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今週の1枚(2012/03/12)



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Essay 558 :「みんなと〜」→「私だけの〜」パラダイムシフト

グローバリズムで食っていくための処方箋〜「うつ」をめぐる風景(6)
 写真は、Darlinghurst。
 さすが土地柄、独特のテイストがあります。



 延々続いている「うつ」をめぐる風景です。
 いつもいつも同じ注意書きで恐縮ですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策するに留めます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。

 前回の続きです。「みんな」の極大化と極小化によって、自分が乗れそうな手頃なサイズの「みんな」が日に日に減少していくなか、これまでのような方法論では頭打ちであり、それを前提にして物事を考えたらええんちゃうのん、というところまででした。

 予め断っておきますが、今回も殆ど「うつ」は出てきません。「めぐる」といってもめぐりすぎだろうって気もしないでもないし、そんなサブタイ外してしまってもいいんだけど、でも、なんか関係するような気がするのですよね。個人のココロのみならず、社会、さらには日本列島をもすっぽりと憂鬱な雲が覆ってるみたいな心象画像があるんじゃないかと思うのですね。「この先、生きててもいいことがない」みたいな感じ。

 前回、それは本当にそうなのか、なぜそうなるのか?をちょっと書いて、今回は、やっぱりダメなのか?いやそんなことないんじゃないの?ということを書きます。まあ、いってみれば経済論とか文化論なのだろうけど、「うつ」との関連はやっぱりあると思うわけです。それは単なる背景事情や原因の一つというレベルを超えているような気もする。そして、それらの原因も対策も本質も、その全てが「個」というキーワードにかかってくるんじゃないか?と、うすらボンヤリ見えているのですが、それはまた次以降に書きます。

否定・緩和・延命ではない、カウンターとしての「構築」

 今日の世界経済は、台風や火山爆発などの自然現象みたいなもので、人為的にコントロールすることは出来ない。じゃあ何の対策もないのか、どうすることも出来ないのか?といえば、別にそんなことはないと僕は思います。いかに自然現象が苛烈であれ、それと共生することは出来る。現に日本列島は豪雨と火山と地震の巣窟でありながらも、これまで人が住んでいるし、あまつさえ繁栄さえしてきたではないか。

 なにかのトラブル、リスク、ひいては恐怖や不安というものは、それらを当然のこととして受け入れ、且つ「見切って」しまえば、それほど致命的なものではないと思います。台風だって、最初は暴風雨によって収穫物が壊滅させられていくのを、為す術もなく泣きながら見ているしかなかったかもしれないが、段々とパターンが読めようになる。立春から数えて210日目あたりによく来るようだという時期が見えてくる。さらには各地に観測地点を設け、進路や速度、強さを経時的にフォローし、かなり正確な予測もできるようになる。

 最も対処しにくいのは「パターンが読めない」ものです。Aかと思えばB、Bかと思えば実はCでしたというのが難しいです。具体的にそれは何か?といえば、そんなもん「人間」に決まってるじゃあないですか(^_^)。特に異性。さらには男性から見た女性。「女心と秋の空」と古来数千億人の男性が頭を抱え、「女は難しい、、」とボヤき、天下を取った大英雄もカミさんには頭があがらなかったりする。ということで、人間くらい扱いにくいものはない。それに比べれば自然ごとき、可愛いものです。

 世界経済の流れも、今のまんまの無策で立ち向かえば、為す術もなくオロオロとするしかないかもしれないが、パターンが読めれば共生も波乗りもできるし、さらにはその裏をかくことも出来る。またトレンドというのは、それが巨大であればあるほどニッチ(隙間)もまた多い。


 一言でいえば、「そっちがそう来るなら、こっちにもやり方がある」ということです。

 それは、新しい動きを否定、遅延させたり、被害の苦痛を麻痺させたり、あるいは従来のパターンを延命させたり、、という対症療法ではないです。世界経済に押され気味でジリ貧です、頑張れ、でもダメです、いやもっと頑張れ、心が壊れそうです、いやちょっと休めば大丈夫だあ、、とかやってても限界あるでしょう。

