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今週の1枚(2011/12/26)



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Essay 547 :オムライス

 写真は、ChatswoodのWestfield Shopping Centreなのですが、注目すべきは場所ではなく、自販機。なんとビーチサンダルを売っている自動販売機です。先日発見して、思わず撮ってしまいました。

 日本は自販機大国で、帰国の度に「うわ〜!」と唖然とするほど自販機が並んでます。それに比べたらオーストラリアの自販機なんか無いに等しいのですが、それでもゼロではない。駅のホームとかビルの中とかにあります。ドリンクなどはわかるのですが、ポテトチップスとか売ってます。

 だいたいこちらは自販機が少ない割に、たまにあったと思ったら妙なモノを売ってます。レンタルビデオの自販機とかありますもんね。しかし、ビーサンというのは初めて見た。試着もできなくて売れるんか?それに幾ら夏場のオージーの制服のようにビーサンが売れているとはいえ、またブランド品(ハヴァイナスはブラジルのブランド、オーストラリアのサイトはここ)とはいえ、20ドルって高くないか?売れるのか?と余計な心配をしてしまいました。おまけによく見たら「故障中(out of order)」になってるし。


エッセイと随筆


 今回は、体調がちょいヘロヘロなこともあり、特にテーマらしきものも設定せず、お気楽にテキトーに書きます。「エッセイ」の日本語訳の「随筆」のように。

 「エッセイ」は、英語(essay)ないしフランス語の"essai"から来ているようですが、日本語の「随筆」というのとはちょっとニュアンスが違います。もっと硬い感じがして、学校の宿題レポートなんかも「エッセイ」と言います。感じとしては「論文」に近い。大学のレポート論文の書き方なども”essay writing"と言いますし。

 日本語の「随筆」は、読んで字のごとく、「筆のおもむきまま(随=したがう、任せる)」に書くということで、英語の「エッセイ」よりも、もっと気ままで、自由度が高い。”論”として成り立ってなくても構わない。日本人は昔からこういうのが好きだったのでしょうね。まだ「徒然草」なんか論として立ってる度合いが高く「エッセイ」的だけど、これが「枕草子」になると「いとをかし」の世界で、「○○ってちょっといいよね」で終わり。更級日記のように「〜日記」というのも多いのですが、これは今でいうブログみたいなものでしょう。そういうのを日本人は好むのでしょう。叙事よりも叙”情”。情感を好む。即物的な物事を書きながらも、その成り立ちとか構造を分析するのではなく、その物事を触媒にして心に立ち上がってくる情緒を愛でる。

 日本語でいう「論文」を英語でいうと、エッセイ(essay)とシーシス(thesis)に分かれます。シーシスはエッセイよりも本格的で、通常長く、そして厳密に書かれています。博士論文とか、学界で発表するような学問的にカッチリした水準を満たしているもの。エッセイはそこまで厳密ではなく、もうちょっとカジュアル。もともと"essay"の語源は、「試す」という意味らしく、動詞としても使われ、"I essayed to escape"で「逃げようと試みた」という意味になります。"try"に意味が近い。だから、論文としてのエッセイを、よりニュアンスに配慮して日本語訳しようとしたら、「試論」や「仮説」に近いのでしょう。まあ仮説は"hypothesis"があるから、やっぱり「試論」かな。「○○に関する試論」って感じ。試みに論を立ててみる、「○○なんじゃないかな?って気がするので、いっぺんそのセンでまとめてみました」という。

 その意味で、いつも書いているこのエッセイは英語的なニュアンスに近いですね。試論ですよね。でも今回は、日本語の随筆的に論が立ってなくてもいいやって感じで書きます。

クリスマス

 今これを書いている12月25日は、クリスマスです。
 この日ばかりはどこもお休み。商店街もどこもゴーストタウンと化します。1年に1日休業する日があるとしたら元旦ではなく12月25日だということは、「暑いクリスマス&正月」と共に、オーストラリアに住み始めたときの新鮮な驚きと違和感でした。"one of the biggest surprise"です。そして、その感覚は、もうすぐ18年目を迎える今となっても残っています。

