毎度お馴染みの冒頭の注意書きですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策してます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。
社会変化と「うつ」 客観→主観
毎週同じようなことばかり書いてて気が引けるのですが、「これさえやっておけば人生大丈夫さ」という客観的なフレームワークが弛んできている今日この頃、、という前提となる時代認識があります。「いや、そんなことはないぞ」という人もいるかもしれないけど、僕にはそう思える。
真面目に勉強して、いいガッコ入って、いい就職をすれば、よほど大きなミスでも犯さない限り、死ぬまでそこそこの暮らしは出来るという方法論は、かつては確かにあった。この昔ながらの方法論は、今もなお、ちゃんと存続しているのですが、昔ほど確実なものではなくなっている。普通に勉強しても普通に就職できるかどうか分からない。就職したところでその企業が永続する保証もない。企業が存続したとしても、会社内における自分の運命の振り幅は広がっている(いきなり海外勤務を命じられたり、ある日外資系に買収されたり)。そして年金の実効性や高齢化によって長期化した老後の不安、、まあ、このあたりは僕よりも日本に住んでる人の方が詳しいでしょう。
個々の内容については立ち入りませんが、すご〜く不幸な時代のように見えて、僕個人は全然そうは思ってません。要するに「一寸先は闇」という万古不変な原理に立ち返っているだけの話でしょう?もともと「○○さえすれば一生大丈夫」という方がおかしいのだ。それって、一定の条件下においてのみ認められるレアパターンでしょう。封建時代のように世の中が全然動かない or 高度成長のように一方向にのみ動く場合で、且つ「人生五〇年〜」のように人生のタイムスパンが短いような場合です。動きが静止・ワンパターン×短いスパンだったら、そりゃあある程度の未来予測も出来るでしょう。予測が出来れば、それに合わせた画一的な方法論もありうるでしょう。でも今は、世界規模であちこちの波が合従連衡しあっていて先が読みにくい。しかも100歳くらい生きてしまいそうな長いタイムスパンになっている、という条件変化を考えたら、ワンパターン方法論が通用する方が不思議ってもんでしょう。でも、それは普通に戻るだけのことであり、別に嘆くようなことではない。
しかし、この過渡期の潮流変化は個々の主観世界において見過ごせない影響を与えるように思います。
客観的にやることをやっていれば(やるべきことは社会から示される、てか押しつけてくる)、人生がそこそこ運営できて、それに伴って主観も自然に充実していたという状況は、いわば「客観が主観を規定する」状況とも言えます。「やることやってりゃ自然にハッピーになる」という非常に分かりやすいというか、楽なやり方ですよね。
でも、客観があんまりアテにならなくなったら、主観のことは主観で決めないとならない、さらに一歩進んで主観によって客観を引っ張っていかねばならないという、まるで機関車と客車の役割が逆転するような事態になります。コペルニクス的転回といっても大袈裟ではないくらいの主客逆転であり、人によっては頭とココロに多大な混乱が生じるでしょう。
で、昨今の「うつ」ブーム(なのかな?)は、この「過渡期の(客観→主観的)混乱」が大きな要素になっているように思います。勿論、完全にパーソナルな私的事由で「うつ」が生じる場合も多々あるでしょうが、そうではなく、客観的にどうすれば良いのか分からずに混乱するから、主観もまた混乱して「うつ」になるという。
すごーく単純化して言ってしまえば、100人いて100人分の仕事があれば基本的に誰もあぶれることはない。しかし仕事数が70に減れば、30人はあぶれる。その場合、その30人を残りの70人が助けるとか、70人分の仕事を100等分して組み替えるとか(ワークシェアリングですね)すれば良いのだろうけど、しかし、それって状況が全員にクリアに見えていて、全員が納得している場合の話です。現実には人によって認識のギャップがある。100人皆職時代の感覚が抜けない人から見れば、仕事をしない30人は唾棄すべき怠惰者、穀潰しに見える。まあ、ある程度の理解はあるでしょうけど、それでも昔の「腰」は残るので、やっぱりややキツめに見てしまう。一方めでたく職をゲットした70人は、従来の方法で良かったじゃないか、別に大したことないじゃんって思う。
