思惑
まず先に最近「なんだかな」と思ってることを書きます。今の管首相降ろしと首相交代劇です。
僕は別に彼の擁護派でも何でもないのですが、なぜ管首相がダメなのか、ついには納得のいく理由を見出せないままでいます。そりゃあ素晴らしいとは言えないだろうが、個別具体的に何がダメなのか?そして何よりも、そのダメぶりは首相個人のクビをすげ替えることで改善することなのか?そのあたりがマスコミその他では全くといっていいほど語られず、「とにかくダメ」という結論だけが先行している。そして辞めないと「居直り」として非難する。どうも理由なんかどうでもいいから、とにかく一刻でも早く辞めさせたがっているだけのように見えます。
ちょっと前のエッセイで書きましたが、東京電力をはじめ電力業界は、日本の他の中枢=政・官・財・学界と深く関わっています。各政党や政治家達に広く、深く、気前よく政治献金やらパーティ券支援などをやっています。癒着といえばベタベタ癒着なんだろうけど、彼にとってみたら「癒着」ですらなく、彼ら自身が権力の一翼を担っているという自負もあるでしょう。だから、癒着などという後ろめたいものではなく、日本を健全に動かしていくために連絡を密にするとか、当然なすべきメンテナンスくらいの感覚でしょう。
自民や民主など保守系政治家のなかで、電力系へお金の無心にいっていない珍しい政治家がいます。小泉純一郎と菅直人だそうです。まあ本当にそうなのかどうか分からないのですが(AERAに書いてあったのだが)、でも何となく分かるような気がします。日本の保守本流とは性格や信条に馴染みそうもない「変人」小泉さんと、市民運動あがりで常に権力とケンカして這い上がってきた菅さんが、電力村と親しくお付き合いしていなかったというのは、要するに「仲間」「村人」じゃないってことでしょう。
だからこそ、管首相も180度方針転換して原発廃止という方向性を打ち出せたのでしょう。なんせ何の恩義もシガラミもないわけですから、そのへんは気楽でしょう。人気取りとか思いつきとか非難されていますが、ここではそういうことが言えてしまう、また本気で出来てしまう、政治的自由度というか、シガラミの少なさがポイントだと思うわけです。原発をプッシュすることで皆で潤いましょうというのが、これまでの日本中枢部のコンセンサスだったわけで、もともとクラス委員長程度の権力しか持っていない日本の首相”ごとき”が大勢に反することなど出来るわけがない、、、筈なんだけど、シガラミのない雑草育ちの強さでこの人はホイホイ言っちゃう。だから、原発村(権力村)の村人達としてはたまったもんじゃなかったでしょう。「早くあの馬鹿を辞めさせろ」ってことになったんじゃなかろか?と。
まあ、これが単なる邪推に過ぎないのか自分でも今ひとつ確信が持てないでいたのですが、この数ヶ月のマスコミのあまりの「はじめに結論ありき」の報道姿勢のヒドさを見るにつけ、段々と「やっぱ、そうなんかな」という気に傾き、そして後継者争いに5人も手を上げながら、誰もまとも原発論議をしようとしないという点で、さらに色が濃くなりました。
これは僕だけの特殊な見解かもしれないけど、今の日本で国家百年の計で何を優先的に決めるべきかといえば、@いつまでも発展途上国的(明治維新的)=国家と根幹産業とがベッタリ融合して既得権村を作って、その村民の利益が第一に優先されるという開発独裁みたいな古くさい国家システム=をやってないで、それをぶっ壊して風通しをよくすること、A何十年かかっても原発をやめる=やめられるように代替エネルギーを本気で構築すること、です。でも、そういうことって何故かあんまり議論されないし、記事にもならない。
なぜ?、、、というのも愚かしいのかもしれません。これも前にも書いたけど、マスコミの首根っこ押えているのが既得権村であり、彼らが大旦那で広告出すからこそマスコミが成り立っているからです。特にネットに押されて新聞やTV、さらに広告代理店すらも青息吐息ですから、今は喉から手が出るほどお金は欲しいでしょう。
