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今週の1枚(2011/12/12)



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Essay 545 :「弱さ」の罪〜「負け犬」属性

 写真はDrummoyne。
 撮影したのは平日の昼間。このオジサン達は何をやっているのでしょう?
 よーく見ると、ボートの黄色と緑の部分の細かなパーツは缶ビールの空き缶であることが分かりました。

 結構シリアスな面持ちで二人で船のチェックをしてましたけど、「もう、何やってんだか」って感じ。いかにもオーストラリアらしい風景で、思わず顔がほころんだのであった。




 「弱さ」というのは「罪」だと思います。

 その弱さが「負け癖」パターンを生み、そのパターンが定着すると「何をやってもダメ」的な自己規定になる。「負け犬」的な属性が染みついていく。やがては何をするにもその視点で発想&行動するようになる。もともとの視点が歪んでいるだけに、着々と、粛々と、あたかも予定調和のように失敗していく。失敗するために万全の手筈を整えているようなものです。そして、そのパターンは繰り返すほどに強固になっていく。

 この悪魔のサイクルの根本にある「弱さ」は、いわば精神のガン細胞のようなもので、ほっておけばどんどん増殖する。不幸に至る「病気」のようなものです。

 それは本人の不幸に留まらず、ひいては他者にも影響を及ぼしかねない。
 本人とその周囲に災いをもたらす「弱さ」は、それゆえ一つの「罪」であろうと。


 日本にいる頃に間近で見てきた破産や犯罪などの人生局面、そしてオーストラリアでの海外生活のサポートなどを通じて、ことあるごとに思わされるのは、「結局は”弱さ”なんだよなあ」ということです。「弱さ」こそが諸悪の根源になっている。ここを何とかしない限り、生活も、ひいては人生もネガティブな方向に傾いてしまう。物理法則のように。

 ほとんど毎週のように相談メールをいただきますが、「何をやってもどうにも上手くいかない」というお悩み&煮詰り系の事例の約半数は、この弱さ系だったりします。のべ何十、何百通同じようなことをお返事したのか数え切れないくらいですが、偶然なのか世相なのか、徐々にその比率は増えてきているように思います。だから一回まとめて書いておこうかな、と。

犯罪と弱さ

 さて、ここで、いきなり分かりやすくも極端な例を挙げます。犯罪です。

 実際の刑事事件におけるリアルな犯罪というのは、その多くが「弱さ」に端を発しているように思います。「生まれながらの乱暴者」「先天的に残忍な冷血漢」が暴れまくって犯罪に至るという分かりやすいケースも勿論あるのだけど、比率からいえば、「普通の人間の普通の弱さ」に基づくパターンが多い。世間の大多数の人々は自分の弱さを上手いことマネージして土俵際で持ちこたえてるけど、他人よりもちょっとばかり「弱い」人はそこでコケてしまい、ついには破綻に至る。

 ---と書いて思い出すのは覚醒剤事犯の情状弁護です。情状弁護というのは、犯罪に至るプロセスが可哀想だとか事実誤認だとか、そういう主張をする場合が多いのですが、一般人(末端ユーザー)の覚醒剤犯罪の場合(自己使用&所持)においては「可哀想」な事例は少ない。そこでどうしても「反省悔悟」「改悛の情が顕著」がテーマになります。しかし、単に「ハンセイシマシタ」と口先で言っても全然説得力がない。だから、何が悪かったのか、どの時点でどうすべきだったのか、それが出来なかったのは結局は何が原因なのか?と徹底的に突き詰めて考えて貰い、それなりの答を出すこと。それが分からなければ「反省」もヘチマもないですし、どうかしたら「今度はバレないようにやろう」なんて間違った”反省”をするかもしれない。次に悪い点が分かったとして、じゃあそれは改善できるのか、どうすれば改善できるのかについてまでやってました。

