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今週の1枚(2012/06/04)



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Essay 570 :「逃げ」か?「挑戦」か?

   
 写真は、Mosman。Cremorneとの境あたり。写真中央、遠方に見えているのは、ハーバーブリッジ。




 僕が最初にオーストラリアにやってきたとき、それまでの日本での仕事や生活から抜け出してきたわけですが、それを「逃げ」であるとは、まーったく思いませんでした。ただ、もう純粋にチャレンジというか、いや、「チャレンジ」という意味づけすら思いませんでした。

 しかし、世の中には、何かをしたいのだけど、「それって『逃げ』なんじゃないか?」と悩む人もいるようです。
 日本を出て海外に行くこと、例えば就活を前にしてワーホリや留学をするときに「現実から逃げているだけなのかも」と迷うとか。あるいは、被災地を離れ新天地で生活を始めようとするのは「逃げ」なのかとか、退職や転職することは「逃げ」なのかとか。

 まあ、そこは人それぞれ、ケースバイケースなのでしょうが、ふと思ったのは、何をもって「逃げ」というのか?です。また「逃げ」の反対は何なのか。戦うこと?何かにチャレンジすること?「踏みとどまって戦う」とかいうけど、とにかく動かなかったら良いのか?「逃げ」って何なんだろう。

 さらに「おもしろいな」と思ったのは、「逃げ」も「挑戦」も字が似ていることです。「兆」という部分は同じで、それを「しんにょう」で囲うか(逃)、手へんをつけるか(挑)。これって単に字が似てるだけではなく、概念も似ているのではないか、あるいは本質に遡れば同じものなのではないか?と。

 今週はそのへんの「ほお?」と思ったところから始めます。
 これを書いている時点ではまだそこまでしか考えてません。書いていくうちにおいおい広がっていくでしょう。

「逃げ」の構成要件

 まず非難されるべき「逃げ」「逃避」の定義です。「逃げ」とは何か?「逃亡罪」というものがあるなら、その犯罪構成要件はなんなのか?

 パッと考えたら、「何ごとかやらねばならないことがあるにも関わらず、それをやらずに済むようにあれこれ画策すること」なのでしょう。
 このエッセンスを分解すれば、

 @、やらねばならないことがあること
 A、それをやらずに済ませようとすること

 ということでしょう。

 地震があって津波が押し寄せてきたら誰だって「逃げ」ますけど、別にそれは非難されることはない。なぜ?現に「逃げ」ているじゃないか?ってことだけど、そんな事を言う人はあまり居ないでしょう。本宮ひろしの漫画の主人公のように、大津波に向かって「うおおおお!勝負じゃあ!」と立ち向かっていくことが「やらねばならないこと」だとは思われないからですよね。そんなことしてもみすみす死ぬだけであり、それはもう度胸とか責任感とかいう問題ではなく、単にアホなだけだと。

 しかし、夏休みの宿題のように「やらねばならない」ことが明瞭に判明しているのに、うだうだいってやらないのは現実逃避として非難されます。「明日やろうは馬鹿野郎」というナイスなフレーズもあるそうですが、やらなきゃならないことがミエミエなのに、しんどいからズルズル先延ばしにして、悪夢の8月31日を迎えるという。ま、でも、他人のことは言えないよな。僕もあなたもけっこう馬鹿野郎だったりします。ねえ?

ベースになる価値判断

 このあたりまでは簡単なんだけど、難しくなるのは、「やらねばならない」というのは一種の価値判断であり、その価値判断は誰がやるの?なんでそいつが判断するの?それは正しいの?なんでそれに従わないとならないの?ということです。

 ありていに言って、この世に生まれてきて、どーしても「やらねばならない事」なんか一つもないでしょう。同じように「やってはならないこと」も無い。原始状態においては、人殺しだろうが、自殺だろうが、近親相姦だろうが何をするのも自由。少なくとも生物学や物理学的に制約があるわけではない。殺人を行うと、不思議なメカニズムで体内にガン細胞が発現し、ほどなくして死ぬ、、なんて科学的な機序があるわけではない。

 しかし、古今東西、人間が集まって社会らしきものを作ると何らかのキマリやタブーが出てきます。「法三章」のように「殺・傷・盗の禁止」という最低限度の規律は出てくるし、近親相姦も忌避される傾向がある。また各集団の生活様式やら宗教やらによって、やってはならない/やらねばならない事柄が沢山出てきます。

