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今週の1枚(2012/02/27)



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Essay 556 :病んでいるのは個人か、社会か

社会シンクロ率〜「うつ」をめぐる風景(4)
 写真は、Enmore。
 どってことない路地裏の写真だけど、この一枚だけで結構いろいろ考えるネタがあります。
 まずここから正面の大通りへの進入を禁止しているのですが、抜け道をできなくすることで住宅地の交通量を減らし、静穏と安全を図るのですが、この種の規制は非常に多い。確信がない限り抜け道をしようと思わない方がいいです。迷宮を彷徨い続けるハメになります。第二に、真正面は店舗移転の通知が書かれてます。"We Have Moved"英語学習者は現在完了の使い方を学びましょう。なぜここで過去形ではなく完了形を使うのか?第三に、左手の赤いスクーターですが、かつては1年に一度も見なかったこの種のバイクが、エコ関心の高まり等の理由で多く見られるようになってきました。第四に、右手の白い建物ですが、トラディショナルな建物構造ですね。向う側が正面玄関で、手前ドハデなグラフィーティ(なのか意図的にペイントしたのか)のところまでは一軒の敷地。ちょっとセットバックした手前の小振りの建物の一階部分がおそらくキッチンや洗濯室など水回りで、手前の何にもない部分がバックヤード。第五に真正面やや右の建物も古そうですが、てっぺんにあるコマのような装飾が面白いです。古い建物は最上部の装飾様式が時代によって違います。都心半径5キロくらいは優に築100年以上の建物が多く、見てて飽きないです。ところで車の兄ちゃんは何やってるのかな?車の修理か?車の向きからいってバッテリーつないでいるわけでもなさそうだし。
 なあんてこと考えながら街を歩いてたりすると、ほんと、飽きません。



 ひきつづき「うつ」をめぐる風景です。
 例によって、同じ注意書きで恐縮ですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策するに留めます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。

病んでいるのは個人か、社会か

 なんでこんなに「うつ」に関してやってるのかというと、「うつ」病そのものではなく、「うつ」を取り巻く社会現象の方に興味があるのです。「病気」というすぐれてパーソナルなことなんだけど、それに留まっていない。本来パーソナルなことだけだったら、それがいかに深刻だろうが、いかに絶対数が多かろうが、これほどジンコーにカイシャ(人口に膾炙=世間の誰もが知っており、よく語られること)されないと思うのですよ。水虫だって、虫歯だって、深刻っちゃ深刻だし、罹患率の高さでいえば、はるかに高いでしょう。虫歯の罹患率なんか100%近いんじゃないかな。でも、社会問題という感じにはなりにくい。あくまでパーソナルな問題です。

 でも、「うつ」はちょっと感じが違う。単なる「一個人が病気になった」というに留まらず、社会全体の問題のように扱われている。個々の「うつ」の症状・内容もさることながら、人々を病気に追い込んでいる社会環境も俎上に乗せられている気がします。いっときの公害みたいなものです。

 これをキャッチコピー的にいえば、

 病んでいるのは「個人」なのか、「社会」なのか?

 ということでしょう。

 ところで、キャッチコピー(ツイッターもそうだが)は、とりあえず人目を惹きつける分かりやすさがあります。しかし、同時に「ツッコミ一つで意味不明」という欠陥もあります。この場合も同じで、「社会が病む」って具体的にどういうこと?そもそも社会って病むの?社会って生命体じゃないよ。そんなもんがどうして病気になるわけ?擬人化させすぎじゃない?意味わかんねーよってツッコミはあります。なんとなく「分かったような気」にさせるけど、そこから3センチ突っこまれたら、もうダメという。要するに分かってないのだ。

 逆に言えば、よく分かってないことを、あたかも分かったかのような錯覚にさせる効果が、こういったコピーやツィッターにはある。ちょっと恐い思考停止効果ですな。小泉劇場以来続いている「ワンフレーズ・ポリティクス」なんかも同じでしょう。んな、一言で言えて、一言で解決できるくらいだったら、誰も苦労はしとらんわい。いや、でも、本当に憂慮すべき「思考停止」というのは、「わからな〜い」というアホアホな感じよりも、「分かった気になっている状態」だと思うのです。

