透けて見える悪意
書籍やネットでいろいろな文章を読んでいると、なんとなく読後感が爽やかではない、もっといえば読んでいるうちに不快になるものもあります。別に珍しくもない話です。
でも、この読後感の良し悪しというのは、書かれている内容や論理が自分の価値観と違うとか、納得しがたいとか、そーゆー事ではないような気がする。書かれている内容ではなく、その背景になんらかの「底意」や「悪意が透けて見える感じ」がイヤなのではないか?
そう思うキッカケになったのは、最近にネットで読んだ誰かの論説文です。そこでは、最近わりと人気や支持の多い人の書いた所論への批判が書かれていました。それは良い。批判は大いにやるべきだし、僕らが総体として賢くなるためには、あれこれ異なった視点での物の見方に触れる必要がある。中世と近代を分かつ重要なポイントは「批判精神」だという話もあるくらいで、批判は大事です。
大事なんだけど、また言ってることもかなり一理あるんだけど、どっか一点、ひっかかる感じが抜けきれなかった。「ほう、なるほどね」と素直に思えなかった。なぜかといえば、文章全体にどっかしら底意地が悪いものを感じたからです。おそらく緻密に検証していけば、どこかに論理の飛躍やすり替えがあるんだろうけど、直感的には「なんで、ここでそれを言うの?」「なんでそういう言い方になるの?」という「生理的な違和感」としてまず感じられた。別にAを言いたいだけだったらAと書けばいいんだけど、A+アルファがくっついていて、このアルファ部分が過剰な気がした。
つまりは「ためにする議論」のように感じたのです。
議論本来のテーマ以外に何らかの隠しテーマ( or 感情)があって、その感情発散のために書いているかように感じられてしまったのです。まず最初に某氏に対するなんらかの反感があり、おそらくそれは日頃から鬱積していたのかもしれないけど、それがふとした弾みに筆が滑ったのか(or 意図的か)、出てしまったという感じ。それは例えば「大したことも言ってないのにお前ばっかり人気者になりやがって」という不当感や嫉妬かもしれないし、もっと別の個人的な好悪かもしれない。それは分かりませんが、何か感情的なサムシングがないと、こういう書き方はしないんじゃないの?という気がしたのです。
これはとっても感覚的なもので、もしかしたらぜーんぜん間違ってるのかもしれません。全面的に僕のカンチガイかもしれない。その可能性も大いにある。
でも、ここではその真贋が問題なのではなく、
@、言ったり書いたりする意見の内容ではなく、その背景にある種の感情が透けて見えることがあること
A、そしてその感情に僕らは(ときとして強く)影響されること
です。
こう書いてしまうと、別に改まって言うようなことではなく、当たり前のことかもしれません。
一言でいえば、「人間は感情の動物だ」、に尽きてしまいます。
それだけの話です。
それだけのことなんだけど、そのことをもっともっと強く認識すべきなんだよなって改めて思ったわけです。
詩歌など叙情的な文章は、最初から感情を謳い上げることが目的です。しかし、論説文など叙事的な文章は、感情ではなく理屈をいうのが目的です。僕らも、理屈を求めて読んでいる筈なんだけど、読んでいるうちに感情が浸透してきて、感情がシンクロしたり反撥したりして、こっちも感情的になっている。
いったい僕らは、論理のやりとりがしたいのか、それとも感情のやりとりがしたいのか、よく分からなくなっていく。
誰が言ったか?で命題の真偽が決まるいかがわしさ
真理というのはAが語ろうが、Bが語ろうが、誰が言おうが等しく真理であり、「誰が言ったか」によってその命題の真偽が決定されることはない、それは論理の自殺である、、、な〜んて思ってた若い自分がいました。
これは十代の頃、いわゆる世のオトナの保身的な御都合主義を激しく嫌悪してそう思ったことです。
もうマンガみたいなイメージなんですけど、いわゆる「ゴマすり」の中間管理職がおって、下の人間が「Aをしたらどうでしょうか?」と提案すると鼻でセセラ笑って却下。「キミぃ、馬鹿なことを言っちゃいかんよ。もっと現実的になりなさい!」と。しかし、同じ事を社長が言うと、「さすがは社長!斬新な発想です!いやあ凡人には到底思いつきませんよ!」とヨイショしまくるという。まあ、実際にここまで極端に分かりやすい風景を目撃したことはないのですが、ま、そういうことです。
つまり「誰が言ったか?」によって決まる。
内容を吟味&判断するのではなく、「発言者は誰か」によって決まる。こんなの、もう最初に結論ありきで、ダメ評価された人間は何を言っても「だからお前はアホなんだ」と馬鹿にされ、○評価された人間は何を言っても「さすが!」と言われる。
