1. Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の1枚(2013/02/04)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 604:「結果として〜」


 写真は、Homubush、Parramatta Rd沿いにある打ち捨てられた建物。
 信号待ちをしてたら、独特の異様なオーラを感じて咄嗟に撮った一枚。とにかく雰囲気が異様で、この一角だけ中南米あたりのヤバそうな空気感がありました。

 「タダモノではない」「さぞや名のある」と思って調べてみたら、やっぱりそうで、ココとかココで紹介されていました。建立されたのは1925年。日本で大正デモクラシーとか山手線が出来て、ドイツでヒトラーが「我が闘争」を出版した年。しばらくはシネマとして稼働し、1959年にアイススケート場になり、1986年にシアターレストランになり、しかしその頃から既に廃れはじめ、Midnight Star Reception Centreという会場になり、やがて治外法権的なアクティビストの活動の場となり、2002年に警察の強制立ち退きがあり、その後荒廃したまま放置が10年続いているという。

 シドニー(特に西部)の幹線道路沿いというのは、ときおり異様にさびれています。このParramatta Rdにせよ、Princess HYWにせよ、「この店やってるの?」というシャッター街的な光景が散見されます。実はやってたり、意外と面白い穴場があったりするのだが、大通り沿いをバスで行くと寂寥感が募る風景がちょこちょこあります。

 しかし、一歩中に入ると緑豊かで閑静な住宅地だったりして、その落差が面白いです。右の写真も、上の写真から数百メートルほど離れているだけなんだけど、全然雰囲気が違うでしょう?

海外=禅寺論

 一人ぼっちで(あるいは恋人や家族と)、海外にポーンで出てくると、「英語が出来るようになるにはどうしたらいいか?」とか「永住権を取るためにはどうしたら良いか?」など、悩ましい問題に常に直面するようになります。別に海外に出てなくても、「幸福になるには?」「お金を稼ぐには?」「就職するには?」などなど「人生の宿題」のような悩ましい問題は常にあるわけですが、外に出てくると比較的これらがクリアに見える。てか、否応なく考えざるを得ないし、考え抜いたからこそ出てきているような部分もある。

 海外というのは日本人にとって、それ自体がひとつの「禅寺」みたいなものなのかもしれません。「師に問わん!○○とはなんぞや?」「○○のごとし!」てな感じ。

 その禅寺的な環境にいる身としては、口頭やメールで、その種の「大きなテーマ」〜ある意味では「アツい話」or「クサい話」をするようになります。

 そこでは、「マイマルチのチケットはどこで売っているか?」「安価なシーツはどこで手に入れるか」など、とても日常的でプラクティカルな技術から、「いかに生きるべきか?」という宇宙の彼方にぶっ飛んでいくような巨大なテーマまで一連のものとしてつながっています。

 考えてみれば前職の弁護士業務も似たようなものでした。
 まず一方で、非常に細かい実務的なテーマがあります。例えば「自己破産申請をするのに戸籍謄本は何通必要か?」「法廷に提出する証拠書面は甲(乙)○号証だが、写真は"検"甲○号証になる」「被告が一人である場合の予納郵券は○円切手×○枚の組み合わせにする」などミクロに実務的な話。しかし、その一方で、「罪とは何か」「離婚とはなにか」というデカい話が、普通に地続きにつながっています。似てます。巨大なマクロテーマを攻略するために、だから今ミクロ事務処理をやるのだという関係性。極小から極大まで「手段⇔目的」で数珠のようにつながっている。

 で、そんなことばっか、もう30年近くやってることになるのですが、最近、しみじみ思うのは、ある程度大きなテーマを攻略するためには、そのこと自体を目的にしてはならないのではないか?と。「ならない」ってほど強くはないけど「効率が悪い」気がします。目的に対して最短距離を進むのは、それ自体は良いのだけど、そもそもそれって最短距離なのか?別の言い方をすれば、ゴールまでの道筋が見えることと、それが最速・最短であることは実は全然違うのではないか?

