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今週の1枚(2012/05/28)



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Essay 569 :価値創造のコミュニケーション

   〜 さしのべられたその手を握り返しているか?
 写真は、Drummoyneの先っぽ。Victoria Plの終端にあるHowley Park。見えているのはGladesville Bridgeという大きな橋で、ここからの眺めはいいです。



 前回「ナギーとナガー」を書きました。小言を言ったり/言われたりという日常生活の人間関係に潜む毒性についてですが、書き忘れた部分、、、というか書き出すと長くなのでカットした部分を書きます。最近この「しりとり」みたいなパターンが多いですが。

 それは何かというと、、、、「小言を言われない」あるいは「小言を言っても聞いてくれる/言うまでもなく動いてくれる」というこちらにとって快適な状態がある場合には、それを当たり前だとは思わずに、相手には感謝しろってことです。

 ナグ(nag、ガミガミ言う)されないというのは、自分がナグされないほど万事上手に廻しているからではなく、相手がナグしたいのをグッと我慢してくれているからなのだ。
 自分がナグしても相手が素直に聞いてくれるとかいうのは、相手が素直で従順になったからではなく、これもグッと堪えてくれるからだ。

 いずれにせよ、この「平和」は相手がグッと堪えてくれているからこそもたらされているのであり、パートナーや近親者には、その点についての感謝、少なくとも理解は忘れないようにしましょう、というまるで道徳の教科書のようなお話です。

誰かの犠牲のうえに成り立つ幸福

 道徳の教科書のように教訓じみて、お説教じみているのだけど、でもでもでも、けっこう重要ですよ。

 これを例によって、汎用性を広げるために、純化してエッセンスを抽出すると、「自分がなんらかの快適な状態にある場合、必ずや誰かの犠牲によってそうなっていることを知るべき」ということです。

 誰だって自分が一番可愛いし、自分の快適さを何よりも優先させたい。
 そして、それぞれがそう思っているこの人間社会では、物事というのは自分の思い通り進まない。他人は自分の思う通りに動いてくれない。それはもう絶対にそうなる。

 「絶対に」という極端な言い方をするのは、確率論的にそう言っても差し支えないからです。何十億人もいる人間が、それぞれ100%自分勝手に動きながらも、魔法のようにどこにも衝突が無いなんてことはあり得ないでしょう。何億台もの車を、各ドライバーが目隠ししながら運転し続けているようなもので、どの車輌も魔術のようにヒラリとすり抜け、ただの一台もぶつからないで済むなんてことがあるか?その確率というのはどのくらいか?といえば限りなくゼロでしょう。すなわち「絶対に」といっていいくらい。

 人間関係も同じ事で、「最近、なんかいいよね、うふふっ♪」と思ってるときは、得てして誰かを踏みにじってたりする。

 最近は上司もあんまりギャンギャン言わなくなって、、、→ムカついているのをグッと押し殺してくれている
 このところ、夫も理解を示してくれるようになって、、、→ 同上
 ようやく彼女も分かってくれたようで、最近では、、、→ 同上

 などなど、幾らでもあります。

 これは経済だって同じことで、なにか買おうとして「わあ、安〜い!」とハッピーな感覚に包まれているときは、必ずや誰かを踏みつけている。その商品が安くなるためには、販売店が利潤を減らして青息吐息になっている or 下請先が代金カットの無理難題を強いられている or 従業員の給与が減らされている or 端的にクビになっている or 製造工場や生産地の第三世界の人々が餓死寸前に追い込まれている、、などなどの事情があったりする。

 ここからさらに演繹し、幸福とは結局のところ誰かの犠牲の上に成り立つのだとしたら、そんな幸福に価値があるのか?という、昔からあるシビアな問い掛けに連なっていきます。さらに空手の追い突きのように、もう一歩突っこめば、人=生き物は、他の生物(動物や植物)を殺して、食べねば生きていけないという、存在それ自体が罪深いという原罪問題にも連なっていくのでしょう、、、が、今回はそこまで話を延ばしません。日常の人間関係の話を。

エブリワン・ハッピー

 しかし、まあ、こんなことを考え出したら、人間関係なんておっかなくてしょうがないですよね。「もしかして、本当はムカついているのを我慢しているだけだったのか?」とか思い始めたら、対人恐怖症になってしまいそうです。