 その「ねばならない」系の決めごとは積もり積もって膨大な量になります。僕らは、朝起きてから→寝るまで、生まれてから→死ぬまで、かなりガンジガラメに「あれしろ」「これするな」と指図されています。やれ1日5回礼拝しろとか、近親者が他界したら喪中で年賀状出すなとか、就活にはリクスーと呼ばれる地味なスーツを着ていけ、間違ってもテンガロンハットにブッ太い葉巻を咥えた西部劇のメキシンカン・アウトローのような格好でいくなとか、空気読めとか、京で”ぶぶづけ”食うなとか、大阪では誰かがボケたらすかさずツッコミを入れなあかんとか、いろいろあるわけです。

 それはいいのですが、なんでそれがやっては(やらねば)ナラナイのか?といえば、ベースとなる価値判断があるからですよね。その行為を認めたら集団が集団として機能しなくなるとか、メチャクチャになるとかいう理由と判断あっての禁止・行為規範です。

 しかし、そういった価値判断や、そこから派生する煩瑣な決まり事に対して納得できない場合はどうしたらいいか。あるいは価値判断そのものが時代とともに揺らいでいる場合はどうか?はたまた法哲学でいう「規範衝突」=価値判断と価値判断が相互に矛盾しているときはどうか?このような場合、本当に「やらねばならない」のかどうかに疑問が投げかけられ、ひいてはそれに従わない行為が「逃げ」なのかどうかも疑問になります。

 例えば、学校に行かない不登校の場合、そもそも学校って行かねばならないものなのか?行くことにどれだけの価値があるのか?という根源的な問い掛けもあるわけです。あるいは学校出たら絶対に就職しなくてはならないのか?誰が決めた?なぜそうなの?ということで、根源的な価値観に疑問を投げかけることも出来るわけです。そこを揺さぶってしまえば、それが「逃げ」なのか、そうでないのか、曖昧になります。

 だから、これは「逃げ」に走る人の常套手段にもなります。宿題や勉強やるのが単にイヤなだけなのに、「勉強なんかして何の意味があるんだ」「人間の本来の価値に何の関係があるんだ」とか、その種のレトリックを使って正当化しようとします。よくやるよね、ガキの頃には。まあ、子供だましの屁理屈なんだけど、そういう使い方も出来る。

 その命題の当否は別として、ここで押えるべきは、ベースとなる価値観を揺さぶって曖昧にすれば、「逃げ」かどうかも曖昧になるという構造です。

覚悟あんの?

 しかし、従来の価値判断を拒否し、これは「逃げ」じゃないんだ、本当に人間らしく生きるための挑戦なんだと吠えたくったとしても、話はそこで終りません。次の二点があるからです。

 B、本気でそう思っているか?
 C、それに伴う不利益を全部ひっかぶる覚悟はあるのか?

 Bですが、本音のところでは従来の価値観どおり思っているんだけど、それを認めてしまうと自分の立場が無くなるから無理矢理そう言い張ってるような場合ですね。ほんとは宿題も就職もちゃんとやるに越したことはないとは思っているんだけど、それが面倒臭いし、上手く出来ないから、「意味あんのか?」と疑問を突きつけて、一時的に誤魔化しているという。その誤魔化しがミエミエだと説得力を欠くから、親や周囲から「屁理屈」呼ばわりされるし、「逃げ」レッテルをべったり貼られる。それに、自分でもそのことはよく分かってると思う。

 Cは、Bの実体的側面というか、「本当にそう思ってるの?その意味がわかってるの?」という検証みたいなものです。従来の価値体系から離脱するということは、それに伴う義務から解放されると同時に、それに伴う権利も剥奪され、保護もされなくなることを意味します。

 こんなこと現行法上ありえないけど、「俺は今から日本の法律から離脱する!俺を縛ることは誰にも出来ない」と叫べば、いくら日本の法律を破って犯罪を犯そうが、日本の法律で処罰することが出来なくなるという制度があったとします。とっても自由でナイスな制度のようでいながら、地獄の制度でもあります。日本法から離脱するなら、その庇護からも出ていくわけで、それは年金が貰えないとか、医療保険が使えないとかいうヌルいレベルではなく、一切の保護が剥奪されます。民法所定の所有権も認められないから何を盗まれようが警察も動いてくれないし、盗んだ人も処罰されない。盗られ放題。彼を殺そうとも、殺した人は処罰されない。人権も認められなければ、人間とすら認められず、そのへんのカラスや石ころと同じ存在になる。石ころ蹴飛ばしても犯罪にならないように、何をされても国に保護は期待できない。