それに世界史シリーズをやってて思ったのですが、国家の大局を決定するにあたってマスメディアが役に立った試しというのは、実はあんまり無いのではないかと。これも特殊な見解かもしれませんけど、日本の過去の戦争だって、マスコミがヤイヤイ旗を振って世論とやらを喚起し、渋る政府を突き上げて開戦に引きずっていった経緯があります。日露戦争しかり、そして太平洋戦争も実はそうだったと思います。今でこそ、戦時中のマスコミはファシズムの言論統制によって被害者になったかのように語られてますが、私見によれば被害者どころか国をミスリードした加害者に近いのではないか。これは日本だけではなく、ナチスの妄想に荷担していたドイツマスコミも同罪だし、リメンバーパールハーバーやら911テロでギャンギャン言ってたアメリカも同じ。どこも似たり寄ったりでしょう。それは、マスコミが「マス」である以上=大衆を相手にするという性質上、それに商業的基盤を必要とする(売れないと意味がない)条件から、どうしたってポピュリズムやマッチ・ポンチ的な性格を帯びてしまうからです。もちろん、いつの時代も高尚で硬派なジャーナリズムはあったのでしょうが、それが「高尚で硬派」であるだけに一般には売れないし、「マス」になりにくい。
このエッセイがUPされる29日は民主党の代表選でしょうが、ポスト小泉の頃を思い出します。どれも小粒。これで若くて、見た目爽やかで、アメリカ寄りのタカ派の前原氏などが選ばれたら、安倍さんが選ばれたときと瓜二つですな。その後の展開も瓜二つになりそうな気もする。結局、順繰りに叩いていって、政治というよりは政局ばっかりやって、本質に斬り込むことから目を逸らせ続ける。でもって民主はダメだという世論を作って、次の選挙で権力村と親和性の強い自民党に戻したら、彼らとしても「してやったり」でしょう。
一般に権力を維持する者が国民に求めるものは何かと言えば、忠誠とか服従ではないです。そんなもん今の世の中で求めるべくもない。なにかといえば「諦め」=アパシー(無関心)でしょう。期待させて→ガッカリさせるを繰り返すと、国民も段々アホらしくなって諦めてきますから。無関心になってくれればしめたもので、その間に好きなことが出来ます。あるいは、関心を逸らすようなスキャンダルとか個人叩きばっかりやるとか。
擬人化したがる幼稚な知性
話、ちょっと飛びます。
その社会が未開であればあるほど、あるいはその個人の知性が幼稚であればあるほど、物事を「誰かのせい」にしようとする、擬人化が起きるという見解を読んだことがあり、僕も「なるほど」と思いました。
例えば、落雷という現象が起きた場合、大気中の放電現象とは思わず、あれは「カミナリ様」がやっているのだと考える。地震が起きたら、あれは地下の大ナマズが動いたのだ。その昔、地球は大きな亀さんの甲羅に乗っているのだという説もありました。このように全体がよく分からない段階では、人間というのは、神でも亀でもナマズでも「誰か特定の人物(動物など)」を原因として考える傾向があると。それは全体への考察不足という未開さ、幼稚さをも表わす。
ここですぐに思いつくのが、いわゆる「隠謀史観」=コンスピラシー・セオリーと呼ばれるものです。自分が大学に入学出来なかったのも、部活でレギュラーになれなかったのも、みんなみんな「あいつ」のせいだと思う。自分を追い落とそうという特定の誰か、あるいは「闇の勢力」があって、彼らの隠謀によって不正が行われて、自分が割を食っているという考え方です。市役所の法律相談などを1日やると時折こういう方がいらっしゃいます。「家の裏通りで黒い服を着ていた男が見張っていた」などの「証拠」を延々と述べ、「これはCIAの隠謀です」になるという。最近はCIAも人気ないだろうから、中国情報部になってるかもしれないけど、そういう人って、何となく思ってる以上に普通に沢山います。極端なのは「電波系の人(電波が聞こえる人)」ですね。法律相談をしている身としては、話がソッチ方面に流れると、「ど、どうしようかな、、」と思いますね。市役所の人も恐縮してたりして。また、名物になってるから知ってたりして「次の方はちょっと、なんというかクセのある方で」とか予め教えてくれたり、「時間になりましたら呼びに参りますので(助けに来てくれる)」と言っていただいたり。
