらシンとした厳粛な気持ちになる。なぜなんだろう?と。

 もし、これが本当に神が仕組んだことで、SFチックになるけど、人間の奥底に眠っている秘密のDNAスィッチみたいなものがあって、それがあの十字架図形を見るとオンになるように最初から作られていて、だからこそキリストはああいう死に方をしたのだという。荒唐無稽な話なんだけど、でも、この映像を見て自然に湧いてくるこの厳粛な気持ちってどっから来るのだろう?ちょっと不思議なんです。


 以上、あー疲れた。いつもの倍は書いた。
 こんなに長くするつもりはなかったんだけど、やってるうちにムキになってしまって。

 でもやって良かったです。なぜって「ああ、中学の時は全然分かってなかったな」というのがよく分かった。結構聞き込んだつもりだったけど、本質的なフレームが理解できてなかった。まあ13−4歳のガキですからね、そこまで分からんでも不思議ではない。しかし、同時に、そんなにワケもわからないくせに、よくも、まあ、あんなに熱中できたよなって感慨もあります。それは別に理解してなくても熱中は出来るのねということと、あのくらいの馬鹿パワーがあってこその学びなんだろうなと。そして何より、「こんな筈では」って自分で思うくらいムキになって動画や歌詞を調べたり訳したりしたのですが、その「ムキになる」という部分では13歳とあんまり変わってないなと思ったのでした。それは喜ぶべき事なのか、それとも進歩がないということなのか。


文責:田村



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