 まあ、これは極端な議論で法律論的にはありえないけど、ポイントは、義務からの解放は、同時に「保護からの離脱」にもなるということです。親が鬱陶しいから家出しました。確かにガミガミ言う親は居なくなったけど、養ってくれる人も、守ってくれる人もいない。人食い鮫のような連中にいいように食い散らかされても、それはオノレの甲斐性でなんとかしなければならない。これは、ちょっと前に書いた「全世界を敵に廻す」「野垂れ死にはてめえ持ち」という原理であり、そこんとこ本当にわかってるの?その覚悟あんの?って話です。

 でも、結局、これって同じ事なのでしょうね。本気でそう思っているなら=新しい価値ビジョンがあり、それを創造する意欲と自信があるなら、離脱する不利益を覚悟することも出来るでしょう。

 そして、一本どっこでやっていく覚悟も根性も、それをやりきる知性と技術も無かったら、結局今よりも悲惨な結末になって終ってしまうでしょう。

 ということで、次のポイントが出てきます。

 D、結局うまくいかない、より素晴らしい結果につながっていかない

 夏休みの宿題をやりたくない一心で、「本当の勉強とは」とか騒いでいても、エジソンみたいに「本当の勉強」を自分自身で実現できなかったから、要するに単に先生に怒られて、成績が悪くなって、そんで終わりです。てか、学歴社会においてはそこで終らず、まだまだ因果の連鎖は残酷に続いていくでしょう。成績悪い→卒業が出来ない、入試で失敗、就職でも失敗→生涯年収で億単位で損、さらには貧困と無知によって適切な医療機会をミスったり、鬱々たる環境で精神健康を悪化させて早死、とか。

 しかし、逆に、本人が心底そうしたいと思い、それに伴う不利益を覚悟し、且つ代替的な価値体系を創造しうるのであれば、より素晴らしい結末につながっていくでしょう。本当にやりたい世界にいって思いっきり自分の力を試していけば、それも不利益覚悟で必死にやれば、成長も早いし、人間力も300%増(当社比)くらいになる。鍛えられて、判断力や決断力も甘さがなくなって正確になる上に、好きなことだから作業量も手数も自然に増える。命中率(増)×発射弾数(増)だから成功確率も増加するのが道理。一方、好きなことだからストレスも少なく健康長寿になる。そもそも好きなことやるという時点で既に最終目的である「幸福」は得られている。最初の一歩から(準備段階ですら)もうハッピーになっている。まあ、絶対そうなるとは保証の限りではないけど、そうなる可能性は高くなるでしょう。少なくともイヤイヤやってる人、盲目的にやってる人よりは、トータルではより豊かになりうるでしょう。

 こういう人の場合には、それは「逃げ」ではない。しかし、その覚悟が曖昧で、とにかく目先の不快や苦痛を避けたい一心で、やらねばならないことを避けているのであれば、それは「逃げ」と言われても仕方がないし、そのしっぺ返しも来る。

プラクティカルな基準

 ほんでもって、「逃げ」か「挑戦か」という区分でいえば、不利益ひっかぶる覚悟と新しい価値を創造する意欲と能力がある人だったら、何をやろうが、誰も「逃げ」とは思わないんじゃないかな?

 なんというか、「逃げ」に伴う「ひ弱」で「卑屈」なイメージやオーラがないから、直感的に「逃げ」っぽく見えないと思う。坂本竜馬が土佐藩を脱藩してもあまり「逃げ」っぽく見えないように、大企業や高級官僚の座を投げ捨てて信念にしたがってNPOを立ち上げる人など、覚悟と意欲のある人がやれば、それは「逃げ」に見えない。日本を離脱して海外に行っても、「あいつには日本は狭すぎるのかもな」くらいに言われるかもしれない。

 ということで、あれこれ細かな要件を打ち立てて分析したんだけど、結局のところプラクティカルな結論としては、

 E、直感的にみて、逃げっぽく見えたら、それは大体において逃げである

 ということになるでしょうか。
 だから、立論するほどのこともなかったというか(^^*)。

 さて、ここまでは頭のウォーミングアップみたいなものです。
 適当に素材を突き廻して、捌いて、下味をつけたくらいの感じ。ここから調理にとりかかります。

求めるX、難関Y

 ここで、「挑戦」と「逃げ」は本質的に似てるんじゃないかって点について考えます。

 A地点からB地点に移動する場合、従来のAの視点に立てば「逃げ」に見えるし、Bを基準にしてみれば「挑戦」に見える。これってただの相対視点でしかないですよね。Aからみたら「去る」といい、Bからみたら「近づく」というだけの話であり、逃げも挑戦も視座の相対性でしかない、と。だから似ているし、本質的には同じ。

 しかし、こんな形式論理では気が済まないので、もっと煮込んでいきます。逃げと挑戦の本質はなにか?