ほんでも、笑ってる場合ではなく、もうちょい粉飾を凝らした見解や刊行物が堂々と売られています。いわく、世界の全てはユダヤの隠謀だとか、ロスチャルド家がどうしたことしたとか、アメリカの隠謀、中国の隠謀、アメリカとロシアの間で密約が出てきて、、、なんだかんだと年がら年中出ています。買いかぶりだって。そりゃユダヤもアメリカも強いけど、そこまで強くないよ。それにユダヤ系といっても、中にいろいろ派閥や流派が分かれているし、アメリカだって同じ事。その集団が強大であればあるほど、集団内部に熾烈な闘争があり、何十年も緻密に隠謀を巡らせて実行している余裕なんかないっす。やろうと試みたり、スポット的に成功することはあろうけど、それも「隠謀」というよりは様々の利益集団の思惑がたまたま一致したからそっちに流れたという感じでしょう。
で、なんでこの話をするかというと、今の日本で、東電や経産省のお偉方だけが「悪者」で、彼らの「邪悪なネットワーク」が日本を閉塞状況なり危機に追いやっている、、みたいなモノの見方は、あまりにも幼稚だと思うのです。確かにそういう人達は実在しますし、その種の思惑もあるでしょうけど、別に「悪者」か?というと、違うんじゃないか。最初からそういうシステムがあり、そのシステムに上手いこと乗っかれた人達が、そのシステムの利点を享受したり、延命させようとしているだけなのでしょう。一人一人の個人に、そこまで邪悪な権力体系を構築する力量があるとは思えないのですよ。先ほど、「既得権村の村民の思惑」と書きましたが、別にそういう「悪の結社」みたいな存在があるわけでもない。
今回の辞任された東電の社長さんにしたって、そんな「邪悪な大魔王」って感じじゃないでしょう。ありていにいって「気の小さなサラリーマンのお父さん」っぽいオーラですよね。こういう言い方は礼を欠くかもしれないし、それなりにコストカッターで鳴らしたそうだし、平時のサラリーマン社会ではずば抜けて有能だったのでしょう。でも、だからといって「住民の命なんか屁とも思ってない」なんてこたあないだろうし、この邪悪な力を思う存分行使してるってわけでもないでしょう。
「既得権者」というと、どことなくいかがわしい響きがあるけど、別に人間的に悪いわけでもない。僕だって、あなただって、同じ立場に置かれた同じようなことをすると思いますよ。自分が車に乗ってるときは、歩行者や自転車が邪魔くさく感じ、自分が歩行者の時はクルマが傲慢に感じる。自分が部下のときは上司が憎らしく感じ、自分が部下を持つとイライラする。混雑して入場制限をしていて待たされているときは、もっと会場に入れてくれればいいのにと不満に思うが、一旦自分が会場に入ってしまって「既得権者」になってしまえば、もうこれ以上人を入れるなと思うものなのだ。多少の個人差はあれども、誰もが普通に強欲で、普通に小心者で、普通に自己中なだけでしょう。だから「悪党」も「犯人」もどこにもいないし、犯人捜しや個人叩きをやってても時間の無駄というか、目を逸らされているだけ、という気がしますね。
しかし、こういうクールな態度でいるのは難しいです。何よりも分かりにくい。全体構造やシステムの不備を検証するというのは、複雑で、退屈で、つまらない。いつだって「こいつのせいだ!」にした方が分かりやすい。上昇気流と下降気流が交差するエリアでは大気中の粒子が激しくぶつかり合い、電気を発生させ、放電現象に至る、、とか言われてもピンとこない。やっぱりトラ皮のパンツをはいたカミナリ様が、背負ったタイコをドンドコ叩きながら雷を起こしているのだと思った方が分かりやすい。