こんなんメチャクチャですよね。「1+1=?」でも、田中さんが「2」と答えるとピンポ〜ン!になり、山田さんが同じく「2」と答えるとブー!となる。この世のこのくらいわかりやすい理不尽はない。で、自分がコドモの頃は、大人というのは往々にしてこれをやる人種であり、「汚い」とか「腐ってる」とか嫌悪するわけです。本当は、コドモだって大人以上に汚く醜いことをやってたりするのだけど、そこはコドモだから分からない。
そして、なぜこんな「珍現象」が起きるのかといえば、そこには人間の感情・欲望があり、それらが原動力になっている。例えば、出世や保身願望であったり、根拠のない優越意識、エリート意識であったり、逆に劣等感からくる嫉妬や反感であったり、縄張り根性やセクト主義、くだらないメンツやプライド、、、いずれにせよ人間のドロドロした、ゴミみたいな、精神的排泄物のような感情群です。
もっとも!形の上では同じことを言っていても、言う人によってその意味が違う、深さが違う、重みが違うってことはあります。
同じ内容でも、この人が言えば深く頷けるけど、別の人だと「お前が言うな!」って気分になったりする。若い頃さんざん極道やってスペクタクルな人生を歩んできた爺さんが「平凡な生活こそが一番ですよ」と言うのと、そこらへんのマセた小学生が「平凡が一番」というのとでは重みが全然違う。
これは単純に差別なのではなく、形式的には同じでも、実質的には違うのだと考えた方がいいでしょう。
さきほどの社長と新入社員の例でも、昨日入ったばかりの新入社員がぽっと思いつきで言うのと、一代で築き上げた海千山千の創業者が全てを知り尽くし考え抜いた上で言うのとでは意味が違う。結果的に結論が同じでも、そこに至る思考プロセスに雲泥の差があるので、「同じ事を言っている」わけではないんじゃないかと。
かといって常に社長が正しいわけでもないのですよ。知り尽くしたがゆえに既成概念にガチガチに縛られてしまうリスクもあるし、何も知らない素人だからこそ斬新な発想もでてくるわけですから。ただ、形の上で「同じ」であろうとも、実質的は違うということはあるだろうな、ってことです。
理屈は弱者の武器
だから、逆説的に、若かりし頃は論理や理屈に激しく憧れもしました。
どんなに崇められている聖者でも1+1を3と答えたら間違いで、どんな極悪人でも2と答えたら合っているという。グチャグチャした人間の感情を、気持ちいいくらい一切シャットアウトして、純粋に論理だけで物事を決める。理屈っぽかろうが何だろうが、個々人の卑小なクソ感情で物事が決まるよりは遙かにマシじゃないかと。
そして純粋論理や証拠の証明力だけで構築していく法律に魅力を感じました。そこでは、どんな巨大権力を持ってる奴でも1+1を3には出来ず、少なくとも形式的には「2」にするという論理に従わねばならない。つまりは「力だけで踏みつぶすことは出来ない」ということで、僕のように富も権力も何も持たないミジンコのような存在が、大きな世間相手に渡り合っていくに際しては、最大の武器になりうると思ったのですね。実際、一定限度ではありますが、それは武器になりました。
ちょっと前に理不尽な暴力や圧力と戦うためのコツとして、「事を荒立てること」「事を大きくして出るところに出ること」と書きましたが、それも同じ事です。出るところに出てしまえば、そこでは一応、論理の世界です。タテマエだろうが何だろうが理屈が支配する「表社会」です。そこまで出てしまえば、理不尽な力で踏みつぶされることは、形の上ではなくなる。
会社内で不当な圧力、村八分やイジメによっていびり出されるように解雇(形の上では自己都合退社)に追い込まれそうになった場合、一気に裁判沙汰にもっていって、「解雇権の濫用ではないことを証明せよ!」とバーン!と突きつければ、うやむやには出来なくなる。「人として当然だろ?」というエセ人道論理で、暴力金融に恋人の借金を肩代わりさせられそうになったら、バーンと「債務不存在確認訴訟」を打って「債務があるというなら証明してみろ」とぶつける。
理不尽な力というのは、要するに弱いものイジメです。強い者が自分の都合を無理やり弱い者に押しつけているだけで、そこに正義はない。表に出て堂々と出来るようなことではない。だからこそ表に出されないように「てめ、チクったら殺すぞ」と釘を刺すわけです。
