作品と本人
井上陽水が神がかっていた当時(というか未だに活躍していることこそ神なのだが)、僕もハマってよく聴いてました。そのとき、中学のクラスの文集かなにかに、「僕は陽水が好きだが、それは陽水の楽曲や才能が好きなのであって、その人本人は好きでもキライでもない。会ったことも話したこともない人をどうとも思いようがない」と書いた記憶があります。
あれから数十年、今でもそう思っているし、今こそより強くそう思うのでした。
その人の人間的な実像と、その人の作品/技量とは峻別するべきだと。
「罪を憎んで人を憎まず」という古くからの言葉がありますが、これも同じことで、今でこそその意味がよく分かります。
昔は、今ひとつ釈然としないというか、言ってる意味は頭では分かっても、実感としては「どこが違うの?」とか「そんなの無理」とか思うこともありました。殺人事件でも、人を殺す行為は悪いことであり、殺した人だって「悪い人」だと思うのは、ごく自然なことじゃないかと。殺人は悪いけど、「殺人者」は悪くないなんて、意味わからんぞと。
しかしこれも段々分かってきます。
陽水の曲と陽水本人は別物だというのと同じ事なのだと。
自然の気分との戦い
刑法学をやると、ド初歩で行為違法と行為者違法(人的違法)の違いを学びます。
前述のように、自然の感情では「行為者が悪い」=人的違法になりがちなんだけど、実はこれが地獄の一丁目。ここでストッパーをかけてやらないと、とんでもないことになるぞよ、と。なぜなら、人間そのものを悪だの善だのと決めつけることは、人にレッテルを貼ることになり、ひいては差別や偏見の温床になるからです。ユダヤ人はユダヤ人であるという、ただそれだけで悪なのだみたいになって、何にも悪いことをしてなくても迫害されたりする。
刑法というのは、国家権力(を行使する誰か)が、合法的に殺人(死刑)、監禁(懲役)、強盗(罰金)をすることを意味するわけで、悪用しようと思えばトコトン悪用できますし、実際に人類の歴史はこの悪用の歴史と言い換えてもいいくらいです。気に食わない奴を黙らせるには死刑や流刑にしてしまえばいい。その昔は王様の「気分ひとつ」でうるさい奴を消していましたが、まがりなりにも憲法や民主主義が広まってくると、そうそう無茶も出来ない。しかし、なんだかんだ大義名分をでっち上げて似たようなことは連綿と行われてきました。その「大義名分のでっち上げ」に刑法は”活用”されてきました。そういうデッチ上げを極力やらせないように、刑法の解釈・運用は厳格にやるべしという「罪刑法定主義」が唱えられます。国民の代表者が法律という形で定めた犯罪のカタログに当てはまらなかったら、どんなに心情的に「悪い」と思えることでも、犯罪として処罰してはならない、と。
刑法の体系は、「心情との戦いの体系」と言い換えてもいいです。直感的に「こいつは悪い」と思うのは人間の自然な心理なんだけど、そういった感情にまかせてやってたら歯止めがなくなってメチャクチャになる。特にファシズムのような全員揃ってアホアホになってる状況においては、社会を破滅から救うマトモな人間が逆に非国民・犯罪者扱いされ、抹殺されてしまう。結果として国が滅び、人々が滅びる。
刑法に限らず、他者に対して何らかの損害(処罰やクビ、免許取り消し、非難)を与える行為は、「気分」を理由にしてはならない。絶対に、です。「気分」だけを理由に他人を傷つけていいなら、「ムカつくから」という理由だけで、家庭内暴力を働いても、クビにしても、輪姦しても、他人の家を襲っても良いことになる。
