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今週の1枚(2012/04/30)



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Essay 565 :「うつ」へのスタンスと次世代への役割

  〜「うつ」をめぐる風景(13)
 写真は、Balmainの八百屋さんの店先。天井からニンニクやら野菜やらがオブジェのように吊り下げられているのが壮観。



 毎度お馴染みの冒頭の注意書きですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策してます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。


 シリーズ最後の捕逸として 前回「狂気」を書きました。
 さらに捕逸として二点、「うつ」への接し方と、最後に生まれてくる次の世代のための僕らの役割を書いておきたいです。

「うつ」へのスタンス

 ある人 or 自分がなにがしかの「しんどい」精神状態にあるとして、それが直ちに「問題」なのだろうか?
 これには幾つかのポイントがあって、

 @、元気でポジティブであることが常に「良い」ことなのか?元気でないのは悪いことなのか?
 A、心に「正しい状態/正しくない状態」というのがあるのか?
 B、それは誰が決めるのか?なぜそう判断するのか?

 あたりの視点があります。

オーガニックな元気

 今なにかネガティブな気分に囚われているとしても、本人がそのメランコリックな気分に浸っていたくて、特にそこから「回復」したいと思っていない場合もあるでしょう。「落ち込んでいたい」「メソメソしていたい気分」というのは確かにあるし、何がなんでも常に前向きで、元気でポジティブでなければならない、ということでもないんじゃないか。

 もちろん元気で前向きなのはイイコトなのでしょうが、それは自発的にそうなる場合、生きるエネルギーに自然に背中を押されてそうなるという「オーガニックな元気」が素晴らしいのであって、「元気であらねばならない」という強迫観念的、一種の「元気ファシズム」みたいなものだったら、ちょっと違うのではないかと思います。

 人間生きてれば落ち込みたくなるときもありますし、布団ひっかぶってシクシク泣いていたいときもあります。そんなもん、あたり前です。「死と再生のサイクル」でも書きましたけど、死ぬべき時(ダウンするとき)はちゃんと死ななきゃね。

 例えば恋人に振られたとか、破局を迎えたような場合は、風邪と同じく「あったかくしてぐっすり眠れ」です。まあ、半年やそこら腑抜け状態になってても、スライムみたいにブヨブヨしててもいいんじゃないかと僕は思う。「出るのは溜息ばかりなり」という日々も、長い人生には絶対ありますから。心だって肉体なんだから、組織が破壊されれば、再生するのに時間がかかる。まずは出血を止め、破損した細胞を腐らせ、老廃物として排出し、新たにまた作り出す。やがて薄皮がはり、完成の暁には、建築現場で生じたカンナ屑のようなものはカサブタになって凝集し、自然にポロリと取れる。

 話はちょっと飛びます。
 僕は子供の頃ヤンチャで、何針も縫うような大怪我ばかりしてたし、普通の擦り傷や出血程度だったら日常茶飯事でした。血が出ない日の方が珍しいというと大袈裟だけど、そんな感じ。そこでは傷が回復していく過程を常に目撃する日々でもあります。最初は無惨で醜い傷の箇所も、時が流れていくにつれ、少しづつ修復していく。スパッと切れた亀裂も、最初は不格好にくっついているだけで、ちょっと動かすとまたすぐ血が出る。しかし、しばらくしていると何となくくっついてくる。くっついた所が盛り上がったりして、押すと疼痛があったりするのだけど、それもやがては美しくフラットになっていく。しまいには嘘のように傷跡が消え、どこを切ったのかすら分からなくなる。痛みも全くなくなる。

 まさに奇跡のプロセスですが、あそこで僕は「回復のイメージ」を心に刻み込んだような気がします。僕は自分がメンタル的に強いのか弱いのかよく分からないし、どっちかといえば小心者でヘタレだという気がしますが、ただ一点、心の奥底で「どんなダメージも絶対回復する」という妙な信念みたいなものはあります。これがあるから、いい歳ぶっこいて青臭いこと吠えているのかも知れないのですが、根本的なところで「けっ」とか「どーせ」とかヒネくれないで済んでいるのでしょう。どんな傷を受けようが、死にそうくらい悲惨でボロボロになろうが、命さえあれば絶対に回復すると思ってる。完璧に原状回復するかどうかはともかく、少なくとも痛くはなくなる。