 それはさておき、ここを考えるためには、さらに一段遡る必要があります。
「病気ってなに?」です。「病気」を定義してください。

 僕が思うに、
 @、一定の継続性のあるメカニズムやシステムがあり、それが予期されるように廻っている状態を「正常・健常」という
 A、@のメカニズムが予定通り廻らなくなっている状態を「不健康」といい、その原因がある程度特定されるものを「病気」という

 てな感じでしょうか?

 この原理からすれば、@の継続メカニズムがありさえすれば、対象は生物でなくても良いのであり、社会も立派に病むことが出来ますし、実際にも「社会で病んでいる」と言われている場合には、ほぼこのような意味で使われているでしょう。

 次に「変調」ですが、「声変わり」は「変調」ではあるのですが、それも予期されるシステムの一環に過ぎませんから「病気」ではない。同じように、ある程度の循環的な景気の変動や不況は、システム的に予期されているものですから「病気」ではない。「老化」はシステム的に予期されているから病気ではない。逆に、何らかの不都合な変調はあるのだけど、その原因が特定しにくいような場合は「症候群」や「奇病」という大雑把な括りになり、さらに症状がランダム過ぎて関連性がわからないような場合は「病気」として認知されにくい。

日本社会の予定されていた機能

 さて、話を「うつ」に戻しますが、今の日本社会がなんとなく「病んでいる」かのように思えたとすれば、
  @本来予想されるべき日本社会の正しいメカニズムが、
  A特定の原因に基づいて変調を来たしている、
 ということになります。では何がどう変調を来し、その原因は何か?あなたは何だと思いますか?

 ここを突っこんでいくと、とんでもない社会分化論になっていきそうです。畳みきれない大風呂敷を広げることになりそうでビビっているのですが、そこを敢えてレックレス(無謀に)に突っこむとするならば、「社会ってなに?」「なんのためにあるの?」みたいなところまでいくでしょう。

 戦後日本の「社会」は何のためにあったのか、その本質はなんだったのか?ですが、おそらくは、経済的成長&成功であり、その果実を個々人に配分するメカニズムだったのかもしれません。敗戦でペッタンコになった日本が、どんどん復興し、経済的に豊かになること。それは国民個々人が物財的に幸せになるプロセスでもありました。「腹一杯メシが食いたい」からはじまって、家電製品を揃えて自動車を保有するという「健康で文化的な生活」にヴァージョンアップし、さらにバブルの絶頂期に世界最高峰のブランドを賞味するというところまで、経済的に復興・興隆するため、そしてその豊かさの恩恵を皆に分配するメカニズムとしての社会です。

 これは悪いわけではなく社会の存在理由の大きなものでしょう。古代農耕社会だって、一人でチマチマやってるよりは皆で団結して耕したり収穫した方がより豊かになれますからね。「みんなで力を合わせて生きていこう」という方法論が確かに息づいていた。

 これを個々人のメンタルから見ると、一生懸命働けば社会に対して貢献していることになり、皆に認められ、ときには賞賛されたりもする。自分の「居場所」を確保し、自分の存在を自他共に確認出来るという。これはデカいです。大雑把に言ってしまえば、こういった所属欲求承認欲求を満たしてやれば、人間というのは他愛なくニコニコしてるものだと思うのですよ。ある集団に行けばちゃんと自分の席が用意されており、そこで頑張れば確実に他の皆が喜んでくれ、「さすが○○さんだ」とすら言ってくれる。うれしいですよ。

 かくして戦後日本は、経済的に豊かになり、同時に個人も幸せになっていくというのが、予定されたメカニズムだったのでしょう。ベーシックな物財配分機能のほかに幸福創造機能もあったという、なんとも素敵なシステムです。

