この20年、特に直近10年ほどは「共生」という言葉が使われる頻度が高くなっているように思われます。資本主義経済や競争社会の行き詰まりが語られてから久しく、「じゃあ、どうすればいいのさ?」という問いに答えるように、「それは共生なんだよ」という、もう一つの極の原理のように語られたりします。
「共生」は、たしかに美しい言葉であり、美しい概念です。安らぎも、豊かさもあります。エコの発想と相通じるところもある、、というか、エコ的な発想そのものですらあるのでしょう。
僕自身、競争か共生かといえば、共生の方がいいよねえって思います。誰だってそうかもしれない。
が、世の中は競争社会。それもグローバリゼーションの進展、日本の市場縮小などによって、どんどんキツくなっていきそうです。キツくなってきているからこそ対極の理想の「共生」に思いをはせるが、キツくなってきているからこそ、それが夢物語というか「見果てぬ夢」みたいにも感じられつつもある。
共生と競争は両立するのか/対立するか?その本質は何か?何をどうやったらいいのか?そのあたりをふと考えてみたくなりました。例によって、ただの気まぐれですけど。
といっても、「これじゃあ!」という先鋭的で決定的な理論(笑)は全然打ち立てられません。とりあえず今回は、考えはじめの、「素材の突つき廻し」をしたいと思います。いろいろな角度から、棒っきれでツンツンと突っついてそんで終わり、という。まずは、お気楽な、お気楽な。
競争だけしたいなら社会は要らない
日本の、いや人類の社会を貫く大原理として「共生原理」と「競争原理」があるとしたら、どちらがより優越するか?どちらの価値を優先させるか?です。この答は結構ハッキリしていて、問答無用で「共生」でしょう。
なぜか?これは簡単です。
競争原理がメインになっていいんだったら、別に人類は「社会」なんて面倒臭いものを作らなくてもいいからです。自然状態では弱肉強食の競争社会であり、競争やりたかったら、なーんもせんと、ほったかしでいいんですよね。強い奴が弱い奴をガシガシ踏みにじるだけなら、社会なんか必要ない。
しかし、人間は、集落作って、村長や長老が仕切って、インフラ整備して、教育やって、国を作って、選挙やって、、、とか、膨大な面倒臭い作業をしている。これ、か〜なり面倒臭い作業です。こんな面倒臭いことを一体何のためにやってるの?といえば、それはもう「共生」のためでしょう。競争だったら、そんな作業は不要です。
だから、社会の中の価値序列でいえば、もう圧倒的に共生が優越する。共生のために社会作ってんだから、それが原点。あったり前じゃん!てなものでしょう。
でもそれって「共生」なの?
社会を作る究極の目的は「共生」なんだろうけど、でも、それって「共生」というコトバで表現していいの?という疑問もふと芽生えます。現在世間で語られている「共生」という言葉がもっているニュアンスと微妙に違うような、、、
一人でシコシコ農作業や狩猟やってても限界あるから、「一緒にやろうぜ」という仲間が出来る。そういった仲間がどんどん増えていけば、全体を仕切るルールも出てくる。大規模になるにつれ、用水路とか灌漑設備とかインフラ整備もする。また、パワーのある人間が力仕事をし、手先の器用な人間が布や繕い物をし、炊事をしたりという原始分業から、鍬や鎌を作る専門の鍛治屋さんなど、得意分野に応じての分業化が進展する。世代が変っていくから、これまでの知識と経験を伝授しなければならず、ここから教育が出てくる。一方、中には変な奴も出てくるし、悪いことをする奴も出てくるから警察的な機能もいる。余所の集落から襲われたりするので自警的な軍備もいる。皆の努力の甲斐があって生産量が増えれば、8人で10人分の食い扶持を作れるようになり、2人余る。これらが非生産階級として祭祀(僧侶)や武士、貴族、芸人などになる。また余剰生産物が出来れば、他の集落と物々交換をしたりして、広域経済が始まる、、、、、
この一連の流れの原点はなにか?といえば、「一緒にやろうぜ」です。
一緒にやるのはなぜかといえば、その方が効率が良いからです。2人がそれぞれバラバラに二人分の仕事量をこなすよりも、2人が協働してやった方が3人分くらいの仕事が出来るし、収穫も増える。お互いに潤う、豊かになる。エブリワンハッピーになる。だからやるのでしょう。
