予めお断りしておきますが、今回は一つのテーマを展開しているのではなく、いくつかの小ネタのオムニバスです。
本当は「悪魔の証明」というテーマで書いていたのですが、「そういえば」で思いついた余談が多くなり、また余談の方が妙に面白くなっちゃったので、敢えてまとめずに散漫に書きます。お気楽にどうぞ。
悪魔の証明
あなたが法学部を卒業していたら、「悪魔の証明」という言葉を知っていなければ嘘です。
まあ、「嘘の人」もおられるかもしれませんが、気にしない気にしない。
「悪魔の証明」というのは、主として民法や民事訴訟法に出てくる概念です。なにが「悪魔」かというと、悪魔のように難しい、悪魔でもなければこんなん無理!いや悪魔でさえ無理!という、「絶対無理な証明」「不可能なくらい困難な証明」のことをいいます。
もともとはローマ法における所有権帰属証明のことだったのですが、我が国では兼子一先生が民事訴訟法で「著しく困難な、消極的事実の証明」について比喩的に語られて定着し、今では刑事訴訟でも痴漢冤罪事件などで同じような問題は提起されています(「痴漢をやっていない」という証明はほぼ不可能なので、被害者の告発どおりに冤罪が生じてしまう問題)。
法学部に行こう
民訴における悪魔の証明は、もっぱら挙証責任の転換/分配論に出てきます。
こんなテクニカルターム(専門用語)、知らなきゃならんのか?と言われたら、はい、知る必要は全くありません。が、その概念、ものの考え方は非常に有用です。知っておくと便利。
そういえば法学部に在学中、ことあるごとに「リーガルマインドが大事だ」と散々聞かされたのですが、あの頃はアホだったので馬の耳に念仏でしたね〜。何十年も社会で揉まれていくうちに、「あ、ほんとだ!大事だよなあ」と得心がいきます。
リーガルマインド=法的なものの考え方というのは、イコール問題解決能力なのですね。
単なる個々の条文がどうしたとか、こういう法律や手続があるとかいう知識ではなく、もっと抽象的な発想法、思考整理法です。法律の問題というのは、要するに喧嘩やトラブルの問題であり、ありとあらゆる喧嘩のパターンをやっていくうちに、トラブルが生じる構造とか解決のパターンが身体に馴染んでくるのです。そういった抽象的な能力というのは、一見わかりにくいけど、実際の生活においては、個々の条文知識の何十倍も「使える」のです。その意味では社会生活上の護身術みたいなものかもしれません。
ともすれば個々の知識を知ってた方が、専門家気取りになれるし、すごい実戦的な気がするのですが、それは幻想。例えば、「現住建造物放火罪(刑法108条)」の条文を暗記したって、そんな知識、一生の間に使うことあんのか?それよりも現住/非現住でなんで罪の重さが違うのか?公共危険罪にみられる「公共」やら「危険」の曖昧な概念とか、そのカスミのように曖昧な概念をなんとかコトバで定義づける=まさにウナギを手づかみにするようなテクニックにこそ、学ぶべきエッセンスがあり、応用のきく生きた知識になる。「論語読の論語知らず」って言葉がありますが、まさにそうで、条文読みの条文知らず、細かい知識は多々あるけど、なんでそうなるの?どうしてそうするの?という根本原理が分からないから応用もきかないし、法律が改正されたらもう終ってしまうという。
僕も若い頃は、司法試験受かって法曹界に入らなかったら法学部なんか行く意味がない、投下資本が回収できないとか愚かにも思ってたのですが、そんなことないって!今だったら結構胸を張ってオススメできます。「いいよ〜、法学部、行きなよ」って。いやあ、リーガルマインドですよ、はっはっは。そのリーガルマインドがあるから、こうやって毎週エッセイのネタとか展開とか概念調理法には事欠かないわけです。毎週モトを取ってます。まあ、ね、こんな駄文が書けたって大したメリットでもないのですけど。
