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今週の1枚(2012/03/26)



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Essay 560 :社会シンクロから世界シンクロへ

  〜「うつ」をめぐる風景(8)
 写真は、Eastwoodのショップ。
 ごらんのように日本の製品が所狭しとずらーと並べられていました。これは中々興味深い「現場」です。オーストラリアにもダイソーがやってきて営業してますが、ここはダイソーでも何でもなく、おそらく日本人でもこの店を知ってる人は殆ど居ないだろうと思われるような店です。イーストウッドでもひときわ目立たない、僕ですら「あれ?こんなところに?」で入って、しかも体育館のように広くて閑散とした売り場の一列がそうなってました。
 そして商品を見ると、日本のものをそのまま持ってきただけの物も多い。多少英語で解説してある商品もあるけど、日本語オンリーも多い(クリックすると大きくなります)。これって僕らからしたらアラビア語やタイ語で書かれているようなものなんだけど、そのまま売ってるところが凄い。多分、海外で生産して日本に逆輸入しているような物を、そのままオーストラリアに持ってきているだけって気もするのですが、でもこれだけ並べているってことは売れているのでしょう。
 前々回あたりかに、「日本のモノを右から左に持って行くだけで売れるよ」と書いたのですが、そのまんまの光景です。オーストラリアの、こんな地味な町な地味な店の地味な一角に普通に売られているということは、世界のどこにいってもそこそこは売れると言うことでしょ。



 延々続いている「うつ」をめぐる風景です。
 いつもいつも同じ注意書きで恐縮ですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策するに留めます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。

 前回は、病気や異常と「個性」の違いが、思っているほど一義明瞭ではない、という話をしました。さらに続けて書きます。いや〜、このシリーズもかなりチンタラやってますね。終着駅が見えているわけでもないので、自分で書きながら自分で「おう、なるほど」とかやってますので。まあ、お気楽におつきあいくださいませ。

レトリックの遊び

 それが異常であるか正常であるか、健康であるか病気であるかは、所属社会の多数決で決まる(場合もママある)という話をしました。特定の身体的特徴や、反応、あるいは精神傾向がその社会のマジョリティに共通してみられる場合には「普通」と言われ、レアだったら「ちょっとヘン」と扱われ、場合によっては異常ないし病気扱いされることもある。

 さて、ここで論理の遊びのようなことをしますが、今の日本に沈滞ムードが漂っていて、誰も彼もがユーウツな気分で生きているのだとしたら、ごく軽微な「うつ」であることはマジョリティになるはずです。だとしたら、いちいち改まって、こんなに「うつ」がどうしたとか騒がないのではないか?という。

 言ってること分かります?極端な話、国民全員が「うつ」になってしまえば、それはもう「病気」ではなく「普通」であると。そもそも差異的な認知もされないだろうから(差異がないんだから)、話題にも意識にも上らないのではないか?ということです。今の日本で「うつ」の人が増えているという話もありますが、このまま増えて増えて増えていったら、しまいには「うつ」はなくなってしまうと。あれ?なんかヘンだよね、ということです。

 考えるのもアホらしいかもしれませんが、だからこれはレトリックの遊びです。

 ただし、「遊び」といって笑ってばかりもいられない部分も含んでいるように思われるので、そこを書きます。

結果だけ見ると異常、原因も考えると正常

 今、日本にAさんがおって、最近なんだかつまらない、気分がすぐれない、何をやってもネガティブな方向にしか考えられない、、ということでお悩みだとします。

 いわゆる世間の「うつ」論や診断というのは、その気分の沈み込み度をもって判断するのでしょう。本当にそうしているのかは専門家じゃないので分からないのですが(おそらくもっと総合的に精密に考えるのでしょうが)、乱暴に言ってしまえば、気分の沈み込み度が1メートル程度だったらまだ大丈夫で、3メートルも沈んでたらこれは問題ですみたいな。関西空港の地盤沈下みたいですね(毎年コンスタントに7センチ沈んでいるらしい)。

 ただ、ここで僕が素朴に思うのは、「なんで落ち込むの?」という原因論です。
 うつの症状として「人生 or 自分が、この先良くなるような気がしない」のであれば、なぜそう思うのか?です。客観的にヤバい状況にあれば、憂鬱な気分になるのは健康的な反応でしょう。明日自分が死刑になると決まっていたら、そりゃ誰だって落ち込むでしょうよ。近しい人が死ねば落ち込むでしょうし、フラれれば落ち込むでしょうし、試験に落ちれば辛いでしょう。イヤなことがあればイヤな気分になるのが人間であり、それが当たり前、つまり「健康」ってことではないのか?