 今自分が欲しいもの(X)があって、その前にハードな難関(Y)があるとします。Xが欲しい、Xまで行きたいと思うのだけど、その道の途中にはYという難攻不落の関門がある。ゲームの敵キャラみたいなものです。この敵キャラを見事倒してXをゲットしようという試みを「挑戦」といい、Xは欲しいけどYが難しそうだから諦めるのを「逃げ」というのかもしれません。

 つまり、欲しいものXとそれを妨害するYというXY要素は同じなんだけど、Yを乗り越えよう、戦おうとするするか、それともYが恐いから回避しようとするかで、「挑戦」になるか「逃避」になるかが決まってくるという考え方です。

 このように求めるもの(X)と困難(Y)の関係でいえば、「逃げることが同時に挑戦になっている」というヘンテコな状態もありえます。

 A→Bへ移行するとして、Aから逃げることが滅茶苦茶ハードである場合です。Xに至る途中に立ちはだかっているハードな困難(Y)とは、事実上Aからの離脱行為とイコールになります。ゆえにAからの「逃げ」が同時に「挑戦」にもなる。

 例えば離婚です。結婚生活という現状(A)に我慢できない。それを維持することに価値を感じず、もっと自由に自分の人生を描きたい。しかし、離婚するのは相当なエネルギーが要ります。相手も周囲も離婚に同意していて、子供も財産もないなら楽ですけど、相手が同意しなかったらそれを説得するだけで大変だし、説得に応じなければ離婚調停→裁判です。意思部分がクリアされても、今度は子供の親権だの、ローン支払中のマンションの名義をどうするとか付帯問題は残る。さらに相手や自分の親や友達からも「辛抱がない」「ワガママだ」とか四面楚歌に非難される。皆から「逃げ」として非難されているのだけど、だけど納得できないものは納得できない、周囲にいい顔して奴隷みたいに飼い殺しにされてたまるかという思いもある。離婚した後生活が苦しく、下手したら野垂れ死にするかもしれないけど、「それでもいい」「その方がマシ」くらいにまで腹を括って戦うような場合もあるでしょう。それは「逃げ」かもしれないけど、同時に立派な「挑戦」でもあります。

 これは会社を「えいや!」で辞めるときとか、日本を離脱するときとか、人生の決断時には誰でも似たり寄ったり感じるでしょう。Aからみれば「逃げ」なんだろうけど、XY関係(より良きXをゲットするために難関Yと戦う)という構図ではまさに「挑戦」そのものであり、その「逃げ」ること自体が難関Yにもなっており、逃げる=戦うになる。挑戦と逃げが合一になり、こんな言葉ないけど、「逃戦」とでもいうべき場合。

 もっとシンプルな例でいえば、圧倒的な敵軍に囲まれ、袋の鼠状態になっているところ、ジャングルを神出鬼没に駆け回り、見事包囲網から離脱して、逃げ延びる場合。これは「逃げること=戦うこと」になります。誘拐犯に監禁されていた被害者が、隙を突いて逃げることもそうです。もっと徹底的にシンプルにいえば、映画「大脱走」みたいなものです。あれはもう逃げることが同時に攻撃(敵陣の撹乱)にすらなっている。

 この大脱走パターンの場合、「逃げる」ことへの後ろめたさは全くないです。

 何が違うの?といえば、A→Bに移動することが「良いこと」であることに疑問の余地がなく、「もしかしたらAに留まるのがイイコトなのではないか」とはサラサラ考えていないからでしょう。

本質的な差異

 だから、結局、価値判断なんですよね。Aに留まることにどれだけの価値を見いだすのか、Bに移行することにどれだけの価値を抱くのか。

 さあ、段々煮詰ってきました。一気にボイル・ダウンしていきましょう。

 ここまで考えてくれば、究極的には自分の価値判断に従っているかどうかだけが大事であり、Aに「留まる」とか、Bに「移行する」という方向ベクトル的なことは本質的な問題ではないとも言えます。