 こういうのを「頭ではわかっても心身がついていかない」というのでしょうね。なるほどオーストラリア(西洋社会 or キリスト教圏)においては、クリスマスこそが元旦のようなものなのだ、キャーキャー騒いでパーティをするのは24日までの話で、25日の本番は、家族だけでおごそかにお祝いをする厳粛な日なのだ。それに比べれば元旦はただのニュー・イヤーというイベントに過ぎないという。

 それに付随してクリスマス関連の知識も増えます。やれサンタは"Ho-Ho-Ho"と笑うお約束になっているとか、トナカイの有名な一頭の名前は「ルドルフ」なんだとか、なぜかクリスマスには日本のおせち料理のお餅のようにクリスマス・プディングを食べるとか、ターキー(七面鳥)を食べるとか、クリスマス前に皆で集まってクリスマスの歌を歌うキャロルがあるとか、貰ったクリスマスカードやプレゼントは開梱せずにクリスマスツリーの下に置いておき、箱(ボックス)を開けるのは26日のボクシングデーなのだとか、オーストラリアではクリスマス明けの27日(気の早いところでは26日)に一年で最大のバーゲンが始まるとか、27日になってしまえばもはや新年同然であり、31日の大晦日であろうが1月2日であろうが平常通りになり、銀行も余裕で営業しているという。

 OK、それは分かった、何度も体験したし。しかし、だからといって自分も同じように厳粛な気持ちでクリスマスに臨むかというと、全然そうなりません。クリスマスになっても手持ちぶさた。てか、普通の休日、やたら静かな休日でしかない。クリスマスカードが年賀状代わりになるという、社会慣習上の若干の”翻訳”作業を行うくらいで、クリスマスに対する思い入れは全く深まらないし、「わあ、クリスマスだあ」というトキメキもない。日本にいた頃の方がまだあったよな。イブだけだけど。こっちのイブは、翌日からスーパーが二日連続して閉店することもあり、大晦日的な買い出しラッシュの日です。そもそも「暑いイブ」というのが雰囲気を台無しにしている。こんなに温かったら、マッチ売りの少女も凍死はせんだろうという。

 知らない知識が増えるということで知的には面白いけど、心身が面白いわけではない。
 多分、日本にいる外人さんも、日本のお正月の風習なぞを面白がって”鑑賞”したり”学習”したりはするけど、心から楽しんでいるかというと、それはまた別の問題なのでしょう。

 「文化」とか「カルチャー」とかいっても、実はそれほどご大層なものではなく、煎じ詰めれば、子供の頃の記憶、いわば"刷り込み”を復活させて、なぞってちょっと良い気分になっているだけ、って言えないこともないです。

 ここで、カルチャーと言われているモノの心理的な正体は何か?とか、なぜ刷り込みをなぞると人間は気持ちよく感じるのか?とやりだすと、いつもの「エッセイ」になります。が、今回は、(何だか知らないけど)「刷り込みをなぞると気持ちいいよね」というところで止めておきましょう。

刷り込み文化と情操教育

 「文化=刷り込みなぞりの快感」という乱暴な仮定を前提にするとですね、いわゆる「文化」と呼ばれているものでもクッキリ刷り込まれていないものは、実はそれほど快感がないように思います。例えば、「これぞ日本文化」と言われているようなものでも、これまでの人生で刷り込み体験がしょぼかったら、それほどの快感は起きない。

 お茶やお花、能や歌舞伎なんかでも、常日頃から接しているわけでもないから、体験しても、「ああ、やっぱり日本人はこれだよ」って気がしない。まあ、日本で生まれ育って全くそれらに接しないってことはないですから、浅くはあるけど刷り込みはあります。だから、海外などで全く予期しないときにお茶や歌舞伎の写真などを見かけると、「ああ、、」と快感が起きます。が、その程度。邦楽なんか滅多に聞かないけど、お琴の「春の海」(だっけ?)だけは、正月になるとやたらテレビやBGMに使われるから耳に刷り込まれていて、これを聞くと「ああ、正月」という気がする。でも、まあ、その程度。

