今週の1枚(02.06.10)
ESSAY/戦争と苦労上手
Whatever doesn't kill you makes you strong.
というのは西欧でも有名なフレーズらしいです。趣旨は「苦労を人を育てる」「苦労は買ってでもしろ」ということで、直訳すれば「なんであれアナタを殺さないものは、アナタを強くする」=死んでしまったら意味がないけど、死なない限りにおいて厳しい思いをしたことは、自分を鍛えてくれるよ、ハードな体験はバンバン積んでおいた方がいいよ、ということでしょう。
最初この英語フレーズに接したとき、説教がましくないドライで客観的な言い回しと、「死なない限りは」という妙に論理的なのがユーモラスに響いて、「うまいこと言うな」と感心したもんです。
でも、これ、真理ですよね。そりゃ重箱の隅つついて例外をほじくり出せば幾らでも出てくるとは思うけど、ざっくりしたところで言えば、真理だと思います。ハードなことしなきゃ強くならないし、死にそうなメにあったことは必ずや肥やしになるでしょう。車の運転でも、心臓が止まるようにヒヤッとする体験を通じて、「こういう場合は要注意」という教訓が積まれていくのですから。
でも、このフレーズ、いまの日本においては死語になりつつあるような気がします。「死なない限りは」なんて世界ではなく、ちょっと前に書いた「早食い競争禁止令」みたいに、ちょっとでも=それが例え百万分の一の確率であっても=、傷つく恐れがあるんだったら万難を排して避けよ、みたいな感じ。
いろいろな諺を見てもわかるように、昔の日本は、どっちかといえば「苦労礼賛」系で、人生のハードシップが持つ教育効果や、スキルを身につけるためには一定の苦労が不可避的に付きまとうということは皆の共通の認識になっていたような気がします。
ところが戦後よく言われるようになったこと、「自分たちのような苦労は、子供にはさせたくない」という発想があります。これはもう明確に苦労礼賛ではなく、苦労回避系です。特に団塊世代よりもさらに上の戦中派世代が良く言っていたことです。その子供の幸せを願う心情は尊く美しいけど、その結果、日本人全体が、英語でいうところの、"spoiled brat"すなわち「甘やかされたガキンチョ」になってしまったウラミなしとしない、、、、ということは、夙(つと)にあちこちで語られているところでもあります。
一方、苦労礼賛、というか苦労自体に価値をおくわけではないけど、苦労を避けていては目的を達成できないよということを、正しく繰り返し指摘する人々も日本でも多数残存しています。これらの人々は、別に右翼団体とか宗教団体とかではないです。そもそも団体ではないです。世代でもないです。それは、「プロないし特殊スキルの領域で、後輩を指導する先輩達」です。高校の部活レベルでも、新入生がひーひー泣いてても、先輩達は手加減しません。
弁護士の世界でも、その種の「残酷物語」は沢山あります。書いても書いても書き直しを命じられるのはまだ可愛い方で、僕の知り合いの女性弁護士は、弁護士なりたてのときに、怒号渦巻く破産債権者集会の議長席に、「じゃあ、あとは適当に仕切っといてね」とたった一人で置き去りにされ絶句したそうです。他の女性弁護士は、地上げ華やかなりし頃、依頼者の自宅前にダンプで乗り付けてきた刺青だらけの恐いお兄さん十数人の現場に、「キミ、ちょっと行って事態を収拾してきてね」とたった一人で行かされたそうです。かくいう私も、イロイロやらされました。「支店長に談判してきてね」「そんな、アポなしは会えませんよ」「そのときは銀行の玄関で大の字になって、”さあ、殺せ”と叫んでたらええんや、そのくらいやったら出て来よるわ」「、、、、、」「じゃ、頼んだからね」なんてこともありました。というわけで、若手弁護士の皆さんは、最初はゾンビみたいな土気色の顔して地下鉄に揺られていたり、裁判所に重い足をひきづっていたりします。
こういった実力世界では、「自分たちの苦労を次の世代にはかけたくない」とは思いません。これは、リアルタイムの日本でも同じだと思います。別に苦労それ自体を礼賛するわけではないのですが、目的達成(スキル獲得)のために一定の苦労がつきまとうとしても、そんな苦労は当然あるものとして一顧だにしないわけです。