 ではどうすれば最も効率良く、最速に達成できるのか?といえば、「結果として」○○が出来るようになることを心がけると良いのではないか?

 分かりにくいのでもうちょい言葉を足します。

例えば英語の上達方法

 例えば英語の上達ですが、僕らの母国語(日本語)のように上達出来れば万々歳なのですが、なかなかそうはいかない。もう死に物狂いで10年やったところで、そのレベルは水平線の彼方のニライカナイのようなマボロシだったりします。難しい。ほんと〜に難しい。

 しかし、ひるがえって考えるに、その母国語たる日本語を僕らはどうして身につけたのか?といえば、別に身につけようとして身につけているわけでもないのですね。そりゃ学校では日本語(国語、現代国語、古文漢文)の授業がありました。漢字練習帳で書き取りやって、作文書かされ、本を読まされた。でもそんな国語の授業だけで日本語が出来るようになっているわけではない。国語が100点の人と30点の人とでは、日常生活で100対30ほどの支障があるか?というと別にそういうわけでもない。

 ではどこで身につけているのか?というと、普通に日本で生まれて暮していたら自然に身についてしまった。これがいわゆる「結果として身についた」ということです。それ(日本語習得)を直接目的にしているわけでもないのに、やっていたら結果として出来るようになっている。

 英語も同じ事だろうと。
 結果として英語が出来るようになっている、という形にするにはどうしたら良いか?という具合に問題を捉え直す必要があるだろう。

強制的な「お勉強」の必要性

 もっとも、最初はガッコに通って強制的に叩き込まれるのが一番効率良いです。
 普通に暮してたら何となく出来るようになっていた、なんて甘いものではないし、母国語のように「普通に暮す」という環境がそもそも構築できない。母国語が圧倒的に強いのは、学ぶ最初の段階において「全く言語を知らない」というマッサラな状態でやるので、言語と頭の中の概念や感情とがダイレクトでコネクトされる。これは楽だし強いです。新品のパソコンにウィンドウズをインストールするようなものです。

 しかし、第二言語の場合は、すでにウィンドウズがインストールされている状況で、さらにMacOSをデュアルインストールするわけだから、至るところでコンフリクトが起きる。インストールする過程で、どうしても既に構築してある第一言語の言語情報処理システムを使おうとしてしまうから、なかなか第二インストールが進まない。日本語脳で考えてしまうクセが邪魔をして、英語脳が形成されないという話ですね。日本語でモノを考えるのを止める、日本語で考えて英語に翻訳するというルートを潰すというのは、口で言うのは簡単だけど、実践するのはなっかなか難しい。だから、第二言語で第一言語のような「普通に暮す」ということは脳味噌の構造上、ある意味では「不可能」だといってもいい。

 したがってある程度のところまでタグボートで引っ張っていくように、強制的&体系的に知識技術を無理やりインストールしてやる必要があります。それがいわゆる「お勉強」です。やれ過去形になると-edがつきますとか、不規則動詞がありますとかいうのは、知識として詰め込んだ方が早い。日常的に人々の言うことを耳で聞いて、「どうも昔話をするときには、"d"という発音をどっかに付け加えるらしいぞ」と一般法則として自力で発見するためには、いったいどれだけの時間がかかるか?数十年くらいかかるかもしれない。そんなことやってるんだったら、「過去形にはEDがつく」という一行知識を1分で学んだ方が遙かに〜もう1万倍くらい早い。知識で済むものはチャッチャと知識で済ませてしまった方が早いのだ。

 これは日本語だって同じことで、「学校で国語なんかやらなくなって生活や仕事をするのに支障はない」というのは大嘘でしょう。漢字なんか見ているだけでは書けるようにならない。「山」「川」くらいだったら見よう見まねですぐ覚えるだろうけど、普通に書けて当たり前のもの=「教育」「標準」なんて漢字、単に見てるだけだったら自力で再現できないでしょう。一旦腰を落ち着けて「ふむ、こうなっているのか」という構造分析をする時間がないと、なかなか覚えられないし、それは強制的にやらされないとならない。

