今週の1枚(02.05.27)
Still I don't know, maybe never.
シドニー雑記帳の初期のエッセイで「そんなに簡単にわかってたまるか」というのがあります。 そんなに簡単に社会のことなんか分かるはずがないということを書きました。書いたのが96年11月15日ですから、もうかれこれ6年も昔の話になります。
あれから6年、益々分からんようになっています。
これもちょっと前に書きましたが、APLACを”情報サイト”だと思っていただきたくないな、という気持ちが芽生えてきています。まあ、広い意味では情報サイトなんでしょうけど、いわゆる「これを知ってれば大丈夫」的な情報サイトではない。というよりも、そんな情報サイトなんか、本当の意味ではこの世に存在なんかしないんじゃないか?するわけないじゃん!という気にもなっています。
ここで僕は「”情報”って何なのよ?」って話をしようとしているわけです。
深く突っ込み出すと、「人間の知覚生理」とかいうとんでもない迷宮に入りそうだからサラリと済ませたいのですが、例えば「情報」といっても、ある程度客観的な「データー」と、主観的な「知識」「感想」「意見」とがあると思います。
ちなみに”data”という単語は、こちらで「ダータ」と呼ばれる場合が多いような気がします。それか「デイタ」。間違っても日本語式にデーターと「ター」を伸ばしたりはしないんじゃないでしょうか。
そのダータですが、調査/サーベイ、国勢調査/センサスとか、一定の厳格なメソッドが決められ、採取過程も証拠も全て残っているような場合がそうですし、あるいは物体とか証拠写真とかもそうでしょう。まあ、裁判でいえば「物証(凶器に使われた包丁とか)」ないしは、「レポート(血液型一致の科学的報告書とか)」です。これらのデーターは、比較的客観的ですし、どうやってその情報を得たのか、どう分析したのか、その過程を逐一追えますのでまだ信頼性が高いです。
でも、100%信頼できるかというと、それは出来ない。
マーケティングなんかでもそうですが、調査だって、質問事項の聞き方、並べ方によって結果がいくらでも違ってくるといいます。グレーゾーンを白に取り込むか、黒に取り込むかです。調査の方法だって、恣意的に変えられますからね。例えば消費者物価指数だって、対象品目をあまり値上がりしそうもないものをメインにリストアップしておけば値上率は低めにおさえられるし、その逆もしかり。日本がデフレだといいますが、確かにマクドナルドとか吉野屋とか見てたらそうでしょうけど、これまで水道光熱費、公共交通料金が下がったことがあったでしょうか?じゃあ教育費は?書籍代は?ねえ、マクドナルドなんか日本人平均で一ヶ月何回食べるのか。JRは一ヶ月何回乗るのか。そういうことを考えると、本当にデフレなのかどうか、それだけ生活しやすくなっているのか、疑問ではあります。
よく官僚さんがやるテが、最初からAという法案を通したかったら、そのための「道作り」をします。A法案の必要性を暗示するような調査結果を何ヶ月も前からそれとなく報道したりするでしょう。逆に必要性を否定するかのようなデーターは伏せるとか。早い話が刑罰を強化したかったら、その種の犯罪事例の警察発表を増やせばいいわけです。ちょっと前でも、ほとんど連日のように「少年&(バタフライ)ナイフ」系の記事が新聞を賑わせていましたが、ある時期を過ぎたらパタッとそういう記事が載らなくなったと思いませんか。経済統計でも、政府がムキになって「消費が増えて景気は上向きに」と強調しても、誰もそんなに信じてないとか。消費が増えたといっても、携帯電話が流行ったので通話料金が増えただけだったりとか。
このあたりの政府や統計数値への批判的な見方というのは常識として知っておいた方がいいと思いますし、インターネットを見てたら僕よりも上手に説明してくれているページがありました。朝日新聞のサイトの、船橋洋一氏のコラムの2000年07月13日「日本は統計も不良資産ですか」という個所です。
イチイチ見に行くのが面倒な人のためにちょっとだけ抜粋引用させていただくと、
「こうした消費実態は現在の政府の消費統計には反映されない。
総務庁の家計調査のサンプル数は8000。地方自治体に委託し、主婦に家計簿をつけてもらっているが、なり手がなく結局、その多くを自治体職員の妻たちに引き受けてもらっている。平均年齢52歳以上である。単身世帯は抜けてしまう。」
データーや統計に関する笑い話というか皮肉な小話で有名なのがありますよね。「全人類の統計をとったところ、平均的な人類は、乳房をひとつ、睾丸をひとつ持っている」というやつ。平均や統計のマジックと誤導を皮肉ったものです。