 通り一遍のペラペラな情状弁護をするつもりは無く、かなり意地くそになってやってました。何度も拘置所まで足を運んで、何時間も話し合って。お金にならないことにムキになる傾向はあの頃からあったのですよね。しかし、キレイゴトかもしれんけど、やっぱ本気で立ち直って欲しかったですもん。弁護士が一番ガックリくるのは依頼者に裏切られたときだけど、弁護をした被告人がまた再犯を犯したと聞いたときくらいガックリするものはないと言います。涙ボロボロ流しながら「絶対もうやりません!」といってたくせに、ぶっ殺してやろうか?くらいに腹が立つし、脱力します。幸い僕の場合はそういうケースは少なかったですけど、ゼロではないです。

 で、そのときに「何が悪かったのか」論ですが、ケースは千差万別なれど、結論は常に一つ。「弱さ」です。
 「もうやめよう、こんなことしてちゃダメだ!」と思いながらも、「ついつい又やってしまう」という「つい」の弱さ。友達の手前「つい」いいカッコをしてみせたくなったり、下手に断って嫌われるのが恐かったなど類例が多く、ダイエットや勉強が長続きしないなどの誰もが抱えている「普通の人の弱さ」と基本的には同質です。犯罪というのは「犯罪者」という生まれながらに全然違う人種が犯すのではなく、普通の人がふとした弾みで迷路にまよいこんで犯すものです。

 ミスをしても「ごめんなさい」といって怒られるのが恐いので帳簿操作その他の「嘘」をつきはじめ、嘘が嘘を呼んでどうにもならなくなるパターンも多いです。1998年の富士銀行顧客殺人事件では、顧客に懇願され、情にほだされて”浮き貸し”をした被告人は、その穴を埋めるために他の顧客である老夫婦の定期を流用します。しかし、いよいよバレそうになったので思いあまって夫婦を殺害してしまいました。絵に描いたような迷路の踏み外しパターンです。なぜ踏み外すのか?これも結局は「弱さ」に起因すると思います。

 一つの綻び(ほころび)は、それだけだったら致命的なダメージではない。しかしそれを恐れてつい隠したり誤魔化したりした時点で地獄への門をくぐります。それによって事態は致命的に悪化していき、ついに破局に至る。自分でも何が「正しい判断・行動」かはよく分かっているのだけど、それには不愉快な思いをするなど一定の苦痛がついてまわる。それは自業自得なんだから潔く受け止めればいいのだけど、それに耐える強さがない。逃げる。誤魔化す。つまりは弱い。その弱さが、利息が利息を生むように、どんどん取り返しの付かない事態に発展し、ますます追い込まれていく。

 それは、よく「意志の弱さ」という形で言われる場合が多いけど、単に「意志」だけの問題ではないでしょう。自分の「弱さ」を悪い意味で受け入れてしまうことだと思います。そして、「弱さ」が自分の精神の核、アイデンティティの中核になってしまう。そこから全ての思考、発想、行動が出てくるという全体構造そのものです。

 その意味で「弱さ」というのは「精神のガン」といってもいい。
 ガンに蝕まれているから、何をやってもリターンが少なく、行動パターンが硬直し、負けグセが付き、しまいには「どうせまた負ける」という負け犬根性が染みついてくる。

 今回書きたいのはそのことです。

弱い人=犯罪関係者予備軍

 ここで、敢えて挑発的な言い方をすれば、「弱い人」=「犯罪(加害者or被害者)予備軍」くらいの感じすらします。もちろん、常に犯罪(=刑法上の構成要件に該当する違法・有責な行為)に関与するとは言いません。しかし、「犯罪」にはなっていなくても、借金を踏み倒すとか、他人の信頼を裏切るとか、恩を仇で返すといった行為に関連する度合いもまた高い。いずれにせよ「他人にすごい迷惑をかける」という意味では同じででしょう。

 彼らはその弱さゆえに、貧乏くじを引かされるなど、必要以上にヒドい目にも遭いますし、被害者的立場になることが多い。その意味では可哀想なのですが、しかしそれ以上に、その弱さゆえに他者を害する場合も多い。例えば、賭博にハマってしまって抜け出せず借金まみれになる人というのは、なにかが「弱い」と思われます。その弱さの帰結として借金でクビが廻らなくなったりする。しかも、サラ金どころかヤクザから金を借りるという命が幾つあっても足りないような危ないことをしている。親兄弟や親友に土下座して頼み込んでお金を借りる。周囲の人々も、よかれと思ってお金を貸してあげるのだけど、それで立ち直るかというと、そのお金を又バクチに突っこんで失ってしまったりします。