ここで、ほらね、究極目的は「共生」じゃないか?皆で仲良く手を携えて生きていくことじゃないか?ってなりそうですが、よ〜く考えたら微妙に違う。「皆で仲良く手をたずさえる」ことは目的ではなく、そこにあるのは「生産量が増大するから」というドライな機能性です。平たくいえば「その方が得だから」という損得勘定です。仲良くすること、そのこと自体は目的ではない。
今ここで「生産量増大」と書きましたが、対象は別に生産に限りません。治安維持であったり、教育であったり、なんでもいいです。要は各人バラバラに全てをやるよりも、手分けしたり協調してやった方が「やりやすい」「大きなリターン」がある場合であり、ひっくるめていえば「生命維持のマネージメントがしやすくなる」ということだと思います。
いずれにせよ根底にあるのは、「仲良きことは美しきかな」的な協調と平和のモチーフではなく、ビジネスライクな効率性や生産性だということです。
「共生」というと、ともすれば春の陽射しのような、ほわわんと温かいイメージを持つし、それは気持ちのいいイメージなんだけど、そのベーシックにあるものは冷徹な機能性であり、まずそれはキチンと押えておくべきだと思います。
大自然の法則
ところで、大自然の掟は、弱肉強食、食物連鎖、捕食の論理など食うか食われるかの殺伐としたものであり、まさに競争原理そのものだと言われたりもします。確かに、そういう側面は大いにある。ライオンに襲われて懸命に逃走するシマウマの図のように、強い者が弱い者を殺して喰らうという原理でこの世界の生命活動はなりたっています。
でも、それだけではない。
自然界においても共生関係はあります。「あります」というか、まず自然観察でイソギンチャクとクマノミのような共生的な生存形態があることが発見され、「共生(Symbiosis、シンバイオシス)」という専門用語が使われ出し、それが資源環境やエコ意識の高まりと共に社会科学や日常感覚に浸透していったのでしょう。共生は、むしろ自然が本家で元祖だと。
Wikipediaなどを読むと、その昔は生物間の関係を、捕食-被食関係、競争関係、共生関係、寄生関係の4類型化し、メインはあくまでも捕食被食関係&競争関係で、共生&寄生は珍しい例外形態と思われていたのだけど、段々と理解が進むにつれ、むしろ共生もかなり重要な普遍的なパターンであるという認識が広まってきているそうです。
共生は、両方が利益を得るエブリワンハッピーの「相利」型、一方だけがひたすら損や得をする「やらずぼったくり」系の「片利(一方だけ得)」「片害(一方だけ損)」「寄生(一方が損して他方が得する)」もあります。いまの「共生」概念は、相利から寄生まで全てのパターンを包摂しているそうです。
このあたりは突っこんでいくと段々わからなくなっていきます。コトバの問題としても、一方的な搾取・被搾取(寄生)までが「共生」カテゴリーに入るのであれば、世間で言われている「共生」というイメージから離れ、むしろ「競争」そのものです。いや競争以上に残酷な形態もある(競争すらさせてもらえない)。また、厳密にいえば生物世界での共生は異種生物間の話であり、世間で語られている共生は人類=ホモ・サピエンスという同種生物間の話であって、レベルが全然違う!ともいえます。同種生物間の関係を言うなら、アリ社会やサル山などを引き合いに出すのがスジで、異種間の共生は、例えば「人間と犬の関係」のようなレベルで使えって話もあるでしょう。ま、だから、コトバや概念の使用例としては、「(相利)共生みたいな〜」「〜って感じ」という大雑把なものなのでしょうね。
それはそれとして、自然界においても、殺して食って、殺して食って、、、ばっかやってるわけではないよと。そんなアホみたいにシンプルな修羅世界が展開しているのではなく、もっと巧みに、もっと大きく、網の目のように入り組んで生物達は生きているのだってことですね。「人という字はもたれ合って」というけど、別に人に限らないということです。生物がもたれ合ってるんだから、人がもたれあっても不思議ではないよね、くらいの感じなのでしょう。
こういった自然界の共生を見て、それが何なの?というと、これらをヒントに幾つかのエッセンスを出してみると、
@、ここでも「仲良し」というハートフルな要素はメイン目的ではなく、もっとも心暖まりそうな相利共生であっても、共生した方が生き延びて行くには都合が良いからというゴリゴリの功利性がベースにあること。
A、視野を大きく&細密にしないと見えてこない。そこに共生関係があるかどうかは、パッと見ただけでは分からない場合が多い。
