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今週の1枚(2012/04/16)



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Essay 563 :価値観とは納得とこだわりであること

  〜「うつ」をめぐる風景(11)
 写真は、Marrickville。どってことない普通の街の風景なんだけど、郵便局の赤と黄色が鮮やかなので。
 オーストラリアは空気が乾燥して陽射しが強いせいか、日本の風景に比べると、視界が異様にクッキリし、色彩がとても鮮烈です。以前日本帰省記でも書いたけど、「水蒸気の国」である日本の風景、あの優しく、しっとりボヤヤンとした風景も味があるのですが、こちらはこちらで目が覚めるような色彩もいいものです。この写真も、別に色調調整などで強調しているわけではなく、普通にこう見えます。
 ちなみに黄色い郵便ポストは速達用のポストです。



 毎度お馴染みの冒頭の注意書きですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策してます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。



(前回からの続き)
 幾つかの修正原理

 一般論で言えば--
 人は過去の経験の奴隷だから、ある方向の体験をするとその方向の価値観に染まりやすい。旧来型社会経験が豊富な上の世代は、仕事を基軸にした人生の組立て発想に馴染みやすく、仕事がアテにならなくなった昨今の社会環境に馴染んでいる若い世代は、それとは別の(例えば)自分なりの価値観を基軸にした人生の組立てという発想に馴染みやすい。ここに旧態依然たる上の世代 VS それと異なる下の世代という世代論・ジェネレーションギャップが出てくる。他方、仕事を基軸にする生き方と、オリジナルな価値観を基軸にする生き方とでは、およそ原理原則が違うのだから、水と油のようにその接点は少ない。

 しかし、こういった一般論を金科玉条のごとく鵜呑みにするのはいかがなものか?本当のところはもっと別にあるのではないかというという気もします。世代論においても、上の世代が常に保守的と決まったものではないだろう。また水と油のように違う二つの発想も、見た目ほど違っているわけではないんじゃないか?そこで幾つかの修正原理を述べておきます。

世代よりも性格

 今の日本社会においては、上の世代でもバリバリ革命的な発想&行動をし続ける人もいるし、下の世代でもいちいち保守的に、事なかれ的に、日和見的に動く人もいます。こういったことは、世代的な特徴あるだろうが、同時に個々人の性格・個性の方も強く影響しているように思います。

 では、その性格特性とはどういうものか?
 思うに、経験が増えるほど自由になっていく人と、経験が増えるほど固まっていく人がいるのではなかろうか。ある経験Aをします。それと似た経験A’をします。「ふむ、どうやらAらしい」と思うのですが、時折それとは全然パターンの違うBという経験も入ってくる。ここで、単にBを「それは例外」といってカッコに括ってしまうか、「Aもあるし、Bもあるんだ」と広がりを持たせて認識するかです。いわゆるステレオタイプなどもそうです。例えば「公務員は固いタイプの人」「体育会系は脳味噌が筋肉で出来ている」というステレオタイプがあり、確かにそういう人もいるんだけど、全然そうではない人もいます。この現実世界で、何もかも一色に塗りつぶされることはないでしょうが、それでもステレオタイプをなお堅持する人と、逆に「あんま関係ないかも」とステレオタイプが薄らぐ人がいます。

 これは、言っていれば帰納→演繹という認識論なんだけど、認識論というクールで知性的な作業を行っているように見えながらも、そのベースにあるのは、「そうあって欲しい」「そういう方が好き」という情念的な好き嫌いではないかと思います。世の中何でもアリという自由な状態をナチュラルに好ましく感じる人と、逆にそれを不安に思い、何か一つの型にはまっていてくれた方が安心する人。煎じ詰めれば自由が好きか、安定が好きかってことなのでしょうか。人間どっちも好きなんだけど、さらにその中でもどちらにハカリが傾いているか。

 さらに、何故そう思うのか、思いたいのか?と掘り下げていくことも出来るのですが、本題から外れるので割愛します。ここではそういう好き嫌いがベースにあるということです。これは好き嫌いですから世代に関係ないです。「そーゆー人」かどうかです。甘党・辛党が世代に関係なく平均的に散らばっているように、こんなのは世代論ではない。

 もともとが安定志向の人は、過去の経験をより所にして一つのパターンに収斂させていく世界観を好むのに対し、もともとが自由志向の人は、変ることに快感を感じ、変化を求める。上の世代&安定志向の人はわりと旧来型の発想に馴染み、いわゆる典型的な世代論的なパターンにはまりやすいと思いますが、上の世代&自由志向の人は、そのへんの若い世代よりも遙かに攻撃的で、イケイケだったりします。