そうなると、30人の人々は、過去の感覚から抜けきれない社会の大多数と、さらに同年代の過半数から、「お前、何やってんだ?」という目で見られる。本当は見られてないのかもしれないけど、見られているように感じる。ここで30人が集団で暮らしていたらまだ耐え易いけど、実際の現場ではバラバラに孤立している。周囲からそういう視線に晒されながら一人ぼっちで生きているのは、こりゃあ厳しいでしょう。だからココロが溌剌としなくなり、ネガティブなアイデンティティも出来て(俺はダメな奴だと思いこむ)、「うつ」になる。
まあ、そんなに一直線にことが進むわけもないのだけど、ベクトルとしてはそうだということです。客観→主観です。
一方、運良く仕事を得た人達だって、以前100人でやってた仕事を70人で廻すのだから負担も重くなるし、以前と違って不景気だから努力しても結果が出にくい。ましてや、ここでリストラされたら、亡者どもがひしめいている暗く荒れる海に投げ出されるかのように思うから、恐怖感もひとしお。辞めるわけにはいかないけど、仕事は辛いわ、面白くないわ。こんな日々が一生続くのか?と思って「うつ」になるという、働いている人の「うつ」も相当あるのでしょう。どうかするとそっちの方が多いくらいかもしれない。随分前の話ですが、どっかのソフトハウスの部局全員、上司からヒラまで全員「うつ」と診断されたという話を聞いたこともあります。
こういったスートリーが正しいかどうかともかく、言いたいのは客観的な情勢変化が主観に影響を与える、ということです。純粋に主観的な原因で「うつ」になる(幼少期のトラウマがぶり返したとか、ショッキングな私的出来事があったとか)のではなく、社会とか客観とか大きなフレームワークの変化によって、心が影響を受けることはありうるだろうし、実際にもそういうケースは多々あるのではないかと。
そしてこれって何も21世紀初頭の日本にだけ特徴的なものではなく、過去にも沢山あったと思います。例えば明治維新の頃は、昨日まで江戸時代でチョンマゲ結ってやってたんだから、社会が激変するのについていけなくなって、「うつ」になってた人も結構いたとは思います。そんな誰も彼もが「文明開化だ〜!」ではしゃいでいたわけではないだろう。戦後だって、昨日までの神州不滅を真に受けてた人だっているだろうし、その人にとって敗戦はショックだろうし、農地改革や財閥解体で没落していった人達も沢山いたでしょう。「うつ」になっても不思議ではない。ただ、その頃にはそういう概念も乏しかったし、社会問題化しなかっただけでしょう。いつの時代も、時代の波に翻弄されて、ココロに悪影響を被る人々というのは一定比率でいるのでしょう。これも又普遍的な出来事なのかもしれない。
さて、そういった今日の(あるいは普遍的な)状況において、じゃあどうするの?といえば、やっぱ主観が客観をリードするように組み替えなければならないでしょう。それはどうなりたいの、どう生きたいの?という個々人の価値観、納得、こだわり、好き嫌いというものを基軸にする、というのは前回述べました。と同時に、主観が客観をリードするための方法・技術論も開発しなければなりません。そのあたりの構造論やら技術論をこれまで10回以上に分けてなんだかんだ書いてたようなものです。
やれゲリラになれとか(第2回)、毎日ちゃんと死と再生のサイクルのメリハリをつけろとか(第3回)、社会シンクロ率を下げろとか(第4回)、客観的な事務処理能力の重要性とか(第5回)、グローバリズムを逆手に取るとか(第6回)、心のありようを硬直的に決めつけないで個性として広く認めるとか(第7回)、国別ローカルから世界普遍へとか(第8回)、自分の自意識を過大評価しないこととか(第9回)、仕事基準から価値観基準への移行(第10回)とその修正原理とか(第11回)。
あらかた書いたつもりですが、そろそろ着陸態勢に入り、最後に捕逸として数点書きます。これが結局1回では終らないんだろうけど(^_^)。
狂気
これだけは書いておかねばと思うのは、、、、「狂気」です。
夢をかなえることが出来る人間は、かならず一種狂気に近いものを持っている。
叩いても叩いても息を吹き返して崖から這い上がってくる、ホラー映画の怪物のような執念。それが必要なのだ。
中島らも「健脚行-43号線の怪」(「人体模型の夜」収録)
