いわゆる男性美
いわゆる「男らしさ」の美徳は幾つかありますが、その一つに「攻撃性のカッコよさ」があるでしょう。
それは例えば、肉体的&精神的な強さあり、強さに基づく美です。
最新鋭の戦闘機のような、世界最速の動物チーターのような、優美ささえ感じられるフィジカルな機能美。そして精神。ウジウジしないカラッとした精神の湿度。細かなことをチマチマこだわらない雄大なスケール。冷静な決断力、果断たる瞬発力。
男性型ヒーローは、常に何らかの「戦い」をしています。
あるときは大義のため、あるときは愛と平和のため、あるときは個人的な野望のため、強大な困難に敢然と立ち向かう偉丈夫こそが古典的な男性型の主人公の姿でした。三国志しかり、宮本武蔵しかり、「あしたのジョー」しかり。それは「戦闘美」ともいうべきカッコよさであり、ひいては武士道や騎士道などの「武のカッコよさ」にもつながります。
その凜冽さ、勇壮さを素朴に称えるメンタリティは昔からあり、端午の節句の五月人形や鎧カブトなどもそうですし、凧揚げや青森ねぶたの図案に武者絵があったりします。
男には戦闘がよく似合い、戦闘服は男の「晴着」でもあります。
中世戦場の武者姿は、それ自体が高度な工芸品だったりするし、軍人も式典にはピカピカの軍服をつけていく。ビジネスマンでも、仕事の現場ではビシッとしたスーツ姿で臨む。およそ男の服飾のうち、最もお金がかかって、最も凝り倒すのが「戦闘服」だったりします。
総じて言えば、男らしさとは「カッコいい攻撃性」とでもいうべきものでしょう。
ただ、それが往々にして誤解されたり、誤用されたりもします。
正義>暴力という強烈な制約
一つは、男らしさ=ワイルドさ=粗暴さと連なる誤解です。
苛烈な攻撃力は、非平和的であり、どうしても一連の粗暴さを伴います。いかに大義があろうが、いかに研ぎ澄まされた技術があろうが、いかにカッコ良かろうが、他者に対する攻撃は攻撃です。何をどう言おうが、ブン殴ってるものはブン殴っていることに変りはなく、とりあえず「乱暴」な行動ではある。
その乱暴さを上回る美徳/価値がある場合にのみ、そのマッチョさは賞賛されます。
チンピラにからまれている女性を守るとか、強大な権力悪から市井の弱者を守るなど、正義>暴力の不等式が明白な場合にのみ、主人公の振るう暴力は肯定されるし、時によっては殺人ですら快哉される(必殺仕事人のように)。
しかし、ここで「正義ってなに?」問題が出てきます。
実際の社会において、一方が100%悪で他方が100%善なんてシロクロ明白な場合は少ない。どちらにもそれなりに言い分があろうし。正当防衛や緊急避難など明白な場合を除いて、それほど正義というのは分かりやすくない。
そうなると「言ったもの勝ち」的な状況にもなります。自分の正当性を、より雄弁に、より説得的に展開した側に正義が宿るという、「発言権の強いやつ」「口が上手いやつ」が正義というヘンな話になります。要するにプロパガンダ合戦の勝者、広告の上手・下手で正義があっちにいったりこっちにいったりする。
したがって、(正当防衛のような)よほどのことがない限り、暴力や攻撃を肯定しうる正義などはないのであり、滅多なことでは暴力・攻撃が肯定されることはないという見解です。これは正しく、広く先進国社会一般に広まっているでしょう。
古来、武士道や騎士道など武の世界において、非常にストイックな倫理性が求められていたのは偶然ではないのでしょう。力とは、ただむき出しのままでは醜怪であり、極めて限定された局面=暴力が是認されうる優越価値がある局面=にのみ、その力を振るうことが許されるという。「空手に先手なし」というように、押して忍ぶ「押忍(おす)」の精神が求められる。物心つかないうちから何百万回と素振りをさせられながら、ついに生涯一度も腰の刀を抜くことなく過したとしても、それを無駄とは思わず、良いことだと思う。軍隊でも、シビリアン・コントロール(文民統制)を旨とします。
あんなに努力して、あんなに練習して、あんなにお金と手間暇をかけて肉体を鍛え、技を磨きながら、それを使う機会がないことを願うという。なんという矛盾、なんという無駄。
