関係ないけど、関係あるのだ
どっかのエラい人の、何もかもが恵まれた人の、ご立派な生き方や、ご立派な話を見聞きして、「わたしには関係ない」と思う。どこに接点があるというのか?持って生れたものが違う、立場が違う、能力が違う、運が違う、性格が違う。そんな「神に愛された」ような人とごく平凡な私とにどこに接点があるというか。関係ないよ。
どっか離れたところの、聞いたこともないような国の、とても可哀想な境遇、とても不幸な生活、とても救いのない話を見聞きして、「俺には関係ない」と思う。どこに接点があるというのか?
そんなに離れていないところの、そんなに自分と変わらないの人の、そんなに自分と違わない人生の話を見聞きして、それでも「私には関係ない」と思う。だって他人のことだし、やっぱり自分とは違うもん。家族でもない、友達でもない。だから関係ない。
すごい近いところの、例えば恋人であったり親兄弟であったりする人の、快挙や不幸、或いは日常生活のどーでもいい愚痴を延々聞かされて、「でも、俺には関係ないし」思う。「しょせん、家族も他人のはじまりだ」と思う。
それはすごく正しく、そして同時にすごく間違っていると思います。
関係あるけど、関係ないのだ。
関係ないけど、関係あるのだ。
問題は、関係のある/ない、というデジテル的なON/OFFではないと思う。
問題は、How?であり、Why?なのだろう。
どのように関係するのか/しないのか?
なぜ関係するのか/しないのか?
そして関係することによって/あるいは関係しないことによって、何がどう変わるのか/変わらないのか?
どう変わった方がいいのか/どう変わらない方がいいのか?
何故そう思うのか?
二つの他人事
「他人事(ひとごと)」というコトバがあります。
「しょせん他人事」という。自分のことじゃない。関係ない。そう、自分以外のことは全部「他人事」です。いくら血を分けた肉親であろうとも、いくら将来を誓い合った伴侶であろうとも、「自分ではない」という意味では「他人事」であり、関係ないっちゃ、関係ないのだ。
しかし、同時に「他人事ではない」という言い方もあります。客観的には他人の話なんだけど、その事例から抽出されるエッセンスや法則性は、まんま自分に適応される。だからいつ何時おなじことが自分の身に降りかかってくるかもしれないし、あるいは既にどっぷり降りかかっている。他人のことでありながら、それは自分のことでもある。
この微妙な違い、おわかりですよね。
前者は、物理的に個体として別である、というクソ当たり前なことです。シャム双生児のように肉体が融合しているわけでも、あるいはデーモンと不動明が合体してデビルマンになるような現象が起きているわけでもない。私は私、あなたはあなた、別人であると。だからどこまでいっても別個体であり、関係ないっちゃ関係ない。あなたが死んだとしても、わたしまで同時必然的に死ぬわけではない。あなたが幸福になろうとも、だからといって自動的に自分も幸福になるわけではない。
しかし後者はレベルが違う。抽象的な法則性の話です。
自分と似たような境遇にある人、例えば同じ工場に派遣で働く仲間だった人が、ある日突然クビを言い渡される。理由を聞いても、些細な、ほとんど言いがかりとしか思えないような下らない理由でクビにされる。その意味するところは、端的に人減らしだろう。理由なんかどうでもいい。また彼と自分とでそれほど働きが違うわけでもなく、どうかすると彼の方が勤勉だったりすると、要するに能力や勤務態度なんか関係ない、「誰でもいいのだ」ってことになり、とりあえず目についた奴から片端からクビにしているだけなのだという法則性が分かる。だとすれば、俺だって明日にでも、いや今日この瞬間にでもクビになるかもしれない。そうなる可能性は十分にあり、そうならないという保証は限りなくゼロである。つまり他者に生じた事象の原理原則が、まるっぽ自分にも適用されるわけであり、その法則性の共通性がある限り、それは「他人事ではない」と思える。
この明らかにレベルの違う二つの「関係」は、しかし現実世界では、同時に重なり合って発生します。
リストラされた同僚が、そのショックでうつになった挙句、ついに自殺してしまったり、あるいは憤然として立ち上がり不当解雇で裁判を起こそうが、それはそいつの人生であり、自分には関係ない。でも、彼の運命は、リアルタイムの自分の運命でもあり、いつクビになるかと思うと居ても立っても居られない。その意味ではメチャクチャ関係ある。
