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今週の1枚(2012/01/09)



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Essay 549 :経済を創るのは政府ではなく”俺達”でしょ?

〜大阪市長選に関して思うこと
 写真は、Drummoyne。
 僕の好きなBlankey Jet Cityの古い曲に「ヘッドライトのわくの取れ方がイカしてる車」という曲がありますが、これは「道路標識の傾き方がイカしている国」って感じですね。このいい加減な、ゆる〜い感じがオーストラリアって感じ。



 前回バッサリ割愛した部分を書きます。大阪の橋下・維新の会に対する選挙や人気について、僕が根本的に感じている違和感です。「なんか違うんじゃない?」という。この違和感の根は深く、範囲は広いので、書いているうちに収拾がつかなくなってボツにしました。今回、思いつくままに書き綴っていきます。

 今回の大阪の地方選で投票率があがり、盛り上がったことそれ自体はイイコトだと思います。市民が政治に適正に関心を持つことはイイコトですもんね。まあ、橋下さん、親しみやすいキャラだし、マスコミの使い方も上手だし、わかりやすいし、なんかしてくれそうだし、「いっちょやらせてみるか」程度のことであるなら、僕も大して言うことはないです。

 これまでも何度か書いてますが、「どう思いますか?」とメールで複数の方から意見を求められていました。それらに対して僕は一貫して「興味ないです」と答えてました。それはクールというよりも、いっそ冷淡なくらいでした。だって本当に興味ないんだもん。別に意地になって無視してるわけでもなく、注目すべき理由も必然性もないからです。あなただってオーストラリアNSW州の選挙に興味ないでしょう?それと同じことです。

 ただし、マスコミの取り上げ方は例によって過剰&ピントがズレていると思いました。ま、マスコミはどうでもいいんですけど、皆の感覚に、ちょっと「あれ?」というものがありました。時節柄、旧知の方々から賀状メールをいただいたのですが、「期待してる」みたいな物言いが多かったので戸惑いました。「そ、そうなの?期待してるの?」と。ことさらに橋下さんらの頑張りやら、期待している一般市民の思いに水を差すつもりもなかったんだけど、でも、なーんかピンと来ないのですね。それほどのことなの?なんでこんなことで盛り上がれるの?という。状況自体が奇異に感じるようになったのです。別に冷淡になれとは言わないまでも、なんかちょっと「違うんじゃないか?」という気分になってきました。その違和感です。


 論点は多岐にわたるのですが、
 ★本来的に政治によって経済は産み出せない。政治と経済の根本的な立ち位置の確認。
 ★さらにその関係(政治の無力性)はグローバル経済の進展によって益々進行するであろうこと
 ★江戸期において商都大阪を繁栄せしめたのは、お上という公権力の干渉が殆どなかった点、いわば民衆パワーとカオスにあるのであって、お上に期待するのは大阪らしくないこと。
 ★一国のなかのセカンドシティは日本・大阪に限らずどこでも凋落傾向にあるのか?その構造的な必然性は?
 ★橋下・維新の会の政策は、本当に経済活性化に寄与するのか。むしろベクトルとしては逆ではないか。お上主導で倫理や秩序を押しつけると、ともすれば経済は逆に沈滞する。北朝鮮が典型。また財政の浪費を削減することと景気を良くすることは根本的に別次元の話なのに何故か混同されている。
 ★ファシズムよばわりされることもあるが、ファシズムはなぜ育っていくのか論。経済不安が弱者を作り、弱者は失われた自信とプライドを補完するため強いリーダーを求め、政策内容よりもその”肌(耳)触り”=主張の明確さと「強さ」が好まれるようになる。しかし、それは経済にとっては逆効果や悪循環になりがちなこと。
 ★全てを貫く”諸悪の根源”は「誰かに頼りたい」という依存性。民力における自立VS依存が後者に振れることが何よりも問題。

 などなど、、、。これに尽きるものでもないし、相互に深く関係しているしで、どっから書き始めたものか。まあ、とにかく書いてみます。

政治で経済は良くなるか?

 昨今の大阪の地盤沈下が激しいし、景気が悪いから、政治が頑張って経済を活性化し、皆の生活を良くしようということですが、「そんなこと出来るの?」という根本的な部分です。いや皆の夢をぶち壊すようで悪いんですけど。

 論点は上記のように多々あるのですが、まずは経済と政治の関係について原理的なところから。かったるいかもしれないけど、まずは世界史通観して大きなところからザクッと捉えた方が間違いが少ないと思います。

経済とはもともとグローバルなもの

 これまで何度か書いてますが、20世紀後半から、特に21世紀になってから顕著ですが、経済は国家の手を離れてきています。国境を越えた経済活動や情勢がむしろスタンダードになっている。それは石油資源や価格の変動によって右往左往させられたオイルショックで既に70年代に出てきましたが、90年代になるとアジア経済危機のように、ハゲタカファンドというイチ私企業群の動静によって、一国の経済が滅茶苦茶にひっかきまわされ、ぶっ潰されるようにもなります。しかし金融経済だけではなく、実体経済においてもグローバル傾向は休むことなく進行し続けています。

 例えば空洞化ですが、これは日本固有の問題ではなく、オーストラリアでは新年早々通産大臣がアメリカのフォードとGM本社に飛んで、オーストラリア工場維持のお願いに出向いてます。また空洞化は製造レベルだけではなく販売においてもそうです。例えば、オーストラリアのクリスマス商戦の小売りは散々だったそうですが、客の多くがネットの通販に流れてしまった。それも中国あたりから買っている。かくいう僕のデジカメも香港からネットで買ってます。安いし、品揃えもいいし、サービスも案外しっかりしてるし。