 あるいは、「今度こそやり直したい」「心を入れ替えました」と涙ながらに訴える。訴えられた知人や家族は、その熱い思いを信じて職場を紹介したり、いろいろ便宜を図る。しかし、せっかく紹介した職場も、喧嘩して1日で辞めたりするから、結果的に紹介者の顔に泥を塗る。それどころか、紹介された職場の金を横領して逃げたりする人もいる。信じた方も溜まったものではないから「お、お前という奴は!」と激怒し、難詰する。最初は頭をさげて神妙に聞いていても、「そこまで言わなくたっていいじゃないか」と逆ギレし、その恩人に暴行を振るったり、あとで泥棒に入ったり、放火をしたり等々。いわゆる「どーしよーもない人」ですが、そんな人が結構います。あなたも人生40年くらいやってたら一人くらいとは接近遭遇すると思います。

 彼らの「弱さ」は、他者に危害を及ぼす。生じた結果が、「裏切り」などの非犯罪的しかし道義的に問題である場合もあれば、単純にお金に困って泥棒をしたりすることもあります。あまりにも上手くいかない人生に嫌気がさして、通り魔的な犯行に及ぶこともあります。また、堂々と喧嘩しても勝てないから、裏でコソコソ卑劣な画策をするのは弱い人が多い。また日頃から強者に虐げられている鬱憤を、より弱い存在に当たり散らしたり、残忍な振る舞い(動物虐待とか)をするのも弱い人が多い。どういう結果が出るかは、ケースバイケースですが、「犯罪関係予備軍」というのはそういう意味です。

「弱さ」は正しく弾劾されるべき

 僕は人の弱さがキライではないし、時には抱きしめたいほど愛しくもあるし、自分もまた弱っちー人間に過ぎないと思ってます。また、社会的な弱者に対する思いやりや支援はガンガンやるべきだとも思ってます。しかし、ここでいう「弱い人」というのは、そういうのとはちょっと違います。いわゆる社会的弱者と呼ばれる「○○が不自由な方」とか、被差別的な扱いを受けている人達は、そういうハードな環境で生きているだけに、むしろ人間的には「強者」である場合も多いです。ここで僕がいう「弱さ、弱者」というのは、本来弱くなる理由も必然性もないにもかかわらず、本人の事情、それも多くは怠惰など本人に帰責性のある事情によって、なぜか弱くなってしまっている人のことを指します。

 しかしながら、今の風潮としては、「弱者」「弱い」とかいうと、「とにかく守ろう」みたいなノリになりがちです。まるで絶滅しそうな野生動物を保護しようみたいな、無条件でサポート!みたいなニュアンスがあったりしますよね。だから、これから僕が書くような、弱者の弱さを指摘し、その問題性を弾劾するようなことって、なかなか言いにくかったりするのでしょう。実際そういう論旨の意見って、マスコミでもネットでもあんまり見ませんから。誤解されずに言うのが難しいのかもしれません。ぱっとみると「弱いものイジメ」をしてるだけのように思われたりするし。

 しかし、言うのが難しいからといって、その問題がなくなったわけではない。それどころか大いに論ずる意味があると思います。もっともっと弾劾し、指弾していいと思ってます。敢えて物議を醸すような物言いをするのもそういう意味です。

 何故論じる意味があるのか?といえば、これって上記のような「特殊な人」だけの問題ではなく、僕ら全員にかかってくる問題だからです。エラそに書いてる僕自身だってヤバいです。多めに見積もれば、今の日本の二人に一人はヤバイかもしれない。そしてそれは、症状の進み具合にもよるけど、多くの場合はそれに気づけばかなり直せると思います。完治が難しくても修正はきく。原理的に言ってそんなに難しい話ではないし、ちょっと「あ、そっか」と気づいただけでもかなり結果が変わってくるでしょう。特に海外生活や、就活、転職、その他の局面で煮詰っているという程度の、いわば症状の軽いパターンの場合は、早期発見・早期解決!です。