あと、物証系とか証拠写真系ですが、これも批判的に見ればいくらでも見れます。写真なんか、特にいじくらなくたってアングルと構図だけで全然イメージが変わってしまいますもんね。早い話が映画なんかがそうです。「誰もいない昼下がりの公園。老刑事がひとりでベンチに座っている」というシーンを見てると、ほんとうに誰もいないように思いますが、実際に「客観的に」その場の情景を見れば、周囲に何十人という映画のスタッフが大騒ぎして仕事してるわけですよね。誰もいないどころか集団でイベントが行われているわけです。でも映像からはそんなことは分からない(というか分かったらダメなんですけど)。
ただ、それでもこれらのデーターはまだしも客観的ですし、再検証するのも比較的容易です。難しいのが、人の主観が混じった「知識」「感想」「意見」です。
たとえばですね、「オーストラリア人は○○だ」とか、「この学校はいい」とか、「美味しい店」とかですね、その種の話は沢山あるわけですが、「本当にそうなの?」と考え出していくと、よく分からなくなります。
ある意味、人の言うことくらいアテにならないものはないです。前に書いた記憶がありますが、刑事裁判などでは「伝聞法則」といって、証人が直接証言台に立ち、反対尋問を受けるのでなければ基本的に証拠にしてはならないという法則があります。なんでそんな面倒臭いことを言うかというと、人間の「知覚→記憶→表現・叙述」というプロセスには、いたるところで過誤が混入しやすいからです。
例えば、「AさんがBさんを背中から包丁で刺して殺しました。私は見ました」という人がいたとします。それだけ聞いてれば決定的な証人のようですが、そのとき「AさんとBさんはどんな色の服を着てましたか?」というと案外覚えてないものですし、特に人間の色彩の記憶保持力は非常に弱いと言われてます。誰か知り合いの人を思い浮かべて、その人と最後にあったときどんな色の服を着ていたか鮮明に思い出せますか?「どうしてAさんだと思ったのか?」というと、これも問いただしていくと、意外と顔を見ておらず、勝手にそう思い込んでいたり、根拠が無かったりすることもあります。
包丁で刺したというが、どんな包丁で、どこの部位に刺したのか、何回刺したのか?とか聞くと、これも実はよく見ておらず単に二人の人間がもみ合ってるように見えただけだとか。「包丁」というのは全くの推測で補ってるだけかもしれません。結局あとになってみたら、飲み屋の裏通りで全然関係ない二人連れだったり(一人は道端に嘔吐して、もう一人が背中をさすって介抱してただけ)とかいうこともありうるわけですね。
このように人間の記憶って結構アテになりません。何人かでどこかに行って同じを物を見てきたとしても(例えば友人の病室にお見舞いに行ってきたとか)、帰ってきたら、あの病室は結構狭かった、いや広かった、明るかった、暗かった、、、と、人によって言ってることが大分違ってきたりします。
また、何をもって「広い」と感じるかどうか、どういう言葉で自分の記憶を表現するかは、各人の用語例によってマチマチです。「広かった」というのは、何かに比較してそう思っている場合が多く、無意識的に「自分の予想よりは広かった」という比較で言ってたりします。病室というものはもっと狭いものだという予想を持っていった人には広く感じられ、広いという予想をもっていった人には狭く感じられたりします。
ですので、「見たというのは具体的にどういう動作を見たのですか」「広いというのは、畳にして何畳くらいのことを言ってるのですか?」など、そのあたりを押さえておかないと、とんでもない誤解を招いたりするわけです。これって結構恐いです。
あと「認識・評価」にまつわる誤認識もあります。
オーストラリアのスーパーのレジでは、万引き防止のためにカバンをチェックされたりします。これは「このサイズ以上のカバンを持ってる人にはチェックするかもしれませんので、ご協力を」という注意書きが大体はレジのところに書いてあります。でも、常に常にやるわけでもないです。やってたら事務遅滞が激しすぎるので、基本的にはランダムチェックだと思います。で、それを全然知らないで、「カバンを開けて見せろ」といわれたらちょっと慌てますが、慌てるだけに留まらず、「アジア人だから差別したんだ。他の白人にはカバンチェックをしなかった」と思い込んでしまう人もいないとは限らない。つまり、記憶は正確だとしても、状況認識そのものが間違ってるという場合も多いわけです。
「オーストラリア人は親切」といっても、ある人から見たら単に営業スマイルにしか見えない場合もあるでしょう、全然親切とは思えない場合もあるでしょう、もちろんすごい親切に感じる人もいるでしょう。「本当に喜んでたよ」「いや、あれはお世辞でそう言ってるだけだよ」「そんなことないって」、、とか、そういったことで他人と意見が食い違うことってよくあるでしょう?