というわけで、ここ数十年の日本社会には、苦労礼賛系と、苦労絶対回避系、苦労無視系とがあるわけです。この関係はどうなっているのでしょうか。
戦前、戦中派の人たちは苦労しました。それはもう、今現在の僕ら甘っちょろい世代には想像つかないような苦労をされてきました。なんせ、戦争ですからね。1時間後には空襲を受けて自分が死んでるかもしれないんですからね。親、兄弟、友達が目の前で死んでいくのは当たり前。そして絶対的な飢餓。戦後しばらくの弱肉強食のような修羅場。そこらへんの街角で米兵達にレイプされているのなんて日常風景だったりしたのでしょう。朝になったらそこらへんに餓死者、凍死者が転がってたりしていたのでしょう。
あんな思いはもう二度としたくない、誰にもさせたくない、ましてや可愛い自分の子供にはさせたくないと思うのは、無理ないところだと思います。それが人情というものでしょう。
だが、それが嵩じて、しなければならない苦労、させるべき苦労をも、十分にさせてこなかった側面もあると思います。さらに、「意図的に苦労する/させる」という行為を知らずに育った世代は、さらに下の世代に対して「敢えて苦労を強いる」という教育的スキルが欠落していってしまったように思います。悪しき拡大再生産。
以前雑記帳でも書いたのですが、子供なり自分がしつけるべき下の連中に苦労を強いるというのは、かなり難しいことだと思います。非常にスキルが必要なのだろうと。まず、苦労を強いる側も楽しくないです。お菓子が欲しくてギャーギャー泣いてる子供に、ピシッとケジメを教えるのは、かなりの余裕と精神力が必要だと思います。わずか数十円の出費で、このイライラさせられる泣きがおさまるんですからね。安いもんですよね。「もう、しょうがないわねえ」と言いながら買ってあげるのはかなり魅惑的なオプションです。でも、そこでケジメを守って泣くにまかせるのは、やってるほうも不愉快だし、ツライです。
また、どういう場合に苦労をさせるか、換言すればどういう苦労が意味があり、どういう苦労は意味がないのかその見極めは高度なスキルが必要でしょう。またその場合のエンカレッジの仕方、説得方法、程度、リトライのやりかた、、などなど、相当な人間力がないと、他人に「意味のある」苦痛を与えるということが出来ないと思います。
このスキルは本能によって導かれるというよりは、後天的な学習によるのだと思います。自分が、実際に意味のある苦労してこれだけの成果を楽しめるようになっているのだという過去の体験がないと、およそ基準なり方法というものは出てきにくいと思うのですね。これは正しいことなのだ、これによって本当にこの子は立派になっていくのだというある程度の確信がないと、なかなか出来ないと思います。
プロ世界だったら、これが比較的わかりやすい。なんせ限定された領域であり、自分にとってもつい昨日の出来事であるから記憶も新しいし、相手の成長も早いし、失敗成功がすぐに分かるからです。だから後輩にハードシップを押し付けることに、そうそう躊躇いもないし、確信もある。でも、子供の成長なんて結果が出てくるのは早くて数年、遅ければ数十年後ですからね。子供が親の教育に感謝するようになるのも、十数年待たねばならないでしょう。非常に曖昧なだけに、かなりの経験と確信がないとやりにくいと想像します。
上に書いたように、苦労/ハードシップには、個人を鍛え人格を円熟させるという「意味のある苦労」と、そんなメリットよりもトラウマばかりが多くなってしまうような「意味のない(有害性が上回る)苦労」とがあるのでしょう。
「この子には同じような苦労をさせたくない」と語られるときに想定されているのは、このただ辛いだけで意味のない苦労だと思います。確かに、戦前戦中世代に皆さんが被った苦労は意味のないものも多かったと思います。いや、ハードシップには人を鍛える部分があるから、まるで無意味ってことはなかった筈です。それによって鍛えられ、強くなったことも多々あったと思います。瓦礫の中から復興していくリアルタイムの体験が、タメにならないわけはないです。
