今週の1枚(02.06.17)
ESSAY/他人事 none of my business
ワールドカップ、日本も決勝リーグ進出できました。
個人的には「ふーん」「ほ〜」って感じです。
いや、別にシニカルでもクールなわけでもなんでもないのですが、しょせん他人事ですしね。自分が試合に出てたり、関係者だったりしたら、そりゃうれしいでしょう。もう飛び上がって喜ぶでしょうけど、残念ながら個人的にはなーんの関係もないので、そこまで感情移入できないというのが正直なところです。どっかの世界大会で日本人ピアニストが受賞したと聞いても、「ふーん、頑張らはったんやなあ、良かったなあ」くらいの感じであり、それとワールドカップとでそう大差ないという感じです。どっかの誰かが入試で志望校に合格したのと、価値的にそう変わりはないです。
ところで、シドニーでも盛り上がってるか?というと、難しいですね、その質問。「盛り上がってる人もいる」というくらいでしょうか。なんせ世界中からいろんな人が来てますし、おそらくワールドカップ出場している全ての国の人が今日もそこらへんを歩いているでしょう。でも、全然出場できない国の人もいるわけですから、人によって反応は様々です。早い話が、インド人もパキスタン人も沢山来ているわけで、自分の国が戦争前夜という人もいるわけです。そういう人にとってはワールドカップどころの騒ぎじゃないですよね。
そんなわけで、日本みたいに全体の空気が一言で語れるような事態は、まあ、殆どないです。語学学校とかいけば、それなりに盛り上がって入るでしょうけど、仕事もして税金も払っている一般住民としては、普段と何も変わらんというのが実感です。まあ、オリンピック1年前でも「来年シドニーでオリンピックをやる」ということを知らなかった人が人口の5%でしたっけ、結構な確率でいたとかいう話を聞きましたから、推して知るべしですよね。そもそも全体の動向がどうかなんて、あんまり誰も気にしてないと思います。
ちなみに、新聞のスポーツ欄ではちゃんとワールドカップは載ってます。載るべき情報はキチンと載っているけど、ページ数でいえばラグビーの方が多いと思います。1面にはあんまり載ってません。ちなみに、昨日の日曜(6月16日)のサンヘラルド(というちょっとスポーツ新聞っぽい軟派系新聞)の1面の見出しは、「ジョディ、衝撃の別離(離婚)」ですもんね。「ジョディって誰?」って感じですけど、ジェームス・パッカーの嫁さんです。ジェームス・パッカーって誰?というと、ケリー・パッカーの息子です。ケリー・パッカーって誰?という質問を、オーストラリアにやってきて半年以上経ってまだ発している人は、もう少し新聞読んだ方がいいと思います。日本に半年以上暮らして、まだ「コイズミって誰?」って言ってるようなものですから。
でも、ワールドカップでも、オリンピックでも、盛り上がってる人はとことん盛り上がってますからね。世界的に言えば、日本人なんかよりも遥かに盛り上がってる人々は多いですよね。国家的行事みたいになってる国も多いでしょう。
僕は人よりも冷たくて傲慢なんでしょうか、ああいう具合に他人事にあそこまで燃えられるという精神状態がよく分からんです。サッカーに限らず、プロ野球でも、人気歌手でも、燃えてる人は燃えますよね。すごいなあって思います。羨ましい気もしないでもないですが、まあ「よう分からん」というのが正直なところです。
「応援」とか「サポーター」とかいう心理もまたよう分からんです。自分の子供や友人が出場してるとかいうなら僕だって応援しますけど、言ってみれば縁もユカリもない、一面識もない、言わば全くの「赤の他人」を応援するわけで、「どうして?」って気になってしまいます。
ただ、まあ、応援というのは善意にあふれていそうだし、基本的に温かい感情で成り立ってそうだから、応援するのはいいことだと思います。例えば、一生懸命頑張っている人をみたら、赤の他人であろうとも「頑張りや」と声をかけてあげたくなるし、情にほだされるという部分もあります。「判官びいき」じゃないですが、強大な相手に向かって、全力で健気に立ち向かってるいる姿は、人生の何か大切なものを目の当たりにする気がしますし、そこには確かに感動を呼び起こすものがあります。
でもね、「応援」とか「燃える」とかいうのは、そういう人間の美しいドラマと感動だけから生まれてくるのはないような気がします。もっと醜くエゴイスティックなところから派生してくるものもあると思います。
だって、人間的感動だけからいったら、日本以外のチーム、極端な話日本の対戦相手チームにも感動を覚えます。相手チームだって、これまで一勝も出来ていないで「悲願!初勝利」で頑張ってたりして、それが相手チーム(日本)のホームタウンという「敵地」のなかで一生懸命頑張ってたりするわけで、そうなると「判官びいき」じゃないけど、どっちかというと心情としては相手チームに傾いたりすることもあります。これ、結構実際にはよくあります、僕の場合。