例えばアリマキ(昆虫)の体内にいるブラフネ(細菌)は、アリマキの食べたものをアミノ酸に分解してアリマキの生命維持に不可欠な存在であると同時に、ブラフネはアリマキの体内でしか分裂増殖できない。このように顕微鏡レベルでの共生関係は非常は多く、普通に見ているだけでは全然わからない。と同時に、共生というものは回りまわって相互の役に立っているとか、ロングスパンで見ないと分らなかったり、一見かけ離れたものが共生関係に立っていたりして、これまたパッと見ただけでは分らない。視界の広さ、精密さが求められる。
B、普遍性や継続性。単に一回ポッキリの「出会い頭」でのやりとりではなく、一定の持続性や反復性がなければならないこと。さらに個体の個性に大きく依存する場合(○○ちゃんと○○ちゃんは仲良し、みたいな)は含まず、およそアリマキだったら、およそ人間だったらという広い普遍性が必要。
このように共生という概念を広く考えていくと、要するに「生きていくために他者と何らかの関係性を持つこと」であり、それがメカニカル的に有効に機能し、反復・継続していく普遍性をもっていれば、それは共生(的)といってもいい。
しかし、そうなってくると、「共生」と「生態系」は殆ど同義みたいになっていきます。普通、概念を広げれば広げるほど、内容は空気のようにスカスカになってしまうもの。スカスカになって、さまざまな属性が削ぎ落とされて、最後に残る本質は何か?というと、お馴染みの「全と個の関係」論でしょう。全なくして個はありえない。個は、いかに独立独歩の一匹狼を気取ったところで、大きな世界全体からすれば、しょせんは可憐な歯車に過ぎない。
だとしたら、いわゆる「共生の思想」というものを僕なりに翻訳理解すると、しょせんは歯車である僕ら一人一人が、大きな世界全体のメカニズムに思いをはせ、より正確に理解をしようというのが第一点。人は勝手に生きているのではなく、複雑で精巧な自然&社会のメカニズムの中で「生かされている」のだ。「生かされる」という宗教チックな言い方が気に食わなかったら、「生存のための諸条件を提供して貰っている」と言い換えてもいい。これが第一点。そして第二点、共生の「思想」というのは、「共生メカニズムをより有効に機能させようという意思」であり、それに基づいた数々の試行をいうのだと思います。
共生マーケティング
共生マーケティングというのがあるそうです。大戦後の産めよ増やせよ、高度成長のイケイケ増産から一段落して、早くも1972年頃に「共生マーケティングの4C(商品(commodity)、コスト、チャネル、コミュニケーション)」が提唱されます(これも
Wikiによる)。要旨は、個別利益だけを追い求めるのではなく、全体のメカニズム=消費者、原産地、流通、自然環境などなどに広く目を向けることです。企業も、単にガリガリ亡者の利潤マシンではなく、全体を豊かに増進調和させるために貢献していなければならないとされ、人に優しく、地球に優しくし、それが結果的に消費者の信用を獲得し、商品が売れ、企業活動が成功するという。これからの金儲けはコレだ、と。
つまりは、皆のために誠実に、良心的に頑張っていれば、いずれは皆から信頼され、お金も儲かるよという、なんかマーケティングというよりは「日本昔ばなし」的な道徳論、宗教のお説教みたいですな。しかし、方向性としては確かにそっちに向かっているとは言えるでしょう。いまどき工場廃液を垂れ流し自然環境を破壊しまくろうが、「知ったこっちゃねえ」「儲かればいいんだ、世の中ゼニずら」と公言しているような企業は世間のバッシングを受けるだろうし、不買運動を展開するまでもなく、販売においては苦戦するでしょう。実際にやってることは変らなかったとしても、少なくとも企業側はそれらしいポーズはつけます。カッコつけないとやっぱりやりにくい。
これも、まあ、シニカルに言えば、結局はカッコの付け方の上手下手、企業イメージ管理や広告戦略の巧拙で(ワイドショーの「やらせ」番組とか、学者に都合のいい説を唱えさせるとか、ネットでライバル企業の悪口を信憑性豊かに書くとか)、愚かで無邪気な消費者がコロコロ騙されているだけのことで、騙し方が昔よりも巧妙になった違いはあれど、「悪賢い奴らが馬鹿から金をむしり取って生きている」という殺伐構図はなんら変っていないという人もいるでしょう。そうかもしれない。でも、大きく違っているのは、「全体への優しい配慮」というものが、昔よりも価値を持ってきているというトレンドであり、共生的な価値観にシフトしているのは確かなことだと思います。