 もともと、経済というのは本質的に人間が行ける距離範囲内であれば商圏になるのでしょう。シルクロードしかり、遣隋使しかりです。十字軍遠征によって進んだ東方文化がヨーロッパに入り込み、地中海貿易が勃然として起こり、中継地点のイタリアが栄えルネサンスが生じ、その知的刺激に励起されて中世から近世の扉が開かれた。日本の戦国期においても、南蛮渡来の鉄砲というグローバルな新兵器をいち早く取り入れ、活用することによって織豊政権が出来た。またこの時期にグローバル貿易都市として栄えた堺が大阪経済の原点になった。経済というのは本来グローバルなものなのでしょう。Aという地域では石ころ同然のものをBまで運んで売りさばくと巨万の富を稼げるという、地域と価格のギャップがビジネスチャンスを生むという基本構造がある。

 だとすれば、およそ人間が行ける範囲のエリアであれば基本的に経済のエリアになりうる。徒歩かラクダで移動していた古代においてすらそうだったのだから、ここ数十年の爆発的な流通インフラの進展(物流やネット)によって、比喩でもなんでもなく地球そのものがひとつの商圏になっている。大雑把な感覚でいえば、おそらく江戸期の日本全国くらいの感じに今の世界はなっている。

 今日の大阪の景気は、より広く日本の景気状況によって規定され、日本の景気はより広く世界の経済情勢によって規定される。だから大阪だけ景気を良くするというのは原理的に難しい。それはもっとスケールを小さくすれば分かりやすい。大阪の景気のうち、大阪市都島区の景気だけを良くするというのは難しいし、さらに都島区東野田(昔住んでた)だけを良くすること、さらに同町○丁目の景気だけを良くするというのも難しい。もちろん町内会や商店街レベルでやれることはあるのだけれども、そこには自ずと原理的な限界がある。

 21世紀になってからの世界経済、特にサブプライムからGFC(日本ではリーマンショックと呼ばれる)以降は、怪獣集団のような巨大な国際金融の波浪に、世界各国首脳が団結して立ち向かいつつも押し流されかけているわけで、到底国家や政治”ごとき”で管理できるようなシロモノではなくなっている。それはもう台風や地震などの自然災害みたいなもので、国家ができるのは避難訓練とか被災者援助くらいで、「地震を起きないようにする」なんてことは出来ない。円高が困るといっても、日本政府の力だけでは為替相場はどうにも出来ない。多少の「介入」をしたところで市場に見透かされてて、カンフル剤ほどの効果もない。世界経済がここまで相互依存度を深めていってしまったら、日本一国の、ましてやローカル自治体がどう頑張っても、大きな流れそのものは変えられない。

経済の本質は個々人

 一方、経済の本質、経済を動かすエネルギーの素粒子みたいなものは何か?というと、「こうやると金が儲かる」という個人の功利心だと思います。

 他人がまだやっていない新領域であるほど当れば利幅は大きいのであるから、皆で足並みそろえてやっても意味がない。ゆえに経済というのは本質的にインディビジュアル、個人的なものだと思います。個人レベルで奮起しないと(欲でギラギラしてこないと)、経済というのは勃興しない。原理的にそうだと。

 一方、政治というのは「皆のことを皆で決める」ことであり、本質はマスです。個ではない。全体のシステムを設計・運営・改善すること、エネルギーの流れを良くすることです。電気でいえば変電所や送電線のようなもので、電気の流動や配分をうまくやることは出来るが、電気そのものを作る発電所ではない。電気、すなわち電流とは電子の流れであり、電子とは我々個々人である。個々の電子が動かなければ電気は起きない。

政治が経済に与える影響

影響(その1)〜制限

 では、そういう経済に対して政治/国家はどういう働きを及ぼしてきたのか。一言では言えないのだろうけど、強引にいえば、邪魔や制限であり、収奪であり、暴力であり、最高に良くて整備です。とかく政治の手は、ガサツで乱暴だったりする。

 制限というのは例えば鎖国であり、関税障壁です。こう移動させればみすみす儲かるにも関わらず、そうはさせない。壁をめぐらせ、ブレーキを掛けるというネガティブ機能です。これを効果的に使えば、外国企業をシャットアウトしてでも国内業者を保護するという保護経済が出てきます。しかし、それは「生み出す」わけではない。創出はしない。せいぜいが現状維持。そして過保護に維持しているうちに、国内産業が世界水準から大きく立ち後れ、国全体が飢餓に瀕するようにもなる。北朝鮮ですね。

 一方では、その制限機能を悪用する場合もあります。役所の入札などで、納入業者の指定をコネや利権で行い、より安価で優秀なサービスを提供する新規業者を締め出すという「制限」も出来る。実際にはこういう場合が多い。いずれにせよ経済の自由競争にブレーキをかけ、新陳代謝を遅らせます。だから経済活性化のために、これらのブレーキを緩める規制緩和が叫ばれてきました。

 東西冷戦時代、東側諸国がなぜジリ貧になっていったのかといえば、社会主義という強力な統制/規制のせいでした。中国も共産主義バリバリの頃は、大躍進計画で数千万の餓死者を出してます。数千”万”人です。最初誤植か?と思ったくらい途方もない被害です。その次に止せばいいのに倫理(価値観)の押しつけという文化大革命をし、さらに傷口を広げまくります。中国が今日あるのは何故か?といえば、そういった大規制を緩和したからです。一国二制度という「そんなんアリ?」という仰天の開放改革を始めてから中国経済にエンジンがかかった。

 日本でも、徳川吉宗(享保の改革)、松平定信(寛政の改革)、水野忠邦(天保の改革)とお上主導のことをしましたが、いずれも経済的には大失敗なのですが、共通するのは綱紀の粛正など「お行儀良さ」を押しつけ、禁止令を乱発したことです。ダメな高校の校則みたいなものです。逆にゆるくして経済を活性化させた成功例は田沼意次です。彼は経済というのものがよく分かっていて天才的だったのですが、日本人の貧乏根性の裏返しである「清貧好み」に反するので、大悪人というレッテルを貼られてます(吉宗が未だに”名君”とされてたり)。

