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今週の1枚(2012/12/24)



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Essay 599:弱点(ハンデ)は容易に武器になりうること

ハンデ(凹み)とは即ち「器」であり、なにかが溜まる

 写真は、先日食べたFivedockのイタリア料理屋のクリスマスの飾り付け
 センスいいな〜と思ってしまいました。ツリーにぶら下げる玉をまとめて大きなグラスに入れておくだけで、スタイリッシュな飾り付けになってしまうという。

腰痛の転換戦略


 「弱点は容易に武器になりうる」という話を前回の最後の方にチラと書きました。今週はそれを展開し、さらに広げます。

 この話が出てきた発端は、先日、腰痛持ちの方がワーホリに来られたときです。
 僕も腰痛持ちで年中グキッ!とやってるのでその切なさは分かるのですが、例えば、授業をずっと座ったまま受けることが出来ないとか、シェア探しやバイトでも歩きすぎたり、立ったままだったり、重い荷物を運んだりという環境はNGであるとか。ましてやラウンドや旅に出て、バス数十時間座ったままはしんどいとか、ファームでもピッキングでも大きな制約を受けます。「こんなんでやっていけるのだろうか、不安」と。わかります。わかりすぎるくらいに。

 これらはめちゃくちゃヘビー級の「ハンデ」「弱点」として意識されるのですが、でも、そんなのやり方次第で幾らでもクリアできるし、逆にそれが武器になりうる。従来の選択肢は確かに減るかもしれないけど、逆に思ってもみなかった選択肢が増える。だから、ハンデなどという防衛意識、守りの姿勢で考えているとどんどん選択の幅が狭まってしんどくなるけど、攻めの姿勢で考えていくのが大事じゃないかと話合っておりました。

ユニークな個性にしてしまう

 何を言っているかというと、まず英語学校の授業中に教室を抜け出してストレッチをやったり、時々立ち上がったりすることは予め先生やクラスメートに事情を話せば、まず「ダメ」などとは言われない。むしろ積極的に話して理解を求めることで、先生やクラスメートとの距離が縮まるではないか。もう自己紹介の段階でガンガン言っていけばいい。腰痛のことを英語で "(lower) back pain"といいますが、"back pain is my middle name"くらい言え(^_^)、もう名前にしちゃえとか。10-20人いたら一人くらいは似たような悩みを抱えている筈で、それをキッカケに急速に親しくなったりします。この種の「健康ネタ」「お達者ネタ」は、雑談の定番ネタであり、初対面で何を話していいのか分からないときに格好のネタになりえます。堅苦しい雰囲気を壊して打ち解けることを英語で"breaking the ice"と言いますが、まさにその効用がある。

 とりあえずは腰痛持ちであること、これこれこういう症状で、どうすると悪化し、どうすると緩和するとか、どのくらい患っているのかとか、どういう個人的な対処法やギアを持っているのかとか、いちいち全部英語で言えるように予め英作文して用意しておき、事あるごとに言っていれば、どんどん表現も洗練されるし、ほどなくして立て板に水で言えるようになる。

 このように、「ハンデ」を逆手に取って、「ユニークな個性」に転換させてしまうというやり方は、実は他にもいろいろあります。ハンデが弱点にならず、いや弱点ではあるのだけど、それ以上にお釣りが来るくらいユニークな個性になっているという。腰痛持ちなどというレベルではなく、身体箇所の欠損という「身障者であり且つヒーロー」が古来いかに多いことか?例えば、隻眼。片目しか見えないので遠近感が無く、活発な運動(特に戦闘)では致命的に不利である筈なのにヒーローになってる人達としては、伊達 "独眼竜" 政宗がいますし、武田信玄の伝説的軍師である山本勘助(この人は片足不自由でもある)、柳生十兵衛、三国志の夏侯惇、イスラエルのダヤン将軍などなど。彼らは弱々しいイメージどころか、眼帯してるからこそ余計に強そうにすらみえます。ちなみにあまり知られてないケースでは、タモリ、野田秀樹、デビットボウイ、小泉八雲、相撲の双葉山、刑事コロンボのピーターフォーク、対ローマ戦争の英雄ハンニバルもそうです。

 片目どころか両目失明の座頭市がいます。目が見えないことが独特の緊張感と個性を生む。モービー・ディック(白鯨)のエイハブ船長は片足義足だし(おまけに隻眼として描かれる場合もある)、丹下左善は隻腕+隻眼、海賊船の船長はお約束のように片腕義手だし+眼帯+義足くらいしてたりする。いずれもかなり活動的な生活をしていて、これらの身体障害は普通致命的なハンデになる筈なんだけど、ちっとも弱そうに見えない。さらには、ヘレンケラーのように全盲で聾唖という三重苦の例もあり、それが「だからこそ!」という強烈なネガポジ逆転を生じさせている。

 ここで僕は、「だから気にしなくてもいい」とか浅いレベルのことを言ってるのではなく、それを武器として転換するために「もっと気にしろ、考え抜け」と言っているわけです。

完璧な人などいない〜どのハンデだったらいいの?

