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今週の1枚(2012/07/16)



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Essay 576 :路頭に迷う〜船幻想

 写真は、前回と同じくCrows Nest。前回の場所から100メートルと離れてません。
 枯れ木の感じがなんか西洋の油絵みたい。どことなくフランスみたい(行ったことないけど)。


路頭に迷う

 今を遡ること15年前、1997年に山一証券が倒産して大騒ぎになりました。覚えておられる方も多いでしょう。エリートサラリーマンがいきなり路頭に迷ってしまって、その天変地異的な大変さ、悲惨さをメディアはこぞって報道していました。が、一般国民はそんなに大変なことだと思っていたのだろうか?

 当時のエッセイにも書いた記憶がありますが、大騒ぎすることに対して「なに言ってんだい!」って反発も実はあった。僕の昔の依頼者の方〜高校中退してから自力で起業し、営々と頑張っておられる方〜が、怒気をこめて言っておられた。「世間では”路頭に迷って可哀想”みたいに言ってますけど、僕らは社会に出てからずっと路頭ですわ。路頭で考え、路頭で商いやって、路頭でメシ喰ってきとるんです。それが「生きる」ってことで、それが普通なんとちゃいますか?」と。僕も同感なんです。今でこそより重みを増してそう思う。

 もちろん、大企業に就職して身分保障がなされていたら、そりゃ「大船に乗った気持ち」になるのが当時の(そして今も)日本社会の常識的な感覚でしょう。それは分かる。だから、安全な筈の大船がタイタニックのように沈没してしまえば、タイタニックのようにパニックにもなろうし、その悲劇性が多々語られるのも分かる。

 わかるんだけど、一方では、それって「まとも」なことなんか?という疑問もまた強い。たまたまどっかの会社に入ったら、それで一生食べる心配をしてくていい、、、ほんとか?と。そういう「おいしい話」や実例があるのは否定しないけど、それが「当たり前」だと思うのはいかがなものか?冷静に考えても、絶えず新陳代謝を繰り返し、常に動いているこの社会で、同じ状態、しかも自分にとって都合の良い状態が何十年も延々と続くというのは、どっちかといえば珍しいことでしょう。「そうなればいいな」と願う心情は理解可能なんだけど、それは「願望」であって、「事実認識」というレベルでは違うんじゃないか。

 曲がりなりにもそう思って良いだけの社会的実体があったのは、いわゆる大企業の正社員、高級官僚(公務員試験上級職)、医者や弁護士などの高度な特殊専門職などでしょう。高等教育を受け、成績優秀で、社会のエリートと呼ばれるエリアに職を得るような人々。彼らが「これで一生安泰さ」と思うのは無理もないし、それだけの実質もあった。

 「ほれ見ろ、そういう事実がちゃんとあるじゃないか」と思われるかもしれないけど、これには重大な疑問が2点ほどあります。

 @、そんなの人口比、時代比でいえば、ほんの一部に過ぎないこと
 A、その限られた特権職ですら、リアルに見ればハタから見るほど「安泰」でも「良く」もなく、将来的には益々危ういこと

 以下分説しますが、ここで本弁論の全趣旨を先に書いておけば、「僕らは、誰も彼も、昔も今も将来も、常に”路頭”にいるのだ、そのことに何の変りもないのだ」ということです。

一部に過ぎない点

 「これで一生安泰さ」と自信を持てるくらい堅牢な企業や職種は、非常に限られてます。ここで統計数値を探して一部性を論証しようと思いましたが、やめます。別にそんなことしなくたって常識的にわかるでしょう。各業界のベスト3から5位くらいに入る大企業で、誰もが知っているくらいの有名な企業、それも枝葉の関連会社ではなく本丸の正門から堂々と入れる人など非常に少ない。誰もが知っている有名大学を出て、熾烈な就職競争を乗り越えないと入れない。公務員上級職や外交官試験、医師や弁護士など資格試験も同じように狭き門です。

 そんな誰も彼もがなれるわけではない。それは、小学校の時の同級生のなかでそのエリアに進んだ人がどれだけいるか数えてみたら分かる。通例、小中学校時代からお勉強がかなり出来て、校内でも上位数%レベルにおり、その地区内で有名な進学高を経て、誰もが知ってる有名大学に進学し、さらにそこから就職や資格試験で激しい選別が行われる。全人口比における比率は?といえば、数え方にもよるでしょうが、100人のうちの数人くらいでしょ?どんなに広く数えても過半数を超えるってことはない。なんせ前回書いたように、大学進学率自体が2009年くらいにようやく50%を超えた程度でしかないのですから。

