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今週の1枚(2012/03/19)



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Essay 559 :それは病気/異常なのか?「個性」なのか?

  〜「うつ」をめぐる風景(7)
 写真は、Artarmon駅の薄暮。今日(18日、日曜日、午後7時半頃)撮りました。
 今年のシドニーは雨ばっかで、今日は晴れたかと思ったら、夕方になるとこういう空模様になります。



 延々続いている「うつ」をめぐる風景です。
 いつもいつも同じ注意書きで恐縮ですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策するに留めます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。

 前回は、グローバリズムが進展する近未来における「個」の生き延び方という物質的・客観的な側面を書きました。いよいよ本論の主観面です。そろそろ本題の「うつ」に「めぐる」のではなく、ちょっと斬り込んでみます。軽く足をひたす程度ですけど。


 「うつ」という病気の概念が、従来の原因論・系統論から、症状診断にシフトすることによって曖昧になっている、という話は1回目にちらっと触れました。ことの当否は専門外なのでよく分からないのですが、これに関連して、しょっぱなからすっごく根源的な問題提起をします。

 病気(異常)ってなに?それは「個性」とどこが違うのか?

 です。

 これはいわゆる「正常と異常の境目」論ですが、これが実はメチャクチャ難しいんじゃないでしょうか?

環境と適応

 まず精神より分かりやすい身体的な疾患について述べます。

 例えば花粉症があります。「症」と言っているからには病気としてカテゴライズされるのでしょう。スギ花粉などが身体の免疫体制を刺激して過剰な反応を起こしてしまうという「病気」であると。季節性アレルギー性鼻炎、結膜炎など。

 一方、マンガの古典パターンですが、胡椒を鼻先に振り返ると「ハクション!」とくしゃみが出ますよね。僕の経験では、料理してても別に胡椒でくしゃみをしたことはないのですが、まあ、そういうお約束になってます。これは病気じゃないですよね。でも、スギの花粉でくしゃみをしたら病気で、胡椒だったら病気でないとする理由はなに?というと、僕にはよくわからんのです。花粉症があるなら「胡椒症」があっても良くはないか?これは病理的に説明がつくのかも知れませんが、素人考えて言うと、何らかの外界の刺激によって身体の反応が引き起こされるという意味では同じではないか。あるいは、タマネギを刻んでいると涙が出てくるというのはどうか?

 はたまた酒を飲むと酔っぱらうのはどうか?全くアルコールを受け付けない「アルコール不堪症」というのがあるらしいですが、これは「病気」なのでしょうか。「酒に強い」というのは、アルコールの分解過程で出てくるアセトアルデヒドという毒性物質をさらに分解する酵素をどれだけ持っているかで決まるところ、白人・黒人が全員持っているのに日本人などモンゴリアンは持っていない人が多く、オーストラリアのアボリジニはほぼ全員持っていないので極端にアルコールに弱い(だからアル中になる)というのを聞いたことがあります。このような酒への身体的親和性というのは、生まれながらに背が高いとか、目が大きいとかいうようなただの「個性」と何が違うのか?

 この酵素はアセトアルデヒド脱水素酵素 (ALDH)で、517個のアミノ酸から構成されるたんぱく質なのですが、このうち487番目のアミノ酸を決める塩基配列の違いによって3つパターンがあるらしいです。遺伝子レベルでグアニンを2つ持っているGGタイプ(酒に強い)、グアニンの1つがアデニンに変化したAGタイプ、2つともアデニンになったAAタイプ(メチャクチャ弱い)。地球人のデフォルトは酒に強いGGなのですが、遺伝子の突然変異でAG、AAタイプが出てきて、モンゴリアンは両者合わせて50%、アボリジニはほぼ100%AAタイプらしいです。ここから勝手に推測すると、もともと日本原住民(縄文族)は酒に強いのだけど、大陸からの移住者(弥生族)はモンゴリアンだから弱い。昔ながらの縄文族が多いエリア=東北、九州・四国南部(鹿児島や高知)は酒が強い人が多いのではないか。

 一方でアトピーやアレルギーというのもあります。なんらかの外的刺激によって身体が(過剰)反応を示す場合です。サバとか牡蠣に当ってヒドイ目にあって、以後食べられなくなるとか、アレルギーになるということもあります。「羮に懲りて膾を吹く」パターンで、過去の悲惨な体験が過剰反応を呼び起こす。一種の身体のトラウマなんでしょうけど、これも時期により、年齢により変ったりします。