しかし、それこそが攻撃美をアイデンティティとする者の宿命であり、掟でしょう。その大矛盾と無駄に耐えることこそも、美しさの中に含まれているのだと思います。
掟破り
しかし、そんな辛くてストイックな掟は、往々にして破られます。掟破りの事態が起きる。
習い覚えた武道の技で、あるいは生来の体格腕力の強さで、後輩や弱者に暴力を振るい、支配し、ふんぞり返るという。
これはフィジカルな暴力だけではなく、言論においても同様です。
自己流の正義を言いつのって他人を攻撃する、それも激しく攻撃するような行為や風潮が後を絶たない。それを激しく、乱暴に、粗暴にやればやるほど、「男らしくてカッコいい」という錯覚が生まれる。
まあ、こうして言葉にしてしまうと、「そんな阿呆なこと誰がすんねん?」という気もするのですが、実際には多いです。特に政治や社会評論、世論においては、この愚劣なことがよく行われる。
いわゆる辛口評論とか、辛辣な批評とか、歯に衣着せぬ物言いが喝采を浴びたりするのもこのパターンとも言えます。辛口が全てダメなのではなく、それが的確であり、十分な資料と論理構成を持っており、しかも多くの人々が後難を恐れて口ごもるような状況で、敢然と異を唱えるのであればいいです。でも、見てると、誰もが言ってるような同じ事を、誰よりも口汚く罵っているだけで「辛口」「辛辣」になっている場合もあります。
そこでは、「辛さ」という「他者への攻撃性の激しさ」、つまりは「粗暴さ」ゆえにカッコいいという、マッチョさの錯覚があるように思います。
あるいは領土問題とかナショナリズム絡みのことは、この手のパターンに陥りやすいです。
もともと国家間の「正義」なんかかなり曖昧だし、それを冷静に考えられるような環境にもないです。A説とB説が対立した場合、目の前で激しく議論してもらえれば、それぞれの長所や短所もクールに検討できます。でも国家系とか集団系の問題というのは、A集団の中にいたらA説しか聞けない。A説の論拠ばっかり100聞かされて、B説の論拠を聞く機会がゼロに近いのであれば、誰だってA説に傾いて当然。だからBを言ってくる他国は、法外で理不尽な主張を振りかざす、問答無用に悪の権化のように思えても不思議ではないです。
本当の知性というのは、そのアンバランスな情報環境それ自体に疑問を持つべきなんだけど、なかなかそうも思えない。そして、一旦そう思いこんでしまったら、冷静な「正義な検討」なんかどうでも良くなって(自明の理になって)、あとは攻撃的であればあるほどカッコいい、男らしい、毅然としていて素晴らしいって話になります。
思い出すのは、日本史の教科書に載ってた1933年の日本の国際連合脱退の際の新聞記事です。覚えておられる方も多いと思いますが、当時の新聞が「我が代表、堂々退場す」とか書いてるんですよね。あの時期、世界の潮流は脱帝国主義に向かっており、昨日までアリだった露骨な植民地支配国(この場合は満州国)も、徐々にナシになりつつある時期でした。でも、日本はそういったグローバルな潮流が十分に読めず、列強も賛同してくれるだろう甘い考えでいたら、当時の国連でボロカス非難され、経済制裁すらされそうなので、場当たり的な国連脱退をやってしまったという。
結果論的にいえば、この時点で日本は自殺行為に踏み込んだも同然で、あとは因果の流れで粛々と敗戦まで進んでいってしまった。でも、当時、そういう視点で論じている国内世論は少なく、新聞でも「堂々としているかどうか」がメインテーマになっている。
つまりは、攻撃的で、毅然としているかどうか、「カッコいい攻撃性」があるかないかという情緒的な話になってしまっている。なんという低劣な知性。
攻撃性の麻薬
ヒトラーのナチスのユダヤ人叩きやら、優生思想もそうでしょう。
とにかく他者を叩く。激しく攻撃する。その攻撃が無慈悲で徹底的であればあるほど、一種の攻撃快感みたいなものが生まれて、社会全体がサディスティックになっていって、「あんな奴らは皆殺しにしてやればいいんだ」という感じにトチ狂っていく。その愚行に末に壮大な破滅が待っており、その後始末をさせられるのは、当時生まれてもいなかった後の世代だという。罪深いです。
