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今週の1枚(2011/08/22)



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Essay 529 : それは「壁」にあらず。「天井」であり「殻」である

 写真の場所は、、、シドニー在住経験がある人だったら言うまでもないでしょう。
 最近、植物写真が多かったので、普通によく目にするシドニーの光景を。

 しかし、昔はあんなWorld Squareビルなんか無かったのに、こうして見るとちょっとeye soreって気がしますね。やっぱスカッと何にもなくて、ただシドニータワーだけがぬぼーっと殺風景に突っ立ってる方が「らしい」気がします。まあ、シドニータワーも大概eyesoreなんだけど。

 場所は、Paddingtonで、Oxford Stをシティ方面を望むあたり。Barracksの隣、もう少し進むとサバーブがDaringhurstになるあたりです。



 生きているといろいろな「壁にぶつかる」ことがあると思います。なかなか思い通りにいかない、上達しない。ツライです。でも、あなたがぶつかっているのは「壁」なのでしょうか?それって「天井」なのではないか?というのが今回の趣旨です。

 何が違うの?

 「壁にぶつかる」というのは、本来はスムースに行くべきことが何らかの障害によって進めないという、「本来あってはならない事態」というネガティブなニュアンスがあります。モンダイである、と。

 しかし、スムースに行かないこと全てが悪いのか?
 場合によっては、むしろ「喜ぶべきこと」ではないのか?
 それは「禍々しい災い」ではなく、「祝福さるべき吉事」ではないか?

 「天井にぶつかる」というのは、自分が大きくなってきたから上がつかえてきたということです。
 自分自身が成長し、巨大化してるから、それまで余裕だった空間も段々狭くなり、ついには天井に頭がつかえるようになる。それでも、さらに大きくなろうとしているから、天井にゴンゴン頭がぶつかっているのだと。いずれ天井をブチ破り、もっと大きくなる。単に水平移動していて「壁」にぶつかっているのとは違う。

 ここで「巨大化」とか「天井」という比喩にしっくりこないのであれば、「卵の殻」と考えてください。受精卵から一人前の個体として自立しようとすれば、必ずどこかの時点で卵の殻を破って外の世界にでなければなりません。でも、殻というのはこれまで自分をプロテクトしてくれたものですからそれなりに強力です。これを破るのはそれ相応の力がいる。自分も強く成長しないと殻は破れない。本能的に、「もうそろそろ潮時だ」と悟った雛鳥は、まだ柔らかいクチバシで盲目的にコツコツと内側から殻を叩き始めます。全然壊れません。でも何度も何度も、何度も何度も、コツコツ、コツコツと叩き続けているうちに、ついに殻に亀裂が入る瞬間が訪れます。そして、亀裂は広がり、徐々に殻は破れて大きな外界が雛鳥を包みます。Welcome to the world!です。くす玉の一つも割れて、シャンペンを抜いてもいいような感動的な瞬間です。

 この「殻が狭苦しく感じて、打ち破ろうとしてコツコツと叩いている状態」は、悪いことではないです。成長の証拠であり、さらなる飛躍への序章なのですから、やっぱり「めでたい」ことじゃないですかね?言いたいのはそういうことです。

 あなたが今、「壁にぶつかってる」とお感じになってるあんなこと、こんなこと。でも、それって「本来あってはならない壁」なんですか?
 あなたが今まで以上に多くのものを望むから、もっと先に行きたい、もっと大きくなりたいと思うからこそ、これまでの仕切りにつかえているだけじゃないですか?だとしたら、それは当然起るべきコトであり、めでたいことです。喜べ、祝え、と。

Don't be upset

 もっとも、何でもかんでもスタックすれば良いというものでもないです。本当に壁にぶつかるというか、やり方や方向性が間違っているから正しくドツボにはまって、行き止っているというケースもあります。こういう場合はとっとと撤退すべきでしょう。

 そこで問題になるのは、どういう場合が悪しき壁で、どういう場合が喜ぶべき天井かの見極めです。
 これを判別する万能ツールは無いでしょう。あったら僕が欲しいです。

 でも、かなり際どいボーダーラインはともかく、あからさまにそうと分かる場合もあります。障害にぶつかることが「好ましいか/好ましくないか」ですが、これってちょっと落ち着いて考えたら結構クールに見えませんか?