 逆に刺激に慣れて強くなるということも多々あります。お酒も飲み慣れていくにつれて、前よりも飲めるようになったりもします。遺伝子が変るとは思えないのですが、環境適応は生物の基本ですから、そういうことがあっても不思議ではないです。おそらくは同じような飲酒環境が続くとアルコール吸収率そのものが低下したり、酒の飲み方が自然と上手になる(空腹時を避けるとかペース配分を守るとか)とかあるのでしょう。でも刺激に慣れてくると、前よりも深酒するようになり、さらには飲まないとどうしようもないというアルコール依存症になったりもする。タマネギ涙も、昔は僕もよくヒーヒー泣いてたけど、コンスタントに毎日料理するようになって今では殆どそういうことはありません。これも身体が耐性をつけたのか(あるいは単に切り方が上手になったのか)。

 「刺激に慣れる」というのは、良い意味でいえば「鍛えられた」ということであり、悪い意味でいえば耽溺、依存していることにもなります。むごたらしい殺人現場なども、刑事や鑑識生活が長くなると慣れるといいます。僕も最初に仕事で司法解剖に立ち会ったときはショックでしたが、ものの10分も見ていたら慣れてきました。同じように、スプラッターホラーも、最初はキャーキャーいってたものが、慣れてきたら「なんだ、この程度」と鼻で笑うようになり、もっと強い刺激を求めたりします。

 さて、身体というのは外界の刺激に自然に反応・適応するように作られています。それこそが生体のメカニズムの基本だといってもいいでしょう。ただその適応パターンにはそれぞれに民族差、個体差があります。ある刺激に全く反応しない人もいれば、過剰に反応し過ぎて収拾がつかなくなる人もいます(アレルギー)。

 適応には、当然ながらそれなりのダンドリというものが必要で、花粉症の研究では、幼少期にあまりにも清潔すぎる環境にいると発生比率が高くなるという研究報告があるそうです。確かに無菌室で育てたラットは、後に自然環境に置いた途端にあっという間に死ぬそうです。適切な時期に適応のチャンスを与えないと、後顧に大きな憂いを残す。これ、なんでもそうだと思います。

 しかし一方では、適応さえできればそれでいいのかというと、必ずしもそうとも言えないのが、この世界の面倒臭くもディープなところです。例えばアルコールに強いことは酒席においては都合がいいのだけど、肝臓に負担をかけていることに変りはないから肝臓病になりやすい。また沢山飲めるからアル中になりやすい。適当に「二日酔い地獄」に襲われることが、過度の飲酒へのブレーキになっているわけですね。しかし、逆にアボリジニのように飲めない人は、非常に効率よくアルコールの酩酊快感に浸れることもあって、これ又アル中になりやすい。

 慣れていくことは環境適応という意味では良いのだけど、慣れることによってより大きな危険を招くこともあります。オーストラリアの路上で最も事故率が低く、もっとも安全なドライバーはLドライバー(仮免)だといいます。逆に最も危ないのが免許取り立てなんだけど路上に慣れてきた頃だとも言います。技術や経験は伴ってないけど、精神的に適応しちゃった時期が一番危ないという。これも全てに通じる教訓でしょう。

正常・異常は多数決で決まる

 さて、このように刺激→反応(適応)のパターンや程度が千差万別にあるなかで、どれが「正常」と目され、どれが「異常」「病気」とされるのでしょうか。そして、それはどこで判別しているのだろうか?

 甘いものに目がないとか、大食らい(or小食)であるとか、トイレが長いとか、血をみるとスッと貧血になるとか、風呂ですぐのぼせるとか、コーヒーを飲むと全然眠れなくなるとか、やたら暑がりとか、やたら寒がりとか、正座するとすぐに足が痺れるとか、貧乏揺すりをしてしまうとか、人前に出るとあがるとか、生野菜が嫌いとか、脂っこいものは苦手とか、すぐに船酔い車酔いするとか---------ある程度の範囲までは「個性」として処理されています。つまりは正常の範囲内での個体差に過ぎないと。しかし、あまりにも個性的な場合は、それを超えて病気として扱われる。

 その分水嶺はどこにあるのか?といえば、結局のところ、変な話ですけど「多数決」なんだろうなと思うのです。

 「あがり症」というのがありますが、誰だって人前に出ればそこそこ緊張するし、あがりもします。要は程度問題で、人前に出た途端、脈拍が200を超え、顔が真っ青になったり真っ赤になったり、緊張してマイクも握れず、「こんにちわ」というのに1分もかかってるようでは、「ちょっとなあ」ということで「病気」カテゴリーに入りそうです。しかし、じゃあ、30秒だったらどうか、15秒だったらどうか?とやっていくと曖昧になっていくのですね。子供の頃からプレゼンをやらされ、人前で喋る技術を持ち、目立つことに心理的負担感を持たない西洋人社会では、平均的な日本人は「ちょっとなあ」レベルかもしれない。また、同じ日本の中でも、「前に出なあかん」「人前でおもろいこと言ってなんぼ」の大阪と、その他の地域とでは基準が微妙に変っているかもしれない。