 高度成長を体験した世代といっても、全部が全部それにどっぷり浸って、鋳型でハマったように洗脳されているわけではないでしょう。それどころか、高度成長を体験した世代だからこそ、その構造や脆さもよく知っているとも言えます。また、高度成長なんか実際的には20年どころか30年前に終っており、この30年間のビジネスシーンはポスト高度成長をいかに模索するかだったといってもいい。ビジネスシーンを展開していくためには、つねに「次はどうなるか?」を考え、予測し、先手先手で動かねばならない。保守的になってる暇はないし、保守的になったらダメになるという危機感もあるでしょう。今でも、元気のある日本企業は、一番上の世代=社長をはじめ上層部が最も革新的だったりもします。革新を通り越えて好戦的だったりもする。

 これは社風や業種にもよります。盤石たる旧来システムの上にドーンと乗って殿様商売しているような業界(電力業界とか)は、安定志向になりがちでしょう。逆に、ベンチャー系や新興産業、さらに旧来の大企業でも、規制緩和がガンガン進むとか世界市場がメインになってるとか、生き馬の目を抜くようなビジネスシーンで戦っている現場では、保守的であることは許されないでしょう。

 ということで上の世代といっても一概にこうだとは言えないでしょう。安定していることで成り立ってきた人と、変化し続けることで成り立ってきた人、そしてそれを好むか好まないかで全然違う。つまりは世代の中でももの凄い差があり、その世代”内”落差は、一般に言われている世代”間”落差よりもずっと大きいと僕は思う。

 ところで、大学生の就職ランキングなどを見てますと、学生側が安定第一的に人気が集まるのに対し、ビジネス現場の第一線にいる上の世代が勧める企業はそれとは全く違っており、一種の逆転現象があって面白いです。これだけ見てれば若い世代の方が安定志向が強く、上の世代の方が逆に自由志向が強そうだけど、必ずしもこれも正しくはないでしょう。なぜかといえば、上の世代の回答者は、経済評論家とか企業の第一線にいる人々など、マスコミに発言できる(マスコミが取材をする)ポジションにある人々で、意識が先進的なのも頷けます。一方若い世代の回答者は純粋にランダムに「普通の人」だから、これはズレて当たり前って気もします。比較するなら、若い世代&自由志向という最強の組み合わせの人々だって一個軍団や二個師団くらいはいるだろうから彼らからアンケートを採るべきなんでしょうね。しかし、まあ、そういう連中はそもそも普通に就活してなかったり、日本にいなかったり、とかくアンケートを採りにくい場所にいるんじゃないかって気もしますね。

 以上は、世代よりも性格要素の方が大きいんじゃないかってことでした。

結局やることは同じであること

 次に、仕事説 VS 価値観説は、抽象的には水と油かも知れないけど、実際にはそれほど違わないという話をします。

 まずオリジナルな価値観を基軸に人生を組立てよう!といっても、何らかの形で衣食住を整えないと生命維持が出来ないことに変りはないし、仕事説といっても、経済的に成り立ちさえすれば生きる喜びなどゼロでもいいなんて人などいるわけがないです。誰もがそれなりに経済(お金)を手に入れる必要があるし、誰もがそれなりに人生の喜びを欲している。そういう大原則においては、まったく何の差もないです。

 ただし、視点や目的、組立て原理が全然違う。食事に例えれば、ダイエットや糖尿病の食餌療法によってカロリー計算を元に料理を作るのと、恋人や友人に振る舞うために料理を作る差のようなものです。どちらも材料を調達して、調理をするというプロセスは同じだし、美味しいに越したことはない。やることは一緒なんだけど、組立てる原理や視点が違う。

 自分だけの価値観を頼りに人生を組立てようとする場合、従来型の仕事中心のスキルが全く無用か?というと、そんなことはないです。むしろ、従来型以上にそのスキルが必要とされるでしょう。

 早い話がお金です。自分の好きなように生きるのは、従来的に普通に生きるよりもお金がかかったりする場合もあります。例えば、エベレスト登頂なんぞに取り憑かれたら、莫大な資金がかかります。一人頭2000万円だっけな?そのくらいかかるとか読んだことがあります。必死でスポンサー探しをやりますが、自己資金だって馬鹿にならない額がいる。また、会社勤めでそんなことをやるのだから、登る度にクビ覚悟、転職覚悟になります。だから普通の人以上に転職や就活が上手で、世渡り上手な方がいい。社会常識や言葉遣いなどがエキセントリックであればあるほど就職が難しくなるし、お金も稼ぎにくくなる。そうなると本来の山登りもままならなくなる。つまり、「自分の道」を進もうと思うほど、普通の人以上の社会スキル、従来型のスキルをもっていた方が良いということになります。