 作文だって無理やり書かされて、一定時間内に一定水準のものを仕上げる訓練をしないと上達しない。そこをおろそかにしていると、友達同士でペチャクチャ喋ることはできても、就職の面接とかビジネス現場で「スピーキングが全然ダメ=話の要領が悪い、敬語がメチャクチャ)」「ライティングがダメ(小論文がかけない、品格のある手紙が書けない)」という話になります。つまりは「日本語がヘタ」ということになる。

 ということで、母国語であれ、第二言語であれ、強制的なお勉強はある程度は必要です。
 でも、こういった強制的なお勉強は、強制的にやらされれば良いのであって、そんなに悩む必要もないです。ツベコベ文句言ってないで「やりゃあいいんだ、やりゃあ」の世界ですから。

 絶対量を構築できない段階で技術もクソもないです。「しんぶん」という音感だけで、「新聞」ではなく「新分」なんて漢字書いてるようなレベルだったら、まず絶対量をこなせでしょう。このレベルでコケてたら話にならない、次に進めない。

 ここで余談ですが、野田秀樹氏のエッセイにこの種の音だけの歌詞のカンチガイが書いてありました。
 童謡「ふるさと」の「ウサギ追いし〜」を「ウサギが美味しい」という意味だと長いことカンチガイしてたり、「仰げば尊し」の「我が師の恩」を「和菓子の恩」だとずっと思いこんでたり、国歌「君が代」で「さざれ石の巌(いわお)となりて」を「”岩男”という強そうな名前の日本男児に成長する」という意味だと思いこんでたり。しかし、最後の「さざれ石の巌となる」って意味分かる日本人がどれだけいるのだろうか?”小石がくっついて礫岩になるほど途方もない長い時間”って意味なんだろうけど、知ってましたか?

 問題は、こういった強制的なお勉強体系だけでは足りないということです。
 骨格はできるけど肉付けが出来ない。TOEICで900点取れたけど現実は大して変わらない。ここで悩むのですね。

 そこで出てくるのが「結果として論」です。
 そこから先は、英語習得を目的にしてはダメなんだろうと思います。
 結果として英語が出来るようになっているライフスタイルを構築しないとダメだと。

 あ、ここで「ここから”先”」と書いてますが、これは単に次元が違うという意味であって、必ずしも時間的な先後関係があるわけではないです。時間的には、ABCの書き取りやってる超初歩段階から同時並行的に始めるべきだと思います。それは母国語で、学校で書き取りをやらされながらも、友達とサッカーやったり、喧嘩したり、お母さんに言い訳したりという日常生活で日本語を覚えるように、です。

英語環境ってなに?

 さて、ここで、ありがちな間違いは「英語環境を作れば良い」ということです。
 「日常的に英語に接する」というのは抽象論としては正しいんだけど、方法論としては粗雑に過ぎるからです。

 どういう英語環境に、どういう角度から接するのか?というレベルまで突き詰めて考えるべきだと思う。それは「健康になるには健康的な生活が必要だ」というように、めちゃくちゃ正しいんだけど、でも実践的には無内容、というのと似ている。

 「健康」と一口にいっても色々あるわけです。食生活から、睡眠方法、適度な運動まで。メンタル健康をも視野に入れれば、息抜きや余暇時間の過ごし方などなど。要するに「全部」です。そして食生活でも、「野菜をとれ」「そうか野菜か、おーし」で朝から晩までセロリばっかり食べてたら偏るし。寝りゃあいいってもんでもないし、過激なスポーツをやれば自動的に健康になるってもんでもない。要は、「常日頃から」という頻度の問題に加えて、「満遍なく」というバランスの問題でもある。