競争という「現象」
自然社会にも巧みな共生があるなら、人間だってほっておいたら勝手に&自然に共生するんじゃないの?って気もしますし、共生のために作った人間社会で、なんでこんなに競争が多いのか?という疑問もあります。
思うに、競争と共生は必ずしも対立関係には立たないのでしょう。
例えば、動物世界(人間も)の夫婦やツガイ、生殖は、共生的な関係の最たるものでしょう。有性生殖においては、雌性雄性揃わないとコトが始まらないのですから。しかし、これほどまでに典型的な共生においても、意中の異性をゲットするために同性間で激しく争われることはマレではないです。もうむっちゃくちゃ競争社会です。異性の気を惹くためにハデハデな羽をしたり、魅力的な身体を誇示してみたり涙ぐましい努力をし、ときには同性間で凄まじい決闘すらやらかします。大きな枠組みでは共生なんだろうけど、その過程や部分においては激しい競争がある。
これは人間社会でも同じで、異性ゲットだけではなく、あらゆる局面において見られます。皆で豊かになるという共生のために社会を作り、その社会システムを整備していくのだけど、その中でのポジションは奪い合いという競争になりがち。自分だけではなく他人も、次の世代にも知恵と知識を伝授するという共生的契機で教育システムが作られ、各学校が作られたとしても、とある名門学校にはいるためには厳しい受験競争がある。民主的で平等な社会のために普通選挙が実施されていても、選挙戦そのものは熾烈を極めるし、政権をめぐって闘争が起きる。万人に開かれた経済活動の自由を守り、各種制度を充実させても、どの会社のどの商品が売れるか、どの店が一番お客を集めるか、どの企業に入るかは、いずれも競争です。
席(物)が一つしかなく、希望者が二人以上いれば、そこには必然的に競争的状況が生まれる。自然や社会との共生を謳い、真実そのとおりやっているナイスな企業があったとしても、その会社に入ろうと思えば、就職において壮大な椅子取り競争になる。「希望物数<希望者数」という状況があれば、どうしても競争になる。
ここでふと思うのは、共生は非常によく出来た全体のメカニズムですが、競争というのは偶発的・局所的なものであるということです。例えば鉄道システムがあります。安全で大量に人や物資を移動させるため鉄道網を整備するのは、皆の要求をマックスでかなえるための共生原理に基づくものでしょう。しかし、局所的には混雑があったり、空いてる座席の取り合いがあったり、シーズンともなれば中々切符が予約できなかったりという競争的な状況が生じる。大きなメカニズムは共生なんだけど、個々の現場ではどうしても競争的な局面が出てきてしまう。
ということは、競争というのは自然界や人間社会を貫く大原理、構造原理ではなく、たんなる「現象」に過ぎないのではないか?という気がします。そういう競争的な場面も、「ま、あるよね」くらいの感じ。競争をするために社会を作っているわけではないし、競争に勝ったり負けたりすることを楽しむために社会やシステムがあるわけでもない。
趣味としての競争
一方、競争には人間を興奮させ、面白がらせる要素があります。特に男の子の場合はそうです。僕も男だからわかるけど、男の本性は「自己の高機能性」だと思う。自分がいかに優秀なメカでありうるか、そこに大きな自己実現を感じる。自分がどれだけ強いのか、早いのか、賢いのかが大テーマであり、そのために準備(練習や稽古、情報収集や作戦立案)することに喜びを感じ、そして全知全能全メカニズムをフルに駆使する瞬間に喜びはピークに達し、真っ白に燃え尽きる。
このように優秀なメカであることに自己実現を感じる男の場合、なんでもかんでも「勝負だ!」という競争的文脈で物事をみますし、スポーツもゲームもおしなべて勝敗がつくような形でやる。単に身体を動かしてスカッとして高揚感を感じれば良いだけだったら、点数なんか勘定する必要はないし、タイムを計る必要もない。でも、数えるし、計る。なんで?といえば、「面白いから」でしょう。少年マンガにおいては、定番のスポーツ漫画が一巡したら、今度は職業モノの漫画が増え、そこでは何故かどんな職業でも「勝負じゃあ!」になっている。本来勝負から縁遠いところある筈の料理ですら、勝負という形式でストーリーが語られる。とにかく、手当たり次第に勝負形式にしないと気が済まないのですよね。