この感情との戦いのために、刑事法は罪刑法定主義の他、「刑罰不遡及の原則」(あとで作った法律で過去の行為を罰してはならない=後出しジャンケン的処罰の禁止)、「一事不再理」(人を処罰するための審理は一回だけで、無罪が確定した行為を延々繰り返して裁判にかけてはならない)、さらには捜査・裁判の手続(刑事訴訟法)においては、「適正手続」でやらねばならず、その派生原理として、「拷問の禁止」「自白法則(自白だけを証拠に有罪にしてはならない)」「毒樹の果実論(違法に収集された証拠は無かったことにする)」「伝聞法則」(又聞きは原則的に証拠にならない)などなど、ありとあらゆる抜け道を封鎖しようとしてます。それでも尚も違法捜査や、冤罪は絶えない。
こういった一連の体系のド基礎になるのは、「犯罪とは行為である」という大原則です。「悪いことをする」のが犯罪であり、その人の「存在」そのものが犯罪とされるようなことは間違ってもあってはならない、と。処罰の対象は、あくまでも「悪いこと」という過去の行為それだけであり、それ以上に広げることは許されない、と。「罪を憎んで人を憎まず」というのは、これらの理念の一端を表わしたものとも言えるでしょう。
以上は理屈ですが、これだけあれこれ理屈を絶叫するように唱えなければならないということは、現実はそうなってないということでもあります。全然理屈通り動いていない。人間というのは基本アホであり、いくら理屈でわかっていても、感情的には納得できない。感情が激したらすぐに忘れて馬鹿をやる。だからこそ唱え続けなければならず、それこそ呪文を絶叫するように唱えてないとならない。
行為と行為者の混同
さて、国家権力VS人民という大上段に振りかぶった局面ではなくても、行為と行為者がゴッチャになる愚劣さというのは、日常的に多々見受けられます。見受けられるどころか、そればっかと言っていいくらいかもしれない。
教室内で誰かがイジメられるのも、そいつが「臭いから」「グズだから」という「行為者」違法です。その人のありようそのものが非難や侮蔑の対象になり、その人の存在そのものが許し難い犯罪のようになる。「てめ、なんで生きてんだよ?」「早く死ねよ」みたいな罵倒が投げかけられる。こいつは死ぬべき奴、居てはいけない奴なんだから何をやってもいいんだ、という。こんなゴミに人権なんかねーよ、という心情。
大人は子供ほど馬鹿ではないので、そこまで感情を露骨に出したりしませんが、根っこにあるのは似たようなものでしょう。戦前の「非国民レッテル」だってそうだし、未だに存在する種々の差別(部落差別、女性差別、外国人差別など)も同じ。個別具体的にどういう行為をしたか、ではなく、「そーゆー奴」だということが非難の対象になり、さらに広がって「そーゆー”奴ら”」と十把一絡(じゅっぱひとからげ)になっていく。
どこの国、どの時代でもこの種の差別や偏見はあります。余談ですが、日本の場合、なまじ等質的な金太郎飴社会なだけに、差別のキッカケになる基準が非常に曖昧というか、細かいので、息を止めて地雷原を歩いているかのような息苦しさがあります。基準が曖昧というのは、「皆と違う」というただそれだけで犯罪になるという恐ろしさですね。女子高生のグループで一人だけミニスカートはいてなといじめられる、みたいな。集団とのズレが犯罪になるなら、もう罪刑法定主義もクソもないです。毎日毎日法律が改正され、しかも広報されることもない。常に必死に周囲をうかがってないと生きていけない。差別が細かいというのは、どーでもいいようなしょーもない違いですら差別のネタになることです。ちょっと古くさい親父ギャグを口走ってしまったら最後もう嘲笑の対象になるとか、うっかり方言を言ってしまったら笑われるとか、東大じゃなくて京大卒だったらもうダメとか、新規採用ではなく中途入社だったらもうダメとか、ここまでいくと過保護ママとして糾弾されるがここまでやると虐待鬼母としてまた糾弾されるとか、、数千条にわたる「見えない条文」が赤外線感知器のビームのように社会に張り巡らされており、うっかりひっかかったらビービー警報が鳴って、あとは哀れな犯罪者として処断される。
こういった「行為者違法」の愚かしさの根源にあるのは何なのか?