 これを英語環境に置き換えれば、似たようなパターンの英語ばっかり接していても偏るわけです。友達同士の、一秒に一回"f**kin'"が飛び出すようなコース・ランゲージ(粗野な言語、coarse language)も、カジュアル and/or 喧嘩場面にはある程度必要だから栄養分はあるんだけど、それだけだったら、「クソ○○」「超○○」とかいう日本語口語だけが突出して上手になるだけの話です。それじゃ困る(とりあえず就職できない)からこそ、その種のカジュアル英語だったら殆ど問題なく喋れるヨーロピアン学生が語学学校でポライト(礼儀正しく)でディーセント(品格のある)な英語を学ぶわけです。

 かといって大学進学などで堅苦しい論文や討議ばっかりやってると、言葉に「潤い」がなくなってくる。「焦眉の急」「喫緊の〜」とかいう表現は日常では使わない。「大急ぎで」でいう言い方やら、さらに名古屋弁チックに「超特急でやってちょ!」なんて言い方をある。いまどきそんな人居ないぞというかもしれないが、中高年層以上ではいるかもしれないし、少なくとも「キッキン」なんて日本語を日常使ってる人よりは数が多いでしょう。

 ほかにも子供の言い方、おばあちゃんの言い方、各民族の訛りによるバリエーションがあります。また、トピックによって、医療英語、犯罪や司法英語、金融英語、園芸英語、健康英語、不動産英語、キリスト教英語、料理英語、スポーツ英語、弔問儀礼英語、スピーチ英語、コメディ英語、歴史や時代劇英語、、、無限の奥行きがあります。これらを満遍なく、しかも日常的に接する必要がある。

 だから「日常的に接する」といっても「接し方」というものがある。

 自分で勉強するときは、例えば「新聞全部」というやり方をしたことがあります。もう一面トップから、あらゆる記事、評論のみならず、全ての広告、投稿、巻末の子供用マンガ、クロスワードパズル、訃報にいたるまで一字一句全部ベタ読みをするという。1週間以上かかるけど、ロードローラー的にあらゆる局面のあらゆる英語に接する。

 エクスチェンジなんかでも、いつも同じような話ばっかりしてないで、意識的に話題を散らす。学校とか仕事の話だけではなく、実家の庭にはどんな植物が植わってて、どういうケアをするのかとか。ガーデニング系のトピックをやるからこそ、「ソイル(土壌)がアシッド(酸性)になったときにニュートライズ(中和)するためにライム(石灰)を撒くんだ」と覚えられる。映画の「ライムライト」というのは「石灰光=石灰製の棒または球を酸水素炎にあてて生ずる強烈な白光)」の意味だというのもそのときに知った。

 しかし、そんな意図的な”勉強”ではなく、もっと自然に、結果として勉強になってしまうような生活が好ましい。
 それは何か?といえば、要するに「生活を充実させる」ことなのでしょう。やりたいことが沢山あって、好きな人が沢山いて、年柄年中接していて、あれこれやってたら自然と勉強になってしまうという。

 要は、可能な限り多様&大量な「場数」を踏むことです。
 そして場数を多様×大量にするためには、やっぱりそれが「楽しい」ということが重要な条件になると思います。いくら「良薬口に苦し」といっても、一口飲むたびに転げ回って悶絶するくらい不味かったらやっぱり続かないですから。ついつい飲み過ぎてしまうくらい美味しい方が効率がいい。長期になればなるほど、その差は大きくなるでしょう。

 だとすれば、より快適で生産的な生活環境を構築することが大事になります。
 住まいでも何となく住めればいいとか、安ければいいとか、とにかく英語喋れればいいという大雑把な方法論ではなく、住んでいるだけで何かを学べて、ポジティブな気分になれるようなところ、いるだけで楽しくなるようなところが好ましい。同居人やシェアメイトでも、出来れば一生レベルの「得難い出会い」になるような人がいい。ここでコケてたら、そもそも英語喋るような局面にならない。こちらのシドロモドロの英語に対して冷笑的だったり、イライラして「早く喋れよ!」「意味わかんねーよ」といわんばかりの態度を取られたら、どうしても萎縮するし、恐いから出来るだけ避けようとするし、結果として喋らない。だから「生活の場に英語がある」というだけでは全然足りない。不味い物は食べたくないし、食べない。「食べたくなるような英語」のある場をいかにして見つけるか。