 幾つか報道もされていますが、ここのところ食えない弁護士も増えてきてます。僕らの頃は(1989年)、司法研修所を卒業したら、普通イソ弁として師匠の事務所に就職して給料を貰いながら仕事を覚えます。それにプラスして個人営業も出来るかどうかは事務所によります。一種の徒弟制度みたいなもので、まず就職先には困らなかった。というか選ぶのに苦労しました。ところが今は、他人の事務所の場所(軒先)だけ借りる「ノキ弁」(当然給料は出ない)やら、やむを得ず即独立する「即独」、事務所を構える経済的余裕がないので自宅からケータイ電話一本で依頼を受ける携帯弁護士なんてのが出てきているそうです。僕の同期は、それぞれにイソ弁さんを雇う立場になっていますが、新人さんの就職難は分かるし可哀想だけど、そんな何人も雇う余裕はないと悲鳴混じりに慨嘆しています。

 今調べてみたら、あなたの想像を絶する悲惨な状況を手際よくまとめている記事「実録「弁護士は儲からない」」(現代ビジネス2010年07月09日(金))がありました。

 僕らの時(1985)の司法試験合格者は全国で確か486名、関西エリアでは44名だったかな?受験者総数は全国で2万3000人くらいで平均合格率は2%くらい。その後、合格者は徐々に増え、2006年に1000人台、2007年に一気に1800名に増え、以後2000人前後を推移しています。本来の計画によれば3000人目標に行ってなければならないのですが、質を考えてもそれ以上は難しいとか。しかし、500名かそこらの合格者が2000名になるかどうかって段階で既にヤバくなっている。勿論全員が職に困ってるわけではなく、一部に過ぎないのでしょうが、それでも「合格すれば一生安泰」なんてことはない。実際、弁護士登録はしたものの廃業している人も若い世代には増えているという話もあるようです。それどころか、始めることすら出来ない人もいる。二回試験(研修所卒業試験)すら合格できず、結局法曹資格は取れないままという人もそこそこいます。

 これは何を意味するかというと、日本全国の市場、その業界で「メシが食える絶対数」というのがあるんだろうなってことです。ま、当たり前の話ですよね。弁護士が増えたからといって、日本の離婚や交通事故が増えるわけではないもんね(実際には2割ほど訴訟件数は減っている)。法曹界では、合格率平均2%なんだからそのくらいでしょう。うろ覚えの記憶では、大学別ではさすが東大の合格率は突出してたけど、それでも5%くらい。そんなもんでしょう。それをアホみたいに人数増やしたら、そりゃあ食えなくなって当然です。従来通りの水準で収入を得られるのは、やっぱり従来通りの上位数百人で、そこから下がればそれだけ分け前は減るのが道理。

 ちなみに人数増えたのでこれまでのような殿様商売ができなくてザマミロとか、これで弁護士料金も安くなるぞとか思うのは大間違いです。このツケは回りまわって国民に、それも年収1000万以下の低中所得層に廻されます。

 以下、脱線して業界話になってしまったので、タックしておきます。
→読みたい人はクリックしてください。


 さて、話を戻して、こういった実情=食える層の絶対領域がある=は、勿論業界によって違うと思うけど、均せばどこもそんなもんじゃないっすか?
 医者の合格率は高いですけど、あれも医大卒業生の全員が合格するわけではない。というか、合格率上げるために学内選抜でダメな奴には受験もさせないという話を聞いたことがある。そもそも誰も彼もが医学部に入れるわけではない。まずメチャクチャお勉強が出来るか、授業料&寄付金数千万払えるだけ実家が金持ちかという入学時点で凄い絞り込みがなされる。トータルでの難しさは似たり寄ったりじゃないかな。


 これらはいずれも「お勉強をして人生を成功させよう」方法論ですが、万人に通用する方法論ではない。というか、全く通用しない方法論だと言ってもいいくらいです。

 もっとも、それでもアイドルやプロスポーツ選手になるのに比べたら、まだしもやりやすいですよ。僕だって、小学校の時の漫画家志望、大学の初期に一瞬思ったギタリスト志望は、才能という分かりやすい壁に木端微塵に打ち砕かれ、「しようがない、やっぱ才能の要らない世界で地味にやってくべ」ということで法曹への道を本腰入れてやりはじめたくらいです。もう難しさのケタが違う。

 例えば「作家」などの場合、大体出せば売れるという地位をキープできる作家は、同時期に30名程度がマックスだという話を聞いたことがあります。まあ大雑把な数字だけど、実際に数えても100人も居ないとは思いますよ。一冊ないし数冊程度の本を出す人は幾らでもいるだろうけど、一発当ててそれで一生印税で食っていけるという超ロング&ベストセラーなんか滅多にない。だからコンスタントに書き続けてコンスタント売れ続けないといけないけど、それがどれだけ大変か、どれだけの作家が出来ているのか。せいぜい大目に見積もって100人かそこら。50年くらい稼働期間があるとしたら、同じ年齢に指定席は二つ。平均して同年齢に自分よりも文才があって売れる奴が二人いたらもう定員オーバー。音楽に至ってはもっと厳しいでしょうね。井上陽水みたいにコンスタントに売れ続けるアーチストなんか非常に少ない。クラシックでもN響に入れるのはもうエリート中のエリートでしょう。