しかし、そうはいっても辛すぎた。また、納得できないものが多すぎたのでしょう。戦時中子供だった世代にとっては、戦争は自分とは預かり知らぬ大人達が勝手に始めたことであり、とばっちりを被ったようなものでしょう。我慢や奴隷的服従を強いられ続け、一夜明けてみたら「あれは全部間違いだった」では納まらないしょう。僕がその立場だったら納得できないですよ。でも、納得も承認もヘチマもなく、戦後の混乱時期が押し寄せ、とにかく懸命に食うために働き、人心地ついてみれば今度は戦後世代の大卒がエリートで自分の上に立っているという。
こんな数奇な運命を辿らされた人々、それも自分ひとりだったらまだしも周囲を見渡せば似たり寄ったりだったりしたら、いったいどういう「人生の教訓」を引き出していくか。ただもう一方的に押しつけられ、怒涛のように繰り返される苦労の連続の中で、立ち止まって「これは意味のある苦労だった」「あれは無意味だったな」なんて吟味選別している余裕も発想も持ち得なかったとしても無理ないです。体感的に身についた教訓、というかもっと生々しい記憶としては、「とにかく貧しいのはイヤなことだ、ひもじいのはミジメなことだ、学歴がないのは非常に損だ」ということになっていくでしょう。とてもじゃないけど、「苦労」にポジティブな意義付けをして、これを後世に伝えていくようなゆとりはなかったように思われます。
そう考えると、戦争の罪というのがいかに大きいか、です。
神戸地震の死亡者は5000名強、日本の交通事故死者は年間約1万人です。ところが、太平洋戦争で殺された人は、日本人だけに限ってみても約300万人。さんびゃくまんにん。一口にいうけど、こんなムチャクチャな数、正直いって想像つかないです。だって、神戸の地震600回分でしょう。毎週一回12年連続であの地震が起きてるようなものです。いったいどんな日常なんだ?という。ちなみに、第二次大戦における世界全体での死者は5500万人ともいわれてます。神戸地震1万発。もっと想像がつかない。天災ならまだしも、100%人災ですもんね。何を考えてそんな愚かなことをしたのか?
直接の死傷者だけでも気が遠くなるくらいのダメージだというのに、これだけの時代を過ごした人間がどのような人生観・世界観を持つか、そしてそれをどう後の世代に複写承継させていくかを考えると、その被害は果てしなく広がります。ほんと、戦争なんてするもんじゃないなと思いますよね。50年前の戦争の呪縛は、今尚残っているのでしょう。これが完全になくなっていくのは、下手すればもうあと100年くらい待たねばならないかもしれない。文字通り、「七代祟る」といった感じです。
「この苦労を二度と子供達には味あわせたくない」のであれば、まずもっていかに戦争が起こらないようにするか、戦争というのはいかに残虐でミジメなものかを伝えることでしょう。そして、そのとおり戦争体験を風化させないように、今日もなおボランティアで頑張っておられる人は多々おられます。頭が下がります。しかし、関係者の努力にもかかわらず、不幸なことながら、この本道は十分に果たされているとは言いがたい点もあると思います。
さて、ここからちょっと話題が変わって戦争の話になります。
上記のようにボランティア諸氏の努力によって、戦争体験の悲惨さは伝わってはいます(各体験談にせよ原爆ドームにせよ)。いるんだけど、「なぜあの戦争は起こったのか?」というメカニズムの分析的な部分、そして「社会がどういう状況になったときにマズいのか、どういうときに注意しなければならないのか」というノウハウ部分はあまり語られてこなかったウラミがあるように思います。
これは、まあ、無理な側面もあります。そういった国際政治に関することは、戦時中子供だった人々には荷が重いと思いますし、戦争を仕掛けた世代の中軸的な連中は戦死したり戦犯で処刑されたりして居なくなっているか、あとはワケもわからず徴兵され、モミクチャにされているだけだったろうし。おまけに、戦勝国側の総括も「民主・自由主義がファシズムに勝った」という程度のスローガンレベルであり、到底緻密な教訓にまでは至らなかった。また、進駐軍がもたらした戦勝国の特徴はなによりも圧倒的な「物資の豊富さ」であり、それは「物が豊富にあればそれでいいんだ」的な過剰にシンプルな方向付けをもたらしたキライもなきにしもあらず。