 そういえば、昔の名作マンガ、「巨人の星」の星飛雄馬も、恋人の美奈さんが死んだ後しばらくの間は、まるで使い物にならないくらい落ち込んでたし、「あしたのジョー」の矢吹丈も、力石を死なせてしまったからはテンプルが打てなくなってドサ回りまで身を落としていましたよね。僕はリアルタイムに読んでたのですが、この鬱々たる暗い時期が数ヶ月も続くのですよね。あれ、今から思えばいい「予防注射」になったような気がします。「人生そーゆーこともあるよ」「このくらいの期間続くよ」という。今のマンガは、マーケティング的な要請もあるのか、テンポが良すぎて、ドヨヨン時代が半年も続くような展開をやってたら連載を打ち切られてしまうのかな。でも、ダメダメ感覚に慣れること、そしてその時間感覚に慣れるのは、これはこれで大事な情操教育のような気がします。

 ということで、単にその時点の気分の沈降度を測って、「うつ」だの何だの言うのは、いわゆる「木を見て森を見ない」感じにも思えるのです(もちろん専門診断はそんな大雑把ではないと思うが)。

 いや、そういうのは原因がハッキリしてるから「うつ」というのとは違うのだ、「うつ」というのは理由がよく分からないのに何故か気分が沈む状態を言うのだ、という指摘もあるでしょう。それはそうだと思うのですが、しかし、この原因論って結構難しいと思うのですよ。

 まず診断過程において、本人が正直に言うとは限らないという問題があります。本人は原因に心当たりがあるだけど、絶対にそれを明かさない。例えば、これも極端な例だけど、実はひそかに完全犯罪を実行していてアリバイ工作も完璧さと思って、皆と楽しく酒を飲んでたら、なんかの拍子に致命的なミスを犯していることに気づいてしまった!いきなり黙りこくってしまうとか。「おい、どうしたんだよ?」「いや、なんでもない、、ちょっと気分が悪いから先に失礼するよ」「あいつ最近ちょっとヘンだよな」「「うつ」なのかもな」みたいなことってあるかもしれないでしょ。犯罪はともかくとして、仕事のことで、「あ!」と途方もないミスに気づいて、暗くなってしまうということは僕もありました。試験が終った後、出来たと思っていた問題が実は間違いだったときに気づいたときとか。他にも密かに浮気しているとか、他人には言いにくいこともあるとは思うのですよ。だから原因究明といっても、常に本人が協力するとは限らない。これは、まあ、カウンセリング一般に通じる問題ですけど(法律相談もそう)。

 また、原因はこの上なくハッキリしているのだけど(愛する人との死別とか)、そのショックで病的にふさぎ込んでしまうという場合もあるでしょう。この場合、Aという原因の場合、1メートル沈むのは正常だけど、3メートル沈むのは異常だという感じに考えるのだろうか?そんな明瞭な基準があるとも思えないし、明瞭にすれば良いとも思えないのだけど、ただ、原因との相関関係で考えるということはアリなんだろうなと。つまり、純粋に現状の結果だけを見るのではなく、原因も考えて、「そりゃあしょうがないよ」という感じで境界線を策定していくのだろうと。


 上に述べたのはパーソナルな原因論ですが、より本題に近いのは、原因が漠然と社会一般にある場合です。

 今の日本に普通に暮らしていて、メディアの報道やネットの情報に浴していたら、気分が明るくなる人は少ないでしょう。あらゆる点からみて、そ〜んなに輝かしい未来になりそうな気はしないし、実際にもならないだろうし。もちろん、今まであれこれ書いたように幾らでも対処方法はあり、やり方一つでギラギラ輝くのだけど、しかし、何の手も打たなかったら厳しい。そして、「手を打つ」といっても、これがまた日本人の苦手な質的ストレス(ガラリと変るストレス)満載だから、考えただけでもうんざりするという人も多いでしょう。今どき、「お〜、面白い時代になったもんじゃ、けけけ」と舌なめずりして喜んでいる僕のような人間は、多数決的にはハッキリと「異常」だと思います(自覚してるって)。だから、普通の人がゲンナリしたり、不安を感じたりするのは、きわめて正常な反応だと思います。