 それに比べれば、お勉強方法論は才能に恵まれない僕ら凡人にとっては大きな福音になります。
 しかし、それですらか〜なり難しいし、誰にでも通用するものではない。

 ここでハッキリさせるべきでしょう。こんなものはごく一部の人にしか通用しない「特殊な方法論」なのだ、と。

それほど良くも安定もしてないこと

 次にその狭き門を潜り抜け、晴れてその業種でメシが食えたとしても、本当のしんどさはそこから始まります。とにかくメチャクチャ働く、てか働かされる。その上責任だけはやたら重い。だいたい弁護士一年目は、土気色の顔してゾンビのように裁判所の近くを足を引きずって歩いているものだけど、到底処理しきれない仕事量と背負いきれない数十億の責任を背負わされ腰も背骨もボキボキに折れる。あとから見れば大したこと無いんだけど、新人にとってはキツイ。僕もあんなにしんどかった時期は人生でもそう無いし、過労で帯状疱疹になって今でも少し残ってます。その上、職務上あちこち逆恨みされることもあるから、身の危険も真剣にある。オウムに殺害された坂本弁護士は僕の一期上の先輩ですが、その後も秋田と横浜で弁護士が殺されてます。いずれも離婚事件絡みでの相手方からの逆恨みですが、人間の感情ドロドロというのはそのくらいの殺傷力があり、それに常時関わってればいつ何があってもおかしくはないです。朝、玄関を出るときに「今日は生きて帰ってこれるのかなあ」みたいな日も無いことはなかったですよ。

 裁判官などは上品で知的なイメージがあったりするが、内容そのものは激務。ひとりで200件以上受け持たされるし、既済件数の勤務評定も厳しい。ずっと上の世代の裁判官が話してくれたけど、血のメーデー事件の高裁審理だったかを配点され、一件記録が段ボール57箱。引越か?と思ったら自分の家で、ズシッと詰まった記録を読んで、各証拠の矛盾点などを整理するのに2か月でやれとか。一日数千頁の読破量だけど、それをまた彼らはやるんだわ。バケモノみたいな事務処理能力です。さらに、同期で一人か二人の超エリートは最高裁の秘書みたいな仕事をするけど(所付判事補)、これがまた一件記録の精査と過去の判例学説を整理してレポート。その知的労働量とレベルは、毎月博士論文とはいわないまでも修士論文レベルでしょう。書いたことないからよく分からんけど、ぬるい仕事なんか絶対に出来ないでしょう。なんせ斯界の最高峰の最高裁判事の目の前で報告するんだから。法務省に出向して参事官とかになっても激務に変りはない。沖縄返還時のアメリカ法から日本法への経過措置をする立法をわずか二人だけでやったとかいう先輩の話を聞いたことがある。全法律、全場面を想定しなきゃいけないんだから想像を絶する仕事量です。

 これが医者とかになったらもっとヒドいんだろうなあ。やったことないけど。見るからに恐ろしそうな労働時間だし、ミスしたら即!とは言わないまでも、それに近い感じで他人が死ぬんだし。これは高級官僚だろうが、エリート商社員などの民間だろうが、学者さんだろうが、同じでしょう。共通するのは、イチにもニにも滅茶苦茶働かされるということです。それも途方もないハイレベルの要求水準で働かされる。周囲にいるのは自分と同レベルかそれ以上の海千山千の先輩達だから、実力の有無なんかX線のようにスケスケにお見通しだし、そこでダメ評価を食らったら、それでもう人生終りみたいなものだから息が抜けない。

 で、言いたいのは、そういった特殊な世界では、「これで一生安泰だあ」なんてのは大したモチベーションになってないってことです。大した慰めにもならない。むしろ来る日も来る日も真剣で斬り合うような日々が死ぬまで続くのかと思ってウンザリする。収入はいいですよ、そりゃ。でも仕事量と質からしたら別にぼろ儲けでもない。てか忙しすぎてお金なんか勘定しているヒマがない。誰から聞いたのか忘れたけど、不動産屋に言われて軽井沢に別荘を買っても行くヒマもないって。毎年固定資産税を払って、少なからぬ管理費払っても3年間一度も行ったことがない。利用するのは知人とか家族だけという。