これはひとり日本だけの問題ではなく、戦勝国も敗戦国もクソもなく、5500万人という途方もない犠牲を出したわりには、人類が学んだものは余りにも少なすぎないか。いや、世界各国の多くの学者とジャーナリストが、あるいは市井の研究者が、沢山の豊かな教訓を引き出してはいるだろうけれども、それが世界全体の共通認識になっているか、そしてそれが単なる「世界平和」という理念的なものに留まらず、切れば血が出る実践的なメソッド/処方箋として確立しているかというと、心もとないといわざるを得ない。
それが証拠に、戦争に関してはいろいろな人がいろいろな意見を持っているだろうが、「どうしてあんなことが起きたのか」「じゃあ、どうしたら起きないように出来るのか」について、人間的に、社会的に、政治的に、そして経済的に理路整然と説明できる人がどれだけいるのだろうか?かくいう僕でもよく分かりません。「二度と戦争の惨禍を〜」とか「平和の祈り」とか言われるのですが、それ以上に突っ込んだ認識は共通のものになっていない。
世界大戦の前提状況となったのは、西欧列強国の飽くなき侵略主義・帝国主義であり、それは人類が悪性腫瘍のように持っている「自分がハッピーになれるのだったら、他者が不幸になっても構わない」というエゴイズムと強者の論理が根底にあり、もうひとつは人種的な偏見。一方では、自分の不幸は全て他の誰か(スケープゴート)のせいにして憚らない人類の怠惰さという悪癖があり、これがヒトラーの台頭を許したりしている。日本はというと、西欧諸国の侵攻に対する防衛から始まりながら、西欧的帝国主義に過剰適応し、植民地支配から人種差別までそっくり真似をはじめ、世間が狭いからちょっと勝っただけで夜郎自大にのぼせあがる島国根性と、客観的合理性を小児的な精神主義で誤魔化してきた精神の未熟さ、そして軍部と癒着として儲けようとした財閥、そんな社会になっても誰も異議を唱えられず大政翼賛体制になる無責任な付和雷同体質。
戦争の原因は様々であり、それぞれに複雑に絡み合っていますが、ただ一ついえることは、「人類というのはアホである」ということでしょう。それも相当に重症なアホである、と。人間は、自分がちょっとでもいい気分になれるのだったら、いくらでも他人を傷つけることができる。自分の人生がミジメだからといって、他人を殴ってウサを晴らしたりできる。自分の日常がイライラしてるから部下を怒鳴り、幼児を虐待する。ほんの少しでも冷静になれば馬鹿馬鹿しいとすぐに分かるようなことでも(例えば全ての元凶がユダヤ人であるとか、B29を竹槍で撃墜するとか)、それでも人は刹那的な快楽を追う。自分の気持ち良さや都合に合わせて平気で「正義」のモノサシを伸び縮みさせる。複雑な真実を丹念に考えることを怠け、間違っていてもシンプルなものに飛びつく。そして、一本タガが外れれば、どこまでも残虐なことを普通の人が行いうる。
人類とは愚鈍で残虐な猿である。知性に欠け、情操が不安定なバケモノである。弁解の余地なく、徹底的にアホンダラである。5500万人の犠牲に報いるためには、まず一人残らず自分がアホンダラであることを自覚すべきだと思います。アホであることを自覚するということはどういうことか?というと、根がアホである以上、必ずやまたこの愚劣な戦争を繰り返すであろうこと、起こりそうになったときに知性と良識でこれを食い止めることが出来ないかもしれないことを畏れることだと思います。だから、「平和を誓った」くらいでは、まだまだ足りない。完全な"idiot proof"、どんな馬鹿が扱っても間違いのないシステムを作るしかない。人間のその場その場のご都合主義の情緒に流されない、鋼鉄のようなシステムを築くこと。なにより大事なのは、自分たちの判断を100%信用しないこと、です。俺らはアホなんだから、必ずどっか間違ってるはずだと思うこと。