 ちなみに知られてないけど、吉宗の時代の尾張徳川家の徳川宗春という殿様はイケてました。話の分かる、明るく爽やかな人だったらしく、吉宗がやっちゃイケナイということをドンドンやってて蟄居謹慎を食らうのですが、ド派手なことが大好きで、「民を富ませて公も富む」という原理が良く分かっていた。また、「犯罪を処断するよりも、犯罪を犯させないことが大事」と在任中一人も死刑にせず、また死罪である心中も許した。「遊興にふけった」「倹約令に反する」とギャンギャン非難する幕府とメンチ切って大喧嘩して、結局は蟄居。彼こそが、信長、秀吉という経済の天才&ドハデ大好きの「尾張名古屋の天才の系譜」の正当後継者なのでしょうが、殿様というのはお行儀が悪くて(信長も秀吉もめちゃくちゃ悪かった)、堅苦しい倫理を押しつけない方がいいのでしょう。

 それに真面目すぎると、「改革」とかいっても、幕府・政府の収支勘定を合わせることばかりに目がいってしまう。社会全体のパイを増大させてお上も潤うという二段方式ではなく、民間セクターから政府セクターへの富移転で事足れりとする致命的なミスを犯しがち。経済をゼロサムにしちゃうんだろう。財務省なんかもそうだけど、とにかく民から搾り取ろうとする。「いいじゃん、破綻しても」とか思えないんだろうな。お上というのはそのくらい太っ腹な方が民はイキイキする。小心で細かい上司だと部下は萎縮するでしょ。経済=民衆パワーなのだから、お上が率先して舞台を作って、きれいに清掃して、民衆という得体の知れない猥雑な存在に「主役を張らせる」だけの度量が要るのだと思う。

   ところで、橋下さんらのおっしゃる政策も、公的セクターの透明性や流動性を回復することで、経済の流れを良くしていこうことが盛り込まれているのでしょう。よくは知らないけど、まあ多分そういうことは言うと思う。ほんでも、吉宗か宗春かといえば本質は吉宗派でしょうね。綱紀粛正とか、不正や腐敗の排除とか、あと君が代とかどうでもいいような価値観の押しつけ趣味があるから。自治体の財政なんかどこも火の車だろうから経費削減が急務になっているのは分かるのだけど、ともすれば削減や機構改革が自己目的化する。でも、公的機構なんか民のための”道具”なんだから、ボロボロでも使いやすければそれでよい。ピカピカである必要もない。”改革者”というのは、ともすれば改革が自己目的化し、改革フェチになり、行政フェチになる。それが仕事なんだからしょうがないけど、でも、そんなの民衆という大河にポツンと浮かぶハシケのようなものに過ぎない。

 繰り返しになるけど、お上は民に倫理や道徳、価値観を説いてはならない。それをするとろくなことにならない。また、民衆も、お上に価値観を求めてはならない。何が善で何が悪か、今何をするべきか、そんな人間としてのド基礎をお上に教えて貰うようでは情けない。倫理や価値観というのは、自分自身が悩んで、すっ転んで泥だらけになって、傲慢になったり、自己嫌悪地獄でのたうち回ったりという七転八倒の末に、個人個人で獲得するもので、他人に求めるものではない、、というのも一つの価値観なんだけど。でも、お上はそれを言い過ぎてはいけない。また言うようなお上を支持してはいけないと僕は思うのですね。

 ところで話変わって、規制緩和は規制によって守られてきた人々にダメージを与えます。既得権者ですよね。ここで「既得権者」というと、今の日本では「悪党」の同義語のように使われてますが、小泉改革でもわかったように日本の労働者(正社員)もある意味では既得権者だったのですね。本来雇用契約においては、予告手当さえつければいつでも自由に解雇出来ます。「契約」って本来そういうものでしょ。ところがそういうドライな関係は、”和の国”の日本の終身雇用制に馴染まないので、解雇権濫用の法理やら最高裁の判例やら慣行やらで厳しく制約をカマされてきました。つまり日本ではなっかなか解雇出来ない。

 その分労働者は安泰なのだけど、その安泰さや安心こそが「既得権」なのでしょう。雇用の硬直性は企業経営の硬直性を招く。場合によっては人員90%カットなんてこともしなければならないのだろうけど、そんなことが出来るのは会社更生とか破綻してからで、普通はできない。だからリストラが大変。簡単にクビに出来ないから陰湿に虐めて鬱に追い込んだり、クビに出来ないから新卒採用を減らすしか方法がない。でもって派遣などの既得権を持たない非正規雇用が本流になっていった。

 西欧的な感覚で言えば(てか法制度に忠実に言えば)、クビというのは普通に生じる日常的な出来事であり、人々はライフプランを立てる際に「いつクビになるか分からない」「いつかはクビになる」という前提で立てます。だからこそ、仕事ごときに自己実現なんかしてたまるかくらいのメンタリティも出てくるし、その分家族や個人の生活を大切にするというライフ・ワークバランス感覚も発達する。今の日本の若い世代はこの国際標準に感覚が近いと思いますが、上の世代は既得権意識が抜けきれないのでしょう。

 いわゆる終身なんたらというのは、ほとんど封建制度と同義だと思います。一生そのままなんだから。そこには自由はないが安心はある。乱暴に言ってしまえば、終身雇用(雇用の安定)≒封建制度≒既得権確保≒安心、みたいな感じ。なぜ日本では諸国のように改革が進まないのかといえば、結局は人々に封建的なる安定・安心願望があるからでしょう。本音のところでは、しんどそうな「自由競争」なんかやりたくないのかもしれない。今、既得権者=悪のように語られている図式も、既得権構造そのものがダメというよりも、既得権を持ってる人々へのやっかみや嫉妬が本質にあるのではないのか。求めているのは既得権の消滅ではなく移動、つまり「俺にもよこせ」ということではないのか。気持ちは分かるぞ。でもそれでは変わらない。