 では「こっちのやり方」とはなにか?といえば、カウンターとしての「構築」です。

 世界経済と同じくらいの力強さで、個人の生活や人生がガッツン!と成り立つような「やり方」を見つけること。現状を緻密に分析して、その上でどうやって自分の衣食住を乗っけていくか?それを見つける。「見つける」といっても、そこらへんに転がってるとは思えないので、自前で作る。最初は掘建て小屋でもいいからトリデを作り、少しづつ学び、補強していくこと。

社会のパラダイムシフト〜脱資本主義のパラダイムシフトは起きるか

 そこで、思うのだけど、その「新しい方法論」とやらが、社会のトレンドとしてバコーンと浮上し、誰も彼もがそれに乗ろうとする、、、ということは、実はあんまりないんじゃないかな?。もう一回言うと、「新しい生き方モデル」のようなものが世間の登場し、誰も彼もがそれに乗って、社会のありかた自体が大きく変っていくということ、は余り期待しない方が良いという気がします。

 そう思う理由は幾つかあって、、、、
 第一に、70年代のヒッピー・ムーブメントは、アンチ物質主義のカウンターカルチャーとしてバーンと登場し、世界中に広まりました。今も尚、その影響はエコロジーなどの形で生き残っています。しかし、結局、資本主義のフレームは打ち破るには至らなかったし、それに代替するほどのパワーもシステムも持ち得なかった。かつての日本で江戸時代から明治になったように、封建体制から近代国家になったようなパラダイム・シフトは起きなかった。

 だから今度も起きないというつもりはないけど、「せーの」で社会全体が変るのは、もっと客観的で根源的な環境因子が変る必要があると思うのです。例えば、予想もしない新しいエネルギー資源が見つかるとか、異星人がやってきて宇宙貿易時代が始まるとか、小惑星が激突する(ちょっと前の「未来の話」で書いたけど近未来20年で2回ほど予想されている=ぶつかる確率は極小ですが)とか、未知の病原体で人類が激減するとか、世界中の原発が次々にメルトダウンしてムチャクチャになるとか、温暖化が進行して東京とNYが水没するとか、、、そのくらいのことがないと中々難しいんじゃないか。

 これまでの人類史のパラダイムシフトは、火の発見、農業の発見、化石燃料などの偶発的な発見→社会の根源的OSの変化によって生じています。つまり、人間達の変えようという意思によって変わっているわけではない。意思による部分=戦乱や革命などは、この根源OSの変化によって従来の体制が時代後れになったからこそ出てきた。江戸時代に幕府に対する不満や恨みはあれども、それが討幕運動として具体化したのは、黒船という偶発的な事実(世界パラダイムとの邂逅)が大きな契機になってます。黒船が来てなかったら相変わらずのまま続いていたでしょう。

 第二に、みんなが変る、社会が変るという「みんな」方法論は、ある程度閉ざされた生態系においてのみ有効です。江戸時代の鎖国のようにです。今や「みんな」の舞台が全世界になってしまった以上、日本だけ切り離すわけにもいかない。もし鎖国するなら、現在の生活水準や態様は激変します。食糧自給率よりもエネルギーがないから、電気無し、ガソリン無しのキャンプ生活をしなきゃいけない。工場も操業できないから衣服も薬も作れない。仮に50年くらいかけて江戸時代のような生産体制に戻すとしても、今度はそんな国を国際政治がほっとくわけないので、やっぱり国防は要る、、となると、やっぱり資源は要る、途方もなく高額な戦闘機も買わないとならない、外貨がいる、貿易しなきゃ、、、となると、もとの木阿弥でしょう。無理なんだわ。

 第三に、資本主義がなぜ世界を席巻しているかというと、人間の本能・快感に根ざしているからだと思います。人間というのはとかく頑張ると快感が生じるように作られており、これに一発当てたろという射幸心、所属・承認・賞賛されたいという社会欲求、さらには金銭的なご褒美による衣・食・住・性の快楽、それに加えて生活が安泰になるという安心欲求、、、これら全てを兼ね備えているから、資本主義というのは最強なのでしょう。当然、人間の欲望のもつ毒素も満載するから、資本主義にも毒素はある。でも快楽の方が強い。