 また、「人」は住まいに限らず、世間にウジャウジャいるんだから、色々な機会を工夫して、出来るだけ多くの人と混じるようにする。そのために混じりやすい環境、角度、接点を考える。波長のあう人とはじっくり話す。同時に、バリエーション訓練のためには、適当に波長の合わない人やイヤな奴とでも接する。いずれ仕事現場になればイイ人ばかりではないんだから、エッジのついた(険悪な)英語の人間関係や、エッジの「流し方」も知っておいた方が良いからです。その意味でバイトするのはいい練習になります。いやでも色々な人と接しますから。

 さらに、頑張ってばかりだったら精神的にキツくなるから、息を抜いたり、癒されたりする環境。しかも癒されながらも英語が自然に身につくような。例えば、好きなTV番組、ここに来るとほっとするような好きな場所、好きな喫茶店、好きな食べ物、好きな本。そしてより本質的には、これをやってればゴキゲンという「やりたいこと」を発掘したり、育てたり。

 昔はやりたくてもネットが無かったから、否応なく英語世界の中から「楽しみ」を見いだすしかなかった。日本のこともネットがないから新聞やNewsweekで見るしかない。そこで懐かしい日本の写真なんかを月イチくらいで見るのが癒やしになってましたね。癒されたいから必死に読むし、必死に読めば自然と上手くなるし。要するに、何をするにせよ英語という壁を越えないと楽しくならないわけだから、楽しくなろうと自然にやってたら、自然に英語も身に付いてしまうという環境だったわけです。

 ヒマがあったらニュースエージェントや本屋・古本屋に足を運んでました。本屋の現物がいいのは、否応なく興味のない分野の本もどんどん目に入ってくるからです。「へえ」という思わぬ発見がある。これが面白い。書店というのは、当たり前ですが売り上げを伸ばすために、現地の人が最も買いそうな品揃えと店内構成をするから、現地の人の興味の内容や頭の中身がわりと分かるわけです。やたらバイオグラフィーが好きなんだとか、園芸とかDTYのコーナーが充実してたり、犯罪小説やドキュメンタリーとか「なるほど、こういうのに興味があるのか」というのが素のままで分かる。就活コーナーみたいなのもちゃんとあったり、旅行関係の本がモロ世界規模でドーンであったり。シティのDymocksとか良く行ってたし、ニュータウンの巨大古本屋にはしょっちゅう足を運んでました。コアラが消防士になって山火事を消しているオーストラリアならではの絵本とか発見して「お〜、さすが」とか一人で喜んでました。

 もし本気で英語やりたかったらネット環境なんかないほうが良いのでしょうね。絶対止めろとは言わないけど、弊害も実は大きいです。それは日本語サイトを見てしまうという直接的な理由だけではない。ネットというのは効率的に情報収集するには良いのだろうけど、楽な分だけ興味のあることしかやらなくなる。実は「世界が狭くなる」という副作用も強い。英語世界の「まんま」をバランス良く摂取するには不向きです。これが本屋だったら、たとえ間違ったフロアや売り場に来ても、せっかく足を運んだんだからととりあえず周囲を見るし、一定時間それに接し、そこで思わぬ発見をしたりするけど、ネットだと即座に消せるから先に進まない。だから、もし本気で最速に英語を習得したかったら、ネット環境をやめるか、あるいはパソコンから日本語をアンインストールすることでしょう。

 人間、ある程度の快楽は必須なのですが、その快楽を得るためのプロセスが「現地製」であればあるほど、バランス良く現地の物事を吸収できる。別に英語を勉強しようとか、英語世界を理解しようとか堅苦しいことを思わなくても、自然とそうなってしまう。また、現地の英語世界「だけ」で十分な快楽を得るのは全く可能です。人間ほっといても楽しくなるように出来てますから、勝手に探して、勝手に楽しくなれる。でも、そこでこれまで慣れ親しんだ「日本製の快楽パターン」が同時存在していると、どうしてもそっちの方が楽だし、取っつきやすいから、そこから離れられなくなる。