 ま、これは余談です。以上は国家が経済に与える「制限」でした。

影響(その2)〜収奪

 次に「収奪」は何かと言えば税金ですね。あるいは各種の上納金です(天下り先の確保やワイロも含む)。暴力団が縄張りの商店街にみかじめ料を取るように、国家は企業から徴税その他の収奪をします。純粋に経済的な観点で言えば、鬱陶しい話です。でもお金を上納しないと経済活動が出来ない。脱税などはもってのほかですが、言うこと聞かないと許認可してくれない、入札や談合の場にも入らせてくれない。下手すれば刑務所。これは冗談ではなく、中国に進出しているオーストラリア企業の現地支社長(中国系オーストラリア人)が、先日また刑務所に入れられました。これで3人目だそうです。スパイ容疑とか贈賄容疑ですが、名目なんかなんとでもつく。ワイロ送らないと中に入れて貰えないけど、下手に送ると(額が少なかったり多すぎたり送る先を間違えると)刑務所行きだという。国際ビジネスというのはこのレベルで身体張って戦うものだということですね。戦場だよね。

 ということで、政治の収奪を逃れるために、例えば納税に関していえばタックスヘイブンのような国が人気になったりもします。また、経済側としても国家と敵対しては損だから、積極的に協力関係に立ち、政治献金もバンバンやるし、パーティ券も買うし、定年退職した官僚の再雇用も受け入れるし、もう何でもやりまっせ〜!です。商人ってのはそのくらいでないとね。でも、それが利権構造を生み、電力業界のように(に限らんが)政・官・財・学の「村」を産み、仲間内で「原発、安全だよね」「だよね」と言いあってる間にドカンときて、あわわとなって、でもほとぼりが冷めたら、はい、収束宣言〜って。

 こんな感じで、国家は経済に対して許認可権をちらつかせたりして「収奪」をします。

影響(その3)〜〜暴力

 次に「暴力」ですが、これが植民地支配であったり、帝国主義やら国家独占資本主義であったり、「戦争で儲ける」「喧嘩が強いと金が儲かる」方法論であったりします。

 19世紀の帝国主義においては国家の暴力(軍事力)と民間の経済が二人三脚で進みました。国が暴力で制圧し、その国の企業が植民地に進出し、プランテーションやらでガンガン儲けるという方法論です。その後二つの大戦を経て、冷戦構造になったらなったで、米ソの動きによって民間の経済が潤うという構造ができる。兵器産業なんか典型的ですが、各国の反共政権の支援のためにアメリカがバンバン経済援助をし、その金を目当てに企業がくっつくという、いっとき叩かれていた日本のODAの紐付き支援みたいな感じですね。アメリカのユナイテッド・フルーツ社(後でチキータに改称)の中南米支配もエグいもので、グラテマラをほぼ支配し、一私企業のくせにCIAと結託して、農地改革をしようとしたアルベンス政府を転覆させています(PBSUCCESS作戦)。

 ちなみに日本の場合、明治維新から日露戦争までの成功体験=富国強兵に引きずられているキライがあると思います。世界でも最後の最後に植民地化されそうになったという(てか、する気もなかったようだが)、世界のド辺境、超後進国だった当時の日本が経済成長するためには、後進国独特の国家主導の産業育成でした。ここで政商が生まれ、重厚長大の国策産業によって財閥が生まれ、そして現在の電力などインフラ企業の中枢特権地位が出てきます。しかし、そんなのは後進国独特の、それも勃興期における一時的な現象に過ぎません。経済が本来持っている、のびやかで、野卑なくらいに自由奔放な活力とは違う。でも、「経済は国家が育てるもの」という妙な刷り込みがなされ、戦後においても護送船団方式として続き、バブルがはじけてもまだ公的資金注入とかいって助けている。三つ子の魂百まで、か。

 以上、制限、収奪、暴力という、まるで強要罪、恐喝罪、強盗罪のような行為を、国家は経済に対してなしているということです。いずれも経済(商売)本来のあり方=「頑張って安くて優秀な商品を開発、販売して適正な利潤を得る」からしたら、邪道です。国家は経済に対してあんまりロクなことをしない。別の言い方をすれば、政界と財界が過度に密着するとろくなことにならないということです。

 だからこそ、世界的にも経済界の意向を汲んだ政党の政策は「小さな政府」です。自由放任主義であり、レッセ・フェールです。経済から政治に望むことは、「自由にやらせてくれ!」、それに尽きます。妙に政治に期待したり、なにかをして貰ったりしてると、それで一部の企業群が潤うかもしれないけど、全体に大きく歪んでくる。

影響(その4)〜調整

 もっとも、経済(資本主義)一本主義でやっていくと、資本主義が持っている放射能のような毒素が撒き散らされ、労働者は搾取されまくり、貧富の格差は増大する。儲けられる奴が金持ちになるということは、儲けられない奴は相対的に貧困になるということだし、持てる者にすがって生きていくしかないという力関係が出来たら、強者は弱者から収奪する。そこで、放射能の除染のように、カウンターをあてていくという、(当時では)新しい国家の役割、20世紀型国家という福祉国家モデルが出てくる。大きな政府です。