 つまり、自分が所属している集団や社会における多数決的スタンダードに外れているかどうか、です。だからAという集団では正常なこともBという集団では異常者・病者扱いされるということはあるでしょう。要は「普通」かどうかであり、「普通」というのはその集団によって決められる。

 海辺の村で、誰もが赤ん坊の頃から船に乗って育てられ、誰一人船酔いしないところでは、船に乗ってゲーゲー吐いているよそ者は、ずっと昔の時代だったら、「あいつ、ちょっとおかしい」と病人扱いされたかもしれない。時代が下り、村以外の社会の情報=この世には船酔いという現象があり、そういう人も珍しくないのだという知識が入ってきたら、船酔いというありふれた事態が起きているだけだと思えるようになるだろうけど、そういう認識が無ければ、なんか別の理由(病気とか、海神様に嫌われているとか)で説明しようとするでしょうね。

 昔の中国の纏足は、写真を見たことがありますが、足の甲がグニャリと変形し、僕には身体的な畸形にしか見えない。しかし、あれを「美しい」と感じる社会が実在した。アフリカの首長族だったか、女性は首が長いほど美しいとされ、首にリングを無理矢理はめて皆でろくろっ首みたいになってる写真も見ましたが、これも同じ。僕にはどちらも醜怪に見えるのだけど、あれを「美」とする社会がある。自殺はキリスト教では大罪の一つで嫌われてますが、切腹(自殺)を名誉を守るための最高の美と目し、「お見事な最期でござる」と称揚する日本のような社会もある。

病気は社会によって定義される

 このようにその集団内部の多数決的な「普通」感覚で、正常=やや個性的=異常というカテゴリーが出来ているとするなら、病気においても同じなんだろうなってことです。

 つまり、一定の限界事例においては、病気は社会によって定義される、といっても良いのではないか。
 勿論全ての病気がそうだというわけではないですよ。90%以上の病気はそのまんま普通に病気でしょうが、残りの10%くらいは、もの見方によって病気になったり正常の範囲に留まったりするグレーゾーンなのではないか。

 ちょっと余談ですが、考え方をちょっと変えたら、本当の意味で「病気」と呼べるのはガンだけではないかという気もします。
 ガンは生体の一部のガン細胞が破壊方向に進んでいくという、生体のメカニズムそれ自体が狂っている場合です。これは正しく「病気」といっていい。しかし、ガン以外の病気は、風邪にせよ、胃潰瘍にせよ、糖尿病にせよ、肝硬変にせよ、、、生体が正しいメカニズムで動いていることに変りはないです。インフルエンザウィルスに侵襲されました、身体の免疫機構が一斉に反応してこれを撃退しようと頑張ってます、その過程で熱が出たり、食欲がなくなったりするわけですが、外敵に侵入に対して正しく戦っているという意味では身体メカは健康そのものです。

 胃潰瘍、糖尿病などの生活習慣病は、そういう悪しき生活習慣に身体が適応しようとしているうちにトータルに辻褄が合わなくなってるだけでしょう。不自然な姿勢で長時間いると徐々に筋肉や身体のバランスが悪くなり、それが神経の流れを阻害し、肩凝りをはじめとする深刻な身体不調を招くのと同じで、身体のメカそのものに罪はない。悪いのは、ウィルスなどの外敵であり、あるいは悪しき生活パターンを続けているそのことです。本当の意味で「病気」として敵視されるべきは、自分の悪癖ですよね。身体に罪はなく、身体こそが被害者とも言える。

 「個性」というのは人の心身におけるユニークな特性、癖、傾向を総称して言うのでしょうが、個性が個性であるためには「他と違う」ことが絶対条件です。当たり前ですよね、他と同じだったら個性にならないのだから。で、異常とは何かといえば、これも「他と違う」ことなのですから、個性と異常はその本質においてそんなに変りはないとも言えます。

 その「違い」が、社会のマジョリティとって好ましく、あるいは仕方なしに承認されるならば、「異常・犯罪・病気」呼ばわりはされず、「個性」として扱われる。しかし、その違いが、社会においてネガティブに受け止められたり、あるいは社会生活上相当に不都合を生じさせるような場合は異常扱いされます。

 日本ほかアジア社会では、酒の席での過ちには寛容な傾向があり、多少酒癖が悪かったりしても、周囲から苦笑しながらも許される度合いが高い。しかし、オーストラリアでは非常にここが厳しく、楽しく酔うのは全然いいけど、泥酔は犯罪扱いされる。なにか過ちを犯して、それが酒のせいである場合、アジアでは「酔ったいきおいだから」と責任非難を減少させる方向に働くが、オーストラリアでは逆に責任を加重する方向に働く。日本でも交通事故等に関してはオーストラリアと同じですよね、飲酒運転で事故を起こしたら、「酒のせいだから仕方がない」とは言わず、より責任非難は重くなる。だけど酒席での暴言や狼藉は甘く見られる。