 次のステージに登るための過渡期なんだから、誰がやってもここで苦しまないとならない、より高いレベルに行こうと思ったら今までの方法論や技術をさらに改善させていかねばならない、それに苦しんでいるという場合。これは、普通に考えたら、「そりゃそうだよなあ」「ここでスッといけたら嘘だわな」って分かると思います。根本的に発想が間違ってるとか、やり方がトンチンカンだからどうしようもなく行き詰まっているのとは、もう感触が違うと思います。

 もともと世界は不連続にできているわけで、そんなにシームレスのバリアフリーで、なんでもスイスイいくわきゃないです。スケートリンクのようにツルツルではなく、必ずや凸凹がある。どっかで地割れがあったり、大きな段差があったりして当たり前です。

 ここで大事なことは、伸び悩んだりスムースにいかない、ただそれだけで「悪いこと」が起きている思うな、焦るな、アップセットするな、ということです。

 そこで伸び悩むのは健康な証拠、全てが順調にいってるからこそ、その箇所で速度がガクンと落ちている。どんなに直線で爆走していても、カーブになったら減速する。むしろカーブなのに減速していない方が恐いのだ。声がグチャグチャになったからといってアップセットしなさんな。それは「声変わり」といって、大人になる過程にある「ちょっとした段差」に過ぎない。いきなり歯が抜けたといってうろたえるな。それは乳歯が永久歯に生え替わっているだけだ。ちょっとした段差なんだと。
 

Always ask

 まあ、声変わりみたいに、わかってしまえば「なあんだ、ははは」と明るく事態が収拾することばかりではないです。もしかして喉にポリープが出来ているかもしれず、吉事なのか凶事なのか、そのままではすぐに分からない場合もあるでしょう。

 すぐには分からない場合はどうするか?「わかれ」であり「考えろ」であり、そして「聞け」です。

 必死になって考えるまでもなく、ちょっと調べたり、その道の先輩に聞いただけですぐに分かることも多いです。有名なのはプラトー(高原)です。ご存知ですよね?え、知らない?おお、あなたはなんてラッキーな人だ、週の初めのブルーマンデーに幸福の鍵をみつけるなんて。

 プラトー現象というのは、人間の学習・技術習得過程においてよく見られる現象で、最初は何もかもが初めてだからガンガン伸びていくのだけど、ある地点を過ぎると伸びが鈍化することです。ある程度の高度で平坦になることから比喩的に「高原」といわれます。「山岳」ではなく高原。

 これはもう原理的に生じることでしょう。最初に伸びるのは当たり前です。なんせ比較の対象がゼロなんですから、何をやっても成長になる。もの凄い変化が生じたような気がする。それに技術や知識というのは、回数を重ねればすぐに身につくという、取っつきやすいものが結構あります。こういう物事はやってればすぐに身につく、どんどん身につく。面白い時期です。基本的に量的な変化ですので簡単です。ところが、一定のレベルを越えたあたりで質的変化が求められるようになります。単に量を積上げるのではなく、積上げた中で発酵させ、醸造させ、質的に変化させていくという非常に難しい段階を迎えます。なっかなか先に進まない。これがプラトー。

 英語学校でいえば、大体どこでもレベル6段階に分けますが、初級のレベル1〜2は楽しいです。クラスでも笑い声が絶えません。なんせ英語なんかこんなに喋るの生まれて初めて、「俺、今日、外人と喋っちゃったよ!」みたいな段階だから楽しい。周囲も同じレベルで、毎日が新鮮!って人が多い。ところがレベル3,4くらいになるとジュージュー煮詰ってきます。段々と英語を喋る感動も色褪せてくるのですが、うんざりするような基礎技術の反復をして徹底マスターしないと次のレベルに進めない。このあたりで眉間に皺が寄ったり、頭から煮詰り煙がモクモク出てたりします。で、プラトーを越えたらレベル5〜6に行きます。吹っ切れて楽しそうです。普通にケラケラ笑いながらも英語がどんどん出てきますし、飲んだくれての会話でも関係代名詞なんかが自然につかえるようになってます。表現力が増える。楽しくなります。が、このレベル、特にレベル6とかになると次のプラトーに入ります。ハシゴや階段を上ってきて屋上に出て、そこで見るのは満天の大宇宙です。英語世界のあまりの広さ、深遠さに打ちのめされます。レベル3、4のプラトーは数ヶ月から半年くらいですが、今度のプラトーは数年レベルです。おめでとう、ここまで来たら、あなたも取りあえずは「英語使い」のパシリくらいには入れてもらえるでしょう。こっからが本番です。