アメリカの国境における不法移民叩きであったり、中東系ルックスをした人へのテロリストまがいの非難の目であったり、もうこの種のことは枚挙に暇がない。年がら年中、世界のどこの街角でも、似たようなことばっかやってる。
この愚かさの構成要素は、上に呼べたように、半分は「正義の判定」がいい加減だということです。
一方的な物言いだけでシロクロ決めてはならない、賛否両論50対50比率で聞かないものは決めてはならないんだけど、そうはならない。
もう一つは、正義がいい加減だろうが、何だろうが、攻撃には攻撃の壮挙美とか快感があって、それ自体が麻薬性を持つことです。
いわゆる「いじめ」もある意味ではこれに近い部分もあると思います。
ある集団で誰かがいじめられるようになる場合、被いじめ者が、ある程度非難されても仕方がないような行為をしており、たまりかねて周囲が注意しというのが発端だったりすることがあります。単なる注意で終ればいいんだけど、往々にして行きすぎる。ちょっとエラそげだったり、ちょっとワガママだったりで、皆の感情を逆撫でするから、「正義の鉄槌」的に注意し、だんだんエスカレートして停まらなくなり、しまいにはその攻撃性の麻薬に酔いしれて、集団リンチ状態になるという。
社会的な大事件の報道なんかもそうですね。攻撃性だけに酔い痴れるような。
凶悪事件に対する犯人や家族叩き、ちょっと前の生活保護不正受給とか、いじめ事件とか、だんだん叩くことが目的化していくという。
社会に限りません。個人的な喧嘩でもそうです。恋人とのいさかい、あるいは夫婦喧嘩でも、罵倒の応酬をしているうちに、自分のキツい言葉に自分が興奮してきて、どんどん言うことがエスカレートしてきて、しまいには「言ってはイケナイこと」「それを言っちゃおしまいよ」的な言動になって終ってしまうという。あの感覚です。アドレナリンが出てきて、血が酸っぱくなって、酩酊してくるような感覚。
オーストラリア
アラン・ジョーンズ舌禍事件〜オヤジ的マッチョ系暴論とその支持
オーストラリアでは、先週、アラン・ジョーンズというラジオのパーソナリティが失言問題で叩かれてました。過去のエッセイでも何度か触れていますが(自分で検索したら過去10年間に5回書いてた)、僕はこのアラン・ジョーンズというクソ親父が大嫌いで、どことなく石原都知事的に嫌いです。
何が嫌いかというと、弱者に対して差別的に叩いて、その叩き方の激しさをもって「男らしい」とか「信念の人」的に振る舞い、且つ強者や、人々の下世話な感情を美化迎合するというあたりに、中高年男性にありがちな醜悪さを感じるからです。悩みの無さ、弱者への配慮の無さ、デリカシーの無さ、進歩も何もない旧態依然の保守主義をもって伝統美的に称揚するあたりとか。21世紀の今となってはシーラカンス並に古代生物だと思うのだけど、でもまだ結構いるし、支持者もそれなりにいる。
よくいるじゃないですか、ニートの人や「うつ」の人に対して、ことさらに厳しい言動を取る人。「あんなの甘ったれているだけだ」とか。で、ややこしいのは、半分は僕らもそう思ったりもするし、半分は正しい部分もあるのだろうということです。単に甘ったれているだけって人だって、そりゃあいるだろうし、優しく過保護に接するほど事態が悪化するという側面も無いとはいえない。また、目の前でそうとしか思えないような事例に遭遇すれば、「ここだけの話、正直言って、いいかげんにしろって気分もありますよ」って言いたくなる人が出てきても不思議ではないです。
しかし、もうあと半分があります。「でもなあ」って思う。実際にしんどい人だっているんだろうし、そんな決めつけるような言い方や考え方をしたらダメだよなって思う。色んな場合があるから一概に言えないし、本当に大変な人には素直に心が痛んだりもする。