ただし「オモテ」に出たところで、その表を仕切っている機構や権力が、堂々と理屈世界を展開し、正義の論理で動くとは限らない。勇気を出して先生にチクったところで、その先生が事なかれ主義で無かったことにされたら、あとは地獄でしょう。警察にいっても「民事不介入」で知らんぷりされたら終わり。裁判に訴えても最高裁が腰抜けだったら、「高度な政治性」「行政の裁量」とかいって逃げたらダメ。政治でも、いつのまにか「もう、いいじゃないですか?」と「ウヤムヤ空気感コンセンサス」で「無かったかのように振る舞う」ようになったらダメ。原発とか今そんな感じだけど。
じゃあどうするか?もっとオモテにいく。もう先生がアテにならなかったら裁判に訴える、裁判所がアテにならなかったらデモとメディアに訴える、国内の政治やメディアがアテにならなかったら国際世論に訴える。イジメられても周囲の大人が助けてくれなかったら、国連ビルの前に「HELP ME!」というプラカード持って座り込んだらいい。13歳くらいの日本人の少年がそれやってたら、世界中のメディアは面白可笑しく書き立てるし、へたすりゃ日本の首相のクビだって飛ぶ。
まあ、必ず助かるという保証はないけど、デカいところ、明るいところに行けばいくほど、そこでは理屈が支配する度合いが強い。最終的には「歴史の裁断」というところまでいき、今の世の中に力でねじ伏せるようなことが出来ても、後世の歴史からすらば、「歴史上に残るアホ」として未来永劫馬鹿にされ続ける。
いずれにせよ、理屈世界というのは、非実力的・非感情的な世界だから、力なき弱者、ミジンコのように小さき者にとっては、大きな武器になり得ます。
ゆえに理屈に走るのは、弱者たるもののゲリラ戦術としては非常に正しい。ちょっと前に「中坊的」な理屈っぽい態度を書きましたが、あれは中坊という弱者の戦術としては正しい。
エリアのサイズ設定と理屈世界
「力」で理屈を踏みにじろうと思ったら、その場を力で支配していないとならない。「俺が法律だ」と言えるくらいの圧倒的な権力を打ち立てないとならない。狭い社会ならそれは出来る。一つのクラスの中、学校の中、とあるエリアの教育委員会や地方政治、、そのくらいだったらありうるし、実際にもある。日本の地域のどこにいっても、「地元の実力者」がいて、なかには天皇と呼ばれるくらい絶大な権力を持っている人物がいる。逆らっても踏みつぶされる。
しかし、幾ら地方のボスでも日本のドンにはなれない。そして日本で揺るぎない権力を構築したところで、隣国にいってしまえばその神通力は消える。さらに広く国際社会になれば、もっと通じなくなる。お兄ちゃんが弟のおやつをぶんどって実力支配していたとしても、「お母さん」という超越的な権力が登場してくれば、お兄ちゃんは踏みつぶされてしまう。
つまり、弱者の戦略としては、強者の実行支配の及ばないくらいエリアを広げて、事を大きくできるかどうかです。
他方、強者の戦略としては、広げられないように二重三重に柵をめぐらし、とにかく囲い込み、とにかく閉鎖社会にすれば良い。広い世界との回路が遮断されればされるほど、理屈的(弱者的)正義を殺すことができる。力による(理不尽な)支配を徹底したい者は、本能的にも広い世界と風通し良くつながっている状態を嫌う傾向がある。閉鎖社会に不正義や理不尽が多いのは、ある意味では当然。
つまり、狭く遮断すればするほど、普遍的で透明な理屈から遠のき、力と感情の支配する独特なワールドになる。閉鎖すればするほど、感情の赴くままの非理屈世界が安泰になる。
日本がガラパゴス化して、閉鎖性が強ければ強いほど、日本的な権力をもっている日本的な強者が支配し、そこには日本的な理不尽も生じる。逆に、日本の場が開かれ、閉鎖性が弱まれば弱まるほど、日本的な権力も強者も相対的に力を失い、日本的な理不尽が国際基準に照らして批判されることもある。
ちょっと前のオリンパス損失隠し事件のように、上層部による損失隠しは、これまでの日本的社会ではよくある話でその不当性が問われることも少なかった。しかし外国人社長のように閉鎖社会の神通力が通じない世界に触れることで、一気に問題化し、出るところに引きずり出され、元社長をはじめ首脳陣が逮捕されることになった。
日本において「国際化」が問題になるときは、TPPでもなんでもそうだと思いますが、本当の意味で”国際化”が問題になっているのではないと思います。「国際」という意味では、これだけ外来のものを好奇心旺盛に理解&消費できて、これだけ海外旅行にせっせと出かける民族が「国際」にアレルギーがあるというのも変な話でしょう。本当の問題は、閉鎖性がこじ開けられて、これまでの独自の「場の(権力)構造」が崩壊するのが問題なのでしょう。
話はポンと飛躍します。