と、故らもさんも書いているように、狂気という要素は大事です。しれっとやってるだけ、理屈通りやってるだけでは、何かが足りない。なんか知らんけど受精しない。音楽でも小説でも絵でも、狂気というか毒というか、曰く言い難いサムシングが入らないと、単にテクニックだけで作っているだけになってしまう。これはアーティスティックなことがお好きな方は理屈抜きに分かると思います。
そして、これって別にアート系に限らず、ビジネスだろうが、恋愛だろうが、気合い入れて何かをしようとする場合には共通してみられるポイントでしょう。当たり前にやってるだけだったら、それがいかに100点満点であろうとも、「なにか」が足りないんですよね〜。なんか物足りない。
結婚相手はハンサムだし、高収入だし、優しいし、申し分なしの三国一の花婿さんであり、幸せに包まれた結婚生活になる筈だったんだけど、な〜んか楽しくないとか。就職でも、あらゆる点から見て最高のところに就職できて、順風満帆だあ!と思って、最初は張り切ってやってるけど、半年1年と続くにつれて、なんか違うような気がしてくる。これはいわゆる「ないものねだり」とか「倦怠期」とかは一線を画します。そういう場合も非常に多いのだけど、だけど違う。飽きた、慣れた、期待が過大だった、欲望にはキリがない、、というのとは問題が違う。これで文句を言ったらバチが当るというのは重々承知なんだけど、でも、違う。足りない。何が足りないのか分からないけど、すーっと隙間風が吹いていく。
ここでは「狂気」という表現をしてますが、別にそういう表現である必要もないです。何でもいい。非論理的で、いっそ異次元的ですらあるもの。それは大量には要らない。そんなものが大量にあったら、それこそ本当に発狂状態のグチャグチャになってしまう。ほんのちょっとでいい。一垂らしでいい。触媒のような、魔法の呪文のようなもの。お寿司のワサビほども明瞭でもなく、また薬味のようなカウンター的な役割ではなく、むしろ中核に位置するもの。もの凄くまっとうで、ものすごく本質的なんだけど、あまりにもピュア過ぎて逆に劇物・毒物のようになっているもの。
何かを好きでやっています。本当にそれが好きでやっています。そうなると段々のってきます。ムキになっていきます。段々止まらなくなっていきます。目が据わってきます。アドレナリンが出て、血が酸っぱくなってきて、ハイになって、えらく気持ち良くなっていきます。視野狭窄状態になってきて、一点透視図法の中心点だけを見つめて、目から血が出てきそうなほど見つめて、もう他のことなんかどうでも良くなってくる。そういうときに、この狂気と毒は精製されるのだと思います。半分くらいイッちゃってるときに分泌される。
道はかならず途中で途切れる
まあ、書いてる僕もよく分からんのですけど、それが何で必要なのかというと、多分、世の中で何事かをなす、創りあげるというのは、とてつもなく大事業なんだと思います。なんせ、エントロピーという大宇宙の法則に逆らうわけですからね。そこそこのものは適当に作れるけど、本当にカチッと形になるには、高熱で炙って「焼き入れ」するような、不可思議なプロセスが要るのでしょう。
多分、出発地からゴールまでの道のりの間に、確率論的にいって、だいたいどっかで道路が寸断されて、千尋の谷底になっている箇所があるのだと思います。ポーカーでも、ツーペアやスリーカードくらいだったら割とよく来るけど、4カードになると中々揃わない、ましてやストレートフラッシュとかになると最後の一枚でブタになったりする。それが確率ってもんでしょう。「なしとげる」ためには、この道路の断絶してる谷底を思いっきりジャンプして飛び越えるような行為が要るのだと思います。でもって、これ、気が狂ってないと飛べないんだろうなあ。
事業でも恋愛でも、そこそこ上手くいくのはそう難しくないのだけど、やがてピンチ!が訪れる。アテにしていた取引が流れてしまい、発注済の商品も今更キャンセルできず、またそういうときに限って子飼いの部下に裏切られ、もう四面楚歌、泣きそうな状態。恋愛でも、浮気はバレるわ、嘘は露呈するわ、親からギャンギャン言われるわ、またそんなときに限ってクビになるわという、もう死んじゃおっかなあ〜みたいな逆境。そこを気合一発で乗り越える。生きるか死ぬか、というか、もう殆ど死んでいるくらいの気魄で跳ぶ。オーラが出まくってて、キャンプファイアーのように炎上してるような感じ。