 現在の趨勢によって、資本主義の魅力はかなり減少しています。リストラで所属欲求は否定され、低賃金で金銭的快楽は否定され、安心なんか全然出来ない、、という状況ですからね。しかし、それでも尚も強い。人間の快楽を動的快楽と静的快楽に分けると、前者はアドレナリン快楽で「うおお」と盛り上がる気持ち良さ、能力を全開にしてぶっ飛ばす快楽です。これは強烈です。後者は、ゆっくり休む快楽で、温泉にひたって「はあ〜〜〜」と長い吐息を満足げに漏らすような快楽。ふかふかな布団に手足を伸ばして眠りに沈んでいく快楽。人間どっちもあります。そして、資本主義は前者部分が非常に充実している。

 それに対し、脱資本主義的なアンチ候補になりうるヒッピー・コミューンやら、リラクゼーション、メディテーション系の方向性は、それが強烈なものであったとしても、本質的に動的ではないから、他者と結びついて巨大な社会の珊瑚礁をバキバキ作っていく方向には向かいにくい。元来がインワード(内向的)だから、ムーブメントや流行にはなるかもしれないけど、獰猛苛烈な現実を「統べる」という方法論としては不向きです。もともとそういうの好きじゃないし。

 だから、これまでの「みんな」的方法論だけ考えていても難しいじゃないかな?と思うわけです。

 つまり、素晴らしい理想社会を築いて→その恩恵で個々人が幸福になるという発想だけでは難しいだろうということです。

個から〜社会という「数の方法論」の限界

 といって、僕はなにも絶望的なことを言っているのではないです。

 確かにそれだけ見てれば絶望的に聞こえるかもしれないけど、それは今までの「みんな」的な方法論に立てば、の話でしょう?なにも、そんな古い方法にこだわる必要はないのだ。新しい方法を作ればいい。

 そして、その新しい方法論が出てくるとしても、みんな的な文脈からちょっと離れた、インディビジュアルな、個々人のレベルで作られていくのではないかと思います。「皆とともに」というパラダイムではなく「私だけの〜」という形になるんじゃないかと。

 この発想をちょっとセンセーショナルに表現すると、「国家も社会も、別に良くなんなくてもいいし」ってことです。すごい投げやりなようだけど、そういうわけではなく、「みんな」のパラダイムによらず、その力を借りずとも、とりあえずは自分だけでも成り立っていくぜ、ってことです。そりゃ国も社会も良くなった方がいいに決まってますし、そのための貢献は惜しむべきではないですよ。でもキモになるのは、それに頼らない・期待しないという依存性の無さであり、確かな自立性です。

 奇矯な発想のようだけど、でも歴史的にもそうだと思うのです。人類の狩猟採集生活時代(実はこれが圧倒的に長く、人類史の99%を占める)は、そんなに集団を形成するメリットもなかったから、個人単位、家族単位で動いていたと思うのですよ。それか数家族共同という、今のキャンプ生活みたいなものです。かなりの大集落があったとしても、縄文時代の遺跡など、例えば青森の三内丸山遺跡でも、いいとこ500人から1000人とも言われています。

 それが農業革命と産業革命によって「人が多い方が有利」という「数の方法論」が出てきた。そんなこんなで「みんなといっしょ」という方法論になっていっただけんじゃないですか?もともとが「ごく最近」の方法論なのだ。今でもその数の方法論はあるけど、先進国の平均市民にとっては、非常に使いづらいサイズになってしまった。だから他の方法論にしましょうってことです。

 勿論、従来の国家・社会の「みんな」構造が100%ひっくり返るということではないですよ。社会も経済も政治も、今のままで残ります。社会全体のインフラ整備や統治においては、みんな方法論は以前として有効ですから。

 しかし、何から何までこれまでのような「みんな」論でなくてもよいということです。社会やら経済に(ともすれば)盲目的に預けていた個々人の人生や幸福やらを、必要な限度で個々人が引き出して、自分なりに工夫して、自分なりに幸せになっていけばいいということです。原理それ自体はシンプルだし、そんなに難しいことではないと思います。

しかし、それで食えるか〜物質的基盤

 難しいのは、それが物質的経済的に「成り立つ」かどうかです。

 自分の生き方や幸福は自分が決める!と大見得切っても、それでメシが食えなかったら餓死するしかない。だから、個人ベースの生き方をするにせよ、それをどう成り立たせるか?になります。それが分からないから、イヤイヤでも「みんな」社会に所属し、宮仕えをしているじゃないかということですが、宮仕えの口そのものが減少している昨今、「わからない」では済まされない。