それは、「まじめに物事を考えないから」としか言いようがないのだけど、大雑把な直感や感情ですぐに物事を決めつけたがる傾向なのでしょう。「愚か」というのを別の言葉で言い換えてるだけみたいだけど。ほんでも、現実をありのまま直視し、冷静&緻密に分析し、問題点を正確に摘出する、、のではなく、「〜のように見える」という程度でいきなり結論に飛びつき、煎じ詰めれば「なんとなく気に食わない」という程度、ほとんど思考の名にも価しないようなレベルで容易に他人を断罪し、攻撃する。だからやっぱりアタマが悪いとしか言いようがないんだけど。まあ、こうやって「馬鹿だ」ということ自体、一つの決めつけなんだけど。
もうちょい突っこんで言えば、この現実世界は一人の人間がちょっと読んだり聴いたりしただけで理解できるほど単純ではないということでしょう。大体、親友が突然自殺したり、愛し合ってた筈の恋人から別れ話を切り出されたり、人生はサプライズの連続です。最も身近にいる人間一人理解できないくせに、どうして数十億人もいる世界が理解できる?そんなもん無理、無理、絶対無理!です。にも関わらず、すぐに調子にのって分かった気になりたがるという傲慢さ、自らの認識の限界を不覚にも忘れてしまうオッチョコチョイさこそが問題なのでしょう。まあ、他にも他者に対する愛情の乏しさとか、ゆっくり考えるだけの余裕の乏しさとか、数え上げれば幾らでもあるけど、己の知的限界を知れ、身の程を知れということでしょう。「俺は全てを知っている」と自分一人の世界に酔っ払ってるだけだったら罪がないけど、いやしくも他者を傷つける局面では、もうちょっと慎重になろうぜ、ということです。
非情の心と「いい人ファシズム」
以上は古くて新しい話というか、1000年以上も前から語られてきた話です。しかし、中坊の頃よりも今の方がより強く「罪を憎んで人を憎まず」なんだよな〜と感を新たにするのは、政治家でも芸能人でも、人格と技芸の峻別が図られるどころか益々密着しているからです。
もう、なんか知らんが、とにかく「いい人」でなかったら存在すら許されないかのような行為者違法的な傾向が、日に日に助長されているような気がします。これはもう「いい人ファシズム」ではないかと思われるくらいで、Enough is enough! 「いい加減にしろ」という気分になってます。
僕が思うに、政治家もアーティスト人も「いい人」である必要はないです。僕らが彼らに求めていること、そして彼らの社会における存在意義は、いつにかかって「技量」でしょう。優秀な政治能力であり、素人の想像を絶した技術の高みです。政治家については、前回の「間引き」で書いたように、その集団の最大幸福をはかろうとしたら、どうしても犠牲になる層が出てくるわけで、いかに迅速に最小の苦痛で間引きをするかが政治家の技量でしょう。時代が石炭から石油に変わっているのに、いつまでも炭坑を守って「国策として石油は使いません」なんてこと言ってたら、国力は確実に落ちて皆が餓える。可哀想だけど炭坑系は切り捨てないとならない。それはもう仕方ないのだ。
ゆえに明確な政治をすれば当然敵も作るし、憎しみも買う。奴隷制度を廃止したリンカーンは、それを貫くために南北戦争という内乱を起こしたし、最後には暗殺されている。エブリワン・ハッピーにしようと思えば政治は出来ない。政治どころか何にも出来ない。この現実に何事かを実現しようと思えば、かならず誰かの生活を圧殺することになるし、誰かから非難される。だもんで、政策について「ここがダメ」というのは本当の批判になってないと僕は思います。八方美人の政策なんかあり得ない以上、ダメ部分は絶対についてくる。批判すべきは、それによって得られるべき果実と犠牲とをハカリにかけて黒字か赤字か、その比較でしょう。この比較がなされていない批判は本質的に無意味だと思う。
このような政治を行う政治家は、彼/彼女が優秀であればあるほど「非情の心」をもっているでしょう。非情でないと物事はなしえない。それは政治家に限らずどんな職業でもそうです。医師であろうが、教師であろうが、弁護士であろうが、警察であろうが、上司・雇用主であろうが、先輩やキャプテンであろうが、もう恨まれてなんぼ、憎まれてなんぼの仕事です。「皆に愛されたい」と思ってる奴はプロとして不適格とさえいえる。どんな非難罵倒を浴びせられても昂然と頭をもたげていなければ職務を全うできない。