そういえば昔日本で働いているときに依頼者の方からこんなお話を聞きました。大企業の下請けイジメで強引に値切られ、倒産寸前まで追い詰められた。相手企業に出向いて、約束通りちゃんと代金を払えと掛け合っても、剣もほろろの対応。それならばということで、その人は、相手会社の玄関先で、用意してきたポリバケツから灯油を全身にぶっかけて抗議の焼身自殺をしようとしたそうです。あまりの真剣度に、さすがに相手も大慌てで止めにはいり、結局は支払ったそうです。でもポーズや脅しではなく、本気で死ぬつもりだったそうです。似たような話は結構あって、危ない橋を渡る商売をしていて、暴力団に睨まれ、ついには拉致され、六甲山の山奥に連れて行かれた人がいます。スコップを渡され、自分の墓穴を掘るように命じられる。そのとき度胸一発で「人一人殺すんだから、穴くらいてめえらで掘ったらんかい、横着すんじゃねえ!」と啖呵切ったら、相手の兄貴分らしい人が「こいつ、ええ根性してるわ」「殺すには惜しい」といって許されたそうです。嘘みたいな本当の話です。
これらは極端な例ですけど、自営とか起業とかやってたら、一回はこういう機会がくるでしょう。ここまでデンジャラス&ドラマチックではないでしょうけど、それでも「一世一代」レベルの修羅場が来る。それをクリアするのは、もう理屈でも、知識でも、技術でも、根性でもないです。何かといえば、それがすなわち狂気なのでしょう。
別に「逆境を乗り越える」パターンに限ったことではないですよ。
普通にしててもありうる。ある日突然、全く思ってもいなかった行動をポンと取ってしまう。なぜかその日に限ってそれを思いつき、普通だったら絶対しないようなことも、なぜかその日に限って出来てしまうというミラクルなとき。気が狂ったとしか思えないようなことを、いとも簡単に出来てしまうのは、やっぱり気が狂っていたんでしょう。
もうちょい普通の例を挙げれば、作曲をしてて、ある程度のところまではテクニックと知識で作れます。80%くらいだったら、即興でそこそこ作れる。それを丁寧に詰めていけば95%くらいまでは出来る。だけど、残りの5%が出来ない。まあまあいいんだけど、凄くはない。ガビーンとこない。このままでは凡百だし、聞いたそばから忘れていくような曲でしかない。それが自分でもわかる。展開部にもう一ひねり、違う地平に向かって広がるような、グッとくるメロディを入れたい、ここで地獄の苦しみになるのですね。出てこない。もう何をどうやっても思いつかない。出てきたと思ったら、よく考えたらどっかのパクリだったりとか。もう雨乞いのように天から降ってくるのをお祈りするしかない。ここをクリアするかどうかは、ほんと狂気だと思いますね。グワ〜!とのめりこんで、人間の領域からはみ出して、ギリシャ神話のように、神だか悪魔だかの領域まで侵犯してお宝を取ってこないとならない。
よく「○○の鬼」という言い方がありますが、あれも同じでしょう。
どっかで「鬼」にならないと、断絶した道、目がくらむような千尋の谷底をひらりとジャンプできない。もう死んでもいいくらいに思ってないと、力強く、思い切った踏み込みが出来ないのだと思います。
あ、あの〜、言うまでもないけど、狂気さえあればいいってもんじゃないですよ。狂気だけだったら、ただのメチャクチャです。
膨大な知識と技術と経験、円満な人格と常識、よく練られた計画スキームあってこその狂気です。
それらが無ければ、そもそも道路が断絶している部分まで行けません。途中で道に迷うとか、飽きてやめちゃうとか、体力が尽きてヘタったりとか。100%成功しても不思議ではないくらいの十分な実力をつけ、着々と実行するからこそ、断絶地点まで行くことが出来る。そして断絶地点に到達したら、一転してそれら膨大な知識も努力も全て捨てる。狂気に内圧を高め、妖怪変化のように鬼に変化し、一気に飛び越えるのでしょうね。多分。
こ〜れが難しいんだと思います。
しんどい修行を重ねて何らかの技術を身につけるのは大変なことです。しかし、いよいよという刹那に、それほどまでに苦労して身につけたモノを惜しげもなく捨てるのはさらに何倍も難しいでしょう。身につけるまで苦労しているほど、捨てられない。しがみつくでしょう。手持ちの技術だけで何とかやっていこうとする。でも、それでは何ともならないからこそ「断絶」なのですね。