そういう意味では、完全な戦争放棄・戦力放棄を定めた憲法9条はかなり使えるシステムだと思います。押し付け憲法だからどうのという議論があるけど、押し付けられなかったらあそこまで踏み込んだ憲法を自主的に持ち得なかったでしょう。その証拠に押し付け憲法論を言う論者は、じゃあ自主憲法を制定するとしてどういう内容がいいのかというと9条の内容の変更(戦争の可能性を広げる)方向に言うのが通例で、「自主憲法で、自衛力も含めてさらに徹底的に完全放棄しましょう」などと言ってる人はマレである(というか僕が知る限りいない)。また、アメリカとしても、他人に押し付けるからこそあそこまで無責任にあっけらかんと理念的なことが言えたのでしょう。アメリカ自身は戦力も戦争も放棄してないし、大体、未だに銃規制ひとつろくすっぽできない、力に対する小児的な信仰を捨てられないあの国がそんな憲法を持つこともないでしょう。
ともあれ歴史の奇妙な偶然であの条項は生れ落ちたわけですが、それだけに妙に小ざかしくなく、アホ対策としてはかなり優秀なシステムになっていると思います。僕個人としては、アホな人類が武器なんか持つのは、それこそ狂人に刃物であるから、持たすべきではないと思います。たしかに、武器によって正しく自衛が果たされることもあります。しかし、武器によって無益な血が流れる可能性もそれ以上にあります。
ところで、日本はもっと軍備を増強すべきだという意見をお持ちの人に問いたいのですが、では日本でもアメリカと同じように銃を一般に開放すべきだと思いますか?誰でも自衛のために銃を買えるようにすべきだと思いますか?これって同じ論理だと思うのです。というか、それ以上じゃないかな。なぜなら現実問題として日本が軍事的に侵略される可能性と、あなたが強盗その他で暴力をふるわれる可能性とどちらがより高く、より差し迫った問題かといえば後者でしょう?日本で毎年暴力犯は数千数万という規模で生じているのだから。そして、銃開放が事態を改善するかというと、益々悪くすることは、あなたがアメリカ人でない限り(っていうのも人種偏見だけど)、おわかりの筈でしょう。
武器は自衛として使われる場合よりも、攻撃や犯罪に使われる場合の方が圧倒的に多い。より凶悪なヤツはより穏健な人よりも、いつだってより多くの武器を持ち、より武器の使用法に長けていたりします。これは古今東西いつだってそうだと思います。出刃包丁が殺人の凶器になったケースは幾らでもあるが、出刃包丁で防戦して助かったというケースはマレでしょう。日本で銃を開放しようものなら、暴力団や暴走族の抗争だけでなく、そのへんの校内暴力ですら発砲事件が相次ぐのではないかしら?些細な夫婦喧嘩でカッとなって発砲なんてことが増えるだけではないか。実際、アメリカの統計では、銃によって死んだケースのほとんどが顔見知りの間柄であり、その中でもかなりの割合が親族間だったりするというのを読んだことがあります。武器など無い方が良いのです。素手だったら、なかなか人なんか殺せるものではないし、殴り合ってるうちに疲れて終わる。人類は馬鹿だから、どう転んだっていずれは喧嘩をする。俺もアナタもいずれはする。というか、しょっちゅうやってる。そのときに致命的な武器が転がっているのとないとでは結果が天地ほど違ってくる。
国家間の軍備と、個人間の犯罪を同一に論じるのは誤っているという反論もあるでしょう。勿論、国家と個人とではレベルが違います。しかし、国家の振る舞いの方が、個人の振る舞いよりも、より知性的で、より穏健で、より人間的に優れていますか?歴史的には逆じゃないですか。個人個人は良い人間であったとしても、国家ないし集団になると、非人間的なことをしがちではないですか。だっだら尚のこと、知性にも倫理にも劣る国家ごときに、武器を持たせてはならない。
国家をより制限する理由はもう一つあります。それは、団体になると、喧嘩をして得をしたりいい思いをする奴と、その喧嘩でミジメな思いをして死んでいく人間が別だということです。いつだってそうだけど、戦争をおっぱじめる奴はまず間違っても前線には立たない。これが個人であるならば、喧嘩を始める人間と、殴られる人間は同じだから、それがおのずと抑制力になる。しかし、国家とか集団になると、権力の中枢にある奴の個人的な子供じみた虚栄心や敵愾心だけで戦争がはじまり、戦場に駆り出されるのはいつだって何の関係もない庶民です。太平洋戦争のときの日本軍参謀本部の低能さによって、食糧も弾薬もろくすっぽ持たされず南海の孤島に追いやられ、苦しみぬいて餓死していった人たちのことを考えると、無茶苦茶腹がたつ。本部の連中は、「ここで神風がふく」とか作戦とも呼べないような愚劣な案をたてて、自分たちは後方で腹いっぱい食っていた。神風が吹かなくたって、それで野たれ死ぬのは徴兵されたどっかの他人だもんね。自分が前線に行くという前提だったら、こんな無責任な作戦はしなかったと思います。