だから、競争は人類(の片方である男性)の大々フェバリットであり、僕も社会のあり方としては共生であるべきだと思うのだけど(原理的にもともとそうだし)、個人的な趣味嗜好でいえば競争大好きです。それも生きるか死ぬかくらいの、全エネルギーを燃焼し尽すくらいの感じが好き。そうでなければ司法試験なんかやってないって。「俺サマこそが!」って血が沸騰する感じが好き。
だけど、これは「趣味」です。単に面白く感じるか、詰まらないかだけの話です。
入試や就活、出世競争やビジネス戦争に嬉々として打ち込んでいる人で、「競争こそがこの世界の原理でしょう、好むと好まざると関わらず」とかいう人がいるけど、「好んで」やってるんじゃないかなあ。僕自身に関してはハッキリ明言できるけど、好きでやってました。「嘆かわしいことです」とか首を振りながらイヤイヤやってたんじゃないよ。むしろ競争が熾烈であるところに大いなる魅力を感じ、「相手にとって不足なし!」とか一人で勝手に盛り上がっていただけで、それはジェットコースターに乗るなら一番スリリングで恐そうなものが面白いという心理と同じです。
だから、競争なんて、そんな「世界の構成原理」とかご大層なものではないんじゃないの?と僕は思います。こんなものはただの「現象」であり、豪雨が続けば洪水が起きる、車が多ければ渋滞が起きる、希望者が多ければ競争率が高まるだけのことで、「焼き芋を沢山食べるとオナラが出る」のと同次元の物理的な因果関係、現象なのではないか?と。
それに競争が成立するためには色々な条件が必要です。まず「希望物数<希望者数」という条件が満たされないとならない。全員に行き渡るだけの数があったら、プリント配りみたいに「一枚とって後ろに廻して」の世界で、別に競争にならない。それに競争になるためには皆のゴールが同一でなければならない。とある学校の入試が競争になるためには、そこに入りたいという同一ゴールの人が複数存在しなければならない。希望者が自分一人、あるいは定員以下だったら、競争したくても競争できない。各自がそれぞれに自分なりのユニークな人生の目的を持っていたら、そこに競争なんか生じるのか?という気もする。
何を言いたいかというと、本当にこの世が競争社会なのかどうか、僕には疑問がある、ということです。勿論競争的な場面は山ほどあるけど、それはいずれも、たまたま諸条件が整った局所的、偶発的な現象、ときとして「趣味的」な現象でしかないんじゃないか。構造原理なんて凄いモノでは無いのではないか?と。
今日的状況
さて、今日、共生が世界的に語られるのは何故かというと、幾つかの理由があると思います。
僕が今テキトーに思いついた大きな背景理由としては、二つ。
一つは、地球環境、資源、複雑で精巧な生態系システムというのが徐々に知れ渡り、先進国ではもはや常識レベルになっていること。最初は大気や河川の汚染という公害に耳目が集まり、次にダムや護岸工事のようにそれ自体は公害ではないが(それどころか福利インフラでありながら)、河川の生態系を破壊するということが問題視されるようになった。当たり前のようだけど、これはすごい変化だと思う。○○川にだけ棲息する○○という微生物とか昆虫など、食べられるわけでもないし、それで儲かるわけでもないようなものは、ちょっと前までは、一部のマニアが騒ぐことであって、一般的にはシカトされていたでしょう。さらに、ゴルフ場や乱伐によって表土流出が起きるとか、地球レベルで資源が枯渇するとか、温暖化するとか、そういった巨大なメカニズムと因果関係を、普通の人が普通に理解するようになってきた。それこそ僕ごときがこんなところでこんな駄文を書くほどに、ジンコーにカイシャしてきた(人口に膾炙してきた)。それに対する立場は様々あれど、こういった全体のメカニズムに関する知識が一般的に広まっていったことに違いはないでしょう。
しかし、もう一つ別の理由があると思います。世界のゼロサム化というか、これ以上パイが広がらないという閉塞感です。この閉塞感は1970年代から既に始まっていて、実際それ以降、飛行機は速くなってないし、宇宙開発は事実上殆ど止ってしまっているし。本当は2012年ともなれば、人類は普通に木星あたりに行って、地上500階くらいの空中都市がボンボン出来て、何処の家にも万能ロボットが働いていなければならなかった。70年頃の人々は普通にそう思ってたし、僕も死ぬまでには月くらいに行けるかなとかマジに思ってた。でも全然っ!