だからこそ、気合とか根性とかいうレベルを通り越えて、執念や狂気という表現になっていくのでしょう。
本当に好き=狂気
もっとも、あまりに狂気を強調するとオカルティックに聞こえて白けるかもしれません。
そこで、別の言い方をします。
例えば、「断絶」とは、あなたがそれをどれだけ好きか?を試されているのだ、と。
「本当にそれがしたいと思ってるの?」という踏み絵のようなものであると。
前回、価値観とか好き嫌いの話をしましたが、心の内奥からそれを求めていたら、えいや!と崖を飛び越えることができる。狂気も出るし鬼にもなれる。それを試されているのだと。といって、別に神様が意地悪で問いかけているとかそんなんじゃないですよ。先ほど書いたように単に確率の問題でしょう。一定の比率で一定の難局は生じると。
「好き」であればあるほど、あるいは「おれはコレだあ!」というフィット感が高ければ高いほど、いくら困難があろうとも、前に進む以外の道は見えない。考えない。だから逃げない。ゆえに集中できる。集中できるから成功率が高まる。それだけのことなんでしょう。しかし、そのあたりの覚悟、というか好き嫌いがグラグラしてると、ちょっとアゲインストな状況になったら、「えー、これじゃダメじゃん」「もっと楽な道はないか」とか「逃げ」に入り出すのでしょう。仮に飛び越えようとしても、腹が据わってないからいよいよという刹那の集中力に欠ける。飛ぶ瞬間に恐怖に襲われ、ビビリが入り、結果的に十分な踏切りが出来ずに、敗退という。
そして、本当にやりたいと思ってるかどうかというのは、過去にもさんざん書いている無意識レベルの話ですから、心の奥底の深層心理の部分、地下のマントルやマグマみたいな深いところでカチッと歯車が合ってるかどうかという話になります。自分では認識できない無意識レベルの話ですから、どうしても狂気とか鬼とかいう表現になっていくのでしょう。
本当にやりたいことなら、自然と「狂気」は出てくるのでしょう。「狂気」という表現が適切なのかどうかは分からないけど、要は無意識のレベルで強く欲しているかどうか、無意識レベルから「産地直送」でほとばしるエネルギーがあるかどうか。地下のマグマが噴出して火山の噴火になるように、平和な日常からみれば天変地異的な奇怪な情動=狂気=が生じるということでしょう。
最初の事例に立ち返ります。人も羨む結婚や就職が、完璧なはずなのになぜか足りない感覚がするは何故かといえば、やっぱり本当に求めているわけではないからだと思います。「この人と一緒になれなかったら死んじゃう」とか、「この仕事が出来たら死んでもいい」くらいのレベルで惚れ込んでるわけでもない。つまり正確に自分の欲求に沿って動いているわけではない。マグマと連結していない。あくまで世間的な、○○があったら30点加算みたいな世間体とか一般的な尺度で、まるで答案用紙に解答を書込むかのようにやっているからではないかな。
これまでのように、社会一般の「生き方ルート」という塗り絵みたいなお手本があり、それに沿って客観条件を充実させていけば良い時代だったら、それでも良かったと思います。客観が満たされれば、自然と主観も満たされるという。しかし、しつこいようだが客観がアテにならなくなった場合には、なによりもモノをいうのは主観になります。そして主観が基軸になればなるほど、「本当に自分は何がしたいの?」という主観の正確さ、強さが重要になっていきます。それが正しければ正しいほどパワーが出るし、脇目もふらず、寄り道もせず、迷いもせずに突き進める。だから成功率も高いし、そもそもやってるだけでドーパミンが出てハッピーになってるから、別に世間的な「成功」すら必要とはしない。
それをハタからみたら、「アホか?」というくらい世間とズレてる場合もあろうし、肝心なところで半音ピッチがズレていたりもする。そのズレ具合が周囲からみれば「狂気」に感じられるのでしょう。つまり狂気の正体は「好き」かどうかなんだと思います。
本当に心からドンピシャにハマって好きになってたら、他人から見たら気違い染みた修行や努力も、本人的には単にハマって嬉々としてやってるだけのことです。改めて「努力」とすら認識してもいない。辛くもない。むしろ楽しい。マッド・サイテンティストなんか("Back to the future"の博士とか)、全てを投げ打って一心不乱にやってますけど、本人的には楽しいんでしょうねえ。でもハタから見てたら"MAD"に見える。