 政府というのはどの程度経済に干渉すべきか?で、ここの匙加減が難しいところです。ダイエーの進出によって地元商店街がぶっ潰されるのを防ぐために大規模小売店法やらが出来た。司法試験の勉強で懐かしいのは、風呂屋の設置に距離制限を設けるのは合憲か?という判例もありましたね。過当競争によって公衆衛生が劣化するのを防ぐという名目は正しいか?という。20世紀においては、このように国家と経済が細かいところでやってました。独占禁止法とか、不当競争防止法、消費者保護法、さらには価格の統制なんかもします。公共料金の値上げは申請&許可がいるとか、タクシー料金をエリア一律に決めるのは良いのかとか、○曜日になると○○を閉店しなければならないという業界慣行は合法かとか、、、

 これらはいずれも国家が介入することが望ましいとされる領域ですが、一言でいってしまえば、「調整」でしょう。これは望ましい作用ではあるのだけど、しかし、これとても経済を「創出」するものではない。あくまで生じている経済をどう調整するかであり、基本的には「制限」であり、おずおずとブレーキを踏むという感じ。ワクチンや抗生物質みたいに、本来は毒なんだけどごく少量、適正に使えば薬になるという。

政治が経済に与えるプラスの影響〜支援=整備

 では政府が積極的に経済をプラスになることは出来ないのか?といえば、勿論出来ます。

公共投資やバラマキ

 一つは、政府自体がお客さんになって、私企業の物財サービスを購入することで、波及効果として景気を良くしていくことです。公共投資ですね。もう、さんざんやってきましたね〜。やりすぎて国債溜まりまくって、国も自治体も破産同然になってますね。いまとなっては鼻血もでないくらいだし、バラマキ行政とか言われて批判もされてます。まあ、バラマキという表現の悪さに引きずられている感もあるけど、ピンポイントで急所に使えば有効だという指摘もあります。

 でも、公共投資とか補助金とかをやりすぎると、経済の本来の強さを損ない、また経済本来の新陳代謝を遅らせるという弊害もあります。補助金べったりになって甘い経営をしてきた業界は国際競争に勝ち抜けなくなるし。また雇用調整とかいって、補助金を出して本来的に失業者を企業内に留めておくとか、年金支給年齢を引き上げるから企業に○歳まで雇用を義務づけるというのは、その反作用として若年者の雇用がますます制限されることにもなるわけで、しょせんは対症療法であり、しかも副作用も激しくて、それでいいんか?という批判もあります。

村おこし系

 第二には、これは難しいのだけど意図的に政治主導で開発を進め、地域を活性化させようとすること。企業誘致なんか一番固いところだけど、それ以外は失敗例の方が多いでしょうねえ〜。一番スケールがデカイのは、多分田中角栄の日本列島改造論でしょうし、確かにあれで日本の景気がアホみたいに良くなったのだけど、知価社会に入って行かなきゃいけない分岐点で、”地”価社会に入ってしまったという歴史的なマイナスも大きいかもしれない。最後にバブルのあだ花でパッと散って、未だにその後遺症が残ってるし。小さなところでは村おこしですが、あれはもう公的セクターの主導というよりは、村そのものが一つの中小企業のようなものでしょう。

 こういうのって後進国ほど上手くいくのでしょう。とにかく国内に全然産業が芽生えてないとか、貿易で稼ぐにしても港湾一つろくなものがないという段階で、臨海コンビナートをガンガン作るというのは有効でしょう。でも、経済が成熟してきたら、そうそうお上が旗振って上手くいく計画というのは少ないです。○○国際学園都市構想!○○総合リゾート計画!とか大々的にブチ上げても企画倒れだったりするし。

 結局は、大阪も東京も、馬鹿の一つ覚えのようにオリンピック誘致!という企業誘致みたいなことしか出来ない。それも、傘下の利権企業を潤わすためにぶちあげているみたいな不純さもあったりして。あとはカジノくらいでしょうかね。古くはモナコやラスベガス、新しくはシンガポールやマカオなどの世界の強力なライバルに勝てるくらいのスケールと思い切った規制緩和をしないと難しいでしょう。シドニーにもカジノはあるけど、あれがどれだけ地元経済を活性化させているか微妙です。雇用を増やしたとしても、せいぜい数百人?ってところでしょ。でも、いずれも誰もが思いつく程度のことです。

王道系〜インフラ整備

 第三の支援策としては、これは本来の正道だと思うのですが、「整備」です。経済が小気味よくサクサク動くための環境作りです。

 経済が動くためには膨大なインフラが必要です。荷物を輸送している最中に山賊に襲われていたら、自警団を雇ったりして大変です。年がら年中強盗が襲ってきたらおちおち銀行も出来ません。だから治安。これは大事。また、流通整備。港湾、道路、鉄道、ネット環境。それと司法。支払をしない債務者に裁判をかけて執行できるというシステムの整備。そして、人材。優秀なイノベーターや労働者を育てる教育。快適なビジネス環境や、中小企業の育成など種々あります。

 つまりは、できるだけまっとーに世の中が動くようにしておけば、経済はその快適な海のなかをイキイキと泳ぎ回り、それが景気を良くしてということです。

 だから結局この第三の方法、インフラ整備というか、普通に良い世の中、まっとーな世の中を作ることが、一番経済に寄与する。それが一番本道でしょう。ということは、政治は政治をやってればいいんだってことです。下手に経済とかにチョッカイ出すのではなく、本業をやればいい。

 しかし、これらの支援はいずれも環境整備という間接的なものです。環境はとても重要なのだけど、長い目で10年20年スパンで育てて行くものであって、今日明日直ちにどうなるものでもないし、一瞬うわーっと盛り上がるような性質のものでもない。気が遠くなるくらいの間接投資です。だからこそやるべきなのですが。

 第二と第三の中間くらいの成功例では、かつてのクリントン=ゴア政権の時の、インフォメーションハイウェイ構想でしょうか。あれでアメリカは次世代のIT産業の基礎が出来たと言われていますし、80年代の瀕死の状況からシリコンバレーが起こり、さらに今日でもグーグルやアップルという形で続いてます。やるんだったら、このくらいのスパンと規模でやるべきなんでしょうね。

