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今週の1枚(2012/05/07)



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Essay 566 :「決める」ことの難しさ

  
 写真は、夕陽を浴びたハーバーブリッジと月。



 物事を決めるのは難しいことです。
 「決断力」と言いますが、「決断する力」というのは具体的にどういう力なのでしょうか。
 単に決めれば良いだけだったら、鉛筆転がしても、コインを投げてもいいわけです。そんなものが「力」であるわけもない。それを敢えて「力」などと呼ぶからには、決めることが難しいからでしょう。ではなぜ決めるのがそんなに難しいことなのか。

 仕事で皆さんのシェア探しのお手伝いをしてますが、このプロセスは大きく二つのパートに分かれます。一つは、アポを取って、現地の交通機関を乗り継いで、実際に他人の家まで行ってお話をしてくるという実働パートです。最初はこれが難しい。英語はわからんし、土地鑑もないという状態でやるわけですから、最初は不可能のようにすら思える。しかし、本当に難しいのはその次の段階、決断するパートです。実働は一見大変だけど、やればやるほど慣れてきます。英語度胸もついてくるし、土地鑑も出来てくるから、どんどん楽になってきます。

 しかし、決断パートは難しい。やればやるほど難しくなったりもします。「良いところ」があればそこにすればいいんだから簡単そうに思えるのですが、しかし「良いところ」って何がどう良ければいいのか?家賃が安い?立地が良い?部屋がきれい?同居人がいい人?何を基準に決めればいいのか分からなくなってきます。ヒットチャートや株式市況が日替わりで変るように、毎日基準も変るし、第一志望物件も変る。

 ここで皆さん結構ウンウン悩むのですが、ここで悩むところが最大のポイントでもあり、教育効果が高く、美味しい過程でもあります。決断することの本当の難しさに直面しますし、また直面していただきたい。悩めば悩むほど「なにか」が耕され、深化していきますから。

 ここでは決めることの難しさが凝縮されています。決めることの難しさとは、大袈裟に言えば「生きることの難しさ」にも通じるのでしょう。


 とまあ抽象的に述べていても始まらないので、もう少し話を具体的&分析的に進めます。

 「決める」ことの難しさは、単一の理由に基づくのではなく、視点も次元も違う複数の要素が同時並行的に走っているからだと思われます。以下、思いつくまま、順次書いていきます。

非完全ゲーム〜不完全な情報で決める難しさ

 一つは、問い掛けそれ自体が不完全であることです。数学のテストを受けていて、問題文そのものが所々虫食いになってたり、インクが滲んでたりしてちゃんと読めない。それでも答を出さねばならない難しさです。これは問題それ自体の難しさとは次元が違います。問題がなにかすら分からないのに答えなければならない難しさです。

 僕の好きな山田正紀という作家の作品に「謀殺のチェスゲーム」という小説がありますが、そこでは当時(1976年発表)珍しかったゲーム理論が出てきます。「非完全ゼロ和ゲーム」やら「移動ダム方式」など、今読んでも斬新な概念がぞろぞろ出てきて面白いです。あまりにも面白かったからこそ、30年前に読んだ本の内容を今もこうして覚えているくらいで。

 「完全/非完全ゲーム」という概念は、「不意打ちがない/ありうる」差です。将棋やチェスなどは完全ゲームで、相手の手の内が全て分かります。テーブルの下から「実は王将がもう一枚あったのでした」と新しい駒が登場することはありえない。両者の持ち駒の数、内容は全て明らかにされています。ルールも完全に明快。「曇りの日の木曜日だけ飛車はナナメに進んでも良し」という、新しいルールが突如登場することもない。いわば、後出しジャンケンはない、という公正明瞭な条件です。入試の問題なんかもそうで、「実は問題文が余白にあぶり出しになってるのでした」「この問題文には実は嘘が含まれています」なんてことはない。

 完全ゲームはゲームとしては純粋で、それだけに純粋に知的パズルとしては面白いです。しかし現実世界にはそんなことありえない。実際の世の中には、後出しジャンケンはあるわ、嘘はあるわ、不意打ちはあるわ、コネはあるわ、差別はあるわ、そもそも一人一人全員問題文が違うわ、その問題文も時々刻々と内容が変るわ、何もかもが不確定です。