それを後半分を無視して、あいつらは社会の穀潰しだ、寄生虫だ、性根をたたき直してやれと言わんばかりに攻撃するのは、暴論ではあるのだけど、ムニャムニャして言いにくかったことをハッキリ代弁してくれるから、「言い過ぎだろ」って気もしつつも、同時に共感も快哉も叫びたくなる。微妙なところなんですよね、ここ。ここは本当にバランスが難しいところなので、ハッキリしなくて当たり前ですよ。誠実であればあるほど慎重になって当然。白でもあるし、黒でもあるという言い方になって当然。
このアラン・ジョーンズという親父がまさにそれで、18年前に僕が英語の勉強方々ラジオのトークバック番組を聞いていて、正確にリスニング出来ていないまでも、「聞いてるウチにムカムカする」という体験をしたおっさんでした。理屈もへったくれもないゴリゴリ保守派で、男女平等や、マルチカルチャルや国際親善、環境保護など、その種の「自称"進歩的"」で、ポリティカリーコレクトで偽善的な政策を攻撃する。かつてポーリンハンソンがでてきたら尻馬に乗って「アジア人は出ていけ」「ちゃんと英語喋れ」と言わんばかりの論調になるし、イラク戦争になればムスリムはテロリストだみたいな偏見を助長するし、結果としてクロヌラ暴動の伏線になるし、地球の温暖化は大嘘であんなものは環境ファシズムだみたいな感じ。それは現実の厳しさもなにも知らない甘ちゃん"do gooders"の偽善的理想であると。
それらの結果として、アボリジニやアジア系移民達の強欲な制度的搾取"rip off"(ぼったくり)が置き、「誠実で勤勉なオーストラリア人が作り上げてきた社会」を浸蝕し、 "hard working Australian"が割を食っているという論理、、、というか、ルサンチマンです。まあ、どこの国、どこの社会にもいる、支配階層なんだけど時代に乗り遅れて負け組化しつつある層に訴えるポピュリズム。でもって、このおっさん、「キャッシュ・フォー・コメント」というか、温暖化に反対したい鉱山会社などからリベート貰って論陣張ったり、お金を貰ったり、自分の関係している企業やお店をさりげに番組内で激賞し、せっせと巨万の富を築いているという。まあ、ね、世渡り上手といえば上手なんだけど。
バックラッシュ
しかし先週の出来事は、段々この種のマッチョ系親父ポピュリズムも賞味期限が過ぎてきたことを窺わせるようなものでした。
直接的には、二週間ほど前にシドニー大学の自由党青年部でのスピーチ内容です。現在のオーストラリアのギラード首相の温暖化対策の政策を批判攻撃するのは良いのですが、先日亡くなったばかりの同首相の父親について、「自分の娘が大嘘つきだから、彼は恥辱にまみれて死んだ(died of shame)」とまで舌先が滑ってしまった。このスピーチが、臨席したジャーナリストによって録音、暴露されて、世間の袋だたきに遭ってました。政策批判はそれで良いにしても、関係ない親族、それも故人の名誉と遺族の心情をことさらに踏みにじるような表現に対して「それはないだろう」と。
しかしそのリアクションの激しさは、単に一回的な失言によるだけものとも思いにくいのです。「お前、ええ加減にせえよ」と積年の鬱憤が爆発したような感じを受けます。
もともと、この人、この手のオヤジ特有の女性蔑視も強く、ギラード首相が女性であることも微妙に攻撃内容に含んできたという経緯があります。かつて、ギラード首相のような「嘘つき女は袋詰めにしてタスマン海峡(本土とタスマニアの間の海)に沈めてしまえ」と連呼し、この農産物を入れる袋(chaffbag)が一種のシンボルのようになり、当日の席上のアトラクションでも、アラン・ジョーンズのサイン入りchaff bagのジャケットがオークションになったとか。しかも、それを提供したのが、巨大スーパーチェーンのウールワースの現役重役だったりしたことから、さらに火の粉がウールワースにまで及ぶという。くだんの重役は速攻辞職させられてます。