 ところが歌舞伎のように高尚なものではなく、それどころかカルチャーとして認知されているかすら怪しいものでも、刷り込みが強烈だったら快感も強い。夏の暑い夕方、居酒屋に駆け込んで、おしぼりで手を拭きながら「とりあえずビール!中生で!」と叫び、枝豆をつまみながらの最初の一口の喉越し。あの「ぶは〜っ!」という快感は、既に散々刷り込まれてます。ビールなんか江戸時代まで無かったんだから日本文化かどうかも怪しいのだけど、そんなこたどーでも良く、「おしぼり→とりあえず→枝豆→ぶはー!」までの一連の過程が大事だったりします。単品だけだと快感が薄くて、セットになると威力が倍増します。オーストラリアにも勿論ビールはふんだんにあるのだけど、この「お約束セット」になってないので欲求不満が募ります。「なんか、違うんだよなあ」と。

 僕らが本当に大事にしている「文化」は、実は改まって「文化」としてカテゴライズされていない物事が多いのでしょう。夏休みの、なぜか7月だけに行われる早朝のラジオ体操とか、かなりクッキリ刷り込まれています。復活させてなぞってないけど、ラジオ体操ときくと今でもあの夏の早朝、まだひんやりした爽やかな空気(昔の日本の夏は都会でも朝晩は涼しかった)を思い出します。まあ、最近は子供のラジオ体操もかなり激減したらしいのですが。

 こうしてみると、学校の行事や子供の頃のイベントって大事だったんだなって今更ながら気づかされます。勉強は、、、正直、昔の寺小屋レベルに読み書き計算が出来たら良いのでしょう。何度も書いてますが、「子供の勉強が大事」という親だって真面目にやってこなかったと思うし、たった今、小学校のテストを受けたら満点取れないでしょう?円の面積、円周の長さ、球の体積、円錐の体積、、これらは小学校で習った記憶がありますが、今この場で即座に公式を言えますか?かくいう僕も円錐の公式は思い出せなかった。

 まあ勉強論はさておき、公式とか、光合成とか、違憲立法審査権が何がが言えなかったとしても、子供の頃のイベントというのはよく覚えているんですよね。そりゃ全てを細部にわたって記憶しているわけではないけど、どこの遠足に行ったとか、修学旅行はどこに行ったとかいうことは、おおよそ覚えているじゃないですか?中学の時に3年何組だった?と聞かれると意外と曖昧だったりするけど、修学旅行でどこに行ったというのは覚えている。○○寺を見たとかいう学習的な部分はすっぽり脱落しているけど、雑居房の部屋で枕投げたり、意味なく懐中電灯をつけたりしてたのは覚えている。

 授業中の風景はあんまり画像として覚えてないけど、学芸会とか、クラスのお楽しみ会とかは覚えている。年に一度、なぜか業者さんが学校に球根を売りに来てて、クロッカスとヒヤシンスなどを買ったのは覚えているし、教室の中のストーブで弁当あっためたり、給食当番の光景とかはよく覚えている。

 同じように、夏休みに家族に連れて行って貰った海とか山とかもよく覚えている。外食した経験もわりと覚えています。金魚飼うことになって水槽とかポンプとかセッティングしたワクワク感とか、庭に何の花を植えたとか。

 自分が子供の頃は、こういった校内行事やレジャーの意味が分からず、幼い頃は単純にワクワクし、中高生になるとひたすらかったるかったりしたのですが、今になってその意味がわかります。「子供の情操教育」とかいうと、めっちゃ嘘臭い響きがあるのだけど、あれは本当だと。いや〜、ほんま、せやで!舐めとったらアカンでって。

 そして、その種の「情操教育」は、何も子供時代に限ったことではないのですね。僕らが日々行っている何てことのない営み。なにげなく見ている、やっている事柄が「情操教育」になっているのでしょう。ビール「ぶは〜!」なんかもそうだし。

 そして、これらの情操教育が僕らの「刷り込み」になり、そして後年になって”なぞると気持ち良い”快感のタネになり、幸福のモトになるのでしょう。だから、一種の「種蒔き」をやってるようなものなんだろうな。
 

オムライス!