 「弱さ」は後で述べるように、構造的波及的に様々な弊害を生みますが、まずもって本人の人生にダメージを与えます。それは「注ぎ込んだ努力に対してリターンが余りにも少ない」「頑張ってるのに全然報われない」という現象になって現れます。ひらたく言えば「大損ぶっこいてる」。

 言うならば「負けグセ」がついている状態になるし、自分がそういう人間だという自己規定をしてしまう時点で「負け犬」属性が発生したりもします。また、オートマティックに不幸に転がり落ちていくという意味では不幸病という「病気」と考えてもいいかもしれません。

「負け犬」属性チェック

 犯罪とか自己破産という破滅的な形態だけではなく、もっと日常的にありふれた情況からこの負け犬度チェックは出来ると思います。経験上、幾つか「これは」と思われる状があり、ランダムに書きだしてみれば、

 @、恐怖体質やパニック体質である
 A、総じてストレス耐性が低いが、とりわけ「不安」を我慢するのが苦手
 B、手段がすぐに目的化する
 C、「楽か」「簡単か」が行動選択の基準になっている
 D、やたら情報、情報と、絶えずネットその他で情報を探しまくる
 E、やたら「ラッキー♪」を連発し、ラッキーであるかどうかが重大な意味をもっている
 F、やたらお金、お金と二言目にはお金のことばかり言い、全ての思考と行動の基準に金銭がある
 G、失敗の原因分析が大雑把すぎる。単に「ついてない」とか、場所や環境が悪いとか、もう年だからとか、向いてないとか。
 H、成長&学習効率が悪く、同じパターンの間違いを何度でも繰り返す
 I、総じて保守的な体質が強い
 J、自分はこういう人間という決めつけが激しく、特に「苦手」と自己宣言したことには近づこうともしない
 K、ときとしてプライドと虚栄心が強く、それが発想&行動の自由を妨げていると同時に「言い訳」として利用している
 L、細かなところでは、すぐに道に迷う、マニュアルをあまり読まない、いわゆる「勉強」が苦手、教材や学校など学習ツールの目移り度や浮気度が高い、ツールを「使いこなす」よりも収集癖が強くなり「つん読」が多くなる、他罰性が強い(すぐに「騙された」などという)、、、、

 などなど、幾らでもあります。

 これらの傾向は、大なり小なり誰でも持っているものです。ちょっとでも該当したらもうダメなんてことはないです。そんなこといったらこの世の全員がそうなるし、「全く該当しない!」と心から思える人は、それはそれでもっと問題だという気もします(^_^)。

 程度問題なんだけど、だからこそその程度が大事。これらの傾向がより広く、より強いほど、その人の「負け犬属性」は高いと思われます。

 なお、これらは理屈から導いたというよりも、20年以上「他人のお世話」をしてきた経験上から出てきたものです。全部ひっくるめれば数千人以上見てきたわけですが、世話のしがいのある人と、いくらお世話をしても根本的な部分でトホホな人に大別されます。大体、数%人は基本的に他人の世話を必要とせず、一人でなんでもやっていける「世話要らず」の人です。逆に数%の人は、何をどう世話しようとも、やがては自然に軌道が外れていって自滅してしまう。でもって、大多数の人が(僕も含めて)、その両方の可能性を持ちつつ、日々頑張っています。つまり、常に転落していく危険を秘めつつも、同時にもっと良くなる可能性をも秘めている。

 ところで、僕に限らず、接客や人間相手のアクティビティを日々している人なら似たような感想を持たれるのではないでしょうか。人間商売というのは実に範囲が広く、弁護士やカウンセラーなどに留まらず、教師、看護師、美容師、保育士、介護士は他人の世話をするのが仕事ですし、ひいてはショップの店員さん、窓口カウンター業務も他者へのアドバイスという意味では同じです。また、組織における人事やリーダー格、上司になった人は否応なく他者の世話をしますし、カジュアルなところでは友達のヘルプなんかもそうでしょう。最も重要で普遍的なのは「親」業です。要するに、ほとんど全員が何らかの形で「人間相手のアクティビティ」をやってるわけで、誰だって僕レベル、あるいはそれ以上に経験がおありでしょう。だから、今ここで書こうとしていることも「何を今更」という「自明の理」に感じられるかもしれません。僕もそれほど突飛なことを書いているつもりはないです。ただ、こういうカテゴライズや、それらを「弱さ」という一本の串で貫いて説明するのは、ちょっと珍しいかもしれないけど。