だから今の日本の閉塞を作り出している元凶的な人物や組織をリストアップして全員銃殺にしたとしても、閉塞状況そのものは変わらないと思います。それは現状を良しとしない野党や民衆や軍部が、政権奪取、革命やクーデターを起こしたとしても、状況は大して変わらないどころか、むしろ悪化したりする世界の状況をみてもよく分かります。フセインを排除したらイラクは前以上に泥沼になったし、タリバン派を追い落としたらアフガンも泥沼になっている。強大な親玉的存在を駆逐したら、こんどは雑魚どもの権力闘争がいっそうチマチマとしたスケールで行われるだけだという。
つまりは、誰が悪いとかどうとかそーゆー問題ではない場合が多い。安易に擬人化してはあかんということです。個人=体制=時代みたいに、一人の人間の個性がその時代そのものを作り出しているという状況は、百年に一人出るかでないかという巨大な帝王が出てきた場合だけでしょう。始皇帝とか、ジンギスカンとか、ナポレオンとか、織田信長とか、ヒトラーとかのクラスでないと、一人の人間の失脚が時代そのものを変えるようなインパクトを持たない。そしてそんな人間、滅多にいない。
文化や人生観と融合したシステムが変わるとき
じゃ、何がいけないの?といえば、もうシステムがそうなっているというか、そういうゲームのルールになっている点でしょう。それは人間がやっていることながら、あたかも自然現象のようなものです。地球の温暖化とか、エルニーニョみたいなもの。自然は変えられないけど、社会のシステムは変えられます。でも、首相のクビをすげ替えるように簡単にはいかない。ある意味では社会文化と融合しちゃってるし、参加者(国民一般)の多くの人生観にもかかわるから、これを変えるのは容易なことじゃないです。
変な例ですが、高校野球の檜舞台の甲子園があり、優勝を目指して皆頑張っている。やっとこさ出場まで漕ぎつけて甲子園に行ってみたら、「いちいち試合するのはかったるいから、全キャプテンが集まって、せーのでジャンケンやって優勝を決めるように変更しまーす」と言われたら、これは収まらないでしょう。「ルールが人生観に融合している」というのは、そーゆーことです。
だから彼らに変えて貰うのは不可能に近いと思う。政治家でも官僚でも、個々人としてはしっかりした人は幾らでもいるだろうし、変えようとずっとやってきている人もいます。政治家だから、官僚だからで全部悪者と思うのは幼稚すぎ。しかし、彼らの力だけでは変わらないでしょう。じゃあ、どうするの?といえば、第一には、そもそもそういうシステムが形成されるモトとなった大きな流れそのものが変わること、第二には「参加者が減る」ことだと思います。「自然に廃れる」というやつですね。人気がなくなって、さびれてしまうことです。それは権力という美味しい場所から遠いところから徐々にそうなっていきます。
これまでは中枢にあった美味しい獲物が全国民に配布されていたから、政財官と働く日本人ががっちりスクラムで豊かな日本を作ってきました。しかしその蜜月にヒビが入り出して20年。真面目に勤めれば一生面倒を見るという共生関係が崩れ、会社は自らの生き残りのために、中高年層をリストラしはじめ、若年層は非正規雇用で済ませようとする。皆で利益を共有というシステム自体が崩れてきた。そうなると「やってられっか」という層も出てこようし、その層はどんどん広がる。さらにグローバリゼーションで、海外シフトになるから空洞化が起きて、市場も小さくなり、しまいには企業そのものが出ていく。ちょっと前に、オーストラリアでは、ジェットスター航空が、本社や社長の居場所すらもオーストラリアを出てアジアに移転するというニュースが物議を醸したのですが(会社は否定しているけど)、そんな話が伝えられるくらいです。企業そのものが「居なくなっちゃう」という。なんでそうなるの?といえば、これまでのシステムの前提条件(国単位で企業活動をするというボーダー経済)が変わってきたからです。稲作の村の村長選挙でギャンギャン闘争していたら、氷河期がやってきて稲そのものが作れなくなり廃村になるようなもので、より大きな環境変化は、下位システムも問答無用で叩き壊す、というか無意味化する。これが第一。