 同じ民族社会内部でも階層や業界が違うと扱いも違う。例えば、暴力的な性癖というのは一般社会では非難されるのですが、これが暴力団やマフィアなどのアンダーグラウンドでは、むしろプラスとしてカウントされる。それほど顕著ではなくても、軍隊や武家社会、あるいは格闘技世界など「尚武の気風」が強い世界では、粗暴であることは必ずしも悪徳になるとは限らない。

 最近において最も典型的な例は同性愛でしょう。ゲイは、特に西欧社会のキリスト教的価値観では異常どころか犯罪扱いさえされていたのですが、徐々に認知され、最近では同性婚すら認められつつあります。シドニーのマディ・グラは有名ですが、あの本質はゲイの人権を真面目に考えるシンポジウムであり、第一回目はゲイ人権を訴えるデモ隊と警官隊が激突して戦場のようになっていました。今ではオーストラリアで最も外貨を稼げるイベントとして、政府が全面プロモートして警官隊が護衛しています。

 さらに民族、社会や、業界単位ではなく、全く同じ社会であっても、対象者の個性によって見え方や評価がガラリと変ることもあります。例えば、片目、片腕とかいう身体的欠損も、ハンディキャップという気遣わしげな視線に常に晒されるわけでもなく、見慣れてくれば単なる個性になるし、時としてカッコ良くさえ見える。「白鯨」のエイハブ船長は片足、独眼竜の異名をとった伊達政宗は片目、座頭市は全盲、丹下左膳に至っては片目片腕です。彼らは身障者のヒーローですが、身障者である部分が逆に魅力を増すことにもなっている。特に戦場での負傷は名誉の負傷で、勲章にさえなる。片目のダヤン将軍の眼帯はトレードマークにすらなっているし、眼帯がアクセントになっているキャラは鋼の錬金術師のブラッドレイ大総統、あしたのジョーの丹下段平など幾らでもある。

病気と個性

 病気というのも、想定される健常状態からの逸脱を意味するのでしょうが、その「違っている」という意味では、個性=異常論と同じ構造を持ちます。本人あるいは社会において好ましい違いは病気ではなく、個性、場合によっては長所にもなり、好ましくない場合には病気として扱われる。でもって、何が好ましいか?なんてのも人次第、時代次第、いい加減なものです。

 もっとも、病気というのは、基本的に一時的な変調で、なんらかの治癒(復元)が期待される点で、他の個性・異常とは違うという意見もあるでしょう。しかし、これも全く治癒が期待できない不治の病もあるし、生まれながらにしてそうで「悪くなった」わけでもないものもあります。例えば、「みつくち」とよばれる口蓋裂などは、あれも異常なのか個性なのか見方一つでしょう。中学のときの同級生に一人いましたけど、確かに外貌や発音が多少人とは違いますが、そんなもんクラスに一緒にいたら慣れてしまってただの個性でした。「そーゆー奴」になっちゃう。遺伝特質によっては、中指と薬指の長さが同じという人もいるかもしれないけど、それって「病気」か?

 ハゲとか白髪とかデブとかいうのも同じで、あれも個性でしょう。ここ数年日本では「メタボ」とかいってデブが病気扱いされていますけど、本来メタボライズって「新陳代謝する」という意味なのに、いつの間にかデブの意味になっているという、相変わらず和製英語のトホホ度炸裂です。もともとメタボリック・シンドロームというのは、インシュリン系の糖や脂質の代謝異常が本質で、それに腹部肥満と関連しているという学説によって出てきたものですが、この見解はその後世界でボッコボコに批判され、腹部のデブ度は本質的な指針にならないという意見もかなり有力になってます。

 細かく言えば、もともと国際糖尿病連合(IDF)が腹部デブ度を必須とするメタボリック症候群の世界統一診断基準を提唱したことに寄るが、これに対しては、アメリカ循環器学会(AHA)とアメリカ心臓肺血液研究所(NHLBI)が異議を唱え、NCEP診断規準の方が良いという共同声明を発表しています。一方、アメリカ糖尿病学会(ADA)とヨーロッパ糖尿病学会(EASD)はこれまでのどの診断基準もダメ!と切って捨て、「人々にメタボリック症候群というレッテルを貼ってはならない」という共同声明を発表しているそうです。要するに世界中の学界が自家製の基準をそれぞれ提唱してグチャグチャになってるという感じで、メタボなんちゃらといのは、数ある基準の一つに過ぎない。