あと、「それは違うだろ」と思うのは、応援しているチームが負けると、罵倒したり、ひどい場合になると何らかの危害を加えるような場合。あるいは、贔屓のチームを勝たせたいがあまり、相手チームのミスを喜んだり、また罵倒したりするような場合。これって全然人間的に美しくないし、それどころか醜悪。
○○人だから○○を応援するのは当たり前と強制されるようなファシズムも嫌いです。応援なんか個人的な好き嫌いの問題で、それこそ個人の聖域の話。そんな領域に他人にとやかく指図されるいわれはないし、指図してはイケナイと思います。これはもう生理的に嫌いで、頭ごなしにそんなこと言われようものなら反射的にぶん殴ってしまいそうです。
「応援」というのは文字通り元気付ける行為であり、それはエラーして落ち込んでる人がいたら、ドンマイドンマイと声をかけて心理的傷を軽くしてあげるのがスジであり、罵倒するのはその対極でしょう。プレッシャー与えてどうする?って気がします。「負けたら本国に帰れない」とか言われたりしますが、それは違うやろって思います。
ずっとずっと昔、日本がオリンピックではじめての金メダルを取るとかそのくらい昔の話ですが、実際に金メダルを取った某選手が回顧談で、もしメダルを取れなかったら帰りの船(そのころは旅客機なんかなかった)で身を投げて死ぬ覚悟で試合に臨んだとか。それも、「違うだろう」と思いますよね。死んだらアカンでしょう、死んだら。金メダルもオリンピックも、たかがスポーツですわ。生命に比べたら、どーだっていいですわ、あんなもん。全廃したって困らん。少なくとも僕は困らん。
甲子園などで決勝エラーをしてしまった選手は、周囲からボロクソ言われ、いたたまれなくなって一家で引越しせざるを得ないみたいな話も聞きます。これも、「違うでしょう」って思います。
あと無能な政府が、国民の不満を他にそらしたり、誤魔化したりするために、「国威発揚」とかワケのわからないことをいってリキんだりするのも、違うと思います。僕は、国家というのは個人がハッピーになるためのシステムツールに過ぎないと思ってます。いわばビルのエアコンみたいなもの。だから、本来「国威」なんて別に要らんと思いますし、そんなものは弱い犬ほどよく吠えるのと同じで、虚栄に過ぎない。もし国威とやらがあるんだったら、国民ひとりひとりが、それぞれの人生でハッピーになること、ハッピーになりうる環境を国が用意していること、それ以上の国威はないと思うし、それが本当の国威じゃないんですか。
なんというのか、この種の話を聞くたびに、モヤモヤした気持が湧いてきます。
そんなもん応援でもサポートでもなんでもないでしょう。
自分がちょっとばっかり気持ち良くなりたいから、他人をダシにつかってるだけでしょう。もっと辛辣に言えば、自分の力だけではハッピーにもなれない、プライドも持ち得ない奴が、せめてもの延長自我として他人に代償行為を求めてるだけでしょう。要するに「うさ晴らし」。そして、それが果たされなかったら逆恨みをするという。
他人事なのにあそこまで熱烈に応援できるなんて、なんて博愛的な人だと思いきや、博愛もヘチマも、ガリガリのエゴイストではないか。だから、あれはもう「他人事」ではなく「自分事」なのでしょう。自分事にしちゃうのでしょう。
ここで僕は応援やら盛り上がり一般を否定しているのではないです。わかりますよね。素朴な人間的感動や、おらが村的な素朴なナショナリズムは微笑まししいことだと思ってます。他人事なんだけど、ある程度継続的にコミットしているうちに(単にTVで見ているだけであっても、分かってくるにつれて)段々自我がそこに入り混じって半ば自分事になっていくのは自然なことだと思うし、別段悪いわけではないです。そして、世界中で盛り上がってる人々の大部分は、こういった健全なレベルで楽しくやってるんだろうと思います。それはもう全然OKで、お祭りなんだから楽しまなきゃ損だろうと思います。
それにJリーグ発足前、日本が野球一色の頃から、サッカーが好きで、応援していた人々にとったら、感無量だと思いますよね。ヨチヨチ歩きの頃から知っていれば、「あのコが、今、世界の桧舞台で、、」って感動的な光景が展開されてるわけですから、そりゃあ盛り上がらなければ嘘でしょう。いいなあって思いますよね。僕のやってた柔道なんて、日本は優勝して当たり前ですもんね。あまりにも当たり前すぎて、オリンピック以外の世界大会なんか全然注目されていない、TV中継も報道もろくすっぽないという。ちょっと可哀想ですよね。