 なんでそう思うのか?といえば、子供の頃に回復のイメージを繰り返し刷り込まれたからでしょう。誰に?といえば、この肉体、この自然によって。それをもって「打たれ強い」というのかどうかは分かりませんが、もしそうなら打たれ強さというのは、心の中にどれだけ回復のイメージを強く持っているかなのかもしれません。そして、打たれ強ければ強いほど、つまり回復のイメージが強いほど、思い切った冒険もまた出来ます。破産して、無一文になっても、何がどうなっても、絶対に回復できる!という強いイメージがあるからです。

 文字通り「怪我の功名」ですが、怪我もたまにはするもんだと思いますね。特に小さな頃の適当に小さな怪我はしておくもんだと思います。これは肉体の話ですが、心についても同じでしょう。もうボッコボコに振られて、死ぬしかない!みたいな奈落の底まで落ちたとしても、「日にち薬」とはよく言ったもので、時が経てば痛みが薄らぐ。そういう経験は、これはもう絶対と言っていいほど、しておけ!ですよね。「強さ」というのは、傷つかないことではない。傷ついたあとに、再び真っ直ぐ回復すること、その回復力の強さを言うのだと思います。

 ということで、落ち込むときは落ち込むのが正しいと僕は思います。メソメソ、シクシク、ほけ〜っと腑抜けになってたらよろし、と。

 これが家族や恋人の死別とかにでもなったら、しばらく立ち直れなくてもいいです。それが自然の情というものであり、涙で目玉が溶けそうなほど泣けばいいです。元気なんか出さんでいいです。寝込んでていい。

 中国の原始儒教、というか土着の「人の生き方マニュアル」みたいなもの=「礼法」と呼ばれるものですが、親が死んだらもの凄いことをしなきゃいけないそうです。「喪に服す」のは当然ですが、親の死体を前を泣き続けないとイケナイそうです。これもサメザメ泣くようなぬるい泣き方ではダメで、死体を抱きしめて、身を揉むようにして号泣しないといけない。しかも三日三晩だっけな、一週間だっけな、三週間だっけな、とにかく嘘みたいに長い時間。昔は冷凍もドライアイスもないから、夏場ともなると腐敗が激しく、臭気は耐え難く、死体に蛆がたかったりして、そんなもの抱きたくないけど、それでも泣き続けないとならない。当然、そんなことは普通無理だから、「泣き屋」「泣き女」という専門職があって、喪主に代わって泣き続ける商売があったとか。

 別にそれが素晴らしいとか言うつもりは毛頭ないけど、もともと死別というのはそのくらい悲しいことなんだろうなって思うのですね。だから、もう、元気なんか出さなくていいから、思う存分、気が済むまで悲しめばいいと思うのです。なぜって、その悲しみは愛のエネルギーが転嫁したものだから。愛が深ければ深いほど悲しみもまた深く、あり余って行き場を失った愛情エネルギーは、ひたすら悲しむことで浄化させていくしかない。

 僕は無宗教なのですが、別に強固な無神論者というわけでもないです。そのへんはニュートラルにしてます。宗教的な心情が無いというわけでもなく、ただ、自分にフィットする方法論が見当たらないだけです。親しい人やペットが死んで悲しい思いをしたことも一再ならずあります。でも合掌するわけでもなく、墓参りもせず、それらしき行為は全然しません。なんかピンと来ないんです。その代わり、ただただ純粋に悲しもうと思ってます。カタチにしたくないというか。

 死んでから何年経とうが、今でも時折思いだし、そして寂しい気分になる。深山の清流のように透明で混じりっけなしのピュアな悲しみ。その悲しみこそが僕なりの「供養」です。去来する寂しさにふと作業の手を止め、それを慈しむように、「忘れてないよ」「君と過した時間はとても良いものだったよ」と思う。それは、これだけの悲しみを僕の心に心に刻みつけているのだから「君はちゃんとこの世に生きていたよ」「あなたの人生は、少なくとも僕を悲しませる程度には意義はあったよ」というメッセージでもあり、逝きし友らへの僕なりの礼節でもあります。ます。読経やお祈りの文句よりも、この方が自分的にはしっくりくるので。ま、そんなのは個々人で違うでしょうけど。