機能不全

 ところがぎっちょん(←なんて言い方を今でもするだろうか、ムチャクチャ前衛的な表現=”ぎっちょん”て何よ?=なので僕は今も好きなのだが)、予定されていたメカニズムが段々働かなくなっていった。

 第一段階としては、バブル後の不況によって企業収益が悪化し、人件費の圧縮=リストラが行われました。一生懸命皆のために頑張ってた筈なのに、クビになったり、厄介者扱いされる。ここで注目すべきは、単に個々人の生計の道が絶たれたということ以上に、メンタルへの衝撃です。だってさ「お前なんか要らない」と言われるわけですよ。これ、キツイですよ。所属欲求も、承認欲求も全否定されてしまうわけです。特に戦後何十年もそれで頑張ってきた人にとってみたら、天地がひっくり返ったようなものでしょうから、発狂しても不思議ではないです。

 さらに第二段階があります。2002年から2007年にかけての「いざなみ景気」は、日本で最長(69ヶ月)期間を記録するほどの好景気でした。しかし、人々の給与は上がらないし、可処分所得も増えない。だから豊かになった感じがしないどころか、派遣などの非正規雇用も増えて、感じとしては一貫して悪くなってる気さえする。これも大きいです。第一段階だけだったら、「不況だからしょうがない」という言い訳ができた。リストラは可哀想だけど、これも不景気だからしょうがないんだと。またリストラされた人だって、「皆のために涙を飲んで」という従来の文脈をキープする「なぐさめレトリック」もありえた。首の皮一枚だけど、まだ社会とつながっていられた。しかし、景気(企業収益)が好転してもさっぱり変わらないのだったら、そのレトリックも通用しなくなった。

 第二段階まできて徐々にハッキリしてきたことは、日本社会は、経済成長しても人々に豊かさを配分しなくなったということであり、さらには社会の幸福創造機能がしょぼくなってきたということです。

 これは色々な言い方が出来ますが、例えば経済と社会が分離していったということでもあるし、企業と経済が分離していったとも言えます。大手企業が好業績をあげようが、それによって日本経済が良くなるわけではない、あるいは良くなったとしてもそれが国民個々人の配分されることは、ゼロではないがかつてに比べればかなり減ってきた。

 バブル崩壊後、「不況によって人心が沈滞している」とかいう表現を良くみかけますが、単に「不況だから」という一過性のものではなく、もう構造的に変わってしまったと見るべきでしょう。「失われた20年」などといいますが、20年も同じ状態が続いていたら、それはもう一時的な凹みではないです。

 なぜそうなったか?これはさすがに本稿の主題を外れますし、これまでのエッセイでもさんざん述べてますが、要は経済のメカニズムそのものが変わったのでしょう。経済というものが国家単位で動かなくなった。これまで仲良く二人三脚でやってきた国家と経済がチグハグになり、経済発展→国や社会が豊かになるというダイレクトな関係が薄らいできたこと、そして企業、経済、社会が個々人に対して与えていた生活基盤の提供機能、ひいては幸福創造機能すら薄らいでいった。

 かくして「幸せのタネ」が徐々に減っていったら、皆さん不機嫌になろうし、ふさぎ込む人もでてくるだろうし、中には激しく落ち込んで「うつ」と呼ばれる精神状態になる人も出てきても不思議ではない。

 さて、こういった社会は「病んで」いるのでしょうか?難しいところだけど、確かに、これまでの予定されている機能は果たせなくなってきているので「病み」といってもいいです。しかし、その原因は環境の変化によるものです。メカそのものは昔のままで壊れていないけど、前提になる環境が変ってしまったから動かなくなっただけだと。機械でいえば、別に壊れてはいないのだけど、異様に低温になったから正しく作動しないという感じでしょうか。冬の朝に車のエンジンがなかなか掛からないような。このような状況を「故障(病気)」というのか?