政治家やプロに対する評価は、何を成し遂げたか、何をしようとしたかであり、その結果であり、能力でしょう。「いい人」かどうかなんかどうでもいい。あなただって、いい人なんだけど手術がヘタクソですぐに患者を殺している医師よりは、イヤな奴なんだけど上手な医師に手術して欲しいでしょうし、レストランでもいくら店主がいい人でも不味い店には行かないでしょう。だから職業人に対して「いい人」さを求めるのは本質的に間違ってるとさえ言える。腕が互角なら、そりゃいい人の方がいいですけど、優先順位としては第一に技量が来るでしょう。
仕事しろ、仕事させろ
こんなことは誰でも知ってることなのにもかかわらず、政治家でも芸能人でも「いい人」っぽさが求められるのはどうしたことか?清潔で爽やかなイメージとか、誠実そうとか、庶民的で親しみやすいとか、何言ってんだかって思います。
仕事をちゃんとやってくれれば、極端な話、実は過去に殺人を犯していようが、前科者だろうが構わんです。芸能人だって、ドラッグに溺れていようが、ヤクザとつきあってようが構わない。政治も、芸能も、いうならば非日常の世界であり、僕ら小心翼々たる小市民のライフスタイルからかけ離れているからこそ価値があったりするのだ。利権の渦巻く魑魅魍魎の日本社会でそれなりの政治をしようと思えば、相応の腕っ節も求められる。今の日本で原発を本気で廃止しようと思ったら、それこそ暗殺されかねないくらいアゲインストはキツいでしょう。それを貫くには、うるさい連中を金で黙らせる財力、より強大な人脈、さらには暗殺しそうな連中を先手を打って暗殺してしまうくらいの剛腕が求められたりもする。それこそ暗殺のプロKGB出身のプーチンがロシアを仕切ってるようなものです。こういったロシアや中国と丁々発止と互角に、したたかにやりあえるような人材こそが今の国政で求められているわけです。そういう度はずれた人材が、僕らのように平々凡々たる人生を送ってる人々にとって「親しみやすい」わけがないではないか。
アートにしたって、普通の人間だったら見過ごすような、あるいは諦めきって見ないふりをするような人間の感情の奥深い部分を執拗にほじくり返し、精神の地獄をのたうち回るような創作過程を経るからこそ、普通の人には到底なしえないような胸に突き刺さる表現が出来る。そんな人間と一緒に暮していたら、こっちまでおかしくなるくらいのものでしょう。勿論、人格円満な人もいるでしょうが、そうでなくても全然不思議ではない。ましてや大衆芸能世界では、境内の縁日でシキテンをヤクザが仕切るように、古くからその筋の人々との関係が深い。暴力団とのつながりがあったらダメなら、美空ひばりと山口組はどうなんだ?です。飲む、打つ、買うは芸人の三大要素と言われるくらい、社会的には破綻してるような人間だからこそ芸は冴えるという部分はある。なにごとも常識的に生きてたら芸の狂気は生まれない。
社会がその人間に求めていることが、機能(技能)である場合、つまり職業人である場合、第一に優先されるのはその技能であり、それだけでしょう。その意味で、スキャンダルとか失言騒動とか、ほんと無意味なものだと言わざるを得ない。過去にこんな不正をしたとか、秘書の給与がどうしたとか、愛人がいたとか、脱税したとか、どーでもいいことです。大事なのは、本来の仕事が出来るかどうか、有能かどうかでしょう。
しかし、現実はそうなっていない。スキャンダル合戦になっています。日本だけではなく、アメリカでもオーストラリアでもやってる。アホらしと思うけど、現実問題としてそうなっている。するとどうなるかといえば、政治がゲーム化します。政策の有効性について議論を尽すよりも、せっせと敵陣営のアラ探しをしてポイントをゲットした方が勝ちだという、くっだらないゲームに堕落する。一方で誰かの過去の不祥事をひたすら探しまくり、他方では懸命に隠匿する。また、マスコミ受けする表情とか態度をレッスンするというメディア戦略が横行する。つまりは「いい人ゲーム」ですわ。真実「いい人」であるかどうなんかどうでもよく、「そう見えるか/見せるか」ゲーム。
そんなことやってるヒマがあったら仕事せんかい、と僕は思う。そして外野も彼らに仕事をさせんかい、とも強く思う。大学病院の教授選で怪文書が乱れ飛んでるようなもので、そんな愚にもつかないものを読んだり書いたり、報道したり、それをまた読んだり論じたりしてるヒマがあったら、一人でも多くの患者を助けんかい!助けさせんかい!と思う僕は間違っているでしょうか?