 このように明るくもないし、元気でもポジティブでもない局面が人生には何度となくあるわけですが、それが直ちに良くないことだとはあんまり思えないのです。落ち込むには落ち込むだけの何らかの原因と理由があり、一概に元気でないからダメというものでもないでしょう。

 上記は離別・死別という、愛情はあるけど対象がいないという「愛の空振り」みたいなケースですが、他にも色々なケースがあります。狭い世間で自惚れていた人が、広い世の中に出ていって天狗の鼻をヘシ折られ、コテンパンにされることもあります。いわゆる挫折パターンです。そのときはかなり落ち込むだろうし、荒(すさ)んで自暴自棄になったりするかもしれない。しかし、それは客観的な外部環境と自分自身のアイデンティをすりあわせる大事な過程です。新しい事実に基づいて、自画像を再編成しなければならない。

 これも子供の頃から何度となくやっておくべきでしょう。妙にとんとん拍子に進んできて「イケてる俺」というプライドや優越感が自画像の核になっている人が、成人してから挫折したら、わりと面倒臭いことになりますよね。上に述べた「回復過程」の経験が極端に乏しいから、「ダメな俺」という現実を抱えきれなくなって、人格が破損したまま再生できなくなってしまう。打たれ弱いというのはそういうことでしょう。

 この再編成過程は、生きていくにあたってとても重要な部分ですから、じっくり時間を掛けてきちんとやるべきでしょう。その間、確かに精神状態は不安定になろうし、落ち込んだり、暗くなったりするだろうけど、それはもう仕方がない。無理矢理元気になって、再生プロセスをすっ飛ばしていい加減にしてしまう方が恐いです。人格の核が欠損したままいびつになってしまい、その後どんなに広げていっても、原型がいびつだから変な方向に育っていってしまうこともありえます。他者や世間を逆恨みしたり、他人の不幸だけを喜ぶ人間になったり、そのためにはどんな卑劣な犯罪でも犯すようになる。現実にそういう人は結構いますし、ネットなんか見てても「ああ、欠損してるな」という感じの人もいます。

 元気が無かろうが、時間がかかろうが、直すべきものはしっかり、ちゃんと直しておくべきなのでしょう。

「正常」な心〜意識と無意識の整合性

 自動車などのメカの場合、正常/異常がハッキリ分かります。「本来あるべき姿」がちゃんと認識できて、その根拠もちゃんとあるから、そこから外れたら「異常」であるとすぐにわかる。タイヤがペチャンコになってたら、パンク or 空気圧異常ということがわかる。

 では心の場合はどうか。あるような、無いような。
 これが、健忘症やアルツハイマーのような脳の器質や機能の障害だったらまだ話は分かりやすいです。「本来あるべき機能(姿)」が想定できますから。しかし、神経症や軽度の「うつ」になってくると微妙な話になってきます。ちょっと前に「個性か、異常か」で書いたように、どこまでが「正常」なのかは、解釈ひとつであり、結局はその所属部族の多数決で決まるというファジーな側面があります。

 究極的な基準というのも特になく、結局は本人がどう思うかに尽きるのだろうなって気もします。それが「うつ」病なのか○○病なのかという病名診断はともかく、要は本人さんがその状態をどう思っているのか?だろうと。

 ただし、本人がどう思っているか?ですが、これが表と裏とで違う場合も多い。
 意識面では、イヤだ、直したいと思っていながらも、無意識ではそう思っていないような場合。「こんなんじゃダメだ」「もっと前に進まねば」と思うけど、どうしても出来ない。それが辛い。でも、本当の心の奥ではやりたくないと思っている。そこを無理にやろうとすると、無意識が抵抗して何らかの身体の変調が生じたり、あるいは些細なミスを連発させて邪魔をする。「うまくいかない」のは、無意識が上手くいかせないように仕向けているからだという。