 そうでなくても、気を遣い、気を廻し、気を配り、そして空気を読み続けて一生を終えていく日本人の場合、これ以上タスクを増やしてどうする?って気もしますね。もともと引っ込み思案のシャイ民族なんだから、これ以上シャイになったらもう後がないよね。

 だから、別にそうと知ったところで、他人を踏みにじっているかもしれない状態を変えることはないとは思う。変えたかったら変えればいいけど、そこまで「ねばならない」と思い詰めて実行していくと、今度はこっちにフラストレーションが溜まって→溜まりまくって最後にはドカン!という、結局さらに良くない事態になるやもしれない。だから、いきなりドラスティックに変ることはない。「ねば」と強迫観念にかられることはない。

 ただ、しかし、「感謝」はすべきじゃないか、少なくとも「理解」はすべきではないか。

 特に家族や夫婦関係、カップル関係においては、踏みにじらせてくれるのは、とりもなおさず相手の好意、厚意、愛情の表現なのだから、「好きだよ」って言われているのと同じ事。いやそれどころか、単に口先だけではなく、現実に不快感情を押し殺し、それも継続的に押し殺し続けるという実行をしてくれているのだから、「ありがと」と思っとったらええんちゃうの?というのが、僕の意見です。

 そりゃあ、場合によっては、諦めきって、冷え切って、何を言っても無駄無駄無駄あ!と−273.15 ℃の絶対零度になってるから何も言わないのかも知れない。でも、そうでないかもしれない。そうではなければ、何らかの好意はそこにあると思っていいんじゃないか。そこに好意があれば、それに対する感情的リアクション=「応意」とも呼ぶべき心情を抱いてもいいだろうし、バチは当らないだろう。

 他人の好意に気づき、認めることは、そんなに難しいことではないし、イヤなことではないでしょう?むしろココロがほんわり温まったりして気持ちがいいです。これは、この世に滅多に存在しないエブリワン・ハッピー的な状況であり、そんな都合のいい状況がそこにあるなら、それはちゃんと認識し、ゲットすべきっしょ、勿体ないっしょってことです。

 ほんでも、別に口にださんでもいいとは思う。照れるし。「日頃から数々のご芳情を賜り、、」とか別に言わんでいいでしょ。そう思っていたら、自然に、視線一つ、まなざし一つ、そしてオーラも変ってくるだろうし。

「無償の善意」の対価

 自分の幸福や快感が、誰かの「犠牲」の上に存在しているからといって、直ちにその幸福が汚れたり、価値が下がるということはないと思います。これはもう考え方一つなんだけど、「犠牲」というから殺伐とした連想になるだけであって、同じことを「好意」「愛情」という言い方も出来る。特にその犠牲が自発的に行われている場合、つまり「自己犠牲」の場合はそうです。

 それは例えば、とある部族が圧倒的な外敵や天災に襲われて全滅の危機を迎えているとき。ボロボロになった男達がゆらりと立ち上がり、「手足の動く野郎どもはこっちに来い。女子供は逃がすぞ」「おう」と集まり、せめてもの時間稼ぎをするために、全滅覚悟の最後の戦いに出ていくようなとき。あるいは映画「タイタニック」の最後の場面で、ディカプリオが彼女を助け、自分は海に沈んでいくといういまわの際で、「キミは死んではいけない。後を追って死んではいけない。絶対に生きろ。生きて生きて、そして孫に囲まれた幸せなおばあちゃんになるんだ」と言い残して水中に消えていくとき。

 このような自己犠牲だって、シニカルな見方をすれば、手前勝手なヒロイズムだとか、酔ってるだけとか、客観トータルとしてはまるで無意味とか、問題の本質を美談でボヤかすとか色々言えるし、自己犠牲の仮面を被った何か別のもの(事なかれ的保身とか、村社会的横並びファシズムとか)だったりもするでしょうが、しかし、100%全部嘘っぱちということはない。数%であっても、そこには本物があるでしょう。

 その「本物」は何なのかといえば、対価を求めない無償の善意・好意でしょう。

 ただ「無償の善意」といいつつも、本当は大きな「対価」を求めているのだと思います。それは、「価値創造」という巨大な対価です。

 そもそも人は、なんで自己犠牲のような行為をするのか?何を考えてそんな自殺行為のようなことをするのか?