 結局なにがモチベーションかといえば、使命感ややりがいです。嘘臭いキレイゴトに響くかもしれないけど、ほんと、そうですよ。やっぱ「いい仕事」したいし。それの根っこにあるのは、宮本武蔵みたいな世界観でしょうね。自分の「腕」「能力」一本で生きることの充実感やプライドでしょう。だから仕事でミスしたり、明らかに劣る仕事をしたりして「無能」という烙印を押されるのは、もう死刑宣告に等しい。それまで生きてきた全人生が崩壊するようなものです。それでも、傍流になって冷や飯でも食えるだけまだマシ、一生安泰だからいいじゃないかって思うかも知れないけど、本人にとってはそれが「いい」とは到底思えない。刑務所入れば三食昼寝付きだからいいじゃないかっていわれているようなものでしょう。

 ちょっと極端に書いているように思われるかもしれないし、実際に、マイペースで仕事して、家族も趣味も大切にしてという「いい人生ですね」というような方は沢山いらっしゃいます。僕自身、上の人達でそういう方々とお会いしたし、多少なりとも薫陶らしきものは受けてます。

 しかし、それもこれも最低限(これがレベルが高い)の能力あっての話です。いつもは春の陽射しのような彼らの温顔も、いざ仕事の話や難しい局面になると、一瞬ギラリと顔が変わったりしましたもん。おっかなかった。また、自分があのくらいの年になって分かるのだけど、ニコニコやってられるようなもんじゃないですよ。それをニコニコしてられるということは、半端ではない人間修養とストレス耐性あってのことです。いつまで経っても若い頃のチンピラ気分が抜けない未熟な僕などは、すぐに「おんどりゃ〜」系でジタバタ騒ぐんだけど、そこを抑えて「はっはっは、困ったものですねえ」と流せている。だから悠々自適に見えているだけ、だと思う。そんな楽なわけがないのだ。

修羅の世界と高楊枝

 いずれにせよ、どんな業界も上位1%とかそういうレベルは「修羅の世界」であって、そこでの最大のご褒美は「思う存分自分の能力を発揮できること」でしょう。つまり「最強の敵」こそが最大のご褒美です。だから燃えるし、だから激務にも耐えられるし、だから切磋琢磨しようと思うのでしょう。

 そこには、労力に対してリターンが大きいというコストパフォーマンスの良さなんかあまり関係ない。「一生安泰」なんてものがキーワードになることは少ないと思うのです。絶無とはいわないですよ。でも、単に楽なだけ、単に収入がいいだけだったら、もっと他にやりようがある。僕らが修習生の頃は、松戸の寮から湯島の研修所まで常磐線・千代田線で通勤してたけど、その満員電車だけでウンザリしてた。合格してもやることは一緒じゃんと。しかし聞くところによると(本当かどうか知らんが)、裁判官10年以上の官舎は柏にあって、そこから霞ヶ関の東京地裁まで通っているという。「なんだよ、出世したら今よりも悲惨な通勤をしなきゃいけないのか」と思ったのを覚えています。裁判官官舎や検察官舎にもお呼ばれしましたけど、そんな全然豪邸でもないし、ほんと慎ましやかなものです。

 医者でも弁護士でも楽して儲けたいだけならやり方はあるし、やってる人もいるんでしょう。プチ整形とかさ、大々的に広告打ってさ、よう知らんけどさ。医師でも腕に自信があるほど難しい(でも儲からない)領域に行きたがるし、救命医療とか、国境なき医師団とか、地味な基礎研究とか。弁護士でも儲けようと思えば、前にも述べたけど一億円以下の事件は受けない、つまり貧乏人(てか普通の市民)は相手にしない、そして負ける事件は受けないというポリシーでやればいいですよ。自己破産申請でも、着手金100万円貰うまで動かないとかね。そんな金があったら破産しないって。それでも冤罪事件を延々30年やったり、公害訴訟をやったりとか、皆さん結構やっちゃうんですよね。あれ、なんでなんかな。ウチの事務所も儲からない事件の数だけはどこにも負けないとか言ってたけど、結局、ムズムズしてくるんだろうな。困ってる人がいたらもう辛抱できないというか。血の滲むような修行をしてそれを救えるだけの技術を身につけても、お金が儲からないからそれを使わない、、というのが、生理的に気持ち悪いのでしょう。

 ずっと前にTIME誌だったか、世界の銅相場を動かしている日本の商社の部長サンだったかが記事になってました。もうその相場観や洞察力で世界的に有名。その人が動いたら世界も動くというくらい凄い人。で、欧米の基準ではそれだけ凄かったら年収数億でベンツやポルシェ乗り回してて当たり前なんだけど、川崎あたりの自宅から東横線かなんか乗って地味に満員電車に揺られて通勤しているという。年収も1000万は超えるくらい。日本では当たり前なんだけど、西欧的には腰が抜けるくらいビックリしたらしく、「あれほどのスーパースターでもイチ従業員でしかないのか」と驚き、そして「恐るべし、日本」という、Japan as No.1とか言われている頃の話ですけど。