 逆に、意識面では、もう大丈夫ですよ、気にしてませんよというのだけど、無意識ではもの凄くこだわっているパターン。何かで読んだのですが、会話の中で頻繁に「気にしてませんよ」が出てくる場合=例えば幼い頃に両親が離婚して寂しい思いをした人が、「男と女のことですから色々あるでしょうし」「それはしょうがないですよ」と事あるごとに影響の軽微さを強調するような場合は、無意識レベルではもの凄くこだわっている事の現われである(場合もある)、と。本当に気にしてなかったら、そういうことすら言わない。それを強調するということは、懸命に自分に言い聞かせている、痛い自分から目を背けようとしているのだと。無論、常にそうだというわけではなく、そういうケースもありうると。

 このように心の裏(無意識)と表とでギャップがあるような場合、そのギャップこそが問題なのでしょう。増税論議で党内が分裂するように、自分の中で意見が分かれる。無意識と意識がズレている。「本人がどう思っているか」というのは、それを良いと思ってるのかどうかではなく、どう思っているか一本化出来ない場合なのでしょう。

 こういう場合は、もうじっくり考えてみるしかないですよね。
 友達と相談するとか、自分で瞑想するとか。そしてそのためにカウンセリングがあるんでしょう。

 無意識の声に耳を澄ます。まあ、耳を澄ませたくらいで聞こえたら世話ないんだろうけど、なんかヘンだなと思ったら、「本当は私、これをやりたくないんじゃないの?」って思ってみたらいいかもしれないです。意識に出ている「オフィシャルな見解」を一回疑ってみる。

 もちろん無意識が常に正しいというわけでもないでしょう。下らない思いこみに囚われていたり、しょーもないこだわりに躓いていたりってこともあるでしょう。過去において、ちゃんと問題に向き合って解決するのを怠っていたから、実際以上に悪く考えているだけかもしれない。一方で、肯(がえ)んじない(=聞き分けのない)幼児のような態度を無意識が取ったとしても、それは無意識がアホなのではなく、もっともな理由がどっかに隠れているのかもしれない。

 いずれにせよ、そのあたり意識と無意識で「党内がゴタゴタ」しているわけで、党内融和の話し合いの機会をもつべきなんでしょう。なあんて、エラそうにいってる僕だって、いろいろゴタゴタしているような気もしますね。してない人なんかいないのかもしれない。

 いわゆるカウンセリングというのは、そのあたりの表と裏のチューニング、整備点検みたいなものなのでしょう。友達との悩み相談や赤提灯で同僚相手にくだを巻くのもその一つかもしれない。心にあるものを出してみて、並べてみて、通りを良くする作業。相談相手やカウンセラーの役割は、道路渋滞の解消みたいなものでしょう。相槌打って、促して、交通の流れを支援することであり、何か妙な屈折があった場合、「なんでそう思うの」と本人も気づかなかった思考の曲がり角を気づかせ、別の考えのあり得ることを示唆する、いわば道路拡幅のようなものなのかもしれません。

「うつ」らしき人に対する接し方

 自分以外の誰かが「うつ」だった場合、どう接したらいいのか?これは結構シンプルに考えてます。出来るだけニュートラルで、フェアでいるということです。

 他人の気持ちの中なんて、どう足掻いても結局は立ち入れないのだし、責任持って言えるのは自分はどう思うか、「僕から見てどうか」です。それを率直に、誠実にやるしかないのかなと。自分から見て全然問題ないのであれば、問題ないから何もなかったとして扱うし、あまりにも迷惑を被るようだったら、個別具体的に言う。
 
 これって考えていくと難しくなっていきますよね。心ない一言がグサリと傷つけることもあるでしょうが、だからといって腫れ物に触るようにしているのもダメだと思うのですね。ときには遠慮無くズケズケ言ったりすることも必要だとは思うのです。触ってもダメ、触らなくてもダメというわけの分からないことになるわけだけど、要はその核心にレスペクトがあるかどうかじゃないかなって思ってます。すっごい微妙な部分で表現が難しいのだけど、対等目線は崩さないというか。