 この場合、求められるのは「修理」ではなく「改造」でしょう。環境変化に応じてメカも変えていく。低温が問題なら、不凍液を使うなど寒冷地仕様にしていく。では、現在の日本社会の場合はどうか。個々人の生計基盤の提供と幸福創造という本来の機能を果すべく、社会もまた変わらなければならないのだけど、じゃあ具体的に何をどうやって変えるの?というと、これがよく分からない。だから立ち往生しているって感じでしょう。

社会シンクロ率

 新しい社会論はそれはそれでまた論じるとして(すごい面白そうな題材なので、一度にやってしまうのは勿体ない)、ここでは個人のメンタルに焦点を当てます。

 ところで、あの〜、素朴に思うのですが、経済&社会による幸福創造機能とか書きましたけど、生意気なことを言わせてもらえば、幸福という本来パーソナルなものを、社会とかそんなにものに作ってもらってたらイケナイのではないか?

 所属欲求、承認欲求は誰にもあります。しかし、別に社会にそれを求めなくてもいいじゃん?って。社会に所属・承認されてハッピーになるってのは、要するに、ガッコでいい点をとってクラス委員長という居場所を用意してもらうとか、成績上位者として貼り出されて皆に「すげー」といわれて嬉しいとか、そういうことでしょう?カリカチュアして言ってますけど、それなりに社会的に尊敬、承認されている「正業」という「居場所」を持ち、それが自我の存在理由になっているというのは勿論アリですけど、「それしかない」ってもんでもないでしょう。それじゃあんまり個体の精神風景として貧しすぎないか。

 「うつ」の話をしながら、第2、3回目にゲリラ論を執拗に書いていたのは、僕は社会との接点が始まるかなり初期の時点で、(今から思えば)ラッキーなことに、自分の幸福と社会との接点(臍の緒みたいなもの)を断ち切って貰え、あとは自分だけで自分の幸福を作ればよかったからです。

 社会に自分の「居場所」なんかあるとは思えなかったし、居場所なんかいらねーよって感じだったし、自分のことなんか分かって貰えなくていいと思ってたし、理解されてたまるかくらいです。生まれてこの方、他人に何かを相談したことなど一度もないし(歯医者に歯のことを聞くような専門所見は別として)。だから社会と自分の関係が結構希薄というか、実のところあんまりシンクロしてないです。

 多分日本の閉塞感に僕自身がほとんど不導体のように影響されないのは、単に海外にいるだけではなく、もともと社会と自分とのシンクロ率が低かったからだと思うのです。同じように暴力団とか暴走族の連中、自ら進んでアバンギャルドな芸術活動やってる連中とか、いい意味でも悪い意味でも"ヤクザ"な方向に進んでいった人は、最初から社会との臍の緒が薄いから、今でもそんなに「うつ」になってないと思います。なるとしたら、「才能が枯渇した」とかいうパーソナルな原因によるでしょう。世間がどうなろうが、あんま関係ない。

 あは!そういえば思い出した。大学の研究室にいる頃、苦節10年組の先輩達や、僕らも6回生とか”ヤクザ”な身の上になって勉強している者同士で、いっとき自虐ギャグが流行りました。何かというと「ワタシら、どうせ虫ケラですから」「ゴクツブシですから」と言ってはケラケラ笑うという。卒業→就職という黄金ルートを自らの意思で踏みにじり(その気になったら皆、実は学部でもトップクラスに優秀だったのに)、異様に合格率の低い当時の司法試験(1.6%)という「極道」やってたので、「世間の皆様の顔をまともに見られません」「早く人間になりたい」とかそんなことばっか言って笑ってました。でも、冗談抜きで、勉強帰りの夜道で職務質問とか何度もされたりするので、そういう「日陰者意識」はいやが上にも盛り上がりましたね。それが合格したら手の平返したように「先生」ですからね、「け!」と思いますよ。