 公務員だって、今でこそ給料が高いとか叩かれているけど、本来なら安月給の代名詞だったもん。今は民間が凋落し過ぎているだけの話で。僕らの頃は修習生にも給料が出て国家公務員3年目の俸給とか聞いてたから、極貧生活に喘いでいた僕なんぞは密かに期待してたのですが、フタを開けてみたら月給手取りで10万円切ったもんな。公務員は大都市調整手当とか色々手当がつくけど、僕がやった岐阜では何の手当もつかないから、あれこれ引かれて9万6000円とか、そんなもん?バブル直前の80年代後半の話ですよ。これで3年目かよと思った。ま、それでもそれまでの極貧受験生活からしたら目もくらむような大金でしたからハッピーだったし、それで新婚生活もできたし。

 でも、ほんと、世界的な感覚でいえば、日本のエリートって金銭的に報われていないと思います。僕もオーストラリアにきて、大した仕事もしてないのに(日本の感覚で言えば)、普通にヨットとか乗ってるのを見て、「ああ、生まれてくる国、間違えたあ!」と思ったもん。このあたりはあまり語られないし、当事者達は語る機会もないし、「いやあ、そんなにいいものじゃないですよ」と語ったところで、誰もまともに聞かないだろうから、敢えて力説したいところです。

 ずっと昔にロッキード事件で検察特捜部が田中角栄を逮捕した頃、検察がまだ輝いていた頃ですが、田原総一朗氏が対談で語ってたけど、「あれは検察の怨念だ」と。子供の頃から勉強して勉強して東大入って、死ぬほど苦労して司法試験受かって、それから現場で激務につく激務で、その挙句に団地のような官舎と、一般サラリーマンと変わらないような給与。それに比べて、田中角栄は目白に豪邸なんか作りやがって、そのくせ一匹数百万円の錦鯉だと?くそお、ふざけやがって、、、という、お勉強で成り上がってきた人々の「怨念」が、捜査の執念になり、ついに逮捕に漕ぎつけたんじゃないかと。読んでて笑ってしまったけど、でも、そうだよなあって思ってしまった。

 日本のエリートは「武士は食わねど高楊枝」を地でいっているようなもので、そのプライドは「やせ我慢の精神」でもあったのですね。だから正しい「エリートのコキ使い方」としては、適当に見栄張れる程度の収入を保証してやって、センセセンセ言っておだてていることですわ。そうすれば、ハムスターのように世のため人のために頑張る。簡単なんだわ。それを悪平等だか嫉妬だかで叩いて、ケナして、引きずり下ろしたら、いわゆる「悪堕ち」するぞ。彼らの技術、権力はやっぱりそれなりのもので、それを私利私欲で使われたら途方もない被害になる。悪に強ければ善にも強いというけど、その逆も真で、弁護士が腹括って詐欺を計画したり、医師が本気で金儲けだけを目的にしたり、官僚が賄賂だけを目当てに仕事したら、日本はムチャクチャになっちゃうよ。それは警察が本気でワイロ目当てに交通取締や逮捕をし出したらどうなるか?(世界にはそういう国もある)。人を呪わば穴二つ。


 以上のことを整理すれば、「一生安泰」みたいなエリート職は誰もがなれるわけでもないし、その本質はレアな有能性にあるのであって、形だけ門戸を広げても、結局食えるのは一定比率の希少層だけだということが一つ。第二に、そのレア層の日々の現実は、「一生安泰」などというモチベーションが支えになるような安閑としたものではなく、またそんなことはモチベーションになっていない。そもそもあいつらは闘争に生き甲斐を感じる「修羅」どもであって、安泰=退屈くらいにしか思ってないような輩が多い。またそれだけの自負心も実力もある。

 端的にいって、経済的ご褒美でいえば、むしろ損だと言ってもいい。あれだけ苦労して、あれだけ働いて、団地に毛が生えたような官舎だもん。みすぼらしくはないけど、豪邸でもない。坂本弁護士事件の犯行現場の自宅だって、普通のアパートだし、僕だって大阪の普通の賃貸マンションですわ。同じマンションには、飲み屋のお姉さんが住んでたり、家族連れが住んでたり、普通、普通、全然普通だって。僕の部屋には日本を離れるまでついにクーラーがなかったし(リビングに一個あるだけ)。