 シェア(住まい)を決めるときも不確定要素が満載されています。まず「住み始めて初めてわかる」という要素があります。シェアメイトの鼾がうるさくて眠れないとか、夜になると隣家で壮絶な喧嘩が始まりうるさいとか、「いい人」だという判断がどれだけ正確なのか、普段はいい人なんだけど金に対してだけはやたら汚かったり、酒飲むと人格が豹変したりとか。実話ですが、シェアメイトの夜のイトナミ(SEXですけど)がうるさいというのもありました。もうドスンバタン、「まあ、いいんだけどさ」という。これらは事前に調べるには限界があります。「あの、夜の方は、、」って聞くわけにもいかないし。

 他方では、いい人だと思った他のシェアメイト達がどんどん出ていって、入れ替わりにイヤな奴ばっかり入居してきたりとか。記録的な豪雨に見舞われ家が水浸しになったとか、火事で全焼しちゃったとか、トラックが突っこんできたとか。これらは「未来予知」に関わる部分で、どう足掻いてもわかるわけがない。しかしわからないから「無い」というものでもない。千年に一度の大地震があり、原発がコケている現在、この世に「そんなことありえない」という物事こそありえない。どんなことでも起きる可能性はある。

 はたまた、「自分の変化」という要素があります。最初は静かな環境が欲しかったのだけど、だんだんと賑やかで温かい環境の方が好ましく思えるようになったとか、周囲に海や公園があるのが決め手だったのに、実際に生活が始まると学校だのバイトだので忙しくなって周囲の環境なんか殆ど関係なくなったとか。バイト先で恋人が出来たのはいいけど、住まいが真反対の方角にあるので何か付けてやりにくいとか。

 さらに、決めるにあたっての時間的制限もあります。ゆっくり考えているうちに誰かに取られてしまうかもしれません、実際に3分差、さらには1分差で他人に取られてしまったという痛恨の事例もあります。かといって、焦って変なモノをつかんだら後悔しまくりで、早く決めなきゃならないけど、早く決めてもいけないというジレンマがある。株式市況のようなタイム感がある。

 そして何よりも一番不確定なのは、自分はどういうところに住みたいのか?という、自分自身の基準や価値観が曖昧であることです。あれもいいし、これも良く思える。逆にあんなのはイヤだし、こんなのもイヤだと思う。とにかく安ければいいとか、ネットが出来ればそれでいいという問題でもない。そんなシンプルな基準は、実際に数件見てくれば木端微塵に打ち砕かれる。安いのは安いけどコンクリートの土間で、殆ど車庫かゴミ捨て場みたいな所だったらさすがにイヤだし、美室ではあるのだけど、同居人がきれい好きを通り越えて潔癖性でとても窮屈そうな日常が予想されたり。

 このように何もかもが曖昧、全てが不確定の中で、どこか一つを決めねばならない。虫食いだらけの問題文を突きつけられ、それでも一つの答を出さねばならない。不完全な情報で結論を出す、不意打ち覚悟で決断を下す。これは難しいです。

 しかし、全人生のイベントを通観すれば、話はもっともっとシビアになります。これが念願のマイホームの選定になると、失敗したら結構キツイですよ。やっとの思いでローンを組んだら地震で液状化したり、放射能のホットスポットになってしまったり。さらには就職、さらには結婚、同じような問題はあります。ビジネスについてもしかり。そもそも全情報が開示されている完全ゲームなど、現実世界にはありえないのですから。

 以前、経営破綻した会社の後処理をやったことがありました。とある局面での経営判断を誤ったのが原因で破綻に至ったのですが、しかしその当時の経済状況や会社の置かれている局面を考えれば「誰でもそうする」「僕でもそうする」というようなもので、そんなにトチ狂ったことをしたわけでもない。それでも結果的に間違ったら破綻する。全てがそうだということもないですけど、経営というのは一歩判断を間違えたらそうなってしまうという実例を目の当たりにして、背筋が寒くなりました。本当に難しいものなんだなと。