 仮に誰かが何らかの悩み、それもハタから見ててかなりヘナチョコな悩みを抱えていても、だからこいつはダメな奴だという判断はしません。まず自分と対等な人間がおって、そいつがなぜか期待されるレベルまで何事かが出来ないとするなら、それ相応のトラブルは抱えているのだと思うようにしてます。早く歩けないのは足を捻挫しているからかもしれないと思う。「こいつは足が遅い奴だ」と全人格的な決めつけはしない。あくまで局部的な障害なんだろうと。ただしそのトラブルの内容は分かりませんし、立ち入って分かろうとも思いません。本人から語られるまではね。あくまで現実的に生じた部分だけに認識を留め、そこから延長線を引くようなことはしない。大きな人格評価をすることは避ける。

 かといって、そいつがこちらの領空を侵犯するような事をしたら、取りあえずは撃墜します。それは社会関係という客観レベルで特別扱いしないということです。約束を破ったら怒る。ボケ、カスと取りあえずは言っておく。「○○さんは病気なんだから怒ってはダメ」とかはあんまり思わない。それって逆になんか失礼なような気がするのですよ。

 そのうえで「どうしたん?」と聞き、トラブルがあるなら、社会関係に影響のある限度でまず輪郭を確定し、どういう付き合い方をすればいいか、それを協議する。野球でいえば、どうも昨日から肩が痛くていつものように投げられないというなら、「走るのはどう?」「それは問題ない」「じゃあ代走要員として頑張って貰う」という「つきあい方」を話し合う。単純に機能として付き合う局面(仕事の発注など)においては機能の度合いによってビジネスライクに決める。そこはもう徹底的にビジネスライクにやる方がむしろ救いになるとは思うのです。

 いずれにせよ、彼/彼女がどういう状態に陥ろうとも、その人の人間的価値は上がりも下がりもしない。ましてや友達というのはそういうものだし、そいつが風邪をひいたら親友度が13%低下しましたなんてもんじゃないだろう。これは職場などのある程度恒常的な人間関係においても同じです。とりわけ、人間的好き嫌いの要素の強い局面では、機能面での変動(出来る/出来ない、上手/下手)はあんまり関係ないですし。

 結局、その人にとってみれば、自分だって「外界」「客観的環境」の一つでしかないのだから、最も客観的で屈折率の少ない対応にしようと思ってます。彼は、僕の対応によって「客観世界のありよう」「世間の反応」を知るわけです。壁にボールを投げつけてみて、真っ直ぐ跳ね返ってきたらその壁は平であると思う。そこをこっちが気を遣いすぎてちゃんとバウンドしなかったり、変な方向に返してしまったら、その分だけ彼の世界観は歪むことになる。その弊害の方が大きかろうと。だから社会的に許されない態度にでたら遠慮会釈なくバシッと叩くし、どってことないことならスルーする。それは客観とかいいながら僕自身の主観、僕なりに思う「世間のありよう」でしかないのだろうけど、相手を気を遣いすぎるが故に反射率を変えたくないのです。そうでないと、どっちも気を遣って態度を変えていたら、もう合わせ鏡のような無限の迷宮に入ってしまいそうな気もする。量子力学の不確定性原理のように、観察者の存在が現実に変化を及ぼすかのようになっていたら、何が何だかわからなくなりそうで、それが恐い。

 ある意味冷たいっちゃ冷たいんだろうけど、しょうがないよねとも思うのですよ。温かいふりをするのは簡単なんだろうけど、それで依存されてもいずれは返しきれなくなるわけで、最後の最後で一番手ひどい形で裏切ることになってしまうのも問題だろうと。だから、ある程度冷たく見えてもしょうがないよな、被害を最小に留めるラインがそこなからそこで留まる。ただし、冷たくても冷たいなりにフェアではあろうと思います。大きく来たら大きく返し、小さく来たら小さく返す。倍返しにはしないし、積年の鬱憤をまとめて一気に、、なんてアンフェアな反応はしない。常に貸し借りなしのコンクリートの壁であろうと。しょせん「他人」ってそういうもんだろ?と。ただの「他人」ではない関係があるなら(家族とか恋人とか)、その関係度に応じて、自分なりに正しいと思う限度で反応するしかない。

主観シフトの世界において

 上記のことを、これまで書いてきたことの関連でいえば、客観的フレームワークが弛んで主観が重要になってくる現在から未来の時代状況においては、この種の主観的なガタピシはどんどん増えて、一般的になっていくんだろうと思います。