そもそも個人に武器を持つだけの(それを正しく使用するだけの)抑制のきいた知性など最初から期待しない方がいいし、その個人よりもさらに愚劣で無責任になりがちな国家集団においては、武器を使用する資格も、戦争を遂行する知的能力も、最初から無いと思った方がいい。
しかしまあ、世界の国々は軍備を持っており、日本だけ丸腰では、、という懸念もわかります。でも、世界って240ケ国以上あるのだけど、軍備を持ってない国のほうが多いと思いますよ。軍備というのはかなり金がかかるし、あったところで日本からみたら警察レベルの武装だったりもするでしょう。少なくとも、はるばる日本まで侵略をしかけることが出来る国というのは、ごくごく限られていると思います。
それに、より積極的な理由で日本は軍備を持たない方がいいと思うのは、軍備を持たないと不安で仕方なくなるだろうから、一生懸命国際情勢を勉強するようになるだろうということです。こちらの語学学校にしばらく通ってみたら分かると思いますが、平均的な日本人の国際情勢に関する知識は、これだけの高学歴先進国としては、世界的にみてもかなり劣等です。特にヨーロピアン連中と議論したらまるでついていけない人が殆どだと思う。なぜパレスチナがああなってるか、IRAはどうなっていくのか、なんでパキスタンとインドは仲が悪いのか、これ午後のオプション科目のカレントアフェア(時事問題)などを取ると当たり前のように議論され、当たり前のように皆自説を展開しますが、ついてこれる日本人はマレです。
これではやっぱりマズいと思うわけです、この先。国際情勢といっても、所詮は人間のやることで、早い話はクラスやサークルの中の政治みたいなものです。いじめっ子のAがいて、その子分のBがいて、ライバルのCがいて、優等生のDがいて、ちょっと本流から一歩離れたところにEがいて、FはGと三角関係にあって、HはAに宿題を見せてやってる貸しがあるからAのパシリにさせられるのを免れていて、、みたいなもんです。そのなかで、うまいこと遊泳していくためには、その背景や力関係に精通している必要があります。これはですね、日本人はすごく得意だと思います。集団のなかでどういうポジションでいるのがベストか、を瞬時に判断し振舞う能力は、日本人はかなりのものだと思います。日本人だったら、皮膚感覚で分かると思う。
それなのに国際音痴のままなのは、あまりにも知らなさ過ぎるからですし、また知る必要もなかったからでしょう。日露戦争の頃の日本は知る必要があった。だから、世界のどこの国よりも世界情勢をクリアに把握し、自分の立場を一切の主観抜きで見ることが出来たといいます。有名な明石大佐も、ロシアの後方で革命を煽り、レーニンと秘密の場所で会ったりするなどミッション・インポッシブル並みの行動をしています。イギリスと日英同盟を結び、世界のメディアであるTIMESを味方に引き込み、世界世論を誘導するという秀逸なメディア戦略を仕掛けるとともに、局外中立のアメリカを担ぎ出し、ルーズベルトに仲裁役を早々に根回ししていくなど、やることなすこと超一流といっていいくらいの外交戦略だったといいます。だから、やれば出来るんですよね、日本人にも。
じゃあなんで今ダメなの?というと、マジメにやってないからです。やろうとしていない。また、やる必要も無い。アメリカの言うこと聴いてればいいんじゃないかということで。でも、これ、自衛隊解散して、完全丸腰になったら、かなり恐いと思うはずだから、真剣に勉強すると思います。立ち回りを間違えたら厳しい立場になるから、いきおい真剣にならざるを得ない。今は政治家だって無知すぎると思うし、一般国民だって知らなさ過ぎ。本当は小学生のホームルームで、独立した東チモールの最大の援助国が日本なのに、独立式典にも無視され、世界から完全にシカトされているのは何故なのか?を議論していたっていいくらいです。危機感があったら日本人って頑張るから、そのくらい出来ると思います。