ここでいきなり近代啓蒙思想

 このように社会と自分との「よそよそしい関係」は、現在に至るまで連綿と続いています。そりゃ、日本での仕事時代は、多くの局面で社会との関わりを持ちましたし、いわゆる「社会正義」的なこともやりましたし、手弁当の事件もデモやシンポジウムなども関与しました。それでも、それらは言ってみれば「メカの修理」でしかない。水道屋さんが配管の修理をするようなもので、プロとしての持ち場から問題点があれば直そうとするだけの話です。社会と自分の幸福というメンタルな部分はそんなにつながってないです。

 僕が興味関心があり、またメンタル水路がつながっているのは、個々の生身の人間だけです。それはもう本来の資質でもあり、且つ中学の頃にルソーに凝って、ジョン・レノンの「イマジン」聴いてガビーンとなってからの発想原型でもあります。「頭の上にあるのは空だけだ、天国なんてないよ。足の下にあるのは地面であって地獄なんかないよ」「ただ地球の上に一人一人の人間が乗ってるだけだ」という世界観は、今でもそう思う。個々の人間を超えるものは、それが国家であり、社会であろうとも、単なるメカ、お約束に過ぎない。実態なんかないマボロシのようなもの。

 個々の人間を超えるマボロシに価値をもたらそうという発想、それは典型的には「お国のために死ね」みたいなものだけど、他にも幾らでもある。「母校の名誉」「郷土の誇り」「○○(検察とか)の威信」とか。でも、そんなもん認めない。個々の人間を不幸にしない限度でだったら、気分的なデコレーションとしてあってもいいとは思いますよ。でも、個々の人間を押しつぶすことを正当化しうるほどの実態はない。ひいては日本国とか日本社会とか、あるいはオーストラリアとかいうのも、あんなもんただの「お約束」「ゲームのルール」に過ぎないと思ってます。ましてや永住権だのビザだのはただの入場券や定期券以上でも以下でもない。そんなカスミみたいな存在に、自分のメンタルをリンクさせようとは思わない。

 でもって、これは僕独自の偏屈な見解ではなく、もともと啓蒙思想以降の近代思想の保守本流でしょ。この世に人間以上の存在はないということを確認し、「あると何かと便利だから」という機能性のただ一点で合意して作ったのが国家である、というのが社会契約説でしょ?だから日本国憲法でもどこの憲法でもそうだけど、最高価値は「個人の尊厳」であり、これ以上の価値は存在しないという宣言こそが憲法の存在理由です。9条戦力論なんか枝葉末節に過ぎない。つまり個々の個人にとって便利で有意義な存在ではなかったら国家は存在してはならないのであり、まかり間違ってそんな出来損ないの国家が出来ちゃったりしたら、人々はそれに不服従する権利、ひいては抵抗権や革命権を持ち、さらには「抵抗する義務」すら負う。これが西欧近代主義の個人と国家の基本的な立ち位置でしょう。もう徹底的にメカニカルです。そこはメンタルとか情緒が入る余地はない。むしろ余地があってはならない。

 この発想はとっても僕好みで、それが世界の支配原理になっている時代に生まれ落ちた幸運を、神様に感謝したいくらいです。でも、ほんと、原理は簡単で、要するに人間がわりと好きだから、人間以外の得体の知れない「概念」とか「団体」とかが人間をいじめてる図があったら、とりあえずムカつくだけです。お前、身分をわきまえろ、と。それに、全く違った観点からいえば、世間でそういった「人間を超越する価値」(なんちゃらの名誉とか)をやたら振り回す人がいた場合、実は本気でそう思ってなくて、本心は自分の卑小な利害を追求したいからレトリックとしてそう言ってるだけって場合が多い。「○○するのが我が社のために」とか言うんだけど、本当はそのプロジェクトなり派閥を守りたい「自分のため」だったりするとか。ありがちだし、実際そうだし。戦争で鼓舞される愛国心だって、突き詰めていけば一部の中枢既得権者の利権のためでしょ。石油利権が欲しいから中東にチョッカイだすとか。