 さらに日本のメタボ”政策”は、医療費をケチりたい厚労省が、皆に定期検診を強制し、さらに達成度によって後期高齢者医療への財政負担を変動させるという「アメとムチ」政策であり、且つその自治体の連帯責任性が江戸時代の五人組みたいという批判もある。加えるに日本のメタボ基準(日本肥満学会が提唱)が評判の悪い世界の基準よりもさらにいい加減(性差を無視してるとか、非肥満者のリスクを見逃すとか)であるという批判もあり、か〜なり問題のあるところだとは思います。

 しかし、そんな制度の是非を論じるのはここでは本題ではなく、デブは個性か、病気か、犯罪か?です。デブが病気・犯罪扱いされるのであれば、サンタクロースの立場はどうなるのだ?と私は問いたい。ムーミンだってあの空豆みたいな体型だから良いのだ。ムーミンやサンタさんがスリムで逆三角形だったら気持ち悪いぞ。サンタさんだって、勝手に人の家に入ってくるという紛れもなく住居侵入(法律論で言えば、被害者の承諾が推定されるという違法性阻却事由があるのかもしれないが)をしながらも、全体として”ほのぼの風景”にしてしまえる力業の秘密は、あの体型と年齢のおかげではないのか。サンタが若くて痩せたりしてたら、深夜に子供部屋に忍び込む風景は「ペデフェリアの夜這い」みたいに見えるぞ。

 ところで、病気は、本人がその症状に不快感や苦しみを覚えているのであって、ただの個性とは違う!という意見もあるでしょう。しかし、ただの個性だって本人が不快感を覚えている例は幾らでもあるのだ。この癖を直したいとか、自分のこーゆーところが嫌いだとか、自分の容貌にコンプレックスを感じたり、もっと背が高ければとか、もっと足が細ければという願望を一つも持っていない人間(自分こそが完璧だと心から信じている人)なんかどれだけいるというのだ?

 だから、病気だって全部ひっくるめて「個性」なのだと言えなくもないです。といって、個性だから病気じゃないって言ってるわけではないですよ。個性というのは、何度も言うけど、「個体の特性」なんだから、それが恒久的であろうが一時的であろうが、気に入ろうが気に入るまいが、それで得をしようが損をしようが、他と違っている部分はみんな個性ですわ。その個性に対する対処方法=治療するか、何とも思わないか、誇りに思うか=が違ってるだけの話でしょう。

 それが個性なのか病気なのかよく分からんという身体的特性は他にも山ほどあります。
 鼾にせよ、歯ぎしりにせよ、猫背にせよ、やぶにらみにせよ、近視乱視遠視にせよ、歯並びにせよ、ガニマタにせよ、扁平足にせよ、毛深さにせよ、体臭にせよ、肌の色にせよ、性器や乳房の形状にせよ。こんなものは本来的に個性であり、昔から広くゆったり承認し合ったり、お互いに明るく罵倒しあってたものなのだ。ノッポと出っ歯とハゲとデブとブスが仲良く酒盛りやってたのだ。

 それを、ことさらに「異常」呼ばわりして人々のコンプレックスを刺激してどうする?人間みんなどっかしらヘンなんだから、そのヘンさで仇名をつけたり、親しんだり、ケラケラ笑いあってりゃいいのだ。自然界には当然に存在する凸凹、それこそが貴重な個性であり、自然しか作り得ないナチュラルな曲線であるのに、サイコロみたいな四角四面のプラスチックの工業製品的なイデアを理想基準とし、それからちょっとでも外れたら何か問題であるかのように感じる部分こそが、一番「病気」だと僕は思う。そんなことをして、何の意味があるのか?といえば、言うまでもなく、それで商品を買わせようという商業戦略なのでしょうよ。くっだらねえって思うよ、ほんとに。

 ついでに書いておくと、この傾向は日本人としては特に嘆かわしいと言えます。日本には古来「生成(きなり)の文化」があった。お寺や仏像の塗装が長年の風雪で色褪せたり、剥げたりしても、いちいちテカテカに塗り直さず、その自然の年輪を尊び、その枯れた味わいを楽しむという、とんでもなく高度な美的感覚を持っている民族なのだ。枯山水という「砂と岩だけで宇宙を表現しよう!」なんて、無茶苦茶な、ほとんど暴挙的なアートの試みをし、それを一部の特権的芸術家だけではなく皆が理解できるアート民族なのだ。だからアジアとか旅行して仏像が極彩色にピカピカに塗られていたりすると、なにやらデパートの屋上の遊園地的な違和感があり、ときとして下品にすら思う。「枯淡(こたん)の味わい」という古い日本語があるが、今では死語なのかしらね。