 経営に限らず、全ての物事というのは本来そうしたものなのでしょう。戦場のような救命病棟の外科医なんか、全てが不完全な情報のなか、制限時間数秒という限られた時間のなかで、どの患者の何から先に処置すべきか、瞬間瞬間で決めていかねばならない。それが間違ってたら「死」という結果になって跳ね返ってくるわけで、仕事というのは本来そういうものでしょう。考えてみれば弁護士だってそうだったし、今の仕事だってポンとヘルプ電話を受けて、瞬間的に正解を即答しなきゃイケナイわけですし。家族のSOS信号をうっかり見落とし、忙しさにかまけて生返事をしていて、翌日に自殺でもされたら、もう痛恨の極みでしょう。

 それを思えばシェア探しごとき何ほどもこともなく、失敗しても知れているのですが、しかし、本質は同じです。海の水をスプーン一杯分すくおうが、タンカー一杯分であろうが、そこには同じ海水成分が含まれているように、ささやかなシェア探しにも、物事の難しさの要素は満載されています。まるでサンプル標本のような「詰め合わせセット」になっている。だからこそ「いい予行練習」になるのですね。

決めることは捨てること

 決めない段階=モラトリアムの楽しさは、全てを所有する楽しさでしょう。決めなければ何でもアリです。あんなことも出来る、こんな風にもなれる。四方八方に広がる可能性の全てを保持することが出来る。しかし、同時に全ては出来ない。一つしか出来ない。選択肢が10あったら、一つに決めるということは、あとの9つの未来を捨てることを意味します。これは切ない。辛い。

 多くの場合、決断の難しさは、「Aにする」という「決める部分」ではなく、「A以外を全て捨てる」という「捨てる部分」にあるのだと思います。決断の「断」は「断つ」こと、すなわち切って捨てることです。捨てる辛さ、断つ切なさ。

 それは例えば就職。これも古い作品で恐縮ですが、「『いちご白書』をもう一度」というユーミンの曲があります。団塊世代の就職時を歌ったものですが、「就職が決まって髪を切ってきたとき、『もう若くないさ』と、君に言い訳したね」という一節が出てきます。

 就職というのは「決めなきゃいけない」ことでもあり、いつまでも夢に浮かされてフラフラしていられないぞ、いい加減「現実的」になって堅実な人生を作っていかなきゃねというノリになります。特にこの曲が流行った1975年の経済成長日本の世相というのは、戦後の混沌〜学生運動の嵐が収まりつつあり、徐々に物財に囲まれてハッピーなニューライフJAPAN≒小市民JAPANへの変遷時期であり、この曲はこの歴史の曲がり角感覚を端的に言い表している佳作ともいえます。音楽的にも、それまでの貧乏くさい四畳半フォークの世界から、リッチでアンニュイなアーバンポップスへの移行期でもありますし。その後、軽薄短小の金ピカ80年代になっていくという。

 それはともかく、決めてしまえば「捨てるモノ」も出てくる。この曲は、その捨てるもの(青春とか)への哀惜の念だけで曲が成り立っているようなものでしょう。

 ちなみに、この曲に対する返歌というわけではないのでしょうが、いちご白書の5年後である1980年に、RCサクセション(キヨシローですね)の有名な「雨上がりの夜空に」という曲が発表され、そこでは「『こんなこといつまでも長くは続かない。いい加減、明日のことを考えなくちゃいけない』 どうしたんだ?!Hey, Hey, Baby!?オマエまでそんなこと言うの?いつものようにキメてぶっ飛ばそうぜ」という、「俺は決めねーぜ(というか、逆方向に決めるぜ)」「”現実的”なんてクソ喰らえ」という心情が歌われています。このあたりがポップスとロックの違いというか、実際キヨシロー先生は、一生反対方向に舵を切ったままでした。

 ここでは、どちらがどうということは問題ではないです。イージーな大勢順応方向、いわゆる堅実で現実的な選択をすると、そこには失ったモノへの哀惜の念がつのり、下手すれば一生それに苛まられるかもしれない。かといって、突っ張った方向に決めてしまえば、孤独死はおろか「野垂れ死にOK」という極道レベルの腹の括り方が要るし、中高年になってから「ああ、あのとき馬鹿なことをしなければ」という、これまた痛恨リスクもある。どっちを取るのも辛いことであり、「決める」というのは、その辛さの大波を全身でひっかぶることです。だから難しい、と。

 何度も言うように、こういった人生レベルでの決めごとに比べたら、シェア選びなんか遊びみたいなものです。でも、繰り返しになりますが、遊びにも十分な栄養分がある。それにこの程度の「遊び」すらも十分に遊べないような器量だったら、この先思いやられるってのもあります。