「関係ないけど、関係ある」というのは、一つにはそういう意味です。
以上、前フリ。
以下、この前フリから、例によって偏執的に(^_^)掘り下げていきます。
「他人事」マネージメント
話を極端にシンプルにすると、僕らの置かれている状況というのは、地球(自然)があって、自分がいて、自分によく似た同種族(人類)があるということで、地球(自然)+自分+他人という「三種の神器」で全てが成り立っていると言えるでしょう。
僕らの人生上すべてのアクティビティは、煎じ詰めれば、@自然と戯れるか(関係するか)、A人と戯れるかでしかないことになります。最低限@はあります。気温が下がれば寒いと感じる時点でもう関係はある。そもそも自分という個体外のなにかを体内に摂取しないと、呼吸も出来ず、栄養補給も出来ずに、どうかしたら数分以内に死んでしまうのだから、@は絶対。絶対であるから、この際、議論の対象から外します。「どのように自然と付き合うか」という問題は残りますが、それは本稿のテーマから外れるので。
さて、そうすると僕らの人生は、「いかに他人と関係するか論」だと言い換えてもいい。
「全く(他人と)関係しない」という可能性も絶無ではないです。絶海の孤島に漂着し生涯一人ぼっちで暮すとか、最終戦争を一人だけ生き残って最後の人類として生きていくというケースもないわけでもないけど、あまりにもレアすぎなので、これも議論の対象から外してもいいでしょう。
そうすると話は他人と関係するか/しないかの二分論ではなく、「どう関係するか?」というマネージ論になります。何らかの形で必ずや関係するに決まっているのだから。他者とどういう関係性を構築するか、この「他人事のマネージメント」こそが人生の主要な内容になるでしょう。
他人との関係性は、いろんな種類やパターンがあるでしょうが、さっき挙げた例にならって乱暴に二分すれば、
@コミットメント型(一蓮托生型)
A原理抽出型(他山の石型)
に分けられると思います。
@コミットメント型
まず@のコミットメント型関係性をみてみましょう。
これは他人と自分の人生が何らかの形で現実的な接点を持ち、且つその影響を受けることです。
極端な話をいえば、親や家族です。
「親は親、関係ないよ」って言うかもしれないけど、親が存在しなかったら自分もこの世に存在しないのだから、その意味で関係性はまるっぽ100%だといってもいい。自分の子供もそうです。本質的に100%の関係性を持つ。
ちなみに、民法では、親(直系尊属)と子供(直系卑属)は一親等であり、且つ相続権を持ちます(血族)。しかし、配偶者の親(義理の親、舅姑=姻族)は直接的な因果関係がないので、親等こそ一親等だけど相続権はありません。
配偶者の親等はゼロです。結婚するということは、人生と人生を重なり会わせることであり、二人で一人という特殊な関係性であり、この世で最も他人性が薄い(自分性が濃い)存在であり、それはもう自分そのものというか、「準自分」「ネオ自分」のような存在。ゆえにゼロ親等であり、相続分も一番多い。なんせ準自分なんだから。
前者は血族という生まれながらの、いわば宿命的な人間関係。
後者は、断固として選ぶ!という選択的な人間関係です。
宿命と選択です。
宿命と選択
この二つは、全く相反するもののように見えつつも、その境界線はかなり曖昧です。
「中学時代からの親友」という存在がありますよね。
この場合、たまたま同じ中学の同じクラスで、席が隣同士だったというのは純粋に偶然であり、大袈裟に言えば「宿命的」です。しかし、同級生だったり、席が近かったら自動的に誰もが親友になるわけではないから、そこには個人の選考/選好が入るわけで「選択的」といってもいい。ミックスパターンです。
さらに突っこんで考えます。
考えてみれば、どんな人とでも何らかの宿命性はあるのですね。今、目の前に一人の人がいます。あなたの目の前には一人しか立てないとすれば、その人が目の前にいる確率は、全人類70億分の1という途方もない確率であって、まさに宿命的と言えないこともない。
たまたまバス停の列で隣り合わせになったとか、映画館で隣の席になったとか、地下鉄の車内で目の前に座ってるとか、いちいちガビーンと感動はしませんが(当たり前だが)、これだって70億分の1の宿命が顕現していると言えなくもない。全人類70億人が大袈裟なら、日本1億人でもいいし、首都圏3000万人でもいい、それでも十分に宿命的でしょう。袖振り合うも多生の縁です。