 第二に、完璧に健康な人などまずいないし、なんの悩みもない人もまたいない。皆多かれ少なかれ健康上の悩みはある筈です。頭痛持ちであるとか、胃腸が虚弱であるとか、皮膚が弱いとか、肝臓がγGTP的にもうダメです、とか。それらに比べて腰痛が群を抜いてしんどいかというとそんなことはないです。この種の外傷性の問題というのは、内臓疾患などに比べて、わかりやすく物理的だから、むしろ付き合いやすいとも言える。

 さらに、知的・精神的な健康にいたっては、どうやって付き合えばいいのかすらよく分からないし、基本的に治癒や改善がありえないようなものもある。また、ディスレクシアとか、多動性障害など存在そのものが最近分かってきたようなものもある。加えて、根気がないとか、浪費性とか、あがり症だとか、すぐ喧嘩ばかりするとか、性格に問題があり自分でもそれで悩んでいる人も多い。

 人は必ずその種のトラブルの一つや二つ、三つや四つは抱えているものです。まーったくこの種の悩みがない、ワタシこそが心身共に100点満点です!って言い切れる人は、自信過剰とか認識能力に問題があると思われます。

 生きていく上で、この種の「ハンデ」の幾つかを義務的に持たねばならないのだとしたら(義務ではないが事実上そのようなもの)、「何を選ぶ?」ってことですよ。あなただったらどうします?どのハンデだったら、まあ、まだ何とかやっていけそうですか?そう考えてみた場合、全盲になったり、自己破産4回目という浪費家になったりするの比べたら、腰痛なんかまだまだとっつきやすい方だと思いませんか?

 ここで何が言いたいかというと、自分のハンデ「だけ」見てると、いかに自分は不幸なのか、いかに割を食っているのか、いかに呪われているのか(笑)という発想になりがちだけど、視野をほんの少しパンしてみれば、別に自分だけが不幸なのでもなんでもないし、よくよく見れば自分だけ不幸がっているのが恥ずかしくなるくらい、皆も苦労しているのが分かる。呪われているというよりは、むしろ恵まれている/祝福されているくらいですらある。

 あ、これも「下を見て安心しろ」とか浅薄なことを言ってんじゃないですよ(わかると思うけど)。

 質量保存の法則のように、高校の地学で習ったアイソスタシーのように(覚えてますか?)、トータルでいえば誰もが似たようなものだと思うのですよ。問題はどこがヘコめば、どこが出っ張るか、何が良くなれば反作用として何が失われるか、何を失うと何を得られるかという関係性です。満たされるとハングリーさや攻撃性が鈍くなるとか、クルマを買ってしまうと便利な分だけ足腰が弱って中高年病にかかりやすいとか、素敵な結婚が出来たら友達が減るとか(^_^)、そこは慧眼であれってことです。

ハンデに救われる

 ハンデを負うことは、災害を未然に防ぐという効用もあります。意外と気づかれにくいのだけど。

 腰痛の人は、おのずと足の運びや体重移動、階段の上り下りには注意を払うようになります。ここで「注意を払わねばならない」と思うと負担になるのだけど、「注意を払うことが出来る」と考えればプラスになる。注意を払ってるから、むやみに階段からコケて怪我する機会も少なくなろうし、車道を無理やり走り抜けようとして事故に遭うこともない。事故に「遭えない」といってもいい。

 だいたい、ポックリ死んだり、思わぬ事故にあったりするのは、殺しても死なないような頑健な人だったりします。あまりにも健康だから注意力散漫になるのでしょう。酒に酔っぱらって、あんなことやったり、こんなことやったりして、死傷したり、職を失ったりするのは、もともと酒飲みの人が多い。下戸の人だったら、最初から飲めないし、飲んだところで気持ち悪くなってうずくまってるから、それ以上の大事故にはならない。なまじ頑丈だから頑張りすぎて過労死するのであって、最初から虚弱で休みがちだったら過労死するまで働けない。