 それは、自分さえ良ければいい、得をすればいいという目先のエゴ的な利害よりも、もっと素晴らしいモノ、より巨大な価値があると感じたからではないか?それを創造しようと思い、実行することに大きな意味があると感じたからでしょう。つまり、より次元の高いもの、より素晴らしいものを対価として求めている。

 犠牲フライにせよ、犠牲バントにせよ、バッター本人はアウトになる。個人的な損得勘定では完全に赤字だけど、それによってランナーが進塁し、一点獲得し、終局的にチームの勝利に一歩前進するならば、より大きな価値を生む。単社決算では赤字だけど連結財務では黒字になる。

 そして、それを相手に対して表現するというのは、無償の好意の表現であると同時に、「なにか素晴らしいモノをシェアしようぜ、一緒に創ろうぜ」という誘(いざな)いなのでしょう。

 それは、目先の損得よりも一段階高次なレベルのコミュニケーションなのだと思います。

より高い価値が見えていること

 自己犠牲は、なにもこんなドラマチックな局面においてのみ出現するわけではないです。もっと些細な日常で幾らでも出てきます。車を運転してて、誰かに道を譲るようなことさえ自己犠牲の一種であり、入り口で "after you"(お先にどうぞ)と譲るのもそう。後輩の育成のために、あえて憎まれ役の鬼軍曹や鬼上司役をするのもそうでしょう。

 思春期や反抗期の子供をもった親もそうでしょう。第二次反抗期なんか、ほんと生意気ですからねえ。あいつらっていうか、僕も、そしてあなたもそうだったと思うけど。てめー一人では何にもできないクソ無能な穀潰しのくせして、あれをしてくれない、誰も自分のことを分かってくれない、なんて不幸なんだとか爆笑レベルの甘ったれたことを喚いて、散々周囲に迷惑をかける。「産んでくれと頼んだ覚えはない」などと啖呵を切って家出したところで、売春するくらいしか生計をたてる道はなく、その身体だって自分で作ったものではない。要するに自分の力では何一つ生み出すことができず、自己の生存すら自分でマネージできない、大自然の掟に従えば、即刻天敵に捕食されるべき、ただの「食糧」「餌」以外の何物でもない存在。それどころか周囲に憎悪や困惑を撒き散らすだけという放射能みたいに有害で汚物のような存在。

 にも関わらず、それでも、親はその子を愛する。全員が愛するわけではないだろうが、愛する親は多い。「まあ、ああいう年頃だから」「難しい年頃だよね」とシュラッグしてクリアの大人の対応をする。なぜか?それは親の愛情なんだろうけど、「愛情」というブラックボックスを敢えて開いて中身を見ると、どこを切り取っても「抱きしめたいくらい愛しい」という甘味に満ちた感情が詰まっているわけではない。瞬間瞬間には、「このガキ、ブチ殺したろか」という強烈な憎悪や、殺意すら抱くでしょう。でもトータルとしてはより価値のあるものを親(&周囲の大人)は見ている。

 思春期や反抗期には、肉体身長が150センチしかないくせに自我身長が180センチもあったりするから、狭い器(=未熟な身体やひ弱な社会的立場)に収まりきらず、毛穴から自我がはみ出してくるような、自分が爆発してしまうような苦しみを味わう。産みの苦しみ。しかし、その苦しみに七転八倒しながらも、やがて自然の摂理で、ときがくれば収まり、大輪の花が咲くように美しく成長し、春の海のように雄大でありながらも限りなく優しい存在になっていく。

 絶対そうなるとはよう言わんし、なりそこなってる奴らも結構いるかとは思われつつも、そうなる可能性はある。親にはそれが見えるのでしょう。一時的な錯乱に手を焼きながらも、蛹からでた蝶々が優美な羽を震わせ、緑の木立を軽やかに飛び廻る姿が見える。つまりは、より価値のあるものが見えているし、そうなればいいなと思ってるし、それを創ろうと思っている。その価値の圧倒的な素晴らしさからすれば、目の前の子犬がキャンキャン吠えることなど何ほどのこともない。赤ん坊が夜泣きしてるのと同じ。

献身と価値のシェア

 あるいは(こんなの幾らでもある)、devotion(献身)という言葉があります。医学の発展のために、後の世代のために、故郷のために、なんだかよく分からないけど人類全てのために、この身を捧げるという現象もあります。