価値序列

 「どっちを取っても地獄」という決断場面で鋭く問われるのが、「あなたの一番大事なモノはなあに?」という自分の価値観でしょう。

 人間欲張りだからあれもこれも欲しい。血湧き肉躍るエキサイティングな日々も欲しいし、セリーン(serene=平和、清澄、静穏なという意味で、観光広告や不動産説明によく出てくるやや文語的な英単語)な日々も欲しい。静かなプライベートも欲しいし、人との温かい交流も欲しい。お金をはじめとする物質的基盤も欲しいし、でも自由も欲しい。普通、これらが渾然として「同率一位」みたいにひしめているいるのだけど、決める段階になったら、無理矢理にでも順位をつけないといけない。あれも大事、これも捨てがたいなんて総花的、八方美人では先に進めない。何か一つを断固として選ばないといけない。

 そのとき、AよりもBを優先させるのか、Aの方が究極的にはBよりも大事なのかという厳しい選択をしなければなりません。素直にいってしまえば、「選べなーい!」のですが、「なーい!」と言ってるだけだったら結局ゼロ回答になり、どちらも選べないまま全てを失ってしまう。

 価値観については過去回までにさんざん書いたのでもう繰り返さないけど、しかし、これ、いきなり選択を突きつけられたら答えられないですよ。やっぱ常日頃からある程度考えてないとね。


 さて、決断の難しさはもうお分かりかと思いますが、以下、オマケです。
 優柔不断なアナタのために、決断するための方法論や、技術、モノの考え方のTIPSを幾つか。といっても、僕が勝手に「コツ」だと思ってるだけで、本当にそのとおりやったら上手くいくという保証はない。それを判断するのもアナタであり、どこまでいってもハンダンなり、ケツダンなりという「断」的なことはしなければならないのですけど。

決断技術その1〜目的決断と手段決断

 何事かを決める場合、それをやること自体が一つの目的になっているのか、それとも目的は別にあってその手段を選んでいるに過ぎないのか?

 この両者の違いは、言ってみれば右脳か左脳かです。目的決断の場合は、「ほんとうにこれがしたいの?」という感性部門が大事な役割を担いますから、右脳優先で決めた方がいい。しかし、後者の手段決断は、徹底的に合理的に考えれば済むので、論理重視の左脳的に判断すればいい。

 A地点からB地点まで移動するとしても、その行為が手段なのか目的なのか。例えば出張で移動する場合、極端な話、「点と線」のように殺人事件のアリバイトリックのために移動するような場合、これらは純然たる手段ですから、ゴリゴリ合理的に決めればいい。時刻表とにらめっこし、電卓叩いて料金を計算し、さらに悪天候に備えて気象情報を集め天気図を書き、必要とあれば過去30年の気象記録を集めればいい。これは簡単なんです。徹底的に調べまくり、もっとも合理的なものをギリギリと詰めていけばいい。

 しかし、「ぶらり一人旅」みたいな場合、その移動の過程、車窓に流れゆく見知らぬ人家の灯火にふと旅情を感じたりするのが旅の醍醐味だったりします。移動すればいいってものではない。より早くとか、確実にとか、安くとかそういった事は副次的なものに過ぎない。地図を見ていて、「ちょっと遠回りで高くなるけど、海岸線を通って景色が綺麗そうだからこっちルートでいこう」という選択になります。そこでは旅をするという「目的」に、いかに本質的に適合するかどうかという点が眼目になります。

 ただし、何が目的で何が手段なのかは、往々にして見失います。
 シェア選びでいえば、安くて、通勤通学に便利で、居心地が良いところという機能性がもっぱらメインになりがちですが、これは手段と目的を混同しているキライがあります。住んでて違和感が少なくて、安く住めればいいんだったら、最初からオーストラリアなんかに来ずに、日本の自室にいればいいんですよ。それが一番居心地が良くて安い。だから何のためにここに来ているの?という大目的が、(人によるだろうけど)例えば異文化とのふれ合いとか、自己啓発であるなら、シェア先も「最も学べるところはどこか」という視点が出てきても良い。つまり「住む」こと自体に価値があるわけで、機能一辺倒で決めるべきではない。