マスコミもマスコミで、お願いだからもういい加減この種の「祭り」はやめてくれんか。パパラッチまがいのイエローペーパーだったら、まだしもいいですよ。良かあないけど、それでも彼らは社会から十分に侮蔑を受けているし、報酬も低い。しかし、社会の木鐸を自認するプライドがあるなら、どうでもいいような失言やら、過去のあれこれを「そんなこたあどーでもいい」とバッサリ切って捨ててくれい。くだらん大衆芸能ゴシップで発行部数を稼ぐことと(稼げてないみたいだけど)、被災者の為に政治を動かすこととどっちが大事なのか?といえば、前者なんでしょうか。
反批判
とまあ、こう書くと、そんな過去にいかがわしい行為をしたいかがわしい人物なんかに国政を任せられないとか、TV番組に出演させてはならないとか、子供の教育上好ましくないとか、いう批判があるでしょう。それこそ山盛り殺到するでしょう。だからこそ、その批判を恐れて、マスコミも政治も芸能界も相撲界もなにもかも、ソフトに健全に明るくなっているのでしょう。
そりゃあ、平和な時代、ほっといても成長するような牧歌的な状況だったらそれでもいいですよ。誰がトップ張ってても上手くいくなら、トップなんか飾りで良く、飾りで良いなら見てくれがいい方がいいでしょうよ。でも、今は海も荒れている。それなりに確かな航海技術が求められる。
そもそもいつから職業人に人格を求めるようになったのでしょうか?
いつから行為と行為者がゴッチャになってしまったのだ?僕はそこをこそ問題にしたいですね。それこそが僕らの知性と精神の劣化を意味するのではないか。為政者やタレントに対して清潔で誠実なイメージを求めるというのは、何重もの意味でおかしいと思う。
第一に、これは我々に技量の正確な測定ができなくなっていることを意味するのではないか?
レストランでいえば、舌が劣化して本当に美味しいものとジャンクを区別できなくなってきたら、店内が綺麗だとか、マスコミで紹介されたとかいう本質に関係ない要素が話題になる。それと同じく、政治家の技量を判定する眼識、タレントの技芸を鑑賞する能力が衰えてきたら、見た目と耳に快いイメージだけになる。難しい政治の話なんかされたって分からなーい、分かる気がなーい、勉強する気もなーい。だから見た目「良さげな人」を選ぶという。これは選別者・消費者の劣化以外の何物でもない。だが今の世の中そんな太平楽な国民がいるのか?いるのかもしれないけど、今はもっとシビアになっているんじゃないんか?