経済によって政治がやらされること

弱者救済という尻ぬぐい

 しかし、選挙戦や演説でよく使われる難しい言い回し=ex「焦眉の急」「緊喫の課題」=で語られるような、「今日明日直ちに」レベルで言うならば、不況下における政治の役割というのは、失業者や生活困窮者対策とかいう社会政策的なことです。津波被害が起きている間は、防波堤を作るよりも被災者の救助や支援が優先するということですね。

 これらは、政治→経済という流れではなく、経済→政治という流れです。経済によって政治が振り回され、いわば尻ぬぐいをさせられている。今の欧州各国政府も、サブプライムのバブル火遊び投資の勘定を廻されて、四苦八苦しています。そういえば、ここ10年ほど先進国ではそんなことばっかりやってますよね。やれ失業率が上がった下がった、円高だドル高だとか。月に人類が行きましたとか、日中国交回復でパンダが来ましたとか、ベルリンの壁が崩壊しましたとか、いわゆる”政治らしい”ことをやっていた昔が懐かしい。今は米国大統領といっても、「世界の盟主」というよりは失業対策事業団の理事長みたいな感じですもんね。

 いまや政治が経済をコントロールするとか、影響を与えるとかそういう次元ではなく、経済が政治をコキ使っているような時代なのでしょうか。「これ払っといてね」とツケを廻され、国民からは「何とかしろ」と突き上げを喰らうという。

 ここまで書いて、ビートルズの「レディ・マドンナ」という曲を思い出して笑ってしまいました。「Lady Madonna, children at your feet. Wonder how you manage to make ends meet. Who find the money when you pay the rent. Did you think that money was heaven sent?」というのですが、「子供達を足下にまとわりつかせたマドンナさん、生活費をどうしたものかと思案に暮れている。家賃をどうやって工面すればいいの?お金は天国から送られてくるわけじゃないしね」という。

 歌詞は結構悲惨なんだけどコミカルで(歌詞全文は例えばココにあります)、それ以上に音楽がいいです。ピアノとサックスがいいですよね。You Tubeで試聴できます。読み疲れた方はどうぞ。さっき見たら、よくある紙芝居系ではなく、ちゃんと動画でしかもスタジオ録音風景だった。おお、ジョージハリスンがギブソンSG弾いてるじゃん!とか、見入ってしまいました(^_^)。

 ときに英語のお勉強しては、”make ends meet"。「終端を合わせる→帳尻を合わせる→何とかやっていく」という意味で、よく使います。「めけんみー」。

根本的なジレンマ

しかし、社会福祉政策という大きな政府と、経済振興というベクトルは、普通は矛盾します。

 @どうやって金を儲けるか、A儲けた金をどう分配するかの二つがあるとしたら、生活防衛や所得格差の是正などはAの側面です。でも、Aは@で金を稼いでこそであり、まずもって@が来るのだけど、@をやろうとするとAと逆行したりするのです。そこが悩みの種です。

 今日の経済というのはサッカーの世界大会で勝つようなもので、勝とうと思えば強いチームを作るしかない。世界に通用する強力な企業群を育てるわけです。しかし、世界に通用するというのがネックで、そのためには優秀な人材を金に糸目をつけずに世界から引き抜いてくるとなれば、所得格差はどんどん広がる。また、強い会社にするためには、使えない社員をバシバシ首切りすべきだとすれば、失業者はうなぎ上りに増える。要するに競争が激しくなればはるほど、勝てる企業・人材の数は減ってくるわけで、人口のごく一握りの勝ち組と大多数の負け組という二極分化が鮮明になっていく。

 今の韓国なんかもそうで、97年のIMF介入以降、サムソンなど強い企業は世界的にガンガン進出して、どんどん強くなっている。だけど、それだけ韓国社会が豊かに潤っているかというと、実はそうではなく、皆さん途方もない競争社会に叩き込まれている。現在の世界経済のルールのもとで勝っていこうとすれば、結局強い企業を育てるしかない。しかし企業が強くなるためには、敢えて乱暴な言い方をすれば、大多数の弱者を踏みにじらないとならない。「ならない」ってほど悲惨ではないかもしれないけど、方向としてはそうです。皆で仲良くやってたら、やっぱ強くなれない。先進国は質の競争であり、量や安値の競争ではないのだから、無能な社員3人クビにしてもその給料で一人の有能な社員を雇った会社の方が結局は勝つという。

 これが現代先進国の政治の絶対矛盾だと思うわけです。どこの国もこのジレンマに四苦八苦している。だからそもそもこの競争のルール、経済の回し方そのものが Bullshit なんだ、F**kin'なんだという指摘が出てくるわけで、僕個人もそう思うのだけど、だからこそウォール街占拠などのムーブメント(シドニーでもあった)は、ある意味で新しい方向を示しているとは思う。でも、今の段階ではまだ「問題提起」であり、ここから先、皆で討論してどんどん「新しいやり方」を開発していけるかどうかです。なお、その意味では、僕はちょっとアメリカに注目してます。アメリカもボロカスいわれてますが、なんだかんだいって「全く新しいもの!」を作り出すことにかけては、あの国以上のところはないです。

経済を良くするのは政府ではなく、”俺達”でしょ?

 以上、長々と書いてきたのは、「政治によって経済が良くなる」というのは”神話”に近いということです。まあゼロとは言わないまでも、政治が経済にチョッカイだしてプラスに働く場合と、マイナスに働く場合とでどちらが多いか?というと、微妙、、、てかマイナスの方が多いんじゃないか?