もうちょいマジにいえば、ビジネスの現場で役に立ちまくるのは当然のこととして、海外という未知の環境で暮らす場合にも、「多分、こうなってるんじゃないかな?」というアタリは付けられるようになるし、思考のフレームが出てきているから、知らない制度に触れても「ははあ、なるほどね」と飲み込みが早くなります。これはデカいですよ。かつて、「法学部卒はツブシがきく」と言われたいたものの、僕としては意味がよく分からんかったのですが、今となっては「なるほど〜!」と頷けます。
法学に限らず、もっと抽象化していえば、「勉強って大事なのよ」ってことですね。今にして分かった。昔はね〜、「こんなもん、なんの役に立つんだ?」と思ったもんですけど。直接的に役に立たなくても、頭が鍛えられるのです。
法学をやると、複雑な概念操作に慣れてくるから、論理的に物事を理解し、表現することが出来る。言語論理能力がつく。これはビジネスなどで、予め問題点を摘出し、論理階梯に即して並べ直し、交渉現場で瞬時に何を捨てて何を得るべきかを正確に決断し、最終的にまとめあげるときに威力を発揮します。これはいうならばアドミニストレーターの能力であり、だからこそ東大法学部の例を引くまでもなく、古今東西、法学系の卒業生が政治家や高級官僚になりやすい。あれは学閥とか、単なる権威主義だけではない。
それぞれの領域でそれぞれの能力がつくのでしょうね。思うに「何の役に立つのか」という疑問は要注意で、効用がすぐに分かるような練習って、大体において射程距離が短い。近視眼的な効果しかない。一見何の役にも立たなそうなことが、実は一生レベルで役に立ったりするから恐いです。
でも、頭脳を肉体に置き換えてみたら分かりやすいと思います。「役に立たないから無駄」という論理は、ジョギングやってる人に、「そんなことしたってプロのランナーになってメシなんか食えるわけないぞ」「速く走れたからって給料上がらないぞ」と言うようなものです。別にプロでメシが食えなくたっていいのだ。身体を鍛える、健康を増進させるということには、もっとゼネラルに計り知れないメリットがあるのだ。あまりにもゼネラルで計り知れないからイチイチ言えないだけで、きっちり役に立っている。というか、やってるうちに身体が慣れて、走ってること自体が気持ち良くなる。勉強だってそれと同じで、「弁護士にならないなら法学部に行く意味がない」というのは、プロにならないならスポーツをやる意味がないといってのと同じくらいアホな立論なんですよね。
頭脳だって肉体の一部なんだから、使えば鍛えられるし、鍛えたら軽々と動くようになり、動かすことが楽しくなる。それだけのことなんでしょう。
挙証責任
ということで、悪魔の証明がでてきたついでに、この際、「挙証(証明)責任」という言葉にも触れておきます。これがまた面白いんですよ。
これは簡単。要するに証明できなかったときにどっちが負けるかってことです。刑事事件はシンプルで、挙証責任は全面的に検察官が負います。警察・検察という強大な捜査権力を持ってるんだから当然なのですが。ところが、民事訴訟の場合は原告被告が対等な民間人なので、どちらかが全面的に証明責任を負うということはないです。公平の見地から双方に割り振ります。
例えば、あなたが友人の鈴木さんに100万円貸しました。でも鈴木さんは全然返してくれません。業を煮やしたあなたは鈴木さんに対して「借金返せ」という訴訟を起こします。この場合、原告であるあなたは、@鈴木さんに100万円貸した事実、Aその後鈴木さんから返して貰ってない事実を主張立証することになりますが、通常は@だけで良いということになってます。「返して貰ってない」という事実は立証する必要がない。Aについては、積極的に鈴木さんの方から「○○円をいついつに返した」という事実を立証しなければならない。
その理由、お分かりでしょうか?