 自分が今までやってきた技術、ギターでも、法律でも何でもそうです。成長期とプラトーが代わりばんこにやってきます。ギターでも、取りあえずコードを覚えて伴奏だけだったら、すぐに安定的に出来るようになるのですが、そうなると「それだけかよ」と不満に思うようになる。そして、流麗なソロを弾くために、スケール理論を覚えて、かったるい運指練習を死ぬほど繰り返し、他人のプレイを何十曲とコピーしてワザのバリエーションを増やすというプラトー段階になります。そのプラトーを越えると、ある程度弾けるようになるのですが、それも束の間、今度はワンパターンとか、広がりがない、深みがない、オリジナリティがない、そもそも才能が無いという無い無い尽しの嵐に打ちのめされます。

 以上はプラトーという、結構誰でも知っているという「壁」です。でも、これは「壁」じゃなくて、「殻」であり「天井」です。成長過程で当然に生じる凸凹です。声変わり的なモノに過ぎない。

 このようにちょっと調べたり、人に聞いたりするだけで、「あ、これは煮詰っていいんだ」ということが分かることも多いです。こんなの知ってるか、知らないかだけの単純のことだもんね。ほんと言ってみれば数秒で解決するようなことです。それを延々数ヶ月も暗い顔をして過ごしているなんて勿体ない。

 調べてもわからないときは、その道の先輩に聞くと良いです。僕も弁護士時代、師匠と師匠のパートナーの先生がいたので救われましたねえ。「ぐわ〜、死ぐ〜」ってやってるときに、「田村君、なんか難儀そうなのやっとるなあ」と声かけてくれたり、近くの赤提灯に連れてってくれて、「あ、それなあ、○○系の事件は、そこが一番難しいんや、気いつけや」「大体そこで皆ヘコむな」「あ、それは出来んでええねん、どだい無理やねん、しゃあから出来たふりをしとったらええねん、皆そうやで」とか貴重なサジェスチョンを戴いたもんです。同期の連中からも救ってもらったし。蛇の道は蛇じゃないけど、業界業界で「いろいろあるんや」ということです。

 いや、でも、自分が年食って年下の人と接する機会が増えるにつれ、やるべきことはそれだと思うのですよ。「そこは出来なくていい」「それは煮詰って正解」「心配せんでも伸びてるよ」と言ってあげることなんだろうなと。ダメだったらちゃんとダメ出ししてあげるのも大事だけど、それ以上に、正しくドツボにはまっている人に「それは正しい」と言ってあげることだと思います。それは壁ではないよ、天井だよ、殻だよ、それでいいんだよ、それを突き破るとすごい世界が待ってるよと。

Knowing what happened, and why and how

 結局は、今自分は何をやって何処にいて、どういう状況になっているのか、何が起きているのかを知れ、正しく認識しろってことに尽きます。悩んでるときというのは、どうしても視野狭窄になって、一点透視図法みたいにキューッと視野が凝縮していく。でも、それは逆で、悩んでるときほど視界をパンして、でっかくでっかく捉えたらいいです。「まずここに宇宙があります、でもって地球があります」くらいの視点ででっかく捉え、それで何が起きているのか考える、知る。

 なんで大きく捉えろといえば、大きく考えた方が間違いが少ないからです。今、何時何分かは時計がないと正確には分からないけど、今が昼か夜かくらいは分かるでしょう。このように大きく捉えて、「これは確実」ということだけを並べていくだけで、自然と解が見えてくることは多いですよ。

 おっけ、ここまではいいですよね。こっからもう一段階ノッチ(目盛り)を上げます。ちょっと難しくなります。

 最初に結論を言うと、行き着くところまで行くと「壁」も「天井」も同じことだということです。究極的には同じ事だと。

 上達するためにとても無駄なことをしている場合があります。迷路に入り込んで、あーでもないこーでもないで悩んで、それでしょーもない方法論でやっているという。そこだけ見ていたらそれは「壁」です。壁というより、ただの岩盤であり、行き止まりであり、そこを何万発キックしても事態は打開しない。だから、その方向は「諦める」というのが正しい解になる。

 しかし、その行為は無駄だったのか?といえば、一概にそうとも言えないと思うのです。なぜなら、試行錯誤というのはそういうものだからです。

 ここに10個のドアがあり、一つだけ正解だったらどうするか?とりあえず手当たり次第にドアを開けていけばいいです。簡単なことですよね。で、7回目に開けたドアが正解だったとします。そうすると、最初の6回分のドア開けは「失敗」ということになりますが、それは「失敗」と呼ぶべきものなのか?