 また、プラスに働く場合であっても、本質的なものは「創造」できない。なぜなら、さきに書いたように、経済というのは、終局的には個人の功利心です。とっても個人的な、パーソナルな、野望とか、山っ気とか、そういった感情から発しているものだと思うのです。政治というのは本質的に「みんなのことを皆で決める」システムのことですから、どこまでいっても環境整備なんですよね。

 じゃあ景気を良くしていくのは誰なんだ?といえば、「俺たち」でしょ?他にいないでしょう?他人に頼るな。僕らが、必死に頭をしぼって、面白いこと、ワクワクすること、可愛いもの、素敵なもの、快適なもの、すっげー便利なもの、、、とにかく、他人がお金を払っても欲しい!と思えるような物財や、サービスや、遊びや、やり方を作っていくしかないんだわ。「いい仕事」をするのが遠回りのようだけど、一番近い。

 例えば漫画を例にとってみましょう。
 今や”日本製”のなかでは、世界で最も注目されており、文句なく世界をリードするレベルで君臨しつづけている日本のマンガです。このレベルで「え、そうなの?」という人は、例えばココをごらん下さい。あるいはGoogleで”Raw Manga"で検索するとよろし。この手のサイトは山ほどあるし、英訳中訳もあるけど、大多数が日本語のまんまで世界に出回ってます。最新のマンガ雑誌も落とせる。作者や作品の英語の解説やレビューページも多い。最初は日本人ばっかり投稿してるのかと思ったら、英文のこなれ具合からしてネイティブかそれに準ずる。いい勉強になりますよん。

 漫画などの出版業界や漫画業界を景気よくするにはどうしたらいいか?といえば、宣伝だのタイアップだの小細工はあるだろうけど、基本は「面白い漫画を描く!」こと。それっきゃないでしょう?文句なく面白かったらやっぱり売れるもん。どんなに不況になっても面白いマンガは売れる。

 でも、「面白い漫画を描く」のは誰?といえば、個々の漫画家さん達です。もうとーってもパーソナル。
 とある個人の脳味噌に面白い着想が湧くかどうか、それに尽きるといっていい。
 だから今漫画描いている人、あなたの脳味噌に降って湧いた着想が明日の日本を動かすかもしれないのだ。これ、本当にそうなのだ。

 漫画に限らず、どんな仕事でも、いや仕事でなくてもなんでも、あなた個人の何かユニークな着想や発想が、明日の日本を救うことに本当になるのだ。マジにそうなのだ。勿論誰でもそうなるというわけではなく、確率で言えば超々々レアなんだけど、可能性としてはあるし、また本質的な道筋としてはそれ以外の道は無いのだ。産道はそれだけなのだ。だから潜在的には誰でも世界を変える力を持っているのだ。それを増幅するシステムが「経済」でしょう。

 逆に、政府がいくら巨万の税金を費やしてあれこれをやっても「面白い漫画を描く」ということは絶対に出来ない。国立漫画大学が出来て、小学校から漫画の授業があって、、、とか国策をバンバンやったところで、それで本当に面白い作品が出来るかどうかはわからん。考え得るオチでいえば、そんなことしても、いわゆる「先生に気に入られそうな作品」を器用に描く奴が評価高かったりするのだ。でもそんな漫画、俺が思うに、絶対面白くないぞ。国立ロック大学が出来ても、大したことないと思うぞ。そう思いませんか?

 政治は経済を本質的な意味で創造できない。出来てたまるか!くらいのもんです。

 経済というのは「民の力」でしょう。お上の力ではない。それこそが僕ら庶民の、そして庶民しかおらんような大阪の、真のプライドではないか。それを「橋下さんに大阪の景気を良くしてくれるように期待してる」とか言ってるから、「違和感」があるのですよ。河内弁でいえば、「ワレ、なに眠たいこと抜かしとるんじゃ?」って感じ。

 経済に限らず、政治一般についていえば、政治に過度に期待してはイケナイということです。適正な監視も、批判も、投票などの参加も大事なことだし、必要なことです。でも、基本姿勢としては「嫌々やる」くらいで丁度いい。それはマンションの自治会の会合やクラスの学級会みたいなもので、毎月の清掃当番を決めま〜すとかそういうことです。面倒臭いし、嫌々やってるんだけど、でも大事なことだからやらなきゃね〜くらいのスタンスがいい。妙に抽象的に、情緒的に、盛り上がったり、頼ったり、期待したらヤバいです。

 誤解のないように付言しておきますが、これは今回の選挙のようにゼネラルな場合の話です。個別にテーマがあり、日々営々と活動をしているとか、個別問題でデモや集会に参加するのは別です。これらはテーマが明確であり、問題状況も大体が当事者だろうからよく分かっているし、またそれが現実化するまでどれだけ途方もない道のりを歩かねばならないかも分かっている場合が多い。逆に言えば、参加者はプロ、セミプロクラスだから、ムードに流されるなどの曖昧なことも少ない。社会の中で、とかく軽視されがちな領域において、「こういう問題がある」とデモンストレートすることは、社会全体に貴重な考える資料を提供することでもあるし、草の根政治の本道でもある。だから、それは「嫌々」ではなく、「嬉々として」というくらいに、エネルギッシュにやるべきでしょう。

 ここで言ってるのは、あくまで「なんとかしてくれる」という、非情に曖昧で、抽象的で、他力本願な発想です。

 残酷なことを言うようですが、誰が市長になろうが知事になろうが、こと自分の収入や生活に関して言えば「何も変わらない」「むしろ悪くなる」と達観しておくべきだと思います。

 なぜなら、政治というのは、本来そーゆーこと(私的利益)を期待して向き合うものではないからです。「皆のことを皆で決める」ことでしょう?そこがズレると、政治が腐敗する。私的利益を追求して政治に関与しても良いとなると(まあ、実際にはそうだが)、結局は政治を舞台にした利益追求競争になり、単に投票日に投票をする程度の”努力”をしている人よりも、もっともっとハシっこくて、アグレッシブに利益追求をする人々が勝つでしょう。ドーンと資金援助して、選挙協力をして、沢山汗を流して、「先生、当選のあかつきには一つよろしく」と論功行賞で分け前を貰う。恥も外聞もなく、なりふり構わず勝ち馬に乗ろうとする連中がいる。結局そいつらが美味しいところを全部持ってっちゃうでしょう?投票だけで”甘い汁”を吸おうなんて虫が良すぎですって(^_^)。