あまりの世間のリアクションの激しさに、”人気者”アランジョーンズの2GB(ラジオ局)の朝のラジオ番組のスポンサーに名を連ねていたオーストラリアの有名企業群(Woolworths, Telstra, Coles, Bing Lee、ING Directなど60社余り)が、ソーシャルメディアで速攻でボイコット運動が広がったこともあり、なだれをうってスポンサーから離脱してます。これを書いている直近のニュースでは、メルセデス・ベンツ社も降りて、彼に無償で使わせていたベンツを返せと言っているという。「手の平を返したように」という表現がありますが、まさにそれ。
機を見るに敏なアラン・ジョーンズは、さっそく謝罪の記者会見を開き、個人的にギラード首相に三回も電話をかけて謝罪を試みたそうですが電話に出て貰えず、逆にギラード首相から「一生口を聞きたくない」と言われてしまっている状態です。
いくつかの記事にリンクを貼ろうとしましたが、山ほど記事があるのでどれに貼って良いのかわかりません。"alan jones chaff bag"でググってみただけで
山ほど検索結果がでてくるし、ここでは署名運動をはじめた
change.orgの該当ページを上げておきます。
アランジョーンズを首にしろファイスブックサイトすらあります。
これらの反応の早さと激しさを考えると、やっぱ僕のように積年苦々しく思ってた人達が、堪忍袋の緒が切れた状態になってる感じがします。くだんのフェイスブックサイトのトップに、"Enough is enough"(もう沢山だ!)と書かれていますが、そんな感じなんでしょうねえ。
オーストラリア〜トニー・アボットの女性支持率低迷
その火の粉が、オーストラリアの野党党首であるトニー・アボット氏にも及んでいます。
この人こそが、真正マッチョ系であり、実際にスポーツマンでマッチョでもあるし、その言動や政策もマッチョ的です。攻撃的な手法で党首の地位を奪取し、ハングパーラメント(少数与党)状態で支持基盤もヘロヘロな与党をかさにかかって攻撃し、攻撃し、攻撃し、、と、攻撃あるのみという政治手法をとってます。近く迫った総選挙では、まず政権交代が確実視されており、トニーアボットこそが時期オーストラリア首相に最も近い位置にいるとされています。
が、ここ1か月ほど雲行きが怪しくなってます。
もともと攻撃的で歯切れが良いのはいいのですが、複雑な問題になるとちょっと弱い。歯切れの良さが身上なので、歯切れの良い結論をブチ上げるのですが、そうなると今度は根拠(財源とか)が曖昧になる。それに加えて、先日、中国に出かけていって余計なことを言って顰蹙を買ったり、国際政治家としての力量を危ぶむ声もあります。
しかし、それだけではなく、これも1か月ほど前だったかに出てきたスキャンダルです。それも彼が学生時代の大昔の話なのですが、シドニー大学の学生のリーダー、自治会長だったかの選挙に出たのですが、惜しくも落選。当選したのは、小柄の女子学生だったそうなのですが、落選したアボットは、その女子学生に歩いていって、爽やかに祝福するのかと思いきや、彼女が背にしていた壁、彼女の顔の両脇にゲンコツでパンチを食らわせ、暴力的にすごんでみせたという。当時の女子学生が、最近、「殺されるかと思って怖かった」と当時の思い出として書いたものが世間に広まって、それがスキャンダルになったという。
もちろん当のアボット本人は否定、てか全く記憶にないと言ってますが、これが広まっているのは、「彼ならそのくらいやりかねない」という認識が世間一般のベースにあるでしょう。
ジョーンズ氏についても、アボット氏についても、ミソジスト(misogynist)=女嫌いという英単語が頻繁に出てきます。女性に対してやや敵対的なコメントや姿勢が目につく、ということでしょうが、もっとディープな心理があるのでしょう。それは、女性が本能的に持っている暴力への忌避反応だし、「マッチョ的なるもの」への反感のような気がします。
両氏の手法は、よく"bully boy" (いじめっこ)的だと評されますが、ドラえもんのジャイアンのように、力でねじ伏せるような、弱者を助けるのではなく、支配し、嘲弄するような、マッチョ独特の臭気があるのだと思います。それは「女嫌い」というよりも、端的に蔑視に近いニュアンスがある。「女ごときに何ができるか」みたいな、そうとは明確に言いはしないけど、空気としてそう感じるという。