 さて、そんな妙案が一足飛びにポーンと出現するわけもないし、そもそも幸福のありようが個々人によって違うから、「こうすればいい」という統一的なスタンダードがあるわけではない。てか、そういうマニュアルとかスタンダードとかを求める心自体が、未だ「みんな」を引きずっている。マニュアルはない。スタンダードもない。

 しかし、分からないまでも幾つかのヒントや切り口があります。

 まずはビジネス的なことを書きます。
 実は精神面を基軸にした展開を書いたし、こちらの方が「うつ」にニアリーなのでより核心に近いです。しかし、なんか精神的なことばかり書いていても、抽象論を弄んでるだけみたいになるし、退屈にもなるし、結局は精神論かよみたいになるかもしれないので、先にソリッドな物質的なことを書きます。

 さて、このグローバリズムの嵐の中でどうやって食い扶持を稼ぐか?論ですが、大きく分けて、@果実採取、A墓穴ビジネス、B落穂拾い、Cその他があると思います。いい加減な思いつきの区分けですけど。

果実採取系

 @果実採取というのは、グローバリズムは先進国にとっては厳しいけど世界全体からすれば豊かさが広がってるわけで、だったら豊かなところにパイプを設置して豊かさの恩恵を受ければいいじゃんってことです。これは、経済発展している新興国を市場にして売りまくるという方法論で、すでに日本企業もやり始めています。生産拠点というよりは販売拠点にする。今は、日本人は内向きだから海外勤務をイヤがる人が多いかも知れないけど、逆に海外が面白いという人にとってはチャンスがムチャクチャ増えているのだからラッキーです。それに海外が恐いとかイヤとかいうのは食わず嫌いが多いと思う。僕だってその一人でしたし。まさかこんなに面白いとは夢にも思わなかったし。

 また、豊かになるから、美しく、ミステリアスで、面白い日本にやってくる外国人はどんどん増えるでしょう。去年から原発騒ぎで客足が落ちてますが、そんなもん人の噂も七十五日ですし、実際に徐々に回復しつつある。長期的にはもう絶対増えると思います。だって、客観的にいって旅行先としてみた日本は面白いですもん。流氷と珊瑚礁の両方を持っている国なんか世界にどれだけあるというのだ?それも飛行機で数時間レベルの近距離に「全てがある」みたいな箱庭的な国があるか、という。彼らがガンガンお金を落としていってくれるでしょうし、もっとお金を落としやすいような環境や仕掛けを作ればいい。これは既に政府も自治体も頑張ってやってますよね。でも、市場というのは国別にあるわけだから、中国市場や韓国市場は攻略済みでも、ラオス市場とかセネガル市場なんかまだまだでしょう。どんどん世界の国々が離陸していけば、新しい市場はどんどん出てくる。そこに目を付けてパイプを築いた奴の勝ちです。

 一方では、前回紹介したフリーランサー・コムのように、新興国にアウトソーシングするトレンドがあるのならば、腕に覚えがあれば、その新興国に住んで、ネット経由で仕事をすればいいじゃんって手もあります。その場合、キモになるのは、そこに住んでるだけでもう幸福!ってくらい、自分のハマる国を探すことです。世界百カ国を訪ね歩いてでも、自分だけの楽園を探す。それが見つかり、ネット環境さえあれば(もう殆どあるだろうし)、あとは馬鹿安な生活費を稼ぐだけの仕事を、ネット経由で受ければいいわけでしょう。月収1万円でも全然食えていくって場所があり、且つそこが自分の楽園であればいい。

 今までは仮にそんな場所が見つかったとしても、通常そこには全然仕事がないからどうしようもなかった。もう旅行で行くしかなかった。でも、フリーランサーみたいなアウトソーシングサイトが乱立してくれば、デジタライズできるスキルをもっていれば、個人単位でネットで地球の裏側からでも仕事を見つけられるし、稼げる。トフラーのいう「第三の波」がいよいよ本格的に離陸してきたといってもいい。

 だから、高給スキル職もどんどん海外に流出していく、もうダメだあ!というのは一面的なモノの見方、昔の発想に縛られているからそうなるに過ぎません。「絶望は愚か者の結論」というではないか。「逆手に取る」というのはそういうことです。