「美味しい店」なんてのも評価にまつわる情報の典型といえます。何が美味しいのか人によって味の好みは十人十色ですし、大体そのときにオーダーした品目も違うでしょう。
さらに認識や評価が比較的正しかったとしても、「一般化してよいか」という問題が出てきます。たった一度親切にされただけで、その人が親切な人だと言ってしまってよいのかどうか?この種の誤解は、例えば、なんの気なしに親切したところが、「彼女は俺に気があるんだ」とか勝手に思い込まれて迷惑するようなケースを思い起こしていただければわかると思います。「状況証拠とそれに基づく推論」というのは、考えようによっては幾らでもできますしね。また、贔屓にしているレストランでも、日によって味は違ってくるでしょう。ジャストミートの日もあれば、イマイチの日もあります。これは工業製品じゃないんだから当たり前だと思います。自分が料理をしてても、うまく行く日といかない日がありますしね。
そんなこと考えていると、本当のところはどうなのか、深く考えこんでしまうようになります。
余談ながら「美味しい店」かどうか、今漠然と僕が思ってるのは、@少なくとも数回以上その店に通ってから結論を出すこと、A面倒な仕込みなどをキチンとやってるかどうか仕事の丁寧さ、そしてその丁寧さが落ちないこと、B従業員教育や全体の雰囲気などシステム作りに心を砕いているかどうか、などで総合的に考えるべきなんだろうなということです。結局は、そこのオーナーなりシェフの人柄に帰結するのかな?という気がします。幾らでも誤魔化せるのに誤魔化さないで誠実な仕事をしている店はやっぱり美味しいと可能性が高いですし、味が同じ程度でも食べてて気持ちのいい店というのは確かにありますし。その店の志向性、つまり大衆路線で行くのか、高級路線でいくのかですというポイントもあるでしょう。大衆路線の店なのに、高級路線の見地から批判するのはアンフェアだろうと思います。ですので「たまたま食べに行ってそこそこ美味しかった」みたいな偶然性の強い一回性の情報は、やはりそれだけのものに留めておくべきだろうなと思ってます。
以上は一般的な、人間の知覚能力、表現能力、評価の個別性についての話でした。
これらに加えて、さらに、オーストラリア独特の「捉えにくさ」というローカルバイアスがかかってきます。
例えば、オーストラリアの末端現場は、能力的にも、人柄的にも、知識的にも、かなり個人差があってバラバラであることです。ある窓口ではニッコリ笑ってOKだけど、別の窓口では剣もホロロに追い返されるという事態も生じます。それもかなり頻繁に生じます。また「今度からこのように制度が変わりました」といっても、なかなかそれが末端まで浸透してなかったりします。役所や組織に問い合わせても、かなりの知識と権限とIQを持ってる「ライトパーソン」から情報を直取りしない限り、その答えは盲信しない方が無難だったりします。前回挙げたように、各省庁のホームページのメディアリリースをチェックした方が早いし、正確。ただし、その正確な情報を、末端現場が正しく実践してるかどうかは保証の限りではないです。
それに規制やシステムはコロコロ変わります。日本のテンポからしたら、かなり猫の目状態で変わります。だからちょっと前の情報だったら、もう鮮度を失ってる可能性も高いです。たとえば、永住権のポイントテストのボーダーが、この5月8日から110点だったのが115点に殆ど抜き打ち改正のように変わりました(全てのカテゴリーではないですが)。おそらくは新しい予算案編成と期を一にしているのだろうと推測されますが、年度始めの7月1日からというわけでもないです。7月1日から変わるケースもあるけど、そうでないケースもある。事前に情報が流れる場合もあるが、全然流れない場合もある。
変わるのだけど、そのあたりの情報は誰もが知ってるわけではない。知ってたとしてもそれが正しいという保証もないし、既に古くなってる恐れもある。また、将来的にいつ変わるかもわからない。
オーストラリアの情報を仕入れる場合、特に公的な情報を仕入れる場合は、この点を頭に入れておかれるといいと思います。たまたま、ある役所である取り扱いを受けたからといって、直ちにそれが一般化できるわけではないです。もっと多くのサンプルケースを集める必要がありますし、その情報の根拠となった事実がいつ発生したのかを押えておく必要があります。