 これは身体に関するものだけではないです。詐欺に騙されて大金巻き上げられたり、身代金目当てに誘拐されたりするのは、最初からお金を持ってる人です。僕のようなつましい庶民は、さらって欲しくても誰もさらってくれません。

 つまり、適当なハンデが、より大きな悲劇を未然にふせぐ自然の防波堤になっているのですね。

 その意味でいえば、原発や放射能もそうです。これは福島県から来た人と話してたのですが、たぶん100年たって統計取ったら、事故死を除いた平均寿命は福島県が一番伸びるかもしれないと。医学的な機序はまだ不明だと思いますが、蓄積放射能の健康被害が発ガン性だけに絞られるとすれば、ガンというのはコマメに検査を繰り返して早期発見すれば事なきを得るのですから、要はより早く見つけるか、より多く検査するかにかかってます。原発被害のエリアの人は、当然そのあたりが気になるでしょうから、全国平均よりも多く検診を受けるでしょう。国や自治体だって全くの無策というわけにもいかないでしょうし、カッコつけでもなんでも何かやるだろうし予算も組む。

 これは冗談みたいだけど、昔から「持病の一つやふたつは飼っておけ」と言いますもん。健康すぎるのも考えもので、ものすごくガードが下がる、あげく中高年になって思わぬ足下をすくわれるし、一気に老け込むリスクも高い。ところが最初から適度に不調だったら、何をするにも慎重になるし、健康に対する健全な理解も進む。結果としてそちらの方が長生きするし、トータルでのQOL(Quality of Life)も高い。

 コメディアンとかエンターティナーは、本物のプロになろうと思えば、元来が引っ込み思案で内向的な人の方が向いていると言います。素人レベルで「職場の人気者」になるだけだったら、地の面白さで外向的な人が有利なんですけど、そこには「芸」はない。もともと地で面白い人はそれだけで結構いけてしまうから、真剣に芸を磨く機会に乏しい。でも、引っ込み思案の人は、人前に出るだけでも大冒険ですから、必死に考える。どうやったら受けるのか、どうやったら笑いを取れるのか、それを真剣に考える。だから逆に大成すると。何によらず不器用な人の方が大成するって言いますよね。器用で要領のいい人は、「器用貧乏」っていうくらいで、すぐにそこそこは行くけどそこそこしかいけない。

 ハンデは必ず反動を生みます。そして、その反動が好ましいものである場合、ハンデのマイナスを越えてしまって、却って「お釣りが来る」ようなプラスになるということですね。

 でも常にそうなるわけじゃないですよ。反動が好ましくない場合もありますから。小さなハンデで大きく意気阻喪し、絶望し、何もかもやる気が無くなり、そのハンデをダメなことの言い訳に使うようになり、その言い訳の使い方ばっかり上手になり、それが上手になる分どんどん何もしなくなる、、という悪魔のサイクルもあります。マイナスの雪だるま効果ですね。どこに分岐的があるのか?といえば、単に考え方一つですよね。

ビジネスチャンスになる

 第四に、より積極的な「武器論」で、ハンデや弱点を負えば「ユニークな視点」を生み、新しいビジネスチャンスを掴めるかもしれないということです。

 自分が腰痛だったら、日本に腰痛者は100人に一人はいると言われてますから(実感的にはもっといそうだけど)、全国100万人(1億人の1%)の腰痛同志のためのガイドブックを書けるだろう。例えば、「腰痛持ちのためのオーストラリア・ワーホリ完全ガイドブック」という本を書けばいいじゃん、と。

 これは、ほんと、自分がそれにサファー(suffer, 苦しむ)してないと思いつかない視点が山ほどありますから。腰痛持ちにとって、オーストラリアのベッドや枕などの寝具環境はどうか、椅子環境はどうか、交通手段はどうか、階段はどうか、レストランのテーブルはどうか。英語学校や職場で腰痛持ちであることを伝え、それなりの配慮を求めるための英会話の文例集とか、さらに「こう言われたら、こう言え」というより実戦性の高い英文ヒントとか。また医者や療法士にかかる場合、どこにいけばいいか、どうすればいいか、何をされるか、幾らくらいかかるか、オススメはどこか。シェア探しはどうするか、シドニー中の全ジャパレスにアンケートを配って「腰痛持ちを雇う気があるか」と質問してその回収結果と優良回答をしたレストランには個別訪問してインタビューしたり。また、数十時間乗るバスの旅は実際には休憩が多いので何とななるとか何ともならないとか、途中下車を頻繁に繰り返すにはグレハンのどのチケットがオススメかとか、どんな作物のピッキングだったらいいのかとか、腰に優しく二回目ワーホリを取るためにはどんな方策があるかとか、そんなことでもないと下りない片田舎の町が実は素晴らしかった体験談とか、1年ワーホリやって結果として腰痛は改善したのかしないのか、それはなぜかとか、、、、300頁くらいの本だったら楽勝に書けるくらいのコンテンツはすぐに溜まるはずです。