第二に、どんどんそういう流れになっていくと、「話が違う」「そういうことなら」とばかりに参加者が減ります。正社員になるのが到底難しい人や世代からしたら、正社員を前提にした社会の仕組みそのものが(ステイタスにせよ、年金にせよ)やってられなくなります。「やーめた」ってことにもなる。また、旧来のシステムの勝者であっても、未来が輝かしいとは思えなくなる。例えば進学塾通って、東大出て、一番安定している電力会社に入社して、出世競争を勝ち抜いて、エベレストのてっぺんである社長会長まで上り詰めることが、かつてほどの輝きをもたなくなる。それどころか、自分がそこに到達するまでに山そのものが存続しているかどうかすら怪しくなる。だから、割を食ってる層から徐々に離反し、そのうちに勝ち組層でも美味しく感じなくなるから徐々に離れていく。先日のイギリス暴動で、一見恵まれた階層の人達も加わっていたという不可思議な事実は、もしかしてその表れかもしれません。
これからの日本は、ある意味ではとっても面白いです。不謹慎な言い方を敢えてすれば、すっごい見物だと思います。なぜかといえば、一枚岩を誇る日本社会が徐々に分解、、というよりも「剥離」しつつあるからです。個人の主観でいえば、日本人のアイデンティティが人格分裂を起こし、アンビバレンツになっていく。
冒頭で述べた、中枢側・既得権サイドとしては、なんとしても従来のゲームの続行を願うでしょう。このまま意の通じた首相や政治家と、原発(に象徴される現在の利益体制)を最小限の被害で温存し、今後も楽しくやっていきたいでしょう。同じように、大企業も、自分はリストラだ派遣だで散々社員を足蹴にしながらも、従業員には昔ながらの滅私奉公の忠勤を期待したいでしょう。TV局や電通などは電波の有限性をタテに独占利益を得たいでしょうし、医療界も大学も象牙の塔で家元制度さながらの集権体制を続けたいでしょう。
そこで出てくる戦略としては、例えば昔ながらのマスコミ操作です。で、その小手先のワザ、ポピュリズム芸の一つとして「わかりやすい悪者」「犯人捜し」です。スケープゴートを探して、これを徹底的に叩いて、大衆の目を逸らせたり、ガス抜きをはかるという、相も変わらぬワンパターン。でも、最初っから「犯人」なんか居ないんだから、可哀想なスケープゴートがボコられて消滅しても、なんにも状況は変わらない。そしてまた「いや、こいつこそ真犯人だ」みたいにやっていく。考えてみれば、ポスト小泉以来こればっかやってないか?戦後のレッドパージの時に「郵便ポストが赤いのも共産党のせいだ」というジョークがあったそうだけど、なにかあったら「総理がダメだからだ」という報道というよりは中傷、中傷というよりは小学生の悪口みたいに書かれて、またそれで乗っちゃう気のいい人々によって安倍、福田、麻生、鳩山、そして管と歴代みんな炎上していった。ネットの「祭り」みたい。大のおとながやることか。
これもですね、分かりやすく財界や政界とマスコミの大物達がどっかの料亭で謀議を巡らせて、、なんてこたあないです。日本の洗練されたシステム社会を舐めてはいけない。そんな不細工なことをわざわざやるわけないです。やらなくて阿吽の呼吸があろうし、阿吽の呼吸以前に、広告主やクライアントの意向の反することは書けないです。それに別に悪いことだとも思ってないだろうし、もともとがゴルフ仲間やお友達だし、パーティーやらシンポジウムやら葬儀やらで幾らでも堂々と会う機会はある。別にわざわざ密会なんかしないっしょ。要するに日本人のデフォルトスキルである「空気を読む」ことが出来たらそれでいいわけです。
笛吹けど踊らず
しかしですね、筆を滑らせてもう少し大胆なことを書いていくと、だんだん「笛吹けど踊らず」になってるような気がします。メディアの大衆操作力・神通力が劣化しているな気がする。これって僕の思い過ごしでしょうか?首相がどうとか、犯人がどうとかいう幼稚な世界観やポピュリズムも、もう流行らなくなってるんじゃないか?