 大事なことなのでじっくり書きたいのですが、上の@〜を簡単に解説しておくと、これらの「症状」は究極的には一つの原因によって生じていることと思います。それは「自分は弱者という自己認識」です。その意識が強く、決定的であるかどうか。本質的な「弱さ」を人格の中核に持っているかどうかであり、精神のガン細胞に浸蝕されているかです。「意識」と書きましたが、明確に意識されているかどうは関係ないです。むしろ意識レベルでは自分を強い人間だと思ってる場合もあります。しかし、無意識レベルや中核深部では弱いと思っており、それがゆえに自分に対してすら虚勢を張ってたりします。だから、中核にあるかどうか。これは自分の意識だけ見てても分らないと思う。ゆえにその「発現形態」としての諸症状を見て、自己診断するしかない。

弱い→恐怖体質→切迫性と依存性


 無意識にせよ意識的にせよ、自分が「弱い存在」であるところから出発している人は、おそらくはそうでない人よりも自分を取り巻く世界が恐く感じられるでしょう。なんせ森の小動物のようなメンタリティなわけですから、攻撃されたらひとたまりもない、すぐにやられてしまうと思っている。だからほぼ必然的にベーシックに恐怖体質が世間標準よりも強くなる。恐怖というフィルターを通して世間を見るようになる。弱い→恐い、です。年がら年中なにかに「恐がってる人」です。

 ナチュラルに恐がっているということは、常に微量のパニックに陥ってるということであり、こういう精神状態にあるときには、「じっくり構える」ということが心理的に難しくなります。「あー、どうしよ、どうしよ!」と焦ってるから、のんびり、じっくり、果報は寝て待てみたいな精神状態や行動が取れない。焦っている人が欲しいのは、「一刻も早く」「安心できる状態」を得ることです。海で溺れているように、とにかく一秒でも早く陸に上がりたい、せめて何か掴まるものが欲しい。もう文字通り「藁をもすがる」ような精神傾向にシフトしていく。

 ここで出てくるのは切迫性と依存性です。

 ゆっくり構えて物事を攻略できない。また「つかめれば何でもいい」くらいにせっぱ詰まっているので、なにごとも吟味検討せずに飛びつく。「良質なものを選択する」のではなく、「依存したい」という一心でやるから、急場しのぎに体重を掛けられたら何でもよく、したがって必然的に選択ミスが多くなる

 ストレス耐性が弱いのも、もともと平常時においても恐怖ストレスがかかっているので、同じストレスを感じるにしても他の人よりも何割か増しに感じられるからでしょう。いわば重いバックパックを背負いながら腕立て伏せをしているようなもので、通常人よりも先にバテてしまうのも無理はないです。

 その中でも、「じっと我慢する」というストレス耐性が弱い。特に不安定な情況に置かれるのが耐え難い。暗闇に一人置き去りにされた幼児のようにパニックになる。このエッセイでもしばしば強調しているように、不安・不安定=未来への流動性の高さというのは、、可能性の豊富さであり、希望でもある。芯が強い人は、不安や不安定をそれほど苦とは思わず、むしろ何にでもなりうる「チャンス」だと捉えるけど、根っこが弱い人は到底そうは思えない。一刻も早く、この不安ストレスを解消しようと思い、ただそれだけを追い求めるようになる。

 L細かな諸症状で「道にすぐ迷う」というのを挙げましたけど、これも同じ事だと思われます。なんで迷うか?といえば「安易な決めつけ」をするからでしょう。「多分、こっちだ」と。「多分」とかではなく、地図と見えている風景とを照らし合わせて鉄板に固めていけば、およそ迷うなんてことはないのだけど、焦ってるからそういう「じっくり構える」という作業が出来ない。とにかく早く目的地に着いて安心したい一心でズンズン進むからドツボにはまる。迷っても、「あの角を曲がれば正解になるんじゃないか」という何の根拠もない願望にすがり、歩き続ける。まるで足を止めたら死んでしまうかのように。もうそれが身体に染みついたパターンになってしまっている。