 ここで大事なのは、単に企画やアイデアとしてそれを調査しているわけではなく、自分がイチ腰痛持ちとして実際に調べざるを得ず、体験せざるを得ず、イヤでもやるし、興味もあるってことです。別に本とか企画のためにわざわざやる必要なんか全然なくて、ほっといても自分で体験するし、その上調べれば調べるほど自分の辛い腰痛ライフが快適になるという。

 そして、これらの視点は、本物の腰痛持ちでないと分からないというのが、絶対的な強みになります。なんせ激痛・鈍痛の腰痛センサーというこの上ない武器があるわけで、絶対に盲点というのがありえない。だって痛いんだもん。イヤでも分かる。

 で、本当にそんな本が出るかどうかは分かりませんが、この出版不況の世の中、それでも新規出版点数が嘘みたいに膨大な日本において、本の一冊や二冊だしたところで金銭的には全くといっていいほど儲かりませんし(大体が初版で終わりだし)、それほど他人に感銘を与えるものでもない。だから「本を出す」を必要はなく、要はコンテンツです。本ではなく、こうやってホームページにすればいいわけだし、そうすれば読者とインタラクティブな関係が出来る。

 早い話がこのAPLaCだって、最初からこんなビジネス企画としてやってたわけではなく、オーストラリアにきて、「こうするといいよ」と実体験したことを書き殴ってただけです。それがメールを呼び、質問を受け、調べてやってるうちに留学/移住生活相談員みたいになって、その中であれこれやってるうちに、たまたま語学学校に紹介するとコミッションが貰えるという部分を含むから収入というカタチになって、、、という、いわば「なりゆき」です。最初からビジネスとしてやってるわけでもないし、今でもそんなにムキになってビジネスやってないです。例えばこんな一銭にもならないエッセイも来週で600回目になるわけですからね。書きたいから書いてるだけってスタンスは一貫してるし、それに伴ってあれこれ頼まれ事や相談があるのも一緒。儲かるか儲からないかだけで動いているわけでもないし、その意味でビジネスマインドは低いっちゃ低い。言ってみれば、好きに生きてたらこうなっちゃいました、みたいなものです。

 何が言いたいかというと、お金を稼ぐというビジネス部分は、トロール漁船みたいに網のほんの一部にひっかかればいいということです。90%以上無駄でも構わんのですよ。どっかで換金メカニズムが働けばいいし、あまりにそればっか狙ってるとあざとくなりすぎて逆にダメだったりもする。

予想も付かない「なりゆき」と、「なんだか分からない」ユニークな形態

 ただし、これには条件があります。
 一つめの条件は、それが自分のライフスタイルにナチュラルに適合していること。
 ビジネスになろうがなるまいが、やってることは同じって感じになるといい。腰痛の場合、それで儲かろうが儲かるまいが、腰を気にして生活し、あれこれ調べて、経験して、失敗して、学んで、、、という行動そのものは全く同じです。敢えてわざわざビジネスのために腰痛になってるわけでも、苦しんでいるわけでもない。しかし、それらによって得た情報、教訓は、同じ立場にある人にとってはとても貴重なものです。僕も同じようにこちらに来て散々苦労して、後になって「ああ、こうすりゃ良かった」と思うことは沢山ある。それを自分だけで抱えていたらそれきり死蔵だけど、どうせだったら皆に教えてあげたらいい。感謝されるとか、儲かるとかいうのと関係なく、資源(知識)の有効利用という意味がある。

 で、あれこれやってて、メールの返事とか書いたり、何か調べてみたりしているうちに、ひょんなことから換金メカが出来てしまえば、それは良し。出来なくたって元々でしょう?ほとんど何の損もない。てか、知らない人と知り合えるだけでも人生豊かになるし、嘘のない関係性が築ければそれは小さな幸福と呼んでもいい。