返済してもらって「ない」という証明は非常に難しい=悪魔の証明になりかねないからです。「返してもらってない」ことを立証するということは、ありとあらゆる弁済パターン・可能性を潰さないといけないわけで、まず不可能だと言っていい。
もっとも最初に貸し付けるときに、返済期日&方法を厳密に特定すれば話は別ですよ。「○年○月○日に、○○口座(口座番号)に金○円を送金して支払う」と定めておけば、その銀行口座の通帳を証拠として出して「ほら、入金がないじゃないか」と立証することはまだしも可能です。だから契約書(借用書)を作るときにはその点に注意しましょう。
しかし、期間&方法も定めてなかった場合は大変です。口座支払にしたって、どの口座に振り込んだのか、一回ではなく分割で五月雨式に入金したのかもしれない。しかし、口座振込ではなく現金を手渡しで支払った可能性もあり、さらに本人ではなく鈴木さんの部下があなたの部下に手渡ししたかもしれない。はたまた別件でチャラ(相殺勘定)したかもしれず、もう無限に可能性があります。あなたは貸した日から今日までの、全関係者の全ての行動、全ての記録(段ボール何十箱分にもなるだろう)を提出して、「ほら、どこにもそれらしきモノはないだろ?」と立証しなければならない。しかし、どこまでいっても完璧には出来ない。「まだ漏れがある。例えば○月○日の深夜3時の行動はどうなってるんだ?」とか言い出されたらキリがないです。「悪魔の証明」という所以です。
このように、「無い」ことの不可能な証明責任を原告に負わせるのは酷です。それにそんな悪魔証明を原告に負わせていたら、金を借りるだけ借りて踏み倒した方が得だということになっちゃいますよね。貸した方(原告)は絶対に裁判で勝てないんだから。それはヘンです。一方、被告の鈴木さんの方から「いついつに幾らこうやって返した」と立証するのは簡単です。領収書一枚、送金票の控えを一枚出せば足りる。
かくして@については原告に、Aについては被告に挙証責任が分配されている、ということになります。一般に、「あるという事実を主張したい方がその証明責任を負う」とされてますが、ケースバイケースです。
公害訴訟と今後の原発被害救済
ところが必ずしもその原則を貫けない新型パターンが出てきました。もっとも顕著な例は公害訴訟です。
公害の場合、民法709条の不法行為が根拠になりますが、そのためには、(1)故意・過失、(2)権利侵害、(3)損害の発生、(4)行為と損害との間の因果関係があること、を原告(住民側)立証する必要があります。しかし、これは場合によっては不可能に近く、だから問題になったのです。
ところでこれは単にお勉強ネタとして書いているのではなく、これからの日本のホットなトピックになることが予想されるから予め書いているのです。何を?って、言わずと知れた、原発(東電)への損害賠償です。これはおそらく死ぬほど厄介な問題になるでしょう。今後の展開を考える上でも、かつての公害訴訟の歩みを知ることは意味があります。
公害訴訟の難しさは、その異様なまでの専門性にあります。
4大公害訴訟といわれるなかの一つ、昭和46年に一審判決が出された富山のイタイイタイ病では、工場排水のカドニウムと住民の健康被害の因果関係が問題になりました。カドニウムをどれだけ人体に摂取するとどれだけの健康被害があるか、なぜそうなるのかを完璧に立証しろということは、完璧な医学論文を書けというに等しい。真剣に科学的に立証しようとすれば数年から数十年にわたる大規模な追跡調査と統計学的な相関関係、さらには数多くの実験を経て分子生物学などの仮説と立証をしなければなりません。そんなもん、一般住民である原告には無理です。原告代理人の弁護士だって、別に理系の専門家でもないし、専門家であったとしてもわずかな準備期間で立証しろなんてできっこないです。
そこで、立証責任の「緩和」が行われました。そんなに医学的に厳密でなくてもよい、統計的な事実(工場の操業と被害発生の時間的場所的関連性)、一定の臨床所見と病理所見があり、いわば「確からしい」という「外堀を埋める」だけのことをすれば、あとは工場側が自分達の排水のせいではないという逆立証をしなければならないという判断になりました。