ちなみに僕個人はサッカーなんか全然興味ないし、こっちにいるから見聞きする機会もないから、今回初めてTVで「ふーん、この炉端焼きの板さんみたいな人が中田なのね」みたいな感じで見てます。日本贔屓度限りなくゼロ、先入観ゼロの僕の目からみると、日本チームって強いと思いますよ。結果はともあれ、動きをみている限りでは、予選リーグで一番強かったように見えました。サドンデス(決勝トーナメント)でもベスト4くらいいっても不思議ではないようにすら見えた。まあ、これは知らんからそう見えるんでしょうけど。
ただ、なんなんだろうなあ、サラリーマンが試合やってるみたいで、見てて息苦しくなるというとか、あんまりエンジョイしてるってオーラが出てこない。これは柔道でも体操でもそうだけど、選手が一番楽しい特権的立場にあるんだから、楽しんで欲しいですよね。少なくとも僕は楽しませてあげたいですね。いつだったか、「ゴールを外した選手が笑ってるのがけしからん」とか言ってる人がいたりしたらしいけど、そんなもん「文句があるなら自分でやれ」ですよ。僕は、贔屓チームが勝った喜びよりも、楽しそうにやってる人から楽しいオーラが伝わってくる方が好きです。
ともあれ、そういった健全で素朴なお祭り的なものを越えて、或いはその美名に隠れて、「それは違うだろう」ってものがはいってくると、胸くそが悪くなるわけですね。
この胸くそ悪さの正体は、他人事を他人事にしておけない、不幸な人生環境なりヒヨワな精神構造だと思います。自分が本来もっているだけのマテリアルだったらハッピーになれない人が、他人というマテリアルを借用して、それでハッピーになろうとしているというか。
子離れしない親やら、子供を自分の所有物として、あたかもブランド品の虚栄心を満たすかのようにお受験に奔走している親なんてのも同じ構造だと思います。そんなもんに血道を上げる暇があったら、まず自分の人生なんとかしなはれって思います。「せめてこの子だけは」とかいうけど、なんによらず「せめて」なんて言い出したらヤバイんじゃないかでしょうか。「せめて」って言葉は、負けてるときにいう言葉。全面的に負けてるときに、100%負けたくないからせめてココだけでもという場合であり、負けを受け入れてしまったときに出てくる言葉だと思います。
でも、今の日本で「せめて」なんて言わねばならないほど客観的に追い詰められた環境の人なんか少ないでしょう。軍事独裁政権が仕切ってるわけでもなし、内乱があるわけでもなし、インフレ率1000%とか経済破綻でもなし、皆さんけっこう金持ってるし、情報は入ってくるし、自由だし、与えられた環境としては、この地球上でかなり極上に近い状況にあると思います。
僕が今まで聞いた話で一番「ひどいな」「可哀想だな」と思ったのは、胎児段階から臓器の闇売買されちゃう子供です。生まれた瞬間、切り刻まれ、目玉を抜かれ、腎臓も心臓も摘出され、売れる臓器は全て奪われ、あとはゴミのように捨てられるという。まさに鬼畜の所業ですが、その話を読んでからは、こと自分に関するだけは、どんなことがあっても環境的には悪くなかった、運は悪くなかった、他人のせいには出来ないな、と思うようになりました。そりゃもう、こういった赤ちゃん達に比べたら、五体それなりに満足で、生きていく時間を与えられたなら、あとはオノレの甲斐性の問題だと思いますよ。
そこまで極端でなくても、今の日本で「せめて」なんて言わねばならないケースは少ないと思います。借金があるなら破産すればいいし、相手がイヤだったら離婚すればいいし、スキルが無いなら身につけたらいいし、チャンスがないなら捜せばいいし、仕事がないなら、これも捜せばいい。オーストラリアは延々好景気が続いて、中央銀行も相次ぐ利上げをして過熱を防ごうとしているくらい景気がいいですが、それでも失業率は8%くらいあります。5%程度の失業率は、別に就職難でもなんでもないです、こっちの感覚で言えば。
誤解を恐れず言いますが、応援するとか、尽くすとか、そんなに他人にコミットしない方がいい場合もあると思います。ましてや、「応援してやった」とか「尽くしてやった」とか思うべきでもないでしょう。なぜなら、コミットされる他人の方が迷惑だからです。もうすげーメーワク。あんなの「応援」じゃないよ、単に「邪魔」してるだけ。将棋やマージャンで後ろからあれこれ指図されるようなもので、邪魔以外のなにものでもない。
僕だって、親から「せめてこの子だけは」みたいにお受験やらされたらイヤですよ、鬱陶しいですよ。幸いウチの親は、そういう部分が皆無であり、自分の人生のオトシマエは自分でつけられる人だから、正しくほっておいてくれました。それはもう感謝してます。それに、まっとーに働いてまっとーに生活してましたからね、家で自営してるときも多かったので、結構働いている姿を見る機会もあったのですが、もう子供としてはそれだけ見せてもらったら十分ですよ。この先生きていくために必要な教育としては、あれで十分。