 第二の条件としてはレベルがあります。
 腰痛といっても色々な段階があるのだし、自分には差し支えないけど、重度の人だったらどうか、軽度の人だったらどうか、人によって千差万別だから、通り一遍な調べ方ではなく、より突っこんだ調査や考察は必要になってくるでしょう。単に自分の体験談から、万人に通用する普遍的な知識に昇格するためには、やっぱりそれなりのレベルの底上げは必要です。でないとただの個人ブログになってしまう。ある程度はムキになって考えて、調べて、また考えて、、、てのをしないとならない。プロとアマの差はこのムキ度の差でしょう。でも、これってもともと興味のある領域だからそんなにしんどくはないでしょう?

 これが、また、第一の条件にフィードバックします。もともとナチュラルな自分のライフスタイルに適合していること、です。お金のためにやりたくもないことやってると、まあ、長続きはしないでしょうし、レベルも低いままでしょう。それにどこに換金メカニズムが生じるかどうかは、やってみないと分からないし、かなりの程度成り行き勝負でから、ロングスパンでやらないとならない。ゆえにやってて負担になるようだったら辞めた方がいい。


 というわけで一定水準のことをコンスタントにやっていれば、それなりの展開になっていくでしょう。そしてその展開は予め読めないし、また既存の仕事概念からはどんどん離れてユニークなモノになっていくでしょう。

 腰痛ガイドだって、最初は素朴なブログでいいんだけど、やってるうちにムキになって、あれこれ調べていくうちに充実していく。読者からのメールも来る。親身に相談に乗ってるうちに、もう口やコトバで言ってるだけでは足りなくなり、こっちに来たらアテンドしましょう、英語が不自由だったら一緒についていってシェアでも学校でも交渉してあげましょう。腰にいい家具屋に連れて行きましょう。フィジオセラピストの予約も同行もしましょうってやる。ついては無料はあんまりだから実費だけでもってことになり、僅かばかりの謝礼を貰うかもしれない。この時点で「なんだかわかんないビジネス」が萌芽します。これって旅行代理店?留学エージェント?不動産屋?英語の通訳?そのどれでもないし、どれでもあるという、ユニークな形態になっていく。

 さらに、思ってもみないところからレスポンスがくる。最初は「腰痛ワーホリ専門家」みたいだっただけど、ワーホリ部分が取れて、腰痛持ちの一般観光客や駐在員さんに広がり、さらにはシルバー世代の腰痛観光にニーズが広がり、さらには腰痛に限らず色盲だったらどうかとか、ハンデ部分が広がり、ひいては「ハンデと賢く共存し、人生を豊かにする」という普遍的なものに広がり、支持者も広がり、出資者も出てきてそのための施設やら学校を作ったらどうかという話になるとか、、、、。こんなん何がどうなるか分からんのです。文字通り「病膏肓に入る」で、面倒だから自分自身が医者になっちゃえとか、療法士になっちゃえと大学に入り直すかもしれないし。

 ここで思うのは、自分のライフスタイルと適合しているんだったら、最初から「完璧なビジネスプラン」なんか作らない方がいいってことです。

 ビジネスプラン(だけ)ってのは、資本も設備もある企業のやることです。個人には全く別の論理がある。ここを展開するとまた長くなるのだけど、企業(法人)というのは実在しない架空の法人格ですから、「気持ちいい」とか「楽しい」「やり甲斐がある」という生理的な感情を持ち得ない。企業に従事する個々人にはそういう感情はもちろんあるだろうけど、法人それ自体には感情はないし、感情が企業方針を決定することも、収支計算に影響を与えることもない。また当然ながらライフスタイルも法人にはない。でも個人には生理感情もライフスタイルもある。個人というのはやってる本人が納得してれば何でも出来てしまう。法人よりも遙かに行動範囲が広い。また、儲からなくても楽しかったら「ま、いっか」と思える。収支勘定に感情という強烈なワイルドカードが入る。全然行動原理が違う。

 それに、いくら「完璧なプラン」を作ろうとも、どーせその通りいくわきゃないし、そんな意識でいると妙な臭みも出てくるし。それよりも一つ一つを真面目に、誠実にこなしていく方がいい。そして、何よりも「なりゆき」「流れ」を大事にすることでしょう。大事にするというのは、流れを見極めることで、やたら乗ればいいってもんじゃない。自分のライフスタイルと相反する流れだったら敢えて乗らないのも大事。