このように「宿命」などというものは、5足で980円の通勤ソックスのようにありふれた存在です。
さらに同じ時代に、同じ地球に生まれた、、ことまで宿命にすれば、宿命的ではない他人などこの世に存在しないことになり、宿命性は限りなく無内容にもなります。
そうなると宿命と選択の二大要素のうち、宿命の役割はシュルシュルとシュリンクし(縮み)、結局は選択=あなた個人がそれをどう思うか、どう位置づけるか、どう意味づけるかという主観の問題がデカいということになります。
物語とキャラ設定
ちょっと前に書いたように、現実というのは、個々人が自分をとりまく世界をどの視点で、どういうスートリーで見ているかという「物語」として認識されるものだと思います。
例えば、「就活を必死にやってるけど、ほんとにこれでいいの?と多少迷い気味な多感な20歳」役をやってるのか、「3年つきあった彼女と、よりにもよってクリスマス直前に破綻し、ほけ〜っと空白の年末年始を迎える俺」役をやってるのか、「中堅どころの製造メーカーに勤務するも、このご時世、近い将来に新興国へ出向という”赤紙”を切られそうで戦々恐々としている37歳の私、子供(5歳)あり」役なのか、「天を握る覇道の途上にいます(ラオウ氏談)」なのか。人はそれぞれにスートリーや物語を持っています。
そして、他者の関係性というのは、その他人を、「自分物語」の登場キャラとして採用するか/しないかでしょう。
キャラ採用するとしても、どの程度の役を負わせるのか。三国志の曹操のように主役を食ってしまうくらいの強烈なサブキャラなのか、単なる端役の通行人なのか。これがすなわち「選択」でしょう。
関係ある/ない
冒頭のコミットメント関係論に戻ります。
誰か特定の他者のことを「関係ない」「しょせん他人事」と思うかどうかは、「自分物語」においてその人をどのような役柄キャラとして登場させるか/させないかの認識と選択の問題だと思います。
火事場に出動した消防士の皆さんにとっては、現場に群がる見物人は、消火活動の妨げになる野次馬というウザいキャラ設定しか与えられず、「ちょっと、そこどいて!」と怒鳴る対象でしかない。大事な試験に遅刻しそうなとき、イライラしながら乗っているバスに乗り合わせた他の乗客は、単に乗り合わせた乗客でしかなく「風景」でしかない。
一方で、県大会個人戦で勝ち上がった自分にとっては、決勝戦で顔を合わせる対戦相手は、ただの対戦相手ではなく、宿命のライバル的にメチャクチャ関係が深くなったりする。しかし、全国大会優勝、さらに世界大会上位を目指す俺にとっては、ローカルな大会なぞ煩雑な「事務手続」にすぎず、決勝戦で誰とあたったかなんか覚えてないわってなるかもしれない。
ここで分かるのは、何をもって関係ありとし、関係なしとするかは、その人がどのような物語(現実認識)をもっているかによって規定されるということです。
「関係ないよ」というと、いかにも客観的な描写なようですが、実は主観100%です。
正しくは、自分物語にとっては「必要ない」「関係させたくない」と言ってるだけです。
逆に言えば、その関係あり/なしを見ていれば、その人の器量が分かるということでもあるのでしょう。
その人がどれだけ大きな物語を描いているのか、どのくらいの器量で大きく世の中を見ているか、逆に狭苦しい自分だけのタコツボにひきもろうとしているのかが「関係ない」を聞いていれば、ある程度わかってしまう。
キリストや釈迦レベルにでかい器量をもってる人は、その物語も「神と人間の物語」というくらい途方もなくデカい。そこでは誰それさんは関係ないということはなく、およそ人類であれば全て関係ある。それどころか同時代に生きていなくても、過去の一切の人類、そしてこれから生まれてくる未来の人類、その全てを関係者として超弩級の物語を頭の中で紬ぎだし、その「現実」に生きようとする。
「関係ない」という自己欺瞞
逆に、せこくて小さな自分だけのワールドに籠もろうとするなら、道端でだれかが苦しんでいても知らんぷり、電車内で女性が酔漢にからまれて乱暴されていても知らんぷり。しまいには母親が泣いて頼もうが、昔の親友が激怒しようが、知らんぷり。合言葉は、「関係ないもん」。
客観的に関係ないんだから、僕がそれにコミットメントしなくなって、それはしょうがないよね----- WRONG!