 Aに留まることに価値を感じつつも、それに伴う苦痛から逃れようとしてBに移動しようとすればそれは「逃げ」になる。
 Aに留まることに価値を感じ、留まることに伴う苦難を乗り越えようとすれば、留まること自体が挑戦になる。つまり「逃げない」という挑戦行為になる。

 Bに移動することに価値を感じているのだけど、それに伴う苦痛にビビって意気地無くAに留まっているのならば、留まること自体が「逃げ」になる。
 Bに移動することに価値を感じており、それを実現するためにどんな苦難も乗り越えようとするならば、それは「挑戦」になる。

 つまり、「逃げ」とは、移動 or 静止という問題ではなく、

 ○自分の価値観に従っているかどうか
 ○それに伴う苦痛に対してどう対処するか

 という問題であり、この両者を一つにまとめれば、「自分の価値観実現に伴う苦痛に立ち向かうか(挑戦)、避けるか(逃避)」ということになると思います。

 ふむ、なんとなく分かったような気がするぞ。って突つけば幾らでも「いや、待てよ、しかし」が出てきそうだから、このくらいでやめておきます。

 最後に付帯事項について、少し補足しておきます。

補足

ミックスパターンと選択の基準

 A(現状)とB(変化)にどちらに価値を見いだすかですが、どっちか一つが100%で他方がゼロなんてことは現実にはないでしょう。通常は、留まることにも価値を感じるし、新たな方向にも価値を感じる。ただそのレシピーがはっきりしないから悩む。あるいは、ハッキリしているんだけど、それがまさに50:50で、だから一層激しく悩んでいるんだよって場合もあるでしょう。

 その場合は、心ゆくまで悩んでくださいとしか言えないですね。無責任なようだけど(^^*)。でも、これはとても大事な悩みですよ。これ以上大切な悩みなんか無いってくらいで、こういう悩みを通じて人格というのはトーヤ(陶冶)されていくのでしょう。

 ただ、悩んだり決断したりする場合、何を基準に決めるか?という問題はあるでしょう。ABどちらの価値がデカいのかという基準で悩むのはOKなのですが、ABどちらの苦痛が少ないかという基準で決めるとドツボにハマる可能性が高くなると思います。

 なぜかといえば、自分の中の価値観の測定というのは、今ここにいる自分を冷静にみていけばある程度は分かります。だから確度が高いし、また仮に間違っても、その失敗は貴重な教訓になります。「ああ、あのときは自分というのものがまだ分かってなかったな」と。しかし、苦痛の比較は分かりにくい。将来の予測になるからです。このまま普通に就職するリスクと、思い切って何事かをやるリスクのどっちが高いでしょう?なんて、やってみないと分からない。そんなもの誰にも分からないし、分かるくらいだったら苦労はない。そして、それが間違っていた場合、あんまり学ぶものが無いのですよ。ジャンケンで負けて「ああ、チョキを出すべきだった」と思ったとしても、それが次につながるか?というとつながらないのだ。

 別の言い方をすると、価値観基準説の場合は、自分自身の省察・把握という貴重な経験、学習機会になるけど、苦痛比較説の場合は、単なるギャンブルに堕してしまいやすいので、得るものが少ないということです。

臆病仮面

 上で明らかになったように、単に踏みとどまる or 動くというベクトル自体には意味はありません。つまり外形的なことに意味はない。しかし、その外形だけから判断して、他人のことをあれこれ批判する人がいますが、そういう批判は無視して良いと思われます。

 これ、特に日本の場合は、「石の上にも三年」とか「人間、辛抱だ」とか言い、とかく動かないで、じっと我慢することを礼賛するカルチャーがあります。これはこれで、誇るべき日本の美徳だとは思います。そのこと自体に異論はないし、鋭く真実を衝いている部分もあります。

 が、なんでもかんでも動かなければ良いというものではないです。「臆病者の拡大適用」ってのもあります。本来の正しい適用範囲が10センチ四方の領域なのに30センチまで拡大して当てはめようとする。なぜか?臆病だから。