 だとすれば、「正常・異常の判断が社会の多数決で決まる原則」からすれば、何となく暗い気分になる方が正常であり、それは「うつ」ではないってことになりそうです。やや暗い気分の皆が普通で、「うつ」と診断されている人は普通よりもちょっと心配性な程度、逆に喜んでる僕は「躁病」だとするのが正しいポジションニングじゃないですか。


 でもそうはなっていない。それはなぜか?
 大体、躁鬱病というくらいで、躁と鬱は同じくらいの発現頻度があるとしたら(よくは知らないけど)、なんで鬱ばっかり持て囃されるのよ?躁はどうしたんだ?話題にもならないじゃないか。なんかバランス悪くない?

 何故なんだ?
 ここがツイストの掛かってる部分だと思うのです。

躁病過去の残像と、異常者を量産するホモジニアス社会

 ツイストというのは、まず第一に「過去の残像」です。
 経済成長して当たり前、一生安泰で当たり前、老後の備えもバッチリで当たり前、正社員になって当たり前、明るく朗らかでいて当たり前、、、という、今となっては過去の残像です。これって景気が良かった高度成長時代の感覚だから、ナチュラルにハイ、ちょっと躁病気味の基準だと思います。しかし、この躁的基準が未だに残っているから、話がややこしいのでしょう。基準にまで行けてない自分は、文字通り「行けてない」わけで、だから落ち込むという。ということは、病気は個人になく社会の残像にあるのではないか。アップデートし損なっている古い躁病イメージがいつまでも残って、実態がないにもかかわらず、あるかのように装っている社会そのものの問題ではないか?と。これがツイストその1です。

 ツイストその2(まだある)。
 社会の判断によって正常と異常の区別をする場合、日本のようにホモジニアス(単一的)な社会であればあるほど、その正常エリアの幅が狭く、境界線もまたクッキリしているという傾向がある点です。「普通」という領域が非常にハッキリしているから、ちょっと違っているだけでもう目立つ。そのあたりの境界線が気持ち良くボヤヤンとしている社会では「いろんな人がいるよね」という個性の問題としてゆるやかに受け止められていくけど、「普通」「正常」の型が明瞭な社会では、一般に「異物」に対するトレランス(許容性)が低い。ちょっと人と違うだけで面白がられたり、白眼視されたり、いじめられたりする。

 これは、逆に言えば、「異常者」を量産する社会でもあるでしょう。そんな何から何まで基準通りという、ミスター普通人、ミスター没個性な人が実在するわけもない。誰だってどっかしら、ちょっと「ヘン」です。で、そのヘンな部分で異常になってしまうし、他人と違う自分に悩む人も多くなるでしょう。

社会と個人のシンクロ悲劇

 そして、この部分がこれまで延々述べてきたことと大きくリンクしていきます。社会と自分の紐帯が強く、シンクロ率が高い日本では、社会が方向を見失うと、個人まで連動して方向を見失いがちです。また、自分のあり方の正常・異常の判断を社会の価値観に委ねる度合いも高い。社会そのものが成長し、幸福を増産していた時期には、みんなと一緒というみんな的な方法論に自我を託してやっていけば良かったけど、今はそうとも言えない。前回までに書いたように「みんな」の範囲がやたら地球規模に広くなったり、希薄化しているから、シンクロしにくい。

 段々見えてきたような気がするのですが、
 @、もともとホモジニアスな日本社会の場合、全体の同調圧力や社会とのシンクロ率、帰属率が高い。同時に、それに環境適応した日本人の場合、集団への帰属と承認欲求によって自らの人生や幸福を確認するという心理的フレームが出来上がっている。

 A、それは高度成長時代=「みんなと同じにやっていれば人生OKさ」という時代によってさらに強化された。

 B、ところがバブルの後の閉塞以降、社会による経済や幸福配分能力が低下してきたから、社会にシンクロしてると引きずり下ろされるという逆の事態も出てきた。

 C、その上、世界的な傾向として、中流層の崩壊など社会そのものが徐々に解体、個人単位で漂流するような孤族時代になりつつある。

 D、何とか社会にしがみつこうとしても、この社会がまた落ち目の貴族のように、往年の実力(幸福創造力)はないクセに気位だけは高く、昔のまんまの躁病スタンダードで動いているから、ついていけない人が増えて、ついていけないこと自体がまた憂鬱のタネになる。