 僕はオムライスが好きです。カミさんはもっと好きなようです。「晩飯どうしようか?」というときに、オムライスという提案は、ほぼ100%の高支持率を双方から獲得できています。あなたはオムライスはお好きですか?

 オムライス、ハンバーグ、そしてカレーライスは、いわゆる「日本の洋食」として明治期以降に広まったもので、伝統的な日本料理とは言えません。にも関わらず、僕らふつーの日本人の心をガッチリ掴んでいるように思います。オムライス、ハンバーグ、カレー、この3品の全てが大嫌いだという日本人に僕は未だ会ったことがない。それどころか、1品だけでも「嫌い」という人にも出会ったことがない。「カレーが嫌い」「ハンバーグが嫌い」という人、いますか?また、「オムライスが嫌い」という人。積極的に「大好き!」って人も少ないかもしれないけど、おおむね好意的に受け止められているのではなかろうか。

 この3品がほんわか支持されている背景には、子供の頃の「刷り込み」がどことなく入っているような気がします。全部じゃないけど、そういうエッセンスが入っている。これらは味がハッキリ・クッキリしているせいか、一般に子供の好物メニューです。また比較的安定的に作れるので家庭料理でも定番メニューでしょうし、いわゆる「食堂」メニューでもあります。デパートの最上階の食堂(最近は違うんだろうけど)、ドライブイン、ファミレスとか。カレーは海の家や、キャンプの定番食でもありますな。成人するまでにこれらの3品も一度も食べたことがないという日本人は、非常に少ないのではないでしょうか。いずれも給食のメニューにはなりにくいんだけど、でもしっかり食べているという。

 一方、これらを食する機会は、大人よりも子供の方が頻度が高いように思います。レジャーに行っても、子供がオムライスやハンバーグを食べている横で、お父さんお母さんは天丼とかうどんや○○定食を食べたりする。まあ全ての家庭がそうだというつもりはないけど、僕の経験世界においてはそうです。大人になると、ケチャップ&ソース系よりも、醤油/甘辛の和風系が好ましく思えてきたりもするのでしょう(なんでだろね)。

 だからこれらのメニューはどことなく子供時代の思い出とリンクしている。あんまり複雑なことを考えてなくてキャピキャピしてた時代。何となくほわわんと子供的に幸福だった頃のイメージ。僕自身、今思い出してみても、これらの3品にまつわる思い出やイメージで悪いものはないです。ハンバーグにはひどいトラウマがあって、、、ということは、何か特別なことでもあるなら別ですが、少ないんじゃないか。

 そして、3品のなかでもオムライスは、僕の中ではちょっと別格です。他の二品よりも「刷り込みをなぞる」度合いが高く、快感度が高い気がします。

 というのは、他の二品は大人になってからでも結構食べる機会があるからです。カレーが一番食べるんじゃないかな。学生時代は自炊の定番メニューだったり(作りすぎてカレー連続7食とか)、仕事で外回りしているときに駅のカレースタンドで手早く済ませるとか、結構食べる。次にハンバーグがきます。ハンバーグはファミレスの定番です。だから、大人になってからの記憶とゴッチャになるので子供時代の刷り込み度合いが相対的に減るような気がする。それにカレーもハンバーグも素朴な原型ではなく、いろいろと凝り倒したものが出回っています。カレーでも本格インド風とか、タイカレーとか。ハンバーグでも、おろしハンバーグがあったりとか。

 これに比べてオムライスは、大人になってからそれほど頻繁に食べません。メニューがズラっと並んでいるレストランで、和食でもなく、他の洋食、エスニック系でもなく、またアルコールと一緒に食する系にもなりにくいオムライスを、敢えて選んで注文する大人は少ないのではないか?加えて、オムライスというのは子供の頃の原型が比較的そのままに保存されています。種類もそれほど複雑多岐に分かれているわけでもない(そういう専門店はあるけど)。

 以上の次第で、オムライスと聞くと、なんとなく子供時代(っぽい)ほのぼのとした幸福感が立ち上がってくるような気がするのですね。あなたは違うかもしれないけど、僕はそうです。