こうして、目の前に相矛盾するさまざまな素材情報を並べておいて、「ま、こんなところちゃうか?」で推測をするという感じですね。誰かに聞いてポンと分かるということはマレですし、あんまりポンと返ってくるような回答は、ちょっと距離を置いた方がいいように思います。
さてさて、これらの面倒くさい事情を頭に入れて、「アテになる情報かそうでないか」を各自が見極める必要があるのでしょう。
でもそうやって厳密に見ていけばいくほど、「情報」という名に値するものは少なくなります。少なくとも客観性は乏しくなっていきます。例えば、「あの店は美味しい」という情報も、より正確にみれば「美味しいと思った」であり、さらに「僕には美味しいと思えた」であり、さらに正確に言えば「○月頃に注文した○○は僕には美味しいと感じられた、という記憶がある」となっていきます。もっともっとなんで美味しいと思ったのか?と突っ込んでいけば、結局「僕好みの濃い味つけだった」という事実にぶち当たるでしょう。そうなると情報の「本体」はやせ細ってきて、結局はそういった個人の一回的な好みの記憶に過ぎなかったりします。それをドワワと一般化して、「あの店は美味しい/マズイ」になり、さらに無限大に一般化して「オーストラリアのフードは美味しい/マズイ」になっていくわけですね。
でも、ここまでくるともはや「情報」どころか、「記憶」でも「感想」でも「意見」でもない。「推測」とすら呼ぶのを躊躇われるくらいになり、「あの店が美味しかったから、多分他の店もそうなんじゃないかな〜という気がソコハカとなくする」という程度のことに過ぎないんじゃないかって気もします。でも、案外とこの種の「情報」は多かったりするのですね。
ただ、僕はそれが悪いとは言ってません。個人の無邪気な感想を無邪気に言う分には全然構わないし、何ら問題ではないと思ってます。そんなに厳密にうるさいことを言ってたら、誰も何も言えなくなりますもんね。問題は、情報の受け手にあるわけです。その情報の解析能力如何だと思います。美味しい店情報も、「きっかけ」としては大いに参考になるわけです。「ほお、それじゃあ」というわけで出かけてみて、実はそんなに美味しくなかったとしても、だからといってその情報を恨んだりするわけでもないですしね。
もう少し「情報」について、切実で具体的な話をしましょう。
仕事柄、英語学校の紹介をしますが、僕の方針としては基本的に「良し悪し」では紹介しません。良し/悪いの尺度が人によって違うからです。その代わり、学校の特徴をできるだけ正確に言うように努めます。そして、その特徴を「正しく理解してもらうための情報」というのも必要になります。でも、これってかなり面倒くさい作業だったりするのですね。「ズバリおすすめの学校を教えてください」と聞かれても、「いや、実は〜」で話をはじめなければならないわけです。
例えばですね、よくあるのが「日本人比率が少ない方がいいです」という意見というか、リクエスト。
これもですね、最初は「なるほど、同感」みたいに思っていたのが、段々「うーん、時と場合に、、」になり、最近では極端な例を除いて殆ど考えなくてもいいんじゃないかという気がするようになってます。
まず前提として「日本人比率」ですが、それを言うのだったら国籍のバラエティと分布だと思います。だって日本人比率が5%であっても、中国人比率が95%だったらやっぱりイヤでしょ?日本人が少なければいいってもんでもないでしょう。
あと日本人比率のリアルな実感が、あまり理解されていないウラミがあります。
「日本人50%」というのは、数値としては多いようですが、実際には意外とそうでもないです。というのは、あなたの家の食卓の6人がけのテーブルにあなたの他に2人日本人がいるとします。あとの3人が韓国人、ドイツ人、ブラジル人が座っています。で、全員で英語喋ってる場合をリアルに、リアルに想像してみてください。これって結構迫力ありますよ。で、日本人率18%というのは、6人テーブルであなた以外全員外人である場合です。日本人率80%とか、100%とかいうならともかく、50%を切ってたら、実戦現場では十分に英語の勉強になりえます。だっていくらでも英語で話し掛けて会話できるじゃないですか。それでも英語の勉強にならないとしたら、それは日本人比率の問題ではないです。もっと他の問題です。