 他にも幾らでも方法はあるでしょう。新興国が経済的に豊かになっていくということは、過去の日本のパターンを繰り返すということでもあり、過去の我々が直面した問題に彼らもまた直面するということです。これって、美味しいビジネスチャンスの宝庫じゃないですか。だって、今の日本ではもはや無用の長物と化した昔の商品を倉庫から出してきて、埃を払って、パッケージを一新して売ればいいんです。新たにゼロから作るよりも遙かに楽です。

 例えば、新興国においては中流意識を持つ人、中流になりたい人が増えるだろうし、ということは進学希望者が増え、受験が厳しくなり、受験対策が求められるようになるということでしょう?すなわち受験予備校や塾であり、受験参考書であり、お受験から胎教まで含めたあれやこれやです。また金融的には学資保険なんかもあります。こんなの日本人にとって得意中の得意でしょう。公文はとっくの昔にオーストラリアに進出していますし、他にも海外に進出している予備校系があります。現地の言葉で教えるのは難しいけど、受験対策の統計的方法論(すなわち「試験に出る英単語」的な)、組織方法やマーケティングは使える。

 そうなると日本のものを現地に持って行く際にどういうマーケティングにしたらいいか?という、あたらしいマーケティング理論の開発や、その実践者が求められる。日本のモノを現地にもっていくときに、何をひっこめてどこを強調すればいいかというコンバージョンが新しいポイントになっていくでしょう。これだけでも相当なビジネスチャンスです。マーケッターやコンサルティングビジネスの肥沃な大地が待ってます。

 さらに、日本国内の日本人も新たな時代を迎えて当惑する人も多いでしょう。「困る」というのは一つのニーズであり、それはビジネスチャンスでもある。例えば、いま書いている「うつ」だって、時代の変化によって生じている部分があるのだから、「うつ」関係の新薬開発や治療、治療関係の書籍、あるいは癒し系の諸施設、諸メソッド(瞑想の会とか)も「うつビジネス」といえばそう言えるわけです。

 また、外に向かうベクトルが恐いゼノフォウビア(外国恐怖症)の一群は絶対でてくるから、これに対してタカ派的な言辞を弄して政治的ポイントをちゃっかり稼ごうとか、愛国的な気分を盛り上げる書籍など「日の丸ビジネス」みたいなものも儲かるでしょうね、ってかもうしっかり儲けていると思います。

 それに、繰り返しになりますが、「海外」と一口に言っても国によって実情は違う。インド市場とスリランカ市場だけでももう違うでしょう。ということは、世界の国の数だけ潜在市場はあるということです。これまでは何かの商品を売るにしても日本という単一市場しかなかったので、すぐに同業他社が登場し、苛烈な競争になり、価格破壊で自分の首を絞めるという展開になりがちでしたが、今度は違う。今後数十年で対象になりそうな潜在国は無数にある。ざっと見積もっても数十市場はある。それに各業界や商品の数を掛ければ、まだ手の着けられていない未開市場はマトリクスで数千単位であるじゃないかってことです。

 実際、オーストラリアの在住者としては、日本の全業種がオーストラリアにやってきてくれることを望みますもんね。特に宅急便とか、こっちは超いい加減なので苦労させられています(届けてないのに届けたと言い張るとか、でもってカスタマーサービスも"I don't know"で終わりだし)。オーストラリアで正確なオンタイムビジネスを展開できたら、それだけでかなりの顧客を得ることができると思うぞ。建築関係でも、修理してるんだか壊しているんだかって苦情は山ほどあるそうです。

 日本というのは、これで結構大した国なのです。それは大企業や政府官僚がすごいのではなく、僕ら一人一人の末端個々人の職務力量がズバ抜けているのです。潜在的にいえば、日本のもの殆ど全てが地球の全てに売れると言ってもいい。ただ一点、コンバージョンが下手クソ過ぎるので(個人レベルにおいても)、その力を表現できていない。もう、本当に、宝の持ち腐れとはこのことですわ。

どうやって発想を変えるか?