 以上、このあたりは幾らでも書けるのですが、それもこれも全て「最初にハンデありき」です。ハンデや弱点がなかったら、そういうユニークな視点も持ち得ないし、継続することも出来ない。ゆえに、「ハンデ(弱点)は容易に武器になりうる」という次第です。

 ちなみに、その方と話してて、あまりにも早く腰痛が治ってしまうのも考えものだよね、武器が無くなっちゃうよね、完治しないように適当に無理しないとダメだよねとか、ひと笑いしてオチがついたのでした。

一般化〜凹みとは「器」である

 いま、たまたま腰痛を例にあげましたが、これはほんの一例に過ぎません。
 対象はどんなことでもいい。

 「ワーホリに行く」「海外に行く」という切り口をとってみても、「○○の人がワーホリに行くとどうか?」というカタチで、○○には無限のバリエーションがあります。

 ちょっと精神的にヤバめですとか、自律神経失調症になりかけですって人が、ワーホリに行くとしたら、いわゆる一般的なワーホリの形態とはちょっと違ったものになるでしょう。渡豪直前の不安に耐えられるのかとか、ステイやシェア先でやっていけるのかとか、学校内の人間関係はどうしたらいいのかとか、バイトはどうする、ラウンドはどうする、、、これも腰痛と同じで、特殊な配慮が必要だし、それなりに対策もあるでしょう。それを模索し、実行することで、自然と知識とスキルが蓄積します。ある程度蓄積したら、今度はそれを他人に教えてあげればいいわけです。

 なにか特殊なアレルギーのある人だってそうだし、ペットを連れてワーホリに来る人(かつて居ました)、類例は多いだろうけど親子留学とか、ひきこもり気味の息子を連れて強引にオーストラリア一周しましたとか、サーフィンを極めにきましたとか、婚活にきましたとか、ゲイなんですけどこっちはゲイに寛容ってほんとですか?とか、、、ほんと、人によって個々人のテーマは沢山あります。

 ここまでくると、何がハンデで何が個性で何が目的なのか区別がつかなくなりますし、もともと区別なんか付かなくて良いのだと思います。本質的には同じ事だと思う。要は素晴らしくなりたい、豊かに生きたいというゴールは同じで、人によってそれぞれ障害物競走のように穴ぼこがあったりハードルがあったりする。こんな穴ぼこをクリアしました、ここで泥沼にはまりますって、それぞれに紆余曲折があり、ささやかな個人史があり、そしてそこに貴重なノウハウが蜜のように溜まる。それを有効利用すればいいじゃん、ってことです。


 ハンデというのはヘコみ、くぼみ、凹みです。

 「凹」という形状をしている。
 コップみたいですよね?

 だから自然と「なにか」が貯まる。溜まる。

 凹んでる部分を、「理想の状態からの欠落」とだけ考えていると気分は落ち込むのだけど、「なにかを貯められる器をもっている」と考えたらいいです。だから「武"器"」です。

 だって、実際そのとおりなんだもん。本当にそうなんだもん。

 そして、さらにグッドニュースは、別に頑張って貯めようとしなくても自然に貯まってしまう、という点です。ハンデに伴い滑った転んだで生きているだけで、自然に貯まってしまう。イヤでも考えるし、イヤでも経験値はあがるし、イヤでも知識は増えるし、イヤでも理解力は深くなる。貯めるために意識しなくてもいい。


 だから別に、あらためてなーんもせんでもいいです。
 今まで通り生きていればいい。

 必要なのは「気づくこと」です。
 自分が「器」を持っていることに。
 そして、その器に「なにか」が貯まっていることに。

 そして、その器の大きさのことを人は「器量」と呼ぶのでしょう。
 ハンデの大きさは器の大きさであり、「逆境は人を育てる」「苦労は買ってでもしろ」というのも同じ原理でしょう。

 ということで、
 Always, think what you've got! です。
 今、自分が何を得てきたのか、それに自覚的であれ、と。

 で、なにかが貯まってるような気がしたら、さあ、仕事だ!です。
 それは一体なんなのか、そしてどうやったら活用できるのか。

 最初からそれでなんかビジネスが出来るんじゃないか?なんて考えない方がいいです。
 先ほど書いたように、お金というのは、とりわけ起業というのは、ピンポールやパチンコのように、何がどうしてどうなったのかやってる本人もよく分からないけど、玉がジャラジャラ出てきた、みたいなものだと思います。具体的にどの一発の玉が、どこの釘に当って、次にどの釘に当って、そしてどちらに跳ね返り、最終的にホールに入ったか?なんて、わかりゃしないのだ。だからそんなもの余り考えすぎない方がいい。