 これまで書いてきたように、自分の価値観を信じるとか、好き嫌いを極めるとか、直感を大事にするとか口では簡単に言えても、実際には難しく感じる人も多いでしょう。もちろん個人差もあって、簡単に分かる人もいるだろうし、雲を掴むような感じで途方に暮れる人もいるでしょうけど、誰でも簡単に出来るってものではないと思う。

 価値観とか感性というのは、自分の無意識世界に属することがらなので、ちょっと考えたくらいで分かるものでもない。いろいろな経験をして、自分の心の中の化学変化を仔細に観察して、あれこれ考えていくような営みになるのでしょう。そして、それをやるプロセスというのは、どうしても沈思黙考というか「元気でポジティブ!」って感じにはならない場合も多いでしょう。場合によっては、外面的には「うつ」に見えたりもするだろうし、本当に「うつ」になっちゃうこともあるだろう。

 例えばこれまでのエリート路線(偏差値のいい学校→会社→人生ルート)のエスカレーターコースでやっていたのだけど、エスカレーターが外れたり、止まったり、人数制限をしたりで、思ってたように進めなくなった場合、これまでの人生の再編成を迫られることになります。それまでが「優秀であることで階段を上がっていくゲーム」というブルースリーの「死亡遊戯」的なゲームだったとしたら、「宝島」「西遊記」のような「何かを探す旅ゲーム」になるかもしれないし、幾つかの小編が組み合わさったオムニバスや組曲的なものになるかもしれない。さらには「優秀な僕」「人気者の私」「孤高の俺」「平凡な自分」という自画像の再構築すら迫られるかもしれない。

 これらは時には深刻なアンデンティティ・クライシスを招くでしょうし、再築作業時には、一時的に劇的な症状が出るかもしれない。ある意味では、これだけ世の中が変ってくれば、全員、程度の差はあっても何らかの気分障害や「うつ」になっても不思議ではないです。

 もっとも、これも昨日今日始まったことではなく、人類史に普遍的な現象なのかもしれません。その昔、農業の発見もまだなく、狩猟採集生活を送り、餓死なんか当たり前で、平均寿命が20代で尽きていた頃には、今で言うような精神的な変調というのはずっと少なかったと思われます。一定の確率で生じる遺伝的な器質性障害はあったでしょうが、物理的に生きていくだけで精一杯、メシが食えるだけで自己実現!という時代には、「生きる意味」「人生とは」みたいなことを考えてるヒマもないし、その必要性もなかった。

 中世、近世、近代、現代と時代が進むにつれ、世の中が豊かに、複雑になり、考えるヒマが出来てきた。その昔は食うに困らずヒマを持て余していた貴族たちの高踏的な悩みであったものが、社会が豊かになるにつれ皆の悩みになっていく。たからこそ、近代文学における「近代的自我の相克」とかいうテーマもでてくるのでしょう。そう思えば、今日の時代変化と「うつ」の普遍化というのも、連綿として続いてきた人類の歩みの一端に過ぎないとも言えます。まあ、そう言ったからといって、何かの慰めや解決になるわけではないけど、The only consolation of saying this is that we are not alone. このように言うことで得られる唯一の慰めは、僕たちだけが特別に不幸なわけではない、ということだ。 

 これまで書いてきたことを総じて言えば、「うつ」なり気分の落ち込みというのは、他人事ではなく自分事であるし、また次のステップの準備をやってるからそうなっている場合もあろうから、必ずしも悪いことでもない。誰も彼もがそうなるとしたら、そこにはお互いのエチケットのように、公正で誠実でちょっとクールで、でもフェアでって態度が求められるようになるかもしれないってことです。

 お店に入り口に、「支度中」「営業中」とか掛札をぶら下げているように、「お悩み中」「取り込み中」という名札やシールを胸にぶら下げておいてもいいかもしれませんね。冗談ですけど。

僕らの役割

 これが本当の最後ですが、シメの部分です。

 今の僕らが、これから生まれてくる次の世代に残してやれることは、これまでとは違った生き方を模索すること、トライすること、そしてそれでハッピーになること。石にかじりついてもハッピーになる、もう意地でもそうなって、新しい道筋を切り開いていってやることだと思います。人間の生き方など無限にあり、幸せに至る道筋など無限にある。それを現実に証明してあげることでしょう。