 菊池寛の『恩讐の彼方に』に出てくる「青の洞門」は、断崖絶壁によって人々が命を落とすのを見たお坊さんが、実に30年以上の歳月をかけて手でトンネル工事を完成させた実話に基づきます。個人的なインフラ整備事業ですね。九州の耶馬溪にあって、僕も行ったことがあります。これなんか「献身」の典型例ですが、無益に人が死ぬよりは死なないで安全に通行できる世の中の方が「価値がある」というのが見えたのでしょうし、その価値実現のために全てを犠牲にすることに大きな意味を感じたのでしょう。

 江戸時代の感動的なインフラ整備といえば、宝暦治水があります。今の岐阜県で薩摩藩士によって河川インフラ工事が行われました。これは幕府が薩摩藩の財政弱体化を狙ってのイヤガラセであり、そのイヤガラセは工事が終るまで徹底を極め、密かに工事現場を三回も爆破したり、食事や工事用具を制限したり。抗議のために50名以上が腹を切ったけど幕府知らんぷり。過酷な環境で赤痢がはやり、過労と病気でさらに30名以上が帰らぬ人となったけど幕府知らんぷり。

 これって、権力(的立場にある人間)はどこまでも冷酷卑劣になれるという例ですよね。恨み骨髄の薩摩人が幕末で徳川の奴らは皆殺しだといきり立ったのも無理もないです。また権力の手先として、妨害工事を施したり、周囲の村々に安く蓑などを売るなとか陰険な妨害工作を行った役人達は、その人がどうとかいうよりも、人間というのは、大きな組織に組み込まれ、官僚機構で保身に廻ってしまったら、いったいどれだけ人間としてヒドイことをやらされるか、やってしまうかという実例みたいなものです。それを思えば、電力会社がイヤガラセ節電をするとかいうのも可愛いレベルですし、本気でやろうと思ったら見えないところでもっともっとえげつない事は出来るだろうし、もしかしてもうやってるかもしれない。

 これ自体は幕府(というか権力機構)のドス汚さの象徴のような、そして虐げられた人々がどれだけ塗炭の苦しみを味わうかという救いのない話なのですが、しかし、それでも救いはあります。地元の岐阜県の人々はいまでも薩摩藩士の恩を忘れず、治水神社として祭り、そのあたりはのどかな木曽三川公園になってます。僕も行ったことありますが、濃尾平野の闊達な眺めが楽しめて、いいところです。岐阜県と鹿児島県は今日にいたるまでとても仲良しで、教員の交換とか、1993年の鹿児島県の豪雨の際には岐阜県が支援しています。

 300年近く語り伝えられてきているということは、それだけ地元が感銘を受けたということでしょう。薩摩藩士も、そりゃもちろんイヤイヤやっていたのでしょうが、それでも「民百姓のため」という何らかの意義や価値を感じもしただろうし、そのために献身するという意識もあったのでしょう。それが地元に通じていったのかなとは思います。そうでなければ治水神社の建立が昭和13年という、明治維新も藩閥政治も遠くなった頃に思い出したように作りはしないだろうと思うのですよ。当座の図式としては醜悪悲惨なものであっても、そこに数%でも価値が宿れば、その価値を人々は見いだすし、受け継いでいく。人間って結構捨てたもんじゃないよねという。

 第二次大戦の特攻隊にしても、大きな図式としてはロジスティクスも知らない無能な官僚機構(大本営)とか、軍需や大陸における財閥がらみの利権漁りとか、世界が全く見えず知ろうともしない夜郎自大な国民性とか、どうしようもないものであり、ほとんど強制的に犬死させられたようなものです。にも関わらず、ハタチそこそこの若者が、恐怖にかられて「おかあさん、、」と呟きながら操縦桿を握りしめていたという現実が、本当にこの世に存在したと思うと胸が締め付けられます。大きな図式は汚くてダメダメなんだけど、しかしそれでも価値ある数%があり、その数%は尚も無視しにくい。してはいけない気がする。それは愛国心とかそんなものではなく、もっと大きな、もっと価値あるものだと思います。

 戦争のない平和な社会。「平和」というと、なんかとらえどころがなくて、空気みたいにぼややんとして、その有り難みも価値も分かりにくい。だから、僕個人は、平和とは何か?ということを、あのまだ少年とすら呼べるような若者達が、恐怖に泣きそうになりながら、それでも我が身を犠牲にして求めたもの。「彼らがその命と引替えに求めたもの」。特攻隊に限らず、全ての無念の思いを抱きながら死んでいった人々が心から求めたもの、だと思うようにしてます。そう思うとなにやら明確に見えるような気がします。あだやおろそかに出来ないぞ、これを粗末に扱ったらもう人間やめるしかねーよと。