「ひきこもり」というのは、この閉鎖原理からすれば、一種の自衛手段としては正しいのでしょう。「正しい」という表現がいいのかどうか分からんけど、理にはかなっている。自分の周囲を全て遮断してしまえば、そこでは自分ワールドですから。自分がいかに間違っていようが、理屈の上でメチャクチャだろうが、外部からのツッコミや批判を遮断できる。自分世界を守るためには、外部世界とイケイケにつながってたら不味いから遮断する。
ここで、面白いなと思うのは、そこまでミクロに閉鎖する一方で、他方ではメチャクチャ広大な理屈を求める傾向があることです。国際政治論とか経済論とかニュースに敏感だったり、盛んに書込んだり。半径3メートルのレベルでは遮断しつつ、半径3000キロの話には興味があるという。
この「現実は極小に、理屈は極大に」という相矛盾した傾向は、いっときの極左タコツボセクト主義にも一脈通じるものがあるような気がします。外界を遮断し、似たような主義団体群からも一線を画す。狭くするほど自分らのワールドの自由度が高まる。しかし、語ることは人類革命とか、思いっきり広大な理屈です。
なんでかな?といえば、やっぱり外部世界で生き延びようとすれば、弱者としては広いエリアの理屈が武器になるからでしょう。矛盾しているようで矛盾してないのかもしれない。
極小閉鎖でも、極大理屈でもない、いわば普通のサイズの普通の現実世界においてモノをいうのは何かといえば、普通に当たり前の社会的な「力」です。つまりは、お金を沢山もってるとか、稼ぐ能力があるとか、優秀な技術や実績キャリアや学歴があるとか、広い人脈があるとか、そのあたりがポイントになります。そういった現実世界とイケイケにつながってしまうと、ろくすっぽ仕事もしておらず、これといったキャリアも資産もなかったら不利ですし、あれこれ批判もされる。だから遮断する。しかし外界と接点を保とうとすれば、よりデカいサイズの理屈=「国民として」「およそ人類の一員として」みたいな所でやっていくことになるのでしょう。ゆえに「極小⇔極大」という現象が生じる。
ま、ほんとうかどうか吟味してませんが、「理屈にもサイズがある」というのが何となく面白いなと思ったのでした。
ところで!
今回は、これで終わりです。
ここまでは前ふりというか、素材のネタだしで、ここからぐわっと集約して一つの考えをひねくり出してきましたが、今回はちょっとそれをやめてみます。中途ハンパなまま、ここでポーンとほったらかしにします。
先週お休みしながら、このエッセイの書き方もちょっと変えてみようかなとか色々考えてました。
まだ全然形になってないんだけど、これまでのように単一テーマに集約するような書き方にすると、「こぼれ落ちるもの」が出てきてしまう。一本のテーマにするほどもない雑多な思いつきは多々あるのですが、うまいこと一本にまとまりそうもないとバサバサ削ってました。でも、一本にまとまれば良いのか、それが常に面白いのか?というと、そういうものでもない。
もっとブチ切りでもいいから、結論もなく、どうかすると問題提起すらないような考えでも、あんまり深く煮詰めないで、ゴロンと転がすように書いてもいいかな、と。
今回述べたのも、「論理の底に感情があること」「論理の体裁をとっていながら実は感情によって決まっている欺瞞」「理屈は弱者の武器になる構造」「エリアやサイズ設定と理屈」と幾つかパターンの異なる事柄です。これらから、理屈と感情の相関関係論としてエッセンスを抽出して、一気に大きくまとめあげるのは、まあ、可能です。でも、なんか長くなるし、重たくなるのですね。
そんなに苦労してひとまとめにして、それで意味が深まるのかというと、あまりそんなことはなく、単にエッセイとして体裁が整ったというに過ぎない。それって、なんか、エッセイのためのエッセイみたいな感じで、意味あんの?って気もするのですね。だから、「そこまでせんでもいいか」という気になりました。
だから、ほとんど無責任に、「で、それが?」「だからどうした?」という状態で、ポーンとほったらかしにしておきます。あとは、気が向いたら各自考えてみてください。
究極的には、僕らは本当は理屈を求めるのか、それとも感情を求めるのか?です。
理屈の仮面をかぶった感情という欺瞞や偽善はもちろんあるんだけど、それを欺瞞だと批判できるほど、僕らは理屈を愛しているのか?理屈が弱者の武器になるとはいっても、それだって理屈を便利遣いしているわけで、理屈を使って守りたいのは自分の(弱者)感情だったりするわけで、だから結局同じ事じゃん?って気もする。ま、そのへんの話です。
今回二本立てにしましたが、一週とばしたお詫びの意味もありますが、こうやってレコードの「B面」「ボーナストラック」みたいな感じで、何本かページを分けるのもアリだなと思ったからです。これやると、ぜーんぜん関係ない話も書けますから。いずれも実験的な試みですが。
文責:田村