 ということで、「英語ができるようになるためにはどうしたらいいか?」という問いに対する究極的な答は、「ちゃんと楽しんで生きろ」ということに尽きてしまうのだろうと思います。あまりにも究極的すぎて、これも殆ど実践的に無意味に近いんだけど、でも、そういう話になっていくんだろうなあと。

 現地でちゃんと生きてたら、「結果として」バランスの良い英語世界が自然に身についていくだろう。逆に身につかないのであれば、それはちゃんと生きていないのではないか?どっかでバランスが狂ってないか?と疑ってみてもいいと思います。特に勉強勉強〜!って言い過ぎるが余り、バランスを逆に崩しているとか。

英語に限らず 

 英語ばかり述べましたが、これって英語に限りません。なんでもそうだと思います。

永住権

 例えば永住権を取るにしても、永住権だけ狙って取れるものではないです。既に所定の要件の全てをテンパってて、あとは申請という事務作業だけというなら狙ってもいいけど、そうではなく、所定の要件=英語力とか、技術・職歴、スポンサーの存在などを現地でゲットしなければならないのであるなら、永住権だけをゴールにしない方がむしろ上手くいくと思います。

 つまり、「現地で楽しく暮す」という実質部分です。
 住んでて楽しいな、生きてて良かったな〜という生活を目指した方がいい。

 それが出来れば出来るほど、「結果として」永住権がついてくるでしょう。
 なぜなら現地で楽しく充実してたら、沢山の出会いもあるでしょうし、いい友達や仲間にも恵まれるでしょう。そうなればそうなるほど英語を頻用するし、しかもバランス良く使うから英語が最速に上達する。一番攻略が難しい現地の職歴キャリア→スポンサードだって、要するに現地でどれだけ良い知り合いを増やすか、どれだけ多くの人、良い人から愛されるかにかかってるわけです。楽しく、生き生きやってれば、自然と目も輝いてくるし、キラキラオーラも出てくるから魅力的になる。自然と人に好かれる。これが、死んだ魚のような目をして、能面のような顔してドヨヨ〜ンとしてたら得られるチャンスも得られない。

 もちろんある程度の道筋や戦略は必要なんだけど、それだけだったら挫折する率が高い。規定なんかコロコロ変わるし、大体が思ったとおりいくわきゃないし。まさに「絵に描いた餅」になる可能性が強い。それにそういった実質面がショボイまま形式だけ整えて永住権を取ったところで、取っただけでは生活なんか立ち行かないから、全然楽しくないし、結局成り立たなかったり、長続きしなかったりもする。それじゃなんのこっちゃ?でしょう。

 実質を充実させるように心がければ、自然と形もくっついてくるということです。

文章作法

 小論文が書けるとか、手紙や文章が上手くなるというのも、それを目指してやるよりは、結果として出来るようになってる場合の方が多い。大体において共通するのは、とにかく大量に本を読めってことです。数百冊ではなく数千冊レベル。それも出来るだけいろいろなジャンルの。

 でも、こんなの「〜のため」という目的志向では出来ません。いくら小論文対策で天声人語や評論を読みましょうといっても、そんな数千冊レベルで読めるわけがない。やっぱ快楽志向で、楽しいから、面白いから読んでないと無理。「ふんふん、へへへ」とニヤニヤしながら、あるいは食い入るように読んでると、積もり積もってあらゆる表現が知らない間にインプットされ、それが表現のストックを増やす。

 そういえば以前こられた方で英語がとても出来る人がいました。どのくらい出来るって帰国した後、翻訳家としてデビューするくらい英語が出来た。でも、別に改まって勉強したわけではないそうです。大のSF小説好きで、翻訳物も読み尽くし、最新刊を読もうと思ったら未翻訳の原書を読むしかなく、「しょうがないから」辞書をひきひき読んでるうちに自然と覚えてしまったと。これも結果として出来るようになったという一例です。