人と社会とのつながり

 話を戻して「うつ」ですけど、社会と自分とのメンタル水路やシンクロ率が低い僕にとっては、社会が閉塞的になったからといって、自分まで閉塞感を抱かなくても良いだろうと思うのですよ。てか「そんなん無理!」です。にも関わらず、そこで感じちゃったりしている人がいると聞くと、なんて律儀で、真っ正直な人なんだ!と思ってしまいます。

 ほんとのこと言えば、それ以前に、日本経済が沈滞→社会に閉塞感という因果関係ですら「謎の感覚」なんです。「えー?金廻りがいいかどうかと、皆が楽しくやっていくのとは、全っ然別の話じゃないの〜?」って叫びたくなる。なぜそこでシンクロするのだ?という。

 所属欲求なんか、別に社会に求めなくても、幾らでも満たされます。恋人とか家族とか、それで十分じゃないの?他にも趣味の集まりとか、なんだかよく分からない集まり、関西弁でいう「ツレ」の間とかさ。でも、それすら要らないよな。広くこの時代、この地球に「所属」してりゃいいじゃないか。承認だって同じ事だし、誰よりも愛する人にだけ承認されてたらそれでいいじゃないの?それに、地上で一番気難しく中々承認してくれないのは他ならぬ自分自身なんだから、自分に承認されたらそれでいいんじゃないの?社会は物理的経済的に必要だし、あえて貶めることはないけど、個人のメンタルを成り立たせるために必要不可欠なものなんか?すくなくとも「日本社会」なんか馬鹿でかいものが必要か?俺は要らないけどな〜。

 そういえばSNSなどで「社会(人)とつながりたい」とかいうけど、こういう欲求も僕にはあんまりないです。つまりは所属欲求も承認欲求も最初からあんまり無いのでしょう。これは僕が特殊過ぎるからなのか(まあ、そうかもしれないけど)。でもなあ、自分を自分として立たせていくのは、まずもって自分の責任でしょう?まずは他人様に迷惑をかけないように、自分を成り立たせていく、よりしっかりして、より内実豊かな人間になるのは、個々人の責任じゃないのか?で、そうやって自分に関わってあれこれ、調子に乗ったり、持て余したり、四苦八苦している様々な局面で、一期一会的に色々な人達と出会い、袖振り合うも多生の縁で一席一夕を共にする。そういうときは、できるだけ人間としてピュアに接していたいと思うし、それで殴り合いに発展する場合もあれば、痛飲快酔する夜もあるし、言葉もなくただ見つめ合ってる時もある、、、で、いいんじゃないの?

 僕は、それで人の一生として、まずまずゴキゲンなものじゃないかと思うのですけどねえ。ほんで、社会とやらの関わりは、あくまで生身の人間基準で、ここに可哀想な人がいます、ムカつく現場がありますという原点にはじまって、水戸黄門ご一行様が、何となくなりゆきで事件に巻き込まれていくような感じでいいと思うのですよ。「お父っつぁんが、、」で泣き崩れる町娘がおってやね、「これこれ、落ち着きなされ、ちと話を、、」で始まって、「うむ、これは捨てておけんな」と思えば、なんかすればいい。出来ないかもしれないけど、無力かもしれないけど、一緒にいてあげるくらいはできる。人や社会とのつながりって、そゆことじゃないのかって思うんですけどねえ。違うのか。

 長々ゴタクを並べてますが、何の話かというと、経済不況→社会の閉塞→個人の「うつ」という因果の鎖を並べられると、頷けるような、頷けないような気がするのですよ。

 本当にそんなに真っ正直に、ストレートにつながってる人なんかいるのか?と。なんかそんな風に思いこまされてないかと。一個の人間の実在というのは、そんなに理屈どおりいくんか?そんな薄っぺら(と感じる)なものなのか?と。