 ということで、発想や視点を変えれば、こんなもん幾らでも思いつくでしょう。もう無限に思いつく筈です。
 従来のシステムにしがみついている限りは地獄のように思えても、しがみつかなければ攻略法はある。スキーが大好きな人にとってみれば、春になって雪が溶けるのは地獄に見えるだろうけど、でも暖かくなれば今度は海で遊べるのだ。またスキーをしなくても、夏山には夏山の爽快な魅力はあるのだ。

 だからポイントは、どうやって発想を変えるか、どう視点をアップデートするか?でしょう。
 それは、旧来の固定概念&社会と自分との関係を多少緩めてやることだと思います。

 一例をあげると、たとえば「日本人としての私」というアイデンティや発想を薄めることです。

 江戸期にはまだ「日本人」という概念は一般的ではなかったといいます。全ては「藩」単位で動いており、だからこそ「脱藩」が生きるか死ぬかの大決断になった。その時点で「日本人」というより大きな概念でものを考えられたのは坂本竜馬など一握りの先覚者であり、列強と交渉せざるをえなかった明治政府でしかなかった(それでも彼らはまだ藩閥など旧体制にこだわってたけど)。今も同じだとしたら、日本に生まれたとか日本人だというのは、昔の「土佐藩士」とかいうアイデンティティに近い。今の日本人は、必ずしも生れ故郷で一生を終えるわけではなく、大都市に出たり転勤したりするのは普通になってます。つまり「日本人が日本のどこに住もうが当たり前」ですよね。これが一つ上の概念の括りになるのだから、「地球人が地球のどこに住もうが当たり前」くらいの感じになるでしょう。

 国や社会と自分のアイデンティとの紐帯を、切り離せとは言わないけど、ある程度ニュートラルにしたらよいということです。

 ここで、そんなことを唱えると、郷土愛や愛国心はどうなるんだ、社会から切り離されたエゴイストや逆に寂しい思いをする孤族が増えじゃないかという反論がきそうだけど、そういう問題じゃないと思う。僕が思うに、愛国心やら属する社会に対する何らかの想いの本質は何か?といえば、究極的には「他人への思いやり」でしょう。自分だけではなく、他人にも幸せになって貰いたいという想いでしょう。その利他的な想いは、まずは身近な家族や親友に照射され、さらに地平線まで広がっていく。その場合、なんとなく顔が見えるとか、関わりが実感できる方にいく。

 1年前の震災で、他エリアの人々が被災地の人々へ利他的な想いを抱いたのは、同じ日本人という国家体制や同民族という括りゆえというよりも、その実質は、関わりが実感できるし、顔が見えたからでしょう。必ずしも国やら民族やらというのは決定的なファクターではない。なんらかの「ゆかり」があり、顔が見えたり、人々の存在を実感できたら、人は同じように心を痛める。例えば海外赴任や留学などどでどこかの国のどこかの町に住み、そこで親しい人々も増え、恋人もできたりする。やがて帰国したあと、天災でその町が大変なことになっていると聞けば、同じように胸が痛む筈です。その痛みは、同じ日本国内の行ったことも聞いたこともないどこかの県の土砂崩れのニュースを聞いたときの痛みと同等かそれ以上でしょう。

 つまり、国だのなんだのという境界線は本質的なものではなく、大事なのは「人間としての自然な情愛」であり、それが全てだと思うのですよ。Am I wrong?

  自分のアイデンティティを日本人だと思いつつも、片や同時に地球人でもあると思うのは別に矛盾でもなんでもない。人は社会的立場を同時に10も20も持っていますからね。国民だけではなく、会社や職場での身分、出身校のOBだとか、サークル内での立場、姻戚関係の本家と分家、、などなど。いずれにせよ日本とか社会とかにアイデンティティを縛り付け、一蓮托生に心中しなくても良いわけだし、前回述べたような社会シンクロ率は下げた方がいいです。その方が発想が自由になる。

 孤独だの、社会とのつながりとか言いますが、生物として個体である以上、それが個々バラバラなのは当たり前、孤独なのは当たり前だと僕は思います。社会や人との「つながり」などの、分かったような分からんような概念も別に必要ないと思う。要は、自分が、他者に対してどれだけ暖かい思いを持つかでしょう?日だまりの中、お母さんと子供が楽しそうに歩いているのを見て、「あ、いいな」と素朴に思えるか、自然に頬がゆるんで、口の端にほほえみが浮かぶかどうかでしょう?その思いこそが尊いのであって、それだけでしょう。違うんかい?