実際、世論調査でもアボット氏の女性の支持率は目立って低いです。アボットさんも、これはマズイと思ったのでしょう。アランジョーンズ”事件”の際には、さすがに頂点に立とうとする政治家だけあって、即、ジョーンズとは距離を置いた発言をしています。なんせ場所が彼の政党(リベラル)の青年部の会合ですから、自分の政党に火の粉が振ってきたらたまらんでしょうし、パーソナリティ的な連想から自分にまで累が及んだら溜まらんでしょう。彼の判断は正しい。だから、「なんちゅうここと言うねん、このおっさんは」的に、ジョーンズを擁護するのではなく、最初から批判する側に廻ってます。
しかし、僕がここで両者を並べて書くように、やっぱり連想しちゃうんですよね。彼がいかに何を言おうと。そういえばもう一人、似たようなキャラの奴がいたな、と。アボット陣営もダメージ回復のメディア戦略に必死で、女性誌やワイドショー的な番組で、アボットの奥さんや娘さんなどを登場させ、いかに彼がよい夫で、よいパパなのかを訴求しているのですが、本質的な効果があるのかどうか。
というのは、アナクロ・マッチョな男性が自分の身内の女性達に対して、いかに献身的で、いかに優しかろうが、それは関係ないのですね。問題は、自分と対立する女性、しかも自分よりも優越しそうな有能な女性に対していかに振る舞うかでしょう。ジェンダーに関係なく、正々堂々戦うのか、それとも女性だからといって心のどこかに蔑みや対抗意識等のわだかまりがあるかどうかです。そのあたりでどうも人気が無いのではないかと。
しかし、一方では、こういうアボット像を描くことが、与党レイバー側の巧みなメディア操作であって、選挙を目前に控えたスミアキャンペーンであるという意見もあり、それもまた正しいと思います。ある意味、現代政治の定石としては、選挙対策として当然に予期できることでもあり、別に不思議なことでもない。実際、それなりに奏功しているし、逆に露骨すぎて奏功してない部分もあります。
だけど、事柄はそんなレベルではないような気もするのです。
時代はマッチョを求めているのか?
問題はココです。
現代日本/世界を覆う問題を、マッチョ的な方法論で解決できるのだろうか?
グローバリゼーションによって否応なく斜陽化する先進諸国、資源や環境の諸問題。こういった状況下において、男性型の「カッコいい攻撃性」で物事が展開するのか?という根本的な部分です。力強く、逞しく、雄々しく攻めていって、、というけど、「攻める」というのは何を、どこを、誰を攻めるの?攻めるという方法論でいいの?
19世紀的な帝国主義や植民地主義、20世紀的な世界大戦とか冷戦構造では、「力」というものがまだ神通力を持っていました。また力を持たざるを得なかった。
思うに、力や攻撃などマッチョ性が有効なのは、何らかの外敵がある場合です。それは外国の軍隊のように非常に分かりやすい場合(黒船とか)もそうだし、国内的に、既得権層とか癒着構造とか不法所得を得ている不心得者とか、そういう人々やシステムと「戦う」ことはありえます。
その種の国内的な腐敗や理不尽は、おそらくは消えて無くなることはないから、「戦う」という方法論が消えて無くなるということもないでしょう。しかし、それがメインストリームになるかというと、ちょっと違うんじゃないかという気もします。
また、経済的に「攻める」という方法論は勿論あります。国際的な新興市場にどんどん攻め入って、シェアを獲得し、儲けていくという方法論は生きていますし、やっていかないとならない。だけど、それさえやってりゃいいのさ、それで未来は明るいのさと思えるかというと、そうでもない。なんせライバルは日増しに多くなる一方だから勝てると決まったものではないし、仮に勝てたとしても、それで国内の人々が潤うのかどうかも不明確です。
漠然と思うのですが、何となく僕も皆も、段々と学んできたのではないか。薄ボンヤリとではあるけど、そんな力でスコーンと一気に物事が進展するなんてことは無いんじゃないかと。