 政治参加というのは一種のボランティアなのであって、そこに個人利益が混在すると話がややこしく、汚くなっていく。ま、実際には汚くなってるんだけどさ。だからこそ、現状を追認するのではなく、逆に、意識的に私的利益と政治とを峻別するべきだし、それが「良い政治」なんだと思うし、良い政治はクレバーな、そして頼りも期待もしない”強い”国民によってのみより有効に機能するのだと思います。

 頼りもせず、騙されもせず、利益誘導もされず、余裕で自立しているクレバーな有権者ばっかりだったら、政治家は大変でしょう。全然誤魔化せないし、金で黙らせることもできない。でも反面、めっちゃくちゃ楽でもあるでしょう。なぜなら媚びを売らなくてもいいんだから。必要なことを必要だと、正しいことを正しいと堂々と主張できるんだから。人気取りに汲々として、思ってもいない美辞麗句を並べて、「すべて私におまかせください!」なんて大嘘をつかなくていいんだから。

 しかし、報道とかみてると、マスコミからしてそういう見識があんまりないような気もします。「新市長に何を”期待”しますか?」とかいう聞き方だったりして、どうなんかなあって思っちゃいます。もっとも、(編集方針だとは思うが)「やっぱねえ、景気をなんとかしてもらわんと」とか答える市民も多かったりするんだわ。「誰がなっても一緒でしょ」「そもそも政治で解決できる問題じゃないでしょ」「今自分のビジネス立ち上げに忙しくて、それどころではないわ」「普通のことを普通にしっかりやってくれたら、誰でもええわ」とか、そういう意見だってあったと思うのだけど、あんまり放映されていないのでは?

 以上は原理面です。ここからもっと細かな検証やら考察やらになるのですが、一番言いたいのはココです。

補論

 あとは、、、色々あるけど、また後で。そうそう、いわゆる橋下氏論ですが、彼が救世主の英雄なのか、ポピュリストのペテン師なのかは、結論的にはよう分りませんし、興味もない。時間を掛けて調べたり考えたりする意味も感じられない。ただ、まあ、人気取りのために、常にどっかにスケープゴートを作って誰よりも激しく叩くという、結局は弱いものイジメ方式で、結構卑怯な手を使うよな〜とは思いますけどね。てか一見”強いもの”に見えるんだけど、実は”弱いもの”を見つけ出してくるのが上手なんだろうな。本当はいじめてるんだけど、戦ってるように見せるのが上手。頭はいいけど、底意地の悪い優等生にときどきこの手のタイプがいるけど。でも、まあ、一人の人間のことなんかそう簡単にわかるわけないし、別に分かる必要もない。そんなこたあ、どーでもいい。彼個人なんかよりも、「一般の日本人が彼をどう見るか」の方が僕にとっては遙かに大事なことです。

 なぜかといえば、日本というのは天然資源が少なく、日本の現在を支えているのはひとえに「日本人」という人的資源です。だから、日本がどう(なる)か=日本人がどう(なる)か、だと思ってます。つまりは人間的な要素で、例えば何に興味を示すか、どういう方向に物事を考えるか、何と何で悩んでいるのか、どういう結論に向うか、目を瞑って無かったことにしようとするのかしないのか、逃げるのか立ち向かうのか、これら知的水準やメンタルの健康度、行動力や耐久力です。これは自分の商売にも関連するから、わりと気をつけてみています。ダメだったら商売替えも検討しなきゃねって。これって僕だけではなく、世界中が監視してます。日本人よりも日本のことをよく知ってる外国人はワンサといますし、ビジネス対象、投資対象として、じーっと見てます。

 もっと興味があるのは「明日はどうなるか」です。例えば、今のBRICS諸国相互の関係はどうなるか?です。てんでバラに発展してきた段階から、相互に連携を取るようになるだろうし、それによって明日の世界地図も微妙に変わってくるでしょう。そういえば、先日BRICSのBとSのニュースがありました。シンガポールとブラジルがビザ協定を結んで、2014年をメドに30日間までならビザなしで入国できるようにするそうです(Singapore, Brazil sign partial visa abolition agreement)。ふむ、こうして彼らはどんどん手を組んでいくわけですね。ちなみに日本からブラジルに行こうとしても、相変わらずビザが必要ですが、そんなことよりこのニュース、Google日本で検索してもイッコも出てこなかった。ゼロ!誰もこういうことに興味ないの?ちなみにブラジルですが、2014年にはワールドカップ、2016年にはオリンピックです。

 あと、シンガポールが出たついでに書いておくと、シンガポールの外国人に対する労働ビザの発給条件がここに来てどんどん厳しくなっているというニュースも人によっては切実じゃないかな。これは日本語でも報道されています(外国人雇用規制強化、日系にも影響大)。

 「日本はダメだから海外へ」と思い立ったとしても=って「仮定」の話ではなく、今の時点でシンガポールでの労働を希望する日本人が激増しているし(前年度比で2倍増)、現地の日系企業の求人も前年比で1.5倍になってるそうです。で、肝心の「海外での就職」の環境がアゲインストになってきているということで、こういう情勢は知っておいて損はないでしょう。海外就職というのは、就職先とビザという二つの関門をクリアしないといけない。どちらか一方だけではダメです。こういったことは、僕ら個々人の将来の選択肢、さらに子供達の未来に関するビビットな話題です。大阪市が大阪”都”になることより、個人の財布の中身に影響すると思いますけど。



文責:田村



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