お金儲け

 「お金儲け」なんかもそうかもしれない。お金というのは、よほど才能のある人でない限り、金、金言ってても儲からない。もう情けないくらい入ってこない。全然貯まらない。

 逆に、過去の自分で一番収入が良かった時期は、お金がどうのとか言ってなかったです。もう目の前にある仕事をやるのが精一杯、どうすれば上手くいくか、どうすればエブリワンハッピーになるか、どうすれば質が向上するとか、そればっか考えていた時期です。自然と忙しくなるし、充実するし(疲弊もしたが)、気持ちがそっちにいってるから、実際自分が幾ら持ってるのかリアルタイムでは全然分からなかったし、興味もなかった。そんなヒマねーよって感じ。

 今の自営業だって、自営だからものすごい波があります。あるときはあるけど、ないときは本当にないです。でも、金のないときが正念場で、ここで金金と小金集めに走ると大体ダメですよね。金のないときは、逆にヒマがあるから、そのヒマを使っていい仕事をする、イイモノを作るしかないです。腹括ってそれが出来るかどうかでしょう。これは10年以上自営をされている方なら、ご同意いただけるかもしれないけど、質を高める以外に本質的な解答はないと思います。

 勿論経営のあり方とか、収益構造とか徹底的に分析したりすべきですよ。それもこれも全部やるんだけど、最後の部分は、自分なりのこだわりとか、譲れない価値観だと思います。あからさまに収益的には無駄であっても、それが大事な部分だったら守るし、質を下げない。まあ、結局は「質ってなに?」論になるのだろうけど、最終的には「何のためにやってるの?」という部分になるのでしょうね。これでダメならしょうがない、好きなことやって餓死するなら、それはそれで本望じゃあくらいの「腹括り」は要るんじゃないでしょうか。起業とか自営とかいうのは、そのコアな部分がどれだけ強いかがポイントで、それが結局、どれだけ商品力を高められるか、どれだけユニークなものになっていくかにつながっていくのでしょう。

 お金に見放されている時期(^_^)ってのは誰でもあると思うのですが、そのときに、目先でカネカネ言ってても入ってこないです。そういうときは、いかに金が無くても楽しく暮らせるかの人生技術の修行の場だと割り切った方がいいかも。学生時代なんか多くはビンボー生活を余儀無くされるのだけど、無ければ無いなりに何とかするのが人間ですもん。いかに100円で栄養豊富な自炊をするかとか、いかに金をかけずにロマンチックなデートをするかとか、いかに楽しく友達と過すかとか。

 これって、一定レベルを超えて、上質なものになっていくと、本当にお金なんか要らないです。凡百の、パターン化されたことを猿真似してるだけだったら金は幾らあっても足りないけど、自分なりに「本当にいいもの」「本物」を追求していったら、逆にお金はそんなにかからない。だってさ、「本当にいいもの」って滅多に売ってないもん。

 だから金のない時期は、それなりに悪戦苦闘してやりくりするのは当然のこととして、それ以上に望まない方がいいです。ハッキリって、そういう時期は「あきらめろ」と(笑)。その代り、お金以上に「すげーもん」を取りに行け、と。それが分からなかったり、思いつかないのであれば「その程度の自分」ってことだし、まずはそこから何とかした方がいい。何とかなるし。そして、そこで何も思いつかない人が、後で金が入ってきても、多分そんなに楽しくないと思う。最初は楽しいけど、続かない。

 てことは、金が無いときも、そして金がドバドバ入ってくるときも、結局カネカネ言ってないんですよね。
 結果として入るときは入るし、入らないときは入らない。もうお天気みたいなもんだし、気にすんな、と。てか、もっと気にしなきゃいけないことがあるだろうと。

身体系

 この種の話は無限に出来ます。
 例えば、喧嘩が強くなるというのもそうで、聞いた話ですが、ストリートの素人喧嘩レベルだったら、沖仲仕が無敵に強いとか。あの過酷な港湾肉体労働で、自然と腕力が鍛えられ、それ以上にスタミナがつく。