 ということで、二重三重の重層構造になっているのでしょう。

 だからこそ、何度もしつこく同じ事を書くのですが、こういう時代には、社会と個人の結合をゆるめ、「個」を力強く起たせていくことが求められる。「ゲリラ」になって生き延びろ!という方法論が浮上してくると僕は思うのだけど、あいにくそういう文化は日本には少ない。ゲリラ〜なんて世迷い言をほざいているのは、多分僕だけではなかろうか(^_^)。まあ、表現の違いで、同じようなことは多くの人が言ってるとは思うけど。

 でも、そういう「ゲリラ文化」は、今の日本には少ない。戦国時代とか幕末だったら、槍一本で大名だ、武者修行だ、勤王の志士だとかいう文化、個人単位で動くことで人生を開くという道もあったのですけど、最近はあんまりないです。しかし、そこが弱いと、社会から切り離された個は、タンポポの種みたいにフワフワ無力に漂うだけ、みたいになりがち。

 また、戦後日本のように社会的なつながり=経済的なつながりに偏重している場合、単に仕事関係が上手くいかない「だけ」で、メンタルの危機を感じたりもする。でも、仕事なんか全人生に占める比率でいえば20%くらいでしょう?1日8時間働くとしても24時間の3分の1に過ぎず、また生まれてから死ぬまで全部働いているわけではないのだから、いいとこ20%ですわ。だから人生の80%は仕事以外の自分であり、本来それをこそ充実させるべきであり、仕事なんか暇なときに適当にやっときゃいいんだけど、中々そうも考えられない。

 ちなみにお受験から始まる「お勉強」方法論、頑張ってお勉強していい大学入って〜という方法論は、明治時代の方法論、言わば「坂の上の雲」の方法論だと僕は思う。つまりは発展途上国のやり方です。発展途上国というのは、まだまだ伸びしろがデカく、社会がいくらでも発展していくわけで、人材は幾らでも欲しく、慢性人手不足の社会です。だからある程度勉強したら右から左に就職できた。どうかしたら全然勉強してなくても職くらいあった。しかも、どんどんパイがデカくなるから同じ所にずっと居ればエラくもなれた。今はその逆の縮小社会だから、同じやり方を通すのは、どう考えても無理があるでしょう。めでたく就職できたところで、上がつかえて頭打ち。

 こんなことは80年代から既に言われていたことで、30年遅れで焦っても「何を今更」です。プラスアルファが必要です。それは何かというと、積み上げてきた専門技術と同時に、それに質量共に匹敵する野放図な人間力や強烈な個性であり、それを実践してきた経験力でしょう。幸福や成功などの「ゴール」を自前で構築できるだけの強力な価値観です。それをさらに分解すれば、、、って、、余談が過ぎるので割愛します。また書きます(多分次回くらいで)。

グローバリズムと各国の「異常」性

 思うにグローバリズムというのは、単に経済活動が地球規模になるだけではなく、各国家や社会、個々人のあり方や価値判断、正常・異常の判断についても、グローバル的に揺さぶられているように思います。

 これは日本のみならず、世界的にそうです。
 例えば、それまでガチガチの宗教戒律や独裁政治が当たり前だったのが、世界の情報が普通に入ってくると、「俺らってヘンなことしてるんじゃないか?」という気分にもなり、それまで正しかったこと(独裁者を賛美することとか)が段々そうも思えなくなったりもする。

 つまりそれまで同一民族・社会内の多数決で正常・異常を決めていたのが、世界・人類規模の多数決にシフトしていくということです。「日本の常識、世界の非常識」とかいいますが、こんなのは何処の国でもそうで、「リビアの常識、世界の非常識」だったりするわけです。人類規模の巨大な多数決でみれば、どの国だってどっかしら異常。

 人類レベルの基準でいえば、日本などすっぽりそのままヒキコモリだし、日本自体が「うつ」と言っても過言ではないかもしれません。別にオーストラリアが正しいというわけではないが、当地にひしめく多民族連中の人間像のナチュラルさ加減からしたら、日本は結構ヘンです。