今、(僕が勝手に想像する)国民の平均的な気分をいえば、一番不快なのは、このまま「なあなあ」でまた済んでいって、これといった未来を打開するような改革も、その道筋も示されず、結局強い奴だけが得をするという「ありきたり」な「いつもの話」になっていって、「やれやれ」と肩をすぼめつつ、徐々にジリ貧になっていくことでしょう。果てしない下り坂。と、同時に、同じくらいの強さで思うのは、「じゃあ、どうすんのさ?」ということです。これまでは曲がりなりにもオールインワンの人生パッケージだったけど、それが無いなら、何を基軸にどう生きていけばいいのさ?と。どうも昔ながらのやり方では限界のような気がするが、かといって「新しいやり方」が見つかってるわけでもない、どうしたらいい?という。
そこでアンビバレンツな人格分裂になるという話です。
だって、日本人がこれまでに岩盤のように強固に持っていた人生観、世界観、アイデンティは、この20年で殆ど壊滅しているんじゃないですか?バブル崩壊で土地神話が崩れ、それに続くリストラで終身雇用と年功序列神話が崩れ、サリンと神戸で安全安心神話にヒビが入り、さらにその後の閉塞期間で安心・安全願望は虫歯のように浸蝕され、直近では経済に対する自信もあやふやになり、トドメのように地震と放射能で腰骨まで折られたという感じ。同時にここ20年ほどの間に起きている奇妙で気色悪い犯罪やら、妙にセコくて鬼畜的な事件がコンスタントに起きて、日本人の「いい人という自画像」も色褪せてくる。「渡る世間に鬼はなし」という日本社会の健康度に対する信頼すらも揺らいでいる。自分の人生を支える柱が、こうも次々にボッキンボッキン折れてくると、日本って何なの、日本人って何なの?でもって自分って何なの?どう生きればいいの?という気にもなる。
かくして、今まで通りのゲームと世界観を続行しようというグループと、それには乗れないと感じてるグループに分離していく。というか、同じ人間の中に二つの潮流ができるでしょう。「このままではアカン!積極的にリスクをとってチャンレンジだ!」と高潮する瞬間もあるが、トイレいって帰ってくると「いや、でもやっぱり地道にやるのが一番固いか」という気にもなるという。アンビバレンツ=二律背反というのはそういうことです。不安だからこそ新しいものを探す気持ちと、不安だからこそ旧来のものにしがみつきたい気持ちと。
でもって、既得権の立場にある人達としては、皆さんに旧来路線にしがみついてもらいたいでしょうね。また、しがみついて貰うような色々な施策を講じるでしょう。当然のことだと思います。が、ちょっと前に九電やらせメール事件がありましたが、あれ読んで「わかってんのかなあ?」という、ちょっと複雑な気分にもなりました。
僕は、あのやらせメール指示が、巷間言われているように「けしからん」ことだとは思いません。世論を盛り上げたり、政治を自分に都合良く動かす目的で集団の力を使うことは当然でしょう。デモだってそうなんだし。一人一人でやってるよりは集団でやった方が効果あるのは当然だし、それを企業なりの組織集団でやるのも当然のことです。だからこそ選挙で「組織票」というのがあるんでしょ。
僕が問題だと感じたのは別の点です。一昔前の強大な日本企業だったら、そんなメールなんかいちいち回覧しなかったと思うし、会社から命令されなくたって社員は自発的に動いていたと思う。「そんなことまでイチイチ指示せなあかんのか?」というのがちょっと驚きでした。第二に、この時期に、メールというあとで証拠になりそうなやり方を採用するセンスの古さというか、ネット社会がわかってない点に首をかしげざるを得ません。もっとやりようがあるだろう、と。朝礼で訓示とかさ、それとなく伝えるとか。第三に、鬼の首でも取ったようにマスコミがわいわいいってるけど、「それって鬼の首なの?」