背中に無駄な負荷がかかって背骨が歪んでいるとかいうなら、その負荷を取り除いてやれば、カイロプラクティックみたいにスッキリ身体は戻るでしょう。また、鍛錬不足で筋力が劣っていて試合に勝てないなら、頑張って練習して壮健な肉体を回復すればいいでしょう。でも、今はそういう話ではない。今世界を覆っているのは、老化とか病気のように、もっと見えにくいものです。資源も乏しくなってきてるし、人数も増えてきてるし、成長余力も少なくなってきてるし、高齢化しているしという、内因性のハードさをいかにマネージメントするかです。
そこで求められるのは、力とか攻めとかいう要素よりも、賢さとか、優しさとか、丁寧さという要素ではないか。
今あるものを見直して、その価値を再発見したり、並べ替えたり、やり方を工夫したりすることで、内的世界を広げていき、充実させていくようなやり方です。「うおお!」という勝った/負けたの話ではなく、分かち合いとか、助け合いとか、そういう方向。ドドド!とブルドーザーで整地して巨大なゴルフ場を作るというよりは、小さな面積の裏庭であっても、築山や遠近法、さらには借景など造園に工夫を凝らし、豊かな心的な広がりを楽しむという。
21世紀は、アメリカの対テロ戦争で高らかに始まって、力まかせのイラク戦争を行い、レバリッジ効果をゴリゴリ効かせた金融バブルで始まりました。ほんでも、イラク〜アフガンは泥沼化し、金融バブルは破綻して今にいたるまで世界経済は肝臓を壊して療養中みたいな状態。
それと並行するように、マッチョ的ポピュリズムの反動として、アメリカではデモクラッツのオバマ政権、日本では民主政権、オーストラリアではハワード長期政権から労働政権になったのが数年前。そろそろこれらの社会保障重視の左派政権の賞味期限が切れてきて、またマッチョ系政権に戻るのでしょう。しょせんは「振り子」なんだから戻るに決まってるじゃん、絶対そうなる、、って話だったんだけど、その振り子の戻りが今ひとつ勢いがない感じもするのですね。別に現状が素晴らしいわけでもないし、不満タラタラではあるのだけど、じゃあ反対勢力が良いのか?というと微妙。というよりも現状の「対極」にあるものが何なのかすらよく分からないという。まあ、結果的にどうなるかはともかく、そういうマッチョ的な発想そのものがリアリティを欠いてきているのかな、という気もします。
付記
最後に、ちょっと文脈がポンと飛びますが、書く場所がなかったのでここに付記しておきます。
第一点は、「本当の強さというのは強く見えない」のではないか?ということです。
最初の方に書いた武道や攻撃美の絶対矛盾の一変形なのかもしれないけど、もし持てる「強さ」を存分に発揮して、カッコよくバキバキ勝ってたとしたら、それは自分よりも弱い奴と戦っているからでしょう?だって勝つんだもん。本当の強さとは、自分よりも強大な敵や環境と戦うことであり、弱い奴だけ相手にしてるなら、それは単なる弱いものイジメになってしまう。そして、本当に自分よりも強い者と戦っているなら、向うの方が強いのだから、大体はこっちの負けになり、ビジュアルイメージとしては、ボコボコにやられている「弱さ」として映るでしょう。
第二点は、攻撃的な方法論が行き詰まりつつあるのは世界とか社会などのマス、マクロのレベルです。ミクロ的、個人的なレベルにおいては、逆に、今まで以上に攻撃的な方法論が有効性を持つようになるような気がします。これまでは社会全体が革命的に、前衛的にバキバキ進んでいったから、個々人はその大船にお行儀良く座ったり、せいぜい船内での席次闘争をやってれば良かったのだけど、社会全体がまったりしてくると、今度は個々人が革命的、前衛的に振る舞わねばならないという。
住宅に例えれば、これまでは社会や政府が先進的でピカピカな公団住宅を建造して、個々人はそこに住めば良いだけだったけど、今は古ぼけた長屋に住みつつも、個々の家ごとに、それぞれに内装や改造などで趣向を凝らしていく方向になるのではないかと。そんな気がします。
文責:田村