より高次なコミュニケーションへの誘い

 長々書いていますが、いずれにせよ共通するのは、「より価値あるものが見えている」という点です。

 誰かの犠牲のうえに自分の快適さや幸福があったとしても、それを単に「犠牲」とか「踏みにじる」とか思って忌避する必要はない。なぜなら、その誰かさんは自分を犠牲にしてまでより価値のあるものを求めているのかもしれないから。そして、それを犠牲と思うなら、その犠牲に対する答礼は、彼/彼女が創ろうと願った価値あるモノを一緒に創ることでしょう。

 小生意気なクソガキが何を言おうとも、しようとも、親が見捨てないのは、その素晴らしい価値あるモノが見えているからでしょう。荒れたキッチンで、倒れた椅子をもとに戻し、うずくまって床に散乱したごはん粒を拾っているお母さんは、例え惨めに見えようとも、悲しそうに見えようとも、でも泣いてはない。いつかこの子は立派な人間になる、絶対にそうなると思ってる。全員がそうとは言わないが、そう思ってるお母さんは多いはずだし、本当に立派になるかどうかは分からないのだけど、そういう「完成図」がイメージされているのは確かでしょう。より価値あるモノが見えている。

 荒れた野原を黙々と開墾した人も、暗殺・処刑されるまで理想を叫び続けた政治家や革命家も、一心不乱に絵筆を握る画家も、何か素晴らしい世界が見えている。価値あるモノがくっきり見えている。豊かに稔る稲穂が、人々が幸せに暮らす世界が、魂を揺さぶるような構図と色彩が、ありありと見えている。

 それは何も高邁で大河ドラマ的なことでなくても、夜遅くまで遊戯室の飾り付けをしている保育士さんは、明日の朝に子供達が「わあ!」と驚く顔が見えているのでしょう。自分こそが過労でぶっ倒れそうな看護師さんが、それでも病床のおばあちゃんの枯れた手をさすり続けるのも、「少しは楽になったよ」と言って貰いたいからではなく、本当に楽になってもらいたいからでしょう。目の前の患者さんの苦痛が、ほんの少しでも楽になること。そこに大きな価値を見いだす。

 サプライズを仕掛ける友人達も、乏しいバイト代から迷いながらも彼女の好きなケーキを買って帰る彼氏さんも、あとで見せようとクレヨンを握りしめてお父さんの似顔絵を描いている3歳の子供も、なにかより素晴らしいもの、価値あるモノが見えている。愛する人の喜ぶ顔という、より価値のあるものが見えている。

 そして、「無償の好意」やら愛情やらが示される場合というのは、とりもなおさず「その素晴らしい価値が見えるかい?」と問いかけられているのであり、「より素晴らしいものを共有しようぜ」「もっと素敵なところに行こうぜ!」と誘われているのだと僕は思う。勿論全てがそうではなかろうが、そう思える局面は確かにあり、その局面に限って言えば、その誘いに乗ればいいじゃんと。

 「うふふ♪」と自分が快適な状態にあるときには、必ずや誰かを犠牲にしている。妻が、彼氏がグッとこらえてくれているのだけど、じゃあなんでグッと堪えているのか?ですわね。ナグしたいのに堪えているのは、「本当は不安で溜らないけど、それでもあなたを信用するよ」ということであり、ナグされても文句も言わずに従っているのは「本当は信用されていないことでムカついているのだけど、でも信用されるようになるよ」ということでしょう。それは、僕らは/私達は、こんなしょーもないことでグチャグチャ喧嘩するような関係ではなく、もっともっと豊かで満ち足りた関係になれるよ、なろうぜってことでしょう。その問い掛けであり、誘いである。

 そして上述の命題=「幸福が誰かの犠牲のうえに成り立つのだとしたらそんな幸福に価値があるのか」に立ち返れば、「価値はある」というのが僕の答です。犠牲のうえに成り立っているからこそ価値があるのだ。なぜなら犠牲というのは、より高次な価値世界への呼びかけだからです。

オーストラリアと日本

 ところで、オーストラリアに来た頃、真っ赤になって下手くそな英語でしどろもどろになってました。もう日本の感覚では「早く喋れよ、このボケ!」と面罵されてもしょうがないような局面で、それが自分でもわかるだけに益々焦る。でも、不思議と優しく待ってくれたり、一生懸命聞いてくれたりする機会が多かったです。全てがそうだとは言わないし、「はあ」と聞こえよがしの溜息をつかれたり、舌打ちされたりすることもあるけど、そういう機会は思っていたほど多くはなかった。むしろびっくりするくらい優しかった。