 早い話が、オムライスってきくと、どことなく心が無邪気になれる。
 その無邪気になれる感じが気持ちいいから、オムライスが好き、という。

 いやあ、オムライス、いいですよね。
 あの卵の黄色とケチャップの赤とのコントラストがいい。懐石料理のほんのりアースカラーに比べたら、毒々しくて下品なのかもしれないけど、しかし、そのキッチュな感じがいい。

 また卵の表面にケチャップチューブで絵とか描くのが楽しいですよね。僕、結構、得意です。猫とか。

 でもって、綺麗に包まれている卵を端っこから破って食べるのですが、この最初の「破る」感じ。足跡一つついていない純白の雪原に一番乗りして歩くような、なんとなく処女喪失的な、躊躇われるような、取り返しの付かない第一歩を踏み出して「ああ、、、」となる切なさがいいです。大袈裟だけど(^_^)。

 いや、でも、絵を描いたり、食べるの勿体ない感がちょびっとあったり、なかなかオムライスというのは、くすぐりどころがあるのですね。食べてしまえばただのケチャップご飯で、だからケチャップご飯(チキンライス)との差は殆どないんだけど、卵の皮一枚あるかないかでかなり感じが違う。

 オムライスというのは日本独自のものらしいです。
 オムというのはフランス語のオムレット(英語でもそういう)からくる「卵料理」の意味で、それにライスがくっつくという、典型的な和製英語です。

 オムレツの元祖は、これは調べてみたらすぐに出てきましたが、東京銀座の「煉瓦亭」と大阪心斎橋の「北極星」らしいです。明治34年VS大正15年ということで、時期的にはずっと煉瓦亭の方が早いのですが、その頃には白いゴハン(チャーハン)を卵で包んだだけで、ケチャップライスになるのは北極星からだそうです。微妙ですよね、卵でくるむという発想からすれば煉瓦亭なんだろうけど、しかし赤と黄色のコントラストとケチャップ味という点を重視すれば北極星でしょう。まあ、他にも諸説あるのですが、いずれにせよ日本人のシェフの創作料理であり、それが徐々に広がっていったという。

 白飯を卵でくるみ、そこにカレーやハヤシをかける「オムカレー」、あるいは焼きそばをくるんだ「オムそば」という、オム系兄弟達があります。実のところ、そんなに食べたことないのですが、お好きな方いますか?


 個人史的には、大人になってから二回、精力的にオムライスを食べてた時期があります。ひとつは19−20歳の頃、大学の近く、京都の今出川河原町、、寺町通りくらいだったかにあった「しゃるだん(だったと思う)」のオムライスです。それなりに垢抜けた喫茶店だったのですが、学生街にあるせいかボリュームが凄くて、愛好してました。「オムライスが大きい!」というだけで、もうニコニコですよね。そういえば近くにニコニコ亭というハードロック喫茶があったな。

 もう一回は、大阪で仕事をしてるときです。事務所の近所にある、いかにも下町の、昭和30年代くらいの佇まいを残している小さな喫茶店のメニューにオムライスがあって、カレーやスパゲティなどの定番と並んで、ローテーション的によく食べてました。仕事柄ランチも不規則で、仕事が一段落した4時くらいに食べてたりしました。そこは小さいけど漫画週刊誌が充実していて、漫画読みながら、オムライスをぱくついてました。

 オムライスの作り方は、人それぞれでしょうが、僕はいつも安直で乱暴な方法で作ります。フライパンに伸ばした卵の上にゴハンを乗せて、その上から皿を逆さにかぶせて、皿を持ちながらフライパンごと「えいや!」で天地逆にして皿に乗せてしまいます。あとで皿の上で卵の両端を巻くようにして「整形」するという、ズルの方法。

 本当なら、トントンやりながら卵を上手に包んでいくのですが、これが難しいです。特についつい欲張って巨大オムライスを作りがちな僕としては、重くてうまいこと動いてくれない。必死に練習すれば出来るのだろうけど、もう面倒だから、皿をかぶせて天地逆方式でやってしまいます。フライパンと皿の直径の相性が問題なんだけど。