 そういえば、書いていて思いだしたけど、僕がオーストラリアに来たのも、20年前に漠然と同じようなことを考えていたから、というのも一つの理由としてありました。既にバブルの当時から、「なんだかなあ」ムードは日本にも自分にもありました。その頃から、このエッセイで書いているようなことは思っていたし、またインターネットがまだ存在してなかった当時、パソコン通信のフォーラムなんかにも盛んに書いてもいたのですが、段々煮詰ってきた。なぜかといえば、「口先で幾ら言っててもしょうがないよな」って感じたからです。もっと自由に生きられる筈だ、もっとのびのび展開していくことは可能なはずだ、勝手な思いこみで狭い金魚鉢にいるだけだなんて、「言ってるだけ」「考えてるだけ」だったら、何の説得力もないじゃないかと。だから実行したと。百万言を費やすよりも、一つの現実の方がずっと説得力があるだろうと。

 ちなみにオーストラリアが面白いなと思ったのは、科学技術や政治形態においては世界最先端のレベルをいっていながら、同時に荒々しい自然や、その自然とたわむれ、馴染んでいる素朴なライフスタイルがあったことです。年収億単位で稼いでいても、休日ともなれば、サーフパンツに裸足でペタペタと歩き回り、誰彼かまわず親しく声をかけ、ビール飲んでガハハとやってる感じがいいなと。つまりはその「ミックスしてる感じ」が好ましかったのですね。

 新しい生き方とかいっても、100%全く新規のものを発明することなんか不可能でしょうから、結局は既存のものを組み替えていく作業になると思いました。それは編集であり、チューニングです。ツマミをいじって、仕事面ではこのくらいに抑えておいて、その分こっちを上げて、新しい素材が欲しいから他から持ってきて、、、という。移民国家のオーストラリアの場合、世界からあらゆる「素材」が集まっているのできているので、その気になったら幾らでもゲットできる。つまりはミックス編集作業がしやすい。

 さらに、何らかの意味で世界の最先端の現場には居たいというミーハー根性もありました。人類という船がどっちの方向に進んでいるのか、最前線とは言わないけど、なんとなくそれが感じられる所には居たいと。オーストラリアには世界中から人々が来ているし、毎日新入荷!って感じで来ている。中国とインドの時代というのは、もう普通に歩いているだけ、シェア探しを手伝っているだけで感じる。現実的な実感として毎週のように進行しているのがわかる。数週間前の新聞には、僕と同じ頃にオーストラリアにやってきたガンビアからの移民の人をはじめとして、シドニーの新しいアフリカン・コミュニティの話が載ってました。この「進んでる感じ」「動いている感」が得られるのが魅力です。

 そんなこんなもあってオーストラリアだったのですが、しかし、そんなのは僕の選択であって、あなたの選択ではない。海外に行けばいいってもんじゃないし、オーストラリアが良いというものではない。そんなつもりで言っているのではないし、あとの世代に残すのはそういうことではない。

 一人一人がそれぞれに自分の人生なり幸福なりに真剣に向き合い、頭かきむしって悩んだり、滑った転んだの試行錯誤をして、泣いたり笑ったりしながらも、トータルで "My life"というものを作っていくこと。それらが膨大に積み重なる中で、「そうか、ああいうのもアリなんだ」というサンプルを沢山残しておいてやるのが、次に続く世代への貢献ってもんだと思います。

 それに一言だけ説教がましいことを残すならば、先人たちのパターンが膨大にあったとしても、どれ一つとしてお手本にもマニュアルにもならない、するな!ということですね。他人の人生の真似なんかしても、所詮はその他人になれっこないんだから無理、無駄、無意味です。大事なのは、発想であり、勇気であり、スピリッツみたいなものだと思います。別の言葉でいえば、「こうなれば合格」みたいな妙な枠組みを残さないことでしょうね。さもないと「老後に寂しい思いをする」とかいう、老後が寂しかったら遡ってこれまでの全人生が否定されるかのごとき下らない発想の蔓延を許すことになって、それが行動や発想の自由を制約し、結局、元の木阿弥になるという。それは、ちょっとイヤです。





文責:田村



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