 だもんで、これでお金が儲かるか?ではなく、これで「人助け」ができないか?と考えた方がいいと思います。
 だってビジネスって基本的に人助けだもん。
 だからこそ、ペイでも「報(むくい)酬」「謝礼」って言うじゃん。

 多少は人助けが出来るとしても、すごーく限られた領域で、すごーく該当者は少ないから意味がないって思える場合もあるでしょう。「○○で○○で○○の人」だったら多少はアドバイスできますという。「そんな奴いるんか?」って。でも、あなたには凄く限られた領域に思えるかもしれないけど、しかし、世間は思っている以上の1万倍は広いです。いるんだわ、ドンピシャとハマる人が。それも結構な数。

 そりゃあなたが身長が5メートルあって、目玉が8個ついてて、自由に空が飛べて、寿命が2000歳あるというなら、あんまり接点はないかもしれないよ。でも、だいたいは一緒でしょうが。特に日本人なんかの場合、金太郎飴のホモジニアス社会だから、人生や生活のパターンなんかせいぜいが1000パターン、いいとこ1万パターンくらいしかないんじゃないのかな。1万パターンに1億人を均等に割り振っても、一カテゴリーに1万人はいる。潜在マーケットが1万人おったら、自分ひとりだけのビジネスだったらまずは十分。

一応、経済的には、、、

 とまあ、好き勝手なことを書いているわけですが、これで終ってもいいですが、これだけだと和尚さんの禅話みたいで終っちゃうので、無粋ながらも多少の経済的な話を。

 経済的な裏付けらしきものも、無いわけではないです。
 というのは、これからの時代、特に先進国では、これまでのように普通の製造業でモノ作って、サラリーマンやって、、という生き方がどんどん狭まっていきます。それにこれ以上物質的な小間物が欲しいわけでもない。

 ニーズとしては、ライフスタイルをより広げる方向、より深める方向、より個別化する方向にいくでしょう。より自分らしく、より気持ち良く生きていきたいという。こんなことは30年前のマーケティングの理論で言われていたことですが、産業構造がそれに追いついていない。というか、ガチガチのエスカレーター社会でそんなに人生のハバが広くなかった。でも、エスカレーターが細くなったり、脱線したりで、その分不安もあるけど、その分自由度も増えた。

 だから、より自分らしく生きていける範囲は広がったとも言えます。事実結婚しない人だって半分くらいいるしね。昔は、女性で25歳、男性で30歳までに結婚しなかったら人間的にかなり問題があるように思われていた。だから、昔は結婚に関して「自分らしさ」を追求する余地は少なかった。殆ど「誰でもいい」って感じで、「適当にみつくろって!」っていう屋台のオデン屋さんみたいな感じだった。また「会社を途中で辞めるなんてのは、もう自殺行為でしたもん。今みたいに、結婚してない、転職だらけ、それどころか正社員経験がないなんて人は犯罪者扱いでした。今でも肩身は狭いだろうけど、もうそんなレベルじゃなかったです。

 でも、それらを「欠落」として捉える文脈はまだまだ多いですよね。旧来の発想からすれば、「自由になった」とは思えず、「落ちこぼれた」と思う。でも、「欠落」だと言い立てるほど昔が素晴らしかったわけでもないんだよなあ。また、言い立てたところで解決になるわけでもないし、その欠落者の数は増えることはあっても、減ることは予想しにくい。日本に限らず先進国はどこでもそう。

 だからこそその欠落を逆手にとって自由度が増えたと考え、その自由スペースをいかにして豊かに埋めていくかのノウハウが強く求められるでしょう。単に、落ち目になったから「身の程を知る」的に、慎ましく生きようとか、客観的にはミジメでも主観的には豊かに感じようという催眠術的なことではなく、より進化した生活形態として昇華させていくこと。

 どだい馬車馬みたいに働けばエラいんだみたいな発想自体が発展途上国の貧乏くさいメンタリティで、そういうゲームをやってたら、本当に発展途上のイケイケ上昇ムードの連中に勝てるわけがない。あいつらノリノリだし、もう勢いがすげーもん。そうではなく、「ここまできた」という先進性を自負するなら、「もっと先があるはず」とさらに追求するべきでしょう。