同じく46年に判決が出た新潟水俣病では工場排水のメチル水銀化合物が問題になりました。ここでも因果関係が問題になりましたが、原因と汚染経路についての情況証拠と、関連諸科学と矛盾しないことで被告工場の門前までたどり着いたら、あとは被告が積極的に反証しなければならないとしました。いわゆる「門前到達論」。
また、過失についても厄介です。過失=「こういうミスがあった」ということですが、しかし考えてみれば、イチ私企業内部の操業状態や、当時どの程度のことを彼らが知っていたか/予想できたかなんてことが、外部の第三者からは知る術もない。この判決はこの点でも住民側を救いました。当時、被告企業はわかっていて有機水銀を排出していたのではなく、操業中のプロセスで有機水銀が発生してしまっていることに気づかなかったのですね。ここで、熊本水俣病を参考にもせず、また熊本大学研究班の有機水銀説も聞き流しており水質調査をしなかったという点をもって過失にしました。そして最高設備をもってしても尚も被害が生じる場合は操業停止すら考えるべきで、企業利益は環境保全と調和している限度のみ許されるという、今の感覚からしてもかなり先見的な判決を出してます。
47年判決の四日市ぜんそく訴訟では、複数の被告団(工場団)がそれぞれに煤煙を出して大気汚染をしていたわけですが、どの工場のどの煙がどれだけ被害を生じさせたかの個別特定が不可能な事例でした。ここでも判決は、このような場合は「共犯者のようなもの」として、全部ひっくるめての判断を下しました。法的理論としてはかなり大胆というか、むしろ粗漏なくらい大雑把なのですが、「救う」という目的のために、客観的な関連共同による共同不法行為の成立という理論を打ち立ててます。もっとも判例が打ち立てたというよりも、先んじて学界が提唱し、それを被害者側弁護団が援用し、ついに裁判所をして採用に踏み切らせたということです。
一番最初に問題になって一番最後に判決が出たのが、熊本水俣病訴訟で、48年に判決が出ています。ここでは、それまでの間に見舞金や和解契約が行われたので解決済であるとか、すでに時効(不法行為の消滅時効は3年)だとか、あるいは他に公害調停や自主交渉グループなど住民側も分かれて解決していることが、相互に関連するのかなどが争点になりました。以上は概要ですが、
環境省の環境白書に手短にまとまっています。
これらは法学部に入って、民法の債権法に出てくる定番トピックですけど、今こうして見直してみると実に学ぶべき点が多々あります。総じて言えば、1960年代後半から70年代前半にかけての日本は、まだまだ自浄作用が十分に働いていたということですね。お上意識丸出しで強権的に住民を抑えつけようとする企業側(住民達に水をぶっかけたり、暴力団を雇って襲わせたりした)や国に対し、まったく前例がないにも関わらず団結して立ち上がった住民、それをサポートする支援国民、手弁当の弁護団、逐一報道したマスコミ。そして、数々のフィールド調査や研究を精力的に行い、あるいはタイムリーで急進的な法理論を提唱した大学のアカデミズム。そして「他人や環境を害してまで儲ける権利はない」と、経済一辺倒の日本社会を告発する勇気をまだ持っていた裁判所(その後、日本の司法はどんどん骨を抜かれていくのだが)。いずれも、それぞれのポジションでそれぞれの日本人が「いい仕事」をしていた時代、ということが言えるでしょう。
そして、今、かつての公害よりもわかりにくく深刻な原発被害を前にして、どれだけのことが出来るか?です。これは今の日本の底力や健全性のいいリトマス試験紙になるかもしれません。それにあたっては、これらの過去の教訓は十分に使えます。学ぶべし。ちょっと考えただけで、まず被害の立証からして難問です。直近エリアで農耕や操業不能になったり、居住不能になった損害はまだしも分かりやすい。しかし、そこから広がったグレーエリアの場合、どこで線を引くのかが死ぬほど難しい。さらにはここまでは実害でここからが風評被害だというのも難しい。そもそも風評被害は損害にはいるのかという問題もある。発生直後から、パニック防止ということもあろうが、財界や金庫番である財務省の意向なのか、後日の損害賠償を考えて布石を打っておこうという感じも見え隠れします。損害(被害)の範囲を実際よりも小さめ小さめに限定している感じがしますね。