 しかし、目的と手段が混在してるケースもあります。というか殆どの場合が混在しているでしょう。住まい選びでも、住むこと自体に意味がある反面、他のアクティビティ(通勤通学など)のための拠点という手段的要素もある。そこでは、安近短的な要素もあろうし、一方では昼間の疲れがしっかり癒せる健康環境も要素になるでしょう。

 このように手段と目的が混在している場合、どこまでが目的で何が手段かを意識的に峻別し、そのレシピーを自分なりに決めるといいです。例えば一軒目のシェアは、とにかく「外国に住む」という体験目的第一にするとか、心身ちょっと弱めでスロースターターだから、十分にエンジンが温められる環境を第一にしたいという比率配合が出てくるでしょう。同じ旅行にしても、「スキーをガンガンやる」という目的がドーンとある場合には、「いかに最速でスキー場に着けるか」「スキーをやる時間が最も多く取れる方法」ということになるでしょう。さらに同じスキー旅行であっても、行き帰りの車中でトランプやったり、蜜柑むいたり、窓から雪山が見えたら「きゃー」と歓声を上げたり、要するに「トータルとしての旅行」を楽しみたいのでは選び方も違うでしょう。

 このあたりはゆっくり解剖していけばいいだけのことです。「決断」の身を切られるような辛さからすれば、全くもって楽な作業です。大体何でもそうですけど、頭を使って済むようなパートはイージーなんですよね。考えれば(調べれば)いいだけですから。パズルのようにある程度正解が出てくる。ここでのコツは、手段・目的、その配合比率を見極めて、そのうちで手段的なイージーパートは先に詰めておいて、本当に難しい部分だけに集中するといいってことです。でないと、手段的な左脳と、本質感性的な右脳をDual Coreで動かさないといけなくなり、CPUに負荷が掛かって、頭がフリーズします(^_^)。

決断技術その2〜公正な比較

 どんな選択にもリスクはあります。
 うまくいけば○○だけど、下手したら▲▲になるかも、、という。善悪どちらの可能性もある。しかし、前述のように、将来予測に類することは、結局は現時点ではわからない。

 ここで大事なのは、AB二つの選択を比べる場合、両者の予測程度を公正にしておくことです。Aの場合は上手く行った場合を想定し、Bの場合を悪く考えていたら、そりゃあAが良さげに思えるに決まってます。だから両者均等の条件にして比べるべし。

 しかし、これが難しいんですよね。だいたいにおいて「迷っている」ときというのは、このあたりがブレている場合が多いです。その昔、ホームステイの注意事項で書いたことがあるのですが、ステイ先のリクエスト(子供が居た方がいいとか、ペットはダメとか)は、特に強い思い入れがない限りニュートラルにしておいた方がいいです。なぜった、子供が居た方が良いと思ってる人は、無意識的に可愛らしい天使のような子供を頭に思い描いてたりします。しかし、子供といっても色々いるわけで、なかには根性のひん曲がったクソガキみたいなのもいるわけです。「こいつ英語全然ダメじゃん、ばっかじゃねーの?」と事あるごと嘲笑するような子供だって、いないとは限らない。この悪いパターンを先に頭に思い描いてしまった人は、「子供はいない方がいい」欄にチェックをしたりするわけで、要するにリクエストといっても、たまたま善悪どっちの場合を先に思いついたか、でしかない。こんな選択は無意味です。

 ちなみにステイ先のリクエストでニュートラルがいいというのは、ステイ手配担当者も、出来ればトラブルフリーが望ましいから(自分の仕事が増えるから)、過去の経験やデーターに照らし合わせて、この程度の英語力の日本人が入って満足度90%だったところと、30%のところがあったら90%にします。しかし、なまじ「子供要」とかしてしまい、その90%に子供がおらず、30%に子供がいた場合、30%になってしまうわけです。どっちに転ぶのも運次第だったら、それは選択の問題ではなく、無理矢理決めて選択の範囲を狭めるべきではない。ここで敢えて条件をつけて良い場合というのは、決定者(ここではステイ手配担当者)が、邪悪な魂の持主とか異常に無能で、とにかく自由裁量に任せているほどダメになることが予測出来る場合だけでしょう。こういう場合は条件をバンバンかまして選択範囲を狭めた方がいい。荒れている高校ほど「あれしちゃダメ」の校則が多くなるのと同じ原理です。