 自分がやりたいと思う道がそのまま生計につながっていく場合(自分の趣味世界や価値観を基軸にしてお金を稼ごうとするなど)、それはそれは優れたビジネスセンスが必要でしょう。一般の会社勤めの人と同等かそれ以上の努力も知識も創意工夫も必要になる。

 例えば、自分でこだわり倒して作ったオーガニック野菜をネット通販で売ろうと思ったら、それなりのWEBサイトを作らないとならない。WEB製作会社に依頼するにしても、ちょっとマトモなものを作ろうと思ったら初動だけでも数十万円かかる。高いようだけど向うだってそれで生計を立てているのだかしね。そんなお金がないなら自分で勉強してサイトを作らないとならないけど、これが大変。タグ文法も年々複雑になってきているし、ブラウザによって表示が変るし。次にドメイン取ったり、サーバー選びがくる。商業利用可サイトで、出来のいいショッピングカートのCGIを動かせ、クレジット決済がしやいすところ。楽天などに出店するにしても、最低限の基礎知識はいるでしょう。SEOで検索エンジンで上位に上がるノウハウも必要です、、なんてやってたら、ほんと野菜なんか作ってるヒマがないのだ。今回のように放射能懸念が出てきたらセシウムを自分らで測るにはどうしたらいいか?という問題も出てきますしね。だから普通に会社勤めするよりも単純な労働時間でいえば長くなると思いますよ。

 「自分のお店を持つ」のも夢だったりするけど、これだって大変です。良さげな物件の選定のためには、マーケティングの基礎の商圏知識もいるだろうし、店舗の賃貸契約もいる。やれ権利金や敷金やで初期費用もかかる。さらに内装工事も費用がかかる。相場を知らなければ交渉も出来ないし、妙にケチって全体にチープ感が漂ってる店になったら結局大損だし。銀行から借り入れを起こすにしても、これまでの職歴が問われるし、保証人も立てねばならない。新装開店になればチラシを撒いたりするけど、そのデザインをどうするか。店の中のアレンジをどうするか。従業員を雇えば、給料分支払えば良いのではなく、源泉徴収だの失業保険だの年金だの労災だので給料と同額くらいの費用が出ていく。使えない人材を雇ってしまい、ミス連発の挙句大事なお得意先を失ったりして頭を抱えたりもする。

 大体自営業というのは軌道にのるまで3年、つまり初動の3年間は赤字で当たり前と言われます。「最初の3年」というのはよく言われていて、海外移住も「最初の3年間は地獄」とか言われたし。この3年間をクリアするためには並大抵ではないストレス耐性がいるし、土俵際で堪えきる魔術のような経営戦略もいる。やっとこさ軌道に乗ったら乗ったで、今度は追われる立場になり、激安ダンピング攻勢を仕掛けられたりするし、大手が参入してきて金にモノを言わせた潰し攻勢を受けたりもする。時代は刻々と変るし、商業トレンドも変るのだけど、過去の成功体験に縛られてそれに対応できないとジリ貧になる。絶えず勉強して、直感を磨いて、「これでいいのか?」と自問自答し続け、試行錯誤し続けなければならない。

 僕も自営みたいなことやってるから分かるのですが、本当に何でも出来ないとならないのですよね。守備範囲=全部。「それは私の担当ではありません」ということは一切言えない。本業のスキルは当然のことながら、帳簿の付け方や確定申告、減価償却の計算方法も知らないとならない。海外ではこれらを全部英語でやるわけです。僕もやりましたし、やってます。「で、でぷれしえいしょん?なんじゃそら?=depreciation/減価償却」の世界。車の整備、家の修理、買い出し、料理、なんでもです。さらに、老若男女・全国各地から人が来るから、どんな人ともある程度話題が合って楽しくお話が出来ないとならない。釧路出身の18歳のパソコン少年、38歳の岐阜出身の子供一人のママさん、宮崎出身の64歳のリタイアした元公務員、誰とでも楽しくお付き合いできないとならない。「○○っていえば〜」という全国各地のご当地話は当然レベルで、あらゆる職業についての基礎知識もいるでしょう。この手のスキルは営業職や客商売には必須でしょう。一人で何でもやるということは、自分が優秀な社長であると同時に、WEBデザイナーであり、会計士であり、営業マンであり、人事管理者であり、運転手、コック、庭師、清掃者、そして優秀なパシリである必要がある。