 それがデブ論とどう関係するか?といえば、自然のありようをそのまま受け止め、そのまま鑑賞出来るかどうかってことです。老年期の皺を、ただの醜怪な記号としてみなさずに、そこに風雪を感じ、年輪を感じ、そして滋味を感じるセンスです。目に映ってるものだけが全てではなく、目に映らないものをも見ることが出来る感性的視力であり、自然への洞察力、共感力です。直線だけで分かりやすくもチマチマ作られた稚拙な物差しで世界を測らず、世界をあるがままに受け止めること。この「あるがままに受け止める」力をもってすれば、人間の個性の多少の凸凹など、いずれも取るに足らない差異であり、あるいは愛でるべき特性になる。その精神を忘れ、何もかも工業製品のように見ようとするなら、不良品率がゼロに近い日本社会の特長が、そっくりそのまま仇になって跳ね返り、誰も彼もがコンプレックスと異常感に打ちのめされる。その世界観の歪みこそが、病気じゃないの?ってことですわ。

精神病と個性の境界

 さて、身体においてグレーゾーンの社会性を見たわけですが、いよいよ精神方面にいきます。

 精神の場合は、容易に推察がつくと思いますが、個性と病気のボーダーラインがいよいよもって曖昧であり、同時に社会的影響というのも非常に大きいです。

 気が弱い/強いというのは個性だし、臆病とか勇気があるというのも個性。慎重/無謀もそう。内向的であるとか、気分にムラがあるとか、取り越し苦労をするとか、すぐカッとなるとか、節操がないとか、融通がきかないとか、嫉妬心が強いとか、功名心にかられるとか、自己顕示欲が強いとか、自罰的・他罰的とか、自己中とか、口べたとか、頑固だとか、意地っぱりとか、天の邪鬼とか、八方美人だとか、みんなみーんな個性でしょう。一人でいるのが好きな人もいるし、逆に異様に寂しがり屋の人もいる。非常に几帳面で清潔好きな人もいれば、いい加減で部屋がいつも散らかってる人もいる。

 そして、そういった個性によって、本人あるいは周囲の人々が、困ったり、迷惑をかけられたり、あるいは全然気にしなかったり、逆にそこがチャームポイントになってたりする。人の個性は千差万別であり、人の心も千差万別。というか、それ以上に「今泣いたカラスがもう笑った」で時間単位でコロコロ変るので、殆ど万華鏡みたいなものです。これだけ無限のバリエーションを持っていたら、人の心に関する限り「完全なる健康体」という状況は想定しにくい。何もかもが完璧って人は多分現実にはいないだろうし、何が標準なのかも分からない。どの程度気が強く、どの程度気が弱かったら「正常」なのか、そのボックスレンジを計測する機械もない。

 もちろん、重度の精神病というのはあります。刑事裁判で精神鑑定とかよくやるので、そのあたりの文献はある程度読みあさったことがあります。脳の器質性障害というのはメカ的に異常があるので、まだ分かりやすいですが、重度の精神分裂病患者さんになると、かなりの異質感があります。顔写真をみただけで、「ああ、これはもう完全に、、」という感じ。そのくらい重度の場合は専門家の先生にやっていただくとして、さて、「うつ」です。

 このボーダーや内容がめちゃくちゃ曖昧だし、最近とくに範囲が広がっているようで、そこがなんか個人的には引っかかります。

 僕の考えは、それが「うつ」病として治療だとか回復だとかいうのも大事だと思うのだけど、ある程度の「異常」は「個性」としてそっくり認めたらいいんじゃないの?ということです。身体的個性が病気扱いされているおかしさを前に指摘しましたが、心だって同じ事です。

 やたら落ち込むとか、考え方がネガティブになるとか、他人とうまくつきあえないとか、賑やかな場面よりも一人でいる方が好きだとか、そんなのただの個性じゃんって思うのですよ。「人間嫌い」とか「浮世離れ」なんてのはありふれた存在で、クラスに一人か二人は絶対いるし、別にそれでいいじゃん。てか、そういう「非世俗性」というのは、アカデミックやアーティスティック世界に進む場合、むしろ優秀な資質にさえなりる。この数百行先に書いたことをチラッと先に書いておくと、人間が何事かを成就させようとしたら、そこには絶対なんらかの「狂気」が必要だと僕は思う。「ちょっと他人と違う」程度ではなく「完全にいっちゃった」くらいのエッセンスが(少量ではあるが)必要なのだ。

 ところで、ネットなどで「うつ診断チェック」などをやると、僕でさえ「重度のうつ病です」なんて判断結果が出たりするのですよね。本人としては「うつ」とはほど遠いキャラだと思っているのだけど。でもね、こんな回答、気分一つで幾らでも変動します。というか、体重減少などの客観面を除けば、どの選択肢も全てが当てはまるような気がする。