 確率10分の一で、常に最初の一発目から正解なんてことが原理的にありえないなら、とっとと全部の可能性を検証していけばいいだけのことです。全部ひっくるめて一つのトライであり、あまりにも細かく分解して一喜一憂すべきではない。あるドアを開けてダメだったとしても、それは「間違ったドアを開けた」という「失敗」なのではなく、「これではない」ということが分かったという「成功」だとして捉えるべきだと思うのです。

 かつて書いたことがあると記憶していますが、成功に達するまでのプロセスを緻密に見ていくと、成功までの過程の99.9%は「失敗」で構成されている、と。不思議なようで当然のことです。だって、成功って、それまで出来なかったことが出来るようになることでしょう?何度も何度も気が遠くなるくらい繰り返して、ついには出来るようになる。出来るようになったという「成功」は、山頂に達した瞬間であり、それはゴールという最後の最後の瞬間です。それまでは山頂にもゴールにも行けてないのだから、それだけ見てたら「失敗」に見えるのだ。大体、一回目からあっさり出来てしまったら、それは「成功」なのか?成長なのか、上達なのか?です。それが難しければ難しいほど喜びは大きく、また道のりは険しい。「難しい」ということは、別の言葉でいえば常に失敗しているということでもあります。

 ドアが10個くらいだったらどってことないけど、実際の世界ではドアは10個どころか100個、千や万という単位であったりもするのです。1000個のドアを開け続け、一つ一つ検証し、執念で正解に行き着く。上達や成長ってそういうもんじゃないですか。職人さんの世界では、本当にカン一つということがあります。何度も何度も繰り返しそのカンを鋭く研ぎ澄ませていくしかない。あるいは試行錯誤の連続です。花火職人さんの話を読んだことがありますが、最高の花火を作るためには火薬のレシピーや、詰め方、線香花火だったら紙の縒り方、ほんの何ミクロン違っただけで全然違ってしまう。ありとあらゆるレシピーを試し、精妙な指先のカン一つで突き詰めていく。「出来た!」というまでには途方もない歳月と努力があり、その過程をぶっちゃけていえば「失敗の歴史」です。99.9%は失敗で構成されている、というのはそういうことです。

 でもその99.9%は無駄なのか、忌むべき凶事なのか?といえば、そんなことはないです。それなくして成功なしです。だから全部の過程を成功といってしまっていいくらいです。

 また、そんな何年、何十年もかかって正解に辿り着こうという執念の営みですが、そんな見返りの少ないことをやってて楽しいのか?といえば、「楽しい」んでしょうね。だからやってるんでしょうね。そうなると「失敗し続けていることが楽しい」という凄いことになります。でも、本当にそうだと思うのですよ。そして、ここに至れば、それが成功とか失敗とかいうのは単なる言葉の問題であり、本質的な問題ではないってことになります。要するに成功なんかしなくたって別にいいのだ、というさらに凄い結論になっていきます。やあ、ノッチを二つか三つ上げてしまった。一つに戻そう。

 壁と天井の話になりますが、天井を突き破って巨大化するためには、壁にゴンゴンぶつかるという一見無駄なこと、失敗という試行錯誤を繰り返していかねばならないということです。新たな成長を感じ、目指すという意味では正しく天井にぶつかっているのですが、その瞬間瞬間の生成過程では、あーでもないこーでもないと色々な試行錯誤を繰り返しているのであり、それを見ていれば壁にぶつかってもいる。つまり、大きくいえば天井にもぶつかっている状態であり、細かくみていけば壁にもぶつかるということです。同時に起きている。

 さらに、天井=壁でもあるのです。
 壁にぶつかるという一見無駄な徒労も、「この方向は違う」というのが分かるというだけでも成功ですし、それ以上の果実があります。「なぜその方向を選んだのか」「なぜそれではダメなのか」を学ぶからです。例えば、何かの買物をするにしても、値段だけで決めてしまって「安物買いの銭失い」でトホホの思いをするとか。そこで、「値段よりも実質だ、コストパフォーマンスだ」「自分の選球眼が大事だ」ということを、痛い思いをして学ぶわけです。人間というのは馬鹿だから、痛い思いをしない限り中々学ばないですもんね。