「他の問題」のひとつは、日本人の比率ではなく、クラスで一緒になってる日本人の「質」です。例えば、コギャルみたいなのに取り囲まれてペチャクチャ日本語ばっかり聞かされるか、それとも海外経験や社会経験も豊富で真面目に勉強しようとする日本人かどうかです。日本人がちょっとでも居たらすぐに日本語で話し掛けてくる連中に囲まれて、流されるちゃうかどうかが問題なんですね。
ほんでもって、大雑把にいって、ワーホリなどでこちらに来られる日本人の過半数、もっといえば「大多数」の人が、英語を真面目にやってこなかったし、英語というものを舐めてきてます。何度も言いますが僕もその一人です(ワーホリじゃなかったですが)。舐めてましたね。で、英語レベルが低ければ低いほど「舐めてる度」は反比例して高いです。ちょっとやれば何とかなると思ってる。逆に英語レベルが高ければ高いほど、舐めません。これは何でもそうですが、プロになればなるほど「一生勉強です」という具合に謙虚になっていきます。これ、別に「謙虚」でもなんでもないんだと思います。その人としては、本当にそうとしか思えないのでしょう。
実際、これまで300名以上サポートしてきましたが、英語力が飛びぬけて高い人は除いて(TOEICだったら900点以上)、ある程度英語力が高い人ほど(800点前後以上)、より学費の高い学校により長期間行く傾向があります。逆に出来ない人ほど、学費の安い学校により短期間行く傾向があります。それは英語というものの、その人内部における位置付けに関わってるのだと思います。どれだけ金と時間を投資する価値のあるものかの評価です。
いや、別に安い学校でもいいですし、短期でも構いません。それはそれなりに目的をもって、自分なりに位置付けていれば何の問題もないです。ただ問題なのは、英語を舐めてる人ほど、挫折も早いってことです。語学って、数ある勉強のなかでも、最も地味でツライもので「とにかくひたすら勉強するしか上達方法がない」ものです。だから、「ちょっと勉強すりゃなんとかなるだろう」という人に限って、ちょっと厳しい現実に直面するとメゲます。メゲて、もう英語上達の気力がなくなり、できるだけ日本語で済ませられるのは済ませようとします。で、学校でも、他の国の人が目の前にいるのに平気で日本語で話し掛けてくるという。これが問題なんですね。
勉強という観点でいえば、日本人比率が問題なのではなく、「諦めちゃった日本人」の比率が問題なんだと思います。諦めないで頑張ってる日本人は、これは幾ら居ても刺激にこそなれ、そうそう邪魔にはなりません。で、そういう人はどこにいるかというと、どの学校にもいます。そして当然のことながら上のクラスに多いです。ですので、本当のことを言いますと、どういう学校にいくかよりも、自分がどれだけ上のレベルにいけるかの方が、実践的には大きな影響力を持つのですね。
もっとも人間的に面白いかどうかは、英語の出来不出来と関係ないですけど。
レベルの上下の話になりましたので敷衍して言いますと、一般的にいって上のレベルになればなるほど、学費分のモトが取れる傾向があると思います。大体ある程度英語が出来ないと、いくら多国籍の学校でも同じ民族同士固まりがちです。それは当然だと思います。上のレベルになりますと、お互い英語でコミュニケートできるようになるから、民族ミックス環境が楽しく出来上がる傾向があります。また、細かく深いところまで語り合えたら、各文化についても突っ込んだ理解が出来ます。でも、英語ダメだと、「日本人は殆ど過労死してるって本当?」なんてとんでもない質問をされても、「オー、イェー」とか情けない返事をして終わり、、、って冗談みたいな状況になりがちです。
あと、アクティビティとかもありますが(遠足とかバーベキューとか小旅行とか)、これも学費のうちです(実費負担になってるケースが多いですが、企画立案するスタッフの人件費は学費に含まれているでしょう)。バスと隣り合わせになったスイス人と2時間楽しく喋れたらいいわけですけど、会話が途切れて気まずい沈黙が訪れ、やがて苦痛になって寝たふりして2時間やり過ごすなんてことだってあるわけです。そんなことやってるうちに、アクティビティそのものがイヤになるとかね。これもありがちな話です。だから、モトが取れないという。