 思うのですけど、寂しい人に必要なのは他者から優しくされることよりも、自分が他人に優しくすること、そういう他人に優しくできる機会を得ることなんじゃないかな。優しくされても、ときとして逆にミジメ感が募ったり、負い目が増えて辛くなったりしますもんね。心が寒いとき、「ココロの暖」をとりたいときは、「火は自分で熾(おこ)せ」です。愛されるよりも先に愛せ。妙な例ですが、ストーカーの皆さんはこれを実践しているのではなかろうか。愛することによって救われようとするという。でも、ああいうハタ迷惑な実践の仕方はダメで、そのエネルギーをもっと他のこと、例えば一人暮しの寂しいお年寄りの話し相手になるとかに振り向ければいいのに。息急ききってカンカンとアパートの階段を上がって、ドアをバーンと開けて、「ばーちゃん、桜咲いたで!一緒に見にいけへんか?」「何ゆうてんねん、桜見るのは日本人の義務やで!」とかさあ。やったらんかい。

 そして、これは次章の伏線になります。社会との紐帯を多少緩めて、その分何が増えるかといえば、「私は私である」という個としての自覚やアイデンティティだと思います。どこまでいってもキーワードは「個」なんだと思う。また、おいおい話します。

A墓穴ビジネス

 うわ、@果実採取系だけでこんなに書いてしまった。あとA墓穴ビジネス、B落穂拾い、Cその他ですね。Aの墓穴ビジネスですが、要するにフリーランサー・コムのようなものです。グローバリズムの流れに乗って、、というよりも、流れを加速していくビジネス。これの何が墓穴なのか?といえば、先進国的には自分で自分の首を絞めている、いわば墓穴を掘っているようなものだからです。

 また、前回書いたように学歴→エリートの道が年々厳しくなっているのに呼応して、より精密で激しくなる受験や就活なんてのもそうでしょう。皆が頑張るから益々競争水準がエスカレートする。パラダイムそのものは従来のまま受け入れ、それに適応しようとして頑張ると、結局は、自分で自分の首を絞めるような結果になるわけでも、これも墓穴系でしょう。

 墓穴系が悪いわけではないですが、ちょっと近視眼的だし、従来のシステムに対して投下資本(労力)が多くなればなるほど、それにしがみつく度合いも強くなり、結局は潮時を逃すという有り難くない副作用もあります。あんなに頑張って学歴や資格、いい就職ができたのに、今更それを捨てられるか!みたいになってしまって、チャンスを逸するという。

 あとは言うまでもないけど、全体に金詰まりになるから、とにかく簡単に手っ取り早くお金を掴もう、一攫千金を狙おうというパターンですね。最近この手のスパムメールが多いですね。乗る人いるんだろうなあ。その種のカモを釣るというビジネスが流行りますし、実際に流行っているんでしょう。

B落穂拾い系

 グローバルビジネスの主役である大企業というのは、図体のデカさが取柄なので、細かい動きがしにくい。「大男、総身に知恵の廻りかね」と言いますが、ミクロのビジネス局面でみたら、結構愚鈍な場合も多い。

 つまりは「粗雑な手」になりやすいということです。そこからこぼれ落ちた個々の消費者のニーズを拾っていくビジネスエリアを「落ち穂拾い系」とします。

 これはパッケージや大量処理の対極にあるようなもので、消費者個々人のインディビジュアルなニーズに徹底的に即応するものです。超零細企業なんだけど、零細なだけに運転資金も少なくても済むし、小回りもきく。吊しの背広ではなく、きちんと寸法を測って、年齢や職業を聞いてポケットの深さやゆとりまで計算して仕立てるという。まあ、早い話が僕がやってるAPLaCなんかもそれに入ると思うのですが、徹底的に個人単位にすることですね。ここでもキーワードは「個」。

 大企業というのは巨大になってくれた方が零細ビジネスとしては都合がいいです。競合しなくなりますから。中途半端にデカいと競合しがちで、そうなると資本の勝負だからまず負けるけど、サイズが違いすぎると別業種になる。

 これが将来有望なのは、あとでも書くけど主観面での栄養失調みたいな現象(それが「うつ」を招いたりもするのでしょうが)がある昨今、個人に特化するのは時代のもう一つのニーズでもあると思うからです。