 以前、「質的ストレス、量的ストレス」で書きましたが、日本の場合、量的ストレスには強いけど(残業を我慢するのは得意)、しかし質的ストレスには弱い(労働環境について率直に意見具申するのは苦手)。質的ストレス、思い切って血を流す覚悟で何かを変革するのがイヤだから(なあなあで軟着陸したいから)、量的ストレスの強さに頼って頑張るパターンが多い。バブル崩壊後、失われた20年問題の本質はまさにこの点の「ゆで蛙」問題にあるという意見も多いし、僕もそう思う。

 その臆病者の自己弁護、理論武装として、辛抱の美徳が説かれる場合もあるということです。個別具体的な事例で、何が正しい辛抱で、何が臆病仮面の辛抱なのかは、まさにケースバイケースでしょうし、意見も分かれるでしょうが、そういうパターンもありうるということです。動かないでじっと我慢している方が全然楽って場合も多い。

 そして、ちょっと許し難いなって思うのは、臆病な人が、自分の臆病さを指摘されるような気がするから、頑張って何事かをなそうとする人を嫉妬したり、引きずり下ろそうとして嘲笑非難することです。臆病なことは恥ではないです。僕だって臆病だと思うし。バガボンドでも出てくるけど、強い人ほど臆病だったりする。しかし、その臆病さによって、何かをしようとする人を攻撃するのは、罪であり、恥だと思う。ましてや、そのときに「馬鹿だなあ」「自分に酔ってるだけだよ」程度の罵言ならまだしも、「しょせん、逃げてるだけだよ」とまで言うなら、それはちょっと許し難いですね。まあ、僕がここで「許さん」と言っても、だからどうってことはないのだけど、それはやめようぜって思う。皆仲良くゆで蛙かよ?

戦術的撤退

 単にボロ負けして逃げてるだけなんだけど、大本営的な美辞文学で「戦術的に一時撤退しただけだ」みたいな言い方があります。負け惜しみっていうか、官僚の責任逃れというか、「事故」とは言わずに「事象」というような感じ。

 でも、使用例に悪例が多かったとしても、戦術的撤退というのは正当な概念としてあります。冒頭の大津波に向かって立ち向かう愚を避けて、高台に逃げるのがそうです。どう考えても勝てそうもない状況においては、捲土重来を期して、敢えて屈辱的な敗北を受け入れることもあります。「逃げるが勝ち」ともいいます。「韓信の股くぐり」という故事もある。

 要するに、主戦場がここではないと思えば、とっとと逃げたらいいわけです。そんなどーでもいいような枝葉末節で頑張って兵力を消耗するのは、明らかに愚策ででしょう。「匹夫の勇」といいますが、やたら向う気が強くて、喧嘩してれば強いってものではない。そんな勇気は、下っ端の雑兵レベルの勇気であり、一軍の将たる器には必要ない。

 設例なんか出さなくても分かると思うけど、「走れメロス」で友達を助けるために必死にメロスが走ってたら、前方に山賊が現われて通せんぼをしたとします。この場合、戦ってると時間がかかるし、勝つ保証もない。足に怪我でもしたらもうアウト。だから、土下座してでも、靴を舐めて媚びを売りまくってでも、早く通して貰おうとするのは当然のことでしょう。こんな場合に「毅然とした態度で」「弱腰だ」とか批判するのは馬鹿です。さらに、ヘロヘロになって走ってたら、村の子供に笑われたから、「てめ、笑ってんじゃねえ」で子供を追いかけ回していたら、もっと馬鹿です。

 つまり、どーでもいいときはチャッチャと逃げたらいいのだ、シカトすべきものはシカトすべきなのだってことです。実際の生活環境では、この種の逃げが9割以上を占めるかもしれない。どうかしたら、一生の間に逃げないで戦うべき機会などそう何度もないかもしれない。99%以上は逃げてればいいのかもしれない。主戦場はなにか?です。

いきなり主戦場

 「99%は逃げてもいい」という上の記述と矛盾するようですが、細かな日常的な局面では、意外と「逃げたらあかん」場合が多いと思います。

 別の言い方をすれば、「主戦場」といっても、別に関ヶ原やワーテルローの戦いのような大きな平原ばかりではなく、横町の角を曲がったらそこが主戦場でしたってことも日常ではけっこうあります。本当は○○にしたいけど、適当なところで妥協してしまうのは「逃げ」でしょう。