 だから、お金儲けたかったら勉強なんかしてちゃダメですよ(^^*)。

 ここで、公務員の天下りとか、渡り鳥とか、退職金が6000万円とか、そういうゴージャスで絢爛な話もあるけど、あれはもっと上の世代の話です。今はあれこれ厳しくなって、そろそろリタイアする団塊世代だってそんなに美味しい話は少ないでしょう。だいたい戦後生まれで、「お勉強しなさい」と言われて勉強してた世代で、そういう美味しい思いをしている人ってマジにそんなに居ないと思うぞ。法曹界でもかなり裕福だったのは司法試験以前の高文(高等文官試験)世代だろうし、旧制中学の同級生が今三菱で会長やってますとか、そんな感じ。続いて昭和24年から始まった(旧)司法試験の一桁から、いいとこ20期くらいまでかな。日弁連の会長で戦後世代が出てきたのは、ようやく先の宇都宮さん(2010年)からだし。

 「老後においしい」とかそういう話って、タイムラグが30年から50年あるのです。現状を見て「よし俺も」と思っても、結果がでるのは半世紀先だから、まず外すよね。今にして思えば、戦後の1950年代以降に出てきた「大学さえでれば」「お勉強さえすれば」という方法論は、結局全部「間違っていた」とすら言える。

 勿論勉強すれば知識も増えるし、頑張って仕事をすればストレス耐性もつくし、自信もつくし、世間も広がる。イイコトですよ。だからやめれとは言わないけど、それで満足すべきっしょ。それ以上の「おいしい話」なんか期待すんな、です。それ以上は「邪念」なんだから、邪念なんか消えてしまった方がいいのだ。困ってる人を助けたいから医師や弁護士になる、世のため人のために直接なんかしたいから官僚になる、そのために必要な勉強や修行は当然する、それだけのことで、それでいいじゃん。それ以上考えるな。

再び路頭へ、そしてお勉強的世界観について

 さて、冒頭の「路頭」の話に戻ります。

 僕らは終始一貫、常に「路頭」にいます。
 客観的な事実としていえば、「地球上にいる」だけなんだけど、社会経済的には他人とコンタクトが取れる場所、他人が集まってる場所=「いちば(市場)」にいるのであり、市場の雑踏、すなわち路頭にいるのだ。路頭に生まれて、路頭で育ち、路頭でメシ食って、路頭で死んでいくのだ。ただそれだけ。それが「社会」というものの本質でしょう。

 それ以上に「こうすれば一生安泰」みたいなエスカレーターだか、動く歩道みたいなものがあるような気がするのだけど、それは錯覚、それは幻想。上に見てきたのは日本で最強に安泰そうな業界ですが、それですらこの状況です。後は推して知るべしです。

 それに誤解されがちだけど、エリート社員になったり強力な資格を取得して安泰そうな船に乗れたとしても、その船の中の「乗心地」は決して良いものではない。激務はまだ良いとしても、それに加えて理不尽なことも多々ある。「上」に従って煮え湯を飲まされることもあるし、知らないうちに派閥抗争に巻き込まれて気がついたら左遷・島流しってこともある。競争激しいわ、足の引っ張り合いはあるわ、怪文書が乱れ飛ぶわ。おちおち気が抜けない、、という意味では「路頭」での緊張感とあんまり変わらないとも言える。その上、いつなんどきリストラで船から放り出されるかもしれないし、冒頭の山一証券のように船そのものが沈没するかもしれない。

 公務員のキャリアになったってセクション闘争や権力闘争はあるし、双六のルールどおりに地方に出向したら、たまたまその所管で不祥事が発覚したらキャリアにキズがつくという心臓に悪いロシアン・ルーレットの日々です。医局に入ればやれ教授選がどうのはあるし、「上のひき」が何よりも大切だったりする。

 弁護士なんかは自営業だから組織的ストレスは無いけど、今度は営業ストレスがある。先輩も言ってたけど、独立してしばらくは客なんか来ないから、半年から数年くらいは胃がキリキリする。毎日事務所に出るけど何にもすることがない。あまりにもヒマそうだと、雇ったばかりの事務員さんの手前カッコ悪いから、電話で時報を聞きながら適当に仕事の話をしているフリをするとか。前述の宇都宮元日弁連会長も最初は仕事がないから塾の講師のバイトやってたくらいです。中坊さん(もっと前の会長)も語ってたけど、あまりにも仕事が来ないから不安になって、研修所の教官に泣きついたとか。

 これもどっかで読んだけど、大新聞の編集部のエラいさんが独立して評論家をやるときもイジこい努力をしていたそうです。「挨拶廻り」といいつつ実は営業廻りをするのだけど、売れている状態を演出するために、わざわざバイト雇って、適当な時間に呼びに来させて「先生、次のお時間の方が、、」と言わせる。「おお、もうこんな時間か」とかわざとらしく驚いて、、という、涙ぐましい努力をするわけです。