その意味でも、日本にいる時点から、暇があったら勉強してたらいいです。絶対無駄にはなりませんから。良い学校に行きたいんだったら、今、勉強しなはれ、と。
ただ、悲しいかな日本にいる時点からそんなに勉強ばっかりやってられません。だから、不可避的に英語ダメなまま来られる方が多いです。それはそれで構わんです。世の中英語よりも大事なことは幾らでもありますからね。今あるポジションで「いい仕事」をする方が大事だと思います。
で、英語ダメ状況で来られた方はどう学校を選べばいいか?です。ここからさらに難しい選択になるのですね。
皆さん、「英語ができるようになりたい」とおっしゃられます。それはそれで当然でしょう。でも、本当はそれだけではないでしょう。人間の目的なんかもっと多様でボヤヤンとしている筈です。そんな宮本武蔵が剣の道に邁進するように英語を学ぼうとする人はマレです。普通だったら、「楽しい時間を過ごしたい」「充実したい」という思いもあると思うのです。無意識にですけど。スパルタ式千本ノックで確かに英語はできるようになるかもしれないけど、辛くて辛くてたまらないのもイヤでしょう。それに、楽しいと感じられているときが最も学習効率が高いという側面もあります。
あと、来たばかりの頃は右も左もわかりませんから、生活全般についてのサポートが欲しいという人もいるでしょうし、同じ日本人同士生活情報を交換したいという意図もあるでしょう。また、ホームステイとかして家で絶対的100%英語環境の人にとっては、学校こそが唯一日本語で意見交換できる場でもあるわけです。その意味ではある程度日本人がいてくれた方が、都合が良いという面もあるでしょう。つまり、英語力が乏しく且つオーストラリアに来たばかりの人にとっては、英語学校は単に英語を学ぶだけの場所ではないです。ある意味では社会との唯一の接点でもあります。生活のペースメーカーであり、社交の場であり、友達作る場であり、生活基礎知識を仕入れる場であったり、視野を広げる場であったりします。
それらの付加要素をどのくらい計算に入れるかです。
また、「楽しさ」「快適さ」についても、その尺度は人それぞれです。地味にコツコツやるのが性に合ってる人は、あまり干渉されない独立独歩の環境が好ましく思えるし、それがその人によって「楽しい」環境なのでしょう。逆に、皆でワイワイ遊んでるのが「楽しい」という人もいます。学校ごとにそのあたりのキャラクターの違いはあります。同じスタッフの対応でも、日本式に礼儀正しく接してもらった方がしっくりくるという人と、オージー式に陽気にフレンドリーにやってくれた方が合ってるという人とがいるでしょう。
各学校にはそれなりにキャラクターというのがありますが、それは、「データー」とか「情報」とかいう形であらわしにくいのですね。もう肌で感じてもらうしかない。ハッキリ言えば、「データー」と「好き嫌い」は全く次元が違うものですからね。厳しい環境の方が真剣に勉強できる面もあります。でも厳しすぎてトラウマになっちゃったらモトもコもないわけで、リラックスしてないと学習効率も落ちるという側面もあります。硬軟どのくらいの割合で織り交ぜるのか、そこにその人だけの「魔法のレシピー」が生じるわけです。
また、口コミで伝わる学校情報も、これらのことを頭に置いておかないとハズす畏れがあります。
学校によっては、下のレベルと上のレベルとで民族構成がガラリと違うところもあります。大体、上がヨーロピアン系で、下がアジア系なのですが、それがわりと鮮明にでてるか、平均化しているかです。学校の提供する日本人比率は全てのクラスを平均した数値ですからね。平均値のマジックというのがあります。
比較的に二極分化している学校にいった場合、レベルが上の人と、下の人とではまるで正反対の感想になることもありえます。上の人は「世界各国の人と楽しく交流できてたし、アクティビティも楽しくやれたし、おかげで英語も上達していい学校でした」というでしょう。下の人は、「日本人が少ないなんて嘘。クラスの半数以上は日本人で、アクティビティなんか誰も参加してない」という感想を持つでしょう。だもんで、その人がどの地点からモノを見ていて、しかもどれだけ総合的に物事を捉えられるかによると思います。