 もう一つは、これは書き出すと長くなるけど、巨大企業の巨大ビジネスは、集団大量処理がしやすいような市場では抜群に強い。猫も杓子も市場だと強い。だから巨大企業はまず市場(消費者)を「洗脳」する必要がある。「新しいライフスタイルの提案」とかいって、皆に同じような生活をしてもらい、同じような欲望を持って貰った方がやりやすい。だから広告産業は巨大ビジネスには不可欠な存在でしょう。

 しかし、巨大ビジネスのコストカッティングが、多くの人々をリストラなどで弾き出すから、消費者を大衆から個人に還元してしまっているんじゃないかと僕は思います。職場においても、所属欲求や承認欲求をあまり満たしてやらなくなったしね。そして個として漂流せざるを得なくなった個々人が、「個」ではなく「孤」を感じ、ときとして「うつ」になる。

 今はまだ昔のメンタリティのまま、iPhoneが流行れば猫も杓子もで買ってくれるからいい。しかし、だんだん社会が分解していくにしたがって、猫は猫、杓子は杓子という自我が芽生えてきたらどうなる?「スマホ?別に必要ないし」という人々が増えてきたら、彼らの大量処理ビジネスはその根底地盤を失っていく。猫も杓子も同じ歌謡曲を聴いていた時代、同じように朝刊夕刊を取っていた時代は、音楽産業もマスコミも潤った。しかし、今となれば何が流行ってるのかすらよく分からない。一曲単位の配信なんてやるもんだから、iPodのコンテンツは人によって全然違う。

 現在から近未来はこの過渡期になると思います。若い人ほど新しい時代に対応しようとすると思う。「紅白を見ないと新年を迎えられない」と本気で思っている人の比率は高齢になるほど上昇カーブを描くと思います。逆に若くなればなるほど、テレビも見なくなるし、流行にもそんなに敏感ではなくなるんじゃないかな。強迫観念がなくなり、自分なりの生き方を探す。だって、そうせざるを得ないもん。猫も杓子も市場は、「みんなと一緒」とやってれば幸せになれる市場でこそ存在しうる。でも、今は皆と一緒にやっても幸せになれる保証もないし、そもそもみんなと一緒にやれないし、もっといえば「みんな」がどこにいるのかもよく分からんもんね。

 だから結局のところ巨大ビジネスも墓穴系だと思うのですわ。農業でいえば、大量収穫を望むがあまり土壌を痩せさせているようなものです。

 そうなってくれば「個」に徹底特化したものが逆に強くなるのだけど、これだけは巨大企業には出来ない。やってたら採算が合わないし、職人芸を有する人材育成も大変だから。より本質的にいえば、「巨大」であるメリットも必然性もないんだわ。


 あとちょっと違うんだけど、伝統工芸のような「その人でなければ」的な仕事も残ると思います。一本1万円以上する江戸箒の記事を読んだことがありますが、高いようで、手間暇と職人芸を考えたら安いです。今どき売れるのか?といえば、これが売れる。先々まで注文で一杯だそうです。

 共通するのは規格大量処理的な、プラスチック的な触感ではない、きちんとした本物の手触りが欲しいという人間本来の欲求に根ざしていることです。そして、グローバリズムが進展し、企業が合従連衡して恐竜化し、コストカッティングの嵐でどんどんパターン化していけば行くほど、商品やサービスの目は粗くなっていくわけで、粗くなった分だけ「落ち穂」は増えるだろうってことです。

 あと、この種のビジネスは、日本人にとっては非常に得意な分野です。なんつっても「極めていく」のが大好きな”極道”民族ですから。

 Cのその他は、文字通りその他で、他にも色々あるでしょう。大体@〜Bは、僕が書きながら20秒くらいで考えた思いつきでしかないので、もっとちゃんと考えたら幾らでも出てくるでしょう。

 ということで、食えるかどうかでいえば、「食える」と思います。これだけ新しいチャンスが増えているんだから、食えないでどうする?って感じ。

 以上、今回は精神的な本論に入る前に、一応物質的な部分にも挨拶しておきましょう程度のことで書きました。簡単に言えば、「それなりにやりようはあるんじゃないの?」ということです。



文責:田村



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