 正確な地図を持ってて道に迷うなんてことは、通常の知能を持ってたら本来あり得ないことです。じっくり立ち止まって調べるとか、そもそも最初から確認して進むということをすればいい。特に最初が一番大事。駅に着いたとか、バス停から降りた時点が、最も現在地を確認しやすいのだから、ここで現在地と方向を地図上でガチガチに固める。確信が持てるまで5分でも10分でも一歩も動くな!です。それが結局一番早い。

 でも、そういう「時間を掛ける」という行為が致命的に苦手だから、iPhoneとかのギアに走る。それでも目的は達成できるけど、問題は放置されたままです。ギアとか小物に走るというのは、一種の「依存」です。もう二度と行くことがない土地で、締め切り間近で一刻を争うなら、そういう手もアリですが、これから自分が暮らすような土地の場合、土地鑑というのは非常に貴重な財産になります。頭の中に見取り図が出来ている人と出来てない人とでは、行動計画一つ建てるにしてもその効率性や正確性に雲泥の差があります。

 だから本来ならばナビをもっててもそれを使う場合と使わない場合とに分けるべきです。僕も皆さんをシェア先にお送りするときにナビを使いますが、知ってる道でも使います。何故かというと知らないルートを開拓できるかもしれないからです。「こんな抜け道があったのか」と。あとで地図で照らし合わせて頭に叩き込む作業をします。どこで役に立つか分からない、、というか、こういう知識はすぐに役に立ちます。

 ソフトや携帯の「マニュアルを読まない」のもそう。まあ、メカ的には直感的に操作出来るのが大事なことなんだけど、それでも便利な機能なんかは見てるだけでは分らない場合が多い。僕もソフト開発のプロの知人に聞いて「そうか」と思ったのだが、連中は新しいソフトを試すときに、闇雲に動かさずに、まずはじっくりマニュアルを読むそうです。それも10分とかではなく、1日がかり、どうかしたら数日かけてもじっくり読むと。読み終わるまで勝手にいじらない。その方が結局一番早い。それも「僅かに早い」なんてもんじゃなく、圧倒的な大差で早い。

 いい加減な直感操作でマスターしても所詮はひととおりしか出来ず、無駄なことを延々やり続けたりする。そのロス時間を合算すれば、1日やそこらマニュアルに当てても十分お釣りがくる。1年くらいたってから、「え、そんな便利なことが出来たのか?くそ、もっと早く知っていれば」と悔しい思いをすることが沢山ありますからね。「ここが急所」だと思う部分は、何十時間、場合によっては10年くらいかけても徹底的にマスターすること。

 そういえば高校の時になんで法曹界を志したのかといえば、理由は幾重にもあるけど、法律というのは「社会のマニュアル」だからです。勉強するのは面倒臭いけど、最初に完璧にマスターしておけば、後の人生の自由度と効率が格段に違ってくるぞと。だから発想は同じなんでしょう。実際それで何をどう得をしたのかよく分からないけど、少なくとも日本の法律に関して言えば、自分に理解できないものは一つもない、とナチュラルに思えるのは強いかもしれません。そりゃソラでは言えないし、分からないけど、時間をかけて徹底的に調べればどんなことでも分かるという自信はある。徹底的に調べる調べ方も知ってる。ま、海外に来てしまえば大したメリットでもないけど、それでも、時間をかけて調べたら制度やシステムは理解できると思ってます。裏の事情とかはインサイダーでないと分からないけど、少なくともオモテに関して言えば。

じっくり攻略出来ない→スキルが結実しない、運の凹凸でつまづく

 次に切迫感であっぷあっぷしているから「じっくり攻略」という行為が出来ない。
 だからすぐに結果が出るお手軽で促成栽培的なものばかりに目がいく。例えば、「かんたん〜」「らくらく〜」とかいうタイトルの本に飛びつく。しかし、本当の技術や知識が「らくらく」なんてことはありえないから、「全然楽じゃないじゃん」で数頁読んで挫折。また別の本を探し求める。こんなことばっかやってたら、JoJoじゃないけど、無駄無駄無駄無駄無駄あ!!です。