 ということで、仕事に自分の人生を乗っけるような場合、旧来型の仕事人生と同じかそれ以上のビジネススキル、生活スキルが必要だということです。出来ないと絶対ダメということはないけど、出来れば出来るほど有利であるのは動かしがたいところだと思います。

 だからあんまり変らないのですよね。全く原理原則が違う生き方であろうとも、現実にやってることは結構似通っているのです。ダイエット目的で調理しようが、パーティ目的で作ろうが、「水は百度で沸騰する」ことに変りはないのだ。

 ということで、自分の夢を叶えようと思えば、それも本当の本気に叶えようと思えば、もう何でも勉強しろ!体験しろ!です。不要な知識など一つもない。あれもこれもやっているうちに、気がついたら従来型の一般的な仕事スキルがすっぽり入るようになるのです。やらなくてもいいのは、社内派閥の遊泳方法とか、嫌な上司との付き合い方くらいだけど、しかし、嫌な客との付き合い方に比べたら上司なんか一般にチョロいもんです。上司だって普通は上手くやっていこうと思うから、丁寧にやっていけばどっかに接点はあるけど、客は上手くやろうなんて思ってないもんね。

 逆に言えば、いま確たる自分の価値観世界も持てぬまま、ただ何となく会社勤めをしてようが、バイト暮らしにいそしもうが、そこで日々やっていることは、必ずや何らかの形で後日の役に立つということです。いよいよ自分の人生基軸が決まって、船出をしたら、全く関係なさそうな、とんでもない知識や経験が思わぬところで役に立ったりします。これ、本当にそうですよ。

 だから、今の時点で「自分だけの価値観って言われても、、、」と焦る必要は全くないと思いますね。分からなかったら普通に一生懸命やってりゃいいだけです。対象がなんであれ、ちゃんと取り組めばちゃんと学ぶものはあります。ただ、手順が多少前後してるだけです。インスタントラーメンを作るときに、普通は麺が茹で上がってから粉末スープを鍋に入れろと書いてあったりするけど、最初から麺と一緒にスープを入れて煮込んだり、あるいは丼の中に粉末スープを入れておき、茹で上がった麺とお湯を入れてかきまぜるかの違いのようなものです。

 余談ですが、銘柄によっても違うのでしょうが、僕はこの3種の方法を適当に使い分けてます。使い分けるというか気分一つなんだけど、例えば具を沢山入れたので、規定の水分量だけでは足りずに上手く煮込めない場合には、水多めで茹でて、丼に粉末スープを入れておく。鍋からお湯をちょっと入れてかきまぜ、さらに具や麺だけを入れ、適量になるまでお湯を入れ、あまったお湯は捨てるようにしてます。水多めなのに鍋にスープを入れたら味が薄くなっちゃいますからね。

 でも、くどいようだけど、あれをやろうが、これをやろうが、全部ちゃんとダシが出て、役に立ちますって。僕だって日本の弁護士業とオーストラリアでのAPLaCなんか全く接点がないように見えて、実は接点だらけです。弁護士時代に培ったスキルや知識で不要なものは、純粋な法律知識くらいです。ここで「じゃ全部じゃん!」と思う人は社会修行が足りないです。専門職における専門知識なんぞ、全労働量のうちの数%、いいとこ30%程度でしょ?裁量が広くなればなるほどそうです。僕の場合は弁護士時代のノウハウの90%以上が今の仕事にも使えています。

 例えば弁護士業務では「事件のスジの読み方」が大事です。「これは一見経営問題に見えて、その本質は嫁姑の問題だ」とか、そのスジを読むのがとても大事。これは経験を積んで洞察力を磨くしかないんだけど、これだって、今留学相談をする場合に役に立ちまくってます。本当に留学することがあなたの人生の突破口になるのか?という観点で実のあるお話ができるしね。それは英語の問題ではなく、すぐに逃げ腰になるメンタルの問題であり、問題のすり替えをし続けている限り真の解決はあり得ない、とかさ。他にも文章作成能力、プレゼン能力、対人能力、ビジネス一般の原理やノウハウ、対役所との付き合い方、喧嘩の仕方、そして何とも形容のできない知能パズルのような「問題解決能力」。
 

じゃあ何が違うの?