それに画期的な新発明などこの半世紀で一つも無いと言ってもいい。車もコンピューターもそれ以前に出現していたし、携帯やネットもそれ以前に存在していた技術が量的に向上しただけの話で、ライト兄弟が飛行機を作りましたとか、エジソンが電気による通信・記憶装置を作りましたとか、無から有を生じるような大発明は無い。アップル社の"i"シリーズも、言ってみれば「使いやすくなった」だけのことでしょう。
なんでか?といえば、やっぱ資源枯渇問題などが心理的にのしかかって、頭打ちになってしまったのでしょう。無限のフロンティアを力任せにぶっ飛ばすようなとき、人類は強い。大航海時代でも、コロンブスの航海一発で「なあんだ」と要領がわかれば、我も我もで地球の果てまで頑張る。産業革命で大量生産方式というヒントを掴めば、行く付くところまで一気に行く。「頑張ってもいい、幾らでも成長余地はある」となるとイケイケで頑張る。しかし、資源エネルギーがヤバくなると、頑張れば頑張るほど終末が近くなるということで、それまでのように無邪気に頑張れなくなる。成長にキャップをはめられてしまった。このように「成長出来ない」「成長する余地が少ない」となると、気分は内向きになり、70年代以降、時代のメンタルは中世になっていったというのは、過去のエッセイで何度も書いていることで多くは繰り返しません。
ここで関連があるのは、先ほど書いたように共生という行為が生じるための前提条件です。なぜ「一緒にやろうぜ」という展開になるのか?といえば、そのほうが生産効率がいいから、そのほうが沢山成長できるからです。つまり、幾らでも成長できるし、また成長しなければならないようなとき(無人島に打ち上げられたとか、被災地とか)は、人々は手を組んで共に働くことに意義を見いだすし、やる気になる。つまり全体のパイが幾らでもひろがっていくなら、協調する意味は大いにある。しかし、全体のパイが広がらないと、協調するべき前提が崩れてくる。そして、Aさんが得た分、Bさんが損をするというゼロサム社会では、必然的にAとBとの競争になってしまう。
ここにおいて、「全体は共生構造×部分は競争現象」という大本の図式が変化する。この図式が生きていたときは、競争は一過性の現象であり、同時にライバル意識が生産力を高めたり、勝負対立構造にすると燃えるし面白いという形で、共生のなかに競争は居心地良くチンマリ存在してたし、また活性化酵素のように全体の共生を高めたりしていた。競争はあっても、それは必要悪であったり、有用なものとして活用もできた。いわば「良い競争」といってもいい。
しかし、大前提となる共生そのものが怪しくなってきたら、共生とは関係なしに、競争だけがグロテスクに突出していくようになる。共生を前提としない競争、競争のための競争、いわば「悪い競争」です。それは限られた資源や食糧をめぐっての争奪戦もそうですし、縮小市場での価格競争、縮小された就職機会をめぐっての争いという形でも現実化するし、既にそうなっている。
今だって、画期的な新技術によって、強力でクリーンなエネルギーが只同然で無限に獲得できるようになれば、つまり話の前提が変れば、全てが変るでしょう。幾らでもエネルギーを無駄使いしても構わないとなれば、昔ながらの大パワー時代に戻り、途方もなく巨大な建造物を造ってみたり、再び宇宙に目を向け、20年以内に火星にコロニーを作り、50年以内に有酸素大気をまとわせて生存可能な惑星に作り替え、人類の宇宙移住時代が始まるとかなんとか、ラッパが吹かれて太鼓が叩かれていたら、世界経済の風向きもまたガラリと変るでしょう。各国、各社、競い合うように数十兆円規模の超弩級プロジェクトを次々に立ち上げ、科学技術系の企業は競い合って新技術を開発するでしょうし、笑いが止らなくなるほど儲かるでしょう。
これによってビジネスモデルもまた変っていくかもしれない。現在のビジネス形態やモデルは、言ってみればどれもこれもチマチマ系(表現は悪いけど)が多いように思います。より精密に、よりきめ細かく、よりスマートに。米粒に文字を1000文字書いたらエラいとかいうようなものです。グーグル検索サイトでチマチマ広告料を稼いだり、フェイスブックの資本価値だって億単位の顧客名簿の価値でしょう。一人から1円づつ取っても、ユーザーが1億人いたら1億円になるという商業モデルです。アマゾンその他も幾ら世界規模とはいえ、やってることは昔ながらの「通販会社」であり、ネットの力で規模の経済を極大化させているだけです。まあ、「だけ」とはいうものの、それが凄いんだろうけど。