 最初は「いいなあ」「おおらかだなあ」と思ってたんだけど、段々分かってきた。あれは「呼びかけ」なんだと。自分の時間が無駄に使われるとか、数秒損するとか、得するとか、自分さえ良ければいいとか、そういうセコい、チマチマした社会ではなく、もっとゆっくり行こうぜ、ゆったりと人に優しい社会を創ろうぜっていう呼びかけであり、誘いなんだと。そーゆー種類のコミュニケーションなんだと。

 だからこそ、「あったり前じゃん」みたいに困ってたら助けるし、ボランティアも盛んだし、平気で知らない他人を家に泊めたりもするし、「食っていきなよ」とタダメシ食べさせてもくれる。彼らにとっては、それが普通のコミュニケーションのあり方なんだろうなって。

 「無償の善意」の本質は、そういうレベルのコミュニケーションをされているってことであり、それが「無償」であるとか、得だとか損だとか思うのは、こっちのコミュニケーション・レベルがセコくて低いからなのでしょう。あいつら別に損も得も考えてないわ、もっと大きな問い掛けをしてるんだって。

 「すげえな」と思ったけど、でも、こんなことは僕らだって子供の頃からやってるんですよね。細かなことを数え上げていけば、生まれてから無数にやっています。人種じゃない、国じゃない。

 誰だって気持ち良く生きていきたいんだし、それは自分一人では無理で皆の協力がいるわけなんだけど、だからこそ「こんな感じでやっていこうぜ」という呼びかけになるのだろう。別に海外だからどうとかいう問題じゃない。ただ、シガラミ度がゼロな海外の方がその本質が見えやすいというだけのことで、それは分かりやすいかどうかの差であり、本質的なことではない。

 考えてみれば日本社会の方がそういうことではレベルが高くもあったのだ。恩/報恩という人間関係の鉄の規律があった。親や教師、親方など目上の者は、その全てを投げ打って目下の者を育てる。目下の者は、その恩を忘れず、報いるためにまた全てを捧げる。本当にそうだったのかどうかは批判検証の余地がありながらも、そういうことが理想とされていた。それは今でも濃厚に残っていて、「これはつまらないものですが」と差し出し、「いえいえ、こんなことをしていただいては」と固辞する。かなり濃厚な「無償の善意」を相互交換しあうことが日本社会のシキタリになっている。

 まあ、それが形骸化しすぎて、「ここは私が払うから」「何言ってるの、今日は私に払わせて」と勘定伝票の奪い合いになるのが古式ゆかしい儀式になってたりもするし、それが形骸化したりシキタリになってる時点でそれはすでに「無償」ではなくなってしまっているとも言えるし、逆に自然な情愛をスポイルするという皮肉な結果にもなっている。批判の余地は勿論ある。

 でもでも、それでも同じじゃんと思うのですよ。形式に堕したり、形式すらも薄らいできつつあるのかもしれないが、「人という字は助け合って、、」的な価値世界が観念されていること、その価値世界を創造すること、創造行為に参加できるようになって「一人前」というパラダイムがあるという意味では同じではないか。それが理想的に果されているかどうかはともかく、それが理想であるというゲームのルールみたいなものは変っていないんじゃないか。

利得アルゴリズム

 ところで、無償の善意に基づく「貸し/借り」関係は、ビジネスの世界だろうが、政治の世界だろうが、ヤクザの世界だろうが、それは濃厚に残っています。巨額のお金が動いたり、人の生死がかかったり、事柄がビッグになればなるほど、その種の恩だの義理だのいう規律はむしろ強くなる。話がシリアスになればなるほど、切った張ったの修羅道になればなるほど、不思議とその種の価値論理が出てくる。単純利得計算の方程式だけでは解けない、不可思議なアルゴリズムがそこにはある。なんせ「命を救ってもらった」とかいうのが普通に出てくる世界なだけに、「○○先生に頼まれたらイヤとは言えませんよ」という論理になる。