 そうやって一つ一つ失敗して、痛い思いをして、覚えて、学んで、賢くなって、強くなって、、という過程そのものが「巨大化」なんですよね。だから、壁=天井だという。

 最終的に何が大事かというと学習です。
 無数の失敗が積み重なり、それが大きく連なって、珊瑚礁のようになった状態を「成功」と呼ぶのですけど、一つの失敗が次につながっていかなければ、バラバラの細粉のまんまで、珊瑚礁になってくれない。その接着剤になるのが学習です。

 学習した失敗を成功といい、学習しない失敗を本当の失敗というということなのでしょう。

 ということは、失敗するにせよ、学習できないような失敗はするな、ということです。例えば誰かに全部お任せにしていたり、他人の話を鵜呑みにしていて失敗しても、どういうメカニズムでなぜ失敗したのか分からない。なんでもそうですが、自分でやってみないと本気で学ぶということは出来ないです。他人任せで失敗したときに学ぶことは「自分でやらなきゃ学ばない」ということです。でもって、そんなことは一回やれば分かることであり、何度も繰り返す必要はない。

 このことは古今東西いろいろな言葉で言われていますよね。孔子だって言っている。子曰わく「過ちて改めざる、これを過ちという」。失敗してもそれを教訓に改善すれば失敗ではない。本当の失敗は、失敗しても学ばず、改善がなされない状態のことだと。

 「馬鹿は死ななきゃ直らない」という凄いフレーズがありますが、これを英語で何というかご存知ですか?"Some people never learn."です。「世の中には”学ぶ”ということをしない人がいる(それを馬鹿というのだ)」。

 また、ぜーんぜん別の業界でも同じことが言われていますね。消費者被害事件などで出てくる詐欺まがいの悪徳業者やインチキ商法の鉄則です。「馬鹿は二度騙せ」というのですが、知ってますか?二度騙されるから馬鹿なんだろうけど、いや馬鹿なんて言っちゃ気の毒なんだけど、でも、本当にそうなんです。原野商法の詐欺団は、先発隊がまずカモを騙して荒れ地を買わせる。カモの人が「あれ?これで良かったのかな?」と疑惑を感じ始めた頃に二番隊が出ていって、「それ、騙されてますよ!」と教えるのですね。それで「取り返してあげましょう」と助けるふりをしながら、さらに何だかんだいってお金を巻き上げる。でもって全員がグルだという。恐いですよ。これも「過ちて改めざる」です。だから二度騙される。

卵の殻と天井

 最後にちょっと視点を変えて「殻」と「天井」について書きます。

 卵の殻は、外敵からひ弱なあなたを守るための強力なプロテクターです。天井は雨や雪、外気からあなたを守る大事なプロテクターでもあります。しかし、あなたが成長するにしたがって、そのプロテクターが不要になる。不要になるどころか段々邪魔になっていく。邪魔とまではいかなくても何らかのストレスを感じるようになる。

 最初は自分にとって必要なものでも、自分が大きくなれば不要なものどころか、自分の足枷になっていくということで、これは色々な局面で広くみられることです。保護された状況は、同時に成長を限界付けるバリアにもなる。

 それは例えば、親離れ子離れでしょう。動物の子離れなんか、凄いですよね。十分に成長した子供が甘えてきたら、母親が牙を剥きだして威嚇して、追い払うもんね。そして、それが今生の別れになるという。それまでは命がけで子供を守るのに、時期が来たらスィッチを切り替えるように自立に向わせる。エラいもんだなって思っちゃいます。

 自分を守ってくれるもの、それは地位でも、技術でも、お金でも何でもそうですが、自分が大きくなってきたら逆にそれが邪魔になってくる。技術や資格は、逆にそれしか出来なくなるという強烈な足枷に感じられてくる。そういえば日本人にとっての「日本」「日本社会」というのも、外界の荒々しい風雨をシャットアウトしてくれるプロテクターなのですが、その恩恵を十分に享受してすくすく育っていったら、段々邪魔くさく感じてくる人もいるでしょう。天井に頭がつかえてくる。そういうことなんでしょうね。


文責:田村




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