しかし、70年代までの、より巨大に、よりパワフルに、いわば「戦艦大和を作っちゃえ」みたいなノリ、チマチマ系ではないドドド!系みたいなものが主流になれば、1円×1億回取引ではなく、一回の取引で数兆円動くという豪気な世界になります。やっぱその方が陽性で景気がいいよね。でもって世界全体が上げ潮になり、誰にでも億万長者になれる道が無限に開かれているとなれば、皆の目の色も変るでしょう。ネットやiPadをパコパコやってる場合かって感じになるだろう。しかし、unfortunately、全然そうなってない。だから問題だと。
原初的共生の崩壊と、資本主義の突出
現代の共生の論点は、多分コレだと思います。
自然状態における共生は、皆で力を合わせて生産を増やし、豊かになるために「一緒にやろうぜ」でした。それは分かりやすい。しかし、生産量を増やしてもしょうがない、豊かになりそうもない、というのであれば、そもそも一緒にやる意味もない。自然的な意味における原初的共生は崩れる。
一方、「競争」というのは本来毒素(勝者しか幸福になれない)を持ち、また「やたら面白い」という麻薬性もある。だから、全体の枠組みをキッチリ作って、その水槽なり池の囲いのなかでピチピチと泳がせてやるべきものでしょう。ピラニアみたいなものですね。ところが、全体の枠組みが薄らぎ、水槽が壊れてピラニアが飛び出してきて、我が物がのさはばりはじめてきている。
この場合のピラニアとは何か?といえば、資本主義でしょう。
もともと資本主義的競争などは、大きな共生社会の中の、商業部門の、そのまた一部の方法論やルールでしかなかった。戦国時代や軍事時代では武士や軍人が、幕末のような政治の季節には志士や革命家が時代を動かしていき、「商人」は黒子のようなものであり、商業的ルールは社会の裏手のボイラー室の管理規則のような存在だった。しかし、他の要素(国家的な覇権とか、人類的な進歩とか)が衰亡するに伴い、相対的に商業や資本主義は、我が物顔でメインストリームをのし歩くようになった。
早い話が、いまの人類には「商売」以外にやることが無くなってしまった。秘境の冒険とか、布教の使命感とか、天下統一の野望とか、そういうものにリアリティがなくなっている。ひいては国家覇権や、戦争や、民族、宗教すらもメインの課題ではなくなっていくでしょう。先進国になればなるほどそうで、まだ途上国の中では宗教対立や民族紛争が残っているけど、いずれはただの利権の争いに変質し、ビジネスライクになるかもしれない。それは「世界人類が平和」ってことなんだろうし、文句を言ったらバチが当るのだろうけど。
しかし、もともと資本主義なぞは、世界を統べる構造原理として考案されたものではないし、世界を統治する意思も能力もないし、そのための帝王学もない。しょせんは金儲けの方法論であり、それ以上のものではない。だからこれだけに仕切らせるのは荷が重いし、なんとかしなきゃねってことだと思います。
資本主義の矯正原理としての「共生」
そこで出てきたのが、「修正された意味での共生」でしょう。
競争=資本主義のエネルギッシュな部分は残しつつ、その毒性を薄め、矯正する原理としての共生です。
一般に競争を上手に制御する方法は二つあります。一つは生産です。一つしかないモノに対して二人いるから競争になる。だったら最初から2つも3つも作ってしまえば、競争は起きない。もう一つの方法は統制と配分です。競争それ自体を禁止し、全体的に均等に配分するという、これは共産主義とか社会主義です。生産か、配分か、です。
現在語られている共生は、後者の部分。社会主義ほど徹底的に管理はしないし、競争それ自体を禁止することもないけど、一枚のパンを皆で分け合おうという方法論です。雪山で遭難したようなもので、全員の食糧を前に出して、1日分のカロリー計算をし一人づつ平等に分配する。あるいは足をくじいて動けなくなった隊員がいたら見捨てるのではなく、全員で交代で担いでいこうという。
つまりは、競争原理に対するアンチテーゼとしての共生です。
人に優しく、弱者に優しく、敗者に優しくあろうとし、資本主義や競争の毒素にカウンターをあてる。
実際、「共生社会」と銘打たれた機関や理念、例えば
内閣府の共生社会政策のWEBを見ても、その内容は年少者へのケア、障害者や社会的弱者へのケアなどであり、ともすれば競争からはじき飛ばされそうな人々への政策です。改まって「共生」とぶち上げるほど、目新しい何かがあるわけではなく、要するにネーミングでしかないし、「言ってみただけ」なのかもしれないけど、でも、言うことに意味はあると思います。クサしてたって始まらないし、目新しければ良いってもんでもないし、目新しくあってはならないとすら思う。昔から語られていることを一つ一つちゃんとやっていくしかないでしょって。
しかし、ただ「共生」と言っただけでは何も変らないし、言う際にもその無内容さ、隙間風が通り抜けるような虚しさをも噛みしめるべきだと思うのです。「やさしく〜」と念仏唱えていればそれで万事OKさってモノでもない。