 その意味では、ぺーぺーレベルの方がドライですよね。やれ損したとか得したとか、時給が安いとか仕事が楽だとか、単純利得レベルで世界が構成されていたりする。もっともそれはゼニカネ仕事系の話であって、そこがいくらドライだろうが、他に家族、友人、趣味、地域コミュなど豊穣な世界はいくらでもある。オージーなんか典型的で、仕事はおっそろしくドライだけど(新規出店しても売り上げが芳しくなかったら3か月もしないで閉店するとか、職場での飲み会はほぼ皆無に近いなどビジネスに感情移入しない)、それ以外の局面がおっそろしくバラエティに富んでいる。そして、これらの世界は、最初から損得論理は存在しない。

 しかし、仕事的なぺーぺー損得論理が、それ以外の豊かであるべき人間関係にもガン細胞のように浸蝕しているパターンもママ見受けられたりします。自分に良くしてくれる人を「いい人」だと勘違いするとか、結婚を損得ソロバンだけで考えるとか。算盤弾くなとは言わんけど、算盤だけで全て済ませようとしたら、それはガンですぜ。まあ政略結婚とか、マキャベリズムに燃えているなら、それはそれで一つの趣味だけど。

 ちょっと前のエッセイで「やたら”ラッキー”を連発する人」について書いたけど、僕もこういう人とはあんまり友達になりたくないですね。その理由は、もうお分かりでしょう。他人から無償の善意を受けても、単に自分の利得の増減というレベルでしか理解できない人、より高次のコミュニケーションの誘いを受けていても、それに気づかない人である可能性が高いからです。これ誤解しないで欲しいのは「ラッキー」という言葉が悪いのではなく、要は自分の利得世界しかないのか、それ以外の価値世界でコミュニケートできるのか、です。

 無償の好意とは、より価値ある世界への誘いであり、手をさしのべられているのだと思います。差し伸べられたその手を、しっかりと握り返すのか、それとも手にある果実だけひったくって「得した!」「ラッキー」と思うのか?です。後者の人とは、あんまり付き合いたくないです。お前は高崎山の猿か?という。

 でも、そういう人(握り返さずにひったくるだけの人)は、純粋に損得でいっても、おそらくは損が多いでしょう。だって、より豊かな価値世界が理解できない、そのレベルでコミュニケート出来ないんだから、周囲の人々もそれをしようという気にならなくなるのが道理。文字通り「話にならない」のだから。逆に手を握り返す人=その価値を理解&創造できる人は、より豊かな人間関係を形成しているだろうから、結果的にチャンスも増えるし、物質的に豊かになる場合が多いでしょう。

 分かりやすい例を挙げれば、新進気鋭の才能とパトロンの関係です。数千万円ポンと出資するのはなぜかといえば、彼/彼女が創ろうとしている価値世界が素晴らしいものであり、且つ口先だけのキレイゴトや大言壮語ではなく、それを完成しうるだけの才能と努力を払っているからです。出資する側の感覚で言えば「おもしろい奴がいる」のであり、ビジネス的にいえば「投資価値がある」のでしょう。「こいつを世に出してやりたい」という気にさせる、それだけのモノを持っている、それだけのレベルのコミュニケーションが出来るからでしょう。

 目先の損得だけで、より高次の価値世界を想像&創造することが出来ない人とは、そういうレベルの関係性が構築されない。だから結果的に単純利得レベルの現象面でいえば「損ばっかりしている」ことになる。100円や千円レベルでは頑張ってるから得をするだろうけど、100万円〜億単位で損をする。だけどなんで損ばっかりするのかといえば、そのレベルに留まる限り、多分理解できないと思う。でもって、類友になるから益々そうなる。近寄ってくる奴は、目先の利益をかすめ取ろうという「ひったくり」系のこすっからい奴ばっかりだから、世間なんてそんなもの、人間なんかそんなものって気がして、「けっ」と唾を吐いて暮らすようになる。どんどんラブリーな存在ではなくなっていくから、ますますチャンスが遠のく。地獄のスパイラルだよな。

 ほんでも、スパイラルに落ちる前に、あるいは落ちていたとしても、それでもあなたの前には今日も明日も手はさしのべられるのだ。「そんなもんねーよ」と言うかもしれないけど、見えてないだけ。それこそ、目ン玉かっぽじってよく見ろ!ですわ。

 見えてきたら、たまには握り返してみたらいい。その手は、あなたを引き上げてくれる手。少しづつ、少しづつ身体が持ち上がっていくだろう。そして、今度は自分から差し出してみる。最初はおずおずと。やがて、力強く。





文責:田村



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