 それにですね、質問を見てても、例えば「自分の失敗に対していつも自らを責める」というのは正しい向上心を持っている人の学習姿勢としては当然じゃないですか?仮に他人に騙されたとしても、そういう他人を信用した自分の洞察力の無さがポイントになるわけです。学習にせよ改善にせよ、結局のところ自分を改めていく以外に方法は無いわけです。他人なんか改めようがないし、一人を改めてまた次の機会には知らない人に当るわけだし、もう一定確率でそういう信じてはいけない人に出会うという前提で、さてどうするか?というのが学習であり向上でしょう?でもそれをやってると「いつも自らを責める」に該当しちゃうそうな気もするのです。設問の趣旨はそうではないのかもしれないけど、読み方によってはそう読める。

 他にも「将来について悲観している」というのも昨今の経済情勢を普通に知ってたら楽観的になりようもないし、「いつも泣いてばかりいる」というのは感情の豊かな人である証拠であってむしろ良いことだと思うし、「何をやるのにも大変な努力がいる」というのも普通に怠け者の人としてはそうなんじゃないか?また志が高く、要求水準が高い人ほど、それなりに気合を入れないといけないからエンジン始動に時間が掛かって当然。「もう本当の意味で満足することなどできない」なんてのも、おしなべて芸術家志向の人はそうだろうし、至高の料理を目指す海原雄山やスティーブ・ジョブスならシルシをつけそう。勿論設問はそんな趣旨ではないのだろうけど、でもそう読んでも不思議ではないし、現に僕は全部そこにチェックしました。

 だから、この程度のことで「うつ」になったり、ならなかったりするなら、もう「うつ」であるかどうかなんか基本的にどーでもいいことじゃないか?って思うのです。「どーでもいい」というのは誤解を招く表現なんだろうけど、それがいわゆる「うつ」の概念に該当するかという病名該当性などは、実は問題の核心ではないんじゃないか?。そんなのただのレッテル貼りでしかないんじゃないか。

 じゃあ、本当の問題は何かというと、数ある選択肢のうちで、何らかの医学的な治療を受けた方が好ましいかどうか、その判断です。それが病気としてカテゴライズされているかどうかなんかはどうでも良い(素人が考えても危険だし、論者や学界単位で違うし、時代によっても違うし)。

 「それは立派な鬱病です。自覚してないだけです」みたいな感じで言われて、でもって「治療しましょう」って流れに導かれたりもします。でも「治療」の内容が、場合によっては単に抗うつ剤を処方するだけだったりしたら、それでいいのかな?という気もするのです。治療そのものは、個々の医師の技量によるので一概に言えないし、一概に言う気もないです。だから逆に一概に言って欲しくもないです。薬物利用の有用性も十分に認めつつも、薬物による依存の恐さも念頭に置きたいし。ベルトコンベアに運ばれるように、何か一つの方向、一つのワールドやパースペクティブにだけ引っ張られていくことに、僕は本能的、直感的に抵抗を感じるのです。

 ちょっと話が逸れるかも知れないけど、弁護士は社会の病理を扱います。病理には詳しい。しかし病理に詳しくなると生理がわからなくなる。離婚事件は的確にこなせるようになるけど、でも離婚が分かっても、愛が分かるわけではないのだ。そして、病理を本質的に治癒するのは生理のみだと思う。弁護士になって数ヶ月、自分のバランス感覚が病理に傾くのに直感的に危機感を感じて、やたらムキになって異業種交流をやって、片端からいろいろな業界の人の話を聞いたり、つきあったりしました。破産などの経済病理がわかっても、どうやったらビジネスが正常に廻っていくのかという生理が分からないとダメになると思ったからです。なんでも裏から世の中見ようとするのは「健康」ではないし、裏はしょせん劣後するからこそ「裏」なのだ。優越するならそれがオモテになっている。

 医者も同じ事で、病理ばっかりやってると病理からしか見なくなる。企業の営業やってて接待が日常業務の人に向かって、平気で「酒を飲んじゃダメ」とかいう。ビジネスの現場が全然分かってない。そういう医者は、僕はプロとしてはちょっと問題あるんじゃないかと思うのです。医者はよく世間知らずだと言いますし、看護師さんなんかに聞くと結構ボロカス言ったりするのだけど(個人的に知ってる医師は皆バランスが良い人達だけど)、世間知らずであるという一点で、その人はプロとしての技量に欠けるのかもしれない。プロというのは、その専門領域での技芸もさることながら、専門外の一般人の常識世界とのバランスがとれて初めて一人前ではないのか。


 考え方の手順としては、まず気分がなんとなくメランコリックに流れがちになっているのことに気づいて、自分でもそれをなんとかしたいと思うかどうかです。別に「このままでいいや」と思うのだったら、もうそれでいいような気もするのですね。「今はそういう時期」「自分はこういう個性なのだ」で納得できたら、別に問題はないんじゃないの?