それにですね、軍備っつったってねえ、本当に要るの?あって実戦の役に立つの?って気もしますよね。オーストラリアから見てると、いま世界で日本を軍事的に侵略するなんて暇なことやってられる国なんかないように思いますけどね。北朝鮮で革命が起きて、焦った支配層がトチ狂ってミサイル無差別発射みたいなことをするくらいでしょうけど、そんなもん侵略というよりは単なる事故に近いでしょう。日本が今に侵略される、、とか言ってる人いるけど、あれも自意識過剰だと思います。今、日本って世界からそんなに注目されてないですよ。「ワールドカップの開催国で、万年不況の国」くらいの認識でしょう。だったらいっそのこと金のかかる軍備なんか止めて、国民皆で焦って勉強した方がよっぽど将来のタメになると思います。国民が世界情勢に精通していて賢くなってたら、どっかのアホが戦争しようとしても、そうそう国民を騙せなくなるからいい歯止めになりますから。
話は戦争方向にぐぐっとズレました。
苦労の話でした。
苦労をさせないのは一見美しく優しく見えますが、それは子供に甘いものばっかり食べさせて虫歯だらけにしたり、栄養のバランスを崩して病気に陥れる危険性をはらむと思います。
ひどい苦労をされた上の世代の方々は、あまり苦労時代のことを思い出したくもないのかもしれませんが、その苦労が故に人生が燃焼し、人間のグレードが高まったということもあったと思います。次の世代に正しい苦労を教えないことは、その世代から苦痛を取り除くと同時に、人生の豊穣な喜びをも又奪い去る危険性があると思います。そして、また、手厳しいことを言いますが、あれだけハードなことをしてきたのに、なぜ人格レベルがこの程度で留まっているのか疑問に思う人もいたりします。自分がした苦労を正しく位置付けることをせずに、ただひたすら楽をしたいだけでその後の人生を過ごしてきたのではないか?と思われるほどに。
こちらにワーホリで来られる人々、あるいは留学でも永住でも、自発的に言葉の通じない海外に出てこようという人々は、どちらかといえば「楽をしよう」というよりは、「苦労をしよう」という人の方が多いと思います。いや、別にそう明確に言語化して意識されてる人は少ないと思いますが、ハードシップという苦味とより豊かな人生というものが不可分のものになっていると思います。これは意味のある苦労というものが妙にしにくくなった日本のひとつのリフレクションだと思います。
ハードシップ/苦労は、それ自体に独立の意味はありません。苦労それ自体は、肉体的精神的な痛覚反応であり、それ以上でもそれ以下でもないです。問題は、そのハードな体験から、どの部分を取り出して自分の栄養として咀嚼できるかどうかだと思います。いわゆる「苦労が身につく/つかない」という言葉が示すように、それが出来なければ苦労しただけ丸損ですもんね。
18歳過ぎたら自分の教育は自己責任でしょう。もう親のせいにはできない。
これまでの苦労をどう咀嚼して栄養を摂取するか、今後の自分にどのような苦労を強いるべきか、的確でクレバーな判断が望まれるのだと思います。苦労上手になりましょう。苦労って、空手の試割りみたいなもので、割れてしまえば全然痛くないんですよね。割れないとメチャクチャ痛い。苦労って不思議なもので、なにかズシッとしたものをゲットできたら、それまでの苦痛は嘘のように消えるのですね。
って、まあ、こうやって他人にむかって一般論で言うのは簡単なんですけどね。いざ自分のこととなると、なかなか難しいものです。苦しいのヤだもんね。でも、まあ、イチから十まで自己責任ですもんね。たまには、自分自身に「こいつ、最近ぶったるんでんじゃねーか?」って思ってやらんとアカンのでしょう。
写真・文/田村
写真: Rocksからハーバーブリッジを望む
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