 さて、子供について天使に思うか悪魔に思うかは、そのときの気分次第です。どっちを想像するかでしかない。迷っているときというのは、Aについて天使的、Bについて悪魔的に思ってて「やっぱAだよなあ」と決まってたのに、トイレにいって帰ってきたり、人から話を聞いたりして、今度はAについて悪魔的、Bについて天使的に想像してしまい、「むむ、これはもしかしてBが正解なのかも」と思っているという。どっちも間違いです。

 AとBを比較するなら、Aの最高と最悪、そして標準値、そしてBのそれとを冷静に出してみて、それで比べるべきです。これだけで、かなり解決しますよ。もちろん、未来予知に関することなので曖昧な部分はつきまとうでしょうが、少なくとも最悪と最善を比較するという愚かなことだけは防げます。

決断技術その3〜最悪比較方式

 そして、いよいよ決断に困ったら「最悪比較方式」がオススメです。
 Aの最悪の場合と、Bの最悪の場合とを比べて、どちらがまだ耐えられるか?です。
 あるいは、どっちがどういう種類の後悔をして、その深さはどのくらいで、その後悔の影響スパンはどのくらいか?です。予想される被害の査定です。

 例えば、Aパータンとして、ここで会社を「うおりゃ!」と辞めてワーホリに行こう!あるいは起業しよう!とか思うとします。しかし、上手く行かなかった場合、最悪ケースも考えます。ワーホリで行ったはいいものの、外国環境に打ちのめされ、心が折れ、友達も出来ずひきこもり、喋らないから言語も上手くならず、負け犬意識だけが染みつき、尾羽打ちからして帰国するも、期待される言語力もないから再就職にも苦戦する、、、なんてのが最悪ケースだとしてます。

 一方で行かなかった場合(パターンB)の最悪ケースも想定します。結局踏ん切りがつかず、忙しいとか言いながらワーホリ年齢を過ぎてしまった。「キミが頼りだ」と上司に言われてその気になったけど、結局は便利遣いされているだけだったのが後に判明、上司はチャッチャと転職しちゃい、残った自分に負担がかかり、四苦八苦しているうちに会社も倒産。路頭。再就職に苦戦している。ああ、こんなことなら行けば良かった。結局私って、やりたいことが出来ず、やる勇気も持てず、ブスブス不完全燃焼していくだけの人生なのか、という最悪ケース。

 どっちもイヤでしょうが、さあ、あなただったらどっちの方がまだ耐えられますか?どういう種類の後悔をして、そのダメージ度はどのくらいで、そしてその後の人生に悪影響を長く、深く残すのはどっち?ここは価値判断ですけどね。良くいうけど、「やって後悔」と「やらないで後悔」とでどっちがいいか?です。

 これで結構決められますよ。

最悪比較方式のお得なオマケ

 さらにこの方式には、「もれなくオシャレ小鉢が付いてきます」的にお得なオマケもあります。

 一つは、徹底的に最悪のケースを考えていくと、実は、思っているほど「最悪」でもないな、というのが見えてくる点です。多くの場合、そうですよ。例えば、会社を辞めるべきか続けるべきかですが、今の会社に骨を埋めたいほど好きだったら別ですが、一生居ることはないだろうなと思うなら、遅かれ早かれでしょう?だからやるにせよ、やらないにせよ、それに伴う最悪は、それほど別次元の凄まじい不幸が襲うってもんでもない。大したことないっちゃ大したこと無いです。

 本当の最悪とは、「どうしようかな」と考えながらぼーっと運転してて、赤信号を見過ごして、通学中の小学生を轢き殺してしまうような場合です。あるいは、雨の日に足が滑ってエスカレーターでコケて転落し、頭を打ち、大したことないと思ってたらその日の深夜に蜘蛛膜下出血で死ぬような場合です(実話です)。こういう突発的な異常な不幸こそ気をつけるべきで、本当の「最悪」というのはこの種のことです。だから僕もこちらに来られた人には、パスポートでも財布でもを何を無くしてもいいし、何がどうなってもいいから、「絶対に死ぬな!」「死ななかったら成功」と言ってます。