 この弊害は深刻です。「じっくり」が出来ないから、結局何ひとつマトモに技能やスキルを習得できない。どんなスキルも、それで世の中わたっていけるレベル、メシを食えるレベルにまで行こうと思ったら、一口に10年かかると言います。まあ、少なくて3年でしょう。なかには1年程度でそこそこいくのもあるけど。あ、その意味で英語なんか1年もやれば、そこそこは行くから(完璧は一生無理だけど)イージーな部類に入るでしょうね。達成感がなかなか得られないのが玉にキズですが。

 もう一つ致命的なまでにキツイのが「運の凸凹」をクリアできないことです。運の総量なんか誰でも同じだと思うのですが、運には当然波があります。ダメダメのときもあれば、馬鹿ヅキのときもある。そこまで極端でなくても、数日サイクルから、数年サイクル、どうかすると十年サイクルであります(天中殺とか)。これは以前「成功の罠」でも書いたけど、ある程度の時間的スパンで物事を見る目がないと、凹のときに早々に諦めてしまうミス、凸のときを平常だと勘違いしてうぬぼれるミス、とダブルでミスをします。前者は成功のチャンスを見逃し、後者は成功しているものをみすみすダメにするという致命的なミスになりがちです。

 「短気は損気」というけど、そんな牧歌的なレベルではなく、ここがダメなら、おそらく何をやってもダメだろうな〜という気がします。野球でいえば、ダイヤモンドを一周する走力がないようなもので、例えホームランを打っても一周できないからアウトになってしまうという。

 だからといって、何でもかんでもじっと辛抱すればいいってもんじゃないです。ダメだと思ったら1日どころか、1秒で見切りを付ける決断力も必要。要は時間を掛けなければいけないことと、掛ける必要がないこと、むしろ時間を掛けてはいけないことのメリハリをつけることです。そういった判断が出来るか、そしてその判断の正解率が高いかです。

 依存性についてはもっと問題が深刻なので、またあとで書きます。

視野の狭さ→選択肢の乏しさ→八方塞がりの閉塞感

 この切迫感(焦り)と依存性が、次の欠点を導きます。何でもかんでもショート・サーキット(短絡的)になることです。ゆっくり大きく円を描いて、じっくり大きなものを育て上げるという発想になりにくい。お手軽な物に飛びつくだけではなく、発想そのものが短絡的になっていく。

 そうなると視野も狭くなります。
 視野の狭さは不幸のモトで、これがまたあらゆる万病に結びついていきます。

 視野が狭いと何が困るかというと、とりあえず選択肢が異様に乏しくなります。卒業後の進路は?といえば、@就職、A結婚して主婦・主夫、Bニートという、アホみたいな三択問題になってしまいます。出来れば十択、せめて五択くらいに視野を広げてから選んだらいいと思いますです。仕事にしても公務員か民間かという二択。職業総覧サイトでいっぺん全部読んでみたらいいです。仕事の種類というのは1000のオーダーでありますから。「この世にこんな仕事があったのか」という。例えば、資格に限っていっても、細胞検査士とか、ファンダメンタルズ・オブ・エンジニアリングとか。以前お世話した方も臨床検査技師でしたが、もともとは「海の男」で海に入っている人生を過ごしたい、でも金はかかる、だから絶対食いっぱぐれのない仕事ということで、臨床検査技師にしたそうです。確かに食いっぱぐれはないそうです。

 だけどそんなちょっと調べたら出てくるような仕事だけではなく、なんだかワケがわからん仕事も沢山あります。僕だって何やってるのかよう分からんし。こんな資格あるわけないけど、一級シェア探し指導士とかいう資格があったら多分それなんだろうな、という。パチンコの釘師やゴト師は有名ですが、今もあるのかどうか知らないけど「呑み屋」という仕事もあるそうです。ヤクザ系だけど、重要書類を見せてもらうフリをしてその場で食ってしまうという。胃袋に入ってしまえばどうしようもないから。こんな冗談みたいな仕事が本当にあったという。ダーク系なら、女をコマす竿師は有名だけど、地見師とかもあるよね。