という点です。この企業存亡の事態において、運命共同体である社員に「自分が出来ることをやれ」と檄を飛ばすのは当然ちゃうの?それに誰かが監視して事実上の強制になっていたわけでもないし。それを「ゆゆしきこと」と報じるマスコミにも「わかってんのかな」と思う。あの〜、日本社会でほんの数年でも働いたことのある人だったら、その種のイトナミがなされることなんか常識ではないの?「けしからん」なんて怒ってる無邪気な社会人なんかいるの?もういい加減その種の偽善的な報道姿勢はやめたらどうか。リアリティがないから説得力がない。第五に、これがトドメなんだけど、これだけ問題になったやらせメールなんだけど、その効果が実は微々たるものであったこと。九電社員が一致団結して膨大な意見発信をした、、わけではなく、実数は忘れたけど、全体の数からしたら「え、それだけ?」というくらい、誰もやってない。やってる人もいるけど、「そういう人も居る」程度。大多数の社員はメールをもらってながらも何もしてない。これは、企業の統制力がそこまで落ちているということを意味するのか、そのあたりの力を幹部が過信していることを意味するのか、興味深いです。
それらを総合して思うのは、マスコミも含めて既得権者の皆さんの力の劣化です。時代に全然ついていけないんじゃない?と。「笛吹けど踊らず」というのはそういうことだし、そもそも笛の吹き方がヘタになったというか、いつも同じ曲ばっかりだったら飽きちゃうし、皆聞いてないんじゃないかな。少なくとも昔ほど熱心には聞いてないし、踊ってもいない。まあ、まだ昔気質に熱心に踊る人もいるだろうけど、数は減ってるような気がするんだけど、違いますか?
一体化したがる幼稚な精神を超えて
じゃあ、この先どうなっていくの?というと、それぞれがそれぞれの生き方をしていくんでしょう。これまでみたいに、ある種のスタンダードがあって、皆がみんなその通りに生きていくというパターンではなくなっていくということです。旧ヴァージョンに代わる新ヴァージョンの到来を待ち望んでいる人もいるでしょうけど、待ってもそんなの出てこないと思います。ここ当分は。
いわば「てんでバラバラ」ってことだけど、そんな具合になって社会が崩壊しちゃうんじゃないか?と懸念する人もいるかもしれないが、別に崩壊なんかしないと思います。だってそっちの方が本来の姿だし、あるべき姿でしょう。皆が同じ事やってる方がキモチ悪いですわ。でもって、もう徐々にそうなっていってるでしょう?例えば歌謡曲。その昔は、爆発的に流行る歌謡曲が常にあったし、国民だったら誰でも知ってる、誰でも歌えるってものでした。でも、今どき国民だったら誰でも知ってる流行曲ってあるの?いつの間にかなくなってるでしょう。ベストテンでも知らない曲が入ってたりしませんか?よほど熱心な人なら別かもしれないけど、普通の若い人でも知らん曲が結構あるし、紅白ですら「誰それ?」という人が混じってくる。「今何が流行ってるの?」「知ってないと致命的に恥ずかしい」という気分も薄らぎ、流行ってるかどうかにそれほど興味もなくなり、流行そのものが薄くなってる。ないわけではないけど、昔ほど神懸ったパワーではない。
それは悪いコトじゃないし、一種の「成熟」でしょう。皆と同じことをやって、皆の温もりを感じてそれで安心するというのは子供のメンタリティで、小学校では昨日のTV番組を熱く語り、中学生でもアイドルの話を熱く語ってるけど、高校くらいになってくると、洋楽ファンやらJAZZって人間がチラホラ出てきて、それほど皆と同じではなくなるし、同じでないと寂しいというメンタリティも薄れてくる。これが大学や社会人になると、「音楽とか、聴く方ですか?」みたいな距離の取り方になってくる。「皆と同じ」でないとイヤというのは自我が未熟なコドモなのだというのはそゆことですし、自我が確立すればするほど自我に応じて「てんでバラバラ」になるのが本来の姿であり、その方が気持ち良くないか?ということです。