 本当の不幸は、想定外のところからやってきます。斜め後ろから忍び寄り、いきなり振り下ろされる死神の大鎌みたいなものです。本当の最悪は、想定もできなければ、選択も出来ない。だから選択の問題ではない。それは、どんなときでも「命は大事にしろ」という一般命題の問題です。逆に言えば、選択できる範囲内には本当の最悪も不幸もないです。パチンコだって勝つときもあればボロ負けするときもあるわけで、いわばその程度の話ですわ。

 第二のオマケは、ABどちらを選ぼうとも、そんなに違うものでもないな、というのもわかります。上記の例でも明らかなように、何が問題かといえば自分の心の弱さや突破力の無さであり、何に困るかといえば「再就職で苦戦」であり、結局同じところで悩んで、苦しむことに変りはないじゃん?

 これはある意味では当然の話です。
 大体、人間にまつわる多くの問題というのは、自分自身に起因してます。性格的な弱さや欠点などに基づいている場合が多いです。比喩でいえば、どうして真っ直ぐ進めないのか?右足と左足の長さが違うからだ、みたいなもんです。そこが改善されない限り、秋田県を歩こうが、イスタンブールを歩こうが同じ問題は出てくる。やってる人間が同じなんだから、どこで何をしていても同じ問題は出てくる。ただその時々で出てくるカタチが多少違うだけです。

 第三の特典は、ここまで思い至ったときに、はじめて「何が問題なのか」「何をすべきか」が見えてくる(場合もある)ことです。あらゆる最悪を想定しているうちに、「なんでそんなことになるのか」「何が悪いのか」を考えると同時に、「なんでそれをやりたいの?」というそもそもの原点も再確認します。

 問題の原点とゴールとは往々にして同じことだったりします。例えば、会社辞めようかどうしようかウジウジ考えて結論が出せない自分、「俺はコレじゃあ!」と自信を持って言えるサムシングが無い自分が問題で、だからこそ現状の人生になにかしらの不満を感じ(=改善可能性があるように感じ)、それを何とかしたいからこそ、例えばワーホリに行くんだ、起業して自分の力を試すんだと思うのでしょう。そして、それが上手く行かなかった場合という「最悪」は、何によってもたらされるかと言えば、結局は今の自分の資性(ウジウジ決めきれない)部分に基づくという。ね?結局同じ事でしょう?

 だとしたら、「そーゆー自分」をどうしたいのか?本当にそういう自分なのか確かめたいのか、環境やタスクを変えたら改善可能性も出てくるのか、そーゆー自分はどういう状態に置いてやれば一番イキイキと輝くのか。つまり、何とかなるのか/ならないのか、なるとしたらどうなりたいのか。ならないのだとしたら、ではそれを前提に、どういうスタイルで生きていくのが自分をよく活かすことになるのか、それがわかるのか/わからないのか、分からないならどうすれば分かるのか、、、と詰めて詰めて考えていける。

 ここは結構難しいからもう一度言うと、人間的にユニークな凸凹がある自分自身がいます。ビビリであるとか、すぐ調子に乗るとか、すぐ気が変るとか、ムラがあるけど当ったときはデカイとか、興味範囲が偏りすぎだけど深い部分は異様に深いとか、人付き合いが苦手だけど根を詰めてやるのは得意、、、色々なユニークな凹凸があります。こういった自分をなんとかしたいのか、あるいは何とかはしないけど、その凸凹が心地よくおさまりそうな「世界の窪み」の場所を探し、あるいは凸凹を活かすような方法を開発するのか、、、などと考えていける。ここまで考えて「主要テーマ」が見えてきたら、あとは簡単。じゃあ、そのメインテーマをより良く実行できるのは、AとBどちらのパターンなのか?という形で選択問題が純化されていくでしょう。

 そして、これが第四のオマケにつづいていくのですが、何かにトライして、あるいはしなかったとして、何かの壁にブチ当ったとしても、それは単に不運だとか、最悪だとか、避けるべきイヤなことが起きたのではなく、それは起きるべくして起きているのだということです。そして、どうしてそうなるのかと態様や原因を分析し、どうすればいいのかを考える絶好の機会、絶好の実験結果であるわけで、それを確認するためにやっているのだということにも気づくでしょう。試行錯誤というのは元来がそういうものです。だとしたら、ここに至って「最悪」は「最高」に180度転化します。最も求めていた貴重な実験データーが得られるのですし、それをこそ試行したかったのでしょう。