 例えば、「挨拶をしない」ことです。こちらのスーパーのレジでは、まず普通に"Hi, how are you?”と挨拶をしますが、日本のコンビニのレジでは殆どやっていない。でも、人間が他の人間と会ったときにまずやるのはお互いに「挨拶」でしょう。マニュアル通りの「いらっしゃいませ」などは「挨拶」とは呼ばない。これはもう「人間の原点」と言ってもいいけど、そんなクソ当たり前のことを僕もこちらに来てから初めて気づかされた。しばらくして帰国したら、誰も挨拶をしようとしない日本にまた逆カルチャーショックを受けた。これは商店だけではなく医療でもそうです。初診のときに、「はじめまして、○○といいます」という自己紹介をしないお医者さんが日本では多い。これも普通に考えたら、人間社会ではありえないアンフレンドリーさでしょ。

 また、見知らぬ他人に話しかけない。先日、買ったばかりのテイクアウェイの袋をブラブラ下げて歩いていたら、前方の道路でくつろでいた工事のお兄ちゃんから冗談で「やあ、俺の分は?」と話しかけられたけど、そういう関係が最近の日本では少ない。こっちの感覚では、知らない人に話しかける気が「全然ない」という時点で、かなりヘンです。「他人と上手くやっていくことができない」というよりも「やっていく気がない」ということで、十分にコミュニケーション障害の「異常者」であり、「治療」が必要かもしれない。
 
 同じように、「たかが仕事ごとき」でメンタル危機を迎えるというのは、そのこと自体が既に異常と言えなくもないです。
 西欧流のマネジメントが世界を席巻し、日本にも入ってきていますが、そのモデルの前提になる人間像・労働者像は「たかが仕事ごとき」という人生を構築する個々人なのだと思います。「たかが〜ごとき」だからこそ、(日本に比べて)いとも簡単にクビに出来るし、組織再編(文字通りリ・ストラクチャリング)も出来る。それらがいとも簡単にできるからこそ企業の経営効率が高く、フットワークも軽く、どんな人種の人間も有用だったら職場にボンボン編入できるし、異人種ひしめく職場内でのコミュニケーションや効率を高める方法論もマニュアルも出来ている。

 そういった世界の企業群と競争するのだから、同じくらいフットワークが軽くないとならない。だからリストラもするし、雇いあげもする。しないと負けてしまう。まあ、一概にそういったものでもないだろうし、日本型経営には良さがあるし、ファミリービジネス的良さを残している外国企業も多々あります。が、大勢としては、まるでレゴのように臨機応変に陣形を組み替えるビジネスモデルがメインでしょう。そういうカルチャー下においては、いちいち失業したくらいで落ち込んでたら話にならない。

 それに、将来年金が出そうもないから世代間不公平とか、生きる気力を無くしたとかいう若い世代が本当にいるのだろうか?もし、そうならこれもちょっと「異常」じゃないのか。実際に年金貰うまであと50年くらいあるとして、そんな先のことなんかよく考える気になるよな。若いうちは、年取った自分なんかまるで来世のように現実感無いんじゃないの。それに年金貰える年まで当然のように生きているつもりなのか。実際、50歳前に死んでしまう人だって沢山いるんだし、今この文章を読んでいる人の何人かは10年以内に死ぬかもしれない(僕も含めて)。ましてや50年後、ましてやこの変動の時代、何がどうなるかなんか分からんのじゃないの?

 年金なんぞ、たかだかここ数十年の制度であり、それ以前は年金なんかこの世に無かった(頼母子講とか似たような保険制度はあったけど)。年金が無くて死んじゃうんだったら、人類はとっくの昔に絶滅してます。それにあと50年もあるんだったら、その間に「一発当てる」ことをすればいいんでしょ?50年もあるんだぜ?あんまり早めに当てちゃうと、運も金も使い果たしてしまうから、48年目くらいに当るようにしておけばいいんでしょ。それに日本で年金が出ないんだったら、別に日本にいなくてもいいでしょ。こんなもん、あまりにも茫漠としていて、悩みの対象にすること自体が不可能だと言いたいくらいです。どうしてそんなことで悩めるのか、それが不思議。そんなことで思い煩うなら、リスク管理という点でいえば、50年スパンではまず絶対に(おそらくは1回以上)生じうる大地震のときに生き残る可能性の高いところに早く移り住み、そこで生活の地盤の種蒔きをした方がよっぽど気が利いているでしょう。僕が大学進学を機に、東京から関西に行ったように(それで神戸地震に遭ってるんだから世話無いけど)。