そして最大の問題が健康被害です。公害訴訟の場合、毒性が強いこともあって、数年スパンで劇的&特徴的な症状が出たのでまだしも分かりやすかった(それでも現場では散々立証に苦労してますが)。それが放射能汚染→細胞や遺伝子破壊→ガン発生というのは30年規模の話になるので、まともにやってたらラチが開かないし、結果が出るまで待ってたら消滅時効になってしまう。しかも30年×ガンなどという一般的な症状だったら因果関係の立証なんかまず不可能とも言える。さらに被害者の数がありえないくらい膨大です。数百人の原告団でもマンモス訴訟なのに、数万から数十万人に及ぶ可能性もあります。すごい難問なのだけど、70年代の日本も同じように「お手本なし」の難問を突きつけられていたのだから、同じ事です。それぞれの領域でそれぞれが知恵を絞って救う行為を営々と積上げていかねばならない。
話がぐーんと逸れましたが、挙証責任ということで必ずといっていいくらい挙げられる例が公害訴訟です、という話でした。
浮気を見破る話
小難しいお勉強タイムはこのくらいにして、原理が分かればあとは応用です。さっそく勉強した専門知識を、日常生活に応用してみましょう。
まず証明責任ですけど、この概念は日常生活でもよく使ってます。気づかずに使っているし、気づけばもっと有効に使えます。
例えば、浮気をした/しないという、よくあるドンパチです。
浮気をしたと痛くもない腹を探られたときには、こう言えばいいです。浮気をして「いない」という証明は不可能である、なぜならそれは「悪魔の証明」だからだ、と。24時間全ての行動を報告することなど現実的ではないし、ましてやそれを逐一立証しろというのは無理だ。仮に証明らしきものをしていたとしても、それが偽造(友人と口裏を合わせるなど)ではないという保証もないのだ。疑おうと思えば無限に疑えるし、疑いを完璧に晴らすことは不可能。お前は俺に不可能を強いるつもりか?と。さらに畳みかけて、他人に不可能を強要し、さらには自分の勝手な思いこみを押しつけるのは卑怯千万、恥を知れとかなんとか。
しかし、これって真実浮気をしているときの言い逃れにも使えますよね〜。てかその場合の方が多いか。
一方で、浮気をしているという立証もまた難しいですよね。携帯の着歴やら、過去の発言の整合性やら、曜日の法則性やら常日頃から気に掛けてないと中々難しい。
脱線します。一般論ですが、こういうのは女性の方が得意ですよね。男はヘタです。相手の浮気に気づくのもヘタだし、自分の浮気を隠すのもヘタです。よく「女の直感は凄い」とかいうけど、あれは直感というよりも日常的な「努力」の賜物でしょう。余談ながら、浮気を隠そうと思ったら、浮気相手を複数つくるといいですよ(って、なにが「いいですよ」だよ)。浮気相手が一人だけだと、どうしても特定のパターンというのが浮き上がってくるのですよ。ネクタイの趣味が微妙に変わったりとかね。ところが浮気相手が3人とか5人とかになってくると、パターンが混乱して収斂しないから却って安全。
でも、まあ、それだけではなく、女性の方が男性よりも常日頃から相手をよく見てますよね。色んな理由があるだろうけど、一つには男社会だから、ジェンダー的に男性の方がマネージメント的立場・発想になりやすいからかも。上級管理者と被管理者、つまり上司と部下のような関係の場合、管理者は全体を見ようとするからどうしても個々の人間に集中できない。しかし部下は上の指示が全てだから上だけ見ていればいい。上司は部下がどういう人間なのか中々分からず悶々とするけど、部下は上司がどんな人間なのかわかりやすい。これは親子関係でも同じでしょう。子供は親の人間的性格かなり見抜くけど、親は子供のことが分からなかったりする。まあ慧眼の上司・親もいるでしょうから一概には言えないけど、これは「守備範囲の広さと個別的な集中力は反比例する」という一般原理です。
男女関係でも同じようなことが言える。昔の典型的な「勤務男性と主婦」のパターンにおいて、男性は仕事という公的側面と家庭というプライベートの両面を見なければならず、いきおいプライベートでの注意力が欠けると。だから妻は夫が浮気をしてるとすぐに察知するが、夫は妻が浮気してても中々気づかないと。だからこれは「男女」の問題じゃないんですよね。そういう立場になるとそうなりやすいというだけで、例えば、古い言い方ですが「有閑マダムと若いツバメ君」の場合は、マダムの方が守備範囲が広いから、ツバメ君が浮気しててもよく分からない。現在のように男女がほぼ同等に頑張っていたら、水平的にお互いよく分からないということになるでしょう。