 フライパンの手入れが悪かったり、テフロンが寿命になったりすると卵がくっつきますよね。で、「えいや」でひっくり返しても卵がフライパンにひっついたまま剥がれてくれないときは結構焦ります。焦って無理矢理ひっかいたりしてるうちに、卵がボロボロになってしまうと、ただそれだけのことで泣きたくなるくらいミジメな気分になります。「落ち着けい!たかが卵じゃないか、本体の99%は大丈夫だ、それに卵といっても失われたわけではなく、容量分はキッチリ残っているんだ」と自分で慰めても、癒されません。卵できれいに包んでこそのオムライスであり、あの卵の純白無垢な感じがイイんですよね〜。

 そう考えるとオムライスって結構心理的要素が強い食べ物なんですね。カレーとか、焼きそばとか、たとえ見てくれがグシャグシャになろうとも、「食えりゃいいんだ、食えりゃ」的な逞しさ、見てくれを気にしない強さがあるのですが、オムライスはあくまでも見た目重視。見た目にこそイノチがあるという不思議な食べ物です。

 ところで、オムライスにケチャップではなくデ(ド)ミグラスソースを使ったりするレストランが多いようですが、オーストラリアでは(ネットでみると、米英カナダも)、あんまりデミグラスソースは売ってません。グレイビーソースは山ほど売っているのだけど、デミグラスは無い。正確には「無いことはない」という程度で、一般にも知名度が低い。逆になんで日本でそんなにデミグラスというフランス料理のイチソースがそんなにも有名なのか不思議になったりもします。まあ日本の洋食屋のシェフさん達が研究熱心なのでしょう。

 グレイビーソースは、日本ではあんまり見かけませんが、こちらでは「こればっか」というくらい出てきます。洋食における醤油みたいなもので、ステーキ焼いてはこれを掛けるという。でも、市販のモノであんまり美味しいと思ったことはないです。

 ビーフシチューやハヤシライスのルーの部分、褐色のドロドロだと思うのだけど、ビーフシチュー作るときはビーフストックで作っちゃいます。味が単調なので、野菜とか安い牛肉を入れて原型を留めなくなるまで煮込んで、あとトマトとワインを入れて煮込むと、大体似たような感じの味になります。トロミは、あれは小麦粉ですから、無くても構わんというか、慣れたらトロみが無い方が味がボケずにストレートで美味しいです。

 しかし、オムライス一つ作るのにそこまで手間暇掛けてソースを作ったりしませんから、何の疑問も持たずにケチャップで代用してます。いや、「疑問」も「代用」もなく、ケチャップこそが僕のなかでは正統派だったりします。デミグラス?オムライスがカッコつけてるんじゃねえ!って感じ。あのキッチュな感じがあってこそのオムライスであり、そこで妙にデミグラスとか高級路線に走るのは「違う」ような気がするのですね。

 いや、これは別にデミグラス・オムライスを批判しているのではなく、それはそれで新しい美味しい食べ物なんでしょうけど、僕がこだわるのは、多分、子供の頃の「刷り込み」からズレるのが気持ち悪いんだと思います。

 そういうことって結構あって、いくらイタリア料理の造詣が深まって、自分でもオリーブオイルとガーリックだけの「素うどん」みたいなパスタが出来るようになったとしても、それでも時々ケチャップまみれの、全然イタリア料理ではないスパゲティが食べたくなりますもん。関東でナポリタン、関西でイタリアンと適当に呼ばれているアレです。具も安いハムとタマネギだけで、その代わり粉チーズ(パルメザンという感じじゃなく)がふんだんに乗ってるやつ。あのいかがわしい、キッチュさがいいです。

 同じように、いかに日本料理の凄さが分かるようになり、素材の味をいかす超絶的な技巧に酔いしれ、そのためだったら1万円でも惜しくないと思えるようになったとしても、それでもときどき、何を入れてもソースの味しかしないソース焼きそばが食べたくなります。あのキャベツの芯の部分が微妙に美味しいソース焼きそば。青のり必須!出来れば紅ショウガも、という。でもって、さらに涙がでてきそうな「焼きそばパン」とかが食べたくなります。あんな炭水化物ばっかの滅茶苦茶な食べ物もないんだろうけど、でも美味しい、うれしい。