 だから「路頭」にいるのとあんまり変わらないんですわ。僕らは常に路頭に、市場にいる。その自覚を忘れないこと。例えそれが形式的には「社内」であろうが、「エリートコース」であろうが、そこで展開される論理や、強烈な自然淘汰の圧力や、運不運に翻弄されることは、社内/外というボーダーラインによってその本質は変わらない。建物の中にいようが、外に出ていようが、太陽が沈めば夜になるし、一定時間が経てばお腹は空くし、眠たくもなる。どこであれいい人はいるし、悪い人はいる。騙されることもあるが、救ってくれる人もいる。


 僕も社会に出る前は誤解してたのですが、大海原に企業とか資格とかいう「船」が浮かんでて、就職というのはこれらの船に乗り込むものであり、その船が沈没したり船から落ちたら、荒れ狂う海に叩き落とされ、波に呑み込まれたり、鮫に食われたり、寄る辺なく漂流するしかないという恐ろしいイメージがあります。しかし自分が弁護士業をやり、そしてそれを辞めてポーンとオーストラリアに渡ってきて18年、つくづく思うのは「ンなこたねーよ」「同じだよ」「関係ねーよ」ということです。これは事あるごとに言いたいですねえ。

 むしろイメージとしては、企業とか資格というのは船ではなく、ある海面をブイとブイで区切ったエリアみたいなものです。海水浴の「遊泳地区」みたいな。そこでは、ブイで仕切られているとはいえ、同じ海水が切れ目無く存在し、同じ波が押し寄せ、ジョーズもクラゲも同じようにいる。だからブイのあっちとこっちだろうが、基本的には全く同じであり、同じ現象が生じている。だからやってることは基本的に同じなんだわ。海にいて何かする=路頭・市場におって何かすることは同じ。

 海にいる場合、僕らは常に考えています。高波が来るんじゃないか、天候が荒れてこないか、クラゲがいないか、岩場で足を切らないか、ガラス瓶の破片とか落ちてないか、そのへんの子供がひそかにオシッコしてないか。そして、どこで泳ぐか、どこが綺麗そうか、面白そうか、浜辺に戻って潮干狩でもやるか、甲羅干しでもしようかと注意しつつ、考えつつ、ナイスバディのお姉さんに目の保養をしつつ、イケメンの素敵な男性をさりげに捜しつつ、あれこれ考えるでしょう。海とはそういうものであり、路頭とはそういうものです。社会に出るとはそういうことだと僕は思う。

 いっちゃんヤバいのは「船幻想」に惑わされることです。特に船に乗ったと勘違いすることで、これで安心だと思って、もう探さなくなる、もう気をつけなくなる。つまりはそこで思考停止してしまうことです。これは恐い。だから、船が沈んだり、山一証券が倒産したりすると、路頭に迷ったりする。しかし、最初から最後まで路頭にいることに変りはないのだ。だから「迷う」ことなんか無い筈なんだけど、でも迷う。なぜ迷うのか?それは船だと思って、自分の頭で考えなくなるからでしょう?自分の人生の操縦桿を誰かに渡して、海図も天気図も見ず、燃料残量も気にせず、のほほんとやってきたからでしょう。「一生安泰」というのは一生思考停止することなのか。幸福とは思考停止することなのか。

 でも最初から船なんか無いのだ。乗ってるつもりになってるだけ。頬杖ついて居眠りしてて、頬杖が外れたときガクンと目が覚めて「落ちたあ!」と言ってるようなものなのだと思う。

 そしてここがキモなんだけど、これまで船内にいてあれこれやってることは、海に入ってからでも十分に役に立つということです。本人の主観では船内を歩き回っているのだろうけど、客観的には海を泳いでいるのだから、実はちゃんと泳ぎが上手になっているし、海のあれこれも学んでいる。だから、船幻想が消えても別に「迷う」必要はなく、ブイの外に出ただけの話であり、これからもやることは変わらない。

 商人は道行く不特定多数の人々の興味をひき、モノを売りつける。しかし特定企業の下請けになれば、あるいは大口の取引先があれば、そこの担当者という特定個人の胸先三寸で自分の運命が決められてしまう。会社においても販売部門に廻されたら、不特定多数の消費者相手にあの手この手で売り方を考えるし、勤務ぶりを査定する上司という特定個人の胸先三寸で自分の運命が決められてしまう。就活においては、不特定でもあり特定でもある各企業の採用担当者の胸先三寸で自分の運命が決められる。同じじゃないか?そこでは人との付き合い方、交渉の仕方、自分の見せ方、押し出し方、引き方を学ぶ。そこにはイヤな野郎もいるし、救ってくれる仏様のような人もいる。そして高波がきたらブイの内外を問わず波の影響を受ける。世界不況やらグローバリズムという大波がきたら、社内ではリストラに怯え、とんでもない配転をされ、社外での就活は厳しくなる。これも同じことでしょう。ブイの内外でも本質は変わらない。