「関係ない」のではなく、「関係したくない」のだ。へたに関係するとヤバそうだから、処理できそうもない難題がふりかかってきそうだから。また降りかかってくる難題を処理すら出来ないくらいに弱いヘタレな自分だから。それをなんとかできる腕っ節も、気の強さも、堂々と正論をまくしたてる弁舌も、権力も何もない自分。だから見て見ぬふりしてやり過すという。
それは弱者にとって必ずしも悪ではないでしょう。出来るワケがないことをしなかったといって、それは直ちに非難されるべきでもない。不可能を強制されるいわれはない。
でも、自分の無力さにほぞを噛む以外に他にどうしようもない状況で、その弱さを直視せず、引き受けもせず、それをあたかも客観にすり替えるという部分はいただけない。他人の共感も理解を得られない。ダメなのは良い、ヘタレなのも良い。しかしそれを誤魔化すことはアカンのじゃないか。これを誤魔化せば誤魔化すほど、さらに卑小な生き様を晒すことになる。
「恋愛の寒冷前線」とでも言いますか、それまで熱々だったのが、ある瞬間に相手に対する熱がスーッと醒める瞬間があります。「百年の恋も醒める」という。いろいろな場合があるでしょうが、典型的なひとつが、この「関係ないよ」ではないでしょうか。特に女性から男性を観る場合。例えば、選挙にいかず「あんなん、俺らに関係ねーよ」とうそぶく。環境問題や、困ってる人達、あんな問題、こんな問題、身内の問題、友達の問題、コミュニティの問題、、、、そこでボソッと「だって、関係ないもん」とか言ってしまうと、大きな寒冷前線を呼ぶ場合もある。同じように関係ないと思ってる者同士だったらいいけど、全てが一致するわけでもなく、そこに温度差があると、ときとしてスーッと冷える。
「なんだ、こんな人だったのか」と思う。思われる。なぜか?
一つには、「器量が小さい男」だと思われる。その程度の自分物語しか構築できない男だったというのが、チラリと透けて見えること。ちっぽけな人間に映ってしまう。第二に、自己中。そのエゴイスティックぶりを見てしまうと白ける。特に女性が男性に対して本能的に期待するのは、この人は自分をどれだけ守ってくれるのか?であり、どれだけ自己犠牲をしてくれるのかでしょう。そこでエゴ中ぶりを見せつけられると、いざとなったら私も切り捨てられるだろうなという直感を持つ。
もっとも、全てがそうなるとお馬鹿なことを言ってるワケじゃないですよ。わかると思うけど。また別に恋愛に限らないですよね。友人、家族、同僚、上司、部下、、いずれの場合でも、「はん、こんな奴だったのか」と思ってしまう瞬間はある。また、かといって、全ての問題にコミットしまくり、口を開けば「全人類が」と熱く語ればいいってもんでもないです。これもわかると思うけど。暑苦しいし、今度はその自己陶酔ぶりが鼻につき、「いいことをしている俺はいい人」というカタチを変えた自己中でしかないという。
じゃあどうすればいいの?というと、これまでの話でいえば、弱いことは悪いことでも恥でもない。恥ずかしいかもしれないけど恥ではない。だけど、誤魔化すことはよくないってことですよね。つまり他人のことまで引き受けろとは言わないけど、せめて自分のことくらいは引き受けろってことでしょう。何かで無力な自分を感じ、卑小感を感じ、自己嫌悪を感じたなら、ちゃんと感じてろ、と。それから逃げようとして、他人のせいにしたり、状況のせいにしたりするな、と。
これ、とりたてて凄い真理を述べているわけでもなく、誰でも感じている当たり前のことです。自分を引き受けられず、○○が悪い、○○のせいだ、俺は関係ねえよと言ってばっかりの人間を好きになるのは難しい。僕は大嫌いだし、あなただって嫌いでしょう。友達間の会話でも、「○○?ああ、あいつなあ、、、」って感じになるし、見る目は誰も一緒だと思います。人間、見てないで見てますよね。すごーい深いところまで見てるよね。
運命の女神
さて、物語には起承転結があり、思わぬ「転」がどっかにあります。その決定的な出来事によって、それまでの物語がガラリと様相を変えてしまう。純正ヤンキーものかと思いきや、いつのまにか学園ラブコメになったり、最初は純粋にギャグマンガだったのが、次第に熱くシリアスな格闘マンガになってしまうなど(キン肉マンとか)。