なんせ世界の構成原理をひねり出さないとならないのですから、これは相当なタスクです。一人で荷物をひっかついでケナゲに進んでいる資本主義・競争原理君から、肩の荷を下ろしてやり、分担するだけの原理とメカニズムを特急で開発しなければならない。えらいこっちゃです。
で、具体的にはどんな感じ?というと、既に紙幅は尽きたので箇条書きに留めますが、
@、念仏でもいいから、とにかく唱えること。唱える「だけ」がダメなのであって、唱えることには意味がある。皆で言ってりゃそのうち一つの規範になる。
A、競争を洗練させる。競争や戦いは、良い方向に進めば、健全なライバル心やモチベーションになるけど、悪い方向に転がるとひたすら他人の不幸を喜んだり、蹴落としたりという醜悪な形になる。スポーツマンシップ的な「競争」、つまりは徹底的にフェアで、公正で、八百長がない競争であるようにする。そうでないとやってらんないし、競争そのものが腐る。
B、競争の洗練(その2)。勝ったからといって別に全人格的に優れているわけではないことの徹底。しょせんは限られた人生の局面での一過性のものでしかないことの周知徹底。競争以外にも豊穣な人生の局面が幾らでもあることの実践と広報。これは真実そうなのだけど、勤労競争大好き民族になってしまった戦後日本人にとっては最大にチャレンジングなところ。それだけに無限のフロンティアが広がっている、最大にロマンのある美味しいところでもある。
C、共生のための競争であるという位置関係の確認。競争だけで良いのだったら冒頭のように社会なんか作らなくていい。競争のために社会があるわけではない。それでは社会は単に「レース場」になってしまう。ある人間集団が誇りある「社会」を標榜する限り、共生でなければならない。したがっていかなる競争も、究極的には全員のため、共生の資するものでなければならない。これは競争の憲法のようなもの。
D、Cの実践するため、a winner doesn't take allにする。勝者が全てをかっさらうのではなく、勝者が得るのはほんの少しで良い。そもそもなんで勝てたのか?といえば、半分は努力で半分は運。才能も容貌も全て生まれついてのもので、自分で稼いだものではない。だから才能のことをギフト=「天からの授かりもの」という。たまたま人よりも優れて生まれた者は、その才能を使う義務を負い、その才能によって得た果実を天に(皆に)還元する義務を負う。それがエリート(選ばれし者)の真の意味である。ご褒美は勝っていい気分になれること、皆に賞賛されていい気持ちになること、それだけでいい。それで十分っしょ?これは西欧流の発想だけど、東洋的にも理解できる。ゆえに、富も地位も勝ち得た勝者には、その私財を皆に還元するという高貴なチャリティ義務があり、メディアはそれをちゃんとやってるかどうか監視し、それをした人を賞賛するというポリシーを持つこと。またこれは義務なんだから、妙に謙虚に匿名で寄付なんかしないで、堂々とやる。そのお金の使い方でその人の人格が分かるくらいに。
E、競争に毒があるように、共生にも毒はある。共存共栄といえば聞こえは良いが、ともすれば談合社会に堕し、それがゆえに発言力・仕切り力がお金を生む(地元の顔役とか)という利権社会に逆戻りする。社会主義の悪平等にもつながり、年功序列、順番待ちだけの停滞をも招く。共生の毒に比べたら、競争の毒の方がまだしも分かりやすいし、対処しやすい。
F、共生と競争をどう噛み合わせるかが最大のポイントであるが、例えば「共生することを競争させる」というやり方もある。これは共生マーケティングにも出てくるけど、例えば、環境に配慮している企業の方が好感度が高く、結果的に収益につながるとか。どれだけ共生に貢献しているかを競わせる、そして現実的な利害もそれにリンクさせる。ただし、それを実効あらしめるためには、今以上に強力で透明な消費者監視組織が必要だと思われるし、間違ってもそこに汚職が混入しないようにさらにオンブズマンのような制度がいるかも。
G、他人の不幸を喜ぶとか、嫉妬心とか、そのあたりの感情は悪しき競争の最たるものであり、その種の言動は厳しい批判に値すると僕は思う。なぜなら最悪の共食いパターンだからです。このパターンにはまったらもう救いはないぜよ。一瞬気持ちいいかもしれないけど、どんどんボロボロになっていくという覚醒剤みたいなもの。ましてやそれをネタにして政治的その他の支持を集めるとか、人気取りに使うとか、視聴率稼ぎに使うとかは論外でしょう。ありがちだけどさ。サッチャーだったか「人間の感情の中で最も醜悪なのは嫉妬である」「金持ちを貧乏にしても、貧乏人が金持ちになるわけではない」。そして、キリストだったかしら「あらゆる悪の中で最悪なのが偽善である」だっけ?ゆえに、この両者をミックスした「正義の名を借りた嫉妬」というのは、最強無比に極悪非道ということになるし、僕もそう思う。
文責:田村