 そして、自分が苦労して身につけた知識、技術、経験は、なにがどうなろうとも失われることはない。一度自転車に乗れるようになれば、記憶喪失になっても乗り方は忘れないというが、それと同じ事です。

 ただその技術の認識の仕方、そしてその技術の生かし方は意識的になるべきでしょう。
 僕自身10年以上の歳月をかけて机上&現場で習い覚えたものを全て捨てて異国の地に来た筈が、実は何も捨てていないということにすぐに気づいた。もともと弁護士なりたての頃に、この業界で覚える技術を生かすのは、別に弁護士業という形態でなくても良いのではないか?と感じたことがあります。これは仕事を始めてほんの1〜2か月で直感的にそう感じた。むしろ習い覚えた技術を活用するには、弁護士という資格や業態が鬱陶しい足枷のようにすら感じた。だから異業種交流などを通じて広く世間を知り、もっと自分の力を自由に活かせる術はないか?と思いました。

 その直感は間違っておらず、今この仕事をしていても、ハタからみたら全くかけ離れた業種のように思われるかも知れないけど、僕の主観では、違う仕事をしているという気が全然しないのですよ。そりゃ表面的には違うんだけど、それは皮一枚の表面に過ぎない。内実は地続きなんだわ。いちいちココとここが対応しているとか意識はしないけど、例えば、皆の意向を聞いたり、インタビューなんぞをするときには、過去の事情聴取や証人尋問の方法論が活かされているし。何かの物事へのアプローチでも積極説・消極説・折衷説の3パターンがあるなんて発想法も受験時代にさんざんやったし。だから何にも捨ててないわと。それに○○が○○に役立つという個別限定性もなく、全てが全てに役に立つ。なあるほど!と得心がいきました。世の中良くできてるわ。だからこうして書いているんだけど。

 ところが、僕のように考える人は少ないようで、相変わらず船幻想は強いのかもしれない。まあ、他人事だからどうでもいいんだろうけど、それ、しんどくないのかな?決めつけすぎるとほんとキツイですし、無駄が多いし、そもそも大損するよね。例えば食事でいえば、生命維持のための一定カロリーと必須栄養素は摂取しなければならないという大前提があります。だから食べる。基本は食えりゃなんだっていい、死にさえしなければそれでいい。ちょっと余裕が出てくると、どうせ食べるなら美味しいモノが食べたいと思う。そこでスキヤキを思いつき、スキヤキだけを食べようとする。決めつけが激しくなると、スキヤキ食べられないなら死んでやる〜!とか思う。でも焼肉だって、しゃぶしゃぶだって、お寿司だって、舌平目のムニエルだって構わない。何を食べてもそれなりに栄養素もカロリーも取れるのだ。そして味は確かに違うのだけど、それぞれに違った美味しさがある。でもスキヤキじゃないとダメなんでしょ?死んじゃうんでしょ?

 それが嵩じて、さらにスキヤキを食べるためにはスキヤキ大学を卒業しなきゃダメだと思い、そのためにはスキヤキ予備校に通わないとダメだということになる。そこで一生懸命勉強する。スキヤキの歴史を覚え、作り方を研究し、専門用語を暗記し、模擬試験を受ける。そんでもって、ライバルに差をつけるために道具にも凝って最高級のスキヤキ鍋なんぞをローンで購入したりする。それはそれで一つの麗しい生き方なんかもしれないけど。それしかないのか?なんか根本的にカンチガイしてないか。

 何度も繰り返すけど、僕らは生まれてから死ぬまで路頭にいる。路頭以外に行くところなど無い。生まれてからずっと居る勝手知ったる路頭で「迷う」なんてことは本来ない筈。「どうしようかなあ」と迷うことはあっても、途方に暮れるということはない。あってはならない。そこで途方に暮れるということは、どっかでキツネに化かされているんでしょうねえ。スキヤキを食べないと死んじゃうとか、スキヤキしか食べてこなかったからスキヤキ以外のものは食べられないと思いこまされているとか。

 そんなこんなで何度も揶揄気味に書いている「お勉強的方法論」が根強く残るのでしょう。船幻想の幻想性がいよいよ確定的になりそうな、もう蜃気楼のように消えかかっているのが遠目でもハッキリ見えるようになっているこの時期に、あるいは大卒者も司法試験合格者も急増し、ゆえに希少価値も急落して無意味化しつつあるこの時期に、いや、この時期だからこそ、わかりやすい成功のパターン、安泰のエスカレーター、「天国への階段」を求めたくなるのかもしれません。でもなあ、無いものを探すのはしんどいぜよ。





文責:田村



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