 つまり、目の前の苦痛の先に欲しいモノが見えている場合は、基本的に戦場だと思う。シェア探しのサポートなどをやっていても、「もうしんどいから」みたいな理由で妥協するような場合はダメだよって言ってます。妙に妥協しちゃったらあとで絶対後悔しますし、恐いのは負け癖が付くのですね。人間、思考や行動に「型」がついてしまうと、無意識的に同じようなパターンを繰り返すようになるから、やっぱり「やりきった感」は得て欲しいです。値千金の黄金勝ちパターンになりますから。バイト探しでも、レジュメ(履歴書)抱えて、ローカルの店に飛び込むのは超恐いし、入ろうかなどうしようかなで挙動不審者状態になりますが、ここでも「逃げるな」ですよね。

 恐いとか、恥ずかしいとかいう苦痛の先に、欲するモノが見えている場合、とりあえず一歩踏み込む。結果的にそれで玉砕してもいい。明日につながる。一歩踏み込んだら、仮に失敗しても実はそんなに痛くない。「あっちゃ〜」とは思いながらも、「でも、一歩踏み込んだぞ」というささやかな達成感はある筈ですから。しかし、そこでビビって踏み込まないと、悪循環になるのですよ。踏み込まなかった根性なしの自分が許せなくて悶々としたり、逆に自己正当化しようとして「こんなもん、意味ねーよ」とか開き直ったり、心がグチャグチャになっていく。雨に打たれたポスターのように心がササクレてきます。

 だもんで、意外に小さなところ、その廊下をひょいと曲がったら、いきなり主戦場があったりします。心はいつも、常在戦場。

 ほんでも、チンピラにからまれたとか、どーでもいいような局面、その戦いの先に欲しいモノがあるわけでもないような局面、求めてそうなったわけでもない場面では、ちゃっちゃと逃げましょう。上司の叱責、お客さんの苦情、例えそれが理不尽に感じようとも、へーこら頭下げてればいいです。仮にその相手をコテンパンに論破しようとも、極端な話その場で撲殺しようとも、だからといって何か欲しかったモノが得られるわけでは無い場合には、いかに腹が立とうが、いかにアドレナリンが沸騰しようが、それは戦場ではない。そこで喧嘩する/しないは個人の自由ですが、いずれにせよ「趣味の喧嘩」でしかないです。

ところで字が似てる件について

 冒頭で「逃」と「挑」は字が似てるという話をしました。その前フリのオチをつけます。

 共通項の「兆」という字は、「兆(きざ)し」です。兆候、予兆、吉兆、凶兆、瑞兆、「春の兆し」「回復の兆し」などなど。もともとは、亀の甲を焼いて、その亀裂の走り具合から未来を予見する占からきた字らしいです。「兆」というのは、裂け目が走っている状態を絵的(象形)に表現したものだとか。

 その兆しを「しんにょう」で囲うと「逃げる」になり、手へんをつけると「挑(いど)む」になる。とある兆し、これは今回の内容に即していえば「価値選択に伴う苦痛(の予感)」だと思うのですが、足を使って迂回していくと「逃げる」ことになり、両手を持ち上げてファイティングポーズを取って戦おうとすれば「挑む」になるという。

 ふむ、良くできていますね。やっぱ字が似てると本質的概念も似てるというのは、まんざら見当違いでも無かったようです。

最後に

 で、最後に冒頭一行目に戻りますが、僕がこっちに来たときは「逃げ」とかそんなことは1ミクロンも思いませんでした。なんか、そういう次元の問題ではないというか、そんな枠組みで物事考えなかったです。

 なんというのか、、、子供が原っぱで遊んでますよね。ふとした加減で、木立の向うに海が広がっているのが見えたので、「あれ?」「おお〜!」と思って、海を見るために駆け寄っていくような感じでした。だから、その際において、「原っぱから逃げた」とか「海に挑む」とか、そんなフレームで物事考えないような感じです。

 だから何?というと、本当にやりたいときって、「逃げ」とかどうとか、あんまり考えない、感じないようにも思います。「気がついたらもうやっている」というか。

 まあ、社会生活を営んでいれば、そんなに迅速にコトが進むわけもないでしょうから、「もうやっている」ということは少ないかもしれないけど、その場合は、「気がついたらやることになっていた(決まっていた)」って感じでしょうか。これほどの重大事のくせに、いつどうやって決断したのか、自分でも覚えていないという。こうやって言葉にして書いてしまうと、やたら嘘臭く響くかもしれないけど、いや、実際そういうことってありますよね。それって結構幸福なパターンだと思います。



文責:田村



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