 要するに、これは「明日も今日と同じ日が続く」という信念というか、願望というか、そういう世界観が強すぎる点が「異常」なんだと思います。この異常性は、若い世代ではなく上の世代の方がより深刻だと思う。若い人は、基本的に世の中が乱れれば乱れるほどチャンスが増えるから、ナチュラルにそれを好む度合いが高いと思う。若い世代の安定志向とかいうけど、上の世代の方がもっと安定志向が強い。これはもう生物学的にも社会学的にもそうでしょう。ここまで必死にゲームの勝ち点を稼いでおいて、チャラにされたら溜まったもんじゃないしね。

 安定志向は、「心安らかに暮らしたい」という素朴な願望としては了解可能だけど、それも程度問題で、ここまできたら宗教みたいなものです。過去百年、明治大正昭和平成とこれだけ極端に変化してきた国が、今後50年打って変わってピタッと静止し続ける、、なんて思うこと自体が「異常」ではないか。しかし、そう思ってるのでしょう。そして、その安定志向が閉塞を生んでいる。滔々と流れるべき大河を無理矢理せき止めているから、淀みができたり、腐敗したり、場合によっては逆流したりする。今の閉塞感とは安定志向の裏返しでしょう。自縄自縛とはこのことだと思う。

 しかし、again、それは日本だけが異常なわけではなく、どこの国だって似たり寄ったりです。

 ちょっと前の(あるいは今でも)、世界のどっかのイスラム社会では、地球人は全員イスラム教徒であると思いこんでる人達だって結構いたと思う。それぞれに(相対的に)狭い社会の中で、それなりの常識や世界観、そして価値観を持ち、それとシンクロさせることで、自分のアイデンティティや幸福感を養っていた。しかし、狭い国家・社会を仕切っていたパーテーションはするすると引き上げられ、茫漠とした広大な空間に放り出され、頼りなげに「個」が佇んでいるという状況は、似たり寄ったりだと思います。だからこそ世界的にSNSみたいな個をつなぐ疑似社会が受けるのでしょう。

 ということで、何の話をしても、何を論じても、最後には「個」の充実が大事なのだという地点に回帰していきます。ここでいう「個」を起たせるというのは、単にワガママになったり、エゴイスティックになったりという稚拙なレベルなことではないです。もっとしなやかで、豊かなものです。そこでは個が充実すればするほど、逆に社会との繋がりは増えます。
 
 将来における「みんなと一緒」方法論ですが、こんどは世界規模にひろがった「みんな」に適応し、シンクロしていくことになると思います。これはもう既に広まりつつあるでしょう。「人類の一員」というアイデンティティです。環境にせよ、温暖化にせよ、脱原発にせよ、脱資本主義にせよ、なんにせよ。

 そういえば今月31日はアースアワーです。オーストラリアではすっかり恒例。夜の8時半から1時間だけ電気を消すという個人(世帯)参加のイベントですが、2007年シドニーから始まり、去年(2011年)は、世界135ケ国、5251都市で開催され、推定18億人が参加したと言われています。日本でも一部では参加自治体や企業があるのですが、まだまだ一般的ではないようです。Wikipediaの日本語版も殆ど何も書かれていないし。

 まあ、1時間やそこら電気を消したからどうだというのだ?というクールな見方はあるでしょうけど、でも、やってみると暗くて面白いです。テレビもネットも全部落とすので、ヒマっちゃヒマなんだけど、そのヒマが非日常で妙に楽しい。台風前夜の停電みたいで。

Never forget "fun"

 最後の最後でちょこっと脱線するけど、オーストラリア人ってこのあたりが上手ですね。遊び上手というか。"fun"というのだけど、ドンピシャな日本語概念が中々ないのだけど、「楽しい」とか「面白い」とか感じること、そのエッセンスを結晶化したような概念です。"lots of fun〜!"とか呼びかけたりするわけですが、生活や人生の構築において欠くことの出来ない重要な要素です。ただのオカズ、ただの付け足しではなく重要な構成ピースです。多分、生まれてから死ぬまで、年がら年中それを考えているのでしょう、それだけに"fun"を見つけたり、作ったりするのが天才的に上手い。