 で、思うのですけど、ケチャップパスタもソース焼きそばも、焼きそばパンも、あれって子供の頃に食べてなかったら、ここまで感動するかな?ここまで食べたいと思うかな?と。今、生まれて初めて焼きそばパンを食べたら、なんじゃこりゃ?って思うかもしれない。

 だからこれらのメニューは、過去の楽しい思い出も一緒に食べているのでしょう。その「刷り込みなぞりの快感」が絶妙な隠し味になっている。だからこそ成り立っているという。

オムライスのような日本

 さて、なんでオムライスのことを書こうと思ったのかといえば、「オムライスの好きな日本人が好き」ということです。

 今の日本が良いか悪いか、好きか嫌いかといえば、正直そんなに良いと思ってないです。良いところがあんまり出てきてない。特に、震災からこっち、「頑張れ日本!」まだ良いにしても、「日本が好き」「日本、いいよね」的、現状肯定的な物言いをよく見かける気がするのですが(気のせいか?)、励まし合うのは悪いことではないのですが、なんかちょっとひっかかる部分もあるのです。

 普段だったら「日本なんか全然ダメ!」「このままじゃ破滅だ!」くらいにギャーギャー叫んでたりするし、それはそれで自意識過剰・悲観過剰で問題だとは思うのですが、でも少なくとも向上心はある。もっと良くなれる筈だという確信があるからこそ、現状のダメさ加減に腹が立って腹が立ってしょうがないという。日本人のペシミスティック過剰な部分は、あれは心の底にある「本気になったら俺達はすごいぜ」という傲慢さと表裏一体にあると思うのです。傲慢だから自分らへの要求水準が高い。もの凄く傲慢に自分を信じているからこそ、死ぬほどボロカスに自己批判できるという。幾ら叩いても絶対に潰れないという自信がある。

 それが、「日本も結構いいよね」「捨てたもんじゃないよね」みたいな論調になるということは、その核心の自信が折れてきてるのかな?という気もするし、あるいは「老化」が進んで、なんか新しいことをバリバリやっていこう!というのが面倒臭く、辛気くさく感じるようになってきているからかもしれない。今はダメだけど、これから頑張って良くなってやるぞ!今に見ていろ!というよりは、「もう、しんどいし、このままでいいじゃん」みたいな感じで「いいよね」と言ってるんだったら、それは違うと思う。だってこんな現状でいいわけないもん。問題なんか山ほどある。山ほど問題があるということは、まだまだ良くなれる可能性が山ほどあるということでしょう。「このままでいい」わけなんか絶対ない。

 ま、わからんけど、でも僕が、ああやっぱ日本好きなんだよなと思うのは、「オムライスが好き」みたいな肌触りでそう思うのです。マスコミとかネットで論じられている日本像は、あんなの日本のリアルな実像の一断片に過ぎないし、かなり屈曲率の高いレンズで問題点を拡大した鏡像だと思ってます。それはそれで「患部拡大写真」のような重要性はあるし、対策も努力も必要でしょう。しかし、それが全てではない。およそマスコミでもネットでも取り上げられることのない、取り上げようにも取り上げにくい、なんのニュース性も新規性もドラマ性もない僕らの日常。日々また行われているさまざまな「刷り込み」。それこそが実像だと思う。

 そして、その実像の一端は、例えば、「今夜はオムライスね」と聞くと「お♪」と思わず相好を崩してしまう僕らの姿です。大袈裟に言えば、オムライスというのは日本の平和で幸福な中産階級、一億総中流的な日本の象徴のようなものです。、金持ち過ぎず貧乏過ぎず、過不足なく「育ちの良い」僕らが、オムライスごときに他愛なく喜びを感じ、トキメキを感じてしまう情景です。その愛らしさです。

 だから、なんだかんだ言っても日本っていいよねというのは、「オムライス、いいよね。好きですよ、僕」という感覚にかなり近いです。また近くあるべきだとも思う。あれがダメでもこれがダメでも、その種の批判は幾らでも良くなっていけるからガンガンやるべきだと思うけど、そんなこととは関係なく、オムライスをうれしそうにパクついている限りは大丈夫でしょって気がします。だって、しあわせだもんさ。



文責:田村



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