ただ、条件が同じであったとしても、それでも女性の方が勘は鋭いでしょうねえ。それは何故かというと、別の仮説がまたあって(幾らでも考えつくのだ)、男性の方が頭でっかちというか、幻想に遊びやすいというか、脳内世界での満足を求める傾向があるからではないか。幻想というとロマンチックなメルヘンを思われるかもしれないけど、「信長の野望」みたいなゲームに興じやすいという意味です。難しいことに挑戦して、達成して、自己実現という快楽を求める傾向が強い。「天下を取る」「出世する」「冒険する」とか、狩猟本能のなせるわざなのか、何を達成しつつあるプロセス、マネージメントすることを楽しみたいという特性が強いような気がします。女性は、それに加えて、存在論的な快感、猫が可愛いとかケーキが美味しいとか花が綺麗とか、マネージメントプロセスが存在しないものにも快楽を感じうる。したがって、存在しているものをストレートに直視する能力は女性の方が優れているから、浮気をしてもすぐに察知するのではないか?という仮説です。
悪魔の証明の日常生活例〜可能なことをやる
すごい脱線しましたね〜。ほんとはもっと脱線したのですが、バッサリ割愛しました。
さて、悪魔の証明の日常活用編、もうちょいマジメに言います。
「言った/言わない」で揉めることがありますが、後日に備えて証拠を作っておくべきなのは、「ある」ということを主張したい側です。「ある/ない」で自分が「ある」側に立つんだったら証拠を作っておけ、と。「ない」派は、そもそも証拠の作りようがないですし、証拠が無くても悪魔の証明の抗弁が立つ。「そんなもん無理」と言えます。「払った/払わない」で揉めそうなときは、払ったと言いたい側が、領収証でも振込票でも何でもいいから、ちゃんと証拠を作っておくこと。
次に悪魔の証明にせよ挙証責任の転換にせよ、その本質は、「証明することが異様に難しい物事はやらなくても良い」ということです。証明不可能な物事が証明出来なかったとしても、それで何かが変わるわけではないし、変わってはいけない。出来っこないことが出来なかったとしても、それは当たり前のことが当たり前に生じただけであって、だからといって何かの物事の有無を推定させるものではない。逆に簡単に証明できる筈のことが証明できなかったら、「おかしいぞ」と疑惑を持たれたり、主張が却下されてもしょうがない。
ここからエッセンスを抽出すれば「不可能なことはやらなくても良い」ということであり、さらにこの原理をひっくり返して実戦的な形にまとめると、「可能なことはやっておけ」ということです。証明可能なものはちゃんと証明できるようにしておかないと、後で不利になるぞと。もっと噛み砕いていえば「領収書の類はちゃんと取っておけ」です。クシャクシャにして捨てたりしない。理不尽な二度払いを強要されても、「無くしたお前が悪い」と言われたらそれまでです。
「やれることは」というのは領収書に限りません。クレジットカードや携帯電話を紛失/盗難したときでも、「どうせもう戻ってこないし」とか面倒臭がって警察に届ける&カード会社に連絡するということを怠っていると、あとで不正使用された分の請求が来たりします。そうなったら、「なんでそのときに連絡しなかったのか?」「おかしいぞ」と疑われても仕方がないです。
トラブルというのは当たり前のことをキチンと当たり前にやっておけば90%は回避できる筈で、リスク管理とはすなわち「面倒臭さとの戦い」と言い換えてもいいです。ちなみに、この「面倒臭さとの戦い」はあらゆる局面に出てきます(普通の仕事や結婚生活の維持など)。
市民事件と強者の作る「世論」
ということで「当然あるべきものが無い」というだけで、もう決定的に不利になるということですが、実をいうと市井の法律相談などではこれが多いです。「○○がある筈でしょう?」「いや〜、それがどこにいったか、、、」「ああ、、、」という。これが市民事件の実態であり、醍醐味です。もう圧倒的に不利!というところ、9回裏でツーアウトくらいが出発点で、そこから戦線を立て直していく難件が多い。企業法務とは又違った面白味です。