 このように「やってることは同じ」であったとしても、しかし、視点や原理が違ったら、やっぱり全然違います。
 では、何がどう違うか?
 一言でいえば「納得」感が違うのだと思います。

 人間というのは、今やってることに意味が感じられないとツラいです。やってることに心から納得できないと、「なんのために、、」という気分になり、やってられなくなる。受験勉強はツラいけど、趣味の勉強(とすら思わないが)は全然苦痛ではない。

 いろいろな表現がありますが、幸福とは何か?それは「納得である」という言い方も出来ると思います。
 やってることに意味が感じられ、納得が得られたら、大抵のことは出来る。納得あるところにストレスなし、です。
 さらに別の言い方をすれば、ストレスとは何か?納得できないことをすることである、と。

 従来の仕事基準説に対する価値観基準説は、基軸にこの「納得」を置いています。仕事説は、「正業に就いている」「世間に後ろ指をさされない」という「外形的完成」を一つの目標にしますが、価値観説は、外形よりもまず自分の納得をベースに据える。ある意味では大変な方法論だけど、しかし別の意味ではとっても楽な方法論でもあります。中心に納得を据えているので、容易に幸福に到達しやすいからです。

 弁護士を含め自営業はなかなか過労死しないと言われます。でもやってる内容は、普通の会社勤めの仕事よりも量的・質的にハードだったりします。宮仕えも勿論大変なんだけど、でも社長業になると金策に走り回り、ちょっと資金ショートを起こしただけでいきなり不渡り、夜逃げ、破産です。営々と十数年築き上げてきた自分の人生の集大成ともいえるような会社が、毎週末、毎月末に終焉を迎えようとする。資金繰りに窮してマチ金に手を出せば恐いお兄さん達に追いかけ回され、大手取引先からは下請けイジメを受け、、、という日々です。これは程度の差こそあれ、町工場であろうが、ベンチャーだろうが、自営の医者(開業医)であろうが、弁護士であろうが本質は同じです。もしかして来月には路頭に迷ってるかも、死刑執行されるかも、という日々ですからね〜。「板子一枚下は地獄」と言いますが、ほんとそうで、自由とは何か?といえば、地獄を見ながら毎日暮らすことである、と。自由と不安は表裏一体。自由の陰に常に不安ありです。

 しかし、死なない。少なくともストレスでは死なない。死ににくい。そんな地獄を見ながらもなぜ死なない?といえば、やっぱり根底に「納得」があるからだと思います。なんでそんな苦労をするのか?といえば、○○だからだ、という原因がわかりやすいし、それを敢えてやっているというメカニズムも明瞭に分かる。○○をすれば儲かるんだけど、だけど顧客を騙すようなことだけはしたくないという部分で自分色を出して突っ張ってるから経営が苦しいとか、調子に乗って甘い目論見をたてた自分が悪いとか、納得しやすいのですよ。

 以前、○○カメラなどの量販店でデジカメ売ってる人と話したことがあるけど、内部情報で新製品が出るのを知っている。機能も値段も全然お得。それだけに型遅れになる在庫を売らねばならない。店長のハッパが掛かる。「これがオススメですよ」といって売らねばならない。どっかのスケベオヤジが「はっはっは、なんでも買うたるがな」とか若い愛人にいいカッコしてるような客だったら売れるけど、お年玉握りしめて必死に選んでいる子供には売りつけたくはない。「来月まで待てば〜」と言いたくなる。でも言えない。売る。ああ、心が痛い。

 ここで、お年玉小学生に売りつけて儲かるのと、それは出来ないといって在庫の山を抱えて経営がしんどくなるのと、さあ、あなただったらどっちを取る?そこで子供には売らないという選択肢を選んだ帰結として経営がしんどくなっているのであれば、そこには「納得」があります。この納得にもとづくストレスはまだ耐えられる。しかし、子供に売りつけ続けるようなストレスは耐えにくい。心の何かを殺さないとならない。自分が自分でなくなっていくような恐さがある。壊れていく。

 だから、納得を基軸に置く価値観的な方法論の方が、ハッピーになりやすいし、ストレス耐性も高い(というかストレス度が低い)。ゆえにあんまり死なない、ということだと思います。