まずは趣味性の強い音楽とか、ファッションとか、スポーツやホビーで「てんでバラバラ」現象が起きてきて、いよいよ経済・社会という本丸までその傾向が進んできていると思えばいいんじゃないかと。個人個人が好きな音楽を聴くように、個人個人が好きなように生計をたて、生き方を決めていけばいいじゃん、と。それが浸透するにつれて、日本人のアイデンティ(と思いこんできた幻想)の最後の牙城=「皆といっしょ」ポリシーまでもが風化していくのではないかしら。
つまりは「マス」が希薄化していくことであり、マスを対象としたマス・コミュニケーションが徐々に神通力を失っていくのは、ある意味では当然の帰結なのでしょう。でもマーケティングの世界では、マス・マーケティングの終焉とか、分衆の時代、小衆の時代とか、20年以上前、バブル以前から言ってましたよね。何を今さらって話でもあるのですが。
ここから先、さらに延々と続くのですが、長くなったのでこのくらいにします。
剥離
無理矢理まとめておくと、なんでも擬人化したがる幼稚な世界観にせよ、皆と一緒で、一つのシステムと一体化して安心したがる自我の未熟な幼稚性って、幼稚という意味で共通してますね。前者は知性面で幼稚であり、後者は精神面で幼稚である違いはあれど、いずれにせよなすべきことは、GROW UP、成長です。で、成長してるじゃない?成長しているから、これまで思いこんできたことに懐疑を感じたり、それこそ「子供だまし」に思えてきたりしてるんじゃないかしら?
そして、最後にこれだけは書いておかねば----先ほど、これまでの日本社会が「剥離」すると書きました。崩壊ではなく剥離であると。いかに従来の神話や価値観が崩壊しようとも、だからといって本当の価値はいささかも損なわれていないということです。終身雇用が崩れ、「働いてこそ一人前」という勤労神話すらも色褪せ、もはや働くか/働かないかも個人の趣味の問題なっていったとしても、それでもなお「勤労の美徳」というのものは依然として存在し続けます。人間がなにごとかを一生懸命やることの尊さは、これからも輝きを放ち続けるでしょう。放たないわけがない。
矛盾してる?いえ、してません。働くのが尊いのは、「皆がやってるから」「世間に顔向けできるから」尊いのではなく、そのこと自体に価値があるからです。自分の技術を磨き、心血注いでイイモノを作り上げようとする姿は人の感動を呼ぶし、誰かのささやかな幸福のために美味しいケーキを作ったり、手足をさすって介抱したり、なんとか工夫して分かりやすく説明したり、、、すること、つまりは「他者の幸福を創造すること」には価値があります。なんだか分からないけど価値があると感じる。人間はそういう具合に作られている。そのことに何ら変りはない。また、そういったイトナミを通じて、世の理不尽を知ったり、怒ったり、学んだり、強くなったり、つまりは成長することの価値も又何ら変わらない。
これまでは、労働本来の価値に、日本社会独特の文脈による価値(世間体とか)が不可分に融合していたわけですが、それが徐々に剥がれていった。それが「剥離」してきたという意味です。これは労働に限らず、安心を願う気持ちであれ、なんであれ同じ事です。ただ文脈や意味づけが変わってきて、そのもの本来の真価で考えるようになるだろう、なればいいな、ってことです。就職や出世に役に立たなくても、学ぶことには喜びがあるし、知識がひろがることには快楽がある。
今まで椅子取りゲームをやってました。椅子取りゲームが終了したからといって、椅子そのものが消滅するわけではない。ちゃんとそこに存在しつづけるし、腰掛ければ気持ち良く安らげる。椅子が本来もっている価値を取り戻しただけです。
文責:田村