 僕もこの種のことは嫌いではなく、その場で新しいゲームや遊びを思いつくのは子供の頃から得意で、前にも書いたけど大学の研究室のレクレーション企画で「愛宕山頂でカンケリ」をやり、事前に地方ルール統一委員会を発足し、会報まで出したりしたけど、その種の「馬鹿馬鹿しいけどやってみたら妙に楽しい」イトナミです。昭和天皇崩御の大喪の礼の当日に、「右翼の襲撃にビビリながら酒盛りをする会」を企画したり、ソ連が崩壊してゴチャゴチャしている時期にソ連領事館の人達と飲み会をやったりとか。その種のアホ企画を考えるのは得意。だけど、オーストラリア人には負けます。「よくそんなこと思いつくよな」という。サウスヘッドという断崖絶壁があり、夜明けにわざわざ行ったことがあるのだけど、そこにティーンエイジャーの恋人同士が毛布一枚もってやってきて、崖っぷちのところで二人で仲良く腹ばいになって毛布にくるまり、お喋りしながら太陽が出てくるのをワクワク待っているのを見て、「なるほど」と思った。

 もしかしたらオーストラリアというよりもイギリスの伝統なのかもしれません。イギリスも、モンティ・パイソンでも分かるように下らないことが大好きなようで、前にこっちのテレビでみたけど、アルプスの山頂のように極限状況下で完璧に正装してディナーを楽しむという。テーブルなんか水平に置けないようなところに無理矢理置いて、タキシードで全員キメて、食前酒から始めていて、最後には突風によってテーブルごと全員斜面を滑り落ちていくという。もう命がけで馬鹿馬鹿しいことするよね。エラいもんだな、と妙に感心してしまった。

 で、それが何?というと、"fun"は大事ですよって話です。特にイイコトをする場合には必要です。慈善事業とかボランティアとか人助けとか、そゆことするのって、どうしても気恥ずかしさや、偽善的な後ろめたさがつきまとったりするのだけど、それを匂い消しの薬味のように消してしまうのが”fun"です。イイコトをしようとすると、ともすれば真面目さや深刻さに傾きがちだったりするのだけど、そっち方向に振れるのではなく、逆に振れる。真面目さとかシリアスさとかいうのは皆もう分かってるんだから、敢えて言わなくても良いんだわ。それよりも、こっちのように不当解雇の抗議ピケを張ってる現場で、ギターを抱えてヘンな帽子かぶって、皆で踊ってるようにやりゃいいんだって思います。通りすがりで見たけど、めっちゃ楽しそうなんだわ。あまりにも楽しそうだから、最初は抗議デモだとは気づかなかったくらいで、ビラを貰って初めて、「あ、そういうことなの」という。でも、楽しそうだから既に彼らに好感を抱いていて、だから自然とビラも読もうと思うよね。上手いんだわ。

 ということで、不謹慎とかなんとか言わないで、イイコトするとき、あるいはやらなきゃいけないことをやるときは、出来るだけ楽しくやる。"fun"を絶対に入れることです。でないと続かないって。これは仕事でも、勉強でも必須テクだと思います。図書館に通うにしても出来るだけ可愛い子の近くに座るとかさ(^_^)、休みのときに美味しいデザートを探すとかさ、いくらでもあんじゃん。バス待ってるヒマな時間でも、あと100台車が通過するよりも前にバスがくるかどうかで賭けをしたり、勝手に自分の「運試しじゃあ」で盛り上がったり。そんなの幾らでもネタはある。てか、四六時中なんか楽しいことはないか、作り出せないかを考え続けることです。

 で、無理矢理「うつ」に関連するなら、日本の「うつ」って、なにかといえば深刻で眉間シワが好きで、楽しいことを不謹慎やオチャラケといって嫌い、戦時中には「白い歯が見えた」というだけで鉄拳制裁をしていた我が国民性のゆえかもしれませんな。"fun欠乏症”というか、風土病というか、好きで「うつ」をやってるのではないかと。まあ好きでやってることはないだろうけど、体質的な親和性ってのはあるのかも。




文責:田村



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