「納得」の意味

 ところで「納得」を基準に据えろといいつつも、その納得の「質」が大事です。

 しんどいからヤダとか、カッコ悪いからやりたくないとか、そういうレベルでの納得は、ここでいう「納得」に入らない。納得というのはギリギリの価値観です。もう生きるか死ぬかレベルの価値観。ここで折れたら、それはもう自分じゃないよねというくらいのもの。隠れキリシタンが踏み絵をつきつけられ、あえて踏まずに死刑を選ぶというレベルでの納得であり、価値観です。それがあるか/ないか、そこまで腹を括っているか/いないか。

 前回も書いたけど、価値観基軸説と、そのへんのヘタレ連中とは、外形的には非常によく似てるのですね。「自分らしい仕事」「本当にやりがいのある」とかそれ自体は正論なんだけど、でも悪用されがち。ヘタレの言い訳や正当化に使いやすい。そんなことが語られる場面の9割以上が実はこの悪用かもしれないです。

 でも、しんどそうとか、給料が良さそうとか、そんなことは仕事選びの基準にはならない。少なくともその仕事に自分の価値観を乗っけようとする場面に言うようなことではない。とくに「しんどい/楽」というのは「結果」であって基準にはならない。そんなことを基準にモノ考えてる奴は、これはもうかなりの確率で断言できると思うのだけど、人生失敗しまっせ〜。「失敗」って何がそうなのか曖昧だけど、まあ、今言ってる「納得」は得られにくいやろな、あかんのとちゃう?だって、納得できたら、ハッピーだったら、そもそも「しんどく」感じないんだもん。客観的にしんどい/楽というのがあるんじゃなくて、同じ事をやってもしんどく(辛く)感じられるか、楽しく感じられるかですわ。延々10キロ歩かされた遠足を楽しいと感じるか、しんどいだけだと感じるかです。

 だから、しんどいか楽かというのは、究極的には主観の問題でしょう。そして数回前に述べたように「主観の世界は魔法の世界」だから、その主観を規定するサムシングを持っているか持ってないかが結局は決め手になる。やりたいことをやってるときは、しんどくない。いや、しんどいかもしれないけど、でも楽しい。辛いかも知れないけど、止めようとは思わない。どんな客観的苦痛も主観的快楽に換えてしまう、まるでSMみたいな魔法が主観世界であり、価値観でしょう?その価値観を基準にしようという人間が、「しんどさ」なんぞを理由を物事を選ぶわけがないです。

 しんどさが問題になるのは、やりたくないことをやってる場合の話でしょう。そして「やりたくないことをやっている」という時点で、@本来の目的は別にありここでは単に金稼ぎと割り切っているか、A価値観基準説を放棄しているか、そのどちらかです。したがって、「自分なりの生き方に合わない」とか言いつつ、「しんどさ」が理由に出てくるというのは本質的にありえない。

 そして価値観基準は諦めて、おとなしく従来の仕事基準説に則って生きていくにしても、そこでもやっぱり「しんどい」なんてことは理由にも基準にもならない。仕事基準説は、外形(世間体)標準説であり、早い話が世間に対してカッコつけられるかどうかです。カッコつけるためにはどんなことでもしろ!の世界ですから、イージーかどうかなんて選択基準にもならないし、結果評価の要素にもならない。カッコつけるのも楽じゃないです。

 一方、将来的に納得のいく人生を打ち立てようとする場合、どんな体験、どんな知識も栄養になります。無駄にならない。てか、それらを無駄にするような奴に自分なりの人生なんか作れっこないです。例えば、先ほどのカメラ屋で半ば騙しみたいに売りつける体験だって、そういうことをさせられると人はどう感じるのか?ということを肌身で感じるいい経験になる。将来自分が起業して、優秀なスタッフを集めようと思ったら、彼らに仕事にやり甲斐を感じさせるようなシステムを作ることになるし、どうすればやり甲斐を感じるか?とセンスが大事になる。そしてそれを学ぶには、自分がやってみるのが一番分かる。だからその種の経験は無駄にならないし、最大の学習機会とも言える。それをみすみす無駄にしているような人に、創意工夫溢れる新生活など築けるべくもない。

 ということで「納得」が大事といっても、究極的な価値基準としての「納得」は、隠れ切支丹レベルの根性が必要です。一方、手段や勉強としての局面だったら「大抵のことは納得しろ」ということになると思います。特にやりたいことが分からないのだったら、探すべしだし、探すにあたっては選り好みしてはいけない。「食わず嫌いとの戦い」と前回書いたけど、大体において宝石的なものは、真っ先に見放した不毛の荒野(らしく見えている)ところに転がったりしているものですからね。親友でも配偶者でもフェバリットな趣味でもなんでも、「最初はすごい嫌いだったんだけど」ってところから始まる場合が多いです。本質的で大きな好き嫌いを極めるためには、表面的で目先の好き嫌いなんぞゴリゴリ無視です。本気でやる気あるなら、そうすべきじゃないかしら。

あなたは誰? WHO ARE YOU? WHAT ARE YOU?