第二に、友達でもない、会ったことすらない赤の他人の政治家や芸能人に「親しみやすさ」「快さ」を求めるという部分に、どこかしら精神の弱さを感じます。友達おらんのか?周囲に素晴らしい人間関係を構築できてないのか?人格的に素敵な人がおらんのか?身の回りに幾らでもいるんだったら、TVの画面や政治家なんかにそんな代償物を求めないんじゃないの?それって恋人のいない奴がアイドルに夢中になる幻想作用と同じじゃないか。昭和の中期頃にはそんな風潮はなかったと記憶してるぞ。政治家なんかガマガエルのバケモノみたいで当たり前、国会は百鬼夜行の妖怪集会。TVのタレントなんか常識無視の奇人変人の集まりだからこそ面白かった。ヘンな奴を見たいからこそ、TVを見た。
しかし消費者が求めるならば、それも又一つの商品価値になるのだ。消費者が清純で誠実なイメージを求めれば、それもまた「商品」になり、そのイメージが損なわれると商品価値もまた損なわれる。芸能人くらいだったら、そういったワイドショー的茶番もあるかもしれないが(そういった騒動もひっくるめて全部が商品)、国政でそんな愚劣な商品価値論理がまかり通ること自体がおかしい。てか、政治であれ何であれ、そんな爽やかな人格やイメージが「商品」になること自体、どこかしら退廃していないか?「商品」というのは日常自分の力では手に入らないからこそ商品になるのでしょう。そのへんに幾らでもある石ころや雑草は商品にならない。日常滅多に見かけないヘンな人だからこそ、その異常性が商品になった。歌舞伎役者のドハデなメイクとか。それなのに、普通に爽やかで誠実な人格が商品になるというのは、どういうことなのだ?
第三に、この現実世界への理解の甘さです。あれだけのことを成し遂げる人間が、僕らと同じ意味での「いい人」なわけはなく、そんな自明なことが分からない。人格的にも立派な人が素晴らしい仕事を成し遂げる、それはそうかもしれないし、そういう実例は沢山あるけど、世の中そんなキレイゴトだけでは廻っていないのも事実でしょう。また、人格的に崇高な人が、常に人当たり良く、見てくれがよく、ニコニコ爽やかであるとも限らない。往々にして真逆。自分にも他人にも厳しいから、むしろ取っつきにくく、恐くてエキセントリックに感じられるのが普通でしょう。蕩けるようなスマイルで甘い言葉を言っているからといって、それが人格的に立派だなんてなぜ言えるのだ。巧言令色鮮し仁でしょ。
大体やね、あなたが勤めている会社の社長が、たとえ愛人を何人囲っていようが、どれだけ脱税しようが、政治家と癒着しようが、そんなことどーでもいいでしょうが。あなたにとっては自分が失業しない=会社を倒産させない優秀な経営者であることが一番大事なことでしょう。人当たり良く、爽やかで、人格的にも立派だったらより良いだろうけど、でも見てくれだけの無能ですぐに会社を倒産させてしまうような人物だったらイヤでしょう。会社やビジネスだったら、見てくれよりも実質、あくまでも実質、実質以外どーでもいいと判断できるのに、会社以上に重要な筈の政治家になったら、何故に愚にもつかないイメージとかアイドル性にこだわるのか?