それとですね、英語学校って、行く前は誰でも「英語ができるように」ということを言い、出た後は「楽しかった/なかった」で物を言う傾向があります。英語って、3ヶ月程度の短期スパンでは何がどう出きるようになったかなんて自分でもよう分からんのですね。でも、楽しかったかどうかは確実に言えますしね。また、実際に通い始めてしまえば、日々楽しいかどうかが一番の重大事になるんですよね。その楽しさが、英語上達にどう影響したのか、プラスに作用したのかマイナスなのか、これも自分では分からんと思います。極端な話、英語力は伸びなかったけど楽しかったから満足なんてこともあるわけですし、その逆もあります。
そういった現状をツラツラ考えてみますに(これらのことはほんの一例に過ぎません)、「この学校がいいでーす、オススメでーす」なんて、とてもじゃないけど気楽に言えなくなってくるわけです。いきおい、説明は饒舌にならざるを得ず、英語というのは何なのか、英語を学ぶということはどういうことか、シドニーで暮らすということはどういうことなのか、という前提から耕しておいて、そのうえで、「さて、学校ですが」という具合に展開していかないと、偏った理解になってしまう恐れがあるわけです。
情報というのは正確になればなるほど、まとまりがなくなり、モコモコと曖昧なものになっていくのでしょう。「オーストラリアは〜」みたいな一刀両断系の断言は、知れば知るほど段々出来なくなります。6年前と今と比べたら、やっぱり今の方が一刀両断しにくいです。ただ時間が経つほどに、いろいろな状況証拠を横断的に拾い集めて、そのうえで「こう考えると辻褄があうんじゃないかな」という「仮説」として展開するという形になっていきます。また、その状況証拠を拾い集める範囲が増え、仮説の適応領域が広がるという部分はあります。例えばオーストラリア人の仕事の杜撰さという「怠け者ぶり」と、5人に一人はボランティアやったり、マメに日曜大工や車の修理をやったり、投票率が100%近いという「勤勉ぶり」とをどう統合的に説明するか?です。相矛盾する断片情報を並べておきつつ、そこから大きな絵が透けて見えてくるかどうか。
ただ、一方では、「情報」とやらを皆はなぜ欲しがるのか?を考えてみると、実は皆さんそれほど超正確な情報を欲しがってるわけでもないと思うのですね。逆に正確すぎちゃったら、もう「電話帳一冊全部読め(センサス読め)」みたいな世界になっちゃうから、理解のキャパシティを超えてしまって、役に立たないのでしょう。
だから、ある程度はデフォルメしなきゃならないし、「オーストラリアはこうだよ」と主観で強引にまとめてしまった方が情報としては手ごろで使いやすいのでしょう。情報を欲するといっても、多くの人は別に学術論文を書いたりするわけじゃなくて、大雑把に東西南北がわかればいい程度だと思います。ある程度大まかな目処がついて、心の準備が出来ればそれでよいのだと思います。
情報系サイトといいますが、僕も超真剣に正確極まる情報を提供しようと思ったら、全てのページで、「僕にも本当のところはよくわからない」と書くしかないです。でも、それでは話にならないですよね。ですので、実際に必要とされるレベルに応じて、ある程度妥協して「ま、こんなところちゃうか」という主観的なデフォルメをして書いているわけです。
もっとも、その際に気をつけることは、自分の主観が混じってることを明確にしておくことであり、「○○という出来事を経験したから、僕には○○のように思える」という形で、自分の認識限界と、そう思うだけの理由をできるだけ明示しておくことだと思っています。いつも言うことですが、明確に主観に傾くことによって、逆に客観性を出していくという方法です。
ですので、これも以前に書きましたが、このサイトは、いわゆる「お役立ち情報」そのものを提供するのではなく、情報なり対象に対する僕ら個人の主観的アプローチを提供するものです。そのアプローチに仕方にこそ、このサイトのコアがあるのだろうと。その意味で「情報サイト」と言ってしまっていいのかどうか?皆さんにおかれては、その点を踏まえて、批判的に検証していただければ、と思いますです。
写真・文/田村
写真は、Vaucluse House
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