 ところで、自分の価値観とか基軸とかいっても、中々分かりにくいですよね。そこで、一つのとっかかりになりそうな方法を書きます。これで全てが上手くいくとは言わないけど、ヒントにはなろうし、考え方や発想を馴染ませていくいいステップにはなるでしょう。

 特に、このHP関連でいえば、オーストラリアや海外に留学やワーホリで行く場合。
 こちらに来て履歴書を書いたり、あるいはカジュアルに自己紹介するときに、「あなたはだあれ?」「何をしてるの?」と聞かれます。ここはちゃんと考えておくといいですよ。

 そのときに「フリーター」とか「サラリーマン」という言い方はしません。てか、こっちにはそういう概念が無い。フリーターは言わばカジュアル・ワーカーになるんだろうけど、そんな自己表現をする人はいないんじゃないかな?こっちで「何をしている?」というのは、必ずしも職業である必要はないです。また職業であったとしてもそれで生計が立ってなくてもいい。例えば、「売れない作家」「売れないミュージシャン」なんかは”売れない”んだから生計は立ってないけど、それでも作家とかギタリストとか言うでしょ?それと同じことです。仕事面で答えたかったから、これまでやってきた仕事で一番楽しかった仕事、しっくりきた仕事を言えばいい。それは派遣だろうが、バイトだろうが、そんな区分けはこちらにはない。なんせ社長だって株主総会で選ばれ、実績が悪かったら次の総会でクビになるんだから、非正規雇用というか、不安定な職の最たるものなのだ。また「こちら」とか海外とかそんなこと抜きに、人類共通の発想として「生計を立てるのに最も気に入ってるやりかた」「自分の人生を表わすのに最も適した表現」を言えばいいと思います。

 ずっと昔にギター雑誌に掲載されていた「中山加奈子のギター講座」(元プリンセス・プリンセスのギタリストで現在も活躍中)のなかに、とにかくヘタでも何でも「私はギタリストなんだという自覚を持つこと!」と書いてありました。もう、お風呂に入っているときも、バスに乗ってるときも、「私はギタリストなんだ」と思えと。「いいこと言うな〜」と思ったからこそ今でも覚えているのですが。そうなんだよね、上手いとかヘタとか、メジャーデビューしてるとかインディーズとか、売れてるとか売れてないとかそんなこと一切関係なく、「お前は誰だ?」と聞かれたら「ギタリストだ!」と答えられるように自覚せよと。

 その自覚が練習を実り多いものにするし、プレイを研ぎ澄ませる。「ギタリストがこんなパクリフレーズ弾いてたらダメだろう」「こんなものも弾けないで何がギタリストだ」と自分で思うようになるのですね。で、バスに乗ってるときも、手首を上下に動かしてカッティングの練習をするし、ヒマさえあれば左指と指の間に右手首を突っこんでストレッチをするようになる。ちなみに、この人のプレイはそんなに聴いてないですけど、ヒットした「ダイヤモンド」という曲の間にはいるカッティングソロ(単音のメロディソロではなく、コードだけのソロ)は良かったです。ボクシングでいえば、どこまでも真っ直ぐ延びるストレートがバンバン入るようなカッティングで、リズム感もさることながら、ガーン!という自己主張が本当に小気味いいです。その音こそ、まさに「私はギタリストだあ!」という響きがあって好きです。

 だから、本当にどんなものでもいいですから、「私は○○だ」という発想を徐々に身につけるといいと思います。写真が好きだったら、まだカメラを買っていなくても、「私はフォトグラファーだ」と言え!という。それは精神、それはスピリッツ、それは売れているかどうかは関係ない。冗談みたいだけど、でもほんとオージーとかそうだもんね。人づてに聞いただけど、シェアメイトのオージーがいきなり会社辞めてきて、どうするの?と聞いたら、「俺は今日からフォトグラファーだ」と言う。でもって「カメラは明日買いに行く」と。いいよね、そういう人生。そして、これがさらに嘘みたいなんだけど、それで人生成り立っていっちゃうんですよね。とにかく写真撮りまくって、自分の「作品」持って、毎日毎日数百社、あちらのビルの最上階から地下まで、次は隣のビル、、と営業を重ね、結構仕事取ってきてしまう。やってるうちに顧客がつき、成り立っていってしまう。もう強引な力業だけど、こっちではそう珍しいことでもない。オーストラリアに来たら(海外に出たら)、是非ともそういう生き方に触れてください。人生観変るで。