創作活動についても同じです。最初から「そこそこカッコいい曲を作ろう」というのは、言うならば「志が低い」のでしょうね。プロなり、天才レベルの連中が創作する場合は、僕らがウンウン唸って遂には発見できない「神の旋律」をいきなり思いつくのでしょう。彼らは頭の中で生じてしまったアイデアや曲想を吐き出すだけです。そこでは、その着想をどう表現すれば一番効果的か?というという、殆ど事務作業のような感じで作曲をしているのでしょう。
僕も小学校時代は漫画家になりたかったし、大学時代はギター弾きまくってましたが、「本当に上手い奴」「根本的にモノが違う」という連中に遭遇して打ちのめされました。よく「ドタマかち割って中身を見てみたい」と下世話な表現がありますが、本当にそうで、何を考えたらそんな発想が出てくるのか。色遣い、音遣い、何を食ったらそんな突拍子もない、しかしコロンブスの卵でやってみたら綺麗にハマるということを思いつけるのか?それが不思議。てか、もう自分が一生努力してもそういう発想は無理だなと、思いしらされました。それが才能ってものなんだろうなって。
でも、才能という言葉で片付けてしまうのは違うと思います。昔はそう思ってたけど、今はそう思わない。才能という要素は確かにあるけど、より大事なのは「好き」かどうかなんだろうと。天才とは「努力する才能を持ってる人」のことだという言い方があるけど、それに近い。これも努力の重要性をことさらに謳い上げる教育的な臭みがあるけど、「努力する才能」というのは、要するに「本気で好き」ってことだと思います。
本気で好きだったら、もう呼吸するように、心臓が常に鼓動しているように、四六時中当たり前のようにそのことを考えているのでしょう。意識にせよ、無意識にせよ、音楽家だったら常になにかの音が鳴り続けているのでしょう。僕らは、改まって「さあ、作ろう」みたいな感じでやるけど、彼らは年がら年中やっている。夢の中ですらやっている。もう比較にならないほど膨大な試行錯誤と組み合わせを頭の中でやっている。だからこそ、ハッとするメロディや、斬新な発想も出てくる。これは確率論的に出てくるわけで、なにかミラクルが起きてるわけでもないのでしょうね。人間の大脳における「思考」とは、過去の記憶の結びつきに尽きるわけだし、数多くのパターンの結びつきをやっていれば、そりゃあ当たることもあるでしょう。
なお、ビジネス世界での修羅場乗り越えパターンの場合、「好き」というのとはニュアンスが若干違うと思うのですが、「俺はこれでやっていくんじゃあ」という腹の据わり具合というか、無意識レベルでのフィット感という意味では同じだと思います。「好き」という甘味のある語感ではないのですが、心の奥底でカチッと歯車が合ってる感じや、納得感がある。だからマグマ直送の馬鹿パワーが出る。
心の羅針盤
と、ここまで書いて読み直すと、「本当に好き」なものを持つというのは、天才レベルに何かを極めた人とか、ヤクザに啖呵切るような修羅場をくぐってきた人とか、とかく尋常ではない人々しかなしえないかのような印象を与えますね。
でも、それは違う。
話を分かりやすくするために極端な例を挙げただけで、別にそこまで分かりやすくなければならないわけではないです。
同じ事の繰り返しで恐縮ですが、要は無意識レベルで求めているかどうか、歯車がカチッと合う感じがするかどうかです。直感一発で「これ!」という感じがあるかどうかです。理屈で決めてない。世間体で決めていない。
そして、その歯車カチが、必ずしも生計に直結するわけでもないし、また職業とか、趣味とか、広くアクティビティという形になっている必要もないです。というか、そうなってるケースの方がずっと少ないでしょう。多くは、もっと曖昧とした「こうなっていると気持ちいい」みたいな状態快感であったり、「こういう具合にやりたい」というやり方へのこだわりであったりすると思います。
僕にしたって、今から思うになんであんなにクソ難しい(当時の)司法試験をやろうと思ったかといえば、クソ難しいからこそ燃えたというのはあります。大学入試くらいだったら全然燃えなかったけど、東大生(卒業生&現役)でも100人受けたら95人は落ちるという、殆ど受かったら奇跡というか、エベレスト登頂みたいな、馬鹿みたいな暴挙だったからこそやったというのが実際です。若いときは誰でもそうだと思うけど、極限ギリギリまで自分を試してみたいという欲求があり、それをしたかったんでしょうね。だから受験は楽しくやれたんだけど(あんまり辛いとは思わなかった)、弁護士になってしまった後は、すごく有意義でやり甲斐のある仕事でありつつも、俺の居場所はここじゃないって違和感はありました。