 以上、「運」の問題は天使や死神の領域だから、選択の問題ではないから除外してよし。何をどう選んでも起きるときは起きるんだから、考えたから、決めたからどうなるものでもない。関係ない。次に、選択に伴う「悪しき事柄」というのは起きるべくして起きているのであり、まさにその「起きるべくして」という部分が問題なのであり、多くの場合ここがメインテーマになる。だから起きるべくして悪いことが起きたなら、それはメインテーマにたどり着けたということであり、祝着至極のめでたい出来事である。だとしたら、恐れるものなど何もないではないか。Aを取ろうが、Bの道を歩こうが、やってる人間が自分で同じなら、いずれは同じ問題にブチ当るのだ。結局、選択に伴う差異というのは、メインテーマの出現形態の差異でしなく、どういう出現形態だったら取り組みやすいか?やりやすいか?という差でしかない。

実は「選択」ではなく、「創造」であること

 途中でムキになって書きすぎたので、紙が足りなくなってしまった。もうまとめちゃいます。

 以上を簡単にまとめてしまえば、決めるのが難しいのは、第一に情報の不完全性、第二に価値判断の難しさ、特に「捨てる」ことの切なさです。こういった難しいことを行うためには、それ相応にクレバーでなければならず、そのためには何のために何を決めているのかという全体の目的手段のポジショニングが不可欠。次に比較対象は厳正公正になすべきことですね。わからなかったら最悪比較をするといい。

 そして、さらに「最悪」の事態を徹底的に詰め「結局何を恐れているのか?」を考えていくことで、それが「何故それをやりたいのか?」という原点と重なってくることを知る。このパートはちょっと難しいので誰にでも分かるものではないとは思うけど、「こうなりたい」という願望と「こうなりたくない」という恐怖とは究極において同じ事象に起因してたりします。なんかインド哲学や陰陽道みたいですね(^_^)、究極において、万物は太極に回帰合一すると。難しいのですけど、ここまでくれば、この選択問題は「見切った」ことになると思います。自然と肚も座るのでは?

 ただ、こんな面倒臭い思索を経ずとも、過去に何度も述べてますように「直感」にしたがってたら大体間違いはないです。直感というのは以上述べた思考経過を高速度でやってるのですから(高速&複雑すぎて意識では感知できない)。「あ、これ!」とピンときたときは、大体合ってますし、なにがどうなってもそんなに後悔はしないと思いますよ。

 別の言い方をすれば、なかなか直感が天から降臨してくださらなかった場合、しょうがないから自前で考えないとならないとか、そのピピピがくるまでの「時間潰し」に考えるとするなら、こんなこと考えてるといいんじゃないの?という程度の話です。

 そして、いずれの場合にも共通するのは、どっかに「正解」が客観的に存在し、それを探して発見するという作業ではないという点です。正解なんかこの世のどこにもないです。そんなモンねーよ。近視眼的には失敗に見えても、その失敗が大きな教訓になって、その後大きく成功するなら、その失敗は、まさに成功のためのジャンピングボードであり、不可欠な過程でもあるわけです。だからそこでは、失敗することこそが「正解」だということになるのだけど、そんなもん、その時点では絶対にわかりっこないですよ。それに将来大きく成功しなかったら、ただの失敗で終るだけです。だからこの時点では何とも言えない。最後の最後に納得できたら、それまでのしんどい過程は全部「美談」になるわけだし、達成感や幸福感をしっかり支える礎石になる。オセロみたいなもんで、幾ら黒が続いていても、最後に白を置いたら、全部パタパタと白にひっくり返るのだ。

 ということで、「正解」というのは、探したり発見したりするモノではなく、自分で創造するものだと思います。「正解にする」って感じ。

 さらに一歩進んで、ある選択や決断に直面して、どういう正解だったら自分が一番しっくりくるかな、納得できるかなという「あるべき正解像」を考え、あとはそれを現実に創っていくと考えた方が、はるかに実態に即して、プラクティカル(実践的な)思考方法だと思います。ありもしないものを探しているからしんどいんですよね。見つからないなら、作っちゃえ、ですよ。




文責:田村



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