 半分冗談みたいになっちゃったけど、もともとが千択、あるいは無限択とも言えるくらいなんだから、それが三択になってしまってる時点で、軽くヤバイです。狭いぞ〜。

 こういった選択肢の乏しさは、すぐに「八方塞がり感」に直結します。「なにをやってもダメ」「もう手がない」「希望ナシ」になるという。まあ、3つしか選択肢がなかったら埋まってしまうのはあっという間でしょう。選択肢を増やさなきゃ。選択肢を増やすには視野を広げなきゃ。視野を広げるためには、そんな切羽詰まってアップアップしてたらダメ。なんでそんなにドキドキしてるの?といえば、何かが恐いから、ベーシックに脅えているからでしょう。では一体なにがそんなに恐いのか、なぜ恐いと感じるのか?その恐怖体質はどこからくるの?と

視野の狭さ→全体視点の喪失→手段の目的化

 さらに、視野の狭さは「全体構造を見失う」という次の弊害に波及します。
 「全体構造が見えない」というのは、露骨に言ってしまえば「脳味噌がなくなる」くらいのインパクトがあります。もうかなり致命的。

 全体構造を見失ったら、何のために何をやってるのか自分でもわからなくなります。
 暫定的にやっていること、所詮はテンポラリーな手段に過ぎないこと、だからダメだったらさっさと見切りを付けて次に行くべきことに固執したり、絶望感を抱いたりする。

 ここで「手段の目的化」という、一番陥りやすく、不毛な迷宮に入り込みます。これって一回迷い込むと中々出てこれないので厳しいです。これが「目的の変化」だったらいいです。例えば、女の子をナンパするためにスノボをするぞ!と意気込み(ここでスノボにキメ打ちするのが視野の狭いゆえん)、雪山に通い出したら、段々スノボそのものにハマってしまって、しまいには「女なんか眼中にねえ」とムキになってやりだすという。これは全然アリだと思います。

 しかし、スノボの資金作りのために居酒屋でバイトを始め、その職場の人間関係に悩んだり、鬱になって心身を壊してしまうなら「何やってんだか」です。要は資金さえゲットすればいい「手段」なのであり、居心地悪けりゃとっとと別のバイトにすればいいだけです。そんな全ての職場が明るく朗らかであるわけもないもん。また、居酒屋でのバイトに励んでいるのはいいけど、資金稼ぎに必死で、バイト仲間の可愛い女の子が熱い視線を送っているのに気づかないとか。最終目的は彼女捜しなんだから、別に雪山である必要なんかないでしょ。身近でゲットできたらそれに越したことはないわけなんだけど、全体構造が見えてないから、そのあたりが分からなくなる。

 もうちょい真面目に言えば、例えば英語を勉強するとします。何のために?は人それぞれだろうけど、よりよい仕事機会をゲットするとか、世界の人とコミュニケートして人生をふっくら豊かにさせたいとか色々あるでしょう。そのためのツールとして、例えば学校があり、教材があり、様々なアドバイスがあったりするわけですよね。でも段々手段が目的化してきて、学校だったら次のレベルに昇級できるかどうかが人生の一大事のように思いこんだり、あるいは教材の不備のあら探しに励んだり。挙句の果てに、それらを転々ととっかえひっかえするようになり、しまいには学校と教材の評論家になっているという。でもって肝心の英語は伸びない。また、「勉強じゃあ!」で燃えるのはいいんだけど、勉強の邪魔だとばかりクラスメートとギスギスしたり。おいおい、「豊かなコミュニケート」をするんじゃないかったんか?仮に英語が完璧に出来るようになっても、他人とうまくやっていくことが出来なくなったら何の意味もないじゃん。

 これがすなわち全体構造を見失うことで、「脳味噌がついてない状態」になるということです。
 大学入試のお守りを探しに全国行脚して有名処のお守りを買い漁ったり、大願成就のために毎日朝から晩まで瀧に打たれる修行をしている受験生みたいなもので、そんなことしてるヒマがあったら勉強しろ、勉強、です。

 あ〜、ここで切ります。
 まだまだあるのだけど、長くなったので。

 以下次回、ですよね。終ってないし。



文責:田村



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