 でもって、職業である必要もないのですよ。
 シュリーマンがトロイ遺跡を発掘しました。彼の人類史的業績はまさにそれなんだけど、彼の「職業」は?と言われるとよう分からん。調べてみるとこれが面白く、家が貧しく学業途中で食品会社の徒弟に。貧乏生活に嫌気がさしてベネズエラに移住をしようとするが、船が難破(-.-)。オランダ領の島に漂着し、そこでオランダの貿易商社に入社。以後、ロシアに進出して(南米じゃなかったんかい?!)商社を設立、ロシア国籍までゲット。ゴールドラッシュのカリフォルニアに商社を設立し、クリミア戦争では武器を密輸して富豪になる、、ということで、辣腕の商社ビジネスマンというか、密輸業者であり、死の商人だったりするのです。業績から遡って「考古学者」と言われますが、当時は考古学という学問すらなかったといいます。だから巨万の富を得てから発掘道楽に耽溺した、、というのが実態に近いです。落語の「寝床」みたいなものでしょう。今となっては「ロマンの人」みたいな言われ方をしますけど、実際はそんなもんです。

 人生のテーマや趣味が仕事と一致する必要はない。というか、そんな幸運な例は少ない。だから、それでメシが食えているかどうかを度外視し、さらに職業であるかどうかにも囚われず、「私は○○」と言えるものを考えておくといいです。「何をしているの?」は「何をしようとしているの?」という問いでもあり、「どういう生き方をしていきたいの?」という問いでもあります。そして、「今それを考えているのさ」という答えもアリです。これまでの考えの経過を話せばいい。あるいは、「ドリーマー」という言い方もアリです。

 それがすなわち、価値観でしょう?

 さらにいえば、名前が付けられないモノだってアリです。
 大体僕が今やってることも、「エージェント」と括られてしまうと多少心外に思ったりもします。それだけじゃないぞというか、そんなのは本質じゃないぞと。じゃあ何なの?といわれると、言えない。てか、これに当てはまる言葉が人類社会にはまだ無い。結局、オノレのワガママを貫いていき、オリジナル度が高くなればなるほど、既成の用語では当てはまらなくなるとも言えます。

 究極的にいえば、スーパーマンとかバットマンみたいに、それって名前なの?職業なの?という。名前=仕事みたいなところにいくのでしょうねえ。「北斗神拳伝承者」とかさ、あれって「職業」なのかな。だからなんだかワケわかんないものでもいいんですよ、「俺はコレだあ!」という、「だあ!」の部分に力が入るような感じ、まずはその「感じ」を掴みましょう。

 これまでの流れに合わせていえば、「私は○○です」というのは「私は○○で納得する(したい)人」という具合にも言い換えられると思います。他人が喜んでくれる、笑ってくれるかどうかという点で納得したい人ですとか。旨いメシを作るかどうかで納得したいとか。

 これ、さらに裏から分かりやすく変換翻訳すれば、「○○だけは妥協したくない人です」という言い方も出来ますよね。この方がとっつきやすいかもしれません。食には妥協したくないとか、子育てだけはちゃんとしたいとか、聴いてる音楽だけは自信があるとか、お客さんに絶対損はさせたくないとか、睡眠時間と枕の質だけは譲れないとか、散歩のやり方には一家言あるとか、墓参りだけはおろそかにしたくないとか、自分の生活に関しては出来るだけ「嘘」を減らしたいとか、人生の偶然性を楽しめるような人になりたいとか、、、いっくらでもあると思います。

 でも、別に「私は○○だ」と「言えなければならない」というものでもないですよ。ただそういう「とっかかり」もあるよ、という話でした。価値観って要するに「好き嫌い」「こだわり」だから、これが無い人間なんかおよそ居ないでしょう。誰だってある。それを自覚するかどうかです。どーでもいいような些細なこだわりを一つ一つ見つけていくと、段々なんとなく形になっていくし、方向性も見えてくると思います。

 とかなんとか書いてたらまた書き残してしまった。そろそろ終ろうと思ってたのだけど。続きます。




文責:田村



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