つまり、本来の自分物語からすれば「関係ない」筈だった他者が、強引に、強烈に割り込んでくることによって、物語本来のストーリーまで変わってしまう。そういうことって、ときどきありますよね。それで状況が劇的に好転する場合もあるし、暗転する場合もあるけど、良くなる場合に関して言えば、まさに「運命の女神が訪れる」といってもいい。
それは例えば、普通の同僚、普通のクラスメートだったのが、ある瞬間を境に「異性として意識しはじめる」というドキドキ体験ですね。それは、先ほどの恋愛の寒冷前線に対比させれば、「温暖前線」みたいなものです。温かい湿った空気の固まりに遭遇する。世界がガラリと変わる。
でも、そこでカタクナに「私には関係ない」という姿勢でいると、運命を女神を門前で追い払ってしまうことになるんだわね。これ、勿体ないです。「いいことなんか、ちっともありゃしない」って人。いいことは定期的に、確率的に生じていると思いますよ。運命の女神は、(不)定期的に、石焼き芋のように、古紙回収のようにやってくる。でも、気づかないで、追い返しているのかもしれないよ。「関係ない」っつって。
で、冒頭掲記のタイトルになるわけです。「関係ない」って言えば言うだけ、そう思えばそう思うだけあなたの世界は狭くなり、あなたの未来の可能性も狭まる。少なくとも広がりはしない。
これは過去のエッセイでも「"ひょん"神の一撃」とか多々書いてますから以下割愛します。あと、「弱さの罪」で書いた、「『自分は○○な人』という自己の決めつけがやたら強い人」も同じ文脈になると思います。決めつけた分だけ閉ざされてしまうのは、「関係ない」といって転機をミスるのと同じことです。
A原理抽出型(他山の石型)
うだうだ書いてたら紙幅が尽きてきた。駆け足でいきます。
これは、他人の境遇や行動から何らかの法則なり教訓をエスプレッソマシンのように抽出し、自分にあてはめたり、参考にするという意味で「関係がある」という場合です。他人の行動が自分に影響を与えるわけではないという意味では、@のコミットメントはないのだけど、それでも尚も学び取るものはあるだろうと。
これも広く考えていけば、およそこの世のことで「関係ない」ことなどありえない。どんな人でも、どんな出来事でも参考になる。どこにあるのか分からないような遠方の国の出来事も、数千年の時空を隔てた古代王国の盛衰も、その気になったらいくらでも使える。学べる。「温故知新」という概念はまさにそれ。
その意味では、なにをどう考えたら「関係ない」なんて思えるのか、そこが逆に不思議だったりもします。
ロッキンオンJAPAN
今を遡ること20年前。弁護士業をやりつつ、まだオーストラリアに行こうなどと思いついてもいない頃、けっこう熱心に「ロッキンオンJAPAN」誌を読んでおりました。その後、そしてリアルタイムにどうなってるのか知らないけど、当時の同誌は「2万字インタビュー」とかやたらツッコミまくるインタビューが多く、単なる音楽論ではなく、ほとんど人生論のような感じで展開しており、それらが読み応えあったのです。
そこでは「今度のアルバムは自信作ですよ、是非聴いてください」的な通り一遍な話では終らず、「なぜこの時期にこんなアルバムを作ったのだ?」と、ときとして難詰せんばかりの問い掛けがあり、喧嘩のような言い争いになったりすらするという。そこで炙り出されるのは普遍的な悩みです。
ミュージシャンとしてプロになること、それは単純にスターダムにのし上がるということではなく、誰もが普通に悩む、普遍的な問題に直面すること。すなわち、「売れなければならない」という絶対的な制約をかぶせられることであり、自己表現としての音楽と「売れる」という商業目的は、往々にして相反する。そこで皆悩むのですね。
つまり、生きていくにあたって「やりたいこと」VS「やらねばならないこと」の対立という普遍的な構図です。好きに自由に生きていきたい、そのための人生だろうって思う反面、最低限のお金は稼がないとならない。最低限っていっても、そのハードルは結構高く、そんなに片手間でちょいちょいと稼げるものではない。朝から晩まで必死こいてはたらいて、それでも最低限に満たないことすらある。しかし、一度しかない人生、そんなことやって擦り切れていっていいのか。ワタシの人生は大根おろし、ガリガリ削られて短くなっていく、、でいいのか?と。
しかしながら、やりました!成功しました!万歳!ってなった後にも、「ああ、しかし、人生は続く」という次の難関が待っている。