じゃあどうするの?で、当時はあれこれ新しいビジネス形態とか色々考えたんだけど、どれもハマらない。逆に、「カリブの海賊になる」みたいな馬鹿馬鹿しい思いつきにワクワクする自分に気づいて、ああ、そうだ、メチャクチャやりたいんだな、また暴挙がしたいんだなというのが分かった。先のことなんか知らんもんね、いっけ〜!ひャっほ〜!ということがしたいんだと。で、それもやってしまって落ち着いたあとは、今度は「じっくり、丁寧に、淡泊なんだけどコクがある」みたいなことに興味が出てきたという。
いずれにしても職業でもないし、アクティビティでもないです。音楽の譜面に出てくる、クレッシェンド(段々強く)、リタルダンド(だんだん遅く)みたいな、あるいは指揮者が「はい、元気良く!」というような「やり方の指示」というか、「何事かをやる感じの気持ち良さ」が自分の無意識感性にピピピと来るのでしょう。だから対象は何だっていいのだ。豆腐屋さんでも、原発の技術者でもなんでも良かったんだと思いますよ。
でも、他にも色々な無意識からの指示はあるのですよね。自分を殺してお金を貰うくらいなら、突っ張って餓死した方がマシみたいな部分も(そこまで極端ではないけど)あるとか、レールは無ければ無いほど気持ちが良いとか、そのあたりの自分だけの快感原則というか、快感センサーみたいなものです。
これだ!という形が既にある人は別として、普通の人にとっては、こういう「こうなると気持ちいい」「こういう感じで行くと納得できる」というパターン快感や状態快感から、自分と対話していくのがいいんじゃないかと思います。
よく「自分探し」とかいうけど、自分の何を探しているのかといえば、快感のツボというか、傾向というか、法則性というか、そういうことだと思います。「自分探し」という言葉を茶化していう人もいるし、確かに逃避の常套文句ではあるのだけど、だからといって探さないでいい、諦めて不本意な人生でも黙々と生きるべしってことでも無いでしょう。だから探すべきなんだろうな。まあ、「探す」というよりも、あれこれやってみて「試す」という感じ、そして自分の無意識の声に「耳を澄ます」って感じに近いのかな。
そういえば、誰だったかな、なんでバンドやってるんですか?というと、「打ち上げのためだ」という人がいたな。ステージで頑張って、疲労困憊して、汗ダラダラで、楽屋で「おつかれさんでしたー!!」でビールを一気に流し込む快感が最高で、それを味わいたいから苦労してバンドやってるんだって。本末転倒もいいところなんだけど、わかってるなあって気もしますよね。
これに類する話は沢山あって、例えば小学校とか中学校に何のために通うのか、何が楽しくて通うのか?です。小学校時代の究極の目的、究極の快楽点はどこにあるのか?といえば、僕の場合は「放課後」だったと思います。あの自由な感じ、今日は何して帰ろうか、寄り道しようか、○○ちゃんちに行こうかって、あの突き抜けた自由空間っぽい感じが好きだったんだと思います。でも「放課後」を正しく味わうためには、朝からちゃんと学校に行ってないとならない。放課後だけ登校してもあの自由感にはならならい。だから朝から行く、授業も受けるって。これって打ち上げのためにバンドやってるのと同じですよね。
そして、オージーも同じようなことを言うと思います。何のための働くのか?って、そりゃあホリデーの為に決まってるじゃないかと。仕事がなくて毎日がホリデーだったら、ダラダラしちゃって、金曜の夜の突き抜けたヒャッホー!感がないじゃないか。自由の快感を味わうためには、その前提に辛い不自由がなければならない。だから働くんだよという。さすが、TGIFですね。ティー・ジー・アイ・エフと発音し、"Thanks God! It's Friday!"の略です。
そんなんでもいいんだと思います。
心の羅針盤、心のGPS信号を正確にトレースし、それに即して動いていく。その過程でときには狂気もでようし、鬼にもなることもあるでしょう(ごくマレにだけど)。そしてその軌跡をつなぎ合わせていたら、自然と、結果的に、今の形になってましたって。それが主観が客観をリードするってことだと思います。
文責:田村