 そこから先はバーッと分岐してきますが、例えば、「みんなと一緒」というのも貧乏臭いですよね。それってアレでしょ、効率でしょう?皆で定食屋にいって、一人だけ違うモノを注文したら遅くなるから、全員同じものを注文しましょうという、大量処理の効率性の追求。そこには「早きゃいいんだ」という効率性しかなく、より美味しいものを、より自分が楽しいことをというインデビィジュアルな指向性はない。いわば国民服とか支給食糧みたいな貧乏くささで、先進国貴族がいつまでもそんなことやっていてはいけない。先進国は、ブランド商品がそうであるように、その貴族性こそが売り物になるのですからね。

 だもんでそれを追求すればするほど、細分化し、ニッチ化する。オーダーメイドで、作るのが面倒臭く、出来上がるにも時間がかかる、でも心地よく自分にフィットしたものが好まれる。

 これまでは大量生産大量消費の文脈がどうしてもあったから、ビジネスといえばスケールメリットで、大企業で、、って感じだった。それはこれからも残るとは思う。ファミレスやコンビニのオニギリみたいなものですね。でも、同時に、一見さんお断りの高級料亭はまだあるし、そこでは10年前の客でも食の好みや体調などしっかり記憶しているコンピュターみたいな女将がおって、個室に通され、注文すらすることなく、その日のメニューが絶妙なタイミングで次々に出される。そこには「大量処理」というファクターはなく、いかにインディビジュアルに極めるかが逆にポイントになる。どっちがより貴族的か?です。

 今はそれが高額だから中々手がでないけど、でもそれを破格に安く供給することが出来たらどうか?あるいは普通の値段でも、あなた個人のインディビジュアルな要求を、痒いところに手が届くように満たしてくれたらどうか?そんなことは大企業には不可能です。できないわけではないけど、システム的に難しい。それが可能なのは条件があって、一つは職人芸的なレベルの高さと、もう一つはそれほどの経済的リターンを求めないというモチベーション部分です。つまりはさっきまで書いていたことです。

 いずれにせよ、それらを成立させる大前提として必要なのは、消費者のニーズであり、しかも貴族的なニーズです。それは洗練されたセンスや、美的感覚、快楽感覚でしょう。イタリアやフランス、北欧家具なんかそれで成り立ってるようなもんですから。彼らがセンスが悪かったらもう終わりだもん。

 ひるがえって日本をみると、かなりのセンスをもってます。もともとが伝統的に美的感覚に優れているところに、飽食バブルを通り越えて磨かれている。それはお金を持っていない層にも及んでいる。だって、その昔の「成金趣味」って、今は流行らないでしょう?ドーンと豪邸を建てるところまでまだいいとして、そこに池を作って一匹200万円の錦鯉を飼うとか、玄関大広間にワケのわからない甲冑やら虎の敷き皮を置くのが、あなたの理想のゴールですか?お金は誰でも欲しいだろうけど、お金をゲットしたらそういう家に住みたいか?と。

 バブルの頃は、大都会の夜景をバーンと見下ろす高層マンションの最上階なんかが好まれましたけど、今はどうなんかなあ?僕ももういいやって感じです。お金がないのにこんなこと言ってもしょうがないかもしれないけど、そんな豪邸、そんなバーン!系の家に住むなら、本当の日本家屋に住みたいですね。広くなくていいから、古くてボロくてもいいから。ちゃあんと濡れ縁があってさ、障子がちゃんと白くてさ、雪見障子なんかもいいよね。すぐ近くに竹林なんかあったりして、それが夕暮れの驟雨になると笹の葉が玄妙な音をたてて耳を喜ばせるのさって感じの家がいいです。ドーン!とか、バーン!とかいうのは、もう、いいやって感じ。こういう好みの人も多いのではないですか?

 つまり日本では個々人の所得は減ってるけど、センスは上がってる(かもしれない)ってことですね。それが先進国ってもんでしょう。じゃあ、どうしたらいい?です。

 えー、これ、こんな調子で延々話が続くのですが、長くなったので今回はこれまで。
 というか、経済論は今回の本旨ではなく、主旨は、ハンデは武器になりうるということであり、これまで生きてきて蓄積されている筈の自分のリソースをちゃんと把握すること、その有効利用の方法を考えるといいんじゃないかってことでした。


文責:田村



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