アーチストというのは、取りあえずやりたいことが具現化し、それをやる機会に恵まれ、またプロデビューすればやりたいことが収入につながるという幸福な関係になるのですが、それを維持するにあたっては、同じ問題が出てくる。より激しく出てくるといっていい。下手に売れ線狙いの曲を作って「金に魂を売った」みたいなことをしたら、ロックの神様に顔向けが出来ない。でも、レコード会社の担当者はあれしろ、これしろと言ってくる。CDの売り上げが落ちているとか、ライブの動員が減ってきているとか、あーもー!という。
ここでさらに難しいのは、「バカヤロー!カタギの算盤弾いてロックが出来るか」ってやれば良いってもんでもないことです。取りあえず売れないとか、契約打ち切られて再び無収入になるとかいうこと以上に、「自己表現に内在する限界」があるということです。何かというと、自分100%の作品を作ってしまうと、結局理解できるのは自分だけってことになり、自己満足的で、普遍性を失うし、訴求力を無くす。あまりにも自分を打ちだしてすぎてしまうと、誰もついてこれなくなり、結局それって「世に出す」意味があるのか?一人で趣味でやってりゃいいんじゃないか?他人に聞かせることを前提に作るならば、他人と共有するものがなければならず、それはある意味「自分性」の純度を落とすことにもなる。これ難しいですよ。自分でなければ意味がないけど、自分でありすぎてしまうと接点を失って失速するという。
これって別に音楽に限らないです。どんな事柄にも当てはまる。
一つなにかで成功しました。質を維持するのは難しいけど、とりあえずこのパターンを繰り返していけば商業的・経済的には保証されるような気がする。しかし、それってマンネリであり、ワンパターンではないのかって疑問もある。だから当面はいいけど、いずれは飽きられ、時代後れになっていくのではないかという恐怖がある。そこでパターンを同じにしながらも、さらに突き進んで進化すればいいんだけど、そんなの口でいうほど簡単な話ではない。のたうち廻って血を吐くような思いで作り上げるのだけど、やはりどっかしら過去の成功をなぞるような「自己模倣」に陥ったりもする。
これは画家や小説家、いや企業経営においても、誰の人生においても同じでしょう。
一発当りました、儲かりました、めでたしめでたしでは終らない。「いつまでも幸せに暮しましたとさ」で終ってくれない。成功した瞬間、世間では猛烈にコピー商品が出回り、猛烈に追い上げられる。創業者利益を得つつ、先行ランナーとしてのアドバンテージを活かしながら、距離を詰めさせずさらに突っ走れるか?ここで焦って、突っ走るために突っ走ったらドカン!です。かといって何もしないとズタズタに食い荒らされる。何かやらなきゃいけないけど、下手に動いたら命取りになる。進退窮まってくる。
成功の罠
この種の悩み=成功したら人生がばっと開ける筈だったのに、成功したことによってむしろ人生の選択肢が狭まってしまうという。「こ、こんな筈では、、」ってうろたえる。「贅沢な悩み」って言ってしまえばそれまでだけど、贅沢な悩みの方が、贅沢ではない悩みよりも遙かに複雑で深刻だったりするのだ。
弁護士になると世界が開け、選択肢がばっと増えるかというと、一面では確かにそうです。長いことやってりゃロータリークラブやら、都道府県の教育委員会や公安委員会に選ばれたりして、いわゆる「名士」になったり。しかし、反面、そういう定型的なことではない自分色は出しにくくなる。僕も弁護士やりながら、NPO的な、もっとヘンテコリンな、APLaCみたいなことをやろうと考えたこともあるのですが、断念しました。当時の規定では、弁護士は弁護士業務以外やっちゃいけないことになっているし、事務所も二つ以上持てない、広告も出来ない。これは後日だいぶ解禁されたのですが、それでも日本において「元弁護士」がなんか弁護士業以外のことをやってると、胡散臭く思われる。この「元」というのがネガティブなイメージをもたれがち。やれ不祥事を起こして除名になったんじゃないかとか、痛くもない腹を探られる。「こ、こんな筈では」と思いましたよねえ。人生の選択肢が狭まってしまう。そこでこの枠組みそれ自体を一旦ぶっ壊して、チャラ・リセットするために、ポーンとオーストラリアに行っちゃえってことになったのですが。