ちょっと前に語学学校にサポートした方が話してましたが、その人はまだ年若いので、いった先のクラスでお姉さん・お兄さん役の人が出てきて、なにくれとなく面倒を見てくれるわけです。最初はいいのですが、段々それが過剰になってきて、鬱陶しくてたまらなくなったと。まるで、舎弟か子分であるかのように拘束してくるわけですね。「勝手に他の友達とランチにいった」「なんで今日は私の顔を見ないの?」とか、もう、うるさくてしょうがないという。
これはもうハッキリさせるべきだと思うのですね。応援でも肩入れでも、基本的には自分が好きで、勝手にやってるだけのことだと。相手のリアクションなんか期待してはいけない。そのあたりの距離の置き方、突き放し方が難しいところですけど。
僕も、一括パックとかいって、一番最初にオーストラリアにやってくる人の最初の一歩でいろいろサポートしてますし、数日一緒にいてバスの乗り方とか教えたりしてます。だから、ステイ先まで送り届けると、なにやら「嫁がせた」ような感覚も持ちます。だからこそ過剰にコミットするのを意識的に抑制している部分もあります。鬱陶しくならんように。そりゃまたあとで訪ねてくれたりしたら嬉しいですし、昨晩も1年前にお世話した人が帰国を目前にして遊びに来てくれました。また、楽しからずやですが、それでも、最初の数日を過ぎて僕の手を離れたら、もう僕のことを忘れてもらって構わないと思ってますし、名前なんかも忘れてくれて構わない。それでいいと思ってます。それ以上のなにかのリアクションを期待するのは、「絶対厳禁」に近いくらいタブーにしてます。
だもんで、やっぱりワールドカップも他人事なんです。それはもう、正しく他人事なんです。
それは冷酷なわけでもなんでもなくて、他人のことは他人に任せるのがスジで、他人の聖域に侵入してはイケナイのでしょう。それは他人に対する基本的なリスペクトだと思います。だから、応援したチームが負けたからといって、その選手を罵倒したりしない。そりゃ、まあ、あんまりドン臭かったりしたら、思わずFワードを発したくなるでしょうけど(^^*)、基本的には他人事に勝手に感情移入しているだけの話で、いわば海岸で釣りをしている人を勝手に見物してるのと価値的には同じだと思ってます。
こんなことは、あえて僕がここで言う必要もなく、フツーの人だったらフツーにわきまえているでしょう。フツーの人は、自分が成り立っていくためには、他人というマテリアルを特に必要とはしない。勝手に他人の人生なり行動に乗っかってきて、うだうだ指図したりリアクションを求めたりという鬱陶しい行動はとらない。ちゃんと分かってると思います。
ただ世の中にはちゃんと分かってない人が少なからず居たりします。「他人の人生の解説者」みたいになって得々と喋ったりしてる人をみると、なんだかなあって思いますよね。またそれに媚びたり乗っかったりしているパラサイト・マスコミが阿呆な方向に盛り上げたりする。芸能ニュースとかで、芸能人の離婚の動向とかをしたり顔で解説している人みると、「その前にお前の人生なんとかしろ」ってツッコミたくなります。
選手もインタビューでハッキリ言ってやればいいのになあって、ふと思います。「サポーターの皆さんのおかげです」とかさ、殊勝なこと言わないで、「なんでおめーらこんなところにいるの?自分がやるわけでもないのに、暇だね」くらい。本当はそう思ってるんじゃないかしら。そりゃ真剣に感謝している部分もあるだろうけど、単なる雑音という部分も相当あるし。僕が選手だったらそう思いますよ。おそらくアナタが選手でもそう思うんじゃないですか。でも、まあ、彼らはプロですし、経済的にはあれはサーカスやロックコンサートと同じ見世物、ショービジネスですから、カスタマーサービスとしてリップサービスはするでしょう。それをするのがプロなんでしょう。
逆に本当の応援団とかサポーターも、そのあたりは分かってると思うのですよね。自分が好き勝手にやってるだけだと、だから選手に見返りを期待しないし、選手の邪魔もしないと。ちゃんと他人事と自分事を割り切って、自分事としてやっておられるのだと思います。また実際に選手に身近に関わっている人や会場運営に携わっているスタッフとか、よりキチンとコミットするようになればなるほど、自他の区別はハッキリとしてくるのだと思います。そういう人達ばっかりだったら気持ちいいんですけどね。そして、そういった正しくもサバサバしたところから、本当の関係というのは始まるのだろうと思います。
写真・文/田村
写真: Pyrmont
★→APLaCのトップに戻る