この傾向は70年代の後半から80年代、大体日本が成長してゆとりが出てきてから生じてきた気がします。芸能人のインタビューとかさ、「休みの日には何をしてますか?」とか愚劣な質問したりしてさ。歌手の生い立ちや、日常生活なんか、その歌の技芸には何の関係もないじゃん。なんでそんなしょーもないことを聞くの?と僕は子供の頃から思っていた。まあ、話としては面白いかもしれないけど、歌手に歌以外のものを求めはじめた。誤りはじめた最初の一歩という気がする。
第四に、もっとも問題視されるべきは、(繰り返しになるけど)そんなに簡単に人間が分かるわけないだろ!という点です。
一個の人間、それがどんなに平凡で起伏のない人生を送ってきた人間であったとしても、その人間性の厚みというのは相当に広いです。高橋和巳の小説のなかに「どのような優れた思想も、過激な革命思想も、一人の人間の現実の生活の幅ほどは広くない」という下りがあって、「なるほど」と深く納得したのですが、一人の人間が現実に生きていて、生活してるというのはすごいことだと思います。その内実は、本人ですら理解できずに途方にくれるくらい矛盾に充ち満ちていて、それ自体が一つのブラックホールみたいなものです。それを、わずか数十分や数頁のインタビューで分かるわけないだろという。
それに、過去の一点になにか不祥事やら悪しきことを犯したからといってそれが何だというのだ。キリストじゃないけど、「生まれてこの方一度も罪を犯したことがないという者だけ石を持て」です。学生時代暴れてました、カンニングしました、すぐクビになりました、駐車違反をしました、いっときいかがわしい商売をしてました、、、so what?です。人は過ちて成長をするなら、間違えたことがない人間なんか能力的に信用できない。
これが常日頃ずっとやっていて、しかもその行為が本来の業務の適正さすらをも揺るがすような関係性にあるなら話は別ですよ。ある医師、ある病院が、特殊な利害関係から(リベートをたんまりもらって)、新薬の治験(人体実験)をこっそり行うべく、本来投薬すべきではない患者にも投薬し続けていたとなれば、「最善の方法で患者を治療する」という本来の役割を損なっているわけで、それは堂々と問題とすべきです。でも、ある医師が某看護士と親しい仲になったとかいうのは、彼/彼女が治療行為については従来となんら変わらぬ技術と態度でやる以上、問題ではない。でもイチャイチャしててろくすっぽ診療もしないのなら問題です。要するに本業をちゃんとやるかやらないかであり、それだけでしょう。
それがすなわち、行為と行為者は峻別すべしという原理であり、罪を憎んで人を憎まずの原理でしょう。人間に対する評価などどうでもいいのだし、また簡単にそんな査定ができるわけもない。それより問題なのは、何を行ったのか/行わなかったのかであり、ひたすら行為という客観にのみ焦点を当てるべきであると。
「罪を憎んで人を憎まず」の言葉は聖書にも孔子にも出てくるそうですが、僕が思うにその意味は、過ちは過ちとして厳しく罰するにせよ、その罪人の全てを否定してはならない。彼は行為に応じた報いを受けねばならないが、行為に応じない報いまで受けるいわれないということ。人間の生活や人格の幅というのは、一回的な行為よりも常に広いのであるから、行為によって行為者の全てを罰してはならないという意味だと思います。
人には悪しき心(人格)もあれば、善き心もある。同じ人間に様々な心がひしめきあっている。たった一つの行為で全部を判断するのは、人間の可能性を阻害することになる。さらに延長線を引いて解釈すれば、罪(行為)はまだしも証拠を積上げ、慎重に検討すればある程度のことは分かるが、「人」はそんなに簡単に分かりはしない、ということでもあるのでしょう。
いずれにせよ一個の人間に対する健全な「畏れ」があると思います。人間というのは、何となく思うよりも大きく、複雑なものであるから、そんな石ころを扱うように○だの×だのつけてはならない、ということでしょう。これをいとも気軽に○×をつけたがる人を、僕はあまり信用しません。それだけで直ちに決めることはないけど、「ん?」とは思う。なぜなら、そういう人って、往々にして(常にとは言わないが)、どこかしら人間というものを軽んじている、心の底の底では、(自分以外の)人間をそんなに好きではないのではないか?と思われるからです。「大切に扱ってない」気がする。
僕自身は、心の底で人間が好きなのか、キライなのか、それは自分でもわからないけど、好きであった方がいいとは思ってます。好きでありたいと。なんでか?というと困るけど、その方が真っ直ぐな気がするから。そして真っ直ぐなものは、曲がったものよりも強い気がするからでしょう。ひねくれているものって、どこかしら腺病質な弱さがある。そして僕は弱さを忌む気分がある。大抵の犯罪、悪徳は、弱さに端を発しているし。弱い人間は好きだけど(自分もそうだし)、弱さそのものは好きではない。それこそ、罪を憎んで人を憎まず、です。
文責:田村