同じ事は、例えば大学入試で「妙に」有名大学に入ってしまった、就活が予想外に成功して「妙に」いいところに就職できてしまったって場合にも出てくるでしょう。仕事がクソ詰まらない、しかし全てご破算にするにはもったいなさ過ぎる、ああどうしよ?と思いつつ、どんどん仕事は忙しくなり、どんどん年齢だけが上がっていく。あるいは仕事はそこそこ面白い、やりがいもある。しかし自分に残された全人生を埋めるには明らかに足りない。足りない気がするぞ。じゃあどうするの?ううう、、、
だから「ロッキンオンJAPAN」だったのですね。
もう、メチャクチャ考えさせられる論点が次から次へと出てくる。そこではミュージシャンが七転八倒しながら、「でも原点はこれだろ?」と確認したり、腹括ったり、勝負に出たり、さらに開き直って偉大なるマンネリを逆に楽しんだりしていて、すごーく参考になってました。もちろん「参考になる」って読み方ではなく、「おー、おもしれー」て感じで読んでただけですが、ザクザクと頭の中は耕されました。
何の話か?という、「どんなものでも参考になる」「どんなものでも関係ある」ということです。
というわけで
というわけで、この世に「関係ない」なんてことは基本的にないと思います。
関係がある/ないのではなく、関係性=意味性を見いだすか、創造するかでしょう。
それはどんな自分物語を作るのかであり、どこからエッセンスを抽出して学ぶかです。
それらは常に開いておき、発展可能性を残しておいた方がいい。
「関係ない」と言ってしまったら、そこで閉ざされ、そこで終わりです。
僕自身、ニュースとかネットなどを見ていて、どう考えても関係ないだろうって思えるような記事でも、「関係ない」とは思わないようにしています。もう意地でも。
そう思ったところで、ただちにブッ太い関係性が生まれるわけではないけど、何にでも興味を持とうとしておけば、それが積み重なったり、発酵したりで、あとになって思わぬものを産み出すこともあります。これまではそうだったし、多分これからもそうでしょう。
ちょっと前に、シドニー現地の新聞の特集記事に、ルーマニアのジプシー一族の娘さんの結婚話が載ってました。あそこも旧態依然とした婚姻のシキタリがあったりする反面、若いもんはそれに反撥して自由を求めるって話なんだけど、どこでも似たような話はあるのね、って思いました。しかし、オーストラリアの新聞に、ルーマニアのジプシーの新旧世代の話が載るわけですよ。それも特集記事で。だから「関係ない」とは思ってないのですよね。関係ないと思ってたら新聞にも載せないだろうし、そもそも取材をするライターもいないでしょう。
関係あると思えるかどうか、これは興味があると思えるかどうかと置き換えてもいいけど、それはある意味では自分の生命力や精神状態のバロメーターだと思っています。鬱など神経を病んでくると「外界への興味が薄らぐ」というのはよく言われます。逆に生命力があふれている赤ちゃんは、何にでも興味を示し、とりあえず触ろうとし、取りあえず食べようとすらする。だから変なモノを飲み込んで大変な騒ぎになるのだけど。
最後に、「関係しよう」という主観的選択があって、関係性が生じるのではなく、その逆のパターンもあります。典型的には、海外に行くことです。大本の所では「行く」という主体的選択があるのだけど、行ってしまったあとは、その逆になる。
見知らぬ国に行ってしまえば、周囲の全てがそれまで「関係ない」と思ってた事象で埋め尽くされます。そこでは、主体的選択もヘチマもなく、まず関係してくる。もう津波のように次から次へと他者が登場し、物事が起き、事件も起きる。ほとんど一方的に関係を強制されるといってもいい。
しかし、それが大きな学びと成長にもなります。
自分一人の「主体的選択」とやらに任せておいては、しょせんはビビリで小心者の自分のこと、ろくに大胆な選択などすることもない。チマチマした自分ワールドは、なかなか広がっていってくれない。逆に、主体もクソもない怒濤の関係性に揉まれていたら、その関係性によって逆に自分が広がるし、開かれていく。
ある意味では大変ですけど、ある意味では楽です。
ジェットコースターのレールを、一人でトボトボ歩いていくのは難しい。360度ループしてるところなんかどうしようもないし。でも、ジェットコースターに乗ってしまえば、座ったままキャーキャー言ってれば自動的に一周するんだから、これは楽ですよね。
人が旅に出るとか、何か新しい環境に入る(結婚するとか)いうのは、そういうことなんだろうなあって思います。
文責:田村