結局は「個」〜てめえの分はてめえ持ち

 ただ、まあ、戦後の日本社会の物財&幸福分配によって、「そーゆーもんだ」と思ってしまった人がいても不思議ではないです。言われるままにお勉強してたら、あとは配給車が巡回してきて、幸福を配給してくれるかのような。

 そういう場合は、親離れ子離れのように、一回どっかでバチン!と臍の緒を切るような体験なり機会、つまりは前回までに述べた「全世界を敵に廻す」ような体験を経る必要があるのかもしれません。「結局、自分しかいないんだよな」と、頭ではなく皮膚感覚で考える、てか血肉で考える、てか骨髄細胞で考えるくらい。でも、それは、決して異常な体験でもなんでもなく、個人が個人として成熟するために普通に必要なイニシエーションだと思います。

 だから思うのですが、結局は「個」でしょう、と。

 個人の幸福は、個人が責任もって自力で作り出すしかない。幸福に形なんかないし、お手本もない。それを社会とか、あるんだか無いんだかよく分からないものに頼ってもラチが開かない。むしろ、今までのように社会にやってもらっている方が不自然だし、気持ち悪い。「てめえの分はてめえ持ち」ってことで、わかりやすいじゃないですか。

 今後の社会のあり方論でいえば、全体に経済成長していく過程で、個々人の所属・承認欲求を満たすという幸福創造機能をもち、豊かになった物財を配分する機能、、というだけでは足りないし、そもそも実行不能でしょう。だとすれば、次世代社会のありかたとしては、個人を個人として立たせていくような機能になると思います。

 で、じゃあどういう社会がいいのか?としばらく書いてみたけど、ちょっと刺激が強すぎるからお蔵にします。いや、「臍の緒切断政策」とかさ、到底できるとも思いがたいし。

 思うに、「社会」には限界あるなって感じです。「国家や社会を良くして→個々人を救済」という方法論そのものが破綻を迎えているのかもしれない。「破綻」というのは言い過ぎだとしても、かつてほどの万能性を持っているわけではない。

 もともとそういうマス的な方法論というのは、産業革命から企画大量生産という規模の経済が出てきてからの発想でしょう?農業とか職人レベルだったら、「日本社会」のような図体のデカい社会は必要ない。人間一人の生活=生産&商業活動を賄うなら、今の都道府県レベルの広さと人口があったら十分可能でしょ。大体、シドニーの日本人社会(2万弱)という過疎の村みたいな薄い社会であっても、それぞれに生計を立てられたりしてるのだから、数万人おったらそれで十分とも言えるのだ。

 それに、図体という規模の経済で大量処理でいくなら、国家を通り越してグローバル企業になるしかない。だから、社会も国家も、今となっては帯に短したすきに長しって感じになってるのかもしれない。

 もちろん国家や社会全体にはまだまだ存在意義も機能もありますよ。マス的に扱うべき事柄、経済インフラ(通貨高権や司法救済システム)、治安とか、そういうものはあるから残ります。しかし、なんでもかんでも痒いところに手が届くようにやっていくのは不可能だろう。それをするお金もないし。

 もともと国家や社会が「あるべき人生」を定めて、それを完遂するためのインフラ(学校とか企業とか)を作って、それに皆で乗っかってやっていきましょうというのは、要するに共産主義でしょ。戦後の日本社会は、「世界史上もっとも成功した共産主義」と皮肉混じりに昔から良く言われていますが、ほんとそんな感じです。国家や社会があなたの幸福をケアしなくなっても(不幸はケアしますが=事故やハンデの救済など)、それはそれで当たり前のことでしょう。戦後70年近くたって、日本はようやく共産主義から自由主義の国になっていくのだと、「ええこっちゃ」と思えばいいじゃないかと。

 まあ、「ええこっちゃ」と思ったら、たちどころに「うつ」が直りましたなんてことは無いと思うのだけど、「うつ」にならないで済む一つの歯止めにはなると思います。だってさ、本質的に、他人にあれこれ指図されてうれしい人っているのかしら?いるのかなあ。



文責:田村



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