ところで「裁判に時間がかかるのが問題だ」とか言われてますが、訴訟の遅延や引き延ばしをするのは、もっぱら市民側・弱者側であり、迅速な裁判を求めるのは、大企業とか国などの強者側が多い、ということは頭に入れておいてもいいと思います。もちろん一概には言えないのですが、証拠収集能力に遙かに劣る市民側としては、次回までに証拠を揃えるだけでも血を吐くような苦労をするのです。公害事件でも、「○○と健康被害の医学的な因果関係を来月までに立証してください。出来なかったら結審、判決」とか言われたら、どんな裁判でも即死ですよ。
弁護団でも、手分けして協力してくれる医療機関や学者さんなどに連絡を取り、全国各地に足を運んでお願いして意見書を書いて貰ったりするわけです。僕の弟弟子がやってたHIV訴訟ではアメリカまで行ってますし。協力してくれる人が絶対的に少ない中、多忙を極める彼らに「明日までに書類を作って」なんてお願いできるわけがない。どうしても時間がかかる。強者である大企業や国側は豊富な資金力と人脈で幾らでもリサーチできる。医療過誤でも交通事故でも、医学、工学鑑定書を一本書いて貰うのに数十万から100万円以上かかる。そんなの普通の市民にポンと出せるわけがない。そこでリーズナブルに(出来れば無料で)、しかも体制側に逆らうような(=どうかしたら将来の出世を諦めるような)鑑定書を書いてくれる医者や専門家を探すわけですよ?もう、どれだけ大変か。でも「戦う」ということは、そーゆーことなんだと思います。
「迅速な裁判」という言葉は綺麗なんだけど、往々にして住民側や市民側を圧殺する場合に使われることが多く、また僕が弁護士をやめたあとの民事裁判の「迅速化」によって、以前だったら何とか場外乱闘に持ち込んで、有利な分割支払和解などに持ち込めたような事件も、ほとんど一発で結審させられてしまい、弱者にとってはどんどん不利な状況が進行していると聞きます。まあ、実際に自分でやってないから分からないけど、帰省した際に昔の関係で話を聞く限りそうなってるみたいです。
しかし、まあ、こんなことマスコミには殆ど載らないでしょう?聞いたことありますか?ほかにも「法曹人口の増大」→法科大学院という大合唱によってどうなったかというと、大量の落第生を生み、質が低下し、食えない弁護士が多くなり、中にはお行儀の悪い輩も出てくる。でもって、初期のお題目とされた「国民への司法へのアクセス」それ自体は変わってない。弁護士料金が格段に安くなったというわけでもない(日本の弁護士費用は欧米に比しても実は格安なのだ)、むしろ食えなくなった分高くなってる(or サラ金への過払返還訴訟など低難度で儲かる事件に傾斜したり)。このあたりのマスコミや財・官界が作った「世論」とやらにあんまり踊らされない方がいいっす。
生き甲斐が「ない」のも悪魔の証明
キリがないのでこれで最後にしますが、「生き甲斐が”ない”」「やりたいことが”ない”」というのも悪魔の証明ではないか?という話をします。
この種の「〜がない」とネガティブな所感を抱くとき、それって本当にそうか?ともう一回検証してみたらいいです。英語でいうと、"think twice"です。本当に「生き甲斐」「目的」「希望」「おもしろいこと」が「ない」のか、証明してみろ、です。ありとあらゆる可能性をリストアップして、一つ一つ緻密に検証し、潰してごらんと。やるまでもなく気づくでしょうが、そんなの無理です。不可能。「ない」という証明は出来ないし、「ない」という結論を下すことも出来ない。
そして、生き甲斐とかいうレベルの事柄だったら、この世に無数に事例があります。そりゃ全員が生き甲斐を持ってるとは言わないけど、持っている人も珍しくない。次の大会で優勝を目指すとか、自分のお店を持つとか、子供が生まれたとか、幾らでもある。「生き甲斐」という言葉では意識はしていないかもしれないけど、生き甲斐=少なからぬエネルギーを注ぎ込んでも良いと思えるだけの対象があること、と定義すれば、それぞれに「なにか」はあるでしょう。