 そりゃしんどいだろうし、苦しいだろうけど、フラれたらちゃんと落ち込んだ方がいいし、何かに失敗したら沈んで当たり前。人生の壁にブチ当って、うんうん呻吟するのは、成長していく必須教程だとも言える。もちろん程度問題だろうけど、死ぬほど悩み苦しまなければ、本当の自分の価値観や信条なんか身につかないとも思うのだ。といって、苦しければそれでいいんだってことじゃないですよ。苦痛や修行が自己目的化してはいけない。でも、生きててナチュラルに訪れる苦味というのは、良薬口に苦し的な栄養分もまたあるのだ。

 だからなんでしょうか、「憂鬱」と芸術は相性がよく、芸術作品の過半数は憂鬱をモチーフにしたものだといってもいいです。そんな明るいマーチみたいな曲ばっかりではないし、その方が少ない。「ブルース」なんてジャンルそのものが憂鬱(ブルー)じゃないか。憂鬱な気分というのは、バブルの前あたりの日本では「アンニュイな気分」とかいって、むしろカッコいいお洒落な気分ですらあったのだ。曇り空には曇り空の、雨には雨の美と味わいがあるように、憂鬱には憂鬱の美学があり、味わいがある。それは一種の人生の苦味であり、味覚(特に酒類)でもそうだけど、苦味にこそ陰影に富んだ奥深い世界がある。そんな四六時中、軍艦マーチのようにジャンジャカやってるのが「健康」だとも思えないのです。憂鬱で何が悪い、と。

 次に、自分でも憂鬱な気分に耐えかね、「イヤだな、なんとかしたいな」と思ったときに、その対策としての選択肢は、治療も勿論入るけど、治療以外の対策も沢山あるでしょう。とにかく眠り続けるとか、友達とどんちゃん騒ぎをするとか、愚痴を聞いてもらうとか、爆音で延々音楽を聴くとか、ヘトヘトになるまで身体を虐めるとか、旅行をするとか、この憂鬱な気分を絵や詩や音楽などの表現にするとか、思いの丈をノートに綴ってみるとか、誰かとじっくり話し合ってみるとか、古来からそんな方法は幾らでもある。「うつ」とかいう概念もなく、ましてや抗うつ剤なんか無かった昔から、当然ながら人々は似たような心情に落ち、それなりにやってきたのだ。昔の日本のなんだったかな、「憂(う)し憂しと〜」で始まる歌も読んだことがある。

 当然、宗教なんかも大きな救いになっているし、時としてファッションにすらなっている。源氏物語も最後の方になると皆が競い合うように出家して「あ、先にやられちゃった、ズルいぞ」とか言ってるし。「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」は浄土宗の言葉ですが、直訳意訳すれば「早く死にたい」ってことでしょう。超憂鬱じゃん。これは徳川家康の馬印として有名ですが、しかし、世俗の極み、権力欲の権化のような家康さんが言うとはねえ。「お前が言うな」って気もしますな。


 そういった他の選択肢と並列的に「治療」という一選択肢があるのでしょう。治療「だけ」が唯一の選択肢ってもんでもないでしょう。

 そこが他の分かりやすい病気と違うところで、例えば虫歯になって神経までいっちゃったら、もうこれは神経を抜くしかなく、絵を描いたり、音楽を聴いれてば虫歯が治るものではない。でも、心の問題は、決してこれを軽視しているわけではないのだけど、自傷他害の恐れが顕著であるとか、生活能力が極めて衰弱しているとかいう危機的な状況でなければ、西欧医学的=本質的に対症療法的なアプローチが唯一無二の方法であるとは、僕は思わないのです。それが素人の危険な思いこみである自戒は常に忘れるべきではないですが、明るく元気であることが正常で、そうでないのがおしなべて異常であるかのような二分論は違うんじゃないかと思う。

 また、本当は専門の方々もそんな大雑把なことを言ってるわけではないのでしょう。豊富な経験を積んだ専門家の人々が、細かな言葉遣いにも配慮しつつ、実に謙抑的なアドバイスをして下さっているのにも関わらず、メディアなり僕ら素人が、一知半解で分かった気になって、勝手に範囲をどんどん広げて、一人歩きさせている部分も多いと思います。

 ああ、長くなったので、今回はここで切ります。

 これまで一貫して書いているのは、「個」がベースになっていくだろうということです。「みんな」的方法論がかつての神通力を失っていくであろう将来において、頼りになるのは「個」である、と。だから最初の方でゲリラとかなんとか書いてたのですが、個と社会と「うつ」とが時代の変化によってどう絡んでくるかです。次回はそのあたりまで書きます。

 

文責:田村



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