 喧嘩や格闘というのは、「技」で勝負がつくのは相当なレベル差がある場合でしょう。通常はガキの喧嘩みたいに組んずほぐれずでケリがつかないから、最後はスタミナ勝負になる。「最後」といっても、真剣に全力で動けるのなんか1〜3分あるかどうかです。以前、柔道の試合で3分間寝技の応酬をやったことがありますが、もう信じられないくらい体力消耗します。とにかく立てない。腕をついて身体を起こそうとしても、肘が笑って力が入らずベチャッと潰れる。声も出ない。呼吸するのが精一杯という。高校時代の最盛期で、腕立て伏せだって100回は出来たのですが、それでも3分持たないです。

 そのときに思ったんだけど、真剣に戦ったら結局は持久力とスタミナの勝負だなと。腕立て伏せでも何回できるかではなく、何分出来るかです。だからこそ「技」が重要なんだろうけど、技なんかよほど上手でなければ現場できれいに決まらない。また実戦では動きにくい着衣だとか、障害物が散乱してたりとか、万全な環境ではない。敵も一人とは限らない。だから格闘技のプロ、プロレスラーとかは腕立て伏せでも3000回とか、2時間ぶっとーしとか、アホみたいな人間離れした肉体を作るのでしょう。そしてそんな肉体相手に、ちょっとやそっとの技なんか通じない。

 そして、沖仲仕とか肉体労働系の人は、奇しくもプロレスラーの練習と同じような日常を送っているから、自然と強くなる。別に喧嘩のために仕事しているわけでもないのだけど、結果として強くなっているという。

 身体系の「結果として」は他にも幾らでもあるでしょう。たまたま小学生の頃、家が遠くて毎日1時間歩いて登校してれば、自然と足腰が強くなるとか。漁師の倅で、子供の頃から海で遊んでいるから魚のように泳ぎが上手くなるとか。雪国育ちで毎日スキーで登校してたから、スキーが上手になるとか。別にそれを狙って練習しているわけではないけど、結果として上手になっているパターンは沢山あるし、実はそれが一番自然で、一番強かったりする。

 だから、健康になりたいとか、痩せたいとかいうのもそれ自体を目指すのではなく、結果として健康になってるとか、もう自然に痩せてしまうというパターンやサイクルを目指した方が、結局は早いのだと思います。


 以下、繰り返しになるから省略しますが、「モテる」とか「就職に成功する」とかいうのも同じことでしょう。
 そのこと自体を目的にすると、不思議と上手くいかない。多分、眼鏡でいう「焦点距離」を間違えるんでしょうね。だから、そのもののずっと先にある「実質」に焦点を合わせるようにして、その実質部分を充実させるようにやってると、自然に達成できると思います。

 なぜって、これらの目的は本当の意味ではゴールではなく、しょせんは途中経過に過ぎないからです。モテたところで付き合った途端に次々に破綻しまくってたら意味ないし、就活に成功しようが仕事が全然出来ずにボロボロだったら意味ないわけです。やっぱ、その先にある実質=「他人と楽しく豊かにやっていける自分になる」「いい仕事が出来る自分になる」を目指すべきであり、それが出来るようになればなるほど、他人も馬鹿じゃないからちゃんと評価してくれ、結果として出来るようになっている。それだけのことだと思います。逆に言えば、実質が充実していない段階で妙に「成功」なんかしない方がいいです。あとで地獄のしっぺ返しが待っていますから。


 さて、そうなると、「結果として」そうなるように持っていくための「初期設定」が非常に重要になります。
 PCでいえばコンフィギュレーション(configuration)みたいなもので、これが致命的に大事になる。初期設定が正しかったら、何をどうやっても普通に生きてるだけでどんどん成長できるでしょう。あたかも毛糸の靴下に毛玉が否応なくくっついてくるように。

 ということで「初期設定論」になるのですが、これはまたちょっと話題が変わってくるので別の機会に。





文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る