次に、世間の人にはあるかもしれないけど、自分には無いという問題があります。なるほど。じゃあ、それを立証してみてください。他人にはあるけど自分には無い、つまり他人と自分は違うこと。世界60億人の人間と比べて、たった一人自分だけが異なるという唯一無二のユニークな特徴を指摘し、且つ、その違いが生き甲斐の有無と論理的・科学的に関連することを立証してください。指紋や遺伝子ゲノムの配列が違うというのは唯一無二かもしれないけど、それが生き甲斐とどう関連するのかです。絶対に幸福になれない遺伝子、生き甲斐を感じられない指紋というのがあるのであれば、十分な証拠資料とともにご説明いただきたい。何をしてあなたが他者と絶対的に異なるのか。
これも無理じゃないですか。多くのは場合は、「どこでもいる普通の人」なんじゃないですか?そして世間で希望を持ってる人だって、いわば普通の人で、どこが違うというのだ?そして、さらに逆説的なことを言えば、世界人類に比べて決定的に自分は違う人間なのだと本気で信じられたら(自分こそがキリストの生まれ変わりであるとか、実は宇宙人だったとか)、それって凄いことですし、それ自体が一つの生き甲斐になりゃせんか?ということです。
何をネチネチ書いてるかといえば、「ない」とかいってるけど、それは真剣に「ない」わけではなく、いいとこ「思いつかない」とか「無いかのように見える」程度でしょ?あるかもしれない、多分あるだろう、あって欲しいんだけど、自分には見つからない、どうやってそこに至るのかわからない、何をどうすればいいのか分からないのでしょう。
それの何が違うのだ?といわれるかもしれないが、大違いじゃないですか?もし客観的に「無い」のであれば、それを探したり求めたりすることは無駄ですし、もっといえば考えたり悩んだりすること自体が無駄です。だって無いんだもーん。何をどうやったって無駄じゃん。しかし客観的には「ある」んだけど、そこへの辿り着き方が分からないのなら、これはやり方の問題ですから、方法論を考えればいいだけでしょう。
つまり、希望が「無い」のではなく「思いつかない」だけなのだと。今度から、「〜ない」と言うときは、厳密な意味で本当に「ない」のか、単に「思いつかない」だけなのかを考え、後者の場合だったら、ちゃんと「思いつかない」と言うといいです。「希望がなんか全然ないし」というところを「希望なんか全然思いつかないし」と。
何が違うかというと、客観的にあたかも「ない」と思ってしまうと、何をするのも無駄臭く思えてくるのですな。しかし、「思いつかない」と言い換えると、なにやら思いつかない自分が馬鹿のような気がして、腹立たしくもなってきます。「ちくしょー、なんで思いつかないんだよ、俺はよ」と。
もっとも、そう言い換えたからといって、そうそう簡単に思いつくものではないでしょう。簡単に思いつくくらいなら、とっくの昔に思いついているでしょう。だから問題なのだ。
ほんじゃ、話をもう一歩先に進めたらええやんね。「なんで思いつかないのか?」です。「馬鹿だから?」、まあ、それもあるかもしれないけど、そんなに自分を責めることはないぜよ。てか、本気でそう思ってないだろうし。じゃあ、なんで?
簡単に僕なりの答を言っちゃうと、おそらくそれって単純に「知らない」だけでしょ。
知らないことは思いつきません。無理。「思いつかない」ってスワヒリ語で何というのか知ってますか?僕も知らないけど。「知らない」というのはそーゆーことです。百万年考えたって思いつくわけないですよ。
ならばどうする。知ればいいだけですよね。簡単じゃん。「こうやると楽しい」というパターンや物事を知る。最初は馬鹿にしてたけど、やってみたら意外と楽しいってことは、世の中に幾らでもあります。殆ど全部そうだといってもいい。知るためには自分でやってみないと分からんです。ネットや雑誌で知識として頭脳的に増やしても意味ないです。なぜなら「楽しい」というのは極めて感覚的なものであって、知識では絶対追体験できないからです。他人は楽しく感じても自分はそうでもなかったり、他人はつまらなく思っても、自分はすごく面白く感じたりするかもしれないし、こればっかりはやってみないと分からんです。
ということで、ない→思いつかない→知らない、という具合に、段階処理できるんじゃないの?という話でした。まあ、それだけの小ネタですけど。
「ない」というのは悪魔の証明。
悪魔でもない限り、そう言い切ることは出来ないという話でした。
文責:田村